利用者:Notorious/サンドボックス/コンテスト
頬に、固く冷たい感触。四肢にも、冷たさを感じる。胸に体重がかかっており、呼吸が少し苦しい。そう思うと、みるみるうちに息のしづらさが強く感じられるようになって、意識が覚醒した。
とにかく僕は床でうつ伏せになっているのだろう。交番の仮眠室のベッドから転がり落ちたのか、あるいは寮の床でつい寝落ちてしまったのか。しかし、開けた目に入ってきた景色は、それらの予想が現実と違っていることを雄弁に語っていた。塵一つ落ちていない、真っ白な床。交番でも寮の自室でもない、見覚えのない風景だ。
両手を床につけ、腕立て伏せの要領で身を起こした。伸ばしきっていた脚を畳み、その場に胡座をかく。視点が高くなったことで、周りがより見えるようになった。正面には、床と同じく白い壁がそり立っている。そして、壁には細い切れ目が入っている。それはまっすぐ上に走り、直角に曲がって床と平行になり、今度は真下へと伸び、壁を四角く切り取っている。その長方形の中には、何か小さな丸いものが……。
ドアか。すぐには気づけなかったのは、理由があった。大きいのだ。ドアの上辺は天井間際にあり、床から5メートルほどの高さにある。天井もそれほど高いのだ。それに、ノブがない。しかし、ドアの上辺ギリギリに位置している何か。ノブにしては小さすぎるようだが、あれは……。
「起きたか、佐藤」
はっと後ろを振り向くと、先輩巡査の権田が座っているのに気づいた。壁に備え付けられた腰掛けのようなものがあるらしい。多くのチンピラを投げ飛ばしてきた、鍛え上げた体軀をずしりと構えている。しかし、心なしか迫力が減ったような気がした。すぐにその原因に気づく。権田は警察官の制服のシャツとズボンを着けている。だが、帽子やベスト、ネクタイまでもが見当たらない。もちろん、警棒や拳銃を入れたホルスターもない。いつもの制服姿でないから、些か威厳に欠けて見えるのだ。
そこまで考えて、自分の服装も似たり寄ったりなことに気づいた。業務中にこんな服装となることはない。下手をすれば懲戒ものだ。いや、そもそも仕事中ではないのか? ならなぜ権田と共にいるのだ? いや待て、そんなことより。ようやく、もっと早くに浮かんでいてしかるべき疑問が、奔流となって僕の脳に襲いかかってきた。僕はそんな数多の疑問符をまとめて、とりあえずそこにいる権田にぶつけてみた。
「先輩、これってどういう状況ですか?」
返ってきた答えは、そっけないものだった。
「知らん」
* * * |
「佐藤、地下のパブに行ったことは覚えてるか?」
そう言われて、急激に記憶が蘇ってきた。今の今まで忘れていたのが信じられないくらい、鮮明に。
人身売買の拠点となっているパブがある。そういう匿名の通報を受けて、権田と僕は件のパブへと向かった。昼の2時ごろだった。通報の信憑性には疑問が残っていたため、あくまで警邏の一環として行った。交番の所轄範囲にパブはあったため、通常のパトロールという建前が使えたのだ。
しかし、地下に降りてパブに入った瞬間、僕たちは屈強な男たちに襲われた。警棒を抜く間もなく、目出し帽を被った男たちに、口に布を押しつけられた。どうやら薬が染みていたらしく、僕はすぐに意識を失ってしまった。おそらく権田も同じだろう。いくら逮捕術や柔道を心得た警察官といえど、多勢に不意打ちされたのでは、勝ち目はなかった。
「ミイラ取りがミイラになってしまうとは……。もっと警戒しておくべきだった、くそっ」
だが、権田は僕みたいに責任逃れできないらしい。
「パブの奴らが、僕らを拐ってここに連れてきたってことですかね」
