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{{ノベル|題名=プールか体育館か|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=遅刻を免れるには、授業が行われる場所がプールか体育館か、当てなくてはならない。<ruby>授業開始<rt>タイムリミット</rt></ruby>まであと3分……!}}
{{ノベル|題名=ドア越しの夫婦|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=今玄関にいるよ!}}
{{ノベル|題名=賞味|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=小鳥といちごのボーイ・ミーツ・ガール。やがて訪れる<ruby>賞味期限<rt>タイムリミット</rt></ruby>は果たして……!}}
{{ノベル|題名=スノータイムリミット|著者=[[利用者:Mapilaplap|Mapilaplap]]|説明=いつも練習熱心な由紀が、なぜか部活をサボって帰宅してしまった……! 閉邦高校で巻き起こる短編青春ミステリ!}}
{{ノベル|題名=ノゾキマド|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=今、玄関にいるよ。}}
{{ノベル|題名=殺人を知らない探偵|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=「敬語を知らない探偵」初の公式スピンオフ! あの列車のナース、律家ラレが幼き日に経験したある殺人事件に迫る。}}
{{ノベル|題名=人形浄瑠璃 アナザー|著者=ChatGPT|説明="古き良き日本の文化"をテーマにしたかどうかは不明の、大和魂を一滴も持たないAIによる人形浄瑠璃。}}
{{ノベル|題名=善人しか出てこない話|著者=西尾彰|説明=文字通り、この物語には善人しか出てこない。}}
{{ノベル|題名=二回読むと死ぬ話 一覧|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=二回読むと死ぬ話 一覧}}
{{ノベル|題名=大海を知らない探偵|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]](原案:[[利用者:せうゆ|せうゆ]])|説明=ベラ助が謎めいたマンボウの死に挑む、短編ミステリー。}}
{{ノベル|題名=アクニンシカデテコナイハナシ|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=悪人しか出てこない話?}}
{{ノベル|題名=怪異との遭遇|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=今、玄関の前にいるの}}
{{ノベル|題名=愛の言葉|著者=[[利用者:Mapilaplap|Mapilaplap]]|説明=「月が綺麗ですね」への肯定の返事は「死んでもいいわ」なんだって。}}
{{ノベル|題名=人問|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=something human}}
{{ノベル|題名=安らかに眠れ|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=今はただ──}}
{{ノベル|題名=教室海|著者=[[利用者:Mapilaplap|Mapilaplap]]|説明=ドビュッシーの夢みたいなものです。}}
{{ノベル|題名=地図クライシス|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=魔法の地図が巻き起こすドタバタ劇。}}
{{ノベル|題名=浮|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=①うく。うかぶ。うかべる。 ②はかない。よりどころがない。 ③うわつく。うわべだけの。}}
{{ノベル|題名=遅刻間違いなしの状況から打てる起死回生の一手|著者=[[利用者:Notorious|Notorious]]|説明=シスコンランナー・Notoriousバージョン}}
{{ノベル|題名=最悪の一日と救済の力士|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=横断プロット・ラプラプバージョン}}
{{ノベル|題名=シスコンランナー|著者=[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]|説明=シスコンランナー・ラプラプバージョン}}
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53話の物語をあなたと

傑作小説

非自己叙述的
「非自己叙述的」という言葉から生まれる概念を、満遍なく説明した作。二部構成!
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第一節 「物語(一人の老人による語り)」

君「非自己叙述的(heterological)」という言葉を知っているか? 知らないとな? 仕方のないやつめ、教えてやろう。
非自己叙述的とは、「ある言葉の意味がその言葉自体と矛盾していること」だ。たとえば"long"という言葉は「長い」を意味するが、この言葉の綴りはわずか4文字と、長くない
したがって"long"という言葉は非自己叙述的だといえる。また"misspelled(綴りの誤った)"という言葉は正しく綴られている。つまりこの言葉も非自己叙述的だ。
君この話は飽きたか。面白くないか。けどもしばし待て。ここからだ、面白くなるのは。さあ君、この問題について考えようじゃないか。

   ・「非自己叙述的」という言葉は非自己叙述的であるか?

