「利用者:芯/サンドボックス/2/イ」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
50行目: 50行目:


日本語や中国語などでは原則「共和国」にあたる部分を省略せず、「'''アンモク共和国'''」「'''俺孟共和国'''」「'''俺国'''」のように表すのが普通である。ただし「歴史区分その他を超越した『アンモク』という概念一般であることを表したい場合<ref group="†">「アンモク民族」「[[アンモク語]]」「アンモクは本質的に素晴らしい国だ」などがこれにあたる。</ref>」「アンモク共和国の土地について言う場合<ref group="†">「アンモクは面積広く人口少なし」などがこれにあたる。</ref>」「『アンモク共和国』という言葉そのものを、第四モーラ<ref group="†">シラビーム方言では第三モーラである。</ref>まで言いかけてやめた、ということを描写したい場合<ref group="†">(小説で)「『アンモク……、じゃなくてイラン・イスラム共和国だよ』と彼女はやや焦った様子だった。」などがこれにあたる。</ref>」を除く。
日本語や中国語などでは原則「共和国」にあたる部分を省略せず、「'''アンモク共和国'''」「'''俺孟共和国'''」「'''俺国'''」のように表すのが普通である。ただし「歴史区分その他を超越した『アンモク』という概念一般であることを表したい場合<ref group="†">「アンモク民族」「[[アンモク語]]」「アンモクは本質的に素晴らしい国だ」などがこれにあたる。</ref>」「アンモク共和国の土地について言う場合<ref group="†">「アンモクは面積広く人口少なし」などがこれにあたる。</ref>」「『アンモク共和国』という言葉そのものを、第四モーラ<ref group="†">シラビーム方言では第三モーラである。</ref>まで言いかけてやめた、ということを描写したい場合<ref group="†">(小説で)「『アンモク……、じゃなくてイラン・イスラム共和国だよ』と彼女はやや焦った様子だった。」などがこれにあたる。</ref>」を除く。


"Angmogh" という名称の由来は定かでない。ただ、このアルファベット表記も、そこから推測される発音も、実際にはドイツ人が「見出した」ものに過ぎないため、「"Angmogh" という綴りや発音に由来は無い(ただし必然性がある)」と言われることが多い<ref group="†">この議論は「ドイツ人のその『見出し方』が一定の規則を持つ可能性はある」という反論を免れるものではない。</ref>。
"Angmogh" という名称の由来は定かでない。ただ、このアルファベット表記も、そこから推測される発音も、実際にはドイツ人が「見出した」ものに過ぎないため、「"Angmogh" という綴りや発音に由来は無い(ただし必然性がある)」と言われることが多い<ref group="†">この議論は「ドイツ人のその『見出し方』が一定の規則を持つ可能性はある」という反論を免れるものではない。</ref>。
196行目: 195行目:
ほどなくしてエドワードは議事堂の跡地にもう一度議事堂を作り、議員を自分のみにしてほぼ思い通りの議決を出したり<ref group="†">「ほぼ」としたのは、国民に円周率314桁の暗記を強制させる旨の法案を1314年1月5日午前9時に可決するという洒落たことをやりたかったのに、当日に風邪をひいて議会を欠席してしまうなどの出来事があったためである。</ref>、人々を集めて何度か演説をしたりした。この独裁は、1352年に彼が死ぬまで続いた。
ほどなくしてエドワードは議事堂の跡地にもう一度議事堂を作り、議員を自分のみにしてほぼ思い通りの議決を出したり<ref group="†">「ほぼ」としたのは、国民に円周率314桁の暗記を強制させる旨の法案を1314年1月5日午前9時に可決するという洒落たことをやりたかったのに、当日に風邪をひいて議会を欠席してしまうなどの出来事があったためである。</ref>、人々を集めて何度か演説をしたりした。この独裁は、1352年に彼が死ぬまで続いた。


