◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯

提供:WikiWiki
3年2月19日 (W) 19:50時点におけるNotorious (トーク | 投稿記録)による版 (クリスマスイブですねえ)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

WikiWiki

この記事のタイトルは、最後に明かされます。


 頬に、固く冷たい感触。四肢にも、冷たさを感じる。胸に体重がかかっており、呼吸が少し苦しい。そう思うと、みるみるうちに息のしづらさが強く感じられるようになって、意識が覚醒した。
 とにかく僕は床でうつ伏せになっているのだろう。交番の仮眠室のベッドから転がり落ちたのか、あるいは寮の床でつい寝落ちてしまったのか。しかし、開けた目に飛び込んできた景色は、それらの予想が現実と違っていることを雄弁に語っていた。塵一つ落ちていない、真っ白な床。交番でも寮の自室でもない、見覚えのない風景だ。
 両手を床につけ、腕立て伏せの要領で身を起こした。伸ばしきっていた脚を畳み、その場に胡座をかく。視点が高くなったことで、周りがよく見えるようになった。正面には、床と同じく白い壁が聳え立っている。そして、壁には細い切れ目が入っている。それはまっすぐ上に走り、直角に曲がって床と平行になり、今度は真下へと伸び、壁を長方形に切り取っている。
 これは、ドアか。すぐには気づけなかったのは、理由があった。大きいのだ。ドアの上端は天井間際にあり、床から5メートルほどの高さにある。天井もそれほど高いのだ。それに、ノブがない。しかし、ドアの上端ギリギリに位置している何か。四角いし何か書かれているようだが、あれは……テンキー?

「起きたか、佐藤」
 聞き慣れた低い声に後ろを振り向くと、先輩巡査の権田が座っているのに気づいた。壁に備え付けられた腰掛けのようなものがあるらしい。3年先輩の権田とは、バディを組んで5年になる。警察官の仕事や心構えを、みっちりと叩き込まれてきたものだ。多くのチンピラを投げ飛ばしてきた、鍛え上げた体軀をずしりと構えている。しかし、心なしか迫力が減ったような気がした。すぐにその原因に気づく。権田は警察官の制服のシャツとズボンを着けている。だが、帽子やベスト、ネクタイまでもが見当たらない。もちろん、警棒や拳銃を入れたホルスターもない。いつもの制服姿でないから、些か威厳に欠けて見えるのだ。
 そこまで考えて、自分の服装も似たり寄ったりなことに気づいた。業務中にこんな服装となることはない。下手をすれば譴責ものだ。いや、そもそも仕事中ではないのか? ならなぜ権田がいるのだ? いや待て、そんなことより。ようやく、もっと早くに浮かんでいてしかるべき疑問が、奔流となって僕の脳に襲いかかってきた。僕はそんな数多の疑問符の中でもとりわけ大きなものを、とりあえずそこにいる権田にぶつけてみた。
「先輩、ここってどこですか?」
 返ってきた答えは、そっけないものだった。
「知らん」


*        *        *


「佐藤、地下のパブに行ったことは覚えてるか?」
 そう言われて、急激に記憶が蘇ってきた。今の今まで忘れていたのが信じられないくらい、鮮明に。
 人身売買の拠点となっているパブがある。そういう匿名の通報を受けて、権田と僕はそこへと急行した。昼の2時ごろだった。通報の信憑性には疑問が残っていたため、あくまで警邏の一環として行った。交番の所轄範囲にそのパブはあったため、通常のパトロールという建前が使えたのだ。
 しかし、地下に降りてパブに入った瞬間、僕たちは屈強な男たちに襲われた。警棒を抜く間もなく、目出し帽を被った男たちに、口に布を押しつけられた。どうやら薬が染みていたらしく、僕はすぐに意識を失ってしまった。おそらく権田も同じだろう。いくら逮捕術や柔道を心得た警察官といえど、大勢に不意打ちされたのでは、勝ち目はなかった。
「ミイラ取りがミイラになってしまうとは……。もっと警戒しておくべきだった、くそっ」
 だが、権田は僕みたいに責任逃れできないらしい。
「パブの奴らが、僕らを攫ってここに連れてきたってことですかね」
「それが妥当な解釈だろうな。ただし、連れてきただけじゃない。閉じ込めたんだ」
 権田がここに座して待っている以上、薄々そうではないかと思っていた。しかし、明確に突きつけられると、やはり衝撃を受けた。まだ、心のどこかに、事態を楽観していた自分がいたのだろう。僕は、誘拐監禁事件の被害者となったのだ。

