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4年2月15日 (ヰ) 09:04時点における版


 ロシア領カザフスタン自治区の中央南部。シルダリヤ内海の辺りに展開する近代都市の中心に位置したバイコヌール宇宙基地では、凱旋の鐘が鳴り響いていた。ソ連時代の名残、場所が特定されないよう320キロメートルも離れた鉱業都市の名が冠されたその飛行場では、旧式の出航セレモニーが実施されていた。地球温暖化によって北極が取り払われたのが約二百年前。それはロシアに優位に働き、国際情勢は瞬く間に塗り替えられた。すでに落ち目となっていた超大国アメリカは見る影もなくなり、中国も加速度的に進む高齢化によって、波前の砂城のように崩れ去った。もちろんロシアも圧倒的な被害を被る。永久凍土の融解は社会問題となり、インフラは一時危機的な状況に陥った。人が住むことのできない赤道付近や沈んでしまった沿岸部の国々からの膨大な数の移民も、急速な治安の悪化等につながった。しかし国家が多くの権力を有するロシアは対応も速やかだった。国民に国民皆労働手帳(通称青帳)を配布し、名誉国民の称号を与え、移民との明確な身分の差を示した上で国内の結束を高めた。南極地域の埋め立てを実行し、国の拠点をそこへと移した。およそ近代国家とは思えない横暴な策に、世界中の非難は殺到したが、再建された大国はあまりに強かった。ロシアは繁栄の時代を謳歌した。しかし、圧政には革命がつきものであり、この大国においてもそれは例外ではなかった。やがて一人の英雄がキルギスのビシュケクで立ち上がった。それはやがて世界を巻き込む戦争となり、人民はかつての、使い古された意味での自由を勝ち取ることになるのだった。さて、その革命において、革命軍の支部として活躍したのがこのバイコヌール宇宙基地である。すっかり温暖な気候と化した勇者の都市の上空には、沸き立つような緑の風が吹いている。
 特別編隊のバッチを胸につけた三人の飛行士が、胸を逸せて搭乗台から手を振った。この時代、宇宙旅行は夢ではない。それどころかもはや長旅でもない。一時混乱に陥った大地において、人々の関心は空の彼方へと移ろった。急速な宇宙関連技術の成長は必然のものだったと言えよう。それはあっという間に、銀河系をただの観念から人類の便利な庭へと変貌させた。それを牽引したのがロシアであった。太陽系の惑星には全てに複数の基地と観測所があり、特に月と火星ではすでに人が安住している。宇宙旅行が当たり前のものへと成り下がった現代。ではなぜこのような大々的な式典を行っているのか。それは彼らが、革命以来、いや、有史においても前代未聞の事件の調査へと向かう、人類の代表だからである。それは三年前、海王星の観測所が突如発表した声明だった。
「楕円銀河M110(NGC 205)の座標D11.0943・S236.055・N56において地球外文明と思しき巨大な宇宙船を発見。観測点A2DP4より発信す」
 驚愕のニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、欠けた大陸を揺るがした。その報に恐怖を見出し発狂する者や、新たな生命との接触に新たな希望を持つ者。人々の反応は実に様々だった。それでも社会は特に問題なく回った。続報に希望の持てる内容が多かったからかも知れない。三日後、宇宙船Xは数百年前からそこに存在し、全く動きがないことから、攻撃の意思はないであろうという推測が観測所の見解として発表された。電波信号による交信を試みるも失敗に終わったが、調査を進めるうちに、船に生命反応が見られないことも判明した。三ヶ月も経つ頃には、船のその文明レベルは低いもので、地球文明に比べ、現代でも半世紀ほどの開きがあることも確認された。自らに直接の害がないことが確認されると、人々は即座に次の話題へと関心を寄せた。いつの時代もそうであったように、民衆は大事なことをすぐに忘れた。