「それが妥当な解釈だろうな。ただし、連れてきただけじゃない。閉じ込めたんだ」
権田がここに座して待っている以上、薄々そうではないかと思っていた。しかし、明確に突きつけられると、やはり衝撃を受けた。まだ、心のどこかに、事態を楽観していた自分がいたのだろう。僕は誘拐監禁事件の被害者となったのだ。
まずは、大声を上げてみた。
「おーい!」
「誰かいませんかあ!」
何の返答も得られないまま5分ほど経ち、この試みはいたずらに喉を痛めただけだった。外を偶然通りがかった市民とはいかずとも、せめて犯人側からの説明だけでもあって欲しかった。自分たちが何のためにこんなところにいるのかわからないというのは、かなり不安にさせられる。
とりあえず状況を把握しようということになった。権田はいち早く目覚めて少しこの部屋の探検もしたようだが、全貌を把握するには至っていないとのこと。
まずは自分たちのことから。着ている衣服は、下着とシャツとズボンくらい。靴下すら履いていなかった。持ち物もほとんどない。ズボンのポケットに入れていたハンカチはあったが、腕時計は消えていた。体にも不調や違和感はない。怪しい番号を彫られたり、知らぬ間に臓器を摘出されたりはしていないようだ。だが、服を脱いで隅々までチェックするわけにはいかないから、鼠蹊部にICチップを埋め込まれたりしている可能性は拭えない。後で見てみよう。とにかく、ほとんどの所持品や衣服が奪われていることがわかった。携帯や無線ももちろん無いから、外部と連絡を取る術がない。
次に、この部屋だ。広さは十畳くらいあるだろうか。床も壁も天井も真っ白で、清潔さを感じる。そして、異様に天井が高い。やはり5、6メートルはあるだろうか。もっとも、白一色だから目測が取りづらい。調度は、天井のライトと、権田が腰掛けていたベッドのみ。ベッドは飛び出た壁にマットレスを乗せただけのようで、枕も掛け布団も無い。ただし、そこそこ大きい。クイーンベッドくらいの広さはある。壁の一部であるから、権田がベッドを動かそうとしても、叶わなかった。マットレスを剥がそうともしたが、ベッドに固定されているらしく、これもできなかった。
部屋の床の端には、幅10センチほどの排水溝が、部屋の四囲を取り囲むにして設置されていた。穴の開いた金属の蓋が嵌まっている、プールサイドなんかにあるタイプのもの。蓋を外せないか試してみたが、素手では到底できそうになかった。この部屋に水気はないのに、排水溝に何の必要性があるのだろう。
僕らはいよいよ、壁にあるドアに目を向けた。この部屋には、僕が起きてすぐ見つけたものとは別に、もう一つドアがある。こちらは高さも普通でレバーもついている。権田によれば、その奥にはまた別の部屋があったらしい。まず、僕らはそのドアの奥を調べることにした。謎のドアを後回しにしたのは、閉じ込められているという事実に向き合うのを、遅らせたかっただけかもしれなかったが。
普通のドアのところへ行き、レバーを下ろして引く。ドアは、滑らかに内へと開いた。何の変哲もない挙動。そこは、小さな部屋だった。何もない。ただの空間。その向こうには、同じようなドアがまたある。戸惑いながらも、部屋を渡ってそのドアを開ける。今度は外開きだった。
ドアの向こうは、今までより天井がぐっと低くなっていた。とはいえ、2メートル半くらいだから、普通の高さなのだが。どうやら、廊下のようだった。僕が先頭を切り、その後を権田が続く。
細長い廊下の中途。左右に向かい合うようにしてドアがあり、突き当たりにもう一つドアがある。僕は廊下を進み、右にあるドアを押し開いた。