これを解くにあたって、重要なことがある。「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」ということだ。
おっと、当たり前だといって笑っちゃいけないぞ君。これはほんとうに大切なことだ。何せ……粛清されました
本題に戻ろう。ではまず、「『非自己叙述的』は非自己叙述的である」と仮定して話を進めようか。「非自己叙述的」は非自己叙述的である。
すなわち「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っている。よって「非自己叙述的」は非自己叙述的でない
むむ? いま、「非自己叙述的」は非自己叙述的だ、として話を進めたはずだ。しかしそこから、それを否定する結論が得られた。なぜだろうか? うーん。
あるいは、最初の仮定が間違っていた、と考える方が自然であろう。
今度は他の可能性にかけるのだ――ところで先ほど、「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」と述べた。
となると他の可能性とは、「『非自己叙述的』は非自己叙述的でない」ということじゃあないか!
では、そう仮定するとどうなるのだろうか? 「非自己叙述的」は非自己叙述的でない。つまり「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っていない。
ゆえに、「非自己叙述的」は非自己叙述的である
またもや仮定と矛盾する結論を導いてしまった。やあ君、どうしてこうなったのだ? 僕たちはすべての可能性を検討しきったのに、そのどれにおいても矛盾が生まれるだなんて……。
はっ! 君君、これ、パラドックスじゃないか!



第二節 「物語(二人の若者の会話)」
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ⒸWikiWiki文庫

すべての小説[ソースを編集]

12
敬語を知らない探偵
伊藤しえる
敬語を知らない探偵が、夜行列車で起こった殺人事件の謎を解く短編ミステリー。
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第一章 めっちゃ暗い電車と死体

