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童話案1
 その日は初夏で、花残り月と教室海の日だった。花残り月というのは満月の中でも特別な月で、教室海と重なることは滅多にないから、澪はいつになく上機嫌だった。教室で彼女だけが持つ不思議で神聖な雰囲気も、この日はいくらか増していた。
「今日こそは、金魚がいるといいな」
 窓際で弁当を広げている澪が目を輝かせて言った。窓から、夏のはじまりを告げる透き通った風が吹いていた。教室は昼休みの賑やかな雰囲気に満たされ、喜怒哀楽様々な声が、ステンドグラスを通って降り注ぐ色とりどりの光のように散乱していた。
「僕は金魚なんていなくていいと思うんだ」
 澪の向かい側に座る颯は、鶏肉の照り焼きを口に運びながら言った。
「でも、きっといるよ。鯉さんもいたし」
 澪は、涼しげな色のセーラー服に溢したソースを、真っ赤なリボンで拭き取りながら答えた。
「花残り月の時は何が起こるかわからない」  
 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して渡し、セーラー服とリボンにできた小さな染みを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭った。
「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけないよ。汚くなってしまうし、少し下品だ」  そっか、と澪は笑った。
「ありがとう」  
 強い風が吹き、それに合わせてピンクの薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。  
 気怠げな午後の授業もおざなりに、放課後はすぐにやってきた。帰りの挨拶を終えた教室はくす玉を割ったように華やかに散らばり、各々が各々の持ち場へと移動を始める。  
 澪は窓の外に、透明でどこまでも続きそうな空を認めて、こんな日にトラックを思い切り走れたら気持ちいいだろうなと思った。でも今日は早く帰りたかったから、運動着の入った巾着袋を前に暫く思案していたものの、結局は、待っていてくれた同じ陸上部の友人に「今日は休むことにする」と言って帰る準備を始めた。
「体調悪いようには見えないけど、用事?」
「今日は特別な日だから早く帰りたいんだ」  
 澪は巾着袋を鞄にしまいながら素っ気なく答えた。それまで心配そうにしていた彼女は、返事を聞くと得意げに目を細め、澪に顔を近づけると、小さくからかうように言った。
「颯くんと帰るの?」
「違うよ」  
 澪は作業を続けながらさっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。彼女は満足そうな顔をして澪に背を向けると「じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
「颯」  
 周りを囲んでいた集団が居なくなり、本を読んでいた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。
「もう行かない?」  
 颯は開いていた本をパタンと閉じると
「待たせてごめん。そろそろ帰ろう」  
と言った。その言葉を聴くと澪は日が差したように笑顔になって
「うん」  
と元気よく返事をした。  
 颯は自転車を押して、澪はリュックに両手を掛けて、二人は青葉の繁る家路を気ままに辿った。夏がすでに始まっているものの、あたりにまだ春の残り香が立ち込めているのは、山から降りてきた雪溶け水のせせらぎが、暑さを優しく受け流しているからだった。土手を歩く二人の間には、爽やかな水色の風が吹いていた。  
 橋を渡って急な階段を登りきると、家のある所まで伸びる、黄金色の長い坂道が現れる。颯はペダルに足を掛けると、澪に後ろに乗るよう促した。澪が腹にしっかりと手を回したのを確認すると、颯は坂道を風のように下った。長い長い坂道も二人には、列を並んでやっと乗ることのできた観覧車のように、ほんの一瞬に感じられた。午後の陽光に照らされた二人乗りの自転車は、清流に住う鮎のように、生き生きとした銀色を反射していた。  
 静かな夜だった。花残りの、薄く紫がかった月明かりが辺りを淡く照らし出していた。二人は約束した通りの時間に落ち合い、学校へと向かった。
「ちゃんと持ってきた?」  