そこは、トイレだった。入ると、人感センサーで勝手に電気がつく。和式便座が一つと、壁に据え付けられた陶器の手洗い場。そして、便器の横に、もう一つ水槽がある。何に使うのだろう? トイレは概して清潔で、逆に違和感があるくらいだ。ただし、窓といった外への開口部は無い。
トイレを出て、今度は向かいのドアを開ける。こっちは、脱衣所だった。とはいえ、これも備え付けの棚があるだけだ。横にあるスライドドアを開けると、やはり風呂があった。シャワーと浴槽がある。シャンプーの類もあるらしい。寮の風呂より広い。本当に僕らは監禁されているんだろうかと、疑問に思ってしまう。
僕らは風呂を出て、廊下の突き当たりへと向かった。そこにあるドアを開く。その部屋は、広い倉庫だった。今までのどの部屋よりも広く、警察学校の教練場くらい広いんじゃないだろうか。そして、倉庫の中には所狭しと大量のものが積み上がっている。近寄って手にとってみると、それは瓶だった。ずしりと重い。権田が、一本の瓶の蓋を開けていた。匂いを嗅ぎ、それを口に運び、
「水だ」
と言ってまた呷った。権田の喉がごくごくと動くのを見て、自分の喉がカラカラであることに気づく。僕も持った瓶の蓋をひねり、中身を飲んだ。ところが、予想外の塩味がして、思わず噎せる。
「大丈夫か佐藤!」
「ゴホッ、ええ、ちょっと驚いただけです。中が水じゃなかったみたいで。毒とかではないみたいなんで安心してください、先輩」
これは何だろうか? もう一度、入っている液体を口に含んでみる。ドロドロした舌触り、ほのかな塩味、薄い黄土色。
「流動食だ」
「何?」
「祖父の介護で、見たことがあるんです。ちょうどこんな感じでした。味も悪くはないですよ」
空腹を覚えていたので、そのまま一本飲み干してしまう。権田も、おっかなびっくり口に運んでいた。
腹ごなしが済むと、倉庫内の調査に取りかかった。手分けして積み上がった瓶を精査していく。ほどなく、水と流動食の二種類の瓶があることがわかった。それらは一応場所が分かれていて、区別がつくことがわかった。一方、どの瓶にもラベルの類は無い。僕は、瓶の山に分け入って、数着の着替えと三つの救急箱を見つけた。権田は、缶詰の一角と四本の缶切り、それから何本かのボディーソープなどのボトルを発見した。
それは、捜索開始から30分ほど経ったときだった。僕は瓶の山の反対側へぐるりと回った。すると、床に何かが落ちているのが見えた。いや、置かれていたのかもしれない。ぽっかりと空いた一角の床に、それは無造作に置かれていた。それを拾い上げ、僕は思わず叫んだ。
「先輩、鍵です! 鍵がありました!」
権田は、瓶を倒しながらすっ飛んできた。僕の手の中にある鍵をまじまじと見つめる。その大きくごつごつした鍵はプラスチック製で、立派な門の鍵のような風体だった。この奇妙な建造物の中に鍵が必要となる場所があるとすれば、一つしかないだろう。
僕らは倉庫の捜索を打ち切り、最初の部屋に駆け戻った。
* * * |
最後に残った、調べるべき場所。謎のドアの前で、僕は権田を肩車していた。排水溝の上に立ち、権田の太腿を抱えている。
「届きます?」
「全然だ。佐藤、肩の上に立たせろ」
「えっ?」
止める間もなく、権田は僕の頭を持って体を安定させながら、器用に立ち上がる。僕の両肩に、先輩の裸足が乗っている。僕はドアに手をついて体を支えた。
「うーん、まだまだ足りないな。よし、下りるぞ」
権田は意外と軽い身のこなしで、ひょいと床に飛び降りた。こっちがヒヤヒヤする。
倉庫で鍵を見つけた僕らは、この部屋に戻り、ドアに対峙した。目を凝らすと、天井付近にあるのが鍵穴であることがわかった。約5メートル上方。なんとか鍵穴に手が届かないかと頑張ってみたが、到底高さが足りない。鍵はあるのに、それを挿して回せない。僕は深い落胆に包まれた。
