「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/最悪の一日と救済の力士」の版間の差分

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(ページの作成:「 ああ、最悪だ!  息を切らし、肩を弾ませ、今にも吐きそうな風体をした伊野晃は、自分の学習机の棚を隈なく見るまでもなく、そこに国語の教科書があるわけがないということを思い出した。昨日は国語の教科書を持って帰っていなかったのだ。先ほどまでの焦燥感が反転し、伊野はふつふつと怒りを抱き始めた。15分ほど前、彼は自分の鞄に…」)
 
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 ああ、最悪だ!
 ああ、最悪だ!


 息を切らし、肩を弾ませ、今にも吐きそうな風体をした伊野晃は、自分の学習机の棚を隈なく見るまでもなく、そこに国語の教科書があるわけがないということを思い出した。昨日は国語の教科書を持って帰っていなかったのだ。先ほどまでの焦燥感が反転し、伊野はふつふつと怒りを抱き始めた。15分ほど前、彼は自分の鞄に国語の教科書が入っていないことに気づいた。彼の国語の授業を受け持つ教師は、何かにつけて校庭を走らせる熱血教師の類だったから、忘れ物なんかしたら無論校庭を走らされるのは目に見えている。彼は焦り、走って家に忘れ物を取りに帰ったのだ。そしてその忘れ物が忘れ物なんかじゃなかったものだから、彼は自分の愚かさに呆れていたのだ。
 息を切らし、肩を上下させ、今にも吐きそうに顔を歪める伊野晃は、自分の学習机の棚を隈なく見るまでもなく、そこに国語の教科書があるわけがないということを思い出した。昨日は国語の教科書を持って帰っていなかったのだ。先ほどまでの焦燥感が反転し、伊野はふつふつと怒りを抱き始めた。15分ほど前、彼は自分の鞄に国語の教科書が入っていないことに気づいた。彼の国語の授業を受け持つ教師は、何かにつけて校庭を走らせる熱血教師の類だったから、忘れ物なんかしたら無論校庭を走らされるのは目に見えている。彼は焦り、走って家に忘れ物を取りに帰ったのだ。そしてその忘れ物が忘れ物なんかじゃなかったものだから、彼は自分の愚かさに呆れていたのだ。


 伊野は自室に立てかけられている時計を確認する。7時32分。朝のSHRが始まる7時40分までに残された時間は、あと8分しかない。伊野は再び鞄を背負い、迷わず走り始めた。SHRに遅刻するわけにはいかない。あの熱血教師は、彼の担任でもあったからだ。彼はもう校庭を3周分は走ったような気分だったが、ここで過去のことを嘆いてもしょうがない。彼はドアを開け、風のように走り出した。
 伊野は自室に立てかけられている時計を確認する。7時32分。朝のSHRが始まる7時40分までに残された時間は、あと8分しかない。伊野は再び鞄を背負い、迷わず走り始めた。SHRに遅刻するわけにはいかない。あの熱血教師は、彼の担任でもあったからだ。彼はもう校庭を3周分は走ったような気分だったが、ここで過去のことを嘆いてもしょうがない。彼はドアを開け、風のように走り出した。
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 ――{{傍点|文章=思い出した}}。弾けるような痛みを伴って、伊野は、今朝、自分が交通事故で死んだことを思い出した。7時27分ごろのことだった。校門の目の前まで来て、自分が国語の教科書を忘れたと勘違いし、踵を返して走り始めた後だ。彼は校門に続く道にあるあの横断歩道を渡る途中ではねられ、即死した。
 ――{{傍点|文章=思い出した}}。弾けるような痛みを伴って、伊野は、今朝、自分が交通事故で死んだことを思い出した。7時27分ごろのことだった。校門の目の前まで来て、自分が国語の教科書を忘れたと勘違いし、踵を返して走り始めた後だ。彼は校門に続く道にあるあの横断歩道を渡る途中ではねられ、即死した。


 あまりにも、あまりにも突然だったのだ。彼は遅刻しそうになって走っているだけだった。ちょっとした日常の中で、自分が死んでしまうなんて、いったい誰が考えているだろう。少なくとも彼は、それゆえにだろうか、どうにも自分の死を認識できていなかった。彼の意識は、彼の死体を離れ、自宅に帰り、そしてまた、その軽すぎる体で走り出して、横断歩道に戻って来た。彼は、辛うじて伊野晃だと分かる死体が救急隊員に囲まれているところを認識することができなかった。彼が代わりに見たのは、その光景を見ていた成瀬真紀の{{傍点|文章=不可解な}}横断だけだ。
 あまりにも、あまりにも突然だったのだ。彼は遅刻しそうになって走っているだけだった。ちょっとした日常の中で、自分が死んでしまうなんて、いったい誰が考えているだろう。少なくとも彼は、それゆえにだろうか、どうにも自分の死を認識できていなかった。彼の意識は、彼の死体を離れ、自宅に帰り、そしてまた、その軽すぎる体で走り出して、横断歩道に戻って来た。彼は、辛うじて伊野晃だと分かる死体が救急隊員に囲まれているところを認識することができなかった。そして――{{傍点|文章=いくら遅刻しそうだからといって、救急隊員と同級生の遺体の間を走ってすり抜けるようなことはできない}}。彼が代わりに見たのは、その光景を見ていた成瀬真紀の、彼にだけは不可解に映るだろう横断だけだった。


「発気揚々、八卦良い良い。この哀れな魂を救済せねばならんでどすこい……それが力士、井方海としての務めだ。……南無」
「発気揚々、八卦良い良い。この哀れな魂を救済せねばならんでどすこい……それが力士、井方海としての務めだ。……南無」


 そう言うと、力士は激しく四股を踏み始めた。空気が揺れる。天井の証明が揺れ、きりきりと音を立てる。その気迫は、力士のいる空間を取り囲むように、土俵を幻視させるほどだった。力士は両腕を体の前に構え、一閃、力を解放し、伊野を貫いた。
 そう言うと、力士は激しく四股を踏み始めた。空気が揺れる。天井の照明が揺れ、きりきりと音を立てる。その気迫は、力士のいる空間を取り囲むように、土俵を幻視させるほどだった。力士は両腕を体の前に構え、一閃、力を解放し、伊野を貫いた。


 こうして伊野は、ようやく自分の死を受けいれることができた。井方海は、相撲取りとして、確かな神通力を有していた。意識が薄れていく傍ら、彼は最後に、相撲も悪くないかもな、と思った。
 こうして伊野は、ようやく自分の死を受けいれることができた。井方海は、相撲取りとして、確かな神通力を有していた。意識が薄れていく傍ら、彼は最後に、相撲も悪くないかもな、と思った。
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