「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/蝶を食べる」の版間の差分

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 彼女と目が合った。校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女は、微かに顔を引き攣らせ、僕の口からはみ出した翅を見ている。何か声をかけようかとも思ったけれど、いま口を開くと蝶が飛んでいってしまうから、仕方なく蝶の体を奥歯で丁寧に噛み潰す。細くて小さな命がぷちりと断たれる感触がする。次に翅を右手で口の中に押し込み、咀嚼する。まるで新聞紙を食べているようで、口の中が急速に乾いていく。何度も何度も噛んで、小さくしてから少しずつ呑み込んでいく。その間もずっと、彼女も僕の口の中の蝶をじっと見ている。展翅板にピンで留められた昆虫に似たところを僕は感じる。頬の内側に貼りついた翅の切れ端を苦労して舌でこそげ取って呑み下し、口元についた鱗粉を左手で拭い取って、ようやく話せるようになる。少し迷って、安直な問いを口にする。
 彼女と目が合った。校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女は、微かに顔を引き攣らせ、僕の口からはみ出した翅を見ている。何か声をかけようかとも思ったけれど、いま口を開くと蝶が飛んでいってしまうから、仕方なく蝶の体を奥歯で丁寧に噛み潰す。細くて小さな命がぷちりと断たれる感触がする。次に翅を右手で口の中に押し込み、咀嚼する。まるで新聞紙を食べているようで、口の中が急速に乾いていく。何度も何度も噛んで、小さくしてから少しずつ呑み込んでいく。その間もずっと、彼女は僕の口の中の蝶をじっと見ている。展翅板にピンで留められた昆虫に似たところを僕は感じる。頬の内側に貼りついた翅の切れ端を苦労して舌でこそげ取って呑み下し、口元についた鱗粉を左手で拭い取って、ようやく話せるようになる。少し迷って、安直な問いを口にする。


「こんなところで何してるの?」
「こんなところで何してるの?」


 彼女ははじめて視線を僕の口元から目に移した。
 彼女ははじめて視線を僕の口元から目へと移した。


「今の、何」
「今の、何」
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 翌日の朝には教室中の人が知っているものかと思っていたが、予想に反して、気味悪げな視線に囲まれることもなく自分の席にたどり着いた。いや、一つ。彼女は教室の反対側から横目で睨んできた。どの面下げて来たんだとでも言いたげで、彼女の目つきはきついなと僕は改めて思う。けれど彼女はすぐに目線を外し、女子たちの会話に戻っていく。僕はやや意外に思いながら鞄を下ろすと、後ろの席の友人と昨夜地上波放送された映画の話を始める。
 翌日の朝には教室中の人が知っているものかと思っていたが、予想に反して、気味悪げな視線に囲まれることもなく自分の席にたどり着いた。いや、一つ。彼女は教室の反対側から横目で睨んできた。どの面下げて来たんだとでも言いたげで、彼女の目つきはきついなと僕は改めて思う。けれど彼女はすぐに目線を外し、女子たちの会話に戻っていく。僕はやや意外に思いながら鞄を下ろすと、後ろの席の友人と昨夜地上波放送された映画の話を始める。


 放課後、空を舞う蝶たちを虫取り網を片手に見ていると、藪をざわめかせる風の音に交じって、草を踏みしめる足音が聞こえた。校舎の角を見ていると、彼女の姿が現れた。出し抜けに目が合って彼女はぱっと視線を逸らしたが、やがて意を決してこちらにずかずかと歩いてくる。非難するような、必要以上に攻撃的な目でしっかと僕の目を睨んでいる。その勢いに僕はいささか面食らう。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。僕の横に仁王立ちした彼女に、とりあえず昨日と同じ質問をする。
 放課後、空を舞う蝶たちを虫取り網を片手に見ていると、藪をざわめかせる風の音に交じって、草を踏みしめる足音が聞こえた。校舎の角を見ていると、彼女の姿が現れた。出し抜けに目が合って彼女はぱっと視線を逸らしたが、やがて意を決してこちらにずかずかと歩いてくる。非難するような、必要以上に攻撃的な目でしっかと僕の目を睨んできて、その勢いに僕はいささか面食らう。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。僕の横に仁王立ちした彼女に、とりあえず昨日と同じ質問をする。


「こんなところで何してるの?」
「こんなところで何してるの?」
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「これ、虫除け。使って」
「これ、虫除け。使って」


 差し出されたスプレー缶を、彼女は少ししてから受け取って、細い腕に吹きかけ始めた。
 差し出したスプレー缶を、彼女は少ししてから受け取って、細い腕に吹きかけ始めた。