 まずは、大声を上げてみた。
「おーい!」
「誰かいませんかあ!」
 何の返答も得られないまま5分ほど経ち、この試みはいたずらに喉を痛めただけだった。外を偶然通りがかった市民とはいかずとも、せめて犯人側からの説明だけでもあって欲しかった。自分たちが何のためにこんなところにいるのかわからないというのは、かなり不安にさせられる。
 とりあえず状況を把握しようということになった。権田はいち早く目覚めて、少しこの部屋の探検もしたようだが、全貌を把握するには至っていないとのこと。
 まずは自分たちのことから。着ている衣服は、下着とシャツとズボンくらい。靴下すら履いていなかった。持ち物もほとんどない。ズボンのポケットに入れていたハンカチはあったが、腕時計は消えていた。体にも不調や違和感はない。怪しい番号が彫られていたり、知らぬ間に臓器を摘出されたりはしていないようだ。だが、服を脱いで隅々までチェックするわけにはいかないから、鼠径部にICチップを埋め込まれたりしている可能性は拭えない。後で見てみよう。とにかく、ほとんどの所持品や衣服が奪われていることがわかった。携帯や無線ももちろん無いから、外部と連絡を取る術はない。
 次に、この部屋だ。広さは十畳くらいあるだろうか。床も壁も天井も真っ白で、清潔さを感じる。そして、異様に天井が高い。やはり5、6メートルはあるだろうか。もっとも、白一色だから目測が取りづらい。調度は、天井のライトと、権田が腰掛けていたベッドのみ。ベッドは飛び出た壁にマットレスを乗せただけのようで、枕も掛け布団も無い。ただし、そこそこ大きい。クイーンベッドくらいの広さはある。壁の一部であるから、権田がベッドを動かそうとしても、叶わなかった。マットレスを剥がそうともしたが、ベッドに固定されているらしく、これもできなかった。
 部屋の床の端には、幅10センチほどの排水溝が、四方の壁際に沿うようにして設置されていた。この部屋の床が、排水溝にぐるりと囲われている格好である。穴の開いた金属の蓋が嵌まっている、プールサイドなんかにあるタイプのもの。蓋を外せないか試してみたが、素手では到底できそうになかった。この部屋に水気はないのに、排水溝に何の必要性があるのだろう。

 僕らはいよいよ、壁にあるドアに目を向けた。この部屋には、僕が起きてすぐ見つけたものとは別に、もう一つドアがある。こちらは高さも普通でレバーもついている。権田によれば、その奥にはまた別の部屋があったらしい。まず、僕らはそのドアの奥を調べることにした。謎のドアを後回しにしたのは、閉じ込められているという事実に向き合うのを、遅らせたかっただけかもしれなかったが。
 普通のドアのところへ行き、レバーを下ろして引き開ける。滑らかで、何の変哲もない挙動。その奥は、小さな部屋だった。天井がさっきの部屋よりずっと低くなっている。とはいえ、2メートル半くらいだから、普通の高さなのだが。排水溝を跨いで小部屋に足を踏み入れた。白い壁以外は何もない、ただの空間。向かいの壁には、同じようなドアがまたある。戸惑いながらも、部屋を渡ってそのドアを開ける。今度は向こうへと開いた。
 そこはどうやら、廊下のようだった。僕が先頭を切り、その後を権田が続く。素足のひたひたという音の他には、物音はカサリともしない。未知の空間への恐怖に、否応なく心拍が速くなる。
 細長い廊下の中途に、左右に向かい合うようにしてドアがあり、突き当たりにもう一つドアがある。僕は廊下を進み、覚悟を決めて右にあるドアを押し開いた。
 そこには、トイレがあった。あまりに俗物的な設備に、思わず拍子抜けしてしまった。入ると、人感センサーで勝手に電気がつく。和式便座が一つと、壁に据え付けられたステンレスの手洗い場。そして、便器の横に、もう一つ床に埋まった水槽がある。何に使うのだろう? トイレは概して清潔で、監禁場所にはそぐわないくらいだ。天井には換気口があったが、蓋を開けることはできなかった。
 トイレを出て、今度は向かいのドアを開ける。こっちは、脱衣所だった。とはいえ、これも備え付けの棚があるだけだ。真っ白なタオルが数枚、ぽつんと置かれてある。横にあるスライドドアを開けると、やはり風呂があった。シャワーと浴槽がある。鏡やシャンプーの類もあるらしい。寮の風呂より広い。まるで田舎の旅館に来たかのような錯覚に陥る。本当に僕らは監禁されているんだろうかと、疑問に思ってしまう。

 僕らは風呂を出て、廊下の突き当たりへと向かった。そこにあるドアを開く。そこには、異様な光景が広がっていた。何か大きな山のような影が、見渡す限りにそそり立っている。その部屋は、広い倉庫だった。今までのどの部屋よりも広く、警察学校の教練場くらい広いんじゃないだろうか。山の正体は、倉庫の中に所狭しと積み上がった大量のものだった。近寄って手にとってみると、それは瓶だった。ずしりと重い。権田が、一本の瓶の蓋を開けていた。匂いを嗅ぎ、それを口に運び、
「水だ」
 と言ってまた呷った。権田の喉がごくごくと動くのを見て、自分の喉がカラカラであることに気づく。僕も近くの瓶を拾って蓋をひねり、中の液体を飲んだ。ところが、予想外の塩味がして、思わず噎せる。
「大丈夫か佐藤!」
「ゴホッ、ええ、ちょっと驚いただけです。中が水じゃなかったみたいで。毒とかではないみたいなんで安心してください、先輩」
 これは何だろうか? もう一度、入っている液体を口に含んでみる。ドロドロした舌触り、ほのかな塩味、薄い黄土色。
「流動食だ」
「何?」
「祖父の介護で、見たことがあるんです。ちょうどこんな感じでした。味も悪くはないですよ」
 空腹を覚えていたので、そのまま一本飲み干してしまう。権田も、おっかなびっくり口に運んでいた。
 腹ごなしが済むと、倉庫内の調査に取りかかった。手分けして積み上がった瓶を精査していく。ほどなく、水と流動食の二種類の瓶があることがわかった。それらは微妙に形が異なっていて、区別がつくことがわかった。一方、どの瓶にもラベルの類は無い。僕は、瓶の山に分け入って、数着の着替えと三つの救急箱を見つけた。権田は、缶の一角と四本の缶切り、それから1ダースくらいのボディーソープなどのボトルを発見した。
 天井には、最初の部屋と同じように、ライトが埋め込まれていた。それ以外は壁に囲われているだけで、窓はおろか換気口すら見つからなかった。
 それは、捜索開始から30分ほど経ったときだった。僕は瓶の山の反対側へぐるりと回った。すると、床に何かが落ちているのが見えた。いや、置かれていたのかもしれない。ぽっかりと空いた床の一隅に、それは無造作に置かれていた。それを拾い上げ、僕は思わず叫んだ。
「先輩、カードです! 番号が書かれてます!」
 瓶を倒しながらすっ飛んできた権田が、僕の手の中にあるカードをまじまじと見つめる。その手の平サイズのカードはプラスチック製で、「3849」とだけ書いてあった。それ以外に、装飾も記述も無い。この番号は……
「暗証番号?」
 そう言ってから、僕らは数瞬目を合わせる。この建造物の中に暗証番号が必要となる場所があるならば、それは一ヶ所しかないだろう。僕らは倉庫の捜索を打ち切り、最初の部屋に駆け戻った。


