「世界五分後仮説」の版間の差分

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これは、「自分の存在を疑っている自分がある」という考えは「自分」の存在なしには成立しないため、「自分の存在を疑っている自分」が「自分」の存在を証明している、とするものである。
これは、「自分の存在を疑っている自分がある」という考えは「自分」の存在なしには成立しないため、「自分の存在を疑っている自分」が「自分」の存在を証明している、とするものである。


これには「意識するもの(可識的存在)は例外なく存在している」という考えが根本にあると考えられる。しかしながら、これは誤りであるのである。
これには「意識するもの(意識性存在)は例外なく存在している」という考えが根本にあると考えられる。しかしながら、これは誤りであるのである。


実際のところには、可識的存在は意識的・共識的存在の意識が可能、即ち「意識するものは意識できるものを意識できる」という性質があるのみであって、
実際のところには、意識性存在は意識上・共識上存在の意識が可能、即ち「意識するものは意識できるものを意識できる」という性質があるのみであって、


さらにその「意識できるもの」のことを「存在」と意識している。つまり、そもそも「我」を意識できている時点でそれは可識的存在からすれば存在しているものなのである。
さらにその「意識できるもの」のことを「存在」と意識している。つまり、そもそも「我」を意識できている時点でそれは意識性存在からすれば存在しているものなのである。


いうならばこれは「我はこのボールを青く塗った、ゆえにこのボールは青い」というものと同様の、至極当然の平叙文を言っているだけなのであり、そこには如何なる真偽の余地もない。
いうならばこれは「我はこのボールを青く塗った、ゆえにこのボールは青い」というものと同様の、至極当然の平叙文を言っているだけなのであり、そこには如何なる真偽の余地もない。
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なお、ここでは自分の「意識」についての不確実性を述べたが、他人の「意識」は後述する「他の存在」と見做される。というのも、そもそも他人の意識はその存在がもともと不確実なものであり、
なお、ここでは自分の「意識」についての不確実性を述べたが、他人の「意識」は後述する「他の存在」と見做される。というのも、そもそも他人の意識はその存在がもともと不確実なものであり、


自分以外の全人類が'''哲学的ゾンビ'''とも称されるような意識を持たない存在(非可識的存在)である可能性を排除することはできないのだからだ。
自分以外の全人類が'''哲学的ゾンビ'''とも称されるような意識を持たない存在(非意識性存在)である可能性を排除することはできないのだからだ。
====他の存在====
====他の存在====
前節で示したように、「自分」、そして「意識」の存在をも証明および反証することは不可能である。これはつまり、少なくともそれら以外の存在への意識が不確実であるということであり、
前節で示したように、「自分」、そして「意識」の存在をも証明および反証することは不可能である。これはつまり、少なくともそれら以外の存在への意識が不確実であるということであり、
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この仮説には、[[オスォナダツウェロク存在学]]の「存在」への価値観が大きく関わっているともいわれている。
この仮説には、[[オスォナダツウェロク存在学]]の「存在」への価値観が大きく関わっているともいわれている。


「'''可識的存在'''」や「'''意識的存在'''」、「'''共識的存在'''」などのオスォナダツウェロク存在学においてよく使われる単語を使用していることもその根拠の一つである。
「'''意識性存在'''」や「'''意識上存在'''」、「'''共識上存在'''」などのオスォナダツウェロク存在学においてよく使われる単語を使用していることもその根拠の一つである。


"前提"では、後述したように「'''自分'''」や「'''意識'''」、「'''存在'''」などについて何の定義もせずに、しかも再帰的な相互の仮定をもとに、論理を展開しているフリをしていることは誰の目にも明らかだが、
"前提"では、後述したように「'''自分'''」や「'''意識'''」、「'''存在'''」などについて何の定義もせずに、しかも再帰的な相互の仮定をもとに、論理を展開しているフリをしていることは誰の目にも明らかだが、


それこそがオスォナダツウェロク存在学における、「存在を意識できる存在(それにいわせれば「可識的存在」)」、の仕組み、つまり脆弱さからくる、証明ができないが反証もできないという強固さの利用を暗示しているという見方もある。
それこそがオスォナダツウェロク存在学における、「存在を意識できる存在(それにいわせれば「意識性存在」)」、の仕組み、つまり脆弱さからくる、証明ができないが反証もできないという強固さの利用を暗示しているという見方もある。


結局のところ、かのような難解にも程がある問いが発生するほどに欠陥が多いともいえる人間の意識の仕組みがここまで淘汰されず残っているのは、これが優れているからということになる。
結局のところ、かのような難解にも程がある問いが発生するほどに欠陥が多いともいえる人間の意識の仕組みがここまで淘汰されず残っているのは、これが優れているからということになる。
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