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 <br> 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して渡し、セーラー服とリボンにできた小さな染みを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭った。
 <br> 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して渡し、セーラー服とリボンにできた小さな染みを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭った。
<br>「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけないよ。汚くなってしまうし、少し下品だ」
<br>「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけないよ。汚くなってしまうし、少し下品だ」
 そっか、と澪は笑った。
 <br> そっか、と澪は笑った。
<br>「ありがとう」
<br>「ありがとう」
 <br> 強い風が吹き、それに合わせてピンクの薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
 <br> 強い風が吹き、それに合わせてピンクの薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
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<br>「ちゃんと持ってきた?」
<br>「ちゃんと持ってきた?」
 <br> 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の小瓶を、「安心して」というように掲げた。
 <br> 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の小瓶を、「安心して」というように掲げた。
 <br> 二人は通学路を歩いた。毎日征く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。
 <br> 二人は通学路を歩いた。毎日行く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。
 <br> 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
 <br> 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
<br>「月が明るいね」と澪が言った。
<br>「月が明るいね」と澪が言った。
52行目: 52行目:
<br>「何回ここへ来ても慣れないな」
<br>「何回ここへ来ても慣れないな」
 <br> 颯が呟くと、口から漏れた水泡の群れがくぐもった優しげな音を立てて上昇する。息はできる。しかし身体を動かすと、水の抵抗がしっかりと行手を阻む。不思議な感覚だ。
 <br> 颯が呟くと、口から漏れた水泡の群れがくぐもった優しげな音を立てて上昇する。息はできる。しかし身体を動かすと、水の抵抗がしっかりと行手を阻む。不思議な感覚だ。
 <br> 澪は徐に窓辺へと泳いだ。颯はそれを追いかける。いつもはそこから見下ろせる校庭は深い海の底のような闇に沈んで、窓の外は遥か頭上に花残りの月がぽつんと浮かんでいるばかりだった。咲き乱れていた桜も、今はもう全く見えない。
 <br> 澪は徐に窓辺へと泳いだ。颯はそれを追いかける。窓の外は闇の底に沈んで、遥か頭上に花残りの月がぽつんと浮かんでいるばかりだった。咲き乱れていた桜も、今はもう全く見えない。
<br>「あ、かわいい」
<br>「あ、かわいい」
 <br> 手のひら大の、鮮やかな黄色の筋が背中に入った魚が澪の顔を掠めて泳ぎ去る。その一匹に付いていくようにして二、三十匹の群れが教室をぐるりと回ると、二人が入った方の扉から仲良く廊下へ出ていった。
 <br> 手のひら大の、鮮やかな黄色の筋が背中に入った魚が澪の顔を掠めて泳ぎ去る。その一匹に付いていくようにして二、三十匹の群れが教室をぐるりと回ると、二人が入った方の扉から仲良く廊下へ出ていった。
58行目: 58行目:
 <br> 颯が戯けてそう言うと、澪が笑いながら颯の脇を小突いた。
 <br> 颯が戯けてそう言うと、澪が笑いながら颯の脇を小突いた。
<br>「駄目だよそんなこと言っちゃ。神様なんだから、怒られちゃうかもよ」
<br>「駄目だよそんなこと言っちゃ。神様なんだから、怒られちゃうかもよ」
 <br> そう、ここにいる魚は皆神様なのだ。澪はそれを、亡くなった祖母から教わった。教室海の話を聞いたのは、澪が初めて教室海に行くよりずっと前のことだ。
 <br> 澪の言うとおり、ここにいる魚は皆神様なのだ。澪はそれを、亡くなった祖母から教わった。教室海の話を聞いたのは、澪が初めて教室海に行くよりずっと前のことだ。
<br> 「大丈夫。きっと赦してくれるよ」
<br> 「大丈夫。きっと許してくれるよ」
 <br> 良く見ると、いつの間にか周りは色もかたちも様々な海の生き物達で溢れている。
 <br> 良く見ると、いつの間にか周りは色もかたちも様々な海の生き物達で溢れている。
 <br> 黒板からは艶々とした赤い珊瑚が伸びている。古びた机の上では青を閉じ込めたような海牛がせっせと動いている。真っ赤な小魚がロッカーに生えた水草の間をすいすいと泳いでいる。銀色に光る魚の群れが複雑な軌道を描きながら一体感を持って水を切ってゆく。
 <br> 黒板からは艶々とした赤い珊瑚が伸びている。古びた机の上では青を閉じ込めたような海牛がせっせと動いている。真っ赤な小魚がロッカーに生えた水草の間をすいすいと泳いでいる。
 <br> 月は段々と高度を上げて、辺りはますます明るくなっていた。
 <br> 月は段々と高度を上げて、辺りはますます明るくなっていた。
<br>「金魚を探しに行こう」と澪が言った。
<br>「金魚を探しに行こう」と澪が言った。
87行目: 87行目:
 <br> やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。
 <br> やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。
 <br> 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは姿を消しており、代わりに途轍もなく大きな、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
 <br> 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは姿を消しており、代わりに途轍もなく大きな、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
<br>「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね。……どうもありがとう」
<br>「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね……。どうもありがとう」
 <br> 鯉は心が震えるような声をしている。
 <br> 鯉は心が震えるような声をしている。
<br>「久しぶりだね。鯉さん」
<br>「久しぶりだね。鯉さん」
 <br> 澪は親しげに話し掛ける。
 <br> 澪は親しげに話し掛ける。
<br>「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
<br>「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
<br>「君たちはすごく大きなったんだね」
<br>「君たちはすごく大きなった」
 <br> 鯉はしみじみ、そう言った。
 <br> 鯉はしみじみ、そう言った。
<br>「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
<br>「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
124行目: 124行目:
 <br> 二人は魚を掻き分け、やっとのことで教室に到着した。時計の秒針が零時に重なる、ほんの少し前のことだった。
 <br> 二人は魚を掻き分け、やっとのことで教室に到着した。時計の秒針が零時に重なる、ほんの少し前のことだった。
 <br> 扉を開けると教室は、溢れんばかりの月光で満たされていた。二人がはじめにいた時より、生き物の数は格段に増えていた。
 <br> 扉を開けると教室は、溢れんばかりの月光で満たされていた。二人がはじめにいた時より、生き物の数は格段に増えていた。
 <br> 海の生き物の息遣いがだけが聞こえる。
 <br> 海の生き物の息遣いが聞こえる。
 <br> 花残りの月が、教室海に零時を告げた。
 <br> 花残りの月が、教室海に零時を告げた。
 <br> 黒板が、柔らかなオレンジに染まり始める。炎のようなその光は枠をなぞるように流れ、次第に黒板全体に浸透してゆく。
 <br> 黒板が、柔らかなオレンジに染まり始める。炎のようなその光は枠をなぞるように流れ、次第に黒板全体に浸透してゆく。
160行目: 160行目:
 <br> 二人は静かな朝の教室で、初めてのキスを交わした。
 <br> 二人は静かな朝の教室で、初めてのキスを交わした。
 <br> 真夏が、もう間も無くやって来る。
 <br> 真夏が、もう間も無くやって来る。
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