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「ただいま」
「ただいま」
 団地の狭い一部屋に、疲れた声が虚しく響いた。真澄は後ろ手にドアを閉めると溜息をついて、汗に濡れた運動靴を脱いだ。
 団地の狭い一部屋に、疲れた声が虚しく響いた。真澄は後ろ手にドアを閉めると、ため息をついて、汗に濡れた運動靴を脱いだ。
 床にはビールの空き缶やタバコの吸い殻、どこから来たかわからないゴミが落ちている。副流煙と腐った果物が入り混じったような匂いに真澄は顔を顰めた。毎日嗅いでいても吐き気を催す。どれだけ嗅いでも慣れることはないだろう。そんな匂いだ。
 床にはビールの空き缶やタバコの吸い殻、どこから来たかわからないゴミが転がっている。副流煙と腐った果物が入り混じったような匂いに真澄は顔を顰めた。毎日嗅いでいても吐き気を催す。どれだけ嗅いでも慣れることはないだろう。
 シンクに溜まった、いつ使われたのかも分からない汚れた食器たちを横目に、ゴミを避けながら自分の部屋へと向かう。すっかり傾いた太陽が発する血のように赤い西日は、タールで茶色く汚れた壁を不気味に染め上げていた。
 シンクに溜まった、いつ使われたのかも分からない汚れた食器たちを横目に、ゴミを避けながら自分の部屋へと向かう。すっかり傾いた太陽が発する血のように赤い西日は、タールで茶色く汚れた壁を不気味に染め上げていた。
 真澄は手垢のついたパンフレットが散乱した机の上に、千円札が置かれているのを認めた。
 真澄は手垢のついたパンフレットが散乱した机の上に、千円札が置かれているのを認めた。
 今日も母ちゃんは帰ってこんのじゃろう。……いつもんことや。最近は不景気で売り上げも相当おっちゃけとーそうやけん、当たり前や。真澄はそんなことを思いながら、千円札を乱暴にポケットに詰めると机を離れた。
 今日も母ちゃんは帰ってこんのじゃろう。……いつもんことや。最近はふけーきやけん、当たり前や。真澄はそんなことを思いながら、千円札を乱暴にポケットに詰めると机を離れた。
 部屋に入ると素早く扉を閉め、鞄から取り出した消臭剤を部屋の隅々まで丹念に吹きかけた。その作業が終わると、深呼吸をして確かめるように部屋を見渡した。
 部屋に入ると素早く扉を閉め、鞄から取り出した消臭剤を部屋の隅々まで丹念に吹きかけた。その作業が終わると、深呼吸をして確かめるように部屋を見渡した。
 薄かピンクんベッドに、カーペット。本棚に学習机、クローゼットに白んカーテン。統一感があって、整理されとって、清潔で、そして何よりよか匂いや。うちだけんピンクん世界。うちは、こん中でだけ生ききる。
 薄かピンクんベッドに、カーペット。本棚に学習机、クローゼットに白んカーテン。統一感があって、整理されとって、清潔で、そして何よりよか匂いや。うちだけんピンクん世界。うちは、こん中でだけ生ききる。
 満足した真澄は、自分のセーラー服の匂いを嗅いだ。夏の学校生活を一日耐えきった身体は、盲目な情熱のような不快な香りがした。眉間に皺を寄せた真澄はクローゼットからいい匂いのする服を取り出し風呂道具を用意すると、息を止めて部屋の扉を開け、素早く外へと駆け出た。
 満足した真澄は、自分のセーラー服の匂いを嗅いだ。夏の学校生活を一日耐えきった身体は、盲目な情熱のような不快な香りがした。眉間に皺を寄せた真澄はクローゼットからいい匂いのする服を取り出し風呂道具を用意すると、息を止めて部屋の扉を開け、素早く外へと駆け出た。
 鍵を閉め振り向くと、生気を感じさせない団地がめいっぱいの茜色に染められていた。真澄はその茜色に、逆にじっと見つめられているような気がして、走って銭湯へ向かった。
 鍵を閉め振り向くと、生気を感じさせない団地がめいっぱいの茜色に染められていた。真澄はその色に、逆にじっと見つめられているような気がして、小走りで銭湯へ向かった。




 チケットを購入して番台に渡し脱衣所で服を脱いだ。同い年くらいの少女の四人組が低いロッカーを挟んだ向こう側で楽しそうに喋りながら服を脱いでいるのが見え、真澄は咄嗟に顔を背けた。クラスメイトだ。秋山さん山川さん蓮見さん熊野さん。いつも教室の中心で騒いでる、キラキラした女子たち。……真澄には縁のない、苦手なタイプだ。
 券を購入して番台に渡し脱衣所で服を脱いだ。同い年くらいの少女の四人組が低いロッカーを挟んだ向こう側で楽しそうに喋りながら服を脱いでいるのが見え、真澄は咄嗟に顔を背けた。クラスメイトだ。秋山さん山川さん蓮見さん熊野さん。いつも教室の中心で騒いでる、キラキラした女子たち……。真澄には縁のない、苦手なタイプだ。
 見つかったら嫌ばい。
 見つかったら嫌ばい。
 真澄はバスタオルの影に隠れて、彼女たちが浴場に入っていくのを待った。それから暫くの間時間を潰して、彼女たちがもう体を洗い終えて、湯船に浸かっているだろう頃合いを見計らうと、真澄はやっと浴場へ向かった。
 真澄はロッカーの影に隠れて、彼女たちが浴場に入っていくのを待った。それから暫くの間時間を潰して、彼女たちがもう体を洗い終えて、湯船に浸かっているだろう頃合いを見計らうと、真澄はやっと浴場へ向かった。
