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 デイドリーム・ビリーバー

 一九八七 冬 東京

 午前六時、いつもの時間。僕は目覚ましの音で目を覚ました。東京はすっかり人肌恋しい季節になってしまって、布団から出るのも億劫だ。  甘い誘惑に後ろ髪を引かれながらも、羽毛布団を捲り立ち上がる。目をこすって眠気を払い、うんと伸びをする。僕は顔を洗わないと起きない性質で、すぐさま洗面所へ向かう。そして毎日する様に冷たい水で顔を洗い、泡をつけて髭を剃る。  いつもはこれで目が覚める。しかし、今日は何かが違うようだ。夢をみていたせいだろう。思考はまだ、涙越しの夜景のようにぼやけて、使い古されたワンピースのようにほつれていた。 「しっかりしてくれよ」  僕は鏡の中の自分に向かって言う。僕は詩人だ。あの夏からずっと。だから僕は言葉を紡がなきゃいけない。そうだろう?――  深藍のコートを羽織って僕は外に出た。これから僕は新宿の大きな書店に行く。本を買うためだ。  東京の冬は寒い。気温じゃない、このビル群のどこかに隠れた恐ろしく冷たい何かが僕の肌を刺す。  でも、今日は違った。まだ夢を見ているかのような感覚で、厚いベールに覆われているかのように暖かかった。  仕方なく僕は今日見た夢のことを考える。あの暑さ、青さは多分、あの夏だ。あの夏君は確かにクイーンで、僕は白馬の騎士になることができたはずだった。しかし彼女は零時の鐘が鳴るのときっかり同時に僕の前から消えてしまい、そこには輝くガラスの靴だけが残されていた。  だから僕は、詩人になった。  あの夏のことは今ではもう白昼夢のようだ。僕はそれだけを信じて、今日も言葉を創る。

 ✳︎ ✴︎ ❇︎


 一九六九 夏 海辺の町


 そこは、白と青で溢れる海辺の小さな町だった。  僕は十五歳の夏をこの場所で過ごしていた。夏休みの間だけ、父の家があるこの町に来ていたのだ。彼の家は歩いて一分とかからず海へと行ける場所にあった。  僕は父が苦手だった。物心つくまで祖母に育てられた僕は、その祖母が死んで間もなく寄宿舎付きの高校へ進学した。これは父から離れるためであった。彼と同じ家で生活することは、僕にとって耐え難い苦痛だったのだ。  父は僕が帰って来ていた夏の間、僕との接触をできるだけ避けるように生活していた。彼は僕が起きるよりずっと早く仕事に出て、僕が寝るよりもずっと遅い時間にアルコールの匂いを撒き散らしながら帰ってきた。僕も敢えて彼を追ったりはしなかった。殆ど馴染みのないこの町で、僕は一人だった。


 僕には小遣いが与えられていたが、それは食費が払える最低限のものであった。だから僕は娯楽にお金を割くために、食事の回数を減らす必要があった。   ここでいう僕の娯楽は読書だ。僕は、言葉遊びと読書が好きな少年だった。僕は本をよく読み、それに心を動かされ、そのたびに夢を見た。恐ろしい小説を読んだら、暗闇を見つけるとそれを避けた。恋愛小説を読んだら、気になっていた女の子に声を掛けた。美しい詩を読んだら、そんな文章を書くことを夢見た。多感な時期だった。  とにかく、僕はその頃本に夢中だった。そして、この町に来てから四度の朝食を我慢することで、一冊の本が買えるだけのお金を貯めることに成功した。  五日目に、一番近くの本屋を訪れた。表通りを西側に逸れたところにある、こじんまりとした木造の書店だった。その二階は居住区になっていて、歪な感じがしていた。そのためか、建物全体に何か妖艶な、人を惹きつける雰囲気が醸し出されていた。  扉を開けて中へ入り、本特有のあの匂いを胸の奥まで吸い込む。いい匂いだ。その店の内装はアンティークショップのように統一されていて、細かい造形まで拘っているのが容易にわかるくらい隅々まで洗練されていた。しかし、そのデザインへの気配りとは裏腹に置かれていた本はほとんどが古本だった。探していた本もそこにはなかった。そこで、僕は目に付いた一冊を手に取り、それをカウンターへ持っていった。カウンターには、父親くらいの歳の酷く太った主人が、不愉快そうに座っていた。 「これ、お願いします」  僕は持っていた本を彼に手渡す。彼は黙ってそれを受け取った。選んだ本は古本なため金額に余裕があり、レジの隣に置かれていた小さな手作りの栞も一緒にお願いした。うまくデフォルメされた海の絵が描かれた、紙製のかわいらしい栞だった。肥満主人はしばらくブックカバーを付けていたが、それが終わるとその大きな体を細かく動かしながらお釣りを数えている様だった。その作業が完了すると、紙袋に入れられた商品を押し付ける様にして僕に渡した。  形だけのお礼を言って店を出ると、僕は期待の詰まった紙袋を胸に家に帰った。しかし、買ったは良いものの、それは真白な砂浜で読むには暗すぎる小説だったために、読みはじめたのはもう少し、後になってからのことだった。


