古民家カッフェの惨劇
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この項目では、古民家カッフェの惨劇という演歌漫才師について説明しています。 ・古民家カフェの惨劇という殺傷事件については「古民家カフェの惨劇」をご覧ください。 |
古民家カッフェの惨劇とは、かつての夫婦演歌漫才師である。舞台に立つたびに観客を半殺しの目に遭わせ、「演歌漫才界のノンリーサル兵器」と称された。
経歴[編集 | ソースを編集]
結成から M-1 優勝まで[編集 | ソースを編集]
1928年5月1日[1]、岐阜県美濃市で老夫婦として働いていた小松三四郎(えいじ)・百濟(ペクチェ)夫妻が「原材料にバーミキュライトを含みますか」の名で音楽活動を開始し、来日していたフランスのレコード会社によって折よく同市で開かれたオーディションに予選落ちした。
翌日、はす向かいに住む発明王トーマス・エジソン夫妻は、このニュースを耳にして強烈な「ざまあみろパワー」を獲得し、そのまま演歌漫才師となった。「古民家カッフェの惨劇」結成の瞬間である。
当初は県内各所の墓地を回り、オリジナルの演歌を歌う日々であった。その当時、発明王夫妻にとって、眠る死人の魂こそが観客だった。古民家カッフェの惨劇の音楽はもとより死人のために作られるものであった。ごくまれに、墓参りで彼らのライブに巻き込まれる生者があったが、みな息絶えた。死人音楽は、生ける者には困難であった。
結成からわずか32年後の1960年、古民家カッフェの惨劇に転機が訪れる。岐阜市の霊園で彼らが例のごとく演歌漫才活動に励んでいたのを、そこに露店を出していた、生きているタフなイカサマダーツプレイヤー・吉田茂兄弟に発見された[2]。その表現力に驚嘆した兄弟は夫妻に歌手デビューを持ちかけたが、彼らは断った。
トーマス「あり得ないね、歌手なんか」
エジソン「そうよ、失礼しちゃうわ」
トーマス「だいたいお前たち、はげてる」
エジソン「そうよ、失礼しちゃうわ」
兄・プレイヤーはその直後に式神によって封印されたが、残された弟・吉田茂から、「歌手ではなく、演歌漫才師としてデビューするのはどうか」という代替案が提示されると、夫妻はこれを喜んで受け入れた。
トーマス「演歌漫才師だって? 最高じゃないか!」
エジソン「そうね、ああ」
トーマス「今の僕たちのままで、デビューできるのかい?」
エジソン「は?」
トーマス「死んでいない観客が僕たちの音楽を許してくれるなら、一度は表舞台に立ってみたいと思っていたんだ」
エジソン「そうね、ああ」
古民家カッフェの惨劇がイカサマダーツ吉田茂とともに向かったのは、富山県富山市のナイロン製小劇場であった。そこで彼らは、歌った。それで、天才マネージャー・イカサマダーツ吉田茂の恐るべき集客力が呼び寄せた、タフでない生きている数千兆の観客は、みな息絶えた[3]。彼らは反省した。
生きている観客を相手にしはじめた古民家カッフェの惨劇は、人を死なせてはならないという、結成32年にして初めての課題にぶつかった。すでに数千兆を殺してしまったのだから、諦めて死人相手の音楽活動に戻るという手も十分にありえたはずだが、夫婦揃ってバカなのでそんなことには気づかなかった。
古民家カッフェの惨劇は演歌漫才師として結成されたのであって、本人たちもこの肩書きに矜持を持っていた。しかし、いざ顧みると、漫才の要素をひとつも有しない、演歌歌手とまったく同様の活動をしていたことに思い当たった。夫妻は「それだ」と思った。演歌とは毒そのものである。声をにょろにょろさせて叫ぶあの歌謡もどきが、毒でないはずはない。パフォーマンスのすべてを毒にしてしまっては、生きている観客が死ぬのも当然だ。解毒剤よろしく漫才のエッセンスをうまく取り込む必要がある。
