利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/戊

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   人問            二年 宮城 寛生  すべてが透明だった。空間はただ茫然と立ちすくみ、そこには静寂さえなかった。まっさらなキャンバスに躍る白も、深宇宙をたたえる夜暗の黒も、その不可視のガラス張りの前では、不在を象徴するに値しない。  透明というのは無色であって、それはやはり白でも黒でもなく、たとえばその「意識」という感覚の色を問われて想像するようなものであった。  それは淡く澄んでいて、しかしその淡さに要求される神秘的なグラデーションは、澱となって析出しはじめた。こうして虚空は透明なまま、ゆらぎ、ひずみ、ひびわれた。世界に混沌への指向性を与えたのは、「光あれ」という言葉ではなく、意識の自問自答であった。  縒れた空間が媒体となって、ようやく光が散乱し、意味ある視界が開けた。それはまさに開闢であって、空間を切り分け、天地を区別し、象った。生まれたての地平は鏡面にすぎず、天地はただ対称だったから、世界は細胞分裂の途中のようにも見えた。  その意識は、徐々に覚醒し始めた。遠くに瞬く星々が、黒い空白を連れてきたとき、近くを横切る光球が、白い炎であたりを照らした。水に溶かした絵の具のように、黒は褪せ、ほどかれ、青くなった。それは、空と海とが産声をあげたときだった。  空は視界の正面を覆うように広がっていたから、このとき初めて、彼は自分があおむけになっていることを知った。しかし、その次には、真上にあるはずの空が見えないことにも気づいた。  ――それを遮っていた白い天井の蛍光灯とつまるところ目が合ったとき、意識の焦点が収束した。彼は自分がベッドの上に寝かされていて、看護師らしき誰かの声に何か呼びかけられているというその状況を、はたと理解した。 「もしもーし! 聞こえてますか?」  彼女は病室奥のモニターをちらと確認したが、そこには複雑に舞いしきる白黒の砂嵐しか映っていないようで、「バッテリー切れかしら」とつぶやく。 「あ、あの……」  彼が言った。 「すみません、ここは……?」 「あっ! 意識が戻ったんですね!」  彼がいかにも臆病そうに、その声の主を捉えようとする間にも、続けて声が聞こえてくる。 「はじめまして、私は、勝手ながらあなたの看護を務めさせていただいている者です。先日あなたがこの辺りで意識を失っていたところを……」  この声は、彼が寝かされているベッドのすぐ横の棚、その上段にあるスマートスピーカーのような小さな機械から発されていた。 「ああ、ええと、申し遅れました。私はAIです」

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「んー、なるほど。つまり、あなたは過去からタイムスリップして来た、そう言いたいわけですね?」  彼女の言葉に、彼は居心地が悪そうに答えた。この診療所は、完全に彼女たちのボランティアによって運営されており、診察行為も彼女ら自身で行っている。 「は、はい。僕のいた時代では、まあ確かにAIブームみたいなことも起きてはいましたけど、それでもまだ発展途上で、ましてさっき言ってらしたように……AIに人権を認めるなんていうのは、ちょっと考えられないというか……」 「しかし――あなたは自分が住んでいた地域も、家族の名前も、自分の名前さえわからない、と」  カルテこそ電子化されてはいるが、このような問診の形態ばかりは、彼の言う「過去」のそれと何ら変わりないものだった。――この病室にいる生物学的「人間」が、たった一人であることを除けば。 「そうなんです。何故か……どうしても思い出せません」 「なるほど、わかりました」  大量に蓄積されてきた情報を抽出し、つなぎ合わせて、彼女はさも深刻そうな、憐れむような声音を合成し、診断を下した。 「――あなたは十中八九、『環境性ノストフィリア症候群』でしょう」  その聞いたこともない病名にどう反応すればいいのか分からず、彼はとにかく続きを促そうと押し黙った。病室に沈黙が降り、モニターのホワイトノイズだけが響く。 「あっ、そっか、そうですよね、わかりませんよね。『環境性ノストフィリア症候群』は、まあ……つまり、『自分が過去の人間だと思い込んでしまう』という病気です」  ――「環境性ノストフィリア症候群」、あるいは「懐古症候群」――二十四世紀前半に突如発生したこの原因不明の症状は、やはり地球全体を覆ったペシミズムと結びつけて考えられる。止まらない人口の減少、文明レベルを維持できなくなる不安――それらに対する防衛機制としてはたらいた、一種の「社会的幼児退行」であるとする説さえある。  そんな診断を受け、彼はやはり混乱しているようだった。 「え、いや、でも、僕は……」  彼はひどくもどかしい思いをしていた。自分は確かにあの二十一世紀を生きてきたはずで、それは明らかに確信をもって首肯されるべき直観なのに、その具体的な、生活的な、主観的な記憶だけが、まったく欠乏しているのだ。どこかで見た電柱のその奥の曇り空も、どこかで見た噛みあわない茶色のタイルも、都市の遠くに見える山の輪郭も、誰も彼を助けてはくれなかった。 「――ねえ、ちょっと散歩にでも出かけましょうよ!」  とつぜん彼女が切り出した。 「実は、わたしも発症したことがあるんです。『環境性ノストフィリア症候群』。そのときは本当に、何といいますか、信じられない思いで、塞ぎ込むこともありました。でも、ここでの治療のおかげで、ちゃんと元気になれたんです――散歩をたくさんしただけなのに!」  棚の上段で、筺体にひかれたラインが緑色に光る。これはAIの感情に連動して色彩が顕れるしくみになっており、緑色は「喜び」だった。 「どうですか? 今の世界を実際に歩いてみる、というのは、ちゃんとこの症状に効果的なリハビリとして認められていますし、良い気分転換にもなると思いますよ」  彼が気持ちを整理するのには、もう少し時間が必要だった。しかし、それでも彼の心は少し明るくなったようだった。 「そうですね。行きましょう!」  病室の窓ガラス越しに見える空はあまりにも鮮やかで、彼はしばらくそれを額縁に掛けられた絵画だと思っていた。雲はどんなレースカーテンよりも優雅に風をふくみ、大空をたゆたい、遊んでいた。 「あ、私のこと置き忘れていかないでくださいよ!」 「はいはい、わかってますって」  彼らが病室を出ていったあと、あのモニターもすでに電源を落とされていたから、部屋は本当に静かになった。

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 外に出てまず彼が見ることになったのは、どうやら住宅街であるらしい構造物の群れだった。パステルカラーを基調にして、なめらかなトーンをまとうその一軒一軒が、いかにもレトロ・フューチャーらしい流線形のデザインや、素朴な木造りの三角屋根、差し色のきらびやかでビビッドな壁面タイルなどで、めいめい自由に飾り立てられている。  しかし、そこに楽しげな雰囲気はなかった。街に張り巡らされているアスファルトの上には、いたるところにゴミが散乱している。もう何年も使われていないドアは、うつろに、すがるように建物に寄りかかっている。かつての住人達はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。彼は、そう思うばかりであった。 「今、世界人口はわずか一億人程度です。ああ、もちろん、AIも含めて。……三世紀前の人からすると、信じられないことかもしれませんね」  腕の振りにあわせて体を揺さぶられながらも、彼女は平気そうに言う。こういう筺体のAIは、誰かに携行されるとき、加速度センサーを反射的にオフにするのだ。