 本を買って一週間ほど経った、とても暑い日のことだった。その頃にはもう僕は、四六時中聴こえてくる単調な波の音や、アスファルトを焦がすサディスティックな日差しに辟易していた。手垢のついたペパーバックにも、ほとほと飽きていた。一番近い砂浜にあるパーラーでランチを食べ終えた僕は、そのままその浜で海を眺めていた。どこからか無駄にハイテンションなラジオの声が聞こえていた。  ――ハロォウ。ディスイズスウィングロックミュージック。たった今からこのラジオは毎週火曜午後ニ時から始まる、スウィングロックミュージックのお時間だ。俺はパーソナリティのアンソニー・フィールドだ、よろしくな。この番組ではみんなのリクエストを待ってるぞ。恋のエピソードと一緒にダイヤルを回してくれ。今日のテーマは「ひと夏の恋」だ。じゃんじゃん送ってくれ――  興味のないラジオの音は、まるで周波数をずらしたかのように聞こえなくなっていった。僕は、お洒落な造りの電灯に止まっている騒々しいカモメたちの声に耳を傾けた。そして、ひたすら海鑑賞を続行した。ターコイズの美しい海だった。僕はただ物を眺めるのが好きな少年でもあった。  急に背後から声がした。 「あなた、この海のどこが好き?」  振り返るとホリゾン・ブルーのワンピースを着た少女がすらりと立っていた。麦藁帽子を深く被っている。この町では珍しい、百合ような白い肌をしている。  この街に来て満足に人と会話していない僕は固まったまま、彼女の顔を見ていた。すると、彼女は聴こえてないのかと問いただすようなきつめの口調で、もう一度言った。 「あなたは、海のどこが好きなのかしら?」  睨まれた僕は、彼女の態度にすこし驚いたが、すぐに答えた。 「別に海が好きなわけではないよ」 「あら、そうなの」  彼女はさぞ意外だというふうに言った。 「じゃあ、なんで海なんか眺めてるの?」 「海を見ているんじゃない――」  僕は海へ向き直りまっすぐ遠くを指差した。 「――水平線を見ているんだ」 「水平線も海じゃない」 「違うよ」  しばしの沈黙の後、少女はまるでそれが当たり前のことだというように、ごく自然に僕の左隣に腰を下ろした。そしてしばらく、二人は黙って海をみていた。いつの間にかラジオでは数年前に流行ったラブソングが流れている。曲名は、思い出せない。 「この街に来るひとはみんな、海が好きなのだと思っていたわ」  彼女は言った。 「だって、海とパブしかない街よ」 「僕は好きでこの街に来たわけではないから」 「そうなのね」  再び沈黙が僕らに降りかかる。今度は僕が質問してみた。 「君はこの街に暮らしてるの?」  答えは返ってこなかった。僕は水平線から目を離し、彼女の顔を見た。彼女はダークグレーの瞳に涙を浮かべて俯いていた。残念ながら僕は、こんな時何をすべきかを心得ているような立派な男ではなかったから、僕は何もせず彼女から目を逸らし、再び水平線へ向き直った。そしてしばらく彼女と波の音に耳を傾けているような気分になった。次に振り返った時には、もう彼女はいなかった。  そこにはただ純白の砂浜があるだけだった。  ――うんうんそうだ、そうだろうな。R.N“恋するコウモリ”ちゃん。少しは参考になったかい? よしっ、これで君の悩みは解決さ。来週のこの時間、成功のお便り待ってるぜ。俺は昔は無口でつまらない奴だった。そんな俺を今のようなグッド・ガイに変えたのは“経験”さ。悩んでる子は経験しろ。経験が君を助けてくれるんだ――  数羽のカモメが海岸から飛んできて、僕の目前で上昇していった。僕はその群れを目で追って空を見上げた。空の青にカモメの白さが映えていた。


 僕の父はバイクが好きな人だった。彼のガレージは常に、バイクのカスタムパーツで埋まっていた。彼の愛車は五〇年式のトライアンフ六Tサンダーバード。昔のイギリスにタイムスリップしたような車体と響き渡る心地よいエンジンの音。彼の趣味はイカしてたと今となっては思うが、当時の僕にはその良さを見出すことは出来なかった。


 少女と出会った三日後の夜。僕は海岸の、あのお洒落な電灯の下で読書をしていた。本を読んでいる僕の周りだけぽっかりと空いた穴のように丸く光っていた。その夜は新月で、あたりはペンタ・ブラックで塗り潰したように暗かった。昼間のあの茹だるような暑さは、すっかり息を潜めていた。  物語では純真な心を持った少年が川原でひとり空を見上げ、月と話をしていた。 「月さん、あなたはどうしてそんな高くに、一人で居るんだい?」 「それはね、私は夜でもあなたたちを照らすために、光り続けなければいけないからよ。みんなを照らすには、うんと高いところからじゃないとね」  少年は手に持っていた本を空へ掲げて再び言う。 「でも、そこからじゃこの本の文字が読めないじゃないか」 「そうね、たしかに。でも、それでいいのよ。私は本を読めない。だから、本を読めるあなた達が私のことを本に書いてくれればいいの」  少年は諦めずに続けた。 「でも、それだけじゃないよ。あなたはこの小さなクリスタルの砂の、ちらちらと輝く光を見ることはできないんだよ」 「もちろんできないわよ。でも、それでいいの。私だって光っているんですもの。それに――きっとそのクリスタルの光は、私の光よ」  困った少年は、少し考えてから言った。 「じゃあ昼間は? 貴女は昼間を見たいとは思わない?」  そこで初めて月が片目を開ける。 「その……昼間というのは?」  月は昼間を知らないのだ。 「昼間っていうのは太陽が空高く登って、夜よりずっと明るくなって、みんなが動き出す時間のことだよ。貴女はずっと夜を照らしているから、昼間を知らないだろうけれど――」  月は、少年からありとあらゆる昼間の話を聞いた。そして彼の話を聞き終わる頃には、昼間をひと目で良いから見てみたい、そう思ってしまっていた。 「もう夜が明けそうだ。じゃあまたね」  少年が帰ってしまってからも、その思いは消えることはなかった。それどころか日が経ってゆくほどそれは強まっていくようだった。そして、話を聞いてからちょうどひと月が経った晩に、月は少年の許に降りてきた。 「こんばんは。私、どうしても昼間を見たくなって、空から降りてきたの」  嫋やかな少女は、顔を赤らめて言った。  少年は、そんな彼女に向かって微笑んだ。 「そうなんだ。夜もなかなかいいけれど、昼間もとってもいいところさ。きっと君も気にいるはず。光に照らされた世界を、僕と一緒に楽しもう――」  その日から、夜は闇に包まれた。月がいなくなったからだ。そこでは生きるもの全てが活動を止めた。無の世界になった。その代わりに、月は昼間を見ることができた。昼間は彼女にとって全てが新しく、美しかった。彼らは本を読んでは世界を旅し、太陽に手を透かしては目を細め、地平線の向こうまで広がる草原を疲れ果てるまで駆けた。そうして昼間を満喫し続けるうちに、彼女は少年に恋をした。少年も、全く同じ気持ちだった。世界で一番美しい二人の完成であった。  しかし、時の流れを止めることはできない。少年はいつしか青年になり、大人になり、老人になった。それに対して、彼女は出会った時の少女の姿のまま、老いることはなかった。そして老人になって、ほんのわずかの命となった男は少女にこう言った。 「ずっと君といたい。僕が死んだら、僕を星にしてくれ、永遠に君の近くに居られるように」  そう言い遺すと、彼の肉体は程なくして死んでしまった。  月は遠くへ行こうとする彼の魂の手をとり、空に上昇していった。彼を星にしたかったのだ。しかし、世界がこれを拒んだ。彼が星になることは叶わなかった。彼女はひかる涙を溢しながら、彼が逝こうとするのをただ見ていた。二人に残された最後の時間に、少年の姿となったその魂は言った。 「月さん、そんな顔をしないでおくれ。僕がいなくなっても、僕と過ごしたあの日々を君が覚えていてくれさえいれば。誰に忘れられたって、君さえ僕を覚えてくれていれば。僕はそれだけでいいんだ」  そう言って、彼は彼女に二人で過ごした昼間の思い出を手渡した。それは百年にも満たない非常に小さなものだったが、宇宙のどの星より輝いていた。やがて、彼の要素が完全にこの世界から去ってしまうと、彼女は遺された思い出を大事そうに抱えて、わし座の近くへと持っていった。それから彼女はずっと前にそうしていたように、元の位置に戻り、再び夜を照らし始めた。  それから彼女は言葉を発することはなかった。そうして今も静かに夜を照らしているらしい。一方、月と彼の輝く思い出はアルタイルと呼ばれ、今も夜空で一際眩い光を放っている。  読み終えた僕は、そっと本を閉じた。空を見上げたが、曇っていて星は見えなかった。僕は遥かな宇宙に心を馳せながらしばらく波の音を聞いていた。  僕がその本を開くことは、二度となかった。