 所在なくなった僕は、とりあえず藪の上の蝶を眺めてみたり、虫取り網を拾って玩んだりする。けれど沈黙に耐えられなくなって、彼女の質問の答えを探す。
 所在なくなった僕は、とりあえず藪の上の蝶を眺めてみたり、虫取り網を拾って玩んだりする。けれど沈黙に耐えられなくなって、彼女の質問の答えを探す。
175行目: 175行目:
「けど、普段は使わないものだから、あるテストのとき筆箱に鉛筆を入れてくるのを忘れちゃったんだよ。仕方ないしシャーペンで解けばいいんだけど、なまじ今までずっと続けてた習慣だから、今更やめたら何か悪いことがありそうな気がしてしょうがない。どうしようもないから、朝のショートホームルームが始まる前にコンビニまで走って鉛筆を買ったの。それを机に置いたときの安心感は今でも覚えてる」
「けど、普段は使わないものだから、あるテストのとき筆箱に鉛筆を入れてくるのを忘れちゃったんだよ。仕方ないしシャーペンで解けばいいんだけど、なまじ今までずっと続けてた習慣だから、今更やめたら何か悪いことがありそうな気がしてしょうがない。どうしようもないから、朝のショートホームルームが始まる前にコンビニまで走って鉛筆を買ったの。それを机に置いたときの安心感は今でも覚えてる」


 一度大きく息をつく。
 一度大きく息を継ぐ。


「蝶を食べるのはこのときに似てる。『やるべきだ』と透明な力が僕を動かしている感じがする。何かいいことがあるでもないとわかってはいるんだけど、だからといってやめる気にはならないというか」
「蝶を食べるのはこのときに似てる。『やるべきだ』と透明な力が僕を動かしている感じがする。何かいいことがあるでもないとわかってはいるんだけど、だからといってやめる気にはならないというか」
197行目: 197行目:
「とにかく、そういうわけ」
「とにかく、そういうわけ」


 低いところを飛んでいた紋白蝶をめがけ、網を振る。蝶は不規則な動きでひらりと避けるが、二度三度と網を切り返すと、プラスチックの輪に捉えられた。くるりと網を返して逃げられないようにしたら、網を手繰り寄せ、動けなくなった蝶の羽をそっと摘む。翅の小さな黒の斑点が指に隠れて見えなくなる。
 低いところを飛んでいた紋白蝶をめがけ、網を振る。蝶は不規則な動きでひらりと避けるが、二度三度と網を切り返すと、プラスチックの輪に捉えられた。くるりと網を返して逃げられないようにしたら、網を手繰り寄せ、動けなくなった蝶の羽をそっと摘まむ。翅の小さな黒の斑点が指に隠れて見えなくなる。


「ねえ」
「ねえ」
215行目: 215行目:
 その言葉に僕は虚をつかれる。彼女は探るような目で僕の瞳を覗き通している。たとえそうだとしても、と僕は気を取り直す。
 その言葉に僕は虚をつかれる。彼女は探るような目で僕の瞳を覗き通している。たとえそうだとしても、と僕は気を取り直す。


「そうだとしても、僕が蝶を食べることは変わらない」
「そうだとしても、僕が蝶を食べることに変わりはない」


 そして僕は蝶を口に運ぶ。
 そして僕は蝶を口に運ぶ。
259行目: 259行目:
「校門をくぐった辺りで前を歩くあんたを見つけたの。正面玄関の前でいきなり人の流れから外れてどこかに向かうんだもん。校舎裏に行くんだなってすぐわかったわよ。だからついてきたの」
「校門をくぐった辺りで前を歩くあんたを見つけたの。正面玄関の前でいきなり人の流れから外れてどこかに向かうんだもん。校舎裏に行くんだなってすぐわかったわよ。だからついてきたの」


「いつも登校してくるの早いのに、今日は随分遅かったんだね」
「いつもは登校してくるの早いのに、今日は随分遅かったんだね」


「今朝は普段より一本遅いバスに乗ったの。そしたら道は混んでるし信号はことごとく赤になるし、挙げ句の果てにはおばさんが降りるときに長々と両替し始めるの。あんなにあった信号待ちの間にやっておきなさいよって話」
「今朝は普段より一本遅いバスに乗ったの。そしたら道は混んでるし信号はことごとく赤になるし、挙げ句の果てにはおばさんが降りるときに長々と両替し始めるの。あんなにあった信号待ちの間にやっておきなさいよって話」
297行目: 297行目:
「ねえ、僕が言うのもなんだけど、戻らなくていいの?」
「ねえ、僕が言うのもなんだけど、戻らなくていいの?」


「今更急いでもね。それに、遅刻してきたやつがまだその辺を歩いてるかもしれないでしょ。わたしとあんたが仲良く校舎裏から出てくるのを目撃されたりしたら、どんな噂流されるかわからないわ」
「今更急いでもね。それに、遅刻してきたやつがまだその辺を歩いてるかもしれないでしょ。わたしとあんたが仲良く校舎裏から出てくるのを目撃されたりしたら、どんな噂が流れるかわからないわ」