 発端から三年の月日が流れ、我々は漸く直接調査のための特別編隊を組織し、準備を済ませ、出航に漕ぎ着けた。往復六週間の、細やかと言えば細やかな、偉大な旅の始まりである。このセレモニーは全世界に中継されている。私は基地長の席に座りながら、小さく溜息を吐いた。思えば、出港地がここバイコヌール宇宙基地に決定した一年前から、ずっと働き詰めだった。火星や、その他のより近い星から出発するという案もあったのだが、験担ぎということでこの英雄の基地からの出航が決まった時は、これから己に降りかかるであろう圧倒的な業務量を想像して戦々恐々としたものだ。けれど、そんな一大イベントも今日で一区切りである。私はそれぞれの宇宙船に乗り込んだ三人の飛行士を見た。彼らは優秀なパイロットだ。三人の中誰が人類の代表となろうとも、決して恥じることなどないほど勇敢で、理知に溢れ、誠実だ。老齢になっても人一倍視力の良い私は、数十メートル先の彼らの勇姿を鮮明に見ることができた。彼らなら、きっと任務を完遂することだろう。私は上昇してゆく勇者の船を追って青空を見上げた。高性能宇宙船の出発とは、実に味気ないものである。瞬きの間に大気圏を脱出し目的地へと旅立った三隻の弾丸はすぐに光の点となって視界から消えた。これでもう、一安心だ。私は世界中が興奮に浮き足立つ中、一人、そっと胸を撫で下ろした。
 NGC 201・NGC 137・RSC 99の無人観測所が彼ら三人の動向を精密に観測し続けており、それは海王星の主要観測研究所において分析された。人々には分析された後の情報が発信される。出航から八時間、銀河系を脱出すると、船と地球の相互通信は重力装置の条件上不可能になるものの、船では簡単な情報受信ができた。それに前述の観測システムが彼らを正確に追い続けることによって、実質的に簡素な意思疎通が可能であった。
 出発から二週間と五日後。三隻の宇宙船が特に問題なく目的へと到達したという旨を海王星の主要観測研究所が発表した。これから四日間の精密調査にあたるそうだ。
 異変が起きたのはそれから四日後、調査最終日のことだった。帰路に向かう筈の三隻の船は予定時刻を過ぎて尚、全く動き出さなかった。この情報は混乱を避けるため、一部の関係者のみに共有された。私はこの報を聞いた後、しばらく放心状態で安楽椅子に座り込んでいた。この異変が自らの失態によるものでないことを祈るばかりだった。
 それから六日後、この異変を隠蔽しきれなくなった主要観測研究所が、特別編隊の遅延を発表した矢先のことだった。突如航海軌道上に、一隻の船が出現した。燃料が予定より幾分減っていたが、目立った外傷もほとんど無い、三隻のうちの一隻であった。その時点で各観測システムは巨大宇宙船の近くに停留し続ける三隻の船を確認し続けており、我々はひどく困惑した。各研究所は協力しながら、あらゆる方法を駆使して事態の分析に努めた。そしてある研究者の一人が一つの仮説を提唱した。それは、我々が確認している三隻の停泊した宇宙船は巨大宇宙船の認識偽造装置によるものであり、あの巨大宇宙船自体が罠で、我々の使者を捕縛する目的だったのではないか、というものだった。
 私は背筋が凍った。生きた心地がしなかった。きっと携わった者皆そうだったに違いない。基地の会議室はその日、沈黙が支配した。我々は偽の当たり障りのない報告書と三隻が無事に帰還する動画を作成し、予告していた時より二日遅れの帰還、ということで大々的に大衆に公開した。それを終えた後に我々が出来ることは、その一隻が銀河系に帰還し、通信可能な状態になるのを待つだけであった。