 僕は家に帰った後、自室の窓辺でしばらくあの少女のことを考えていた。  彼女はなぜ泣いていたのだろうか。それは僕には知りようもない事だった。そもそも僕は、彼女のことを全く知らない。多分彼女はこの町の子供だろう。嫌なことでもあったのだろうか。もしかしたら僕が気に触ること言ったのかもしれない。どんな会話をしたのだっけ。  どれも上手く思い出せなかった。彼女のことを考えるほど、彼女は酷く曖昧で不確定なもののように思えた。まるで白昼夢のように。彼女は、本当に存在していたのか?  町の外れにある協会から、美しく響く鐘の音が聞こえてきた。この町では昼と夜の零時に鐘がなるのだ。その音色はしばらく僕の周りに漂い、そして仄かな香りを感じてだけを遺して消えていった。  時折――この街が孕んだ静寂の隙間に時折――微かに聞こえてくる波の音が、僕の中に残っていた彼女のかけらを少しずつ攫っていく。  見上げた空のように曇っていた思考は、最後の疑問で完全にほつれてしまった。だから僕は暫くして、考えるのをやめた。

   次の日、教会の鐘がなった頃、パーラーに向かうとカウンター席にあの少女がいた。彼女は幻なんかでは無かったのだ。彼女は目立つシアンのフレアドレスを着ていた。僕は彼女に声を掛けた。 「やあ、こんにちは」 「ああ、久しぶり……」  僕はその隣に座り、店員にフィッシュアンドチップスを頼んだ。 「君の名前は?」 「リア、茉莉花の莉に愛情の愛」  彼女はサイダーを一口、含んで言った。 「あなたは?」 「僕はクオって言うんだ。苦しいの苦に、王様の王」 「冗談でしょ?」 「自分の名前が嫌いなんだ」 「嘘つき」  僕は返事をしなかった。  彼女は僕が食べ終えるまで隣で待っていてくれた。そして、僕が最後のポテトを口に運び終えた時に言った。 「クオはこの町に来るのは、初めてなんでしょう? 私が案内してあげるわ。着いてきて」  彼女は立ち上がるとドレスの裾を軽くはたいて、こちらに手を伸ばしてきた。僕は以前も短い間だがこの町に住んでいて、今更案内が必要かと言われたら、そうではない。しかしこの街に来てからというもの暇を持て余していた僕は、彼女についていく気になった。 「では、お言葉に甘えて」  僕は出された手を、軽く握った。      僕らは、実にさまざまな話をしながら街を巡った。  彼女は、表通りの一番奥にあるパブのおじさんは機嫌が良い時にクッキーを無料でくれること。ニュースを見たい時には電気店のショーケースにあるテレビで見ることが出来ること。また、街を囲むようにして聳えるあのなだらかな丘はハルカ丘と呼ばれ、子供たちの遊び場になっていること。それぞれ回って教えてくれた。  それらは、僕の知らないことばかりだった。  僕はその代わりにいつも住んでいる街での暮らしを話した。寄宿舎と学校は少し離れていてその道のりに小洒落たカフェがあること。そのカフェのイチゴのシャルロットケーキが美味しいこと。けれど寄宿舎はぼろぼろで汚く、駅の真後ろに建っていて、騒音に酷く迷惑していることを話した。  彼女の話は面白かった。町を紹介してまわる彼女はとても輝いてみえた。その光が眩し過ぎたからか、僕は普段の自分の生活が面白味のない物に感じられて、少し悲しくなった。 「この町で一番美味しいカフェに行かない?」  僕の翳りはじめた表情を見てか、彼女は急に提案してきた。 「それはいい。近いの?」 「町の反対側だからちょっと歩くけど、すぐ着くわ」 「わかった」  この町はあまり大きくはない。反対側と言っても時間はかからなかった。十五分程でそこに着いた。 「ここだよ」  小さなカフェだった。客が何人か居て、この町の店にしては繁盛しているようだ。 「私のおすすめはティラミス。あと、人気なのはオレンジのパウンドケーキ」  彼女は愉快そうに笑って言った。  僕らは店に入り、窓の側の陽当たりのいいテーブルに座った。店内は当時には珍しくクーラーがついていた。繁盛しているのはクーラーのおかげかもしれない。とても涼しかった。  彼女が店員を呼ぶ。三十代半ばくらいの、全体的にパリッとした印象を受ける小柄な女性だった。 「あら、リア。久しぶりね。注文は決まったかしら?」  どうやらリアと彼女は初対面ではないようだ。 「こんにちは、メリイさん。今日はオレンジのパウンドケーキとグリーンティーにするわ。あと――」  彼女は(どうする?)とこちらを向く。 「僕はコーヒーとティラミスをお願いします」  メリイさんは厨房に向かって注文を叫ぶと、僕らに向き直りからかうように笑って言った。 「こりゃあ若いカップルさんたちね」 「そんなのではないですよ」 「あら、そうなの」  そう言いつつも、メリイさんの目からにやけた光は消えない。リアの方を見ると、彼女もこの状況を面白がっているようだ。ずっとにこにこしている。  メリイさんはその後、自分の飼い犬がいかに可愛らしいかについて語り、流行りのマイクロミニスカートと物価の上昇への愚痴を零した後、「じゃあ、ごゆっくり」とだけ言って厨房の奥へ消えていってしまった。気まぐれなひとだ。でもどうやら、リアとは相当仲が良いらしい。  店内はコーヒーと甘酸っぱいオレンジの匂いがした。ラジカセからウクレレの柔らかなメロディが流れていて、そこには弛緩した午後の空気が充満していた。  三分ほど待つと、メリイさんではない若い男の人がケーキを運んできてくれた。 「どうぞ」  彼の声は暖かく知性が感じられるいい声だった。それは絶妙な響きかたをして、僕の耳に暫く残った。  運ばれてきたティラミスは正方形で、上に小さなハーブが乗っていた。彼女のほうのパウンドケーキも華やかでなかなか美味しそうだ。  リアは終始にこにこしている。そんなに楽しみだったのだろうか。僕の期待は高まる。  スプーンを手に取り、ひとくち掬って口に運んだ。しっとりとした食感に、鼻に抜けるコーヒーの香り。そしてこの舌触り。うん、これは――  僕らは二人、同時に声を出していた。 「まずい!」