 ガラガラと重いガラス戸を開けると、青く大きい富士山が目に入った。賑やかな声がそこかしこから聞こえた。見えるところに彼女らは居ない。賑やかな熱気が裸の全身を覆い、真澄は少し安心した。広か銭湯や。入り口で見つからんばもう大丈夫じゃろう。
 ガラガラと重いガラス戸を開けると、青く大きい富士山が目に入った。賑やかな声がそこかしこから聞こえた。見えるところに彼女らは居ない。賑やかな熱気が裸の全身を覆い、真澄は少し安心した。広か銭湯や。入り口で見つからんばもう大丈夫じゃろう……。
 真澄は隅っこの方のシャワーに座って、時間をかけて体を洗った。真澄は特に、髪を洗うのに時間を割いた。胸にかかるくらいの長さの、艶々として健康的な美しい黒髪だ。真澄はそれを、一束ずつ、シャンプーが染み込むように丁寧に洗った。真澄は髪を、確かな心の拠り所の一つとしていた。
 真澄は隅っこの方のシャワーに座って、時間をかけて体を洗った。真澄は特に、髪を洗うのに時間を割いた。胸にかかるくらいの長さの、艶々として健康的な美しい黒髪だ。真澄はそれを、一束ずつ、シャンプーが染み込むように丁寧に洗った。真澄は髪を、確かな心の拠り所の一つとしていた。
 真澄には、シャンプーを流すために目を閉じている時に、必ず思い出す記憶がある。母の記憶だ。今よりずっと若くて、好景気で、優しかった母……。
 真澄には、シャンプーを流すために目を閉じている時に、必ず思い出す記憶がある。母の記憶だ。今よりずっと若くて、好景気で、優しかった母……。
 幼い私をお風呂に入れる度に、母は言った。
 幼い真澄をお風呂に入れる度に、母は言った。
「真澄は髪がきれかね。淑やかーで伸びやかーで、うちのと交換したかくらいやわ」
「真澄は髪がきれかね。淑やかーで伸びやかーで、うちのと交換したかくらいやわ」
 そう言う鏡越しのまだ若い母の笑顔に、真澄はいつも誇らしい気分になった。その声を聴きながら、真澄は今日も髪を濯いだ。
 そう言う鏡越しのまだ若い母の笑顔に、真澄はいつも誇らしい気分になった。その声を聴きながら、真澄は今日も髪を濯いだ。
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 周りば見渡してんあん四人組はおらんじゃったけん、夢中で体ば洗うとーうちにもう上がってしもうたんじゃろう……。
 周りば見渡してんあん四人組はおらんじゃったけん、夢中で体ば洗うとーうちにもう上がってしもうたんじゃろう……。
 真澄は耳まで湯船に沈むと、ぶくぶくと空気を吹き出した。たくさんの水泡が目の前で生まれ、弾けた。すぐに飽きた真澄は、やはり隅に行き、ひたすらじっと体を温めた。
 真澄は耳まで湯船に沈むと、ぶくぶくと空気を吹き出した。たくさんの水泡が目の前で生まれ、弾けた。すぐに飽きた真澄は、やはり隅に行き、ひたすらじっと体を温めた。
 見上げた天井は防水の白いペンキが塗られ、少し空いた天窓から、すっかり日の落ちた外が見えた。そうするうちに真澄は、雲にか透けてかろうじてといった具合の月を見つけた。静かな銭湯で一人、真澄はため息を吐いた。
 見上げた天井は防水の白いペンキが塗られ、少し空いた天窓から、すっかり日の落ちた外が見えた。そうするうちに真澄は、雲にか透けてかろうじてといった具合の欠けた月を見つけた。静かな銭湯で一人、真澄はため息を吐いた。
 ふと自分の胸に手をやった。水に浮いた乳房は揺れ動き、水面に波紋を作り出す。
 ふと自分の胸に手をやった。水に浮いた乳房は揺れ動き、水面に波紋を作り出す。
 真澄は先程見た四人組の胸を思い出した。彼女たちの控えめなラインの膨らみと、目の前に鎮座する二双の隆起とを比べて、真澄は静かな優越感を覚えた。実際、真澄の胸元は同い年の間では頗る大きい方だった。
 真澄は先程見た四人組の胸を思い出した。彼女たちの控えめなラインの膨らみと、目の前に座する二双の隆起とを比べて、真澄は静かな優越感を覚えた。実際、真澄の胸元は同い年の間では頗る大きい方だった。
 乳房を手で包み込み、優しく揉んだ。
 真澄を乳房を手で包み込み、優しく揉んだ。
 確かに柔らこうて気持ちよか。それに、自分の器官なはずなんに、どっか妖艶や。こん妖艶さはふとかればふとかほど増すじゃろう。ばってん……。
 確かに柔らこうて気持ちよか。それに、自分の器官なはずなんに、どっか妖艶や。こん妖艶さはふとかればふとかほど増すじゃろう。ばってん……。
 真澄は近頃の母の様子を思い出して、重たい気持ちになった。
 真澄は近頃の母の様子を思い出して、重たい気持ちになった。
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 真澄に父は居ない。物心ついた時には母と二人暮らしで、母は父の話を一切することはなかった。
 真澄に父は居ない。物心ついた時には母と二人暮らしで、母は父の話を、一切することはなかった。
 シングルマザーの生活は苦しく、母は昼も夜も働き詰めになり、必然的に真澄は鍵っ子になった。給食費が払えないこともざらにあった。上履きやランドセルも、中古のものを使った。もちろん部活など簡単には入れないし、友達と遊ぶこともできなかった。だから真澄はクラスで孤立した。いじめられるというわけではない、というか、皆優しく接してくれる。だがそこにそれ以上がないのだ。そういう人種のことを「あまりもん」と真澄は呼んでいる。「あまりもん」は「あまりもん」としか一緒に居られない。それも他のみんなが一緒にいるのとは訳が違う。味噌汁を飲み終えた時に底に残るちょびっとの中にいるような感じだ。そうして真澄は、ずっと「あまりもん」として生きていた。しかし、改善しない生活のままでも、二人は楽しく生活していた。母には可愛い盛りの娘がいて、娘には若くて美しい母がいたからだ。
