利用者:Notorious/サンドボックス/ピカチュウプロジェクト
「柏原は、頭は切れるくせに変なところで抜けてるよね」
俺の前の席に後ろ向きにまたがった諏訪昇は、眼鏡越しに少し笑いながらそう言ってみせる。一方の俺は、心当たりがあるだけに強く言い返せない。
「そのせいでプラマイマイナスになってることが多くない?」
「自覚はあるんだけどなあ。直そうと思って直せる癖じゃない気がする」
「今こうして机に齧り付いてるのも不注意の産物なわけだし」
机の上には数学のプリントが散乱していて、俺はそれらを片っ端から埋めている状況だ。木曜日、時計の針は五時を回っていて、放課後になってから一時間以上経っている。
「明日が休みだなんて忘れてたんだ」
「創立記念日だって先生も言ってただろう。聞いてなかったの?」
「聞いてたさ。これが今週末に提出なのも知ってた。けど、その二つが結びつかないんだ」
「そもそも三十枚もためこむなよ。こつこつやればよかったんだ」
「今日の夜にまとめてやる予定だったんだ」
休み時間にも進めたが、いまだ十枚近く残っている。二人しかいない教室で俺は減らないプリントに苛立ちながら因数分解の問題を解き続け、諏訪は手伝う気もなさそうに見ているだけだ。
力を込めすぎてシャーペンの芯が折れた。机の横に手を伸ばし、見もせずに鞄をがさごそ探ってシャー芯のケースを引っ張り出してくる。いろんなものを無造作に放り込んだせいで筆箱と化した学校指定の鞄は、全開にされて机の横のフックにかけられている。力なく口を大きく開けたその姿は、気力を失った主人の心境を写しているみたいだ。
「午前の物理だってさあ。あ、そこ計算違うよ。小テストで、えっ今舌打ちした?」
「計算ミスに対してだから気にするな。消しゴムどこだ?」
「そのプリントの下。武藤先生に晒し上げられてたじゃん」
「定規忘れたんだ、仕方ないだろ」
力の合成と分解の小テストがあったのだが、俺は定規を家に忘れたから、やむを得ず矢印をフリーハンドで書いた。そうしたら、テストを回収して一通り目を通した武藤が俺の答案を全員の前で掲げて「物差しを使ってないやつが一人だけいるぞ誰だ柏原かちゃんと使うことガハハハ」みたいなことを言った。別に悪意あってのことではないから腹が立ちはしないが、合わせてけたたましく笑っていた女子たちには心を削られた。
「忘れ物くらい誰だってするだろ」
プリントに目を落としたまま、言い訳を口にする。諏訪が笑った気配がした。
「こないだの体育のときだってそうでしょ。いつ聞いても傑作だね。抜けてるにもほどがあるよ」
「結局間に合ったんだからいいだろ」
「いやいや、ずっと寝てたならまだしも、寝ぼけて……」
諏訪が俺の失敗を掘り返そうとしたその時、教室の扉が開いた。
俺の席のすぐ後ろ、教室の後方の扉を開けて入ってきたのは、河北幹江だった。反射的に振り返った俺と目が合うと、そそくさと目を逸らして廊下側最後尾の彼女の席——俺の一つ後ろの席——に鞄を置いた。背が高くショートカットの彼女は一見バレーボールでもしていそうな見た目だが、なんの部活にも所属していないようだ。シャイな性格らしく、会話したことはあまりない。隣の瀬田は何かと話しかけているが。
特に仲がいいわけでもない人が近くにいると、馬鹿話をするのは気が引ける。俺は黙ってプリントを解き、諏訪も「そろそろあと九枚だよー」と思いもしない励ましを口にするのみになった。
後ろの河北が何をしているのかわからなかったが、やがて机の横を通って教室前方へと歩いていった。そして綺麗な教卓に手を添わせたところで目が合いそうになったので、俺は慌てて因数分解に集中した。足して四、かけてマイナス十二になるのはえーと……。
しばし集中して一気呵成に二十一枚目のプリントを終わらせたとき、河北が横に立っているのに気づいた。俺の机の辺りを見ている。
「どうかした?」
そう聞くとビクッとこちらを見て、首を振った。
「ごめん、なんでもない」
掠れた小さな声は、昼休みの教室だったら聞こえなかっただろうなと思った。河北はそのまま鞄を持つと、来たときと同じ扉から去っていった。
俺はなんとなく諏訪と目を合わせた。諏訪は小さく肩をすくめた。その通りだ。何かしら用があったのだろう。河北が「なんでもない」と言った以上、なんでもないことなのだろう。俺は解き終わったプリントを押し退けて、次の問題に取り掛かった。
「しかし、終わらないなあ」
河北が行ってからしばらく沈黙が下りたが、伸びをしながらいまさらのように諏訪が言った。