 僕らはひとしきり笑い合った後、なんとかケーキを平らげてカフェを出た。彼女のパウンドケーキもひとくちもらったが、それも酷い味だった。 「本当にあの店が一番美味しいところなの?」 「ここら辺では一番まずい。だけど、私の行きつけのカフェなのよ。雰囲気がいいでしょう」 「特にクーラーが効いてるところが」 「そうね」  彼女は笑った。 「でも、面白かったでしょ?」 「そうだね。面白かったよ」  ツアーの最後に、僕らはハルカ丘の頂上へ向かった。その頃にはもう日が傾いてきて、あたりが薄らと赤くなり始めていた。丘の上までは、新しい白い階段が整備されていた 「早くしないと……」  彼女が僕の手を引き、階段を駆け上がってゆく。町中を半日も回っていたのにすごい体力だ、と僕は思った。僕は引かれるままに登っていく。 「良かった。間に合ったわ」  頂上に着いた。そこは開けた場所になっていて、真ん中に小洒落た東屋が設置されていた。僕は完全に息が上がってしまっていて、下を向いてはあはあ言っていた。 「どうして、こんな急ぐ必要が、あったんだい?」  彼女は僕の疲れ果てた顔を覗き込み、そして優しく微笑んだ。 「これが見せたかったのよ」  顔を上げると、そこには美しい景色があった。今にも海に沈んでしまいそうな太陽が、最後の力を振り絞って町全体を染めている。僕は疲れを忘れてその風景に魅入っていた。僕らは鮮やかなオレンジの魔法に魅せられていた。それは彼女も同じだったようで、僕らは夕陽が沈んでしまっても暫く黙ったままでいた。いつの間にかマジックアワーも終わりに差し掛かってしまって、真上の空では星が瞬き始めたころに、僕は言った。 「リアは昼間の太陽より、沈む時の太陽の方が大きく見える理由を知ってる?」  彼女は少しの間考えていた。 「わからないわ。でも、確かに大きく見えたわ。光の屈折か何かかしら」 「実は目の錯覚らしいんだ。地平線に近いとサイズの比べられる建物とかが同じ視界に入ってしまって大きさの感じ方が変わってしまうんだって」  僕のうんちくを黙って聞いていた彼女は、ふと、寂しそうな顔をして言った。 「きっと、もっとロマンチックな理由があるはずよ」  彼女は空を見上げた。その視線の先、西の空高くに一際輝く星が見える。僕はそのアルタイルの、十七光年先の光を見ながら頷いた。 「きっとそうだな。そうに違いない――」

   太陽が完全に沈んだ後、僕らは丘を降りた。僕はいつもの海岸へ行くつもりで歩いていた。どうやら彼女の家とも方向が同じらしい。  今日の出来事を噛み締めながら歩いていると、いつの間にかあの書店の前に来ていた。すると彼女はそこで立ち止まり、僕に言った。 「ここが私の家なの。父さんが本屋をやっているのよ」 「そうなんだ」  僕はあの肥満主人を思い出した。彼女と彼はあまりに似ていなかった。 「先週この書店に行ったよ。一冊の本と栞を買ったんだ」  それを聞いた彼女は笑顔になって言った。 「その栞、私が作った物なのよ」 「それは凄い。とっても綺麗で、つい買ってしまったんだ」 「ありがとう。そんなに褒められると照れるわ」  彼女は風鈴のように笑った。そして、 「本が好きなの?」  と聞いてきた。僕は 「うん」  と答える。すると、彼女は耳元で囁いた。 「それなら、また明日、十二時に今日行ったカフェに来て。そして、今度は本の話をしましょう」  そう言うと彼女は、踵を返して家へと帰っていった。僕は彼女が玄関に入っていくのを見届けてから、海岸へ行くのをやめてそのまま家路を辿った。家に着くと、冷蔵庫からリンゴを取り出し、ナイフで切り分けて食べた。それから歯磨きを済ませて、ベッドに向かった。汗をかいていたが、シャワーは浴びなかった。  眠る前に僕はメリイさんの言葉とその返事について考えた。僕とリアは、決して恋人なんかではない。では僕らの関係はなんと呼べばいいのだろう? 友達? 知り合い? そもそも、僕らは知り合っていくらも経っていない。でも僕は彼女のことを考えるとどうにも落ち着かない気持ちになるのだ。  一先ずは、友達って事で良いのかな。  動いたからだろう、久しぶりによく眠れた。


 次の日あのカフェへ向かうと、彼女は奥の方の幾らかの本が置かれたテーブルで、静かな寝息を立てていた。  真昼の光に照らされ居眠りする彼女は、どこか静謐な感じがした。起こさずに暫くその顔を見ていたい欲求に駆られたものの、それを我慢して、僕は彼女に声をかけた。 「やあ、こんにちは」  僕の声を聞いた彼女はその繊細な造形の目を開くと、ゆっくりと上体を起こした。 「ん、あら……おはよう。いえ、こんにちは……思ったより、ずいぶん早いわね」  店の時計は十一時半を指していた。 「遅れたくなかったんだ。ところで、君はエンデが好きなのかい?」  僕はテーブルに広がった本を見て言った。ルイーゼ・カンデは十九世紀のドイツの作家だ。淡々とした文章の端々から隠し切れない上品さが滲み出てくるような味わい深い作風で、青春小説に近い純文学を多く書いている。 「そうね……うん。とっても好きなの。あの世界観というのかしら。ストーリーも好きだけど、それよりあのノスタルジックな文章が好きだわ」  僕は向かいの椅子に腰を降ろしながら言った。 「カンデなら、僕は『落ちうさぎの憂鬱』が一番好きだな。もちろん、彼女の作品は大概素晴らしいけれど。あの作品は頭ひとつ抜きん出てると思うんだ」 「私もそれ、大好きよ。たしか晩年の作品だったわよね。私はこおりうさぎが落ちうさぎだったことがわかった時ははっとしたわ――」  彼女はその年の女の子が皆そうであるように夢見がちな少女で、それでいて教養に富んで理知的で、そのうえ僕と趣味があった。僕らはいくらでも本の話ができた。  彼女は甘酸っぱい青春小説が好きで、清らな純文学が好きで、ラムネのように淡い詩歌が好きだった。