*        *        *


 最後に残った、調べるべき場所。謎のドアの前で、僕は権田を肩車していた。排水溝の上に立ち、権田の太腿を抱えている。
「届きます?」
「全然だ。佐藤、肩の上に立たせろ」
「えっ?」
 止める間もなく、権田は僕の頭を持って体を安定させながら、器用に立ち上がる。僕の両肩に、権田の裸足が乗っている。僕はドアに手をついて体を支えた。
「うーん、まだまだ足りないな。よし、下りるぞ」
 権田は意外と軽い身のこなしで、ひょいと床に飛び降りた。こっちがヒヤヒヤする。
 倉庫でカードを見つけた僕らは、この部屋に戻り、ドアに対峙した。目を凝らすと、天井付近にあるのがテンキーであることがよくわかった。テンキーはドアに埋め込まれており、さらに分厚いプラスチックカバーに覆われている。それをパカリと上げないと、ボタンを押せない設計のようだ。約5メートル上方。なんとかテンキーに手が届かないかと頑張ってみたが、到底高さが足りない。番号はわかったのに、それを入力できない。僕は深い落胆に包まれた。
「おい、落ち込んでじゃねえ。ドアを破れないか試してみるぞ」
 権田はドアの前で仁王立ちして言った。僕は慌てて立ち上がり、権田に並ぶ。せーのでドアに肩から体当たりした。鈍い音が響く。何度も並んでタックルを繰り返す。
 2分後、僕らは肩を押さえて床に倒れていた。ドアは1ミリだって揺らがない。破るなんて、到底できそうもなかった。蝶番もこちらからは見えず、ドアごと外すという手も使えない。このドアを開けるには、暗証番号を打ち込むほかなさそうだ。
「……先輩、倉庫から救急箱取ってきます」
「おう……」

 僕は痛む肩を押さえて倉庫へと歩いた。さっき見つけた救急箱を一つ持ち、ついでに水の瓶も一本掴み、引き返す。倉庫を出て廊下を渡り、小部屋へと入ったときだった。ぐんと横に手が引っ張られ、たまらず引き倒される。続いて、ゴンッという衝撃音。すぐに小部屋の向こうのドアが開き、権田が現れた。
「大丈夫か、何があった⁈」
 倒れた僕に駆け寄ってくる。しかし、僕は横の壁をぼんやりと見遣っていた。僕の視線を追って、権田がそれに気づいた。
「ありゃあ……どうなってんだ?」
 壁に、瓶と救急箱がくっついていた。僕の手を離れて真横にすっ飛んだそれらは、その高さのまま壁にぶつかって床に落ちていない。
 権田が壁の瓶を掴み、壁から引き離そうとしたが、全く離れない。僕も立ち上がって加勢したが、結果は変わらなかった。救急箱も、言わずもがなである。
「磁力か……」
「何?」
「この小部屋の壁が、磁石になっているんです。相当な磁力の強さですから、電磁石だと思います」
「救急箱と瓶は鉄でできているから、引き寄せられたってことか。だが、何のためにこんな仕掛けがあるんだ?」
「さあ……」
 仕方がないから、くっついたものはそのままにして、僕らは倉庫へと向かった。別の救急箱を開き、湿布を取り出して各々肩に貼る。
「包帯に絆創膏、止血帯、薬も多い……。大抵の怪我や病気なら、対処できるな」
 水の瓶をらっぱ飲みしながら、権田が救急箱を漁っている。この先輩は医者の家の出身で、医療知識がそれなりにある。これからどんな危険が待ち受けているかわからないから、大変心強い。

 水を飲むと尿意を催したので、僕は一言断ってトイレに行った。小便を済ませて水を流すと、傍らの謎の水槽の水も流れた。ともあれ、水道はちゃんと通っているようだ。そう安心して手を洗っていた時、ふと気がついた。トイレットペーパーが無いのだ。そういえば、倉庫にも見当たらなかったはず。狭いトイレ内を探すと、先端にスポンジのついた鉄の棒を見つけた。僕の脳裏に、古代ローマを舞台とした映画の、トイレのシーンが思い浮かぶ。確か、海綿が先についた棒で汚れを拭き取っていたような……。まさか、これがトイレットペーパーの代わりなのか。横の水槽は、スポンジを洗うためのものということか。ちょっと不衛生だろう。便意を覚えるまでに、ここを脱出できればいいんだが。
 僕はトイレを後にし、倉庫へ戻った。すると、倉庫の照明が先程より少し暗い気がした。その旨を権田に伝えると、
「そうか? 一度ここを離れたから、わかるんだな」
「外の日照サイクルに合わせて、光度をコントロールしているのかもしれないですね。もしそうなら、今は夕方ってことになります」
「そういや、室温も季節にしちゃあ暖かい。これもコントロールされてるみたいだな」
「ええ。全館空調ってやつでしょうか。どこかに空調ダクトがあるかもしれません」
「どうせ、天井か壁の裏ってとこだろうな。脱出の足掛かりにはなりそうにない。しっかし、ここはかなりの金がかかってるなあ」
「この倉庫内の水と食料だけでも、かなりの量がありますからね」
「まあそれだけの金があるから、人攫いなんてできるんだろうがな。そうだ、汗をかいたから、先に風呂に入ってきてもいいか?」
「あ、はい。まるでホテルみたいですね」
「チェックアウトできないホテルなんてごめんだよ」
 苦笑した権田は、倉庫の隅から自分の着替えを取って、風呂へと向かった。僕は倉庫の床に寝そべり、物思いに沈んだ。
 一体ここはどこなのか? 僕らを攫ったのは誰なのか? 目的は? いつか解放されるのか?