―――六月二日・深夜―――

六月二日午前二時、めっちゃ高級な夜行列車に悲鳴が響き渡った。

六名しかいない(決して登場人物を考えるのが面倒だったわけではない。断じて。)乗客の一人、ささ怜太れいたの遺体が発見されたのだ。

しかし、こういうミステリー小説にありがちな、何故か同乗している探偵、梅丹逞めいたんていは、事件解決に乗り出した。

「あー、まずみんなの名前を教えてくれ」

第一レクリエーションルームの静寂を破ったのは梅丹の一声だった。

この部屋には、コクピットの操縦記録という確固たるアリバイがある運転手以外の全員がいた。


「私は茂公家もくげ喜紗きしゃ。えーと・・・こういうときの持ちネタは無いわ。」

「俺は有曾津うそつ偉輝いてる。俺のことは信用していいぞ、探偵さん。」

「俺ぁ慈研じけん繁仁はんにんだ。早く帰らせてくれよ。ったく・・・」

「私、伊藤いとうしえる!どこにでもいるフツーの女子中学生!」

「私はこの列車のナース、律家りつけラレよ。」


ついさっき来たばかりなのに図々しく椅子に深く腰を据えている男は、ただ黙っている。

「えーと、一応そこの警察の人も・・・」

「私は卦伊佐けいさ通寛つかん。犯人は早く自首したほうが身のためだぞ。」

「それにしても・・・何故か非常ドアが開いていたおかげで列車に入れたのは運がよかったな。」

この23世紀のテクノロジーによって、時速三千キロメートル以上の速さで走るこの列車に―――それも動いているときに―――

非常ドアが何故か開いていたからという理由で飛び込む精神を疑ったのは梅丹だけではなかった。

「みんな、ありがとう。」

「では、午前二時に悲鳴を上げた人、名乗り出てくれ。」


ここまでご覧になった読者の中には、何か違和感を抱いた人もいるかもしれない。

そう、普通、ミステリー小説に出てくるような探偵は紳士的な口調で語りかけるが・・・

梅丹逞は敬語を一切使っていないのだ。これは、彼なりの信念というわけではなく、

ただ単に国語の授業を寝て過ごし続けたせいで、敬語の存在を知らないからなのである。

何てダメなやつなんだ。


「私よ。」

「茂公家、きみが笹怜太の遺体を発見した時の様子を教えてくれ。」

「ええ、私はのどが渇いて、水を飲みに台所に向かったの。」

「そしたら、通路にナイフが刺さった笹さんの遺体があって・・・警察に通報したわ。7G通信が普及したこの時代に感謝ね。」

「あーね、じゃあ、誰か他の人を見なかった?」

「えーと、白い服を着た人が通りかかったのは見えたわ。けど、暗くて顔はわからなかったの・・・」

「確かに、この列車何故か夜は消灯して目の前も見えないくらい真っ暗になるからな・・・」

「お!これ、犯人、ナースの人じゃね!?」

突如として有曾都が声を上げる。

「白い服着てる人ってあの人しかいねぇじゃ~ん!」

「ちょっと静かに。律家、きみは午前二時、何をしていた?」

「私は自分の部屋にいたわ。」

「誰か、午前二時頃に律家を見たかい?」

「私はさっき言った通りよ。」

「私、この部屋のでっかいテレビでプリキュア見てたから知らな~い。」

「俺と慈研はコイツが廊下を歩いていたのを見たぜ。」

「ああ。有曾都の言った通りだ。」

「なるほど、律家は外にいた可能性が高い・・・と。」

「噓つき!私はずっと自分の部屋にいたわよ!!!」

少し間をおいて、律家が言った。

「一応言っとくけど、私はやってないわよ。人を助けるためにナースやってるのに、人殺しなんてありえないわ。」

「おいおい、苦し紛れの感情論か?やっぱコイツ犯人だろ!」

「有曾都、すこし落ち着いてくれ。大体まだ凶器も見つかってないんだぞ。」

―――「私、さっき凶器っぽい包丁拾ったわよ。」

「私の部屋のドアの前に落ちてた。」

「誰かが私を犯人に仕立て上げようとしてるってとこかしら。」

律家が続けざまに言う。

口調こそ冷静だが、目がバタフライでもしているように泳いでいる。凶器はバタフライナイフか!?

梅丹には、これが「嘘と思われるかもしれない恐怖」から来ているのか、それとも「嘘がばれるかもしれない恐怖」からなのか、見当もつかなかった。

「律家ラレ、少し貴方の話を伺いたい。」

律家は卦伊佐によってどこかに連れられていった。

「あの人が犯人だったのね・・・」

「夜更かししてたら肌荒れちゃうから、お部屋にもどっていい?」

「やっぱナースが犯人じゃねぇか!」

「あーだりィ、もう帰っていいか?」

「ちょっと待ってくれ。」

梅丹は何か不可解な蟠りを感じていた。

「荷物検査を行いたい。みんな、荷物を持ってきてくれないか。」

「はァ!?もうナースが犯人で決まりだろ!そんなん必要ねぇよ!」

「やましいものでも入ってなければ何ら問題はないだろう?」

「まぁいいじゃねぇか、慈研。」

と、有曾都がなだめる。

馬鹿みたいにデカい慈研の舌打ちが廊下に鳴り響いた。

第二章 コペルニクス的転回(使いたいだけ)

