「利用者:Mapilaplap/SandboxforNovels4」の版間の差分

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== ⑴ ==


     ⑴




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 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して澪に渡し、セーラー服とリボンにできた小さなシミを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭いた。
 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して澪に渡し、セーラー服とリボンにできた小さなシミを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭いた。
「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけない。リボンが汚くなってしまうし、少し下品だ」
「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけない。リボンが汚くなってしまうし、少し下品だ」
 そっか、と澪は笑った。
「そっか」と澪は笑った。
「ありがとう」
「ありがとう」
 強い風が吹き、それに合わせてピンク色の薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
 強い風が吹き、それに合わせてピンク色の薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
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 紀恵は気付いていた。澪と颯には変に距離が近いところがある。部活も違う二人は普段の生活で積極的に関わることはないものの、掃除など時々関わりがあった時には、隠しきれない信頼やら何やらが、二人の表情からふと覗くのである。そこに恋愛感情が含まれているかどうかは紀恵にはわからなかったが、互いを特別大切に思っているであろうことは確信していた。そんなふうに二人はこのクラスで、洗い立ての布団のような香りの距離を維持し続けていた。しかしどうしたことか、いつもなら近づくことのない二人が、今日はお昼を一緒に食べていたのだ。しかも、とっくに心を許しあっているのが周りに伝わってくるくらい、とても幸せそうに。だから澪のいう特別というものは、十中八九、颯と関連したことだろう。紀恵はそう考えていた。
 紀恵は気付いていた。澪と颯には変に距離が近いところがある。部活も違う二人は普段の生活で積極的に関わることはないものの、掃除など時々関わりがあった時には、隠しきれない信頼やら何やらが、二人の表情からふと覗くのである。そこに恋愛感情が含まれているかどうかは紀恵にはわからなかったが、互いを特別大切に思っているであろうことは確信していた。そんなふうに二人はこのクラスで、洗い立ての布団のような香りの距離を維持し続けていた。しかしどうしたことか、いつもなら近づくことのない二人が、今日はお昼を一緒に食べていたのだ。しかも、とっくに心を許しあっているのが周りに伝わってくるくらい、とても幸せそうに。だから澪のいう特別というものは、十中八九、颯と関連したことだろう。紀恵はそう考えていた。
「違うよ」
「違うよ」
 澪は作業を続けながら、さっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。それを見た紀恵は満足そうな顔をして澪に背を向けると「あっそ。じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
 澪は作業を続けながら、さっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。それを見た紀恵は満足そうな顔をして澪に背を向けると、「あっそ。じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
 紀恵が出ていってしまうと、それと入れ替わるように窓から詩梟が飛び込んできて、器用に教卓へと着地した。きっと裏山から来たのだろう。あるいは、湖の方の森から来たのかもしれない。澪には判断がつかなかった。澪は詩梟を、夜か、昼間でも暗い森の奥でしか見たことがなかったため、こんな日当たりの良い教室に現れるなんて珍しいと思った。
 紀恵が出ていってしまうと、それと入れ替わるように窓から詩梟が飛び込んできて、器用に教卓へと着地した。きっと裏山から来たのだろう。あるいは、湖の方の森から来たのかもしれない。澪には判断がつかなかった。澪は詩梟を、夜か、昼間でも暗い森の奥でしか見たことがなかったため、こんな日当たりの良い教室に現れるなんて珍しいと思った。
