世界五分後仮説

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世界五分後仮説(せかいごふんごかせつ)とは、「世界は実は5分後に始まるのかもしれない」という仮説である。

概要[編集 | ソースを編集]

この仮説は、「世界」の存在を証明できないことを前提としたものであり、なおかつその前提こそがこの仮説の論理そのものであるという極めて馬鹿馬鹿しいものである。

さらに、再帰的に思考させることによって判断能力を鈍らせ、あたかも正しいことを言っているような体裁で脳をなし崩し的に納得させようとするという、極めて狡猾なものとなっている。

また、これは一般に「世界五分前仮説」のパロディと理解されるが、同様に懐疑主義的なものであるにも関わらず、

こちらは使う言葉に対して一切の定義を行わず、さらに再帰的に仮定を真と仮定して組み合わせ続けているという、全くもって論理的ではないその論理構造のために、もはや「仮説」とすら言えたものではないという意見も存在する。

一方で、これらの大きな欠陥も含めて、この仮説の全てが因果律への皮肉めいたものなのではないかという意見も存在する。

世界五分前仮説に影響を与えたオムファロスを例にすると、アダムとイブにへそがあるのはそのような状態で発生した、すなわち神に創造されたためとされるが、因果律に傾倒するものからすればそれはアダムとイブに母親がいたためとなる。

しかしながら、神の宇宙論的証明によれば、結局のところその親の発生をも含むすべての結果を収束していったただ一点の事象の、その原因となる何らかの事象は、

形而上学によって「神」とも揶揄され畏怖され崇められ、実質的には何ら「宗教的な神」と変わらない何かを原因とするものであるなど、つまるところには「不明な原因による結果」に対して一切の追究が不可能であり、

因果律の理論は、それこそ「神頼み」の、時代錯誤の宗教的な極めて馬鹿馬鹿しいものである、という意を、「不明な原因による五分後の世界の誕生」という欠陥だらけの馬鹿馬鹿しい仮説によって暗に示しているのではないかというものである。

また、オスォナダツウェロク存在学とも関わりがあるという意見も存在する。これについては、詳細は後述する。

概論[編集 | ソースを編集]

前提[編集 | ソースを編集]

前提として、世界の存在は証明も反証もできないものである。なお、この仮説では、「世界」を「他の全存在を含む存在」と定義している。即ち、全存在は証明も反証もできないものであるという前提である。

ここでは、この前提を三段階に分けて要約して説明していく。

「自分」の存在[編集 | ソースを編集]

「なにもかも存在しない」と言われて、まず反証に用いんとするのは「自らの存在について」であろう。ここではかの有名な「我思う、ゆえに我あり」を例に出す。

これは、「自分の存在を疑っている自分がある」という考えは「自分」の存在なしには成立しないため、「自分の存在を疑っている自分」が「自分」の存在を証明している、とするものである。

これには「意識するもの(可識的存在)は例外なく存在している」という考えが根本にあると考えられる。しかしながら、これは誤りであるのである。

実際のところには、可識的存在は意識的・共識的存在の意識が可能、即ち「意識するものは意識できるものを意識できる」という性質があるのみであって、

さらにその「意識できるもの」のことを「存在」と意識している。つまり、そもそも「我」を意識できている時点でそれは可識的存在からすれば存在しているものなのである。

いうならばこれは「我はこのボールを青く塗った、ゆえにこのボールは青い」というものと同様の、至極当然の平叙文を言っているだけなのであり、そこには如何なる真偽の余地もない。

つまるところ、「我思う、ゆえに我あり」は、「我」の存在の証明としては微塵も機能していないのである。

ところで、後述するように「意識」の存在は不確実である。このため、自分自身をその意識によって確立することもまた不可能であり、不確実なのである。

「意識」の存在[編集 | ソースを編集]

では、前述した「意識」についてだが、まず後述するように、少なくとも自分とその意識以外の存在は証明も反証も不可能である。

となると、その「存在」つまり「意識できるもの」、それへの「意識」によって「存在」は「存在」たりえて、「意識」は「存在」を存在させる「存在」である。

さらに、意識は「自分」の存在と近いものがあるため、前述の通り「自分」の存在の不確実性も影響していくことになる。なお、ここで留意すべきことは、「意識」もまた「意識」自身によって存在しているということである。

意識の存在の証明は「物体Aのただ一つの材料である物体Aを分析し続けることで物体Aの構造を理解せよ」のような無意味な永遠の再帰的思考を求めるのみである。このことから、「意識」についてもその存在は不確実であることが理解される。

また、これによって、実質的には「自分」、そしてその他の存在を確実にしていた「意識」が不確実性を帯びることとなったため、それらの存在も不確実なものになる。

なお、ここでは自分の「意識」についての不確実性を述べたが、他人の「意識」は後述する「他の存在」と見做される。というのも、そもそも他人の意識はその存在がもともと不確実なものであり、

自分以外の全人類が哲学的ゾンビとも称されるような意識を持たない存在(非可識的存在)である可能性を排除することはできないのだからだ。

他の存在[編集 | ソースを編集]

