「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/ドア越しの夫婦」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
 
6行目: 6行目:
<br> 勇子は、息子の虎太郎の体を拭く手を止め、風呂の外に出た。風呂から上がったばかりでずぶ濡れの虎太郎に、自分で体を拭くように言って腰を上げた。
<br> 勇子は、息子の虎太郎の体を拭く手を止め、風呂の外に出た。風呂から上がったばかりでずぶ濡れの虎太郎に、自分で体を拭くように言って腰を上げた。
<br> 虎太郎は小学一年生。今日は学校で設備点検があり、給食を食べるとそのまま下校する日だった。しかし十分ほど前、乱暴に玄関が開いたかと思うと、ドアが閉まるより早く泥んこの虎太郎が駆け込んできたのには驚いた。「ただいま〜!」と無邪気にランドセルを放り出す虎太郎を慌てて抱き上げ、そのまま風呂に直行した。虎太郎が言うには、下校中に友達と一緒に水たまりで思いきり跳ね回ったらしい。集団下校を引率する先生の、苦笑が目に浮かぶようだ。足の爪に泥が入り込んで洗い落とすのに苦労したが、楽しそうに学校であったことを話す虎太郎は、たまらなく愛しい。
<br> 虎太郎は小学一年生。今日は学校で設備点検があり、給食を食べるとそのまま下校する日だった。しかし十分ほど前、乱暴に玄関が開いたかと思うと、ドアが閉まるより早く泥んこの虎太郎が駆け込んできたのには驚いた。「ただいま〜!」と無邪気にランドセルを放り出す虎太郎を慌てて抱き上げ、そのまま風呂に直行した。虎太郎が言うには、下校中に友達と一緒に水たまりで思いきり跳ね回ったらしい。集団下校を引率する先生の、苦笑が目に浮かぶようだ。足の爪に泥が入り込んで洗い落とすのに苦労したが、楽しそうに学校であったことを話す虎太郎は、たまらなく愛しい。
<br> タオルで体をこすり、始める虎太郎に背を向け、玄関に向かう。濡れた手をズボンでぬぐい、落ちてきた髪を横に払う。夫は玄関の外で、手持ち無沙汰に待っているのだろうか。その姿を想像すると、ちょっとおかしく思えて笑いがこぼれた。
<br> タオルで体をこすり始める虎太郎に背を向け、玄関に向かう。濡れた手をズボンでぬぐい、落ちてきた髪を横に払う。夫は玄関の外で、手持ち無沙汰に待っているのだろうか。その姿を想像すると、ちょっとおかしく思えて笑いがこぼれた。
<br> その時、先ほどの夫の言葉が脳内でリフレインした。
<br> その時、先ほどの夫の言葉が脳内でリフレインした。
<br> ──今玄関にいるよ!
<br> ──今玄関にいるよ!
38行目: 38行目:
<br> そんなに仕事に打ち込んでばかりだっただろうか、と思う。それに、ひょっとすると、勇子が機嫌を直さなければ、ドアを開けてくれないのではないか? 義文は心の中で舌打ちした。なんてめんどくさい女だよ。
<br> そんなに仕事に打ち込んでばかりだっただろうか、と思う。それに、ひょっとすると、勇子が機嫌を直さなければ、ドアを開けてくれないのではないか? 義文は心の中で舌打ちした。なんてめんどくさい女だよ。
<br>「……ねえ。最近、お父さんの仕事関係で、不穏な動きがあるんだって」
<br>「……ねえ。最近、お父さんの仕事関係で、不穏な動きがあるんだって」
 思わずどきりとした。急に話題が変わったな。
<br> 思わずどきりとした。急に話題が変わったな。
<br>「龍田組に敵対してる組織が、お父さんの弱みとして、わたしと虎太郎を狙ってるかもしれないんだって」
<br>「龍田組に敵対してる組織が、お父さんの弱みとして、わたしと虎太郎を狙ってるかもしれないんだって」
<br>「それがどうしたんだよ?」
<br>「それがどうしたんだよ?」
76行目: 76行目:
<br>「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを──」
<br>「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを──」
<br> 義文は動揺していた。何が起こっている? 夫の呼びかけにも俺の恫喝にも反応せず、頑なにドアを開けようとしていない。いや、そんな次元ではなく……。
<br> 義文は動揺していた。何が起こっている? 夫の呼びかけにも俺の恫喝にも反応せず、頑なにドアを開けようとしていない。いや、そんな次元ではなく……。
<br> {{傍点|文章=猪狩}}義文は、銀獅子会の下っ端だった。勇子の話に出てきた、龍田組に敵対している組織の、いわゆる鉄砲玉である。銀獅子会は地方の弱小組織で、業界大手の龍田組に対抗できるわけもなく、潰されかけていた。しかし、組長の娘と孫を人質にすれば、話は変わってくる。とはいえ、表立って誘拐などすれば、組織の立場が危ない。あくまで個人の暴走として、2人を奪取する。それが義文に課せられたミッションだった。
<br> {{傍点|文章=猪狩}}義文は、銀獅子会の下っ端だった。勇子の話に出てきた、龍田組に敵対している組織の、いわゆる鉄砲玉である。銀獅子会は地方の弱小組織で、業界大手の龍田組に対抗できるわけもなく、潰されかけていた。しかし、組長の娘と孫を人質にすれば、話は変わってくる。とはいえ、表立って誘拐などすれば、組織の立場が危ない。あくまで個人の暴走として、2人を奪取する。それが義文に課せられた仕事だった。
<br> しかし、無理やり家に侵入しても、警戒されて通報されたり逃げられたりするのがオチだろう。ガキを人質に女をおびき出すのも、集団下校のせいで難しい。そこで考えたのが、帰宅途中の夫・稔を銃で脅し、家に押し入って油断している二人を攫うという方法だった。
<br> しかし、無理やり家に侵入しようとしても、警戒されて通報されたり逃げられたりするのがオチだろう。ガキを人質に女をおびき出すのも、集団下校のせいで難しい。そこで考えたのが、帰宅途中の夫・稔を銃で脅し、家に押し入って油断している二人を攫うという方法だった。
<br> だが状況が変わった。今までは無駄に騒がれたくなかったから、勇子が自ら扉を開けるのを待っていたが、もうやめだ。最初に鍵は開いた。開けてもらわなくとも、自分で開ければいい。
<br> だが状況が変わった。今までは無駄に騒がれたくなかったから、勇子が自ら扉を開けるのを待っていたが、もうやめだ。最初に鍵は開いた。開けてもらわなくとも、自分で開ければいい。
<br>「どけ!」
<br>「どけ!」
2,077

回編集