 詩梟は午後の日差しに目を細めながら、嘴で呑気に羽をつついていた。こちらなど全く意に介さないのんびりした仕草に、この詩梟は夜より昼間の方が似合うと澪は思った。そんな風に、ゆったりとした時間の中に生きているような詩梟に、気がつく者は誰一人としていなかった。許可された者でなければ、詩梟を見ることはできないのだ。教室で澪と颯だけが、詩梟を見ることができた。
 詩梟は午後の日差しに目を細めながら、嘴で呑気に羽をつついていた。こちらなど全く意に介さないのんびりした仕草に、この詩梟は夜より昼間の方が似合うと澪は思った。そんな風に、ゆったりとした時間の中に生きているような詩梟に、気がつく者は誰一人としていなかった。許可された者でなければ、詩梟を見ることはできないのだ。教室で澪と颯だけが、詩梟を見ることができた。
 窓の外の葉桜に囲まれた校庭では、陸上部のみんながトラックを駆けていた。そのままその集団が走り続ける様を眺めていると、紀恵が運動場の脇にある部室の方から必死に追いつこうと走っているのが見えた。澪は、自分が遅れることも構わずに待ってくれた紀恵に改めて感謝し、それにより再び、彼女を待たせた上で部活にも行かなかったことの罪悪感が胸を掠めた。澪は頭を振ってその気持ちを払い除けると、薄桃色の鞄に筆箱を入れ、勢いよくファスナーを閉めた。
 窓の外の葉桜に囲まれた校庭では、陸上部のみんながトラックを駆けていた。そのままその集団が走り続ける様を眺めていると、紀恵が運動場の脇にある部室の方から必死に追いつこうと走っているのが見えた。澪は、自分が遅れることも構わずに待ってくれた紀恵に改めて感謝し、それにより再び、彼女を待たせた上で部活にも行かなかったことの罪悪感が胸を掠めた。澪は頭<rt>かぶり</rt></ruby>を振ってその気持ちを払い除けると、薄桃色<rt>はくとういろ</rt></ruby>筆箱を机から取り出して、鞄のファスナーを勢いよく開けた。
 澪がゆったりと準備を進めている間に、クラスのほとんどが部活に行くか家に帰るかしてしまった教室は、がらんとして、いつもより広く見えた。端の扉の方で盛り上がっていた颯がいる集団も一人、また一人というように消えていき、いつしか教室にいるのは澪と颯、そして詩梟だけになっていた。颯は本を読み始めた。
 澪がゆったりと準備を進める間に、クラスのほとんどが部活に行くか家に帰るかしてしまった教室は、がらんとして、いつもより広く見えた。扉の方で盛り上がっていた颯がいる集団も一人、また一人というように消えていき、いつしか教室にいるのは澪と颯、そして詩梟だけになっていた。颯は本を読み始めた。
 もちろん颯は、詩梟の存在に気づいていたし、澪が準備をもうすぐ終えるであろうことも予めわかっていた。それでも読み始めるのは、特別な理由からなどではなく、続きが気になっていたという単純な欲求からだった。颯はずっと続きが読みたかったのだ。
 もちろん颯は、詩梟の存在に気づいていたし、澪が準備をもうすぐ終えるであろうことも予めわかっていた。それでも読み始めるのは、特別な理由からなどではなく、続きが気になっていたという単純な欲求からだった。颯はずっと続きが読みたかったのだ。
 澪は教室の隅で本に向かう颯を見た。澪は、颯が本好きであることを知っていた。家に帰ると毎日欠かさず本を読んでいることも、一度読み始めた本は、できるだけ一気に読み終えてしまいたいと思っていることも。
 澪は教室の隅で本に向かう颯を見た。澪は、颯が本好きであることを知っていた。家に帰ると毎日欠かさず本を読んでいることも、一度読み始めた本は、できるだけ一気に読み終えてしまいたいと思っていることも。
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 肩を叩かれた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。読んでいた本のせいかも知れない。どうしてだか、澪が堪らなく愛おしく感じて、颯は思わず立ち上がった。しかし、こんな所で彼女を抱き締めるわけにはいかないし、当の本人が困惑したような表情になったから、「待たせてごめん。そろそろ帰ろうか」と出来るだけ優しい声で言った。
 肩を叩かれた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。読んでいた本のせいかも知れない。どうしてだか、澪が堪らなく愛おしく感じて、颯は思わず立ち上がった。しかし、こんな所で彼女を抱き締めるわけにはいかないし、当の本人が困惑したような表情になったから、「待たせてごめん。そろそろ帰ろうか」と出来るだけ優しい声で言った。
 澪はその言葉を聴くと日が差したように笑顔になって「うん」と元気よく返事をした。