「おい、落ち込んでじゃねえ。ドアを破れないか試してみるぞ」
権田はドアの前で仁王立ちして言った。僕は慌てて立ち上がり、権田に並ぶ。せーのでドアに肩から体当たりした。鈍い音が響く。何度も並んでタックルを繰り返す。
2分後、僕らは肩を押さえて床に倒れていた。ドアは1ミリだって揺らぎもしない。破るなんて、到底できそうもなかった。
「……先輩、倉庫から救急箱取ってきます」
「おう……」
僕は痛む肩を押さえて倉庫へと歩いた。さっき見つけた救急箱を一つ持ち、ついでに水の瓶も一本掴み、引き返す。倉庫を出て、廊下を渡って、小部屋へと入ったときだった。ぐんと横に手が引っ張られ、耐えきれずにその場に倒れる。続いて、ゴンッという衝撃音。すぐに小部屋の向こうのドアが開き、権田が現れた。
「大丈夫か、何があった⁈」
倒れた僕に駆け寄ってくる。しかし、僕は横の壁をぼんやりと見遣っていた。僕の視線を追って、権田がそれに気づいた。
「ありゃあ……どうなってんだ?」
壁に、瓶と救急箱がくっついていた。僕の手を離れて真横にすっ飛んだそれらは、その高さのまま壁にぶつかって床に落ちていない。
権田が壁の瓶を掴み、壁から引き離そうとしたが、全く離れない。僕も立ち上がって加勢したが、結果は変わらなかった。救急箱も、言わずもがなである。
「磁力か……」
「何?」
「この小部屋の壁が、磁石になっているんです。相当な磁力の強さですから、電磁石だと思います」
「救急箱と瓶は鉄でできているから、引き寄せられたってことか。だが、何のためにこんな仕掛けがされているんだ?」
「さあ……」
仕方がないから、くっついたものはそのままにして、僕らは倉庫へと向かった。別の救急箱を開き、湿布を取り出して各々肩に貼る。
「包帯に絆創膏、止血帯、薬も多い……。大抵の怪我や病気なら、対処できるな」
水の瓶をらっぱ飲みしながら、権田が言った。この先輩は医者の家の出身で、医療知識がそれなりにある。
水を飲むと尿意を催したので、僕は一言断ってトイレに行った。小便を済ませると、水を流して手を洗う。水を流すと、傍らの謎の水槽の水も流れた。ともあれ、水道はちゃんと通っているようだ。その時、ふと気がついた。トイレットペーパーが無いのだ。そういえば、倉庫にも見当たらなかったはず。狭いトイレ内を探すと、先端にスポンジのついた鉄の棒を見つけた。僕の脳裏に、古代ローマを舞台とした映画の、トイレのシーンが思い浮かぶ。確か、海綿が先についた棒で汚れを拭き取っていたような……。まさか、これがトイレットペーパーの代わりなのか。ちょっと不衛生だろう。便意を覚えるまでに、ここを脱出できればいいんだが。
僕はトイレを後にし、倉庫へ戻った。すると、倉庫が先程より少し暗くなった気がした。その旨を権田に伝えると、
「そうか? 一度ここを離れたから、わかるのかもしれないな」
「外の日照サイクルに合わせてるのかもしれないですね」
「そういや、室温もコントロールされてるみたいだな」
「ええ。全館空調ってやつでしょうか」
「ここはかなりの金がかかってるな」
「この倉庫内の水と食料だけでも、かなりの量がありますからね」
「まあそれだけの金があるから、人攫いなんてできるんだろうがな。そうだ、汗をかいたから、先に風呂に入ってきてもいいか?」
「あ、はい。まるでホテルみたいですね」
「こんなホテルごめんだよ」
苦笑した権田は、倉庫の隅から自分の着替えを取って、風呂へと向かった。僕は倉庫に寝そべり、物思いに沈んだ。
一体ここはどこなのか? 僕らを拐ったのは誰なのか? 目的は? いつか解放されるのか?