 しばらくして、権田が風呂から出てきた。タオルを首にかけている姿があまりにも自然で、下町の銭湯にいるような錯覚を覚える。
「洗濯機は無いから、自分たちで洗濯しないといけないな」
「風呂とかの水を使って洗えばいいですかね」
「そうだな。干すときは部屋干しするしかないか」
「その前にここから出られるといいですね」
「ははっ、そうだったな」
 僕は権田と入れ替わるようにして風呂に向かった。脱衣所で服を脱ぐと、権田の脱いだ服が棚にまとめて置かれていたから、その横に離して自分の服を置く。スライドドアを開いて風呂に入った。鏡の曇りを拭って全身を隈なく見てみたが、異常は見つからなかった。ほっとしてシャワーをひねると、さっきまで権田が使っていたからか、すぐに温水が出た。もう少し湯を熱くしようと、レバーをひねる。湯気の中で目を凝らすと、その目盛りはなんと70℃まであった。これじゃあ給湯器というより、ちょっとした湯沸かし器だ。適温の湯を全身に浴びると、強ばった筋肉がほぐれていく。監禁されているというのに、こうして温かいシャワーを浴びていると、リラックスして安心すら覚えてくるのだから、豪胆というか能天気というか。
 職務中の警官が消えたのである。今頃、巡査部長が異変に気づいて、外は大騒ぎになっているだろう。しかし、こうしていると、監禁されているという実感はどうしても希薄で、そんな自分が逆に不安になってくる。冷静沈着な権田が共にいるというのも大きいのだろう。もし一人きりで閉じ込められていたら、恐怖に襲われて圧し潰されていたかもしれない。
 風呂の中に、椅子や風呂桶は無かった。ボディソープやシャンプーを使おうとして気づいたが、ボトルが重い。これも鉄製だろうか。おそらく倉庫にあったものも同じなのだろう。中身は至って普通のようだ。小さな剃刀もあったので、それで髭を剃る。この剃刀も鉄製なのか、大きさの割に重量がある。髭の伸び方からして、地下のパブで攫われてから一日は経っていないようだ。僕たちは、攫われたその日のうちにここへ運ばれたということか。襲撃を受けてから、案外数時間しか経っていないかもしれない。
 欲を言えば湯舟につかりたかったが、今日はやめておこう。そう考えてから、ここに明日以降もいることを想定している自分に気づき、驚いた。ここが安全な場所とはまだ限らないのだ。気分を変えるために顔に湯をかけ、僕は風呂から出た。棚の隅のタオルを取って、体を拭く。倉庫から持ってきた着替えは、誰も袖を通していない新品らしく、心地良い肌触りだった。薄いTシャツとトレーニングパンツ、それから清潔な下着。何となく外部から助けがくることはないと思い込んでいたが、もし今助けが来たら、くつろいでいるようにしか見えないだろうな、と一人苦笑する。

 廊下に出ると、風呂のドアが開いた音を聞きつけたのか、権田が小部屋から手招きしていた。小部屋を通り抜けるときは緊張したが、今度は何ともなく通過できた。着替えの服に鉄が織り込まれているようなことはないようだ。
 最初の部屋に戻ると、権田はベッドの上に胡座をかいた。僕は固辞したが、結局権田の薦めを断れず、ベッドの反対端に向かい合って座る。
「佐藤、状況の把握は終わった。だから、次は検討に移ろう」
「検討、というと?」
「もちろん、脱出方法の検討だ」
 こうして、囚われた二人のディスカッションが始まった。