岐阜に戻った夫妻はただちにネタ作りを始め、たった数日で、演歌と漫才を融合させた最高のパフォーマンスを完成させた。ほやほやの台本を持って県内各地の劇場に赴き、演技中の演者をことごとくなぎ倒して新しい演歌漫才を披露した。どこの劇場でも、生きている観客が意識を失ったが、誰も死にはしなかった。驚くべき快挙であった。
その翌日、すっかり自信をつけた古民家カッフェの惨劇は、イカサマダーツ吉田茂を大声で呼び出した。当の彼は、自分が集めた生きている数千兆の観客がみな亡くなってしまったのですっかり弱っており、悲嘆者の知能で「漫才なら M-1 にでも出たらいいじゃねえかよぉ」と半ば投げやりに提案した。夫妻は自信家の知能でこれを採用した。
さっそくエントリーシートを記入して、予選参加の案内通知を待った。待っているあいだも、生きている観客に対するけじめをつける意図で墓地へは行かず、自宅で練習を重ねた。半年後、郵便受けを一度も確認していないことに気づき、慌てて見に行ったところ、そこには3枚の封筒があった。予選の参加案内と、準決勝の参加案内、そして決勝の参加案内だった。夫妻は、自分たちが予選への参加を逃してしまったことと、何らかの手違いで勝手に決勝までのぼり詰めていたことを悟った。夫妻は叫んだ。
トーマス「武器を取れぃ!」
エジソン「武器を取れぃ!」
M-1 グランプリ決勝にはしれっと出場した。優勝の可能性が比較的低いとされる1組めでの披露だったが、負ける気はしなかった。マイクの正面に立って、夫婦二人で慎重に歌いはじめた。また誰かが死ぬかもしれないという恐怖が一瞬脳裏をよぎったが、決して臆することはなかった。
すべての観客は、半分の毒と半分の解熱剤を受けて、意識を失った。もちろん誰も死ななかった。さらに、あろうことか、スタンドマイクを前に演歌を歌うだけという漫才としては衝撃的なパフォーマンスが評価され、2組めのネタを待たずに即時優勝した。
かつて生きている数千兆の観客を死に至らしめ、深刻な困難を経験した古民家カッフェの惨劇であったが、決して諦めることなく研鑽に励み、人を殺さない演歌漫才を作りあげ、そのうえ M-1 優勝という輝かしい成功を手にしたのだった。夫妻は感極まって、同時に呟いた。
トーマス・エジソン「失敗とは勉強である」
M-1 優勝から変死まで[編集 | ソースを編集]
M-1 の優勝が決まった直後、調子に乗った夫妻は無断でスタジオを抜け出し、テレビ朝日ビルの屋上から飛び降りて死んだ。
ネタ[編集 | ソースを編集]
津軽娘[編集 | ソースを編集]
M-1 優勝を勝ち取った、古民家カッフェの惨劇の最も有名な演歌漫才ネタである。
アアー
悲しませるな俺をとて 私を捨てたあの人は
何処(いずこ)にいます 如何(いか)にいます
私は一人 ふるさとへ アア
忘れてくれるな俺をとて わがままばかりのあの人は
誰をめとって 何処に暮らす
私は津軽に 帰ります オイ
エンヤコラ アーン
列車の音が 聞こえてきます
帰るのよ 私は帰るの ハァン
何も言わずに 黙って
黙って一生 働きますわ ア……ン
津軽の母を 津軽の父を
津軽の林檎畑を 愛して ウッ イグッ
オエエ エオ゙ッ
あゝ愛想を尽くしたとて 私を捨てたあの人を
早く忘れなくちゃならないわ エ゙ゲッ
あれほど尽くしたというのに わがままばかりのあの人を
早く忘れなくちゃならないわ オ゙ッグ
列車の音が 聞こえてきます ヘッグ
帰るのよ 私は帰るの ゲホゲホ
何も言わずに 黙って ゴホン
黙って一生 働きますわ ゲフンゲフン
津軽の母を 津軽の父を ヘグシ
津軽の林檎畑を 愛して ハックション
ハックション
脚注[編集 | ソースを編集]
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