しばらくして、権田が風呂から出てきた。濡れた髪をタオルで拭いている。備えつけのタオルがあったようだ。
「洗濯機は無いから、自分たちで洗濯しないといけないな」
「風呂とかの水を使って洗えばいいですかね」
「そうだな。干すときは部屋干しするしかないか」
「その前にここから出られるといいですね」
「ははっ、そうだったな」
僕は権田と入れ替わるようにして風呂に向かった。脱衣所で服を脱ぐと、権田の脱いだ服が棚にまとめて置かれていたから、その横に離して自分の服を置く。スライドドアを開いて風呂に入った。シャワーをひねると、さっきまで権田が使っていたからか、いきなり温水が出た。温かい湯を全身に浴びると、強ばった筋肉がほぐれていく。監禁されているというのに、こうして温かいシャワーを浴びていると、リラックスして安心すら覚えてくるのだから、呑気というか能天気というか。
風呂の中に、椅子や風呂桶は無かった。ボディソープやシャンプーを使おうとして気づいたが、ボトルが重い。これも鉄製だろうか。おそらく倉庫にあったものも同じなのだろう。中身は至って普通のようだ。小さな剃刀もあったので、それで髭を剃る。この剃刀も鉄製なのか、大きさの割に重量がある。髭の伸び方からして、地下のパブで拐われてから一日は経っていないようだ。
欲を言えば湯舟につかりたかったが、今日はやめておこう。そう考えてから、ここに明日以降もいることを想定している自分に気づき、驚いた。ここが安全な場所とはまだ限らないのだ。気分を変えるために顔に湯をかけ、僕は風呂から出た。棚の隅にタオルが一本あったので、それで体を拭く。倉庫から持ってきた着替えは、誰も袖を通していない新品らしく、心地良い肌触りだった。薄いTシャツとトレーニングパンツ。何となく外部から助けがくることはないと思っていたが、もし今助けが来たら、くつろいでいるようにしか見えないだろうな、と一人苦笑する。
廊下に出ると、風呂のドアが開いた音を聞きつけたのか、権田が小部屋から手招きしていた。小部屋を通り抜けるときは緊張したが、今度は何ともなく通過できた。着替えの服に鉄は無いようだ。
最初の部屋に戻ると、権田はベッドの上に胡座をかいた。僕は固辞したが、結局権田の薦めを断れず、ベッドの反対端に腰掛ける。
「佐藤、状況の把握は終わった。だから、次は検討に移ろう」
「検討、というと?」
「もちろん、脱出方法の検討だ」
こうして、囚われた二人のディスカッションが始まった。
* * * |
「まずは脱出ルートを考えよう。最初に浮かぶのは、あのドアだよな」
「あそこだけ鍵が掛かっているし、いかにもって感じですよね」
「ああ。だが、あのドアが外に通じているという確証はない。ひょっとしたら、また別の部屋が待っているだけかもしれないしな」
「でも、あのドアを開けられれば、活動範囲が広がります。奥に何が待っていようと、突破口となるのは間違いないでしょう」
権田は深く頷いた。
「ドア以外のルート、たとえば壁や天井を破るというのも、あまり現実的な方法じゃないからな」
「排水溝はどうです?」
「人が通るのはまず無理。他の何か、メッセージを書いた物を流す、とかはどうだろう」
「自分で提案しておいてなんですが、厳しいでしょうね。水道管に詰まらないサイズの物となると、だいぶ限られてきます。そもそもメッセージを書く筆記具なんて無いですし。服の切れ端とかの遺留品を流しても、見つかってここが特定される蓋然性はほぼゼロでしょう」
「なら、やはり脱出ルートはあのドアに限られるか」
件のドアを見上げ、僕は歯噛みした。鍵はある。鍵穴もある。ただ一つ、高さだけが足りない。
「約5メートル……。肩車程度じゃ届かないのは実証済み。僕も権田先輩も、腕をまっすぐ伸ばしても2メートルくらいの高さしかない。単純に二人が積み上がっても、まだ1メートルくらい足りないですね」