*        *        *


「まずは脱出ルートを考えよう。最初に浮かぶのは、あのドアだよな」
「あそこだけ開かないし、いかにもって感じですよね」
「ああ。だが、あのドアが外に通じているとは限らない。ひょっとしたら、また別の部屋に通じているだけかもしれないしな」
「でも、あのドアを開けられれば、活動範囲が広がります。奥に何が待っていようと、突破口となるのは間違いないでしょう」
 権田は深く頷いた。
「ドア以外のルート、たとえば壁や天井を破るというのは、あまり現実的な方法じゃないよな」
「換気口や排水溝はどうです?」
「仮に蓋を外すか壊すかできても、人が通るのはまず無理だな。他の何か、たとえばメッセージを書いた物を排水溝に流す、とかはどうだろう」
「自分で提案しておいてなんですが、厳しいでしょうね。水道管に詰まらないサイズの物となると、だいぶ限られてきます。そもそもメッセージを書く筆記具なんて無いですし。服の切れ端とかの遺留品を流しても、見つかってここが特定される蓋然性は低いでしょう」
「なら、やはり脱出ルートはあのドアに限られるか」
 件のドアを見上げ、僕は歯噛みした。テンキーはある。打ち込む番号も知っている。ただ一つ、高さだけが足りない。
「約5メートル……。肩車程度じゃ届かないのは実証済み」
「人馬といったか、一人が一人を放り投げるってのはどうだ?」
 権田は低い位置で両手の指を組み、ソーラン節のように勢いよく上へと振った。もう一人が助走してこの組んだ手に片足を乗せ、タイミングを合わせて跳ぶ。そうすれば、だいぶ高く跳躍できそうだ。
「でも、相当危ないですね。掴まれる突起もないから、跳んだら落ちてこないといけない。5メートルの高さから落ちると、打ち所によっては命に関わります」
「ベッドはドアと離れてるからクッションにはできない。服やタオルは、大して衝撃を吸収しないよな」
「上手くテンキーのところに跳べても、一回のジャンプで押せるボタンは一つが限度でしょう。この方法だと、最低4回は高所から落下しないといけない。危険すぎますね」
 次だ。ジャンプが駄目なら、地に足をつけてボタンに手を届かせればいい。
「僕の両手に先輩の両足を乗せて、ウエイトリフティングみたく持ち上げる。そうすれば、4メートルくらいには達するんですけどね。幸い筋トレと練習をする時間はありそうですし」
「あと、たった1メートルなんだがな……。まず浮かぶのは、踏み台を用意することだよな」
「ええ。でも……」
 1メートルの足場。それが簡単に用意できれば、今こんなふうに難渋していない。
「この部屋にあるのは、ベッドくらいか。でも、ドアからは離れているし、動かせもしない」
「倉庫には、文字通り食料の山がありますけど……」
鉄の瓶や缶は小部屋を通せない。山はあるのに、その山をドアの前まで移せないんだよな」
 小部屋の磁力のバリアの強さは、身をもって味わった。あのバリアがある限り、缶切り一本だってこの部屋に持ち込めない。あの小部屋は、この部屋に物を移させないためにあるのだ。
「向こうにある物には、徹底して鉄が使われている。瓶、ボトル、缶切り、剃刀、トイレのスポンジ……。どれも踏み台には使えない。鉄でない物は、ほとんど固定されてしまっているし」
「陶器の便座を砕くってのはどうです?」
「おっ、いいな。でも和式だからな……。綺麗に砕ければ10センチくらい稼げるかもな」
 1メートルの壁が、途方もなく高い。
「でも先輩、使える物はそれだけじゃありませんよ。たとえば、服やタオルです」
 権田はうーんと唸った。
「しかし布だからなあ。折り畳んでも、大して高さは稼げない。全部の服とタオル、それからシーツも使っても、30センチ稼げるかどうかってところだな」
「救急箱の中身はどうです?」
「薬の瓶は鉄だ。湿布や包帯なんかは使えるが、大した足しにはならない」

 他に何か使える物はなかっただろうか。必死に考えて、一つ思いついた。
「瓶や缶は鉄でも、中身は違います。中身だけ取り出してここに持ってくれば、いくら流動食とは言っても、ある程度の体積は……」
 そこまで言って気づいた。
排水溝……」
「ああ。ドアの真下には排水溝がある。流動食を積み上げるのは、まず不可能だろうな」
 固形食だと、中身を取り出して踏み台にできる。その手を封じるために、ここには流動食しかないというのか。暗い顔で、権田は尚も続ける。
「排水溝の役割はそれだけじゃない。排水溝がなければ、風呂かトイレの水道を使ってこの部屋を水没させるという荒業が使えるんだ。天井ギリギリまで水位を上げ、泳いで水面近くのテンキーまで到達するんだ。でも、排水溝があるおかげで、絵に描いた餅だよ」
「……どうにかして、排水溝を塞げませんかね?」
「厳しいだろうな。排水溝の面積は、大雑把に計算すると、10センチかける4メートルかける4ってところだ。さっき確認した通り、この部屋に持ち込める物は少ない。到底この面積を覆うことはできないだろうな」
 もっと、他に使える物はないだろうか? しばし黙考するが、浮かばない。権田が停滞した空気を切り替えるように言った。
「踏み台戦法は一時凍結だ。発想を変えて、ドアのテンキーを押す方法を考えよう」
「うーん、床から5メートルだから遠いんですよね。天井からはちょっとなんだから、天井から吊り下がるってのはどうです?」
「うん、いい視点の変え方だな。だが……」
 僕らは同時に天井を見上げた。目覚めたときより少し光量を落とした電灯は、天井に埋め込まれている。天井はつるりと滑らかで、何かが引っかかるような突起は全くない。
「まだだ。小部屋のドアは外開き。あれを開けて登れば、テンキーに届くかも……」
 ベッドを飛び降りて、権田は小部屋のドアを開け、すぐに閉めてすごすごと戻ってきた。そもそも、小部屋はドアがある壁から離れた位置にある。テンキーには、距離も高さも全然足りない。どうやら、このアイデアも不発のようだ。

