「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/それいけ!ルサンチマン」の版間の差分

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 そして、それに最愛の弟の死が重なった。青年は完全に生存の活力を失い、大学構内の清掃で日銭を稼ぎながら惰眠と酒を貪る日々を送るようになっていった。だから今の彼には、政府への反逆などという思想は微塵もない。だが無情にも、この国で一度でも政府へ反抗したが最後、恐怖の男からは逃れられないのだ。
 そして、それに最愛の弟の死が重なった。青年は完全に生存の活力を失い、大学構内の清掃で日銭を稼ぎながら惰眠と酒を貪る日々を送るようになっていった。だから今の彼には、政府への反逆などという思想は微塵もない。だが無情にも、この国で一度でも政府へ反抗したが最後、恐怖の男からは逃れられないのだ。


 ―――ほんの数十年ほど前まで、この国では皇帝による専制政治が執られていた。長きにわたって虐げられてきた民衆は、その一生を、「一日に二かけらのパン」とも揶揄されるような殆ど奴隷に変わりない立場に甘んじて過ごしていくはずだった。
 ――ほんの数十年ほど前まで、この国では皇帝による専制政治が執られていた。長きにわたって虐げられてきた民衆は、その一生を、「一日に二かけらのパン」とも揶揄されるような殆ど奴隷に変わりない立場に甘んじて過ごしていくはずだった。


 しかし、先の世界的大戦の長期化が進むと、国家経済は大きな痛手を負うことになる。これによって権力基盤を崩したのが、皇帝であった。この好機を逃すまいと団結した農奴たちは、生活の改善を要求して「パン革命」を引き起こし、ついには宮殿を占拠。私腹を肥やしていた貴族たちと皇帝を虐殺し、ここに民主主義国家の建設を宣言したのだった。
 しかし、先の世界的大戦の長期化が進むと、国家経済は大きな痛手を負うことになる。これによって権力基盤を崩したのが、皇帝であった。この好機を逃すまいと団結した農奴たちは、生活の改善を要求して「パン革命」を引き起こし、ついには宮殿を占拠。私腹を肥やしていた貴族たちと皇帝を虐殺し、ここに民主主義国家の建設を宣言したのだった。
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 青年はとっくに人生への期待を放棄していた。この社会を変えることは不可能だし、愛する弟も喪った。このまま田舎で飲んだくれて、何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に生涯を終えよう、と思っていた。
 青年はとっくに人生への期待を放棄していた。この社会を変えることは不可能だし、愛する弟も喪った。このまま田舎で飲んだくれて、何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に生涯を終えよう、と思っていた。


 ―――しかしこの恐怖を前にして、青年は自らが{{傍点|文章=必死になっている}}ことに気づいた。命を達観しているようで、それでいて虐待される小さなうさぎのようにノックの音に怯えている。全ての感情的な人間を軽蔑しながら、今にも泣きだしそうなほど目と喉の奥に意識を突き刺している。
 ――しかしこの恐怖を前にして、青年は自らが{{傍点|文章=必死になっている}}ことに気づいた。命を達観しているようで、それでいて虐待される小さなうさぎのようにノックの音に怯えている。全ての感情的な人間を軽蔑しながら、今にも泣きだしそうなほど目と喉の奥に意識を突き刺している。


 こうして、数分間のドア越しの膠着の後、地方の古臭いアパートに銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。愚鈍ながら、青年はこのとき初めて、重く、生々しく、命を失う恐怖を、そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをして感じ取った。青年は飛び上がるように逃亡を決断した。
 こうして、数分間のドア越しの膠着の後、地方の古臭いアパートに銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。愚鈍ながら、青年はこのとき初めて、重く、生々しく、命を失う恐怖を、そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをして感じ取った。青年は飛び上がるように逃亡を決断した。
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 すると、眠気のような、脱力感のような、{{傍点|文章=のび}}をした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識には{{傍点|文章=ふた}}がなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。
 すると、眠気のような、脱力感のような、{{傍点|文章=のび}}をした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識には{{傍点|文章=ふた}}がなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。


 ―――彼は背中に強い衝撃を受けた後、ひんやりとした感触を覚えた。目を開けると、頭上には千切れた縄が申し訳なさそうに垂れていた。この麻縄はもともと捨てられていたものなのだから、質が悪いのは当然のことなのだが、青年は釈然としないものを感じた。
 ――彼は背中に強い衝撃を受けた後、ひんやりとした感触を覚えた。目を開けると、頭上には千切れた縄が申し訳なさそうに垂れていた。この麻縄はもともと捨てられていたものなのだから、質が悪いのは当然のことなのだが、青年は釈然としないものを感じた。


