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この戦争の敗戦により、聖ウィンナー帝国は腸詰機構陣営に対する莫大な賠償金の支払いを義務付けられ、さらに領土の約9割を失った。 | この戦争の敗戦により、聖ウィンナー帝国は腸詰機構陣営に対する莫大な賠償金の支払いを義務付けられ、さらに領土の約9割を失った。 | ||
さらに、皇帝制の廃止も言い渡され、聖ウィーン帝国は'''オーストロェイリア共和国''' | さらに、皇帝制の廃止も言い渡され、聖ウィーン帝国は'''オーストロェイリア共和国'''となった。 | ||
国民は大いに絶望し、生きる気力を失った。しかし、その時、再びあらびきウィンナーは現れた。 | 国民は大いに絶望し、生きる気力を失った。しかし、その時、再びあらびきウィンナーは現れた。 | ||
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本来オーストロェイリアでは、この文章に意味などない。しかし、同国民にははっきりと皇帝の言葉が理解できた。 | 本来オーストロェイリアでは、この文章に意味などない。しかし、同国民にははっきりと皇帝の言葉が理解できた。 | ||
西暦660年、オーストロェイリア共和国は飢餓に苦しむハングリー共和国と合体、 | 西暦660年、オーストロェイリア共和国は飢餓に苦しむハングリー共和国と合体、 | ||
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また、同帝国ではいつもウィンナーから生成される肉汁が滴っていたことから、'''肉汁帝国'''とも呼ばれている。 | また、同帝国ではいつもウィンナーから生成される肉汁が滴っていたことから、'''肉汁帝国'''とも呼ばれている。 | ||
その一方、ベイ=コン連邦での'''共産腸詰革命'''による'''ソーセージ連邦(ソ連)'''の成立や、サルァミン大公国での結束腸詰主義者の台頭による、 | |||
'''ファシ・サルァミ王国'''の成立、フランクファウラ共和国の'''帝国腸詰主義'''化による'''フランクファルタ帝国'''の成立、また、アジアの大国であった'''チャーシュー帝国'''を破り、 | |||
列強腸詰国に躍り出た新興腸詰国、'''カルプヮス帝国'''の登場、さらにフランクファルタ帝国、ファシ・サルァミ王国、そしてカルプヮス帝国による三国腸詰軍事同盟の締結などが起こり、 | |||
今までになかった'''腸詰イデオロギズム問題'''も表面化し、世界情勢は混沌を極めていた。 | |||
==== 第二次腸詰国間戦争 ==== | ==== 第二次腸詰国間戦争 ==== | ||
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この戦争も、第一次腸詰国間戦争と同じような、かつ数百倍にも及び規模の腸力戦となり、各陣営ともに莫大な被害を被った。 | この戦争も、第一次腸詰国間戦争と同じような、かつ数百倍にも及び規模の腸力戦となり、各陣営ともに莫大な被害を被った。 | ||
西暦829年、オーストロェイリア=ハングリー帝国はこのとき、かつての盟邦だったフランクファウラ帝国に宣戦を受け、'''ウィンナー=フランク戦争'''が始まった。 | |||
さらに、その2か月と9日後、カルプヮス帝国にも宣戦を受け、'''ウィンナー=カルパス'''戦争も開始した。これにより、オーストロェイリア=ハングリー帝国は、 | |||
西部オーストロェイリアと東部オーストロェイリアにおける広大な戦線を維持しなければならなくなった。 | 西部オーストロェイリアと東部オーストロェイリアにおける広大な戦線を維持しなければならなくなった。 | ||
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これは、腸詰機構陣営による「捨て石作戦」の一環だったとみられている。 | これは、腸詰機構陣営による「捨て石作戦」の一環だったとみられている。 | ||
===== | =====腸詰自衛陣営===== | ||
西暦929年、深刻な物資不足と長引く戦争による経済の疲弊によって行き詰ったオーストロェイリア=ハングリー帝国は、苦肉の策として、 | 西暦929年、深刻な物資不足と長引く戦争による経済の疲弊によって行き詰ったオーストロェイリア=ハングリー帝国は、苦肉の策として、 | ||
独自の陣営である'''腸詰自衛陣営'''を創立し、チョリェソ王国などを招待することで腸詰同盟陣営の逆包囲を図った。 | |||
[[ファイル:World_War_2_2.png|代替文=|左|フレームなし]] | [[ファイル:World_War_2_2.png|代替文=|左|フレームなし]] | ||
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この試みは成功し、腸詰同盟陣営はこれ以上の前線の突破が事実上不可能になった。また、西暦1000年の'''機構・自衛合同大規模反攻'''によって、腸詰同盟陣営は、 | |||
アフリカ、東南アジアにおける領域を完全に失った。そして、第一次腸詰国間戦争と同じく中立を維持してきたハンバーガ合衆国の腸詰機構陣営への参加や、 | |||
失陥していたハゥム帝国本土も強襲上陸によって奪還されたことで、戦力を消費しつくしたファシ・サルァミ王国が降伏。 | |||
次いでフランクファルタ帝国、カルプヮス帝国も降伏し、西暦1019年、腸詰同盟陣営が無条件降伏する形で、第二次腸詰国間戦争は幕を下ろした。 | |||
=== オーストロェイリア帝国 === | |||
無意味な腸詰イデオロギズムの衝突によって起こった第二次腸詰国間戦争を反省した列強腸詰諸国は、腸詰基本法を作成した。 | |||
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|腸詰基本法 | |||
* 腸詰イデオロギズムを認め合う | |||
* 各々のナショナル腸詰を尊重する | |||
* 腸詰を武器として使用しない | |||
-腸詰基本法 | |||
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これにより、現在(西暦1129年)まで腸詰による平和は保たれてきているといえる。 | |||
また、第二次腸詰国間戦争後、オーストロェイリア=ハングリー帝国は、最早国内にハングリーなひとはいないと判断し、 | |||
オーストロェイリア帝国と国名を改めた。これが現在のオーストロェイリア帝国である。 | |||
==脚注== | ==脚注== | ||
<references /> | <references /> |
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