「何か長い棒があれば、ボタンを押せるんですけど……」
「トイレにあったスポンジ……の棒は鉄だったな」
「布をよじって棒にできませんかね」
「強度が足りないよなあ。待てよ、水を含ませて凍らせるってのはどうだ?」
 僕は首を傾げた。
「冷凍庫は無いし、気温が下がるのを待つというのも、全館空調だから厳しいかもしれませんね」
 棒作戦も、難しい。他の方法を考えよう。
「うーん……何かを投げて、ボタンにぶつけて押すってのはどうです?」
「順にボタンに当てるのは難易度が高すぎる。それに、プラスチックカバーがネックだ。あれを上げないとボタンを押せない」
「真下から何かをぶつけてカバーを上げて、さらにタイミングよくボタンに物をぶつけるんです」
「野球のピッチャーも真っ青な計画だな。食料が尽きる前に成功すればいいが」
「食料は、たぶん5年は持ちますよ。毎日トライし続ければ、いつか成功するかも」
「何回間違えたら永久にロックされるみたいな設定が無いことを祈るか。他に妙案が思いつかなければ、試してみよう」
「なら……何か長い紐の先に錘をつけて、鞭みたいに振ってボタンにぶつけるのはどうです? 紐は包帯か、あるいは服の糸を解いて撚り合わせて作る。錘は……歯とか?」
「怖いな。……ピッチャー作戦と同じく、プラスチックカバーをうまく持ち上げられそうにない」
「もう一本の鞭をカバーにぶつけて上げるってのはどうです?」
「力の向きを考えると、難しい。……待てよ、一定の長さの紐をスイングするんだから、ボタンへの命中率は鞭の方が高い。ピッチャー作戦と組み合わせるか」
「何かを投げてカバーを上げて、鞭でボタンを押すんですね」
「錘には、救急箱の錠剤とかを使おう。成功率はとんでもなく低いだろうけど、やらないよりはマシだ」
 歯は抜かないで済みそうだが、この案は別の発想を生んだ。
「この部屋にあるものとして、僕らの体がありますね。極論になりますけど、僕の体を解体して繋ぎ合わせて長い棒を作れば、テンキーを押せるかもしれませんよ」
「実行する気は起こらないが、一応論理的に否定しておくと、人体を解体する道具がない。そんなフランケンシュタイン博士もびっくりのことを、まさか手作業でさせる気か?」
「いやもちろん僕だって、させたいわけじゃないですよ」
 発想は悪くないと思ったんだが、なかなかうまくいかないものだ。

 そろそろ脱出方法のアイデアが尽きてきた。顎に手を当てて考えていると、権田が呟いた。
「なあ、小部屋の磁石は、電磁石なんだよな?」
「永久磁石では、あれだけの磁力は出せないと思います。電磁石と考えて良いと思いますよ」
「なら、電力の供給を止めれば磁力は失われるってことだ」
「……なるほど。つまり、何らかの方法で電気ひいては電磁石を止め鉄をここに持ち込めるようにするということですね?」
「その通りだ。そうすれば、踏み台が作れる。どうだ?」
「その発想はありませんでしたね……。ただ、電気をどうやって止めるんです? コンセントでもあれば、何かを差し込んでショートさせられるかもしれませんけど」
「コンセントは見当たらなかったな。だが、この手はどうだ? 小部屋に排水溝は無いから、小部屋を水没させるんだ。すると、壁の裏とかにある配線が浸かって、漏電して電気が遮断されるかもしれない」
 僕はしばらく考えて、口を開いた。
「先輩、その方法には致命的な欠陥があります」
「何?」
「ドアは、テンキーに暗証番号を入力して開けるんです。ほぼ確実に、このシステムは電気で動いています
「……そうか、くそっ」
「電力を落とせば、鍵を開けられなくなる可能性がある。そうなれば、今度こそ一生脱出不可です」
「だが、ドアの鍵ってのは大切な機関だから、配線を別にしているんじゃないか? いやそもそも、あのドアが電子ロックなら、電力を落とせばロックは解除されるかもしれない」
「先輩は、リスクを考慮した上で、その可能性にベットできますか?」
 しばらく悩んだ後、
「いや、無理だな」
 と権田は力なく言った。思ったより深く消沈しているので、慌てて僕は言葉を継ぐ。
「でも、アイデア自体はとても良かったですよ! 今までにない発想でしたし、もっと考えてみましょう!」
「はは……フォローありがとな、佐藤」
「いえ……」
 また黙って頭を絞ったが、知恵は底をついたらしく、ついぞ名案は降りてこなかった。


*        *        *


 照明は薄明るいという域に達し、脱出方法の検討は行き詰まっていた。半ば自棄になって、僕は言ってみる。
「実は、3849って打ち込むテンキーは、実は他の場所にあるんじゃないですか? そうだ、倉庫はまだ探し切れてない。瓶を全部どかせば、床にドアがついてるかもしれませんよ」
「……探す価値はあるな。明日、やってみよう」
 こんなやけっぱちな放言にも権田はちゃんと答えてくれて、申し訳なくなった。いくら脱出の見込みがなくたって、理性的にならねば。幸い、食料はたっぷりある。少なくとも今はまだ、命の危険が差し迫っているわけではないのだから。
 ……なぜだ? ふと疑問が浮かぶ。

「先輩、どうして僕たちを閉じ込めた奴らは、わざわざ大量の食料やら何やらを用意したんですかね?」
「やっぱりそれは疑問だよな。なぜ閉じ込めたのか。この答えが得られれば、脱出のヒントになるかもしれない。よし、今度はこれについて考えてみよう」
 なぜ奴らは僕らを攫い、閉じ込めたのか。
「ここにはモニターが無いので、きっとデスゲームは始まりませんね」
「せめて目的を置き手紙にでもしたためてくれていればよかったのに」
 冗談はさておいて、犯人グループの目的を想像してみる。
「人を拐かす理由。普通は、身代金目的とかでしょうけど……」
「もしそうなら、こんな手厚い待遇しなくてもいいよな。椅子とかに縛り付けて、どっかの廃墟に放り込んでりゃいいんだから」
「人を攫う目的なら色々ありそうですけど、こんな建物に中途半端に閉じ込めておく理由がわかりませんね」
「この建物だけでも、相当な手間と金がかかってる。ここは人を監禁するために建てられたってことでいいんだよな? 何か別の理由で建設されたものを監禁に転用したとは考えづらいよな」
「“何か別の理由”に見当もつかないので、きっとそうでしょうね。でも、ただ監禁するだけなら、内から開けられる鍵なんてつけなきゃいいんです。何か理由があってこんな構造をしているとは思うんですけど……」
 権田が顔を上げ、小部屋に続くドアの方を見た。正確には、その奥にある倉庫の方を。
「ここには、数年くらいなら生きられる設備がある。つまり、奴らは監禁された人間に生きててほしいんだ。そうじゃなきゃ、金かけて食料なんて用意するより、放って飢え死にさせる方を選ぶだろう」
「僕らに生きててほしい……」
 そう考えると、一つ腑に落ちることがある。
「だから、トイレットペーパーが無いんですね」
「何?」
「長く生きられるような衛生環境を保つには、大量のトイレットペーパーが必要です。そこを疎かにすると、病原体の蔓延に繋がってしまう」
「ははあ、読めたぞ。だが、それだけのトイレットペーパーを用意すれば踏み台に利用されてしまう。紙に鉄を使うのは難しいだろうからな」
「そうです。苦肉の策として、スポンジが採用されたんでしょう」
 些細なことだが、疑問が一つ氷解した。トイレットペーパーが無いという事実からも、奴らが僕たちの長期的な生存を望んでいるということが裏付けられる。では、なぜそうまでして奴らは僕らに生きていてほしいのか? 僕の頭にある仮説が浮かんだ。