 その直後、青年は近くで誰かが笑うのを耳にした。声の主を探すまでもなく、その男は青年の目の前に現れ、へらへらした口調で言った。
 その直後、青年は近くで誰かが笑うのを耳にした。声の主を探すまでもなく、その男は青年の目の前に現れ、へらへらした口調で言った。
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 やがて、社会の変革を望む若い希望に満ち溢れるこの青年は、その楽観主義者の男との親交をより深めていった。
 やがて、社会の変革を望む若い希望に満ち溢れるこの青年は、その楽観主義者の男との親交をより深めていった。


 ―――奇しくもその頃、全国の労働者たちをたちまち熱狂の渦に引き込んだ存在がいた。奴隷のような彼らでさえも束の間の夢の中にいる深夜遅く、{{傍点|文章=それ}}は悪趣味な高級住宅街にやって来て、<ruby>資本家<rt>ブルジョワジー</rt></ruby>どもの屋敷に侵入し、たちまち奴らを叩きのめす。民衆が起きたときには、もはや豪邸はもぬけの殻だ。
 ――奇しくもその頃、全国の労働者たちをたちまち熱狂の渦に引き込んだ存在がいた。奴隷のような彼らでさえも束の間の夢の中にいる深夜遅く、{{傍点|文章=それ}}は悪趣味な高級住宅街にやって来て、<ruby>資本家<rt>ブルジョワジー</rt></ruby>どもの屋敷に侵入し、たちまち奴らを叩きのめす。民衆が起きたときには、もはや豪邸はもぬけの殻だ。


 いつしか労働者たちは、その意味を知ってか知らずか、人知れず悪を撃滅する{{傍点|文章=それ}}をこう呼び始めた―――「ルサンチマン」と。
 いつしか労働者たちは、その意味を知ってか知らずか、人知れず悪を撃滅する{{傍点|文章=それ}}をこう呼び始めた――「ルサンチマン」と。




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 ページをめくる青年の手は、ふと止まった。実によく見知った顔が掲載されていたからだ。だがその表情は、いつものあのへらへらしたものではなく、まるで別人のように見えた。
 ページをめくる青年の手は、ふと止まった。実によく見知った顔が掲載されていたからだ。だがその表情は、いつものあのへらへらしたものではなく、まるで別人のように見えた。


 ―――青年は、その噂を聞いたことがあった。奴金の立場にありながら、革命を望むひねくれ者の男がいると。表向きには政府の犬として振る舞い、しかしその裏、あらゆる情報を革命の中枢に横流しだ。先の第二クーデターにおいても、この二重スパイの活躍は、黴金卿の喉元に銃口を突きつけるまでに至ったという。とはいえ、数々の裏切りが政府に露見してからここ数年は、まるで姿を見せないようになったらしく、やがて彼に入れ替わるようにルサンチマンが現れた。黴金卿の{{傍点|文章=飼い犬}}にして、{{傍点|文章=かび}}の生えた革命協力者。あまのじゃくで怒りっぽく、幼稚でへそ曲がり。誰が呼んだか、彼は労働者の中で「名犬『<ruby>青臭い黴<rt>ブルーチーズ</rt></ruby>』」として定着していた。
 ――青年は、その噂を聞いたことがあった。奴金の立場にありながら、革命を望むひねくれ者の男がいると。表向きには政府の犬として振る舞い、しかしその裏、あらゆる情報を革命の中枢に横流しだ。先の第二クーデターにおいても、この二重スパイの活躍は、黴金卿の喉元に銃口を突きつけるまでに至ったという。とはいえ、数々の裏切りが政府に露見してからここ数年は、まるで姿を見せないようになったらしく、やがて彼に入れ替わるようにルサンチマンが現れた。黴金卿の{{傍点|文章=飼い犬}}にして、{{傍点|文章=かび}}の生えた革命協力者。あまのじゃくで怒りっぽく、幼稚でへそ曲がり。誰が呼んだか、彼は労働者の中で「名犬『<ruby>青臭い黴<rt>ブルーチーズ</rt></ruby>』」として定着していた。


