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 <br> 静かな夜だった。花残りの、薄く紫がかった月明かりが辺りを淡く照らし出していた。二人は約束した通りの時間に落ち合い、学校へと向かった。
 <br> 静かな夜だった。花残りの、薄く紫がかった月明かりが辺りを淡く照らし出していた。二人は約束した通りの時間に落ち合い、学校へと向かった。
<br>「ちゃんと持ってきた?」
<br>「ちゃんと持ってきた?」
 <br> 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の小瓶を、「安心して」というように掲げた。
 <br> 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の空瓶を、「安心して」というように掲げた。
 <br> 二人は通学路を歩いた。毎日行く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。
 <br> 二人は通学路を歩いた。毎日行く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。
 <br> 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
 <br> 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
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 <br> 防音の重い扉が誰が触るとなく開き、胸鰭の付け根に黒い点があって、尾鰭が黄色の魚が現れた。鯵だ。最初の一匹を皮切りに、次から次へと同じ姿の魚たちが、競うように入り込んでくる。
 <br> 防音の重い扉が誰が触るとなく開き、胸鰭の付け根に黒い点があって、尾鰭が黄色の魚が現れた。鯵だ。最初の一匹を皮切りに、次から次へと同じ姿の魚たちが、競うように入り込んでくる。
 <br> 鯵の群集はそのまま音楽室の高い天井目一杯に群れを成し、きらきらと月の光を反射しながら、巨大な銀の鏡のような魚群となって、ふわふわといたリュウグウノツカイの周りを周回し、幾らも経たないうちに完全に覆い隠してしまう。
 <br> 鯵の群集はそのまま音楽室の高い天井目一杯に群れを成し、きらきらと月の光を反射しながら、巨大な銀の鏡のような魚群となって、ふわふわといたリュウグウノツカイの周りを周回し、幾らも経たないうちに完全に覆い隠してしまう。
 <br> 凭れるような音色の中に、儚い優しさが潜む。鯵の群れは一つの意志を持ったの筋肉のように収縮する。まるで澪の演奏に合わせて幾千もの鯵が踊っている、そんな感覚を颯は覚えた。
 <br> 凭れるような音色の中に、儚い優しさが潜む。鯵の群れは一つの意志を持った筋肉のように収縮する。まるで澪の演奏に合わせて幾千もの鯵が踊っている、そんな感覚を颯は覚えた。
 <br> やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。
 <br> やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。
 <br> 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは姿を消しており、代わりに途轍もなく大きな、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
 <br> 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは見当たらず、代わりに途轍もなく大きい、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
<br>「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね……。どうもありがとう」
<br>「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね……。どうもありがとう」
 <br> 鯉は心が震えるような声をしている。
 <br> 鯉は心が震えるような声をしている。
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 <br> 澪は親しげに話し掛ける。
 <br> 澪は親しげに話し掛ける。
<br>「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
<br>「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
<br>「君たちはすごく大きなった」
<br>「君たちはすごく大きくなった」
 <br> 鯉はしみじみ、そう言った。
 <br> 鯉はしみじみ、そう言った。
<br>「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
<br>「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
99行目: 99行目:
 <br> 澪は手を叩いて喜ぶと、すぐに言った。
 <br> 澪は手を叩いて喜ぶと、すぐに言った。
<br>「私、金魚さんがどこにいるか知りたいの」
<br>「私、金魚さんがどこにいるか知りたいの」
<br>「わかったよ。やってみよう」
<br>「わかった。やってみよう」
 <br> 鯉は和かに、胸鰭を優雅に動かした。
 <br> 鯉は和かに、胸鰭を優雅に動かした。
<br>「金魚は花残りの月が真上に昇る時に、君たちの教室に現れる」
<br>「金魚は花残りの月が真上に昇る時に、君たちの教室に現れる」
 <br> 鯉の言葉に、颯は窓の外を見上げた。いつの間にか、月は大分高くなっている。
 <br> 鯉の言葉に、颯は窓の外を見上げた。いつの間にか月は大分高くなっている。
<br>「澪、急がなきゃみたいだ」
<br>「澪、急がなきゃみたいだ」
<br>「そうだね。鯉さんありがとう。また今度……」と言って先を急ぐ澪の手を、颯は掴んだ。
<br>「そうだね。鯉さんありがとう。また今度……」と言って先を急ぐ澪の手を、颯は掴んだ。
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