Sisters:WikiWiki麻薬草子/空飛ぶ馬に教わったこと
「空飛ぶ馬」を読んで、自分は小説というものが何たるかを今まで全く知らなかったのだなあ、と思った。
この本は、北村薫のデビュー作でもある推理小説で、五篇の短編から成る連作短編集だ。刑事事件の出てこない「日常の謎」というジャンルの先駆けとしても名高い。一九八九年の発表当時は、ミステリとしての完成度と人間ドラマたる小説としての魅力を両立させた稀有な作品として激賞されたという。
小学五年生だっただろうか、初めて読んだときはしかし、私はその「小説としての魅力」がぴんとこなかった。表題作の温かさはとても好きになった。高一でもう一度読んだときには、「砂糖合戦」の謎解きの隙のなさに惹かれた。そして高三の今年、三度目に読んでみて、ようやく「小説としての魅力」を垣間見ると同時に、小説の本質に盲目であった私に気づいたのである。
小さい頃から、人並み以上に小説は読んできたつもりだ。本が好きだったし、ミステリが好きだったので偏りはかなりあっただろうが、単純な冊数を数えれば平均は軽く超えるはずだ。そして、そういう子供は何をするかというと、自分でも書いてみようとする。これは何も本に限らないだろう。プリキュアが好きだからおもちゃ屋のペンダントを買うし、スポ根アニメの主人公に憧れるからバスケ部に入るし、少女漫画を読んで育ったからノートにキャラクターの顔を描いてみるし、そうした例に漏れず私は高校に入ると文芸部に入った。小説というものは紙とペンさえあれば才能も何もなくとも完成するからいいものである。かくして出来上がった自作の物語を眺めてみて、私は首を傾げるわけである。
なんか薄っぺらい。何が、と問われると、物語の厚みとかキャラの深みとか、そういう答えになるだろうか。とにかく何か薄くて、風が吹けば飛んでいきそうなのである。大会の審査員なんかは「説明でなく描写をしろ!」などとのたまうのだが、肝心の描写とはなんぞやと聞くと「小説を読んでみろ。そこに書いてあるのが描写だ」みたいな要領を得ない説明ばかりで、私は困ってしまう。そんなときに読んだのが「空飛ぶ馬」だったわけだ。
どこに衝撃を受けたかというと、一言で表すなら、「主人公の実在感」だ。本書の語り手である〈私〉が、紙の上のキャラクターとは思えないほどに息づいていて、彼女ならこんなときにこうするだろうかと想像できてしまうくらい、人格が形づくられていた。そんなの物語の登場人物なら当たり前じゃないかと思う方もいるだろうが、私にはそれがものすごいことに感じられるのだ。釈然としない方はぜひとも小説を書いてみてほしい。キャラに深みをもたらすことが難しいことがわかるはずだ。難しくなかった方は、そのまま高みへと歩みを進めていただきたい。一人の優れた小説家の誕生に関われて、光栄に思う。ともかく、登場人物の存在感の欠如が、薄っぺらさを生んでいるのだろうと私は悟った。
それをまるっきりわかっていなかったわけではない。では、それを回避するためにどうするか。キャラクターを一人の人間に押し上げるために、何をするか。簡単なのは、ラベルを貼ることだと思う。性別、年齢、容貌、肩書、趣味嗜好……このような要素を、シールを貼るように付け加えていく。こうすることで、ぼんやりした人物像にディテールを持たせ、他者と弁別可能にさせていく。程度の差はあれど、どんな作品であってもやっていることだと思う。しかし、この方策には不自然さが伴う恐れがある。ただ漫然とラベルを貼りたくっても、設定のための設定にしかならず、生かされなかったり互いに矛盾したりして、ちぐはぐな印象を与えてしまう。
ところで、これらのラベルの中で最も強力なものは、名前だろう。他のあらゆる要素が同じでも、あるいは何の情報も与えられていなくても、太郎と二郎は別人だ。人名は個人を規定するまさに固有名詞だ。当然、登場人物に真っ先につけるべきラベルだ。ここで、特筆すべきことに、「空飛ぶ馬」の語り手には名前が与えられていない。全編を通じて、〈私〉としか表記されていないのだ。さらに、家族の名前や通う大学名などの固有名詞も使われていない。いわば、最も便利なラベル群があえて用いられていないのだ。にもかかわらず、この実在感。私が感嘆した所以は、ここにある。
では、どのようにして人格が作られているのか。北村は、出来事を通じて人物像を描き出している。この手腕は書き出しから全開だ。「眠い――といえば高校生の頃は、朝起こされる時本当に眠かった。」という出だしから始まり、眠い朝についてのことが一ページ語られる間に、年齢や性別、住環境といった基本プロフィールの紹介はいつの間にか済んでいる。それに連なる、朝の一幕や食卓の醤油差しのエピソードによって個人性が構築されつつ、実に滑らかに物語の展開へと接続されていく。見事と言うほかない。
推理小説である本作では、謎とその解決が出てくる。それに立ち会った〈私〉は、その解決を聞いて、ほっとしたり、やるせなく思ったり、恐ろしさに身震いしたり、気分が上向いたりする。そんな心の動きが、ますます〈私〉を形づくる。このような結びつきが、ミステリと小説の両立なのだろう。
「空飛ぶ馬」を読んで、小説というものは、茫漠とした物語を実在させるために、無数のディテールを付加させていき、無二の話へと特定させていく作業なのかな、と思った。これが全てとは思わないが、それでも、本質の一片は垣間見ることができた気がする。