前節で示したように、「自分」、そして「意識」の存在をも証明および反証することは不可能である。これはつまり、少なくともそれら以外の存在への意識が不確実であるということであり、

すなわち「存在」が確実に「存在」たりえることも不確実であるということである。いわば、「意識」と(その他の)「存在」は、「ピアノ」と「音」のように例えることができる。

「ピアノ」が壊れている可能性があるとき、必然的に「音」にもまた調子が外れている可能性が発生する。これと同様に、不確実な「意識」があることには不確実な「存在」しか発生しえないという至極当然のことなのである。

そもそも、自分と意識以外のすべての存在の不確実性は、誰もがもっとも簡単に理解できるものなのである。たとえば、この仮説を閲覧するにはパソコンやスマホなどの電子機器が必要になるが、もし今これがただの夢であるならば、

実際にはあなたがたった今この仮説の閲覧に用いているパソコンやスマホなどの電子機器、つまり自分と意識以外のすべての存在に含まれるその存在は存在しないことになり、さらにあなたが夢を見ていないという証明は、

前述した意識の証明と同様に、「無意味な永遠の再帰的思考」を求めるのみなのである。例えば、脳波を測定して覚醒状態にあると確定したとしても、その経験さえ夢の中のものである可能性が現れ、これが永遠に繰り返されるということだ。


これによって、世界(すべての存在)を構成する三つの存在「自分」、「他の存在」、そしてそれらをつなぐ「意識」の不確実性、つまりすべての存在、「世界」の不確実性が確認された。これがこの仮説の前提である。

結論[編集 | ソースを編集]

すべての存在は不確実なものであるのだから、今この瞬間にも、"まだ"すべての存在が無い可能性もある。

であるからして、今からちょうど5分後、何らかの理由によって「すべての存在」すなわち「世界」が"無く"なくなる、つまり「すべての存在がある」状態になる可能性があること、

言い換えれば、「世界は実は5分後に始まるのかもしれない」ということ、これは否定できないのである。

反応[編集 | ソースを編集]

この仮説は、まったく意味を成さないものとして、ほぼあらゆる方面から否定されている。なお、この欠陥性は何らかへの皮肉であるといった見解はしばしば見られる。前述した、「この仮説は因果律への皮肉である」という主張はその最たる例である。

とはいえ、この仮説の本質ともいえる「世界は存在するのか」という問いに対して答えを出すのは、とても難しいものである。

「世界」に対しては、さまざまな宗教や学問がさまざまな捉え方を持っている。このため、「世界」という概念には実にさまざまな体系的説明が見られる。しかし、未だにこの問いに確実に答えられる理論は存在しない。

この理由は、ヒトの認知機能では対応できないほど高度なものであるから、なんらかの上位存在がこのように仕組んでいるから、など、荒唐無稽なものまで実に様々なものが唱えられている。

これに対して、この世界五分後仮説は、後述するオスォナダツウェロク存在学の観点から「そもそも論理的に説明できるものではないから」という答えを提示したとも解釈することができる。

この捉え方においては、それそのものの論理的な低い評価とは対照的に、高く評価されることもしばしばある。なお、これに対しても、ただの出来の悪い仮説を、オスォナダツウェロク存在学というこれまた評価の分かれる学問にかこつけて、

無理やりに都合のいいように意味を持たせようとしているだけである、という批判もみられる。

オスォナダツウェロク存在学[編集 | ソースを編集]

この仮説には、オスォナダツウェロク存在学の「存在」への価値観が大きく関わっているともいわれている。

可識的存在」や「意識的存在」、「共識的存在」などのオスォナダツウェロク存在学においてよく使われる単語を使用していることもその根拠の一つである。

"前提"では、後述したように「自分」や「意識」、「存在」などについて何の定義もせずに、しかも再帰的な相互の仮定をもとに、論理を展開しているフリをしていることは誰の目にも明らかだが、

それこそがオスォナダツウェロク存在学における、「存在を意識できる存在(それにいわせれば「可識的存在」)」、の仕組み、つまり脆弱さからくる、証明ができないが反証もできないという強固さの利用を暗示しているという見方もある。

結局のところ、かのような難解にも程がある問いが発生するほどに欠陥が多いともいえる人間の意識の仕組みがここまで淘汰されず残っているのは、これが優れているからということになる。

つまり、最も優れている、といっても真に過言ではないようなものは、安直に言うならば"完全な無"のみであるのだが、その何もないようなところから出てきた、その"前提"と同様に再帰的な相互の仮の関係がもとにされ、

つまり脆弱であるが、その概念だけは全く揺るがない「論理的でないもの」、これこそが、意識できるものがそれたりえる性質、それどころか論理そのものさえをも支えることになる、という考えである。

現在では、人間の生み出した「論理」が先鋭化していくにつれて、最早「論理的思考至上主義社会」ともいえるような状態が一般化している。

この仮説は、ただ因果律への皮肉というよりも、すべての学問、すべての論理に対する一つの考えを示したものであるともとることができるのである。

外部リンク・関連項目[編集 | ソースを編集]

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