年の瀬。あさましい。すずらすずら。伝説投票。私が第2回伝説の記事に他薦させていただく記事は、この通りNotorious作「叙述トリック」です。言わずもがな、理由はこれに尽きます――圧倒的な完成度です。この記事には、WikiWikiという全世界を包含するコンテンツにおいてさえその記事名を冠するに足る、いやむしろ有り余るような高品質の叙述トリックが、それも二重に仕掛けられているのですから。
この記事を開いた初見の読者がまず目にする事になるのは、当然ながらその記事名「叙述トリック」です。そして視線を下に向けると、何やら会話文が連なっているらしい。物語形式の記事だろうか。読者はここで既に、「この記事のストーリーには叙述トリックがある」ことに気づかざるを得ません。――Notorious氏の本作についての草子「叙述トリックについて」の余談部分にもありますが、ふつう何か叙述トリックの用いられる文章について、これに「叙述トリックものである」と言及することは、悪魔の所業とみなされます。なぜなら、Notorious氏によるところの「感覚的伏線」は、読者の無意識のうちの誤認識を操作して作り出すものだからです。読者が自身の先入観に極めて敏感になれば、時にそれは脆く崩れ去ってしまうのですから。
しかし「叙述トリック」は、文字列の並ぶいの一番に、再帰的叙述トリック匂わせを発生させています。記事名をタイピングする度に、ひしひしと感じられる大胆さ。この記事名はきっと、Notorious氏から読者への挑戦状なのでしょう。裏を返せば、同氏はこの記事を読む人が「薄々わかっていても想像を超えられた時の感覚」を抱くと確信しているということです。――しかし何より恐ろしいのは、このビッグマウスも、彼のウルトラビッグ叙述トリックパワーに比べると相対的に小さく見えてしまうということでしょう。
物語は、「タケ」の視点で述べられる「起」「承」「転」「結」と、その間に入る小島健児の回想、「序」「破」「急」とで構成されます。回想で示されるのは日常の謎。「破」における記述によると、プリンを食べることが可能である人間は存在しないはずですから、読者は「自分は何か騙されているに違いない」と、叙述トリックを見破るため奔走するわけです。
その成否はさておき、「急」で犯人は判明し、その次の「結」で種明かしが行われます。用いられていた緻密な叙述トリックは、「兄が二人いること」でした。ドアの開き方の差異から、論理が鮮やかに展開していく。なるほどこれが伏線だったか、いやあ素晴らしい記事だった――
終わりの六行。もう一つの「隠された」叙述トリック。「タケ」もとい山田たけし。彼ら愉快な男四人は、服役中の囚人だったのです。
――「トラブルを起こして大学を退学になり」「誰が進んで野郎共と一つ屋根の下で住むものか。」「給料は信じられないほど少ない。」「あの仕事を目指そうかしら。まあ無理か。」「もしそうなら、彼女さん、小島さんに相当入れ込んでるんすね」「こんな底辺の暮らし」「僕らは季節に関係なく9時には寝る。」――などなど。伏線のバーゲンセールだあ!!!
思えば「転」では、「意味なし叙述」についての言及がありました。先述の物語の二重構造という点にしてみてもそうです。この記事の中で使われている伏線には、個々の叙述トリックに対応する「回想の中の論理的伏線」「たけし視点の感覚的伏線」の二つのみならず、「ダブル叙述トリック匂わせ伏線」というメタなものまで存在していたのです。
この通り、いや私などにその素晴らしさが語りつくせるなどとは思っていませんが、この記事が圧倒的な完成度を持っているということには頷いていただけたでしょう。このような素晴らしい二つの叙述トリックを、華麗な構成で一つの記事にしてしまう、Notorious氏の脳の容積は何キロリットルなのでしょうか? これが「伝説の記事」でないのなら、いったい「伝説の記事」とは何なのでしょうか?
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