「あーあ、お前がそんなこと言うからやる気失せた」
シャーペンを机に放り出して言ってみるが、すぐに拾って続きを始める。そうしないと終わらないから。
「提出が今日だっていつ知ったの?」
「五限」
数学の授業も終わろうとする頃、森下はやにわに「課題はまとめて職員室に出しに来てね〜」と通達し、みんながうぇ〜いと返事をする中、俺だけが雷のような驚きに打たれていた。そうか、明日は休みだった、と。
そのおかげで五限と六限の間の休み時間はてんやわんやだった。授業が終わると同時にロッカーのプリントを机に全部に放り出した。数えるまでもなく、一日一枚一月分、計三十枚。周りに冷やかされながら、わずかな時間も惜しく、一枚目のプリントに取り掛かった。筆箱から筆記用具を取り出すのもまどろっこしく、中身を全部ぶちまけたから机上はもうカオスだ。一枚目を超特急で終わらせたところで、授業中から行きたかったトイレをこれまた超特急で済ませ、教室に戻ったところで人が少なくなっている。六限は音楽であることにそのとき気づき、机の上のものをすべて鞄に流し込み、そのまま音楽室へ向かったのだった。
「鞄を持って音楽に行ったの? 教科書くらいしかいらないでしょ?」
「筆記用具は必要だった。いちいち筆箱に戻してる時間はなかった」
「だからって鞄に全部入れるとはねえ。午前もそうしていたらよかったのに」
「そうか? 重いぞ」
こうなると筆箱に戻すのがさらに面倒になり、いろんな筆記用具が入ったままの鞄が横に掛かっている。日も傾き始め、窓から入ってくる光もいつのまにか赤みがかっていた。
ずっと机に向かっているから、いい加減息が詰まる。席を立って反対側の窓辺に行った。砂埃を噛んで軋む掃き出し窓を開け、ベランダに出る。背伸びして二階のベランダが持つ解放感をとくと味わう。
諏訪も来て、深呼吸を始めた。俺は目が疲れていたので、中庭を挟んだ特別棟のベランダの鉢植えを眺めた。凝り固まった水晶体が伸ばされる気がする。
「ねえ、あれ河北さんじゃない?」
諏訪が特別棟を指差した。
正面より一つ右、向かいの棟の教室の中に、河北がいた。はっきりとは見えないが、長身に短いくせっ毛、猫背と間違いない。河北だった。下を向いて教室内を徘徊しているみたいだ。
「あそこは、物理室か?」
「そうだね。物理の授業中は逆にこの教室が見えるし」
「窓際の特権だな」
「そうだね」
河北は物理室の窓際から離れると、視界から消えた。俺は黙って教室の中に戻った。席に座って数学を再開した俺に、諏訪は言った。
「河北さん、何してたんだろうね」
「さあな」
「……ねえ、二年の教室で盗難が相次いでるって話、知ってる?」
目を上げたが、諏訪は頬杖をついて横を見ていた。俺はまた目を机に戻す。沈黙に誘い出され、口を開く。
「どちらかといえば……」
「どちらかといえば?」
「いや、なんでもない」
教室には俺がシャーペンを走らせる音だけが響く。俺は今日中にこれを終わらせないといけない。他人に構っている暇はない。諏訪も今度は何も言わない。一枚のプリントを横に除け、次に取り掛かる。それも押し退け、次の紙を引っ張り出す。
あと五枚になったところで、集中が途切れた。シャーペンを置いて天井を仰ぎ、深々と息を吐き出す。そのまま目を瞑った。少し休憩するつもりだった。瞼の裏に去来するのは、心に引っかかっているのか、河北の姿だった。
あれは帰りのSHRだった。一二限に行われた卒業生の講話の感想シートを集める段になった。配られたプリントの下半分が感想欄になっていて、そこを切り取って提出することになっていた。
講話中は寝ていたので、当然白紙だった。時間もなかったし、大きく「とてもためになりました」と書き殴った。隣の諏訪が眉を顰めた気がしたが気にしないことだ。そして手でビリリと紙を破った。切り口が歪んで「ました」の上の方がもっていかれてしまい、諏訪が確実に眉を顰めたが、気にしないことだ。
後ろから紙を回すので、俺は振り返って後ろの河北を向いた。はさみを持っていないのは俺だけではなかったようで、河北は小さな消しゴムを切り取り線に当ててどうにか綺麗に紙を切ろうとしていた。
「手で千切れば?」
「あっ、えっと、あの」
「ミッキーは柏原みたいに野蛮じゃないもんね~。はい、ハサミ貸したげる」
「あっ、ありがとうございます、すみません」
俺の素晴らしく合理的な提案を棄却し、隣の瀬田由香梨がハサミを貸して河北は紙を切り取った。河北は小さな声で礼と謝罪を言ってハサミを返した。俺は河北がよく謝ることに気がついていた。