「ねぇ、クオ」 「なに?」 「私、大人になったら小説家になりたい」 「そうか。なれるといい。リアには向いてると思う」 「うん」 「なぁ、リア」 「どうしたの?」 「僕を君の本に出してくれよ。いつか君が書く時に」 「それは素敵ね。いいわよ。今少し考えてみるわ。あなたは……。あなたはきっと詩人の弟子ね」 「どうして弟子?」 「まだ未熟な気がするから。」 「じゃあ、僕からどんな物語が生まれるだろう? 君は僕にどんな物語が見える?」 「きっと――あなたは大切なものを知らないの。普通の人は当たりまえにもってるものを。そしてそれは最高の詩を書くのには必要不可欠なものなの。けれどあなたはそれを抜きにしてもキラリと光る、随分の才能を持っているの。だから師匠はあなたにそれを知ってもらおうと力を尽くすの。だけどあなたは理解ができない。何故ならそれは人から故意に教わるものではないから。それを知った師匠は教えるのを諦めて、あなたを旅に出すの。果てしなく長い長い旅にね」 「その旅の先はどこ?」 「それはきっと、大事なことじゃないわ。きっとそれよりも何倍も過程が大事なの」 「なかなかいいね。けれど僕は誰かの弟子ってタイプじゃないんじゃないかな」 「たしかにそうかもしれないわね……。じゃあこんなのはどうかしら。あなたはひとりの未熟な詩人なの。師匠なんて居なくて、そのうえ愛する人だって居ないの。好きになれそうな人だってね。あなたはその現実に絶望してしまって、長い間家に篭ってしまうの。けれどそんなあなたに手紙が届く。とっても遠くから来た、あなた宛じゃない愛の手紙。これは間違えて配達されたものだけど貴方は心を強く打たれるの。その手紙の持つ愛の純粋な力に。それかあなたは旅に出る。差出人を探すためにね」 「詩人であることと、旅をすることは変わらないんだ」 「そんな感じがするのよ。あなたは旅に出るべきなの。嫌かしら?」 「いや、とてもいいよ。何か、僕にぴったりな気がする」 「それは良かったわ。私がきっとその物語を書くわ。書いたら一番最初にあなたに送ってあげる」 「約束だよ」 「もちろん、約束よ」


 次の日、彼女は用があるらしく、僕はあの海岸に一人でいた。そして今度は砂浜に相応しい本を読んでいた。しかし、ページを捲る手はなかなか動かなかった。読みたいけれど進まない、そういう時があるのだ。仕方がないから僕は栞を挟んで本を閉じ、海を眺めはじめた。その日も太陽は手加減などするつもりがないといった様子で、素晴らしく強い光線で僕らを容赦なく焼き続けていた。そういえば、この町は本当に雨が降らないところだ。雲が出ていたのだって、あの新月の日くらいだった。そんなことを考えていると、どこからか――多分あのパーラーからだろう――いつぞやのラジオが流れてきた。  ――そんな男は早く忘れちまいな、コウモリちゃん。俺のラジオを聞くようなキュートでセンスのある女の子を振るなんて、そいつはとんだ大馬鹿者さ。君にはもっと良い人がいるって事だぜ。考えようによってはこれも経験なんじゃないか? ……まあ、そんなことはどうでもいいか。そういや、プラトンの言葉にこんなのがあったな。『音楽は、世界に魂を与え、精神に翼をあたえる。そして想像力に高揚を授け、あらゆるものに生命をさずける。』音楽は命をぶち撒いてくれるそうだ。かの有名なプラトンさんも言ってるんだ。一曲かまして忘れよう。じゃあ今日はコウモリちゃんが先週リクエストしてくれたあの曲を流すとしようか。そいつなんかこの歌を聞いてさっさと忘れちまうことだ。じゃあみんな、そしてコウモリちゃん、聞いてくれ、ザ・モンキーズで『Daydream Believer』――  ああ、思い出した。先週流れていたのはこの歌だ。たしか、恋人の惚気話のような歌詞だったはず。  アコースティックギターの柔らかなメロディがあたりに響いた。海から吹く青く澄んだ風が僕の真っ白なシャツをはためかせた。電灯の上に止まっていた海鳥が、共鳴するかのように二度羽ばたいた。いつものように波が押し寄せて、再び海の向こうへ戻って行った。僕は何だかリアに会いたくなった。急に会うべきだと思ってしまったのだった。そこに正常で論理的な思考は全くなかった。そして、そう思った時にはもう、僕は立ち上がっていた。突然湧いてきたその感情は、その時の僕にとって神に与えられた使命のようにも思えた。 「会いたい」  僕は走った。海岸を出て家の前を通り本通りを抜けて西へ走った。ひと休みもしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいのかもしれない。その時の僕は強大な恒星の引力に否応なく引き寄せられ、最後にはぶつかって砕け散ってしまう憐れな衛星だった。  しかし、書店に着いた僕は、店のドアから少し離れたところで立ち止まってしまった。まるで、ぴんとはった天糸がぷつんと切れてしまったかのように、僕は止まったのだ。彼女は誰もいない店内のレジで本を読んでいた。ひとりで本を読む彼女はとてもリラックスしている様子だった。そんな彼女を見て僕は自分が酷く場違いなところに居るような気がしてならなくなった。何故突然こんなところに走ってしまったのか。僕は初めての自分の行動――もはや自分の意志に関係無いところで煮えたぎる情熱のようなもの――に酷く混乱していた。  僕はそうしてその場所にしばらく立ち尽くしていた。その間に僕の時間の感覚はどんどん曖昧になっていった。僕はその時間を永遠にも、ほんの数秒だったようにも感じられた。それさえ判断がつかない程僕は混乱していたのだ。  視界が急に滲み、世界の輪郭が不安定になった。そして、水滴が頬を伝い、足の甲へぽつりと落ちた。僕は、泣いていた。しかし、これは全くもって哀切の涙なとではなかった。生まれたばかりの赤子がただ生まれたことを祝福して泣くような、歓喜の涙だった。  僕は自分の感情に追い越されて、完全に置いてけぼりにされていた。そして意識の方の僕は、僕の感情に追いつこうと必死になって後を追っていた。どれだけ経ったかはわからない。いつしか僕はいくら走っても今は追いつかない事に気づいていた。そして、それに気づいた僕は混乱するのをやめた。両手で涙を拭い、店の外から彼女をしっかりと見据えた。彼女は先程と変わらずに、、此方に気づくそぶりもなくただ黙々とページを捲っていた。  顔を見るだけで十分だ。どうしてだか、その時僕はそんな気分になっていた。