 シングルマザーの生活は苦しく、母は夜遅くまで働き詰めで、必然的に真澄は鍵っ子になった。給食費が払えないこともざらにあった。上履きやランドセルも、中古のものを使った。もちろん部活など簡単には入れないし、友達と遊ぶこともできなかった。真澄はクラスで孤立したのはごく自然なことだったと言えよう。いじめられるというわけではない、それどころか、皆優しく接してくれる。だがそこにそれ以上がないのだ。そういう人種のことを「あまりもん」と真澄は呼んでいる。「あまりもん」は「あまりもん」としか一緒に居られない。それも他のみんなが一緒にいるのとは訳が違う。味噌汁を飲み終えた時に底に残るちょびっとの中にいるような感じだ。そうして真澄は、ずっと「あまりもん」として生きていた。しかし、改善しない生活のままでも、二人は楽しく生活していた。母には可愛い盛りの娘がいて、娘には若くて美しい母がいたからだ。
 その幸せな生活の歯車が狂ったのは、真澄が中学校に上がった頃からだ。すでに三十五を超えていた母の肌は、急激に張りを失った。髪の潤いは消えた。化粧が濃くなり、粉っぽくなった。仕事が減ったからか夜に家にいることが多くなり、家で飲むようになった。真澄が母の職業を察するようになったのもその頃だ。男の人が何人も家に来た。
 その幸せな生活の歯車が狂いはじめたのは、真澄が高学年になった頃だっだ。すでに三十を超えていた母の肌は、急激に張りを失った。髪の潤いは日に増して消えていった。化粧が濃くなり、粉っぽくなった。仕事が減ったからか夜に家にいることが多くなり、家で飲むようになった。真澄が母の職業を察するようになったのもその頃だ。男の人が何人か家に来た。
 母が歪んだ最初は、広告だった。豊胸手術の怪しげな広告が部屋のポストに入っていた。真澄が水道の請求書と一緒に部屋に持ち帰ってそれを机に置いたとき、母はあまり関心を示さなかったのを今でも覚えている。一週間経ち、真澄がその広告を忘れたくらいに、一つのパンフレットが机に置かれた。豊胸手術についての、近くの医院のものだ。それからお札だけ置いて夜の仕事に出かける回数が少しずつ増えていった。パンフレットは着実に増え、それとともにゴミも増えていった。最初は片付けていた真澄も、ペースが間に合わなくなると諦めた。母の様子もみるみる変わっていった。真澄は母とほとんど顔を合わせなくなった。週に三日会えたら多い方といった感じだ。その上会う時は決まって酔っていて、躁状態で興奮しているか、でなければ鬱状態で、喋りかけても応答さえしないかの二択だった。躁状態の時は決まって豊胸手術の話ばかりした。「豊胸手術は五十万から、高かところでは百万くらいするとばってん、やっぱり高かところは違うんばい。うちも高か方がよかねぇ。安全なんやあ。安全やし形もよかし長持ちもする。……そうなんよずっとふとかままではおらられんとよ。……ばってんたっかれば長持ちするし、うちもそうするわ。体へん負担も少なかし……麻酔もしっかりしとーけん痛うもなかし。……そうそう豊胸手術って言うてんね何個も種類があるんばい。ほらここ、こん福岡んT医院やったのこん方法やったら入院までせんでもそん日で帰るる……ヒアルロン酸ってんば入るるんよ、ほら注射みたいやけんね、チューって。ばってん長持ちせんけん、うちゃこれで行こうと思うと、そうそう、シリコンバッグ……自然に仕上がるし。こん大阪んS美容外科に、K先生っていう先生がおってね、ハンサムで腕も良うてすっごか評判がよかと……。ここでやろうか迷うとう……」ずっとこんな具合だ。真澄は変わっていく母を不気味に感じて、距離を置いていった。パンフレットはどんどん増え、福岡や、熊本のパンフレットも増えた。中には東京のもあった。段々と鬱状態の時が増え、母は見るからに憔悴していくようだった。反対にふくよかに成長していく真澄の身体に棘のある視線を送りながら、母は口癖のように「金ん足らん」と嘆いた。ゴミは、床を埋め尽くさんばかりに増えていった。真澄はそんな母を見るのが辛くて、部屋へと篭った。
 最初は広告だった。豊胸手術の怪しげな広告が部屋のポストに入っていた。真澄が水道の請求書と一緒に部屋に持ち帰ってそれを机に置いた時、母はあまり関心を示さなかったのを今でも覚えている。いくらか経ち、真澄がその広告を忘れたくらいに、一つのパンフレットが机に置かれた。豊胸手術についての、近くの医院のものだ。それからお札だけ置いて夜の仕事に出かける回数が少しずつ増えていった。パンフレットは着実に増え、それとともに部屋は汚くなっていった。最初は片付けていた真澄も、ペースが間に合わなくなると諦めた。母の様子もみるみる変わっていった。真澄は母とほとんど顔を合わせなくなった。週に三日会えたら多い方といった具合だった。その上会う時は決まって酔っていて、躁状態で興奮しているか、でなければ鬱状態で、喋りかけても応答さえしないかの二択だった。