 しかし、青年は紙面に躍る言葉の意味を上手く飲み込めなかった。{{傍点|文章=名犬}}の死亡記事に、なぜ親友の顔写真が堂々と刷られているのか、嚥下できなかった。否、実際のところ、青年はとっくにそれに気づいていた。それなのに彼は、必死に理解を拒んだのだ。それを支えたのは、あの男の死を認めようとしない気持ちというよりもむしろ、秘密でつけていた日記が公衆に閲覧されるのを黙って見ることしかない少年のような、お気に入りのクレヨンが他人に使われて塞ぐ幼児のような、たった一人の年来の親友に裏切られた老人のような、この理不尽を声高に主張しようとする、独占的でわがままな気持ちだった。
 しかし、青年は紙面に躍る言葉の意味を上手く飲み込めなかった。{{傍点|文章=名犬}}の死亡記事に、なぜ親友の顔写真が堂々と刷られているのか、嚥下できなかった。否、実際のところ、青年はとっくにそれに気づいていた。それなのに彼は、必死に理解を拒んだのだ。それを支えたのは、あの男の死を認めようとしない気持ちというよりもむしろ、秘密でつけていた日記が公衆に閲覧されるのを黙って見ることしかない少年のような、お気に入りのクレヨンが他人に使われて塞ぐ幼児のような、たった一人の年来の親友に裏切られた老人のような、この理不尽を声高に主張しようとする、独占的でわがままな気持ちだった。
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 青年は、自分が{{傍点|文章=あの希望}}を失っていくのを感じた。雲がかかった太陽のように、罪人のいない地獄のように、こもっていた熱は次第に薄れ、感じられなくなってゆき、やがて肺には冷ややかな空気がなだれ込んできた。この浅薄で怠惰な青年は、自己の変わり身の早さを自嘲し、しばらくの間、すべてを放棄してぼうっとしていた。
 青年は、自分が{{傍点|文章=あの希望}}を失っていくのを感じた。雲がかかった太陽のように、罪人のいない地獄のように、こもっていた熱は次第に薄れ、感じられなくなってゆき、やがて肺には冷ややかな空気がなだれ込んできた。この浅薄で怠惰な青年は、自己の変わり身の早さを自嘲し、しばらくの間、すべてを放棄してぼうっとしていた。


 ―――ふとコートのポケットの中に手を突っ込むと、青年は、折り畳まれて縒れた古紙が入っているのを見つけた。その表面に横たわるみみず文字を、眠い目をこすりながら解読すると、どうやらこのように書いてあるらしかった。
 ――ふとコートのポケットの中に手を突っ込むと、青年は、折り畳まれて縒れた古紙が入っているのを見つけた。その表面に横たわるみみず文字を、眠い目をこすりながら解読すると、どうやらこのように書いてあるらしかった。


 「俺は政府の犬でもなければ、ルサンチマンの味方でもない。」
 「俺は政府の犬でもなければ、ルサンチマンの味方でもない」


 「ただ一つ言えるのは、俺を殺したのは他ならぬ『革命』だっていうことだ。」
 「ただ一つ言えるのは、俺を殺したのは他ならぬ『革命』だっていうことだ」


 「だからお前に託す。」
 「だからお前に託す」


 「あの街に行け。『俺が昔そこで労働者だった』っていう嘘をついた街だ。」
 「あの街に行け。『俺が昔そこで労働者だった』っていう嘘をついた街だ」


 「あの街は、革命勢力の本拠地だ。」
 「あの街は、革命勢力の本拠地だ」


 「俺は考えるのをお前に託す。」
 「俺は考えるのをお前に託す」


 「この革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか。」
 「この革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか」


 「結局俺にはわからずじまいだった。」
 「結局俺にはわからずじまいだった」


 「俺は一足先に行く。頼るとしたら『ジャムおじさん』を頼れ。」
 「俺は一足先に行く。頼るとしたら『ジャムおじさん』を頼れ」


 「ああ、ついでに、墓にはジャーキーでも供えといてくれ。」
 「ああ、ついでに、墓にはジャーキーでも供えといてくれ」


 {{傍点|文章=最後の手紙}}を再び折り畳み、元の場所に戻してから、青年は勢いよくコートを羽織った。久々の肌触りは、相も変わらずの安っぽさであったが、しかし何故だか、どこか暖かさを感じるようでもあり、青年は弟の肌の温もりを思い出した。暫しの回顧の後、この暖かさを気のせいだと切り捨てた彼は、はっきりした足取りで、その街へと向かっていった。
 {{傍点|文章=最後の手紙}}を再び折り畳み、元の場所に戻してから、青年は勢いよくコートを羽織った。久々の肌触りは、相も変わらずの安っぽさであったが、しかし何故だか、どこか暖かさを感じるようでもあり、青年は弟の肌の温もりを思い出した。暫しの回顧の後、この暖かさを気のせいだと切り捨てた彼は、はっきりした足取りで、その街へと向かっていった。
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 青年はまたも、自己の変わり身の早さを自嘲した。
 青年はまたも、自己の変わり身の早さを自嘲した。


