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ローマ帝国の興亡

元首制の確立

プトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、地中海に覇を唱えたオクタウィアヌスは、遂に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を得るまでになった。共和政の理念を損なうことを嫌ったオクタウィアヌスは、プリンケプス(第一人者)を自称し、元首制(プリンキパトゥス)を開始したが、実際のところこれは帝政と変わりないものであった。これより約200年間続くローマ帝国の最盛期を、「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)と呼ぶ。

五賢帝時代

五賢帝と呼ばれる五人の皇帝が統治したおよそ100年の間、ローマの繁栄は凄まじいもので、対外貿易では「ヒッパロスの風」を利用したインド洋との季節風貿易によって絹や香辛料を多く手に入れた。五賢帝には、元老院との調和を重んじ、実際の血縁でなく養子関係を通じて帝位を移したという特徴がある(これは実際には形骸的なものであったともされる)。五賢帝最初のネルウァ帝は前帝の強硬的なやり方から翻って元老院との協力体制をとった。高齢で即位したため、帝位はわずか二年と短い。ニ番目のトラヤヌス帝は初の属州出身の帝で、ダキアを属州化しローマ帝国の最大版図をつくった他、ロンドン・パリ・ウィーン等を建設した。三番目のハドリアヌス帝は、ブリタニアにハドリアヌスの長城を築いた。四番目のアントニウス=ピウス帝は、大してなんもしてない。そして最後のマルクス=アウレリウス=アントニウス帝は、「哲人皇帝」とも呼ばれるストア派の哲学者で、自著『自省録』を持つ。また、「大秦(ローマ)王安敦」として後漢に使者を送ったとする記述が『後漢書』にみられる。