 月が少年と死ねなかったように、時は無情に過ぎていく。ひとつの夏は風を切る矢のようにして、刹那の間に過ぎ去ってゆく。      この街に来て、はじめて夕立が降った日だ。  ハルカ丘で夕陽を眺めていた時だった。この夕陽鑑賞は僕らのルーティンになっていた。しかしその日の西の空には雲があって、いつもなら力強い太陽の光は、幾らかか透けてしまっていた。  僕らは雨が降ることを知っていた。 「ねえリア」 「どうしたの?」  彼女はこちらを見た。 「明日、僕の街に行こう」  雲が迫ってきた。 「どうやって?」 「イカしたバイクを持ってるんだ」  僕は微笑んだ。  雨が降る。この夏も、長い間雨が降らなかったこの土地に、恵みを与えるような柔らかな雨だった。  暖かな雨に打たれながら、僕らは丘を後にした。


 次の日の朝、僕は父が出かけたのを見計らってトライアンフをガレージから取り出した。よし、しっかり動きそうだ。  心地良いエンジン音を奏でながらあの本屋へ向かうと、少女は店の軒下で待っていた。コーラルに黄色い向日葵の刺繍がしてあるショルダーバッグを肩に提げていて、いつものように麦わら帽をかぶっている。今日は涼しげな白のワンピース着ていた。僕は彼女のすぐ近くにバイクを停めた。 「やあ、迎えに来たよ」 「おはよう。実は私もあなたを待ってたの」  彼女は木漏れ日のような笑顔で答えた。


 バイクは、街で何度か乗ったことがあった。友人たちと一緒に寄宿舎を抜け出し、その中のひとりの家にあるバイクに乗るのだ。バイクは三台しかないから僕らは交代で乗る。乗り方はその友人から習った。もちろん彼以外誰も免許など持っていない。  町を出て緩やかな山間の道を抜けると、開けた平野に出る。それからどんどん北へと進んだ。彼女はその間僕の体に手を回し、何も話さず過ぎゆく景色を見ていた。その先へ進むと道の周りにぽつりぽつりと家が見えてきて、いつの間にか僕らは街の外れに着いていた。その頃には太陽は真上に登って、僕らを押し潰さんばかりにぎらぎらと激っていた。少しばかり街の中へ入って行って、僕らはバイクを駅に止めた。  はじめに、彼女の強い希望で、僕らは学校と寄宿舎を見に行った。休みの学校はがらんとしていて灰色だった。元々目立たない校舎だった。寄宿舎も同じようなもので、ツアーの始まりとしては些かつまらないものだった。 「この通りの、普通の学校なんだ。面白いことなんか無い」 「いいじゃない。素敵よ。すごい大きいし……。先に見ておきたかったの。どうしても」  彼女はそんなことを言った。  学校の付近には知り合いも居るだろうから、僕ら早々と切り上げた。彼女と二人でいる姿を見られたくなかった。  次に僕らはあの時話したカフェへ行った。カフェへ着く頃には時刻はもうおやつ時になっていて、僕らのお腹もぺこぺこだった。そこで彼女は――昼食とするには少々贅沢だが――紅茶といちごのシャルロットケーキを、僕はブラックコーヒーとモンブランを頼んだ。 「すごい美味しい! こんな美味しいケーキはじめて食べた」  メリイさんのカフェが行きつけだというなんとも可哀想な少女は、満面の笑みで味を絶賛した。  それからは近くの駅にバイクを停めて、街のいたるところを歩いてまわった。僕が通っていた小学校や馴染みのある図書館。田舎にはないような小洒落た雑貨屋やショッピングモール。入り口を眺めるだけだったが、動物園にも行った。残念ながら彼女のツアーの様に心躍る解説はひとつも無かったが、彼女はとても満足しているようだった。きっと僕が彼女と町を回ったあの時のように、この景色も彼女にとって眩しいものだったのだろう。  僕は彼女が楽しそうなだけで幸せだった。      日が傾きかけた頃に、僕らは本屋へ行った。駅に隣接した商業施設の三階から七階までを占領する、巨大な本屋だ。  建物を見上げていた僕は、隣にいる彼女に言った。 「文庫本のコーナーは六階。僕はそこでよく本を買うんだ。君も一緒に行かないかい? 多分君の書店にはないような本も沢山ある。君も楽しめるはず――」  そう言って隣を見ると、いつのまにか彼女が居なくなっている。人混みの中を探すと、彼女はもう先に本屋へ入っていこうとしていた。ずんずんと早歩きで進んでいく彼女を、僕は追いかけていく。この先は……確か海外文学のコーナーだ。もう随分先まで行ってしまっているのと、彼女のスピードが早いのとで僕はなかなか追いつけなかった。そしてそこに辿り着くと、彼女は立ち止まった。そこは―― 「ルイーゼの本棚」  やっと彼女に追いついた僕は言った。彼女はとても多作な作家だった。僕の背丈を優に超える本棚の、一面が彼女の作品で埋まっている。彼女は本の背表紙達をなぞると、『落ちうさぎの憂鬱』で手を止めて、それを取り出した。そしてそれを開いてぱらぱらとページを捲った。 「私はいつも、本屋に行くとここに来るの。本屋の、ルイーゼの作品が置かれてる所に。彼女の本は殆ど全て持っているから、新しいのを買うわけじゃ無いんだけどね」  彼女は微笑んだ。 「彼女の作品をこうして眺めてると、すっごく安心するんだ。だからいつもここに来て、時間があるときはここでずっと立ち読みするの。そうすると、いつも家で読む時には気づかなかった事が見えてきたりするのよ。本屋で読む時にしか気づかない事がね。何回読んでも、もう一回読んだらまた新しい発見があるの。彼女の作品は」  そうして彼女は本を黙々と立ち読みし始めた。僕は、彼女が読書をしているその直向きな眼差しがとても愛おしく感じて、本を取り出して彼女の隣で読むことにした。  一時間くらい本を読んだ彼女は満足したように息を吐いて、本を閉じた。それから少しだけそのフロアを回って、彼女はどこかで聞いたことがあるようなフランスの本を一冊買った。そして僕らは本屋を後にした。

