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インドの古代文明

南アジアにおける最初の文明は、インダス川流域に分布したドラヴィダ系民族の青銅器文明・インダス文明であり、中流域パンジャーブ地方のハラッパーや、下流域シンド地方のモエンジョ=ダーロなど、計画的に建設された都市の遺跡が残されている。インダス文明の衰退後は、カイバル峠を通ってアーリヤ人がパンジャーブ地方に進入・定住した。ここから始まるのが、ヴェーダ時代である。アーリヤ人は自然崇拝を行い、その知識をヴェーダに記した。特に最古のヴェーダをリグ=ヴェーダと呼ぶ。また、ガンジス川上流域への移動以降は、肥沃な土地で農耕を行うようになったことで、階級の体系的分化が起こった。ヴァルナ制である。これによってバラモン(司祭)クシャトリヤ(武人)ヴァイシャ(庶民)シュードラ(隷属民)という四つの身分と枠外の不可触民が定められ、中でもバラモンは高い権威を纏ってバラモン教を成立させた。また、ここに血統集団であるジャーティの考えが結びつくことで、カースト制度が形成されていくこととなる。

多様な宗教の登場

前6世紀ごろ、ガンジス川中・下流域の都市国家群の中でコーサラ国マガダ国が力をつけていた。これらの都市国家では、安定した農業生産のもと、交易等でクシャトリヤやヴァイシャの勢力が大きく増加し、旧来のバラモン教から転換した様々な思想・宗教が育まれた。ウパニシャッド哲学は、祭式至上主義から翻って輪廻転生から解脱するという内面の思索を重視する思想だった。また、ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)が開いたジャイナ教は、解脱のための苦行と不殺生を重んじ、ヴァイシャに支持された。。一方で、ガウタマ=シッダールタ(ブッダ)が開いた仏教は、八正道に則り、正しい行いをして煩悩を蜂起することで解脱に至ると説き、クシャトリヤに支持された。

統一国家の成立

マガダ国のナンダ朝がコーサラ国を破りガンジス川流域を統一したのも束の間、アレクサンドロス大王がインド西北部へ侵入した。この混乱をついて現れたのが、マウリヤ朝である。創始者のチャンドラグプタ王は、ナンダ朝やギリシア系勢力などを次々に打ち滅ぼし、マウリヤ朝はインド初の統一王朝となった。最盛期、アショーカ王の時代には、ダルマ(法)に基づく政治が行われ、仏典の結集やスリランカへの布教などが為された。マウリヤ朝の衰退後は、ギリシア人やイラン人の勢力の進出が始まり、イラン系クシャーン人によって西北インドにクシャーナ朝が開かれた。カニシカ王の時代には最盛期を迎え、中央アジアからガンジス川中流域を支配したほか、ローマとの交易も盛んに行われた。また、このとき菩薩信仰によって大衆の救済をめざした大乗仏教が成立し、ヘレニズム文化に影響された仏像の制作といったガンダーラ芸術も盛んになった。一方南インドでは、ローマとの季節風貿易を行ったサータヴァーハナ朝や、「海の道」で盛んに交易した前期チョーラ朝など、ドラヴィダ系住民が盛んに交易活動を行い、経済的に繁栄した。

インド古典文化の黄金期

4世紀には、チャンドラグプタ1世グプタ朝を開き、チャンドラグプタ2世の時代には北インド全域を支配して最盛期を迎えた。このころバラモンの権威が復活し、バラモン教と民間信仰が合わさった多神教・ヒンドゥー教が社会に定着し始めたほか、バラモンの言葉であるサンスクリット語が公用語となり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』、宮廷詩人カーリダーサによる『シャクンタラー』などのサンスクリット文学も栄えた。また、ヒンドゥー教におけるヴァルナの規範を記した『マヌ法典』もこの時期完成した。天文学や数学も発展し、十進法や位取りでないゼロの概念も生み出された。さらに、美術に関しては、ヘレニズム文化の影響下にあるガンダーラ美術から脱出したグプタ様式が成立し、アジャンター石窟寺院に多くの仏教関係の壁画が描かれた。グプタ朝が騎馬遊牧民エフタルによって滅亡した後には、ハルシャ王ヴァルダナ朝をおこして北インドを支配した。この時期、唐僧の玄奘義浄がそれぞれ陸路・海路でもって来印し、ハルシャ王の保護で仏教の研究機関の中心となっていたナーランダー僧院で学んだ。帰国後にはそれぞれ『大唐西域記』『南海寄帰内法伝』を著した。しかし、ヒンドゥー教への絶対的帰依を主張する宗教運動・バクティ運動の攻撃を受け、インド国内の仏教はここから衰退に至ることとなる。そしてヴァルダナ朝の衰退後、北インドの統一は長きにわたって果たされることなく、クシャトリヤの子孫を自称するラージプートの小国が分立し争い合う時代となった。