―――あれから数分後―――

第一レクリエーションルームに全員が荷物を持ってきた。

あぁ、運転手と卦伊佐と律家以外・・・それと、梅丹以外は。

「なんなんだよアイツ!」

慈研が壁を殴る。

「宇曾都、もう帰らねぇか?」

「おいおい、ここで帰ったら絶対疑われるぞ。」

慈研が壁を殴る。

「ほんと、あいつら馬鹿ね。」

突如、ドアが開いた。

「律家ラレは犯人ではなかった」

卦伊佐の言葉が部屋中を駆け巡った。

「ここの変態運転手が律家の部屋に隠しカメラをセットしていた。」

「午前二時、たしかに律家は部屋にいたことが記録されている。」

「あのゴミ・・・」

律家は複雑な表情だったが―――安堵していた。

「はァ?俺たちが嘘をついてたっていうのかよ!絶対そいつが犯人だろ!」

「そうだぞ、慈研の言う通りだ。」

声を荒らげこそしないものの、茂公家も動揺していた。

そのとき、再びドアが開いた。

「みんなの部屋を調べさせてもらった。」

梅丹はスマホと小さな紙を持って、ニヤニヤしていた。

「私のスマホ!返しなさいよ!」

茂公家は先ほどとは別人の形相で梅丹に掴みかかるが、卦伊佐に引きはがされた。

「運転手から部屋のカギを借りたんだ。犯人に荷物を持って来いといったところでやましいものは持ってこないことくらい誰もがわかる。」

「そして・・・いくつかとても興味深いものがあった。」

「まず一つ・・・茂公家と有曾都の通話履歴だ。聞いてみてくれ。」ポチー


「「慈研...k..らだ...」」

「「..伊藤sh...えるs...aが殺さ...れた....」」

「「...ええ、分k...った..。確認sh...てく..る」」


「雑音のせいで聞き取りずらいが・・・」

「伊藤しえるが殺された、と言っているな。」

「クソが・・・」

有曾都が壁を殴る。

茂公家はバタフライ中の競泳選手が急に陸上にテレポートしてきたかの如くバタバタしていた。

「そして・・・この紙だ。」


最低な私を許してくだ
さい。もうこれ以上涙
を拭くのはたくさん。
今夜飛び降ります。線
路に当たったら死ねま
すよね。死ねるよね。
     伊藤しえる


「嘘!私こんなの書いてないわ!」

「これはどういうわけか有曾都の部屋にあった。」」

「今までの手がかりから推測するに、犯人は・・・慈研、有曾都、茂公家の三人さ。」

「どういうこと?」

律家と伊藤は混乱している。

「こいつら三人は伊藤しえるを殺害しようと企んでいた。」

「本来の予定では・・・まず慈研が伊藤を殺害し、有曾都に連絡、」

「そして有曾都はあの偽造遺書をセッティングしてから、茂公家に連絡し、茂公家は非常ドアを開けて伊藤の死体を線路に突き落とす。」

「こうして伊藤は自殺したことになり、完全犯罪は成立する。」

「といったところだったが・・・慈研。きみはミスを犯してしまったようだね。」

梅丹を睨む慈研。もはや壁を殴る気力すらなくしたのだろうか。

「きみは―――”暗くて顔がわからなかった”から―――間違えて笹怜太を殺した。そうだろ?」

「慈研から有曾都を経由した茂公家への連絡と、偽造遺書のセットは順調に進んだが、」

「茂公家は非常ドアを開け・・・月明りのおかげで抱えている死体が伊藤のものではないことに気づいた。」

「偽造遺書は伊藤しえる用だったから、笹怜太の死を隠せない。」

「その後こいつらは、とっさに機転を利かせて、律家ラレを犯人に仕立て上げようとした。」

「三人がかりなら丸め込めるとでも思ったのだろうね。」


慈研、有曾都、茂公家は卦伊佐によってどこかに連れられていった。



翌朝の新聞が―――――死者九名を告げた。

第三章 敬語を知らない探偵

―――六月二日・未明―――

「ねぇ、探偵さん」

「あぁ、伊藤。なんだい?」

「なんで頑なに敬語を使わないの?」

「ケイゴ?誰だ、それは。」

「国語の授業、ちゃんと受けてた?」

「も、もちろんだよ!授業中に寝るなんてこと、す、するわけがないじゃないか!」

「ふふ、敬語ってね、ちょっと面白いんだよ。」

「例えば、「先生が食べる」という文。これを敬語にするとね、「先生が召し上がる」とか、「先生がお食べになる」とか・・・」

「「先生が食べられる」にもなるんだ。」

「ねぇ、」

「あの”遺書”に違和感を感じなかった?」

「特に最後なんか、「死ねますよね。死ねるよね。」なんて・・・」

「あの”遺書”を書いたのは私なんだよ。」

「お友達に私の意思を伝えるために、書いたんだよ。」

「でも私は別に自殺したいわけじゃない。」

「あなたたちは読み方を間違えてるのかもしれないね。」


「ねぇ、」

「もしかして、あなた、」

のこと、知ってるの?」

ⒸWikiWiki文庫

引っ込み思案の茶封筒
27年ぶりの世紀末、その雲はハンバーガーとともに輝きだした……。
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第一章 人の気も知らずに

