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 きっと、社会は老いすぎた。いつの間にか、老いを受けいれ、尊重する余裕を、社会は失ってしまったのだ。膝に手を置いて立ち止まる。深いしわの刻まれた俺の手の甲に、感情の制御を失った涙が落ちてくる。ふと、人生は折り紙のようなものだ、と思う。しわの数だけ折り目が増える。折り目の数だけ形が出来る。たとえぐちゃぐちゃに潰されてしまっても、細く張り巡らされた折り目を見たら、その形が思い出せる。しかし、今や、折り目を愛する物好きは疎まれるばかりだ。
 きっと、社会は老いすぎた。いつの間にか、老いを受けいれ、尊重する余裕を、社会は失ってしまったのだ。膝に手を置いて立ち止まる。深いしわの刻まれた俺の手の甲に、感情の制御を失った涙が落ちてくる。ふと、人生は折り紙のようなものだ、と思う。しわの数だけ折り目が増える。折り目の数だけ形が出来る。たとえぐちゃぐちゃに潰されてしまっても、細く張り巡らされた折り目を見たら、その形が思い出せる。しかし、今や、折り目を愛する物好きは疎まれるばかりだ。
 大きく息を吸い、天を仰ぐと、すぐ近くに真っ黒な煙が上がっているのが見えた。俺は血の気が引くのを感じた。ほとんど最後の力を振り絞り、重い体を動かして、その方向に近づくにつれて、俺はその煙が祥子のいるアパートから立ち上がっているのを確信した。周りには逃げ出してきた他の住人が集まり、慌てて騒いでいる。近づいてくる俺の姿を見つけたらしい一人が、話しかけてきた。
「ああ、旦那さん、大変、祥子さんが……ちょ、ちょっと! 危ないですよ!」
 呼び止める声を無視して部屋のドアを開けた。その瞬間、体が痛いほどの熱気に包まれ、額から汗が噴き出した。祥子はリビングの真ん中で、目を閉じて倒れていた。部屋は、灰色のかすれた煙と、オレンジ色ののぼせるような光で満たされている。声にならない叫びが、喉からしみ出してくる。俺は膝を曲げて、祥子の目の前に倒れ込んだ。壁の全面から火の粉が舞い落ち、ばちばちと音を立てる。
 彼女の右手には、コードの抜けたアイロンが握られていた。そして、すぐ近くには、黒焦げになったぼろぼろの物体があった。それは、間違いなく、あの潰れた千羽鶴だった。
「あ、ああ、あ」
 俺は祥子のひんやりとした左手を両手で握りしめて、祈るように額に当てた。肺は痙攣したように、熱い空気を受けて咳き込む。視界の端から真っ暗になっていく。
 祥子はきっと、潰れてしまった折り鶴を作り直そうとしたのだろう。そして、彼女はアイロンがけのことを思い出したのだ。ぐちゃぐちゃになった折り紙のしわを取り、元のようにまっさらにしてから、やり直そうと思ったのだ。視界が散乱し、あらゆるものがぼやけて、重なりあう。俺があの時、怒りに任せて娘夫婦を追い出していなければ。俺があの時、祥子を置いて出ていかなければ。祥子の話に耳を傾けて、二人で折り鶴を作り直していたら。再び涙が止まらなくなった。
 家に帰りたい、と思った。祥子の介護のために、認知症の症状はよく調べていたが、それを自分に結び付けるのは難しかった。しかし、今、俺にも認知症の症状が出はじめていたことを、初めて悟った。どこにいても家に帰りたいと思ってしまう。服装がおかしい。自宅への道が分からない。娘の名前も、孫の名前も、思い出せない。
 薄れゆく意識の中、サイレンの音を聞いた。玄関から入ってくる人の気配がした。「もう大丈夫ですからね」と、二人がかりで俺を担ぎ上げた。俺はこれから、どうしたらいいのだろう。娘のことも、孫のことも、祥子の名前も、祥子のことも思い出せなくなったら、俺はどうしたらいいのだろう。そうしたら俺は、あの薬を飲むのだろうか。
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