「利用者:Mapilaplap/サンドボックス」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
編集の要約なし
 
87行目: 87行目:
「早く船に乗れ、日が暮れるぞ」
「早く船に乗れ、日が暮れるぞ」
 赤く染まった隠り江、私は浮草のような岸辺に立ち、平らな丘の頂の向こうにたなびく煙を見た。(遥か遠くの村を思い出させる)足元の草木についた夕立の露はまだ乾いていない。意地の悪い目つきの老人が(物思いに耽り、未だ乗船しようとしない私に対し)酷く苛立ちを覚えて水面を打っているのを横目で見つつ、私はいつか耳にした古い言い伝えを思い出した。人は争いごとから逃れられぬという。
 赤く染まった隠り江、私は浮草のような岸辺に立ち、平らな丘の頂の向こうにたなびく煙を見た。(遥か遠くの村を思い出させる)足元の草木についた夕立の露はまだ乾いていない。意地の悪い目つきの老人が(物思いに耽り、未だ乗船しようとしない私に対し)酷く苛立ちを覚えて水面を打っているのを横目で見つつ、私はいつか耳にした古い言い伝えを思い出した。人は争いごとから逃れられぬという。
<br><br>
初夢を見てから毎日夢を見るようになったんだけれど、段々と夢と現実の境界が曖昧になってきている。夢の中での意志と現実での意志の働きみたいなものが同じすぎて困惑してしまう。例えば夢の中で静まりかえった知らない学校の教室で鳴り止まないチャイムを聞いている時に、家に帰りたいと思って立ち上がるというその意識→行動の流れが、覚醒している時のそれと全くもって変わらない。俺が今、喉が乾いたからコップに水を注ぐということと、夢の中で、喉が渇いたから西に面した窓のカーテンを閉めに行くということに、俺の意識の中で起こる現象が全く同じであるのが恐ろしい。
<br>起きている時はそれがおかしいことだと感じるから、かろうじて夢だとわかるけれど、もし喉が渇いた時に西陽が差し込むカーテンを閉めることが通念とされる環境であれは気が付かない気がする。だからもし喉が渇いたから水を飲む夢を見るようになったらいよいよ判断がつかないだろう。そんなことが起きないか最近ずっと恐れている。今現在夢は不可解でその上覚醒というイベントによって始まらないことで現実との棲み分けがなされているけれど、現実での入眠とともに夢で覚醒し、現実と変わらない世界の一日を終え、そして入眠することで現実で覚醒するというようなことになってしまわないかが気がかりでしかたない。
<br>それより恐ろしいのが現実が不可解なものとなる、もしくは現実における意識が覚醒というイベント以外で開始され始めることだ。俺の中で夢は意識がそこにある状態から始まるという認識があるのだが、現実がそういうものになったらどうだろう。その上で夢で起床なんてしたら、現実と夢の違いなんて誰にもわからない。
<br>最近段々と起床の記憶が薄れている。何もしていないのに何かに没頭しているような感覚が常にある。「今日、君は起床した?」と聞かれても、俺は即答できない。いずれその質問の答えが、本当にわからなくなる時が来る。そういった恐ろしい予感が胸にこびりついて離れない。
<br>一昨日、「起床に失敗する」夢を見た。「起きても、夢だった」のだ。覚醒という、俺が現実の拠り所としていた凝然たる柱が、いとも簡単に夢の一部へと、これっぽっちの違和感もなく組み込まれてしまう事実に戦慄した。次も現実に覚醒できるのだろうか、そう考えると入眠が恐ろしく、昨日の夜は、電気を点けて目が閉じないようじっと外を見つめて過ごした。風が吹き木々が揺れる。手の甲を噛むと痛く、俺は天井を歩けない。最初はその当たり前の一つ一つに素晴らしい、まるで生を受けることの本質であるかのような喜びを感じていた。現実とはなんと素晴らしいものかと、その喜びに際して考えたりしていた。しかし一度外が明るくなり、また再び夜が訪れた時、俺はそれらが、どれ一つとしてここが現実であるという根拠に成り得ないことに思い当たった。俺は一昨日起床した。夢ではおかしなことばかり起こる。これは正しい。間違っていない。そのはずだ。けれどもそれらは何一つとしてここが夢でないことを示していない。
<br>今俺は、かつて感じたことのない眠気に襲われている。全てに違和感があり、全てが疑わしい。だけどもう俺は眠りにつきたくない。俺が信じるこの現実に、ただしがみついていたい。
<br>
<br>
472

回編集

案内メニュー