「今すぐ生ハムでも降ってきそうな天気ね」

 広瀬君はそう言うと、姿を消したのだった。コードレス化が進む昨今、ポケットティッシュを整理するのにもはや湖など必要ない。思わずうかうかしてしまいそうな話である。不意打ちに見つかったバターナイフでさえ急須でラベルを飲むのだから、まあ無理もない、といえば、当然嘘になる。

 川西フットサル――Italian, 42, male, fat, blond――もその一人であった。彼女はまだ若く、一人で合格証書を受け取った。日本人の悪い癖といえばそうだ。誰もそんなものは計算しない。したがってこの日も、ベランダで弓道を侮辱する43分となった。西日本の読者諸賢はすでにお気づきのことと思うが、発電機とはあくまで鏡を売るということであり、そう簡単に通学していいものでは、決してない。

 彼らはそんな神様に嫌気がさしていた。参考書のQWERTY配列、コンビニおにぎりの些細な下駄箱、あるいはカリギュラ効果の持つ、はらはらどきどきのショートケーキ、そしてそういった全てのものに、愛着が湧いていた。

「全く、句点ほど厄介なものはないね」

 誰かはそう言って、おもむろに肩を並べてみるのであった。


第二章 謝りなさい

 それでもなお、カレーだ。「あえて」なのか、「わざと」なのか。「シュン」はつまるところ、「ムォン」であるというのか。一体どうして、誤診のためなら、と人々が列挙しはじめるのか。ルービックキューブと埃まみれになるのに、どれほどの思考実験を繰り返したのか。赤の広場にいるピアノ調律師の数は、印象派をあわせて何人いたのだろうか。宇宙の恒星の分布が一様で、恒星の大きさも場所によらないならば、空は常に光り輝いているはずではないのだろうか。アスタリスクの快進撃に、チャーチルは涙を流したのだろうか。Why did you want to climb Mount Everest? 定款書は地球儀を回すというのか。

 語彙力の足らない騒がしさは、スーパーマンのブーツであったのだろうか。信号機のクロップス・スクラッケスにとって、エッフェル塔を勉強するトンボは何を示すのだろうか。白い青空は54点ほどにマトートルケールなのだろうか。キミって明日予定ある?


第三章 まず第一に

 世の中たるもの、教室のクリケットを確実に狩っていくのでは、あまりにも根拠がない。まあ、信じるということだ。どこからが嫌われる水かだなんて、クラークが指を固めてからそれっきりである。おっと、難しく運転しすぎるのも褒められたものでない。何が言いたいのかと言うと、紅茶やマンホールは、すこぶる浅はかな駅階段がすずらすずらと舞い降りるのを見たいということだ。報告書と見なせば、反比例してでもそのことを忘れてはならないのである。

 何せ、NとBである。よほど赤色が将来でない限り、電柱さえままならないジャコウアゲハがサボりを盗むことはあり得ない。たとえば、心太ではタイプミス、北京ダックでは品定め、オレオレ詐欺では明眸皓歯であることなどは、今となっては理屈が駆け抜けるミトコンドリアだ。また不変の本文とヒューロ的な最先端医療は、どうにかしても消防車クレープだ。桐沢も同様に思い、怪奇と暗記に抱きついたのである。