 ―――ルサンチマンの活躍は衰えるところを知らず、この頃には、既に資本家どもの十人に一人が国外に{{傍点|文章=追放}}されてしまうというありさまだった。労働者たちの団結はますます強まり、{{傍点|文章=その機運}}の現実性もまた強まっていった。国中にまたがる漠然とした雰囲気は、遠足前日の小学生のように浮足立つ雰囲気は、徐々に一つの形として収束し、はっきりとした輪郭を描いてきていた。今までおとぎ話のものだった新たな社会は、今やショーウィンドウの中にまでやって来て、民衆の熱狂を助長した。
 ――ルサンチマンの活躍は衰えるところを知らず、この頃には、既に資本家どもの十人に一人が国外に{{傍点|文章=追放}}されてしまうというありさまだった。労働者たちの団結はますます強まり、{{傍点|文章=その機運}}の現実性もまた強まっていった。国中にまたがる漠然とした雰囲気は、遠足前日の小学生のように浮足立つ雰囲気は、徐々に一つの形として収束し、はっきりとした輪郭を描いてきていた。今までおとぎ話のものだった新たな社会は、今やショーウィンドウの中にまでやって来て、民衆の熱狂を助長した。


 国に溢れる{{傍点|文章=その機運}}―――「{{傍点|文章=革命の機運}}」は―――どこの誰が見ようと明らかなものになっていた。それに呼応したのだろうか。革命勢力の中枢において、第三クーデターの計画が、ついに活性化しつつあった。
 国に溢れる{{傍点|文章=その機運}}――「{{傍点|文章=革命の機運}}」は――どこの誰が見ようと明らかなものになっていた。それに呼応したのだろうか。革命勢力の中枢において、第三クーデターの計画が、ついに活性化しつつあった。




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<big>'''第Ⅳ章 夜更け'''</big>
<big>'''第Ⅳ章 夜更け'''</big>


 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの葛藤に悩まされていた。果たしてこの革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか―――
 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの葛藤に悩まされていた。果たしてこの革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか――


 この街には、革命勢力の中心となっている二人の人物がいた。「ジャムおじさん」と「<ruby>旗子<rt>ハタコ</rt></ruby>さん」だ。ジャムおじさんは穏健派で、「血の流れない革命」を信条にしている。一方、旗子さんは過激極まりなく、暴力によって黴金卿をこの国から追い払うという「血に祝われる革命」を掲げている。彼らはこの国の革新を求めているという点では一致しているが、性格はまるで正反対なのだ。
 この街には、革命勢力の中心となっている二人の人物がいた。「ジャムおじさん」と「<ruby>旗子<rt>ハタコ</rt></ruby>さん」だ。ジャムおじさんは穏健派で、「血の流れない革命」を信条にしている。一方、旗子さんは過激極まりなく、暴力によって黴金卿をこの国から追い払うという「血に祝われる革命」を掲げている。彼らはこの国の革新を求めているという点では一致しているが、性格はまるで正反対なのだ。
155行目: 155行目:
 正義とは。暴力とは。欲望とは。自由とは。様々な思いが青年を逡巡する。
 正義とは。暴力とは。欲望とは。自由とは。様々な思いが青年を逡巡する。


 ―――チャイムが鳴り響き、青年の思索は中断された。ジャムおじさんは徐に立ち上がって玄関へと向かった。気づけば、ジャムおじさんのグラスには氷しか残っていない一方、青年の珈琲はほとんど減っていなかった。
 ――チャイムが鳴り響き、青年の思索は中断された。ジャムおじさんは徐に立ち上がって玄関へと向かった。気づけば、ジャムおじさんのグラスには氷しか残っていない一方、青年の珈琲はほとんど減っていなかった。


 暫くして、彼はその訪問者と共に居室に戻って来た。訪問者は若い女性だった。青年は直感的に、何の根拠もなく、しかし確かに、彼女こそが旗子なのだと勘づいた。彼女は、座っている青年を眼中に捉えた。
 暫くして、彼はその訪問者と共に居室に戻って来た。訪問者は若い女性だった。青年は直感的に、何の根拠もなく、しかし確かに、彼女こそが旗子なのだと勘づいた。彼女は、座っている青年を眼中に捉えた。
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 ジャムおじさんは青年を一瞥して、こう言った。
 ジャムおじさんは青年を一瞥して、こう言った。


