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時代は移って1313年、アンモク共和国は、エドワード(Oedvort、ファミリーネームなし、1288年8月12日 - 1352年12月31日)という外国人に侵略を受けた。 | 時代は移って1313年、アンモク共和国は、エドワード(Oedvort、ファミリーネームなし、1288年8月12日 - 1352年12月31日)という外国人に侵略を受けた。 | ||
====侵略の詳細==== | |||
エドワードは旅人だった。服装や持ち物、あるいは生への執念やフットワークの軽さなどは他の旅人と何ら変わりはなかったのだが、唯一決定的な違いがあった。思想である。彼は「アンモク共和国の存在は本来的に邪悪である。征服できるものなら征服して、正義に導いてやりたい」というようなことを普段から平気で考えていた。その思想に自ら危険意識を持っていた彼は、アンモク共和国のあるピートロヘトには足を踏み入れないよう、厳重に注意していた。 | エドワードは旅人だった。服装や持ち物、あるいは生への執念やフットワークの軽さなどは他の旅人と何ら変わりはなかったのだが、唯一決定的な違いがあった。思想である。彼は「アンモク共和国の存在は本来的に邪悪である。征服できるものなら征服して、正義に導いてやりたい」というようなことを普段から平気で考えていた。その思想に自ら危険意識を持っていた彼は、アンモク共和国のあるピートロヘトには足を踏み入れないよう、厳重に注意していた。 | ||
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ほどなくしてエドワードは議事堂の跡地にもう一度議事堂を作り、議員を自分のみにしてほぼ思い通りの議決を出したり<ref group="†">「ほぼ」としたのは、国民に円周率314桁の暗記を強制させる旨の法案を1314年1月5日午前9時に可決するという洒落たことをやりたかったのに、当日に風邪をひいて議会を欠席してしまうなどの出来事があったためである。</ref>、人々を集めて何度か演説をしたりした。この独裁は、1352年に彼が死ぬまで続いた。 | ほどなくしてエドワードは議事堂の跡地にもう一度議事堂を作り、議員を自分のみにしてほぼ思い通りの議決を出したり<ref group="†">「ほぼ」としたのは、国民に円周率314桁の暗記を強制させる旨の法案を1314年1月5日午前9時に可決するという洒落たことをやりたかったのに、当日に風邪をひいて議会を欠席してしまうなどの出来事があったためである。</ref>、人々を集めて何度か演説をしたりした。この独裁は、1352年に彼が死ぬまで続いた。 | ||
====41アパーラ令とその影響==== | |||
39年間にも及んだこの独裁体制下での出来事のうち最も印象的なのは、恐らく1329年の'''41アパーラ令'''発布・施行である。41の「アパーラ」(エドワードの国の言語で「してはならないこと」の意)を定めた法令で、この体制においては強力な拘束力を持つものとされた。違反者は死刑が原則だった。ただ、アンモク共和国で正義を実現するためとも、あるいは独裁者として堂々と私欲を満たすためとも思えない、いわば「中途半端な」規則が目立つ。具体的には、以下の事項が禁止された。 | 39年間にも及んだこの独裁体制下での出来事のうち最も印象的なのは、恐らく1329年の'''41アパーラ令'''発布・施行である。41の「アパーラ」(エドワードの国の言語で「してはならないこと」の意)を定めた法令で、この体制においては強力な拘束力を持つものとされた。違反者は死刑が原則だった。ただ、アンモク共和国で正義を実現するためとも、あるいは独裁者として堂々と私欲を満たすためとも思えない、いわば「中途半端な」規則が目立つ。具体的には、以下の事項が禁止された。 | ||
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