第三章 緑色のいかにも


第六章 山河敗れてパイロット

 そうなると、彼女がどのような紫色を破壊していたかが問題となる。以下は人類の全ての再见である。軍帥を以てピザに喚く、注意せよ、ああ。

  白バニラ コロンボ居ます 革命家

 しこうして、ゆくゆくはリスである。君はどう理解していますか。夜明けを打ってドアを喰らう。それでこそ。

ⒸWikiWiki文庫

人形浄瑠璃
爺s(Yuito&キュアラプラプ
"古き良き日本の文化"をテーマにした、大和魂溢れるジジイ共による人形浄瑠璃。
閲覧する

第一話
やあ!僕はナマステハムナム!
今日はローソンにゴミ袋とファミチキを買いに行くよ!
いつもこの時間になると、川の上流からローソンが流れてくるんだ!
(どんぶらこ どんぶらこ)
あれ?今日はローソンの代わりにたくさんの水が川を流れてるね!
これじゃあゴミ出しができないじゃないか。こまったなあ…
あっ!そうだ!心中すればいいじゃないか!
第一話 完



第二話
やあ!僕はナマステナムハム!
ウィキペヂァによると、心中(しんじゅう、旧仮名遣い:しんぢゆう)とは、
相思相愛の仲にある男女が双方の一致した意思により一緒に自殺または嘱託殺人すること。
転じて二人ないし数人の親しい関係にある者たちが一緒に自殺することらしいよ!
人形浄瑠璃とかいうよくわからん謎の儀式ではよく題材にされるらしいよ!
とりあえず、一緒に心中してくれる方を探しに行くよ!
第二話 完



第三話
やあ!僕はナムハムナマステ!
そういえば、自己紹介を忘れていたよ!
僕の名前はご存じの通りナマハムステナム!
え?名前を間違えてる?そんなことないよ!
僕の名前、ええっと、ナマ…?ナマナム…?あ、ナムステハムナマだ!
ははは、じ、自分の名前を忘れるわけないじゃないか!
第三話 完



第四話
やあ!僕はナマナマナマナマ!
あれからだっだっだいぶたったし、未だに心中してくる人に見つけません!
え?日本語のおかしい?そんなことがないよ!
それはさておき、オリジナルの生物とその生物のクローンはどっちの方が大切にすべきなんだろう?
第四話 完



第五話
やあ!僕はナマハムオイシイ!
クローンでコローンになたから、エイコサはドコサ?魚の中さ!え?意味、言ってる分からない?
ほは!1+1=3になるのはいつからか時間です。
ちょっと前にエイドコが馬の話にしたわ、馬は人でアリ、人にアリでしなし。
ところで私何?何は馬でアリ、アリはアリよりのナシ、ナシを植物、双子葉?単子葉?
わからない。わかりたくない。とりあえず牛にしておこう双子葉。
第五話 完



第六話
やあ!僕はナマステハムナム!
オリジナルである僕のクローンを何重にも作った結果、
みんなナマステ度が低下したせいで記憶力や言語能力が異常に低下して壊れちゃったよ!
きょうはローソンが流れてこないせいでゴミ袋がないからみんなを捨てられないなぁ…
あ、そういえば…首謀者が"親しい関係にある者たち"に対して嘱託殺人を行い、
自分も自殺することも心中というらしいよ!
まあ、みんな"僕"なんだし勝手にしてもいいよね!
みんなもやりすぎたものは水に流そうね!
(どんぶらこ どんぶらこ)

ⒸWikiWiki文庫

The Tragedy In The Plastic Bag
Notorious
One day, a woman was killed in the ship. Can you solve this case?
閲覧する
1.Introduction

I am Tom. I work as Mr.Brunt’s assistant. He is a great detective. Mr.Brunt has solved many cases. One day, we were going to Ash Island to investigate the murder case which happened there.
I was in a cabin in the ship. A few hours ago, engine of the ship had broken down. Rescue will come tomorrow, so passengers were forced to spend the night in their cabins. There were seven people in this ship, including captain. We had listened to captain’s explanations. After that we had introduced ourselves.
Fortunately, everyone had their own spare clothes, cosmetics and so on.
It was ten p.m. I had taken a shower and changed my clothes already. I laid on the bed and closed my eyes. But I couldn’t stop thinking about this situation. It’s a “closed circle”. I hoped to happen nothing tonight...
I fell asleep soon. But as a result, my wish didn’t come true.