 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の小瓶を、「安心して」というように掲げた。  
 二人は通学路を歩いた。毎日征く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。  
 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
「月が明るいね」と澪が言った。
「本が読めそうだ」  
 水面に映る月の翳を見ながら、颯はふと、独り言のようにそう言った。  
 道の先に校舎が見えた。昼間はどこかひなびた雰囲気で、生徒を優しく包み込むような、そういった親しげがあるのだが、溢れんばかりの月光に見出された夜の校舎は、神秘的なものに様変わりしていた。  
 鎖が巻かれた校門をすらりと飛び越えると、颯は周りを見回した。  
 花残り月の光にはいくつかの効用がある。それが桜の樹を照らすとき、桜は満開の花を咲かすのだ。昼間は葉ばかりだった校庭を囲む桜の樹たちは、うっすらと桃色を帯びて光る花弁をひらひらと風に靡かせ、誇らしげに佇んでいた。校庭は仄かに、春の匂いがする。  
 颯は澪が校門を乗り越えるのを手伝った。  
 いつも開かれている窓から校舎の中へと入る。誰もいない廊下は心なしか広く長く見えて、澪は反射的に颯の手を握った。  
 階段を上がって、二人の教室へ向かうと、廊下に面した窓から漏れた光が、ゆらりと、気持ちよさそうに揺れているのを澪は認めた。  
 逸る気持ちを抑えつつ、あくまで場の静謐を侵さぬよう、澪はゆっくりと教室の扉を開いた。  
 風のようなものが、瞬く間に二人を覆った。  
 嗅覚が一瞬にして奪われて、代わりに心地よい浮遊感が与えられる。  
 そこは海の中だった。  
 海の中と言っても教室海の中だから、周りは見慣れたいつものままで、ただ学校中の空気がそっくりそのまま海水に置き換わってしまったような具合だ。
「何回ここへ来ても慣れないな」  
 颯が呟くと、口から漏れた水泡の群れがくぐもった優しげな音を立てて上昇する。息はできる。しかし身体を動かすと、水の抵抗がしっかりと行手を阻む。不思議な感覚だ。  
 澪は徐に窓辺へと泳いだ。颯はそれを追いかける。いつもはそこから見下ろせる校庭は深い海の底のような闇に沈んで、窓の外は遥か頭上に花残りの月がぽつんと浮かんでいるばかりだった。咲き乱れていた桜も、今はもう全く見えない。
「あ、かわいい」  
 手のひら大の、鮮やかな黄色の筋が背中に入った魚が澪の顔を掠めて泳ぎ去る。その一匹に付いていくようにして二、三十匹の群れが教室をぐるりと回ると、二人が入った方の扉から仲良く廊下へ出ていった。
「ユメウメイロって魚じゃないかな。食べると美味しいやつだ」  
 颯が戯けてそう言うと、澪が笑いながら颯の脇を小突いた。
「駄目だよそんなこと言っちゃ。神様なんだから、怒られちゃうかもよ」  
 そう、ここにいる魚は皆神様なのだ。澪はそれを、亡くなった祖母から教わった。教室海の話を聞いたのは、澪が初めて教室海に行くよりずっと前のことだ。
 「大丈夫。きっと赦してくれるよ」  
 良く見ると、いつの間にか周りは色もかたちも様々な海の生き物達で溢れている。  
 黒板からは艶々とした赤い珊瑚が伸びている。古びた机の上では青を閉じ込めたような海牛がせっせと動いている。真っ赤な小魚がロッカーに生えた水草の間をすいすいと泳いでいる。銀色に光る魚の群れが複雑な軌道を描きながら一体感を持って水を切ってゆく。  
 月は段々と高度を上げて、辺りはますます明るくなっていた。
「金魚を探しに行こう」と澪が言った。  
 廊下へ出るとそこには、紡錘形のざらざらとした体に、凶悪な顔をしたサメがゆうゆうと泳いでいた。襲われるような心配は無いとわかっていたが、それでもぴんと張った緊張感が二人の動きを止めた。サメが角の向こうに行くまで、二人は静かにしていた。
「もしかしたら話せたかもしれないね。すごく大きかったし」  
 澪が強がりの笑顔でそう言った。  
 魚たちの中には、稀に言葉を扱える者もいて、彼らは特別な力を持っているのだ。これも澪の祖母から聞いた話だった。実際澪も、何度か話したことがある。丁度前回の教室海の時、澪は願った物をなんでも、鰭を振るうだけで用意できるという鯉に出会った。鯉は大らかで優しく、澪は当時流行っていたテレビ番組のキャラのブレスレットを、颯は分厚い魚の図鑑をそれぞれ貰ったのだ。  