 澪はその言葉を聴くと日が差したように笑顔になって「うん」と元気よく返事をした。
 颯が本を鞄にしまうまでの間に、詩梟は二度鳴いた。
 颯が準備を済ませてしまうまでの間に、詩梟は二度鳴いた。
 隣で颯を待っていた澪は、この詩梟はとっても不思議だと、改めて思った。澪が今まで見てきた詩梟は笛のような声で鳴いた。この詩梟の鳴き声は、鈴のようだった。
 隣で颯を待っていた澪は、この詩梟はとっても不思議だと、改めて思った。澪が今まで見てきた詩梟は笛のような声で鳴いた。この詩梟の鳴き声は、鈴のようだった。
 そんなふうなことを思っているうちに、颯が支度を終えた。そして、先を急いだ澪が教室の扉に手をかけた時だった。
 そんなふうなことを思っているうちに、颯が支度を終えた。そして、先を急いだ澪が教室の扉に手をかけた時だった。
64行目: 65行目:
 颯は自転車に跨ると、澪に後ろに座るように促した。澪はちょこんと後ろに座ると、嬉しそうに颯の腹に手を回した。
 颯は自転車に跨ると、澪に後ろに座るように促した。澪はちょこんと後ろに座ると、嬉しそうに颯の腹に手を回した。
 いつもならブレーキをかけずに駆け降りる颯だったが、澪を乗せながらそうすると彼女を落としかねないと思うと、ブレーキのレバーを握りしめて、いつもの半分にも満たないスピードで降り始めた。
 いつもならブレーキをかけずに駆け降りる颯だったが、澪を乗せながらそうすると彼女を落としかねないと思うと、ブレーキのレバーを握りしめて、いつもの半分にも満たないスピードで降り始めた。
 通学路が同じ澪は時々、部活を終えて山間が夕闇に染まる頃に、坂を風のように駆け降りていく颯を後ろから見ることがあったから、颯が自分のために慎重に走ってくれていることにちゃんと気がついていた。それに澪は心が変に温まって、涼を得るためにひんやりとした颯の背中に、気づかれないように優しく頰をあてたが、逆に颯の、夏草のような匂いに包まれてしまい、更に心が変になった。
 通学路が同じ澪は時々、部活を終えて山間<rt>やまあい</rt></ruby>が夕闇に染まる頃に、坂を風のように駆け降りていく颯を後ろから見ることがあったから、颯が自分のために慎重に走ってくれていることにちゃんと気がついていた。それに澪は心が変に温まって、涼を得るためにひんやりとした颯の背中に、気づかれないように優しく頰をあてたが、逆に颯の、夏草のような匂いに包まれてしまい、更に心が変になった。
 颯はいつもよりゆっくりと流れる景色に、これはこれで良いと思い、しばらく景色を眺めていたが、背中に押し当てられた柔らかな二双の蕾の存在に気がつくと、急に身体の感覚がそれに縛られて、もう景色など認識できなくなっていた。
 颯はいつもよりゆっくりと流れる景色に、これはこれで良いと思い、しばらく景色を眺めていたが、背中に押し当てられた柔らかな二双の蕾の存在に気がつくと、急に身体の感覚がそれに縛られて、もう景色など認識できなくなっていた。
 颯にはどこか達観したところがあって、それがよく大人っぽいと言われる所以でもあったが、高校生の幼さも確実に残されていた。そして、それが露わになるのは、唯一澪の前だけだったのだ。しかし、澪は颯のこととなると恐ろしく鈍感で(彼女は他のことに於いても敏感とは言い難かったが)それに気がつくことはないから、颯の評価は一様に大人びた少年で固定されていた。彼の中の少年は世間に暴かれる事なく、二人の秘密の花園にのみだけ、精霊のように姿を現した。
 颯にはどこか達観したところがあって、それがよく大人っぽいと言われる所以でもあったが、高校生の幼さも確実に残されていた。そして、それが露わになるのは、唯一澪の前だけだったのだ。しかし、澪は颯のこととなると恐ろしく鈍感で(彼女は他のことに於いても敏感とは言い難かったが)それに気がつくことはないから、颯の評価は一様に大人びた少年で固定されていた。彼の中の少年は世間に暴かれる事なく、二人の秘密の花園にのみだけ、精霊のように姿を現した。
80行目: 81行目:
「いいよ。乗って」
「いいよ。乗って」
 颯は空を見たまま答えた。
 颯は空を見たまま答えた。
 湿った空気が瞬く間に盆地を覆った。ひぐらしが驟雨の兆しに、火えるように鳴いていた。
 湿った空気が瞬く間に盆地を覆った。ひぐらしが驟雨の兆しに、火<rt>も</rt></ruby>えるように鳴いていた。
 前方から迫る灰色のカーテンのような雨雲の中に、澪は故しれぬ気配を感じた。海祗がいまにも山を越えて来るようだと澪は思った。
 前方から迫る灰色のカーテンのような雨雲の中に、澪は故しれぬ気配を感じた。海<rt>わだ</rt></ruby><ruby>祗<rt>つみ</rt></ruby>がいまにも山を越えて来るようだと澪は思った。
 颯は畦道を軽快に飛ばした。風が、路傍に佇む灌木の若葉を揺らしながら渦を巻いて天に昇っていった。色彩にみるみるうちに灰色が差し、押し出された青は強風ととも盆地を後にした。