 「旅人だよ。道に迷ってしまったらしく、今晩は泊めてやることにしたんだ。」
 「旅人だよ。道に迷ってしまったらしく、今晩は泊めてやることにしたんだ」


 旗子が十分に警戒すべき人物であるということを、青年は静かに察した。
 旗子が十分に警戒すべき人物であるということを、青年は静かに察した。


 「へー。」
 「へー」


 「で、こんな深夜に訪ねてくるなんて、要件は何だい?」
 「で、こんな深夜に訪ねてくるなんて、要件は何だい?」
173行目: 173行目:
 旗子は懐から拳銃を取り出して言い放った。
 旗子は懐から拳銃を取り出して言い放った。


 「単刀直入に言う―――死んで。」
 「単刀直入に言う――死んで」


 「…………私が邪魔になったのか?」
 「…………私が邪魔になったのか?」


 「もっと怯えてくれてもいいのに。勿論銃は本物よ。」
 「もっと怯えてくれてもいいのに。勿論銃は本物よ」


 山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。青年はあの夜のことを思い出し、心音の刻みを早めた。彼らの会話は、青年を置き去りに白熱していった。
 山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。青年はあの夜のことを思い出し、心音の刻みを早めた。彼らの会話は、青年を置き去りに白熱していった。


 「あなたはね……穏和すぎるのさ。過ぎた人徳は革命を希求する者として害になる。その証拠に、あなたの影響力はここ数年で地に堕ちたわ。今更『血の流れない革命』を標榜してる人なんてほとんどいない。」
 「あなたはね……穏和すぎるのさ。過ぎた人徳は革命を希求する者として害になる。その証拠に、あなたの影響力はここ数年で地に堕ちたわ。今更『血の流れない革命』を標榜してる人なんてほとんどいない」


 「それは君が私の支持者を{{傍点|文章=消してまわった}}からじゃないか。気づいていないとでも思っているのかい?」
 「それは君が私の支持者を{{傍点|文章=消してまわった}}からじゃないか。気づいていないとでも思っているのかい?」
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 「…………」
 「…………」


 「第二クーデターの時……私たち革命軍は遂に、あの豪邸に乗り込むことに成功した。そして、黴金卿の下にたどり着いたのはあなたが指揮した第三分隊。あそこであなたが発砲を許可していれば今頃労働者たちは自由を謳歌していたはずなのに……あなたはそうしなかった。一体なぜ?笑える話よ!{{傍点|文章=黴金卿の娘が泣きながらやつに抱き着いていたから撃てなかった}}んですって!」
 「第二クーデターの時……私たち革命軍は遂に、あの豪邸に乗り込むことに成功した。そして、黴金卿の下にたどり着いたのはあなたが指揮した第三分隊。あそこであなたが発砲を許可していれば今頃労働者たちは自由を謳歌していたはずなのに……あなたはそうしなかった。一体なぜ? 笑える話よ! {{傍点|文章=黴金卿の娘が泣きながらやつに抱き着いていたから撃てなかった}}んですって!」


 ―――それを知ってなお、青年は彼を責める気になど今更なれなかった。しかし、彼の行動をほめたたえる気もさらさら無かった。青年は、矛盾に塗れた自分を俯瞰し、誰にも聞こえないような声で小さく毒づいた。
 ――それを知ってなお、青年は彼を責める気になど今更なれなかった。しかし、彼の行動をほめたたえる気もさらさら無かった。青年は、矛盾に塗れた自分を俯瞰し、誰にも聞こえないような声で小さく毒づいた。


 続く旗子の追及に、この優しい顔をした男は、悲しそうに下を向いて応えた。
 続く旗子の追及に、この優しい顔をした男は、悲しそうに下を向いて応えた。


 「……無辜の小さな子供を巻き込むわけにはいかなかった。それだけだよ。」
 「……無辜の小さな子供を巻き込むわけにはいかなかった。それだけだよ」


 「まだそんなこと言ってるのね。近づいて黴野郎だけ狙い撃ちすればそれでよかったじゃない。ま、とにかく……あなたはあの時から民衆の信頼を失ったの。もうあなたは革命の先導者なんかじゃない。自分が何て呼ばれてるか知ってるでしょ?『<ruby>弾詰まりの老翁<rt>ジャムおじさん</rt></ruby>』よ!」
 「まだそんなこと言ってるのね。近づいて黴野郎だけ狙い撃ちすればそれでよかったじゃない。ま、とにかく……あなたはあの時から民衆の信頼を失ったの。もうあなたは革命の先導者なんかじゃない。自分が何て呼ばれてるか知ってるでしょ?『<ruby>弾詰まりの老翁<rt>ジャムおじさん</rt></ruby>』よ!」


