「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/ドア越しの夫婦」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
 
4行目: 4行目:
<br>「うん! 虎太郎をお風呂に入れてるから、ちょっと待って頂戴!」
<br>「うん! 虎太郎をお風呂に入れてるから、ちょっと待って頂戴!」
<br> 勇子は脱衣所から声を張り上げた。ドアの向こうに聞こえるには、ちょっと叫ばないといけない。ひょっとして近所迷惑だったかしら、と少し不安になったが、今は火曜日の昼下がり。大抵の人は仕事に出ているだろうと思い直した。そう、普通の社会人は働きに出ている時間帯。しかし、外資系の会社勤めの夫は、時差か何かの都合で、このくらいの時間に帰宅することもままあるのだ。
<br> 勇子は脱衣所から声を張り上げた。ドアの向こうに聞こえるには、ちょっと叫ばないといけない。ひょっとして近所迷惑だったかしら、と少し不安になったが、今は火曜日の昼下がり。大抵の人は仕事に出ているだろうと思い直した。そう、普通の社会人は働きに出ている時間帯。しかし、外資系の会社勤めの夫は、時差か何かの都合で、このくらいの時間に帰宅することもままあるのだ。
<br> 勇子は、息子の虎太郎の体を拭く手を止め、風呂の外に出た。風呂から上がったばかりでずぶ濡れの虎太郎に、自分で体を拭くように言って腰を上げた。
<br> 勇子は、息子の虎太郎の体を拭く手を止め、脱衣所から出た。風呂から上がったばかりでずぶ濡れの虎太郎に、自分で体を拭くように言って腰を上げる。
<br> 虎太郎は小学一年生。今日は学校で設備点検があり、給食を食べるとそのまま下校する日だった。しかし十分ほど前、乱暴に玄関が開いたかと思うと、ドアが閉まるより早く泥んこの虎太郎が駆け込んできたのには驚いた。「ただいま〜!」と無邪気にランドセルを放り出す虎太郎を慌てて抱き上げ、そのまま風呂に直行した。虎太郎が言うには、下校中に友達と一緒に水たまりで思いきり跳ね回ったらしい。集団下校を引率する先生の、苦笑が目に浮かぶようだ。足の爪に泥が入り込んで洗い落とすのに苦労したが、楽しそうに学校であったことを話す虎太郎は、たまらなく愛しい。
<br> 虎太郎は小学一年生。今日は学校で設備点検があり、給食を食べるとそのまま下校する日だった。しかし十分ほど前、乱暴に玄関が開いたかと思うと、ドアが閉まるより早く泥んこの虎太郎が駆け込んできたのには驚いた。「ただいま〜!」と無邪気にランドセルを放り出す虎太郎を慌てて抱き上げ、そのまま風呂に直行した。虎太郎が言うには、下校中に友達と一緒に水たまりで思いきり跳ね回ったらしい。集団下校を引率する先生の、苦笑が目に浮かぶようだ。足の爪に泥が入り込んで洗い落とすのに苦労したが、楽しそうに学校であったことを話す虎太郎は、たまらなく愛しい。
<br> タオルで体をこすり始める虎太郎に背を向け、玄関に向かう。濡れた手をズボンでぬぐい、落ちてきた髪を横に払う。夫は玄関の外で、手持ち無沙汰に待っているのだろうか。その姿を想像すると、ちょっとおかしく思えて笑いがこぼれた。
<br> タオルで体をこすり始める虎太郎に背を向け、玄関に向かう。濡れた手をズボンでぬぐい、落ちてきた髪を横に払う。夫は玄関の外で、手持ち無沙汰に待っているのだろうか。その姿を想像すると、ちょっとおかしく思えて笑いがこぼれた。
71行目: 71行目:
<br>「おい、今すぐドアを開けろ! さもなきゃ……」
<br>「おい、今すぐドアを開けろ! さもなきゃ……」
<br> {{傍点|文章=銃を構え直し}}、{{傍点|文章=前に立つ男の後頭部に突きつけた}}。
<br> {{傍点|文章=銃を構え直し}}、{{傍点|文章=前に立つ男の後頭部に突きつけた}}。
<br>「{{傍点|文章=てめえの旦那のドタマをぶち抜くぞ}}!」
<br>「てめえの旦那のドタマをぶち抜くぞ!」
<br> {{傍点|文章=銃を突きつけられた男}}──勇子の夫・一条{{傍点|文章=稔}}は、びくっと体を震わせた。
<br> 銃を突きつけられた男──勇子の夫・一条稔は、びくっと体を震わせた。
<br> しかし、ドア越しの声は微塵も揺らぐことなく続いている。
<br> しかし、ドア越しの声は微塵も揺らぐことなく続いている。