躁状態の時は決まって豊胸手術の話ばかりした。「豊胸手術は五十万から、高かところでは百万くらいするとばってん、やっぱり高かところは違うんばい。うちも高か方がよかねぇ。安全なんやあ。安全やし形もよかし長持ちもする。……そうなんよずっとふとかままではおらられんとよ。……ばってんたっかれば長持ちするし、うちもそうするわ。体へん負担も少なかし……麻酔もしっかりしとーけん痛うもなかし。……そうそう豊胸手術って言うてんね何個も種類があるんばい。ほらここ、こん福岡んT医院やったのこん方法やったら入院までせんでもそん日で帰るる……ヒアルロン酸ってんば入るるんよ、ほら注射みたいやけんね、チューって。ばってん長持ちせんけん、うちゃこれで行こうと思うと、そうそう、シリコンバッグ……自然に仕上がるし。こん大阪んS美容外科に、K先生っていう先生がおってね、ハンサムで腕も良うてすっごか評判がよかと……。ここでやろうか迷うとう……」真澄は変わっていく母を不気味に感じて、距離を置いた。パンフレットはどんどん増え、県を跨いだ医院のパンフレットも増えた。中には東京のもあった。段々と鬱状態の時が増え、母は見るからに憔悴していくようだった。母は口癖のように「金ん足らん」と嘆いた。ゴミは、床を埋め尽くさんばかりに増えていった。真澄はそんな母を見るのが辛くて、部屋へと篭った。




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 主張の乏しい、慎ましい胸だ。乳首はみっともなく肥大し、茶色に燻んでいる。今思うと、血が繋がっているのかも疑わしいくらいに真澄のものと違う。
 主張の乏しい、慎ましい胸だ。乳首はみっともなく肥大し、茶色に燻んでいる。今思うと、血が繋がっているのかも疑わしいくらいに真澄のものと違う。
 授業で聞いた。燻んで大きゅうなった乳首は赤ちゃん産んで育てったっていう立派な仕事ん勲章なんや。誇りに思うてんよかはずやろ?
 授業で聞いた。燻んで大きゅうなった乳首は赤ちゃん産んで育てったっていう立派な仕事ん勲章なんや。誇りに思うてんよかはずやろ?
 ……違う、母ちゃんは女ば職業にしとーけん、そがんもんはつまらんのや。コンプレックスにしかならんとや。
 ……違う、母ちゃんは職業にさしさわるけん、そがんもんはつまらんのや。コンプレックスにしかならんとや。
 そこまで考えた真澄は悲しい気持ちになって、ざぶりとお湯から出た。
 そこまで考えた真澄は悲しい気持ちになって、ざぶりとお湯から出た。
 つまらん。のぼせたんや。水風呂入って頭冷やそ。
 つまらん。のぼせたんや。水風呂入って頭冷やそ。
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「やっほ、真澄ちゃん。真澄ちゃんのおっぱいってばりふとかね!」
「やっほ、真澄ちゃん。真澄ちゃんのおっぱいってばりふとかね!」
 急に声をかけられて、体を拭いていた真澄は素早く後ろを振り向いた。するとそこには唇の上に白い髭を作って満面の笑みの蓮見さんが立っている。驚いて口が聞けない真澄を尻目に、蓮見さんは元気に続けた。
 急に声をかけられて、体を拭いていた真澄は素早く後ろを振り向いた。するとそこには片手に牛乳瓶を持ち唇の上に白い髭を作って満面の笑みの蓮見さんが立っていた。驚いて口が聞けない真澄を尻目に、蓮見さんは元気に続けた。
「よかねー。うちもそんくらい欲しかね」
「よかねー。うちもしょーらいは、そんくらい欲しかね」
 そう言いながら胸の前で大きな円を描く蓮見さんに、真澄は少し緊張がほぐれて、噛みつつも声を出した。
 そう言いながら胸の前で大きな円を描く蓮見さんに、真澄は少し緊張がほぐれて、噛みつつも声を出した。
「蓮見さん? こ、こんばんわ。……ありがとう」
「蓮見さん? こ、こんばんわ。……ありがとう?」
「そがん蓮見さんなんてやめんね。花那ちゃんって呼んで」
「そがん蓮見さんなんてやめんね。花那ちゃんって呼んで」
 そう言った蓮見さんは牛乳瓶を煽ると袖で口を拭った。
 そう言った蓮見さんは牛乳瓶を煽ると手の甲で口を拭った。
「さっきおったみんなは帰っちゃたんだ。真澄ちゃん、ちらっと見よったやろ? うち、長風呂やけん大体置いてかれてしまうんっさね。ほら、みんなはこれから塾あるしさ。うち貧乏やけん塾なんか通えんっさ」
「さっきおったみんなは帰っちゃたんだ。真澄ちゃん、ちらっと見よったやろ? うち、長風呂やけん大体置いてかれてしまうんっさね。ほら、みんなはこれから塾あるしさ。うち貧乏やけん塾なんか通えんっさ」
 気づかれていたことに少々ショックを受け黙っている真澄などお構いなしに、蓮見さんは大きく実った真澄の乳房を繁々と眺めた。
 気づかれていたことに少々ショックを受け黙っている真澄などお構いなしに、蓮見さんは大きく実った真澄の乳房を繁々と眺めた。
「ところで……。それ触ってんよか?」
「ところで……それ触ってんよか?」
「まあ……。減るもんやなかし」
「まあ……。減るもんやなかし」
 その言葉を聞いた途端、素早く後ろに回り込んだ蓮見さんは真澄の胸をがっしりと掴んだ。先ほどまでキンキンに冷えた牛乳瓶を持っていたせいで蓮見さんの手は冷たく、それに予想外の速さの動きにも驚いて、真澄は「あっ」と声を上げた。