「これは、何か大掛かりな実験なんじゃないですか? 極限状態で人はどう振る舞うのか観察する、みたいな」
「非合法な実験、か……」
「何か、真っ当に被験者を募れないような実験だから、こうやって無理やり人を攫ってきてるんじゃ?」
「もしそうなら、なかなか明るい想像はできないな……」
 今からもっと非人道的な仕打ちが、モルモットである僕らに加えられるのかもしれない。
「これが実験なら、この建物もその内容に即した構造をしているってことになるな」
「どんな実験なんでしょうね?」
「さあな。わからんが、これが実験なら、あってしかるべきものがある」
「何です?」
「カメラだよ。カメラでなくても、何らかの観測機器でこちらを観察してるはずだ」
 そう聞いて、僕は背筋に寒気を覚えた。今も、僕らは誰かに見られているのだろうか。
「……最近のカメラの小型化は凄まじいですからね。どこかに隠しカメラがあっても、おかしくない」
「ああ。朝になったら探してみよう」

「うまい脱出方法が思いつかない以上、ひょっとしたら長くここにいることになるかもしれん。だから、物資は節約しよう」
 権田がぽつりと呟く。僕も力なく頷いた。
 天井のライトは随分暗くなり、権田の顔もよく見えないほどになっていた。暗くなると何も見えないから、必然的に寝るくらいしかできなくなる。僕は権田にベッドを譲り自分は床で寝ることを主張したが、権田の頑固な説得と恫喝、果ては先輩命令までもが発せられ、結局僕もベッドを使うことになった。マットレスの端ギリギリに横たわり、権田に背を向けて固く目を閉じる。
 権田はもう寝入ったのか、ぐうぐうという寝息が聞こえてきた。僕は頭が冴えていて、全然眠れそうになかった。数々の疑問が渦巻いて、脳内をぐるぐると回っている。
 いつまで僕らはここにいるのか? もしかして一生ここに閉じ込められるのか? そもそも僕らはなぜ閉じ込められているのか? 実験ならば、それはどんな実験なのか? この建築物の構造の意味は?
 疑問の奔流はとどまるところを知らず、このままだととてもじゃないが眠れそうにないので、僕は必死に気を逸らせた。
 いつもなら、勤務を終えて寮に帰っている頃だろうか。いかんせん時計が無いため、今何時なのか全くわからない。ひょっとしたら、体内時計を狂わせるタイプの実験かもしれない。建物の構造や鍵の掛け方に疑問は残るが。
 つらつらと思惟していると、連想は連想を呼び、だんだんと気分が落ち着いてきた。全く無関係なことを考えていると、ゆっくりと意識が眠気に侵食されていく。もうしばらくすれば眠れる。そう思って意識を再び思索に飛ばした、その時だった。

 はっとした。まさか。
 嫌な想像をしてしまった。そして、それを拭えない。いろんな状況が符合してしまう。眠気は吹っ飛んでいた。背筋を冷たい汗が伝う。
 調べなくては。この予想が、どうか外れていてほしい。僕はベッドからそっと降り、ゆっくりとその場を離れた。


*        *        *


 僕は倉庫にいた。ぼんやりとしか見えない光の中、何度も躓きながら奥の方を目指す。手探りで瓶の山を分け入っていくと、権田が見つけた缶の一角に辿り着いた。一角とはいえ、缶の数は100を下らない。その中から、できるだけ場所をばらして五つほど取る。それから、床にある缶切りも一本拾う。
 それらを抱えて、僕は倉庫を出た。廊下の中途にあるトイレのドアを開けると、人感センサーで明るく光が灯った。眩しさに目を細めながら、ドアを開けたままにして戦利品を床に置いた。祈るような気持ちで、缶の蓋を開けていく。三つ目、恐れていたものが現れた。それを呆然と見下ろす。
「実験なんかじゃなかった……」

「なら何なんだ?」
 思わず小さく悲鳴を上げ、体のバランスを崩してしまう。便器にドボンしそうになったところを、ギリギリで権田が腕を掴んで止めてくれた。
「す、すみません……」
 いつの間に後ろにいたのだろう?
「佐藤、何をしていたんだ? 物音がしたから、様子を見にきたんだが」
 僕が答えられずにいると、権田は床の缶に目を向けた。中には、白い粉がいっぱいに入っている。
「この缶がどうかしたのか? これは……まさか覚醒剤エスとかか?」
「そんな物騒なものじゃないですよ。舐めてみてください」
 権田は粉を少し指に取り、おそるおそる舐めた。
「こりゃ……脱脂粉乳?」
「……近いですけど、ちょっと違います」
「佐藤はわかるのか? それに、さっき、『実験じゃない』とも言っていたな。どういうことだ? 奴らの企みがわかったのか?」
 こうなっては、誤魔化しようもないだろう。僕は重苦しい気持ちのまま、寝台に戻ることを提案した。

