10,123
回編集
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
| 13行目: | 13行目: | ||
あるいはまた、記事の形式をある程度保って物語を表現する真実節の手法とは全く異なるものとして、第二回伝説の記事にも輝いた「[[叙述トリック]]」のように、標準名前空間のページである点では間違いなく記事といえるものの、記事の形式や文体を無視して(ほぼ)完全にノベルの形式によって文章が書かれているような「ノベル的な記事」もある。「[[:カテゴリ:公序良俗に反する記事|公序良俗に反する記事]]」におけるこのような記事などには節の存在が見られることがあり、完全に純粋なノベルの形式で書かれているとは言えないものもあるとはいえ、これらは頻繁の節の機能を失っており、ノベル的章立て以上の意味を持たない。著者Notoriousが草子「[[Sisters:WikiWiki麻薬草子#叙述トリックについて|叙述トリックについて]]」で書いているように、このような記事は記事の形式を無視しつつも、「主題について解説する」という記事の本来的な目標には適ったものとなっており、定例コンテストを勝ち抜いたこの種類の「ノベル的な記事」も漏れなく、主題となる事件の説明を導入的に組み合わせることで、記事の目的を貫徹し果たすものとしてノベルの形式への橋渡しを行っている<ref group="*">「[[惨闢]]」「[[古民家カフェの惨劇]]」の著者Notoriousによれば、ノベル的な案をコンテストのレギュレーション(記事のみを対象とする)に則るために記事にした結果であるという。</ref>。これらの記事のように全面に渡るものではなくても、記事の中で部分的にノベルの形式を利用することはよく見られる現象であり、特に真実節で行われることが多いが、そもそもWikiWikiオンラインノベル誕生のきっかけとなった「[[非自己叙述的]]」自体その一つの例であるといえる。 | あるいはまた、記事の形式をある程度保って物語を表現する真実節の手法とは全く異なるものとして、第二回伝説の記事にも輝いた「[[叙述トリック]]」のように、標準名前空間のページである点では間違いなく記事といえるものの、記事の形式や文体を無視して(ほぼ)完全にノベルの形式によって文章が書かれているような「ノベル的な記事」もある。「[[:カテゴリ:公序良俗に反する記事|公序良俗に反する記事]]」におけるこのような記事などには節の存在が見られることがあり、完全に純粋なノベルの形式で書かれているとは言えないものもあるとはいえ、これらは頻繁の節の機能を失っており、ノベル的章立て以上の意味を持たない。著者Notoriousが草子「[[Sisters:WikiWiki麻薬草子#叙述トリックについて|叙述トリックについて]]」で書いているように、このような記事は記事の形式を無視しつつも、「主題について解説する」という記事の本来的な目標には適ったものとなっており、定例コンテストを勝ち抜いたこの種類の「ノベル的な記事」も漏れなく、主題となる事件の説明を導入的に組み合わせることで、記事の目的を貫徹し果たすものとしてノベルの形式への橋渡しを行っている<ref group="*">「[[惨闢]]」「[[古民家カフェの惨劇]]」の著者Notoriousによれば、ノベル的な案をコンテストのレギュレーション(記事のみを対象とする)に則るために記事にした結果であるという。</ref>。これらの記事のように全面に渡るものではなくても、記事の中で部分的にノベルの形式を利用することはよく見られる現象であり、特に真実節で行われることが多いが、そもそもWikiWikiオンラインノベル誕生のきっかけとなった「[[非自己叙述的]]」自体その一つの例であるといえる。 | ||
第三に、完全に記事の形式で書かれ、真実節も存在しないにもかかわらず「ノベル的な記事」とされる記事もある。例えば草子「[[Sisters:WikiWiki麻薬草子#記事のオチ|記事のオチ]]」では「並々ならぬ文章量と情熱によって(中略)重厚な物語の風格を備えた記事」の一つとして「[[オーストロェイリア]]」が挙げられている。そのような記事の例としては、他に「[[シンジツノクチ]]」や、あるいは「[[古民家カッフェの惨劇]]」が挙げられるだろう。これらの記事に共通するのは年表性の高さであり、そのような内容を書く節の中では、時間的進行には従いながらもある程度自由に場面を用意してノベルのように物語を展開させていくことが可能となるのである。