 出発から七週間。ついに船が銀河系内に帰還した。主要観測研究所はすぐに連絡を取った。飛行士は憔悴しきった様子だったが、さすがは人類の代表者というべきか、冷静な受け答えが可能で、危機的状況にも関わらず、余すことなく完璧な報告をした。
 三隻は概ね予定通りに航行していた。途中に障害は何もなく、全てはつまらない旅で終わる筈だった。目的の船まであと五十光年と言ったところだった。突如電子弾が船を襲い、急に操縦が効かなくなった三隻は宇宙に放り出された形となった。何らかの電波攻撃を受けたのだろうと彼は言った。次に無数の偵察機が三隻を囲んだ。そこから分析不可能なエネルギーによって拘束された彼らは巨大宇宙船の内部へと連行されそうになった。間近で見た巨大宇宙船は我々が観測していたものより数倍大きく、未知の動力によって運営され、技術力も我々と遜色ない水準にあった。またそれに内蔵された認識妨害装置によって我々の観測は歪められていたと言うことが判明した。戦意を全く喪失してもおかしくない状況だったのにも関わらず、彼らは冷静だった。他の二人の協力もあり、機転をきかせつつ拘束を解くと、彼一人だけどうにか抜け出したのだと言う。この間二時間ほど。そこから無我夢中で操縦桿を握り、追っ手を振り切りながら命からがら逃げ回った。巨大宇宙船付近に敷かれた包囲網は凄まじく、燃料を浪費し時間も掛かったが、彼は発見された地点へとワープを成功させ、逃れることができた。その間彼は複数の連絡方法で和平交渉を試みたが、どれも認識されないようであった。追っ手は掃討し追跡の跡もなく、いくつかのサンプルも手に入れた、とのことだ。残してきた二人のことを思い出しているからだろう。悔しそうに語る彼の言葉には我々の涙を誘うものがあった。「地球に真っ直ぐ帰って来るといい。最高級の褒賞が君を待っている」我々は目一杯の労いの言葉を彼に掛けた。我々を困惑させる要素はより増えたが、情報もまた増えた。彼が送信した船体情報と、巨大宇宙船付近での映像は鮮明で素晴らしい手がかりとなった。この奇妙な現象をどうにか説明しようと、研究者は躍起になって議論した。連絡が取れるようになってから八時間後、到着の時はやってきた。
 宇宙船の到着は実にスムーズである。最新鋭の技術の結晶は、大気圏に突入してから衝撃をほとんど与えることなく、十分もかからずに安全に着陸する。私は昔――ロケットが粉塵を撒き散らしながら、ガス噴射で飛び立っていた時代――の名残である強化ガラス越しに、地上五十メートル程になって、ゆっくりと降りてくる船を見つめた。
 英雄の凱旋である。かつて英雄が生き急いだこの地に、新たな英雄が帰還する。これからどんなことが人類に待ち受けていたとしても、彼には休む権利がある。そんなことを私は思った。
 事態は何一つ好転していない。発見された地球外文明が未知の技術を使うこと。我々の送り込んだ遣いの内、二隻が撃沈されてしまったこと。意思疎通をとる方法が今現在全く掴めないこと。我々へ明確な敵意を持っているであろうこと。また、遠隔において彼らの動向を把捉するのは不可能に近いということ。この旅によって人類が得たいくつかの情報は、余りにも手厳しく、恐ろしいものだった。しかし、それがどうしたことか。人類四十万年の積み重ね。我々の文明、技術、歴史。人類が一丸となって戦えば何も怖いことなどない。どういった効果はわからなかったが、悠々着陸しようとするアルゴー船を見上げていると、そんな、奮い立つような勇気が湧いた。船体の艶やかな卵色と、発光する動力装置の緑が、薄い青空に映えていた。
 ふと何かが視界を横切った気がして、私は床を見た。金属製の無機質な床では、一匹のゴキブリが地面を這いずっていた。四肢を動かし素早く移動する様にゾッとしたが、私は硬い靴の底でそれを潰した。