   辺りが暗くなり、空気に艶やかな香りが混じりだした頃。僕らは繁華街を二人歩いていた。僕らの他には、何人かのサラリーマンのような格好をしたほろ酔いの男達と、自らを煌びやかに彩りすぎた女達、スーパーの袋をその手に提げて談笑するカップルや、部活帰りにこれから塾へ行くところであろう同い年くらいの少年の一団などがいた。それらは均一に幸せに見え、一様に哀しげに見えた。 「私、こう思うの。街のひかりがとっても輝いてみえる理由って――」  彼女は音量を下げて耳元で言った。 「――きっとそのすぐ近くに、深い闇が潜んでいるからなのよ」  街の夜は明るく、そして暗い。僕らは通りが終わりに差し掛かるところまで歩いた。それから、すこしうしろを歩く彼女に言った。 「帰ろう」  彼女はネオンの逆光に包まれてしばらく黙っていた。そして、とても残念そうに言った。 「わかったわ。行きましょう」  駅まではすぐだった。  僕がトライアンフに跨ってエンジンを吹かした。その時だった。彼女が突然言った。 「やっぱり、帰りたくないわ」  彼女は一歩引いた場所で、俯いていた。僕はバイクを降りて彼女を向いた。 「あの町はね。際限がないの」  彼女は泣き出した。目から透明な涙がつらりと頬に垂れた。 「あの町の人は朝起きて昼働いて、酒を飲んで夜に寝る。それをただただ繰り返す――」  彼女は涙を拭い、僕を見直して言う。 「ただそれだけなの。その間波の音は絶えないわ。カモメの鳴き声も朝昼晩ずっと――もううんざり。ねえ、私とあの町から逃げようよ。きっとなんとかなるわ、二人なら」  彼女はショルダーバッグから財布を取り出した。 「ほら、これだけあれば遠くまで行けるし、少しの間は生活もできるはず」  そこにはいくらかのお金と萎びた通帳が入っていた。 「あなたの目はずっと孤独だわ。海岸ではじめてあなたを見かけた時から、ずっと。だから私は声を掛けたの。私から抜け落ちた隙間を、あなたが埋めてくれるんじゃないか、ってね」  無理に微笑んだ彼女はとても艶やかに見えた。その甘い誘いに乗ってしまえたら、幸せだったのかもしれない。しかし僕はそんな器用な男ではなかったし、それにその時の僕は酷く悲しかった。 「わかるよ」  そう言って僕は笑った。 「前、僕の名前が苦しいに王って言ったよね。あれは君の言うとおり、嘘さ。本当は久しいの久に遠いの遠で久遠って言うんだ。でも、名前が嫌いっていうのは嘘じゃない。久遠っていうのは永遠のことだ。永遠なんて、最悪じゃないか。君もそう思うだろ?」  彼女は頷いた。 「こんな事を言うのは酷かもしれない。けどね、僕らが生きようとする限り、この際限ない日々は続くんだ。僕は結構な期間この街で暮らして来た。だけどそこで君と同じ気持ちを抱かなかった日はなかったよ。あの町に行って君と出会って、僕は何か変わると思ってた。でもそんなことはないみたいだ。だって、君さえもそれを感じていたんだから」  彼女は黙ってしまった。その沈黙に耐えきれなくて、僕は再びトライアンフに跨った。 「行こう。もうじき本当の夜が来る」  彼女は無言で後ろに乗った。  快いエンジン音が夜空に響いた。

 ❇︎ ✴︎ ✳︎    僕は彼女の書店までバイクを走らせた。彼女は町に着く頃にはもう落ちついていて、顔の赤みも腫れた目の周りに薄く残るくらいだった。  バイクを停めて彼女を降ろす。彼女は照れくさそうに笑っていた。まるで何も無かったかのように。 「今日はありがとう。今までで一番楽しかったわ」  そう言って家に帰って行こうとする。 「待って」  僕は言った。 「僕はもう明日には……」  僕が言い終えるその前に、彼女は唇に指を当てた。変に気取った仕草が、なぜか素晴らしく可愛く見える。 「大丈夫。知ってる。あなたって、わかりやすいもの」  彼女は笑った。 「この夏はありがとう。最高に楽しかった」 「こちらこそ、本当にいい夏だったよ」  沈黙が僕らに降りかかる。しかし、この沈黙はお互いを確認し合う、温かい信頼の沈黙だった。一昨日の夕立のような柔らかな優しい沈黙だった。 「私、考えたの。こうしてあなたの身体に手を回して、夜風に吹かれた帰り道でね。あなたはこの感覚が、この苦しみが、生きていく限り永遠に続くと言ったわ。けれど、それはちょっと違うんじゃないかしら」 「どうして?」  僕は彼女の言ったことがわからなくて聞いた。この苦しみを消す方法が、どこかにあるのだろうか。僕にはどうしても、そんなものが存在するとは思えなかった。 「いつか終わりが来るのかな」  少し考えるような顔をして、彼女は空を見上げた。夜空には玲瓏に輝く月が、美しく咲いていた。西の空、地平線に近いところでは、アルタイルが一際明るく煌めいていた。 「そうね……。そう。きっと終わりが来るものなの。これは。永遠なんて、存在しないの」  彼女は胸に手を当てた。 「実は私、今、すっごく楽。まるで憑き物がとれたみたい。あなたのおかげ。……ありがとう。そしてね、きっとあなたも、気づけば楽になれるのよ。私たちは、もうとっくに救われてるの。出会った瞬間からね」  彼女は僕の目を見た。そして悪戯っ気満載の笑みで言った。 「前に私、あなたに『未熟な詩人』って言ったわよね。今わかったわ。やっぱり貴方は、『未熟な詩人』なのよ。詩人になりきれてない詩人の卵。だからあなたはいい加減、詩人になりなさい。……そうね。こんな言葉があるわ。かの有名なプラトンはこう言ったそうよ――」  彼女は顔を近づけると、僕の唇にそっとキスをした。 「――『愛に触れると、誰でも詩人になる』ってね。ありがとう。私はあなたを、愛してるわ。またいつか、どこかで会いましょう」  そう言うと彼女は、僕の前から小走りに去っていった。  それは頭がくらくらするような柔い衝撃だった。まるで脳にマイルドな白ワインを流し込まれたかの様だった。ほろほろと溶けてゆく思考の中で、僕は確かで温かな心地よさを感じていた。  心の奥が、じんとなった。  僕は少しの間その場に立ち尽くしていた。気持ちの整理は全くつかず、ただ立っていた。遠くから、零時の鐘の音が聴こえていた。  その日、僕は町に別れを告げた。