また、拙作「[[ドクターストップ]] | 第三に、完全に記事の形式で書かれ、真実節も存在しないにもかかわらず「ノベル的な記事」とされる記事もある。例えば草子「[[Sisters:WikiWiki麻薬草子#記事のオチ|記事のオチ]]」では「並々ならぬ文章量と情熱によって(中略)重厚な物語の風格を備えた記事」の一つとして「[[オーストロェイリア]]」が挙げられている。そのような記事の例としては、他に「[[シンジツノクチ]]」や、あるいは「[[古民家カッフェの惨劇]]」が挙げられるだろう。これらの記事に共通するのは年表性の高さであり、そのような内容を書く節の中では、時間的進行には従いながらもある程度自由に場面を用意してノベルのように物語を展開させていくことが可能となるのである。また、拙作「[[ドクターストップ]]」においては、人物記事によくある「経歴」と「評価」の節を組み合わせることで物語を展開させる試みを行っている。このように、記事の形式を逸脱しないまま、節を有効に活用して物語を表現した「ノベル的な記事」もいくつか存在している。以上に示した三種類の「ノベル的な記事」と他の一般的なノベルの概念図は、以下のようになる。 | ||
[[ファイル:物語る記事.png|サムネイル|図|なし]] | [[ファイル:物語る記事.png|サムネイル|図|なし]] | ||
以上のことから、記事は物語を成立させるのが難しい媒体でありながらも、常習者たちは様々な手段によってその障壁を乗り越え、「ノベル的な記事」を書いてきたということが理解された。しかし、WikiWikiオンラインノベルが発展した今、物語を描こうとする常習者はあえて記事で物語を表現する苦労を負うよりも、そのままノベルの形式で物語を完成させオンラインノベルに投稿するようになっている。ここにおいて記事復興のために考えるべき二つのことが明確になった。一つは、記事において可能になるような、物語とは異なる素晴らしい創作活動のあり方、そしてもう一つは、純粋なノベルの形式ではなく記事の形式で物語を表現することのアドバンテージである。続いて本稿では、他の姉妹プロジェクトには無い記事独自の性質を挙げていきながら、この二つの観点によって「ノベルではなく記事を/記事で書く」ことに価値があるようなコンテンツについて論じていく。 | |||
===記事の独自性=== | ===記事の独自性=== | ||
第一回WikiWiki情報局大会において、筆者は「ノベルに傾かない記事の良さ」として「情報集積性」「共同性」「労働性」の三つを挙げた。本項ではその考えを発展させ、さらにビジュアル表現に関する特長を加えた四つの特長を記事の独自性として挙げ、それがいかなる種類の非物語的ながら素晴らしい創作活動を生み出すのか、また物語を記事の形式で書く時にそれがいかなる利点をもたらすのかを論じる。便宜上第一から第四の特長とするが、順番に意味はない。 | |||
第一の特長は、説明性である。前節でも述べたように、記事は主題に関する情報をフラットかつ網羅的に書き記すことを本質としている。このような意味での説明性はWikiWikiオンラインニュースやYGT財団にも期待することができるが、長大な情報の全体像を書き出すことにおいて記事は当然ニュースという媒体よりも優れており、YGT財団とは世界観的な棲み分けが存在するため、記事の独自性として挙げた。この性質により、記事が新概念の導入に最もよく適したメディアとなっていることは明らかだろう。加えて、一つのコンテンツにつき一つの独立したページが存在するという性質上、記事は内部リンクやカテゴリといった機能にも非常によく馴染むため、このような説明的な記事は相互に繋げることによってより大きな設定や深い世界観を創出することにも長けている。以上のように、説明性は新しい概念の発表やその概念同士の結びつけ、それによる世界観の創出といった創作行為の源となる。物語を記事の形式で書くにあたっては、説明性に付帯する客観性や簡潔さの要請により、人一人をクローズアップせずその等身大の感情や目線を描かないことになるが、あえてそのように物語を表現するゆえの儚さやおかしみといった味わいの変化を生むことが期待できる。国家の歴史のようなスケールで起きるあまりに大きな物語に関しても、俯瞰的に表現することによってある種のリアリティをもたらすことができるだろう。 | |||
===脚注=== | ===脚注=== | ||
<references group="*"/> | <references group="*"/> | ||
回編集