 その時、何とも言えない違和感が私の胸を貫いた。文字通り虫の知らせとでも言うのだろうか、心臓にタールが詰め込まれたような嫌な予感だ。それをどうにか払拭するため、私の思考は高速に回転し始めていた。
 あれほど大規模かつ高精度の認識偽装装置を作ることのできる文明が、どうしてこの船を捕まえるに至らなかったのか。どうして一隻だけ取り逃したのか。ああ、我々人類の叡智……それを持ってしてもこの不気味な昆虫の撲滅には至らなかった……。確か少し前までこんなものがあった。殺虫剤の一種だが設置しておくだけで一帯の同種を根絶させることができるというものだ。餌を置き、毒を混ぜ、それを仲間へと伝染させ、種ごと根絶やしにする悪夢のような装置……。
 もしあの巨大宇宙船が、あらかじめ文明の芽吹きそうな場所に設置し、それがある程度まで発展した時に効率良く排除する装置だとしたら……。
 私ははっと顔をあげ、まさに着陸しようとする英雄の船を見た。船体情報は隅々までチェックを施した。何通りの方法でスキャンにかけた。しかしあの地球外文明は認識偽装に長けている。現に我々の観測機は今も、M110において止まる三隻の船を観測し続けている。
 船が地面についたその時、船倉の部分がぴかりと光った。それから衝撃を感じる間も無く、地球は原子レベルにまで崩壊した。その爆発は銀河系をもすぐに呑み込み、全てを灼熱の気体へと変貌させた。それは人類が生まれ落ちて以来経験したことのない大きさの莫大なエネルギーで、その営為を残らず消し飛ばすには十分すぎるものだった。    


 飛行士Bは遠い銀河の彼方、巨大宇宙船の付近において絶望していた。絶えず届いていた観測研究所からの連絡が途絶えたのだ。受信機が壊れてしまったのか、もしくは何らかの原因によって発信する主が消え去ったか。後者の考えが頭を掠めた時、彼はそれを鼻で笑おうと試みた。しかしそれは無為な挑戦に終わり、次に彼は、現象の原因が前者であることを神に願った。しかしどちらにせよ、自分が救われることはもうないだろうと言うことも、彼は覚悟していた。
 未知のエネルギーによって捕縛されてから四週間と三日が経っていた。一隻は何週間も前にすでに逃れ、もう一隻はそれよりだいぶ前に撃墜された。彼は何とか逃げ仰すことができ、認識偽装されている空間から今にも脱出しようと言うところだった。
 追手を撃ち落とし、星間ワープを駆使して何とか脱出に成功した。相変わらず連絡はないものの、彼は一安心した。神の導きはあるものだ。絶体絶命の状況から、彼はひとまず逃れることができたのだった。
 彼は地球の座標を選択し、AIに目的地をセットした。地球に帰ったら顛末を全て報告しなければいけない……。だがその前に新鮮な空気を思いっきり吸いたい。北欧のリゾート地で、太陽に焼かれながらゆっくり人生を満喫してやりたい。休息が欲しい。暖かな海を泳ぎたい。ああ、母なる海。私はあまりに疲れすぎた……。そういえば、先に逃れた彼はちゃんと帰れただろうか。
「選択した惑星は現在存在いたしません」
 船の中に無慈悲な声が響いた。彼は呆然と画面を見つめた。
 そこからの記憶は朧げだった。生まれ育った故郷が失われてしまった、と言われたとして、誰がその事実をすんなり受け入れることができるだろう? 無我夢中で船を漕ぎ、彼は遂に銀河系に到達した。しかしそこには見慣れた星々は無く、真っ白な炎が燃え続ける巨大で虚な空間があるだけであった。燃料はもう使い果たした。度重なる無理が祟ったせいか、彼はもう何も考えられないでいた。
 レーダーが追手を察知し、けたたましい警告音を上げた。しかし、彼は動くことができなかった。
 涙でぼやけた灼熱に燃える故郷は、なぜか母親の腹の中の景色を彼に思い出させた。彼は嗚咽を漏らしながら、最後の人間としての勤めを果たすかのように、自爆装置の赤いボタンを押した。