 トイレの床に缶は置いたまま、僕は最初の部屋に戻った。後ろを権田がついてくる。先刻のディスカッションのように、僕らはベッドに座った。ただし、権田はベッドの上で胡座をかいているが、僕は端に腰掛け、横を向いた。
「それで、佐藤は何に気がついたんだ?」
 真っ直ぐに権田が問いかけてくる。僕は俯いた。どこから話せばいいのだろうか? こんな残酷なことを、どうやって伝えればいいというのだ?
 迷った末に、僕は口を開いた。
「気づいたのは、脱出方法です。でも、とてもやろうとは思えない方法です。覚悟して、聞いてくれますか?」
 権田は驚いた顔をしたが、黙って頷いた。
「ここには、大量の食料や医薬品、衛生設備までもがあります。前にも辿り着いた結論ですが、奴らは僕らにしばらく生きていてほしい。でも、脱出はされたくない。だから、磁石の部屋なんていう手の込んだ仕掛けがある。では、なぜしばらく生きていてほしいのか? そもそも、奴らは僕らに何をしてほしいのか?」
 一息ついて、また言葉を継ぐ。
「僕らに何をしてほしいのか。何か実験をして、僕らの振る舞いを見ているんじゃないかと考えましたが、今となってはそうじゃないと言い切れます。奴らは、僕らに脱出してほしいんです。いや、ひょっとしたら脱出する過程が目的なのかもしれませんが……」
「どういうことだ? 勿体ぶらずにはっきり言え」
「ここから脱出する方法が、一つだけあるんです。奴らは、僕らにその唯一の手段を取ってほしいんです」
「その、唯一の脱出方法ってのは、一体何なんだ?」
 権田の性急な問いを無視して、外堀を埋めていく。叶うなら、僕が口に出す前に、権田に気づいてほしい。僕が言わんとしている、残忍で悪趣味極まりない真実に。
「さっき、なぜ奴らは僕らにしばらく生きていてほしいのか、と言いましたね? その答えは、脱出には時間がかかるからです。1年、いや3年、もっとかかるかもしれない。その間僕らを生かすために、生きられると判断させて僕らにその脱出方法を取らせるために、これだけの設備を用意したんです」
「その方法ってのは、何なんだ……?」
「取るのは、踏み台戦法をひねった方法です。足りない1メートルを、稼ぐ方法があるんです」
「しかし、ここにあるものでは、どうにも高さが足りないという結論に至ったじゃないか」
「その通りです。ここにあるものだけでは、5メートルに届かない。だから、ここに無いものも使うんです」
「外から何かを調達する方法があるのか?」
「そうじゃありません。今は無いけど後でここに現れるものを使うんです」
「どういうことだ?」
「まだわかりませんか⁈」
 きっと権田を睨むと、本気で戸惑っている顔が薄闇の中に浮かんでいた。思わず顔を伏せた。
「……ごめんなさい。先輩にあたってもどうにもならないのに」
 暗くてよかった。今の、今からの自分の顔を権田に見せる勇気は、僕にはない。
「僕ら二人の体だけでは、テンキーには届きません」
「そうだな」
「でも、三人いれば届く三人目さえいれば脱出できるんです」
「……ちょっと待て」
「そして、三人目を用意するのは、僕らにとって不可能なことではない」
「不可能だろう⁉︎」
「なぜです? 食料も衛生環境も、時間もある。あの缶の中身は、粉ミルクですよ、先輩」
「まさか……まさか……」
 権田は驚愕に目を見開いて叫んだ。



わたしが子供を産むことが脱出方法だと言いたいのか⁈」
「赤ん坊が数年育てば、身長は1メートルに達するでしょう。そして、ここには成人男女が一組いるんです。これが、脱出方法ですよ」
「でも、でも……色々ないだろう、その、病院とか……」
「原始時代でも、人類は繁殖できたんです。不可能ではないでしょう。それに、いくつか工夫も凝らされてるんですよ。粉ミルクは母乳が出ない不測の事態に備えたものでしょうし、それを溶く70℃の湯だって風呂で用意できます。流動食も、離乳食を兼ねているんでしょうね」
「でも……え……そんな……」
「だから言ったでしょう。とてもやろうとは思えない方法だと」
 権田は絶句していた。僕は開き直ったように、極力あっけらかんと言った。
「けど、脱出に必要かなんて関係なく、僕が我慢できた気はしませんね。何せ、こんなに可愛い人と二人っきりなんですから」
「かわっ……そんな……」
 権田の整った顔が赤く染まったのが、闇の中でも見えた。思わず僕は権田の両肩を掴んで、マットレスに押し倒す。ボブカットの黒髪がふわりとシーツに広がり、ぱっちりした両眼が驚きに揺れる。いくら鍛え上げているとはいえ女の細腕では、同じく警察官の僕を押し退けることはできない。僕は、権田の腰にまたがった。権田が小さく声を洩らす。マットレスが軋み、薄着の下の乳房が魅力的に揺れる。
「これが、脱出する唯一の方法なんです。……先輩、いいですか?」
 ほのかな灯りの下、権田の目の奥が、微かに揺らいだ。





──『セックスしないと出られない部屋』了