 その言葉を聞いた途端、素早く後ろに回り込んだ蓮見さんは真澄の胸をがっしりと掴んだ。先ほどまでキンキンに冷えた牛乳瓶を持っていたせいで蓮見さんの手は冷たく、それに予想外の速さの動きにも驚いて、真澄はあっ、と声を上げた。
 胸を弄る手がぴたりと止まり、蓮見さんはニヤリと笑って小さな声で言った。
 胸を弄る手がぴたりと止まり、蓮見さんはニヤリと笑って小さな声で言った。
「……感じたと?」
「……感じたと?」
「感じてん感じてんそがんわけなかろ! びっくりして、ちょっと声が出てしもうただけばい!」
「感じてん感じてんそがんわけなかろ! びっくりして、ちょっと声出てしもうただけばい!」
 慌てる真澄をよそにひと通り笑ったあと、蓮見さんは再びニヤリとして言った。
 慌てる真澄をよそにひと通り笑ったあと、蓮見さんは再びニヤリとして言った。
「十分堪能しさせて貰うたし、早う服きな。そがん素敵なんおおっ広げに晒しとったらここらん淑女もどがんかなってしまうばい」
「十分堪能しさせて貰うたし、早う服きな。そがん素敵なんおおっ広げに晒しとったらここらん淑女もどがんかなってしまうばい」
80行目: 82行目:
 あん後花那ちゃんは自分ば、髪ば乾かし終えるまで待っとってくれて、そん間、ようけん話ばした。喋った内容は緊張したけんかぼんやりとしか覚えとらんばってん、ばりくだらんことばっかりで楽しかったことだけは、ちゃんとこけー記憶されと。
 あん後花那ちゃんは自分ば、髪ば乾かし終えるまで待っとってくれて、そん間、ようけん話ばした。喋った内容は緊張したけんかぼんやりとしか覚えとらんばってん、ばりくだらんことばっかりで楽しかったことだけは、ちゃんとこけー記憶されと。
 真澄は胸に手を当てた。
 真澄は胸に手を当てた。
 そがん嫌な人じゃなかったな。ちゅうか、ばり面白か人やった。食わず好かんしとったんやろうか。どうしよう、嬉しか。一生懸命なら「あまりもん」にもこがん事があるんばい。
 嫌な人じゃなかったな。ちゅうか、ばり面白か人やった。食わず好かんしとったんやろうか。どうしよう、嬉しか。一生懸命なら「あまりもん」にもこがん事があるんばい。
「花那ちゃん」
「花那ちゃん」
 真澄は声に出して名前を呼んだ。「花那ちゃんって呼んで」そう言った彼女の顔を思い出す。
 真澄は声に出して名前を呼んだ。花那ちゃんって呼んで、そう言った彼女の顔を思い出す。
 名前呼びもよかもんや。
 名前呼びもよかもんや。
 帰り道、すっかり日の落ちた閑静な住宅地。真澄は型遅れのスマホを取り出し連絡先を確認した。そこには母と、学校と、そして花那ちゃんがいる。
 帰り道、すっかり日の落ちた閑静な住宅地。真澄は型遅れのスマホを取り出し連絡先を確認した。そこには母と、学校と、そして花那ちゃんがいる。
 初夏とは言え夜風に薄着は肌寒い。それでも真澄は温かい気持ちでいっぱいだった。
 初夏とは言え夜風に薄着は肌寒い。それでも真澄は、温かい気持ちでいっぱいだった。




 久しぶりのコミュニケーションだったから、真澄はどっと疲れた。コインランドリーで眠ってしまったのがその証左だ。しかしその疲れは優しく心地よい疲れだった。
 久しぶりのコミュニケーションだったから、真澄は少し疲れた。コインランドリーで眠ってしまったのがその証左だ。しかしその疲れは優しく心地よい疲れだった。
 帰りがけにコンビニに寄って、サラダとツナマヨおにぎりを買った。真澄はお金の精算をしながら、家路を辿った。
 帰りがけにコンビニに寄って、サラダとツナマヨおにぎりを買った。真澄はお金の精算をしながら、家路を辿った。
 銭湯ん中学生料金で二百二十円。コインランドリーで三百円。サラダとおにぎりで二百五十二円。残りは二百二十八円や。
 銭湯ん中学生料金で二百二十円。コインランドリーで三百円。サラダとおにぎりで二百五十二円。残りは二百二十八円や。
100行目: 102行目:
 静寂に、階段を上る真澄の足が加速する。動悸が早くなる。
 静寂に、階段を上る真澄の足が加速する。動悸が早くなる。
 ドアの前に立った。ノブを捻る。鍵が、開いている。
 ドアの前に立った。ノブを捻る。鍵が、開いている。
 ……母ちゃんが帰ってきとー。
 ……母ちゃんが、帰ってきとー。
 真澄は静かにドアを開いた。
 真澄は静かにドアを開いた。
 ムッとする匂いに顔を顰めた。真っ暗な部屋に、酒をグラスに注ぐ音がした。
 ムッとする匂いに顔を顰めた。真っ暗な部屋に、酒をグラスに注ぐ音がした。
 さーっと空気の温度が下がったように感じる。真澄はそこで初めて、この夜が寒いことに気がついた。震える二の腕を抱えつつ、真澄は唇を濡らして言った。
 空気の温度が下がったように感じる。真澄はそこで初めて、この夜が寒いことに気がついた。震える二の腕を抱えつつ、真澄は唇を濡らして言った。
「母ちゃん……?」
「母ちゃん……?」
 返事はない。不愉快な匂いが支配する空間に、針のような沈黙が降りかかる。
 返事はない。不愉快な匂いが支配する空間に、針のような沈黙が降りかかる。
 ……やっぱり、今日も機嫌悪か。
 ……今日も機嫌悪か。
「久しぶりやなあ。お疲れ様」
「久しぶりやなあ。お疲れ様」