<br>「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを──」
<br>「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを──」
<br> 義文は動揺していた。何が起こっている? 夫の呼びかけにも俺の恫喝にも反応せず、頑なにドアを開けようとしていない。いや、そんな次元ではなく……。
<br> 義文は動揺していた。何が起こっている? 夫の呼びかけにも俺の恫喝にも反応せず、頑なにドアを開けようとしていない。いや、そんな次元ではなく……。
<br> {{傍点|文章=猪狩}}義文は、銀獅子会の下っ端だった。勇子の話に出てきた、龍田組に敵対している組織の、いわゆる鉄砲玉である。銀獅子会は地方の弱小組織で、業界大手の龍田組に対抗できるわけもなく、潰されかけていた。しかし、組長の娘と孫を人質にすれば、話は変わってくる。とはいえ、表立って誘拐などすれば、組織の立場が危ない。あくまで個人の暴走として、2人を奪取する。それが義文に課せられた仕事だった。
<br> 猪狩義文は、銀獅子会の下っ端だった。勇子の話に出てきた、龍田組に敵対している組織の、いわゆる鉄砲玉である。銀獅子会は地方の弱小組織で、業界大手の龍田組に対抗できるわけもなく、潰されかけていた。しかし、組長の娘と孫を人質にすれば、話は変わってくる。とはいえ、表立って誘拐などすれば、組織の立場が危ない。あくまで個人の暴走として、2人を奪取する。それが義文に課せられた仕事だった。
<br> しかし、無理やり家に侵入しようとしても、警戒されて通報されたり逃げられたりするのがオチだろう。ガキを人質に女をおびき出すのも、集団下校のせいで難しい。そこで考えたのが、帰宅途中の夫・稔を銃で脅し、家に押し入って油断している二人を攫うという方法だった。
<br> しかし、無理やり家に侵入しようとしても、警戒されて通報されたり逃げられたりするのがオチだろう。ガキを人質に女をおびき出すのも、集団下校のせいで難しい。そこで考えたのが、帰宅途中の夫・稔を銃で脅し、家に押し入って油断している二人を攫うという方法だった。
<br> だが状況が変わった。今までは無駄に騒がれたくなかったから、勇子が自ら扉を開けるのを待っていたが、もうやめだ。最初に鍵は開いた。開けてもらわなくとも、自分で開ければいい。
<br> だが状況が変わった。今までは無駄に騒がれたくなかったから、勇子が自ら扉を開けるのを待っていたが、もうやめだ。最初に鍵は開いた。開けてもらわなくとも、自分で開ければいい。
89行目: 89行目:
<br> 愕然とし、遅れて疑問が訪れる。なぜ、気づかれた? そもそも鍵が閉まっていたのはなぜだ? 確かにサムターンは回されたはず……。
<br> 愕然とし、遅れて疑問が訪れる。なぜ、気づかれた? そもそも鍵が閉まっていたのはなぜだ? 確かにサムターンは回されたはず……。
<br> {{傍点|文章=最初}}、{{傍点|文章=鍵は開いていた}}のか?
<br> {{傍点|文章=最初}}、{{傍点|文章=鍵は開いていた}}のか?
<br> 怒りと悔しさが込み上げ、義文は机を蹴飛ばした。初めに稔がドアを開けようとしたとき、鍵は掛かっておらず、稔は{{傍点|文章=ただドアを揺らしただけ}}だったのか! あいつ、怯えたような顔して、そんなことしてやがったのかよ!
<br> 怒りと悔しさが込み上げ、義文は机を蹴飛ばした。初めに稔がドアを開けようとしたとき、鍵は掛かっておらず、稔はただドアを揺らしただけだったのか! あいつ、怯えたような顔して、そんなことしてやがったのかよ!
<br> 勇子は勇子で、{{傍点|文章=義文たちを待たせている間にスマホで声を録音しておき}}、{{傍点|文章=玄関で鍵を閉めると}}、{{傍点|文章=それを再生した}}のか。そして足音を忍ばせ、息子と共にベランダから逃げる。すべては、自分たちが逃げる十分な時間を稼ぐために。あの話の内容も、全て咄嗟のでっちあげ……!
<br> 勇子は勇子で、義文たちを待たせている間にスマホで声を録音しておき、玄関で鍵を閉めると、それを再生したのか。そして足音を忍ばせ、息子と共にベランダから逃げる。すべては、自分たちが逃げる十分な時間を稼ぐために。あの話の内容も、全て咄嗟のでっちあげ……!
