「利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/戊」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
   人問
           二年 宮城 寛生
 すべてが透明だった。空間はただ茫然と立ちすくみ、そこには静寂さえなかった。まっさらなキャンバスに躍る白も、深宇宙をたたえる夜暗の黒も、その不可視のガラス張りの前では、不在を象徴するに値しない。
 すべてが透明だった。空間はただ茫然と立ちすくみ、そこには静寂さえなかった。まっさらなキャンバスに躍る白も、深宇宙をたたえる夜暗の黒も、その不可視のガラス張りの前では、不在を象徴するに値しない。
 透明というのは無色であって、それはやはり白でも黒でもなく、たとえばその「意識」という感覚の色を問われて想像するようなものであった。
 透明というのは無色であって、それはやはり白でも黒でもなく、たとえばその「意識」という感覚の色を問われて想像するようなものであった。
28行目: 30行目:
 大量に蓄積されてきた情報を抽出し、つなぎ合わせて、彼女はさも深刻そうな、憐れむような声音を合成し、診断を下した。
 大量に蓄積されてきた情報を抽出し、つなぎ合わせて、彼女はさも深刻そうな、憐れむような声音を合成し、診断を下した。
「――あなたは十中八九、『環境性ノストフィリア症候群』でしょう」
「――あなたは十中八九、『環境性ノストフィリア症候群』でしょう」
 その聞いたことのない病名にどう反応すればいいのか分からず、彼はとにかく続きを促そうと押し黙った。病室に沈黙が降り、モニターのホワイトノイズだけが響く。
 その聞いたこともない病名にどう反応すればいいのか分からず、彼はとにかく続きを促そうと押し黙った。病室に沈黙が降り、モニターのホワイトノイズだけが響く。
「あっ、そっか、そうですよね、わかりませんよね。『環境性ノストフィリア症候群』は、まあ……つまり、『自分が過去の人間だと思い込んでしまう』という病気です」
「あっ、そっか、そうですよね、わかりませんよね。『環境性ノストフィリア症候群』は、まあ……つまり、『自分が過去の人間だと思い込んでしまう』という病気です」
 ――「環境性ノストフィリア症候群」、あるいは「懐古症候群」――二十四世紀前半に突如発生したこの原因不明の症状は、やはり地球全体を覆ったペシミズムと結びつけて考えられる。止まらない人口の減少、文明レベルを維持できなくなる不安――それらに対する防衛機制としてはたらいた、一種の「社会的幼児退行」であるとする説さえある。
 ――「環境性ノストフィリア症候群」、あるいは「懐古症候群」――二十四世紀前半に突如発生したこの原因不明の症状は、やはり地球全体を覆ったペシミズムと結びつけて考えられる。止まらない人口の減少、文明レベルを維持できなくなる不安――それらに対する防衛機制としてはたらいた、一種の「社会的幼児退行」であるとする説さえある。
36行目: 38行目:
「――ねえ、ちょっと散歩にでも出かけましょうよ!」
「――ねえ、ちょっと散歩にでも出かけましょうよ!」
 とつぜん彼女が切り出した。
 とつぜん彼女が切り出した。
「実は、わたしも発症したことがあるんです。『環境性ノストフィリア症候群』。そのときは本当に、何といいますか、信じられない思いでした。でも、ここでの治療のおかげで、ちゃんと元気になれたんです! 散歩もたくさんしたんですよ!」
「実は、わたしも発症したことがあるんです。『環境性ノストフィリア症候群』。そのときは本当に、何といいますか、信じられない思いで、塞ぎ込むこともありました。でも、ここでの治療のおかげで、ちゃんと元気になれたんです――散歩をたくさんしただけなのに!」
 棚の上段で、筺体にひかれたラインが緑色に光る。これはAIの感情に連動して色彩が顕れるしくみになっており、緑色は「喜び」だった。
 棚の上段で、筺体にひかれたラインが緑色に光る。これはAIの感情に連動して色彩が顕れるしくみになっており、緑色は「喜び」だった。
「どうですか? 今の世界を実際に歩いてみる、というのは、ちゃんと効果的なリハビリとして認められてもいますし、良い気分転換にもなると思いますよ」
「どうですか? 今の世界を実際に歩いてみる、というのは、ちゃんとこの症状に効果的なリハビリとして認められていますし、良い気分転換にもなると思いますよ」
 彼の気持ちは、少し明るくなった。
 彼が気持ちを整理するのには、もう少し時間が必要だった。しかし、それでも彼の心は少し明るくなったようだった。
「そうですね。行きましょう!」
「そうですね。行きましょう!」
 病室の窓ガラス越しに見える空はあまりにも鮮やかで、彼はしばらくそれを額縁に掛けられた絵画だと思っていた。雲はどんなレースカーテンよりも優雅に風をふくみ、大空をたゆたい、遊んでいた。
「あ、私のこと置き忘れていかないでくださいよ!」
「はいはい、わかってますって」
 彼らが病室を出ていったあと、あのモニターもすでに電源を落とされていたから、部屋は本当に静かになった。
     *   *   *
 外に出てまず彼が見ることになったのは、どうやら住宅街であるらしい構造物の群れだった。パステルカラーを基調にして、なめらかなトーンをまとうその一軒一軒が、いかにもレトロ・フューチャーらしい流線形のデザインや、素朴な木造りの三角屋根、差し色のきらびやかでビビッドな壁面タイルなどで、めいめい自由に飾り立てられている。
 しかし、そこに楽しげな雰囲気はなかった。街に張り巡らされているアスファルトの上には、いたるところにゴミが散乱している。もう何年も使われていないドアは、うつろに、すがるように建物に寄りかかっている。かつての住人達はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。彼は、そう思うばかりであった。
「今、世界人口はわずか一億人程度です。ああ、もちろん、AIも含めて。……三世紀前の人からすると、信じられないことかもしれませんね」
 腕の振りにあわせて体を揺さぶられながらも、彼女は平気そうに言う。こういう筺体のAIは、誰かに携行されるとき、加速度センサーを反射的にオフにするのだ。
8,864

回編集