「たった1メートルなんだがな……。まず浮かぶのは、踏み台を用意することだよな」
「ええ。でも……」
1メートルの足場。それが簡単に用意できれば、今こんなふうに呻吟していない。
「この部屋にあるのは、ベッドくらいか。でも、ドアからは離れているし、動かせもしない」
「倉庫には、文字通り食料の山がありますけど……」
「鉄の瓶や缶は小部屋を通せない。山はあるのに、その山をドアの前まで移せないんだよな」
小部屋の磁力のバリアの強さは、身をもって味わった。あのバリアがある限り、缶詰一つだってこの部屋に持ち込めない。あの小部屋は、この部屋に物を移させないためにあるのだ。
「向こうにある物には、徹底して鉄が使われている。食料、ボトル、缶切り、剃刀、トイレのスポンジ……。どれも踏み台には使えない。鉄でない物は、ほとんど固定されてしまっているし」
「陶器の便座を砕くってのはどうです?」
「おっ、いいな。でも和式だからな……。綺麗に砕ければ10センチくらい稼げるかもな」
1メートルの壁が、途方もなく高い。
「でも先輩、使える物はそれだけじゃありませんよ。たとえば、服やタオルです」
権田はうーんと唸った。
「しかし布だからなあ。折り畳んでも、大して高さは稼げない。全部の服とタオル、それからシーツも使っても、30センチ稼げるかどうかってところだな」
他に何か使える物はなかっただろうか。必死に考えて、一つ思いついた。
「瓶や缶は鉄でも、中身は違います。中身だけ取り出してここに持ってくれば、いくら流動食とは言っても、ある程度の体積は……」
そこまで言って気づいた。
「排水溝……」
「ああ。ドアの真下には排水溝がある。流動食を積み上げるのは、まず不可能だろうな」
暗い顔で権田は続ける。
「排水溝の役割はそれだけじゃない。排水溝がなければ、風呂かトイレの水道を使ってこの部屋を水没させるという荒業が使えるんだ。天井ギリギリまで水位を上げ、泳いで水面近くの鍵穴まで到達するんだ。でも、排水溝があるおかげで、絵に描いた餅だよ」
「……どうにかして、排水溝を塞げませんかね?」
「厳しいだろうな。排水溝の面積は、大雑把に計算すると、10センチかける4メートルかける4ってところだ。さっき確認した通り、この部屋に持ち込める物は少ない。到底この面積を覆うことはできないだろうな」
もっと、他に使える物はないだろうか? しばし黙考するが、浮かばない。権田が停滞した空気を切り替えるように言った。
「踏み台戦法は一時凍結だ。発想を変えて、ドアの鍵を開ける方法を考えよう」
「うーん、床から5メートルだから遠いんですよね。天井からはちょっとなんだから、天井から吊り下がるってのはどうです?」
「うん、いい視点の変え方だな。だが……」
僕らは同時に天井を見上げた。目覚めたときよりまあまあ光量を落とした電灯は、天井に埋め込まれている。天井はつるりと滑らかで、何かが引っかかるような突起は全くない。
「まだだ。小部屋のドアは外開き。あれを開けて登れば、鍵穴に届くかも……」
ベッドを飛び降りて、権田は小部屋のドアを開け、すぐに閉めてすごすごと戻ってきた。鍵穴には、距離も高さも全然足りない。どうやら、このアイデアも不発のようだ。
「うーん……鍵にロープをつけて、穴に偶然刺さるまで投げるってのはどうです? ロープは服とかをほどいて結ぶんです。刺さったら、ロープを引いて鍵を回す」
「穴に入るより先に、鍵が壊れそうだ。鍵はこの一本なんだから、そんなリスクは取れん。鍵を失えば、一生この部屋から出られないんだからな」
「鍵を失うといえば、排水溝に落ちたりしません? そうなったらおしまいですよ」
「やたらとごつごつしてるから、その心配はない。でも、トイレには流れるだろうから、鍵は絶対この部屋から持ち出すなよ」
「了解です」