 幕間 1972 夏 海辺の町


 かくして、僕は詩人になった。  そして詩人になった僕は、世界の見え方が変わった。僕の身体はすっかりその世界に順応して、まるっと包み込まれてしまった。  街に帰ってからもそれは続き、絶えることはなかった。それからは際限ない日々に悩むことなど無くなって、ただその日々を楽しめるようになった。あれから二十年以上経った今でも、僕の眼には、世界が相変わらず綺麗に映っている。  あれから僕は、愛を見つけることが多くなった。    ❇︎ ✴︎ ✳︎

 三年後、高校を卒業した最初の夏のことだった。僕は一度だけ彼女の書店を訪れたことがあった。晴れて二輪車の免許を取得した僕は、バイトで貯めたお金で自分のバイクも買った。薄い水色のYAMAHA 650 XS―1。美しい造形のバーチカルツインエンジンと、流麗なデザインワークが素晴らしい。何より僕は大きさからは想像できないような軽快なハンドリングが好きだ。新しい愛車に乗って僕は三年前、二人、トライアンフを飛ばした景色を再び走った。彼女をのことを思いながら僕はあの海辺の町へ向かった。  彼女と別れてからの僕が、どれだけの物事に向き合って失敗し成功し、どれだけのことを学んだのか。そしてそれによってどんな結論に至ったか、それを二人で話したかった。


 物事は思うようには進まない。それもこの三年で学んだことだった。しかし僕は、それをうっかり忘れてしまうほど浮かれていた。ハルカ丘を抜け町へ入り表通りを西に向かったそこには、あのこじんまりとした建物はもう既に無くなっていて、新しいパブが立っていた。あの蠱惑的な雰囲気も完全に消え去ってしまっていた。  僕は少しの間放心して書店があったはずの場所を見ていた。ただただ思考が追いつかない僕はそのままあの海岸へ向かった。彼女と出会った場所。僕はそこで、三年前そうしていたように暗くなるまで波の音に耳を傾けていた。残酷なほど単調な波の音に耳を澄まし続けていると、僕はだんだんと頭が事実を認識し始めるのがわかった。彼女は、どこかへ行ってしまったのだ。  僕はなんとなく彼女はずっとそこにいるような気がしていた。僕は楽観していたのだ。淡い夢想は瞬く間に砕け散ってしまった。  日も暮れて幾らか経った頃、僕は目の前に広がる状況をどうにか変えようと立ち上がった。あのパブに行こう。何か彼女のかけらが残っているかもしれない。  僕はパブの扉を開けて中へ入った。雰囲気のあるいいパブだ。僕はまるで永遠の放浪者のようにカウンター席に座った。店には他には誰もいなかった。  そのパブの主人は愛想の良い人で、すぐに僕に話しかけてきた。 「こんばんは。本日は何をお召し上がりで?」  彼の声は暖かく知性的で、いくらか不思議な響き方をした。僕は以前この声を聴いたことがあった。 「では、ブラックコーヒーでお願いします――お久しぶりですね」  僕は彼がメリイさんのカフェで働いていたことを思い出す。 「おや、どこかでお会いしたことが……」  彼は数秒僕の顔をまじまじと見つめて思い出そうとしているようだった。そして急に指をパチンと鳴らして満面の笑顔になった。 「ああ、思い出しました。リアちゃんのボーイフレンドですね。よく覚えてますよ。何しろ、あの子が他の人を連れて来るのは初めてのことだったので。メリイさんと話したんですよ」  僕は苦笑して言った。 「ボーイフレンドではないですよ。違う」  彼は含みのある笑みを浮かべてこう言った。 「そうでしょうか。きっと彼女も嬉しがると思いますよ。あなたと店に来てから、前よりずっと明るくなりました」 「ここは彼女の店があった所ですよね?」  彼はグラスを手に取って清潔な布で拭いた。 「そうですね。確かに。けれどあの二人はこの街から出っていってしまったんです」 「二人?」 「ああ、聞いてなかったですね。彼女は母親がいない、父子家庭なんですよ」  僕は軽い衝撃を受けたが、すぐに納得した。彼女の心の隙間はそういうことだったのだ。彼女は僕とだいたい同じ境遇に居たのだ。 「それで、彼女はどこへ行ったのですか?」 「わかりません。彼女のお父さん――道夫さんというのですが――この土地を譲り受けてから、彼には会っていないのです」  僕は


「彼女は遠くにいってしまって、今は誰も彼女を知らない」  と言われた。




 1987 冬 東京


 記憶も、時とともに確実に風化していく。彼女と過ごしたあの夏の細部は、もはやもう思い出せない。    でも、僕は本屋に行くたびについ無意識にルイーゼの本棚を確認してしまう。  きっと彼女は、そこにいるから。

 熱心な読書家にも本が読めない時があるように、たとえ生粋の詩人であっても詩を書けない時がある。そんな時僕は、あの夏のロマンティックが入った小瓶を心の引き出しから取り出す。そして、フレンチトーストにバニラエッセンスを加えるように原稿用紙に一滴二滴落とす。もちろん君はこの説明を詩人のシミリだと捉えてもいいし、現実的にその小瓶があって、僕がそのなかから青に染まった物質的な液体を垂らしていると捉えてもいい。その認識の相違の上に本質的な違いはない。どちらにせよ原稿用紙は現実的に青に染まり、僕の言葉も物質的に青に染まり、ペンのインクもメタフォリカルな青に染まる。そのあとには、ただ真白な詩が残されている。


 私、小説じゃなくて今は短歌をかいてるの。


 彼女はどきりとするような赤の暖かそうなダッフルコートを着ていた。