 颯は畦道を軽快に飛ばした。風が、路傍に佇む灌木<rt>かんぼく</rt></ruby>の若葉を揺らしながら渦を巻いて天に昇っていった。色彩にみるみるうちに灰色が差し、押し出された青は強風ととも盆地を後にした。
 一粒。ささやかな雨が澪の頬を濡らした。あの聳え立つ入道雲から落ちてきたとは思えないほどささやかな優しい雫だ。それは頬を流れ、潤う唇に同化した。
 一粒。ささやかな雨が澪の頬を濡らした。あの聳え立つ入道雲から落ちてきたとは思えないほどささやかな優しい雫だ。それは頬を流れ、潤う唇に同化した。
 それから堰を切ったように雨が降り始めた。田んぼの水面は磨りガラスのようにぼやけ、制服は肌に染み付いていく。あの優しさは最初の一粒だけが持つ個性だったらしく、つまらないほどに透き通った雨は雨以上の輝きを持たないままただ二人を濡らした。用水路の流れが勢いづき、遠くで稲妻が走った。颯は黙って自転車を漕いだ。
 それから堰を切ったように雨が降り始めた。田んぼの水面は磨りガラスのようにぼやけ、制服は肌に染み付いていく。あの優しさは最初の一粒だけが持つ個性だったらしく、つまらないほどに透き通った雨は雨以上の輝きを持たないままただ二人を濡らした。用水路の流れが勢いづき、遠くで稲妻が走った。颯は黙って自転車を漕いだ。
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「すごい。すり抜けちゃった。私たち、透明になったみたい」
「すごい。すり抜けちゃった。私たち、透明になったみたい」
 傘は、鈴音の狭間に入り込んでしまった二人の身体をすり抜けたのだった。雨も二人に構わず真っ直ぐに地面に落ちていく。二人はそっくりそのまま現実から隔離されてしまったのだ。
 傘は、鈴音の狭間に入り込んでしまった二人の身体をすり抜けたのだった。雨も二人に構わず真っ直ぐに地面に落ちていく。二人はそっくりそのまま現実から隔離されてしまったのだ。
 澪は欣然と道へ駆け出した。ばしゃばしゃと水が飛び散る音がする。まるで二人がこれまでの世界としっかりと隔たれてしまったことを誰かが印象付けるかのように、その音は籠って聞こえた。それはまるで耳に綿が詰め込まれたような感覚だった。
 澪は欣然<rt>きんぜん</rt></ruby>と道へ駆け出した。ばしゃばしゃと水が飛び散る音がする。まるで二人がこれまでの世界としっかりと隔たれてしまったことを誰かが印象付けるかのように、その音は籠<rt>くぐも</rt></ruby>って聞こえた。それはまるで耳に綿が詰め込まれたような感覚だった。
 直後、夜行バスが澪のいる道上を通過した。颯は驚き、声をあげて澪に駆け寄った。澪は腕を抱え、体を震わせた。
 直後、夜行バスが澪のいる道上を通過した。颯は驚き、声をあげて澪に駆け寄った。澪は腕を抱え、体を震わせた。
「へへ。うん。大丈夫だよ。なんともない……。でもちょっと寒いかな」
「へへ。うん。大丈夫だよ。なんともない……。でもちょっと寒いかな」
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 ん、と澪は短く返事をした。澪は颯の言葉より、その濡れた強かな体に集中していた。颯は澪の耳元で囁いた。
 ん、と澪は短く返事をした。澪は颯の言葉より、その濡れた強かな体に集中していた。颯は澪の耳元で囁いた。
「もう二人だ。……大丈夫。きっと帰って来られる」
「もう二人だ。……大丈夫。きっと帰って来られる」
 愛を引き裂くにあたって、それは既に存在していなければならない。二人に独立した世界が与えられたということはつまり、かの魔女の悋気に彩られた思惑の第一段階は既に終了したということだ。
 愛を引き裂くにあたって、それは既に存在していなければならない。二人に独立した世界が与えられたということはつまり、かの魔女の悋気<rt>りんき</rt></ruby>に彩られた思惑の第一段階は既に終了したということだ。
 現実において人を捕らえている幾千もの屈折した柵から奇しくも二人は脱出したのだった。極限まで純粋に愛し合う二人にとってそれらは最も相性の悪いものだと言わざるをえない。それは寓話のような、恩寵的に整えられた世界でのみ正しく生育するといった種の愛なのだ。
 現実において人を捕らえている幾千もの屈折した柵<rt>しがらみ</rt></ruby>から奇しくも二人は脱出したのだった。極限まで純粋に愛し合う二人にとってそれらは最も相性の悪いものだと言わざるをえない。それは寓話のような、恩寵的に整えられた世界でのみ正しく生育するといった種の愛なのだ。
 籠った、灰色の雨音に包まれながら颯は澪にキスをした。これは恋愛的な意味での、二人の初めてのキスだった。二人の源泉からこんこんと湧き続けていた欲望はその柵によって堰き止められていたのだが、水が並々と湛えられたグラスのように殆ど限界を迎えており、そこへ思いがけない形で解放されたがために、一度に咎が外れたのだった。