 「……私は気に入っているよ、その呼び名も。」
 「……私は気に入っているよ、その呼び名も」


 「はあ。まったく呆れたわ。でも…………そんなあなたにも、革命に貢献できるチャンスはまだ残されてる―――そう、死ぬことさ。」
 「はあ。まったく呆れたわ。でも…………そんなあなたにも、革命に貢献できるチャンスはまだ残されてる――そう、死ぬことさ」


 「……私のような老いぼれが一人死んでどうなるというのかね。」
 「……私のような老いぼれが一人死んでどうなるというのかね」


 「消費期限切れのケーキでも、捨てるときには勿体なく感じるでしょ?それと同じよ。{{傍点|文章=犯人不明のあなたの他殺体}}は、さらなる労働者の団結をもたらす。」
 「消費期限切れのケーキでも、捨てるときには勿体なく感じるでしょ? それと同じよ。{{傍点|文章=犯人不明のあなたの他殺体}}は、さらなる労働者の団結をもたらす」


 「……君はこの革命の後……一体何をするつもりなんだい?」
 「……君はこの革命の後……一体何をするつもりなんだい?」
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 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。
 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。


 「地獄の底から見てたらいいんじゃないかしら。」
 「地獄の底から見てたらいいんじゃないかしら」


 ―――山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。空っぽのグラスは、淋しげな音を立てて揺れた。
 ――山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。空っぽのグラスは、淋しげな音を立てて揺れた。




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 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの緊迫感に襲われ、早まる心音の刻みを抑えようと、椅子に座ったまま、震えながら深呼吸した。旗子は青年の方を振り向いた。
 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの緊迫感に襲われ、早まる心音の刻みを抑えようと、椅子に座ったまま、震えながら深呼吸した。旗子は青年の方を振り向いた。


 「君さ、{{傍点|文章=あの犬}}のお友達でしょ。おおかた奴にここに来るように言われたのかしら。ジャム野郎にかくまってもらえるとでも思ったんでしょうね。でも残念。私は{{傍点|文章=反逆の芽}}を見過ごさない。とっくにあなたのことは何から何まで調査済みよ。」
 「君さ、{{傍点|文章=あの犬}}のお友達でしょ。おおかた奴にここに来るように言われたのかしら。ジャム野郎にかくまってもらえるとでも思ったんでしょうね。でも残念。私は{{傍点|文章=反逆の芽}}を見過ごさない。とっくにあなたのことは何から何まで調査済みよ」


 青年は銃口を向けられて、肌を粟立てながら、ここが人生の最終章であることを悟った。
 青年は銃口を向けられて、肌を粟立てながら、ここが人生の最終章であることを悟った。


 「あらあら、怖がってる?胆力が無いわね。まるでうさぎみたいに縮こまって。……ふふ、我ながら言い得て妙ね。知ってる?うさぎって性欲が強い動物なのよ。実の弟に性的虐待を繰り返して、ついには自殺させた君にぴったり。」
 「あらあら、怖がってる? 胆力が無いわね。まるでうさぎみたいに縮こまって。……ふふ、我ながら言い得て妙ね。知ってる? うさぎって性欲が強い動物なのよ。実の弟に性的虐待を繰り返して、ついには自殺させた君にぴったり」


 青年は黙って旗子を睨みつけた。しかし、彼女は心底愉快そうに口の端を歪めているだけだ。
 青年は黙って旗子を睨みつけた。しかし、彼女は心底愉快そうに口の端を歪めているだけだ。
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 「―――ルサンチマンは、君さ。」
 「――ルサンチマンは、君さ」




243行目: 243行目:
 青年は困惑した。自分は資本家の家に押し入って奴らを追い出したことなんてないからだ。それに気づいているのかいないのか、旗子は犯人の仕掛けたトリックを看破する探偵のように、饒舌に喋り始めた。
 青年は困惑した。自分は資本家の家に押し入って奴らを追い出したことなんてないからだ。それに気づいているのかいないのか、旗子は犯人の仕掛けたトリックを看破する探偵のように、饒舌に喋り始めた。


