背面高等帝国

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個野記事派このきじは個武手巣戸二死宇利死田記事コンテストにしょうりしたきじ
管理者かんりしゃ画位宇野駄化羅真血画位名位がいうのだからまちがいない個野記事尾差羅二このきじをさらに秀逸しゅういつ二出希流戸位宇野名羅にできるというのなら編集へんしゅう氏手未背名差位してみせなさい
和田氏派亜名田他血野個戸尾未手位流わたしはあなたたちのことをみている

背面高等帝国とは、故事成語の一つである。

唐代[編集 | ソースを編集]

背面高等帝国の原典は、唐の時代の思想家である王揚明が書いた『泉暸』である。その中の一節が、背面高等帝国の初出である。その訓読文を次に示す。

レ ケ


この一節は、和訳すると次のようになる。

顔を背けて高いところに並び立つように、帝は国を治めよ。

ここでの「顔を背ける」とは、「民衆の意見に耳を貸さない」ということ。また、「高いところ」とは物理的な高所ではなく、道徳的な高みを指す。

すなわち、背面高等帝国は「民衆の一時的な煽情に流されることなく、理想の国を目指して、帝は国を統治していかねばならない」という意味の教えなのである。

明代[編集 | ソースを編集]

数百年後の明、正統帝の時代、農民の潘英が周辺の村々を率いて反乱を起こした。出兵する際、農民たちに潘英は演説を行った。その演説の中で、潘英は「背面高等帝国」を引き合いに出し、このような民草を顧みない政治は主客が転倒しており、糺さなければならないと訴えた。反乱軍は大いに歓喜し、その鬨の声は二里離れた所でも聞こえたという。

しかし、反乱軍は戦いなぞしたことのない農民の集団。反乱軍は僅か一日で明軍に鎮圧されてしまった。このことから、背面高等帝国は、「威勢だけよいが実質が伴っていない」ことを意味するようになった。

室町時代[編集 | ソースを編集]

その後、勘合貿易を通じて「背面高等帝国」という言葉は日本に伝来した。しばらく後の室町時代、古谷文麿という貴族がいた。文麿は何かとつけて大言壮語するが、実際にはお粗末な行動しかできない、正に「背面高等帝国」な人物として名高かった。

しかし、冬のある日、文麿が友人たちと川沿いを歩いていると、上流から子供が流されてきた。友人たちは文麿を「川に飛び込んで助けてやれ」とけしかけた。だが、文麿の性格上、怖気付いて飛び込むなんてできないだろうと考えていた。しかし彼らの予想に反し、なんと文麿は川に飛び込んだのである。水は凍えるようで、文麿は泳ぎが不得手だったことも災いし、文麿は子供と共に命を落としてしまった。

この事件から、背面高等帝国は「人助けをしようとして共倒れになること」という意味を持つようになった。

戦国時代[編集 | ソースを編集]

時は飛んで戦国時代、群雄割拠の美濃国。織田義勝という豪族がいた。1503年、織田家と同盟関係にあった道ノ尾嚴堂という武士の軍が、敵対関係にある虻川克盛の軍に包囲されてしまった。

援軍が無ければ道ノ尾軍の壊滅は必至。その状況において、義勝は助けに参じようとする。軍師の竹中小兵衛は「背面高等帝国とならん」と諫めた。しかし義勝は「我らもののふ。なんぞ馳せ参ぜんや」と言い、自軍を率いて克盛の陣に攻め入った。

将に鼓舞された義勝の軍は躍動、反撃に転じた嚴堂軍と共に、克盛の軍を打ち破った。このことは「背面高等帝国なる戦なり」と巷説され、背面高等帝国は「不利な戦いに勝つこと」として広まった。

現代[編集 | ソースを編集]

2002年、織田信短と怒り言動の二人からなるお笑いコンビ「オフショルダー」が結成される。当初は典型的なコントが芸風であったが、人気はなかなか出なかった。その原因について、先輩芸人から「個性がない」と言われたオフショルダーは、芸風を一新しようと決意する。

コンビ名も改めて全てをリセットしようとした彼らは、芸名に共通点を見出した戦国時代の故事から名を取って、「背面高等帝国」として活動を開始する。切り替えた芸風であるナンセンス系のコントが当たり、翌々年のR-1グランプリでは決勝2位という結果を残す。そこで背面高等帝国は世間一般への知名度を上げ、一躍人気芸人となった。そしてそのコンビ名やネタの最後の決め台詞「だが背面高等帝国と踊ろう」も広く認知されるようになった。

それに伴い、「背面高等帝国」という言葉は、彼らの芸風を象徴する一言「わけわからん」、ほえふぇあ語で言う「ぐじゃらてぃ」を指すようになったのである。

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