利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/戊

提供:WikiWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

るhヴぇhヴぃうvひゆshvぐいsvぬいvgすいんすvgvs

黄河中流域では彩文土器の仰韶文化があって、下流域には黒陶の竜山文化がありました。そしてその後邑が合体して王朝国家が出来ました。殷王朝の遺跡殷墟からは甲骨文字が出てきました。周王朝は封建制をやって、後の東アジアにデカい影響を与えました。その周王朝は、都を鎬京から洛邑に移したので、いろんな奴に馬鹿にされて各地で勝手に戦うようになりました。これが春秋時代です。覇者が尊皇攘夷してギャーギャーしていると、大国である晋が韓と魏と趙に三分裂し、いよいよ秩序がパーになって戦国時代が始まりました。戦国の七雄が周ガン無視で殴り合いました。この辺で鉄器とか青銅貨幣とかが出てきて、いろいろ便利になりました。あと諸子百家が持論を展開しまくり、儒家の孔子とか孟子とか荀子とかは仁とか礼とかを説きました。墨子は無差別の愛を叫びました。「誰でも良かった」などと供述しており……

好きになるだけなら合法――ピノキオピー『よいこのくすりより』

老子ら道家は無為自然を訴えました。法家もなんか、現実的なことを言ったらしいです。

戦国の七雄の一国だった秦は、法家の商鞅の改革でクソ強くなって中国を統一しました。始皇帝は郡県制で統治体制を整えて、貨幣とかもろもろを統一し、気に入らん本とか人とかをブチ殺し、万里の長城を作り、そして死にました。やりたい放題し過ぎたので、陳勝・呉広の乱が発生し、秦は滅びました。そしたら今度は項羽と劉邦(高宗)がバトルし、劉邦が勝って漢をつくりました。郡県制と封建制を合体させた郡国制で国を治めたりしていると、冒頓単于率いる匈奴にボコボコにされて屈服しました。内では呉楚七国の乱とかも起きました。そこで即位した武帝は、匈奴を追い払ったり、衛氏朝鮮をぶっ殺したり、南越をぶっ殺したり、匈奴ぶち殺し仲間のお誘いを大月氏にもってくために張騫を信じて送り出してそのまま寝取られたりしました。あと地方長官の推薦で官吏を選ぶ郷挙里選を定めたり、経済のために均輸とか平準とか塩・鉄・酒の専売とかをしました。あと董仲舒が何かやって儒学が官学になりました。なんやかんやで懐古厨の王莽というやつに国を乗っ取られ、漢は新っていう国になりましたが、秒で赤眉の乱が発生し、劉秀(光武帝)のもとで漢に戻りました。