 一刻も早く部屋に戻りたいのを我慢して、真澄は労わるように言った。
 一刻も早く部屋に戻りたいのを我慢して、真澄は労わるように言った。
 やはり返事はない。待っていると、月が薄く照らす白い闇の中から、グラスを煽る音が聞こえた。
 やはり返事はない。待っていると、月が薄く照らす白い闇の中から、グラスを煽る音が聞こえた。
 ゴミを掻き分け中に入ると、うっすらと母の輪郭が見えた。思い出の中より幾分も弱々しい母の背中に、真澄は泣きそうになった。
 ゴミを掻き分け中に入ると、うっすらと母の輪郭が見えた。記憶の中より幾分も弱々しい母の背中に、真澄は泣きそうになった。
 いつから母はこがん小そうなってしもうたんじゃろう。
 いつから母はこがん小そうなってしもうたんじゃろう。
 ゆっくりと母に近づいて行く。すると、何やら小さな声で呟いているのが聞こえた。
 ゆっくりと母に近づいて行く。すると、何やら小さな声で呟いているのが聞こえた。
「……臭かねぇ……ここは臭か」
「……臭かねぇ……ここは臭か」
 真澄は沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。
 その言葉に真澄は沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。
 こん人は何ば言いよっとじゃろう。ただふとか胸んために死に物狂いで働いて。家ば汚して、帰ってん来んで……。
 こん人は何ば言いよっとじゃろう。ただふとか胸んために死に物狂いで働いて。家ば汚して、帰ってん来んで……。
「……だったら、母ちゃんが汚さなかったらよかったばい」
「……だったら、母ちゃんが汚さなかったらよかったばい」
 母がガタリとグラスを置いた。中の安酒が飛び散って、その水滴は真澄のほおまで飛んできた。真澄は反射的に身を翻し、部屋に向かおうとしたがそれより早く動いた母が真澄の腕を掴む。骨ばった細い腕から信じられないくらいの力を感じる。
 母がガタリとグラスを置いた。中の安酒が飛び散って、その水滴は真澄の頬まで飛んできた。真澄は反射的に身を翻し、部屋に向かおうとしたがそれより早く動いた母が真澄の腕を掴む。骨ばった細い腕から、信じられないくらいの力を感じる。
 い、痛か……!
 い、痛か……!
 そう思って声をあげそうになった真澄は、母の顔を見て息を呑んだ。
 そう思って声をあげそうになった真澄は、窓から差し込む月明かりに照らされた母の顔を見て、思わず息を呑んだ。
 怒っているのか、悲しんでいるのか、全くわからない顔で母は泣いていた。濃すぎる化粧がつらりと垂れる涙の筋を、不気味に際立たせていた。甘すぎる香水の匂いが部屋の匂いと混ざって、真澄は胃の中のものを全部吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
 怒っているのか、悲しんでいるのか、全くわからない顔で母は泣いていた。濃すぎる化粧がつらりと垂れる涙の筋を、不気味に際立たせていた。甘すぎる香水の匂いが部屋の匂いと混ざって、真澄は胃の中のものを全部吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
「こがんお母さん頑張っとっとになんて事言うん、真澄あんたにはわからんとよ。うちがどれだけ辛か思いしとーかってんは……」
「こがんお母さん頑張っとっとになんて事言うん、真澄あんたにはわからんとよ。うちがどれだけ辛か思いしとーかってんは……」
125行目: 127行目:
「……何ばい」
「……何ばい」
 真澄は母に強気に言った。こんなふうに言うのは初めてだった。いつの間にか、倒れたグラスから流れたお酒が、パンフレット達を濡らし床にぽとぽと流れている。
 真澄は母に強気に言った。こんなふうに言うのは初めてだった。いつの間にか、倒れたグラスから流れたお酒が、パンフレット達を濡らし床にぽとぽと流れている。
 酒の滴がこの一室に齎した僅かな沈黙の後、母の目が、初めて真澄を認め、真澄はその視線に何か恐ろしいものを感じた。ナイフを当てられているかの様な緊張が走り、どこかで何かが崩れる音が聞こえた。
「真澄、おっぱいばりふとかばいなあ……」
「真澄、おっぱいばりふとかばいなあ……」
 母はナイフを研ぐような女の目で真澄を射抜いた。
 寒気がして、真澄は急いで部屋に逃げこんだ。
 真澄は寒気がして、急いでリビングを離れ部屋に入った。
 母は、部屋の中までは入ってこないようだった。
 母は、部屋の中にまでは入ってこないようだった。




 部屋に入ると、真澄はカーペットの上にへなへなと座り込んだ。我慢していた涙が、とめどなく溢れた。
 真澄はカーペットの上にへなへなと座り込んだ。我慢していた涙が、とめどなく溢れた。
 あの人も、「あまりもん」や。ここは、「あまりもん」と「あまりもん」の家。うちらは「あまりもん」ん家族なんや。
 あの人も、「あまりもん」や。ここは、「あまりもん」と「あまりもん」の家。うちらは「あまりもん」ん家族なんや。
 その事実が何よりも真澄を悲しませた。
 その事実が何よりも真澄を悲しませた。
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 呼吸が速くなり、目の前が霞む。咳が出、涎がだらだらと垂れた。