 籠<rt>くぐも</rt></ruby>った、灰色の雨音に包まれながら颯は澪にキスをした。これは恋愛的な意味での、二人の初めてのキスだった。二人の源泉からこんこんと湧き続けていた欲望はその柵によって堰き止められていたのだが、水が並々と湛えられたグラスのように殆ど限界を迎えており、そこへ思いがけない形で解放されたがために、一度に咎が外れたのだった。
 二人は相手が有する己への情熱を唇が触れ合うその熱のやり取りにおいて感じとり、そしてそれは、更に己の情熱に薪を焚べることとなった。
 二人は相手が有する己への情熱を唇が触れ合うその熱のやり取りにおいて感じとり、そしてそれは、更に己の情熱に薪を焚べることとなった。
 唇を離すと、二人は互いの背に手を当て存在を確かめ合った。勿論、そんな事はしなくとも二人は互いに存在していた。
 唇を離すと、二人は互いの背に手を当て存在を確かめ合った。勿論、そんな事はしなくとも二人は互いに存在していた。
 道の少し先を行ったところでバスが停車し、慌てた様子の老運転手が降りてきた。彼は暫く周りを見渡したのち、バス停まで来て、落ちていた傘を拾い上げた。再び彼は周りを注意深く観察したかと思うと、傘を投げ捨て、そのままバスへと一目散に逃げて行ってしまった。
 道の少し先を行ったところでバスが停車し、慌てた様子の老運転手が降りてきた。彼は暫く周りを見渡したのち、バス停まで来て、落ちていた傘を拾い上げた。再び彼は周りを注意深く観察したかと思うと、傘を投げ捨て、そのままバスへと一目散に逃げて行ってしまった。
 二人は彼の後ろ姿を苦笑いで見守った。
 二人は彼の後ろ姿を苦笑いで見守った。
 身を寄せ合い男を見送る少年と少女の顔は、まるで幾つも歳月を重ねた壮年夫婦のように和やかだった。しかし二人の持つ若きエネルギーは、その裏面にて、刻一刻と高まり続けていた。
 身を寄せ合い男を見送る少年と少女の顔は、まるで幾つも歳月を重ねた壮年夫婦のように和やかだった。しかし二人の持つ若きエネルギーは、その裏面<rt>りめん</rt></ruby>にて、刻一刻と高まり続けていた。
 二人は森に入った。その先に入り口があることを二人は感じ取っていた。
 二人は森に入った。その先に入り口があることを二人は感じ取っていた。
 森を抜けると、湖のほとりが姿を現した。至る細部まで静謐な光る湖だ。
 森を抜けると、湖のほとりが姿を現した。至る細部まで静謐な光る湖だ。
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 澪が恐る恐る足を湖に触れた。不思議な、落ち着くような光を含んだ水面は、弾力を帯びた包み込むような感覚と共に、澪の運動靴の底を優しく持ち上げた。
 澪が恐る恐る足を湖に触れた。不思議な、落ち着くような光を含んだ水面は、弾力を帯びた包み込むような感覚と共に、澪の運動靴の底を優しく持ち上げた。
「ねえ颯、向こうへ行こう」
「ねえ颯、向こうへ行こう」
 澪が指差した向こうには、木造の古めかしい家屋が、湖の光と同性質の光を孕んでそこにあった。澪がもう一歩踏み出す。運動靴が光る細波を生む。颯も隣について、建物へと向かう。
 澪が指差した向こうには、木造の古めかしい家屋が、湖の光と同性質の光を孕んでそこにあった。澪がもう一歩踏み出す。運動靴が光る細波<rt>さざなみ</rt></ruby>を生む。颯も隣について、建物へと向かう。
 玄関の扉まで着いた。二人はもう最早、元の世界を認識するのが困難になっていた。雨は限りなく薄まり、雨音は遥か遠くの赤子の鳴き声のようだった。湖を囲っていたはずの森はもう見えない。景色の向こうまで水面が広がり、二人を囲むように水平線を形作っている。澪は輝く夏草の草原の真ん中にいるような気がした。家に近づくと、どうやら湖の光の中心はこの家だったらしく、幾千の蛍が止まっているように光っている。
 玄関の扉まで着いた。二人はもう最早、元の世界を認識するのが困難になっていた。雨は限りなく薄まり、雨音は遥か遠くの赤子の鳴き声のようだった。湖を囲っていたはずの森はもう見えない。景色の向こうまで水面が広がり、二人を囲むように水平線を形作っている。澪は輝く夏草の草原の真ん中にいるような気がした。家に近づくと、どうやら湖の光の中心はこの家だったらしく、幾千の蛍が止まっているように光っている。
 二人は湖を何度も訪れた事はあったけれど、水が光ることなど一度も無かったし、こんな家を見るのも初めてだった。間違いなく、二人の為にここに用意されたものだ。
 二人は湖を何度も訪れた事はあったけれど、水が光ることなど一度も無かったし、こんな家を見るのも初めてだった。間違いなく、二人の為にここに用意されたものだ。
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== 1 ==
     1