 生徒玄関には小さな黄色い魚がたくさん泳いでいた。靴箱をひとつひとつ確認したものの、金魚は居なかった。澪の靴箱には顰めっ面の丸いオコゼがすっぽりと収まっていた。  
 理科室に置いてある試験管からは長短豊かなチンアナゴが顔を覗かせていた。人体模型にはウツボが巻き付いていた。けれど、金魚は居ない。二人は職員室や他の教室を丹念に探したけれど、結局金魚は見つからなかった。  
 月が昇り、魚の数はどんどん増えていた。月が真上にある時が教室海のピークで、魚の数は一番多くなる。そして、傾くにつれて魚は姿を消し、教室海は最後に微睡の間に夢と交わる。やがて教室は普段の教室に戻る。  
 放送室を探していた時に、颯が言った。
「そうだ、音楽室に行こうよ。鯉さんなら助けてくれるかもしれない」  
 音楽室の扉を開けると、澪はグランドピアノへ泳いだ。音楽室には燻したような銀色の、細く長い体をした魚が月光に揺れ漂っていた。
「すごい、リュウグウノツカイだよ。本当の海じゃ、すっごく珍しいんだ」  
 興奮気味に澪を追いかける颯の横を鮎の群れがびゅんびゅんと追い抜いていく。教室海では、海魚も川魚もない混ぜだ。  
 鍵盤蓋を持ち上げると、澪は目を瞑って鍵盤に指を置いた。颯は様子の変わった澪を、少し心配そうに見つめた。  
 澪は息を吸い込んだ。どこかから聞こえるくぐもった水泡の音。静かな水の流れ。  
 澪の指が、鍵盤を優しく撫でた。  
 壁に耳をあててやっと聞こえるような繊細なピアニッシモから、その曲は幕を開ける。  
 花残り月の光。アンダンティーノの雨垂れ。  
 全ての物音を水が邪魔する教室海で、ピアノの音だけが澄んで響く。  
 防音の重い扉が誰が触るとなく開き、胸鰭の付け根に黒い点があって、尾鰭が黄色の魚が現れた。鯵だ。最初の一匹を皮切りに、次から次へと同じ姿の魚たちが、競うように入り込んでくる。  
 鯵の群集はそのまま音楽室の高い天井目一杯に群れを成し、きらきらと月の光を反射しながら、巨大な銀の鏡のような魚群となって、ふわふわといたリュウグウノツカイの周りを周回し、幾らも経たないうちに完全に覆い隠してしまう。  
 凭れるような音色の中に、儚い優しさが潜む。鯵の群れは一つの意志を持ったの筋肉のように収縮する。まるで澪の演奏に合わせて幾千もの鯵が踊っている、そんな感覚を颯は覚えた。  
 やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。  
 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは姿を消しており、代わりに途轍もなく大きな、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね。……どうもありがとう」  
 鯉は心が震えるような声をしている。
「久しぶりだね。鯉さん」  
 澪は親しげに話し掛ける。
「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
「君たちはすごく大きなったんだね」  
 鯉はしみじみ、そう言った。
「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
「鯉さんは前に僕たちにプレゼントをくれた。そんなふうに、僕らの質問に答えをくれることはできる?」  
 鯉は宝石のような澪の眼差しに射抜かれて、困ったようにくるりと回った。
「質問の種類にもよる。けれど、大抵の事なら答えられるはずだよ。さあ話してごらん」  
 澪は手を叩いて喜ぶと、すぐに言った。
「私、金魚さんがどこにいるか知りたいの」
「わかったよ。やってみよう」  
 鯉は和かに、胸鰭を優雅に動かした。
「金魚は花残りの月が真上に昇る時に、君たちの教室に現れる」  
 鯉の言葉に、颯は窓の外を見上げた。いつの間にか、月は大分高くなっている。
「澪、急がなきゃみたいだ」
「そうだね。鯉さんありがとう。また今度……」と言って先を急ぐ澪の手を、颯は掴んだ。
「待って澪。瓶を頂戴」  
 澪ははっと思い出した顔をして、首からコルク瓶を取り、颯に渡した。
「鯉さん、僕らに教室海の水をください。絶対無くならないよう、この瓶に詰めて」
「いいよ。勿論だとも」  