 「社会には沢山の人間がいる。穏和な人もいれば、過激な人も。彼らの内面はそれぞれ大きく異なっていて、共通点なんかないように思えるわ。けどね、一つだけ、ほとんどの人に当てはまる傾向がある。自身を矮小化することよ。自分の考えが、思いが、この社会に影響を与えるわけがない、なーんて……いわば高を括っているの。」
 「社会には沢山の人間がいる。穏和な人もいれば、過激な人も。彼らの内面はそれぞれ大きく異なっていて、共通点なんかないように思えるわ。けどね、一つだけ、ほとんどの人に当てはまる傾向がある。自身を矮小化することよ。自分の考えが、思いが、この社会に影響を与えるわけがない、なーんて……いわば高を括っているの。『塵も積もれば山となる』。シンプルな常套句ほど、物事の本質を表しているものね。それに人間は社会性の高い動物だから、周りが自身をどう思っているのかなんてすぐに分かる……」


 「『塵も積もれば山となる』。シンプルな常套句ほど、物事の本質を表しているものね。それに人間は社会性の高い動物だから、周りが自身をどう思っているのかなんてすぐに分かる……」
 旗子は大げさに手のひらを上げる。


 「……いいえ、単刀直入に行きましょう。まず、ルサンチマンは実在の個人ではない。というかそもそも、資本家を襲撃した存在なんて、端からいないのよ。」
 「……いいえ、単刀直入に行きましょう。まず、ルサンチマンは実在の個人ではない。というかそもそも、資本家を襲撃した存在なんて、端からいないのよ」


 青年の困惑は増しにも増した。{{傍点|文章=資本家を襲撃した存在はいない}}?
 青年の困惑は増しにも増した。{{傍点|文章=資本家を襲撃した存在はいない}}?
255行目: 255行目:
 青年は唖然とする。
 青年は唖然とする。


 「最初に『ルサンチマン』の手柄だとされていた、度重なる資本家の失踪。その真相は、本当にただ単に、彼らが別の家に引っ越したってだけよ。でも、それをあたかも何かしらの存在によって行われた『{{傍点|文章=追放}}』のようにしてさまざまなコミュニティで喧伝し、都合いいヒーローの存在を流布しさえしてしまえば、十分な教育を受けていない馬鹿な労働者どもや活動家どもはすぐにそれを信じ込んでしまうわ。取り沙汰されてる資本家がわざわざ事実を訂正しに来るなんてこともないしね。」
 「最初に『ルサンチマン』の手柄だとされていた、度重なる資本家の失踪。その真相は、本当にただ単に、彼らが別の家に引っ越したってだけよ。でも、それをあたかも何かしらの存在によって行われた『{{傍点|文章=追放}}』のようにしてさまざまなコミュニティで喧伝し、都合いいヒーローの存在を流布しさえしてしまえば、十分な教育を受けていない馬鹿な労働者どもや活動家どもはすぐにそれを信じ込んでしまうわ。取り沙汰されてる資本家がわざわざ事実を訂正しに来るなんてこともないしね。でも、『ルサンチマン』というただの集団妄想は、口伝によって十倍にも百倍にも膨れ上がり、積もり積もっていつしか労働者たちの間に革命の機運を巻き起こしたわ。全てが私の狙い通りよ。用済みの『名犬』に代わる新たな{{傍点|文章=労働者たちの英雄}}『ルサンチマン』! それは資本家への敵意によって労働者を団結させ、この国を生まれ変わらせる‼」


 「でも、『ルサンチマン』というただの集団妄想は、口伝によって十倍にも百倍にも膨れ上がり、積もり積もっていつしか労働者たちの間に革命の機運を巻き起こしたわ。全てが私の狙い通りよ。用済みの『名犬』に代わる新たな{{傍点|文章=労働者たちの英雄}}『ルサンチマン』!それは資本家への敵意によって労働者を団結させ、この国を生まれ変わらせる!!」
 旗子は、まるでオーケストラの指揮者のように、腕と目線を踊らせる。


 「こんな風にして資本家への攻撃的な雰囲気ができ上がってしまってからは、それを察して危機感を覚えた資本家が点々と、本当に国外逃亡をし始めたわ。あの資本家は国外逃亡、この資本家も国外逃亡、こうなってしまえば、後はドミノ倒しね。資本家たちは周りに倣ってどんどん国外に出ていってしまう。奇しくも、最早この国から{{傍点|文章=追放}}されていない資本家は皆無に等しいわ!」
 「こんな風にして資本家への攻撃的な雰囲気ができ上がってしまってからは、それを察して危機感を覚えた資本家が点々と、本当に国外逃亡をし始めたわ。あの資本家は国外逃亡、この資本家も国外逃亡、こうなってしまえば、後はドミノ倒しね。資本家たちは周りに倣ってどんどん国外に出ていってしまう。奇しくも、最早この国から{{傍点|文章=追放}}されていない資本家は皆無に等しいわ!」
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 青年は、何も考えられなかった。あらゆる人間の愚かさを嫌と言うほど眼前に突きつけられ、得意の自嘲さえできず、ただ茫然とするしかなかった。
 青年は、何も考えられなかった。あらゆる人間の愚かさを嫌と言うほど眼前に突きつけられ、得意の自嘲さえできず、ただ茫然とするしかなかった。