 呼吸が速くなり、目の前が霞む。咳が出、涎がだらだらと垂れた。
 つまらん、落ち着いて。しっかり呼吸ばすると。落ち着いて。そう、つまらん。泣いてはいけんとや。
 つまらん、落ち着いて。しっかり呼吸ばすると。落ち着いて。そう、つまらん。泣いてはいけんとや。
 真澄は震える手を伸ばして、引き出しの中からナイフを取り出した。毎晩研いでいるナイフだから、切れ味は抜群だ。真澄はナイフを目の前に掲げた。刀身が月明かりにぎらりと光った。
 真澄は震える手を伸ばして、引き出しの中からナイフを取り出した。
 ザクッ
 真澄は真澄はナイフを目の前に掲げた。刀身が月明かりにぎらりと光った。
 ザクッ、
 はらりと、切り捨てられた髪が一房、カーペットに落ちた。
 はらりと、切り捨てられた髪が一房、カーペットに落ちた。
 無理やり深呼吸をし息を整えると、真澄は涙を止めた。
 無理やり深呼吸をし息を整えると、真澄は涙を止めた。
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 これがうちん、三万九千九百二十四円や。
 これがうちん、三万九千九百二十四円や。
 真澄は瓶を両手で抱いた。
 真澄は瓶を両手で抱いた。
 これが全部、うちんもんなんや。……何に使おう? こんだけあればなんでんでくる。旅行に行ってんよか。福岡……行ってみたかねえ。ばってん、今度ん修学旅行、行き先は大阪京都やったっけ。楽しみばい。
 これが全部、うちんもんなんや。……何に使おう? こんだけあればなんでんでくる。旅行に行ってんよか。福岡……行ってみたかねえ。ばってん、今度ん修学旅行、行き先は近畿やったっけ。楽しみばい。
 真澄は小学校の頃の修学旅行を思い出した。確か、阿蘇山の麓での自然体験が主な催しだった。
 真澄は小学校の頃の修学旅行を思い出した。確か、阿蘇山の麓での自然体験が主な催しだった。
 あん頃は母ちゃんもまともで、うちも「あまりもん」であることなんか微塵も気にせんで、ようけ友達と駆け回れて楽しかったなあ。今回は……どがんなるかわからんばってん、なんか、うち、ばり楽しめる気がするったい。
 あん頃は母ちゃんもまともで、うちも「あまりもん」のことなんか微塵も気にせんで、ようけ友達と駆け回れて楽しかったなあ。今回は……どがんなるかわからんばってん、なんか、うち、ばり楽しめる気がするったい。
 真澄はベッドに寝転んで、取り出したスマホの連絡先から花那ちゃんとのトーク欄を開いた。
 真澄はベッドに寝転んで、取り出したスマホの連絡先から花那ちゃんとのトーク欄を開いた。
『花那ちゃんこんばんは。よろしくお願いします』
『花那ちゃんこんばんは。よろしくお願いします』
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 もう散々ばい。今日は寝ろう……。
 もう散々ばい。今日は寝ろう……。
 疲れていたせいか、真澄はすぐに眠りに落ちた。
 疲れていたせいか、真澄はすぐに眠りに落ちた。
 真澄の感じていた安らかな、諦めのような気だるさと裏腹に、寝静まった無垢な十四の少女の目元は静かに濡れた。その涙に気付いた者は、もちろん真澄も含めて、誰一人としていなかった。
 真澄の感じていた安らかな、諦めのような満足感と裏腹に、寝静まった無垢な十四の少女の目元は静かに濡れた。その涙に気付いた者は、もちろん真澄も含めて、誰一人としていなかった。
 
 
 
 
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 セーラー服に袖を通しリュックを背負ってすぐに準備を済ませると、団地を素早く後にした。
 セーラー服に袖を通しリュックを背負ってすぐに準備を済ませると、団地を素早く後にした。
 真澄はいつも誰よりも早く登校する。別に学校が好きなわけではない。他にやることもないから早めに学校に向かうだけの事だ。それに、真澄は団地の周りが大嫌いだった。
 真澄はいつも誰よりも早く登校する。別に学校が好きなわけではない。他にやることもないから早めに学校に向かうだけの事だ。それに、真澄は団地の周りが大嫌いだった。
 鍵を開けると、誰もいない教室は心なしかいつもより広く感じる。真澄はその感覚が気に入っていた。真澄は隅っこの自分の席に座り、本を取り出し活字を追い始めた。本が特別好きなわけではない。没入してしまえるものがあればそれで十分だった。勉強だってお絵描きだって、なんでも良かった。自分が「あまりもん」だと知った時、真澄は最初、必死に暗算をした。ただ思いついた数字を掛けて、足して、割って、引く。真澄は昼も夜も暗算をし続けた。そんなことが一ヶ月も続いたある日暇さえあれば数字を呟き続ける真澄に向かって、クラスの誰かが「キモい」と言った。真澄はそれから本を読み始めた。他の誰かが居る前で暗算をする事は、もう二度と無かった。