「ふうん。じゃあショートホームルームが終わるまで待つの?」
「ふうん。じゃあショートホームルームが終わるまで待つの?」
311行目: 311行目:
「そういえば、僕が蝶を食べること、誰かに話さなかったの?」
「そういえば、僕が蝶を食べること、誰かに話さなかったの?」


 彼女は前に目を向けたまま頷いた。
 彼女は前を向いたまま頷いた。


「次の日にはクラスどころか、学校の全員が知っていて、『怪奇! 蝶食い男』ってネットニュースになってると思ってたのに」
「次の日にはクラスどころか、学校の全員が知っていて、『怪奇! 蝶食い男』ってネットニュースになってると思ってたのに」
317行目: 317行目:
「わたしを誰だと思ってんのよ」
「わたしを誰だと思ってんのよ」


「学校のネットワークを牛耳ってる裏番長」
「学校のネットワークを牛耳ってる裏番」


「面白くない冗談言わないの」
「面白くない冗談言わないの」
325行目: 325行目:
 彼女はため息をついて恨みがましく言った。
 彼女はため息をついて恨みがましく言った。


「わたしの気も知らないで……。突然友達が蝶々を食べているところを見せられてみなさいよ。この二日間、私が怪奇蝶男のためにどれだけ気を揉んだことか」
「わたしの気も知らないで……。突然友達が蝶々を食べているところを見せられてみなさいよ。この二日間、わたしが怪奇蝶男のためにどれだけ気を揉んだことか」


「その呼び名じゃあ、僕に蝶の翅が生えてるみたいだよ」
「その呼び名じゃあ、僕に蝶の翅が生えてるみたいだよ」
333行目: 333行目:
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。


「先生とかに相談するべきなのか、本人と話すべきなのか。他の人に言っていいのか、私の心の内に留めておくべきなのか。そもそもやめさせるべきことなのか……」
「先生とかに相談するべきなのか、本人と話すべきなのか。他の人に言っていいのか、わたしの心の内に留めておくべきなのか。そもそもやめさせるべきことなのか……」


「やめさせないっていう選択肢もあったの?」
「やめさせないっていう選択肢もあったの?」
419行目: 419行目:
 彼女は白く滑らかな喉をそっと上下させて、蝶を嚥下し、小さく震えた息をついた。唇には蝶の鱗粉がついていた。その姿は、まさに蝶のようで。
 彼女は白く滑らかな喉をそっと上下させて、蝶を嚥下し、小さく震えた息をついた。唇には蝶の鱗粉がついていた。その姿は、まさに蝶のようで。


 僕は彼女の唇に自分の唇を押しつけた。彼女は小さく声を洩らした。僕の柔らかいところに、さらに柔らかい彼女の唇があたっていて、ついていた鱗粉を舌で舐め取る。彼女の肩が跳ねる。口が開く。彼女の首は仰け反り、上を向く。左手で彼女の頭を押さえる。舌は彼女の口内に入り、前歯についた触角を、奥歯に詰まった翅の欠片を、頬と舌についた鱗粉を、拭い取る。唇を離すと、唾液の糸が引いて、やがて切れて、彼女の唇の端から垂れた。僕は彼女の口の中にあった蝶を飲み下した。彼女の髪は乱れて、肩は細かく震えて、体からは力が抜けていて、目はぼうっと僕を見ていて、僕はどきりとした。
 僕は彼女の唇に自分の唇を押しつけた。彼女は小さく声を洩らした。僕の柔らかいところに、さらに柔らかい彼女の唇があたっていて、ついていた鱗粉を舌で舐め取る。彼女の肩が跳ねる。口が開く。彼女の首は仰け反り、上を向く。左手で彼女の頭を押さえる。舌は彼女の口内に入り、前歯についた触角を、奥歯に詰まった翅の欠片を、頬と舌についた鱗粉を、拭い取る。唇を離すと、唾液の糸が引いて、やがて切れて、彼女の唇の端から垂れた。僕は彼女の口の中にあった蝶の痕跡を飲み下した。彼女の髪は乱れて、肩は細かく震えて、体からは力が抜けていて、目はぼうっと僕を見ていて、僕はどきりとした。


 彼女は我に返ったように口元を拭いて、僕は慌てて左手を離した。目の前で向かい合って地べたにへたり込んで、僕らは互いに顔を赤くしあって、目を逸らしあっていた。どこかで鳥が鳴くのが聞こえた。
 彼女は我に返ったように口元を拭いて、僕は慌てて左手を離した。目の前で向かい合って地べたにへたり込んで、僕らは互いに顔を赤くしあって、目を逸らしあっていた。どこかで鳥が鳴くのが聞こえた。
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