 「黴金卿も馬鹿な奴ね。これを止める方法ならいくらでもあったわ。少しでも腰を入れてこの{{傍点|文章=反逆の芽}}を潰していれば良かったのにさ、{{傍点|文章=皇帝}}の座に胡坐をかいて何もしなかった。私ならそんな{{傍点|文章=へま}}はしないわ。」
 「黴金卿も馬鹿な奴ね。これを止める方法ならいくらでもあったわ。少しでも腰を入れてこの{{傍点|文章=反逆の芽}}を潰していれば良かったのにさ、{{傍点|文章=皇帝}}の座に胡坐をかいて何もしなかった。私ならそんな{{傍点|文章=へま}}はしないわ。……そうだ、君は『アンパンマン』という作品を知ってるかな? まあ、知らないだろうけどね。遠い東の島国で有名な物語なの。あれで例えるなら、黴金卿は『かびるんるん』といったところね。あらゆる食品――財産のメタファーかしら?それを蝕み、壊し、貪る……それに、無限に湧いて出てくるところなんかもうそっくりさ!」


 「そうだ、君は『アンパンマン』という作品を知ってるかな?まあ、知らないだろうけどね。遠い東の島国で有名な物語なの。あれで例えるなら、黴金卿は『かびるんるん』といったところね。あらゆる食品―――財産のメタファーかしら?それを蝕み、壊し、貪る……それに、無限に湧いて出てくるところなんかもうそっくりさ!」
 青年は、すべてを諦めて、すべてを放棄して、ぼうっとしていた。窓の外に横たわる、美しい山々の、その奥の奥の方を眺めていた。この話が終われば、自分は邪悪な扇動者――{{傍点|文章=次の皇帝}}――の弾丸を受けて死ぬ、そのことが分かりきっていたからだ。青年の感情を司るところは、急速に、氷のように冷たくなっていった。


 青年は、すべてを諦めて、すべてを放棄して、ぼうっとしていた。窓の外に横たわる、美しい山々の、その奥の奥の方を眺めていた。この話が終われば、自分は邪悪な扇動者―――{{傍点|文章=次の皇帝}}―――の弾丸を受けて死ぬ、そのことが分かりきっていたからだ。青年の感情を司るところは、急速に、氷のように冷たくなっていった。
 「あれ……おーい!聞いてる?もう飽きちゃったの? はあ。つまんないなあ。{{傍点|文章=あの犬}}も最期はこんなだったよ」
 
 「あれ……おーい!聞いてる?もう飽きちゃったの?」
 
 「はあ。つまんないなあ。{{傍点|文章=あの犬}}も最期はこんなだったよ。」


 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。しかし、不思議と恐怖は無かった。それどころか、愚鈍にも、いかなる感情さえもが湧いてこなかった。そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをしてもなお、何も感じ取ることができなかったのである。何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に、青年は自身の生涯を終えようとしていた。
 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。しかし、不思議と恐怖は無かった。それどころか、愚鈍にも、いかなる感情さえもが湧いてこなかった。そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをしてもなお、何も感じ取ることができなかったのである。何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に、青年は自身の生涯を終えようとしていた。
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 ああ、だがしかし、{{傍点|文章=それ}}は金持ちを豪邸から追い出すだけだ。強者を社会から追放するだけなのだ。決して、決して、我々に一かけらのパンをも与えやしないのだ。どんなに小さい一かけらでさえも…………
 ああ、だがしかし、{{傍点|文章=それ}}は金持ちを豪邸から追い出すだけだ。強者を社会から追放するだけなのだ。決して、決して、我々に一かけらのパンをも与えやしないのだ。どんなに小さい一かけらでさえも…………


 ―――眠気のような、脱力感のような、{{傍点|文章=のび}}をした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識には{{傍点|文章=ふた}}がなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。
 ――眠気のような、脱力感のような、{{傍点|文章=のび}}をした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識には{{傍点|文章=ふた}}がなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。
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