 鍵を開けると、誰もいない教室は心なしかいつもより広く感じる。真澄はその感覚が気に入っていた。真澄は隅っこの自分の席に座り、本を取り出し活字を追い始めた。本が特別好きなわけではない。没入してしまえるものがあればそれで十分だった。勉強だってお絵描きだって、なんでも良かった。自分が「あまりもん」だと知った時、真澄は最初、必死に暗算をした。ただ思いついた数字を掛けて、足して、割って、引く。真澄は昼も夜も暗算をし続けた。そんなことが一ヶ月も続いたある日、暇さえあれば数字を呟き続ける真澄に向かって、クラスの誰かが「キモい」と言った。真澄はそれから本を読み始めた。他の誰かが居る前で暗算をする事は、もう二度と無かった。
 授業は淡々と過ぎていった。日常の全ては、まるで色褪せた早送りの映画のように真澄の目前を通過した。
 授業は淡々と過ぎていった。日常の全ては、まるで色褪せた早送りの映画のように真澄の目前を通過した。
 ふと目を開けた。お昼休みだ。
 ふと目を開けた。お昼休みだ。
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「真澄さん、うちと組まん?」
「真澄さん、うちと組まん?」
 偽りん笑顔ばした「あまりもん」の人が恐る恐る聞いてくる。誰かに傷つけられることだけを恐れた「あまりもん」の笑顔。またや。「あまりもん」の人に手ば差し伸べらるる時ほど自分も「あまりもん」やと実感させらるることは無か。
 偽りん笑顔ばした「あまりもん」の人が恐る恐る聞いてくる。誰かに傷つけられることだけを恐れた「あまりもん」の笑顔。またや。「あまりもん」の人に手ば差し伸べらるる時ほど自分も「あまりもん」やと実感させらるることは無か。
 まあよか。もう……
 まあよか。もう、な……
「よかばい」
「よかばい」
 真澄は今までずっと生業にしてきた「あまりもん」の笑顔で答えた。
 真澄は今までずっと生業にしてきた「あまりもん」の笑顔で答えた。
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 真澄は不意をつかれたが驚きはしない。きっと今日も潰れているであろう母など気にせず、部屋に戻ろうと思った。もう何にも心を動かしたくは無かった。
 真澄は不意をつかれたが驚きはしない。きっと今日も潰れているであろう母など気にせず、部屋に戻ろうと思った。もう何にも心を動かしたくは無かった。
 ドアを開けると濃い夕暮れが部屋を染めていた。むわりと、悲惨な匂いが真澄を覆う。
 ドアを開けると濃い夕暮れが部屋を染めていた。むわりと、悲惨な匂いが真澄を覆う。
 俯いて玄関に座っていた母は、帰ってきた真澄を認めると言った。
 俯いて玄関に座っていた母は、顔を上げ帰ってきた真澄を認めると、少し恥ずかしそうに言った。
「おかえり……なあ、散歩にでも行かん?」
「おかえり……なあ、散歩にでも行かん?」
 母は顔を上げずに言った。
 それは久しぶりに見る、素面の母だった。
 それは久しぶりに見る、素面の母だった。


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 俯きどおしの真澄は肩をすくめただけで、返事はしない。母はそのまま、先を歩く。
 俯きどおしの真澄は肩をすくめただけで、返事はしない。母はそのまま、先を歩く。
「なあ真澄。今日こがん早う帰ってきたんはさ、母ちゃん、真澄に話があるったい」
「なあ真澄。今日こがん早う帰ってきたんはさ、母ちゃん、真澄に話があるったい」
 しばらく黙って近所を歩き続けた二人は、いつの間にか団地の公園に戻ってきていた。
 暫く黙って近所を歩き続けた二人は、いつの間にか団地の公園に戻ってきていた。
 すっかり日も落ちて、辺りは暗くなっていた。母は街灯に照らされた孤独なベンチへ向かった。
 すっかり日も落ちて、辺りは暗くなっていた。母は街灯に照らされた孤独なベンチへ向かった。
「()」
「()」
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「な? よう考えてごらん? こん豊胸手術は、投資たい。うちん胸が大きゅうなったら、稼ぎはもっとようけ増える。絶対ね。百万くらいきっとすぐ元取るるわ。それにお母ちゃんは自分の胸が好きになれたら、自信も持てるし、嬉しかし、何より生きとってよかんでん思えるはずと。やけん」
「な? よう考えてごらん? こん豊胸手術は、投資たい。うちん胸が大きゅうなったら、稼ぎはもっとようけ増える。絶対ね。百万くらいきっとすぐ元取るるわ。それにお母ちゃんは自分の胸が好きになれたら、自信も持てるし、嬉しかし、何より生きとってよかんでん思えるはずと。やけん」
 母は言葉を切った。そして真澄を正面から見直すと、泣きそうな笑顔で言った。
 母は言葉を切った。そして真澄を正面から見直すと、泣きそうな笑顔で言った。
「やけん、そがん顔しなしゃんな。お母ちゃんが全部悪かった。反省しとーけん、やけん許さんね」
「やけん、な? そがん顔しなしゃんな。お母ちゃんが全部悪かった。お母ちゃん、ほんなこて反省しとーけん、やけん許さんね」
 真澄は雨のような沈黙に身を浸した。
 真澄は雨のような沈黙に身を浸した。
「わかった。……許すばい」
「わかった。……許すばい」
 以前のような母の姿を見て、真澄は心から嬉しく感じた。無垢な真澄は母の言葉を信じたのだ。
 真澄が言い終わる前に、
 
 


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