<br>「くそっ!」
<br>「くそっ!」
<br> まんまと逃げられた。一瞬でここまでの細工を考え実行した妻も、その意図を汲み取り録音だとバレないように話を合わせた夫も……。なんて夫婦だよ、くそっ。
<br> まんまと逃げられた。一瞬でここまでの細工を考え実行した妻も、その意図を汲み取り録音だとバレないように話を合わせた夫も……。なんて夫婦だよ、くそっ。
<br> 玄関の外を振り返ると、稔の姿が無い。こっちにも逃げられた。今からでも女と子供を追うべきか。まだ3分くらいしか経っていない。ひょっとしたら、追いつけるかも……。
<br> 玄関の外を振り返ると、稔の姿が無い。こっちにも逃げられた。今からでも女と子供を追うべきか。まだ3分くらいしか経っていない。ひょっとしたら、追いつけるかも……。
<br> そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。逃げた妻が通報したのだろうか。こうなっては、逃げるしかない。義文は銃をしまうと、玄関から走り出た。階段を駆け下り、徐々に近づいてくるサイレンと反対方向に走る。奥まった路地を駆けながら、義文の頭では一つの疑問が渦巻いていた。
<br> そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。逃げた妻が通報したのだろうか。こうなっては、逃げるしかない。義文は銃をしまうと、玄関から走り出た。階段を駆け下り、徐々に近づいてくるサイレンと反対方向に走る。奥まった路地を駆けながら、義文の頭では一つの疑問が渦巻いていた。
<br> 録音された音声は3分ほどだったが、3分の音声を録音するには当然3分かかる。一方、義文が玄関の外で待たされていたのも3分くらい。だから、{{傍点|文章=勇子はその3分をまるまる録音に使った}}ことになる。しかし、ドアの奥に刺客がいると知っていないと、そもそも録音した声を使って騙そうなんて発想は浮かばない。つまり、{{傍点|文章=ドアの後ろに義文がいるという状況に}}、{{傍点|文章=勇子はかなり早くから気づいていた}}ことになる。
<br> 録音された音声は3分ほどだったが、3分の音声を録音するには当然3分かかる。一方、義文が玄関の外で待たされていたのも3分くらい。だから、勇子はその3分をまるまる録音に使ったことになる。しかし、ドアの奥に刺客がいると知っていないと、そもそも録音した声を使って騙そうなんて発想は浮かばない。つまり、{{傍点|文章=ドアの後ろに義文がいるという状況に}}、{{傍点|文章=勇子はかなり早くから気づいていた}}ことになる。
<br> {{傍点|文章=なぜ}}、{{傍点|文章=それに気づけたんだ}}? 夫が鍵の掛かっているふりをしたからか? いや、それなら夫が変な勘違いをしていると思い「鍵は開いてるわよ」などと言うのが普通だろう。
<br> なぜ、それに気づけたんだ? 夫が鍵の掛かっているふりをしたからか? いや、それなら夫が変な勘違いをしていると思い「鍵は開いてるわよ」などと言うのが普通だろう。
<br> どうして気づけたんだ?
<br> どうして気づけたんだ?
<br> 薄暗い道を疾駆しながら、義文はいつまでもそんなことを考えていた。
<br> 薄暗い道を疾駆しながら、義文はいつまでもそんなことを考えていた。
103行目: 103行目:
<br> でも、わたしは虎太郎を守らなきゃいけない。服を着た虎太郎は、言いつけ通りに静かにしている。
<br> でも、わたしは虎太郎を守らなきゃいけない。服を着た虎太郎は、言いつけ通りに静かにしている。
<br> 勇子はわざと大きな足音を立てて玄関に向かった。少し前の夫の言動を振り返る。
<br> 勇子はわざと大きな足音を立てて玄関に向かった。少し前の夫の言動を振り返る。
<br> 『ドアに鍵が掛かってる! 今玄関にいるよ! 虎太郎も帰ってる?』
<br>『ドアに鍵が掛かってる! 今玄関にいるよ! 虎太郎も帰ってる?』
<br> その前に、3度のノック。これを『{{傍点|文章=3文字目に注目しろ}}』という意味に捉えれば。
<br> その前に、3度のノック。これを『3文字目に注目しろ』という意味に捉えれば。
<br> どあにかぎがかかってる
<br> どあにかぎがかかってる
<br> いまげんかんにいるよ
<br> いまげんかんにいるよ
2,152

回編集

案内メニュー