「特別な物を見に来たんだろ?」
「特別なものを見に来たんだろ?」
 僕は真っ新な原稿用紙に向かって呟いた。
 僕は真っ新な原稿用紙に向かって呟いた。
「やめてくれよ。ここにはないんだ」
「やめてくれ。ここにはないんだ」
 静が、んーと唸りながら上体を起こして僕の肩に手を置き、どうしたの? と聞く。
 静が、んーと唸りながら上体を起こして僕の腿に手を置き、どうしたの? と聞く。
「何でもないよ」
「何でもないよ」
 と僕が言うとそっか、と言ってすぐにまた眠りに落ちた。彼女のずり落ちた毛布を掛け直すと、僕は外に出た。
 と僕が言うとそう、と言ってすぐにまた眠りに落ちた。彼女のずり落ちた毛布を掛け直すと、僕は外に出た。
 
 閑静な住宅地を抜けると、アーケード街だ。この先に行くと、すぐに駅に出る。僕は


     
     


== ⑵ ==
     ⑵
 
 
 
 
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== 2 ==
     2




212行目: 213行目:




== ⑼ ==
 
 
 
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 一室に入った。ドアが閉まると、雨の音は薄っすらとしか聞こえない。
「ちょっと奥入って、椅子に掛けてて」
 梢さんがそう言ったから、僕は濡れたままフローリングを歩いて暗いリビングに入った。カーテンは閉め切っていて電気も付いていない。
 梢さんは洗面所に寄ってからすぐにこちらに来た。
「ああもう電気でもつけたらいいのに」
 そう言ってパチっとボタンを押した梢さんだったが、やっぱり、いっか、と一人で言うとまた電気を消して、椅子に掛けた僕の肩に手を置いた。
「ははっ、びしょ濡れだね」
 梢さんはそう笑った。
 僕も真似して力なく笑うと、静かな一室に沈黙が生まれた。二人はそのまま、薄っすらと聞こえる雨音を共有した。
 
 
 
     ⑼




219行目: 245行目:




== 9 ==
     9




「知ってる? この世界がどうやって成り立ってるか」
「知ってる? この世界がどうやって成り立ってるか」
 梢さんは後ろから僕の裸の背中を抱いた。
 梢さんは濡れたまま、後ろから僕の裸の背中を抱いた。
「私は知ってるよ。君がなんて言って欲しいかまで、知ってる」
「私は知ってるよ。君がなんて言って欲しいかまで、知ってる」
 梢さんは僕の右の首筋にキスをして、僕はシーツを握り締めた。
 梢さんは僕の右の首筋にキスをして、僕はズボンを握り締めた。
「僕はなんて言って欲しいんですか?」
「僕はなんて言って欲しいんですか?」
「自分でわからないの?」
「自分でわからないの?」
「わかったら苦労しませんよ」
「わかったら苦労しませんよ」
「そう、不便なのね」
「そう、不便なのね」
 
 梢さんは立ち上がると、
 






「思ったよりも本気な話なんですね」
「思ったよりも本気な話なんですね」
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