 鯉は再び胸鰭を動かした。空気を閉じ込めていた小さな瓶は教室海の水で満たされた。
「ありがとう。さようなら、鯉さん」
「さようなら」  
 慌てて駆けて行く二人の背中を見ながら、鯉は淋しそうにそう言った。  
 二人は静かな校舎を急いだ。魚たちはさらに数を増やしており、見渡す限りが生き物に埋め尽くされていた。颯は昔訪れた沖縄の水族館を思い出した。その時は水族館の光景を、教室海に似ていると思ったのだ。  
 二匹のマンタが、二人の頭上を覆い被さるように横切る。カワハギに似た魚が階段の手すりに沿って泳いでいる。手の甲よりも小さなフグたちが、踊り場につけた嵌め殺し窓の枠の周りをせっせとつつきながら、小さな鰭を懸命に動かしている。
「よく考えたら、海亀を見たことがないね」  
と澪が言うと、
「確かにそうだ。でもどこかにいるかもしれないよ。教室海は広い」と颯は言う。  
 澪は視界の端に途方もなく大きな尾鰭が家庭科室のドアから覗いているのを見つけた。
「そうだといいな」  
 鰭が消えていくのを見ながら、澪は呟いた。  
 二人は魚を掻き分け、やっとのことで教室に到着した。時計の秒針が零時に重なる、ほんの少し前のことだった。  
 扉を開けると教室は、溢れんばかりの月光で満たされていた。二人がはじめにいた時より、生き物の数は格段に増えていた。  
 海の生き物の息遣いがだけが聞こえる。  
 花残りの月が、教室海に零時を告げた。  
 黒板が、柔らかなオレンジに染まり始める。炎のようなその光は枠をなぞるように流れ、次第に黒板全体に浸透してゆく。  
 二人はその様を、息を呑んで見つめていた。  
 炎はやがてひとつにまとまり、ぼんやりとした膜が生じたと思うと、いつの間にか可愛らしい、見慣れた魚に姿を変えた。  
 金魚だ。
「こんばんは」  
 金魚が静かな声で言った。
「こんばんは」と澪がペコリとお辞儀をした。  
 颯は黙って澪の右後ろに立っている。
「君たちも、未来の事を知りたいのかい?」  
 先に言われてしまったから、澪は中途半端に開きかけた口を噤むと、頷いた。  
 金魚は暫く黙っていたが、やがてゆっくりと泳ぎ始めた。金魚の優雅なオレンジ色の体は、教室にきらきらと輝く軌道を描いた。二人は静かに金魚を待った。周りの生き物たちも息を潜めていた。長い時間を掛けて再び二人の前に戻ると、金魚は言った。
「君たちに話す未来は無い」  
 その言葉を聞いた澪は悲しい顔をしたが、諦めることができなくて食い下がった。
「どうして? あなたは全て知ってるのでしょう?」  
 金魚は嘆息すると、聡明な眼で二人を見た。そして優しい声でこう答えた。
「君たちに話したくないんだ。君たちの未来が暗いと言うわけじゃない。未来を知るということ自体が褒められたことじゃないんだ」  
 颯は澪の手を握る。いつの間にか、澪は涙を流している。
「私は怖い。金魚さん、私は未来が恐ろしいの。私はずっと、颯と一緒に居たい」  
 嗚咽混じりと澪の言葉に、金魚は笑った。
「わかった。じゃあ君たちに、少しだけ未来を教えてあげよう。これくらいなら大丈夫」  
 澪は金魚の言葉を聞くと顔をあげた。教室海の中で澪の涙がぽろぽろと浮かんでいた。
「君たちは、もう大人になるんだ。だからここに来るのも、今日が最後だ」  
 颯は握る手を強めた。そして、
「泣かないで澪。大丈夫。僕は澪を置いてったりなんかしない。安心していいんだ。未来は、僕らが決めるものなんだよ」  
と言って精一杯微笑んだ。  
 月の光が差して、二人を包み込む。
「もうさよならの時間だ」と金魚が言う。
「さよなら金魚さん」澪は言った。  
 二人を包んでいた黄色い光は砂粒のようになって拡散した。それに合わせて教室海はゆっくりと解体されていく。生き物は月の砂に触れると溶けてそれに同化し、またそれが拡散していった。辺りいっぱいが光に包まれたところで、二人は目を閉じた。  
 目を覚ますと教室で、二人は机を挟んで窓際に座っていた。月はもう沈んでしまって、校庭の桜はほとんど葉桜になっていた。  
 清らかな初夏の朝日が、山間から顔を出す。遠くから、朝を告げる鳴き声が聞こえる。  
 教室海の存在はまるで胎児の時の記憶のように輪郭をなくし、午睡の夢のように霞んでいた。しかし澪の胸には、月光を含んだ教室海の水を、健気に湛えた小瓶があるのだった。  
 二人は静かな朝の教室で、初めてのキスを交わした。  
 真夏が、もう間も無くやって来る。