39年間にも及んだこの独裁体制下での出来事のうち最も印象的なのは、恐らく1329年の'''41アパーラ令'''発布・施行である。41の「アパーラ」(エドワードの国の言語で「してはならないこと」の意)を定めた法令で、この体制においては強力な拘束力を持つものとされた。違反者は死刑が原則であった。「秩序を守るため」と取れる規則もあるが、曖昧な思想に基づいていたり、ほとんど起こり得ない状況に対して規定していたりなど、いわば「拙い」ものが多い。具体的には、以下の事項が禁止された。
39年間にも及んだこの独裁体制下での出来事のうち最も印象的なのは、恐らく1329年の'''41アパーラ令'''発布・施行である。41の「アパーラ」(エドワードの国の言語で「してはならないこと」の意)を定めた法令で、この体制においては強力な拘束力を持つものとされた。違反者は死刑が原則だった。ただ、アンモク共和国で正義を実現するためとも、あるいは独裁者として堂々と私欲を満たすためとも思えない、いわば「中途半端な」規則が目立つ。具体的には、以下の事項が禁止された。
{| class="mw-collapsible mw-collapsed"
{| class="mw-collapsible mw-collapsed"
|+'''41アパーラ令に定められた禁止事項'''
|+'''41アパーラ令に定められた禁止事項'''
242行目: 241行目:
#以上40の規則を破ってはならない。
#以上40の規則を破ってはならない。
|}
|}
この法令の施行後、エドワードは行政に法務部を設置し、自ら長官となった。
この法令の施行直後、エドワードは行政に法務部を設置し、自ら長官となった。


部下が一人も居なかったのにもかかわらず、業務は甚だ楽であった。アンモク共和国が当時から人口の少なかったこともあってか、41アパーラ令違反は2年か3年に一度くらいしか発生しなかったからである。
部下が一人も居なかったのにもかかわらず、業務は甚だ楽であった。アンモク共和国が当時から人口の少なかったこともあってか、41アパーラ令違反は2年か3年に一度くらいしか発生しなかったからである。


41アパーラ令の第3、4、27条は'''老人三法'''と総称されていたが、幸か不幸か人々は老人に危害を加えてばかりいたので、法務部の仕事はほとんど老人三法に限定されていた<ref group="†">このことから、当時の法務部は「老人法務」と呼ばれていた。</ref>。エドワードは幼いころから目の前の人間が老人に危害を加えたかどうかを判別する能力に長けていたが、さらに法務部長官として経験を積むことでその技量は上達し、業務はより迅速に、より容易になっていった。
41アパーラ令の第3、4、27条は'''「老人三法」'''と総称されていたが、幸か不幸か、人々は老人に危害を加えてばかりいたので、法務部の仕事はほとんど老人三法に関するものに限定されていた<ref group="†">このことから、当時の法務部は「老人法務」と呼ばれていた。</ref>。エドワードは幼いころから目の前の人間が老人に危害を加えたかどうかを判別する能力に長けていたようだが、さらに法務部長官として経験を積むことでその技量は上達し、業務はより迅速に、より容易になっていった。
 
41アパーラ令施行からおよそ23年後の1852年12月30日、エドワードは、机の引き出しに枕を7つ入れていた529歳の女性を第30条を根拠に逮捕・処刑した。その日の晩、眠りにつく直前に彼が気づいたこととは、自分が老人を殺してしまったということである。律儀で愚鈍なエドワードは翌日の正午ごろ、第27条を根拠に自らを逮捕し、絞首刑の代わりとして服毒自殺した。


41アパーラ令施行からおよそ23年後、1852年の大晦日に彼は自殺した。机の引き出しに枕を7つ入れた老人を有罪として死刑に処したためで、自ら第27条違反となった
彼が自殺したことはその日のうちに国民全員に知れ渡り、人々は前議長の[[ミトシ・ハヤカワ]]を議長に再任させ、これが独裁体制の事実上の崩壊となった。


==地理==
==地理==
3,270

回編集