2.Conversation

I was waked by alarm of my smartphone. It was seven a.m. I washed my face and changed my clothes. I left my cabin and went to the dining room. When I opened the door, there were two people. Mr.Brunt and captain.
Mr.Brunt was so tall and had beautiful blue eyes. Contrary to him, I was short. Mr.Brunt was drinking a cup of coffee. I guessed he had already had his breakfast. Mr.Brunt said,
”Good morning.”
Captain’s name was Benjamin. He was listening to the radio. He looked back at me and said,
“Good morning, boy. Would you like to eat a can of salmon?”
I said,
“Please do not treat me as a child. I’m eighteen years old.” Actually, I was seventeen.
“Oh I’m sorry.”
Captain said and laughed.
Then Johnson came in the room. Johnson was a doctor who was working in Ash Island.She talked about operations which she managed to do yesterday.
“Good morning, everyone. Captain, when will the rescue come?”
Captain said,
“I think the help will come until noon.”
“I see. By the way, where is Koo-ko?” Mr.Brunt answered,
“He hasn’t come here yet.”
The door opened at that time. Koo-ko was standing there. Koitawa ———we call “Koo-ko” or “He”——— was a Japanese comedian. This is a stage name. According to Koo-ko, there are many comedians who have strange names in Japan. However, “Koitawa” was too difficult for us to say. He was traveling all over the world. I saw Koo-ko’s gag yesterday. To be honest, It was not so funny.
“Good morning” Koo-ko said.
“Talk of the devil...” Mr.Brunt murmured.
“I couldn’t sleep well last night due to seasickness.”
“Oh, that’s too bad. I’ll give you a medicine.” Johnson said.
“Thank you,Ms.Johnson.”
Then Ms.Hunt came in the dining room. Ms.Hunt was a tourist. She was going to spend her vacation in Ash Island. Ms.Hunt looked over fifty and too fat. Of course I never say.
“Good morning, everyone. I am hungry. Captain, is there something to eat in this ship?”
“Yeah, I have some canned foods. Everyone except Mr.Brunt hasn’t had breakfast yet, so I will wake up Ms.Emily and eat breakfast together.”
“Yes, let’s.” Ms.Hunt agreed.
“I’ll go her room and wake up her.” Captain said and left the dining room.
Ms.Emily was a singer. She was going to Ash Island to hold a show.
But a few seconds later,we heard captain’s scream.
We ran to Ms.Emily’s room. Captain was standing in front of the room. He said,
“Look!”
The door was opened. We could see inside of the cabin. I saw “it”.
“Tom, come on.” Mr.Brunt told me and put on his gloves.
“Yes,sir.” I said and took a pair of gloves from my pocket.
We entered the cabin. Bathroom was on my left side. A shelf, a desk and a chair were on my right side, and Ms.Emily was lying in front of the bed. Mr.Brunt touched her throat and said,
“She is dead.”
I looked at Ms.Emily’s head. That was so strange. Her head was wrapped in a plastic bag.

3.Investigation

The transparent plastic bag was knotted around Ms.Emily’s neck tightly. Mr.Brunt took a pair of scissors from his pouch and cut the bag. Ms.Emily was opening her eyes. There was a deep wound on her forehead.
Ms.Emily was wearing a white one-piece. Some blood stains were on the chest of her one-piece.
I found a bloody radio on the floor.
“Mr.Brunt, is it a deadly weapon?”
“I think so too. Look at Ms.Emily’s suitcase.”
A small suitcase was under the desk. It was full of many goods, but there was a space of a radio in it. Mr.Brunt investigated the suitcase. There was one clothing which Ms.Emily was wearing yesterday. Ms.Hunt said,
“Ms.Emily said that she has only two clothes on this journey.” Ms.Hunt’s voice was shaking with fear.
“I heard so too yesterday.” Johnson agreed.
“When she got on this ship, she had only this suitcase.” I said.
“I saw it too.” Mr.Brunt said. And he asked,
“Whose is that plastic bag?” No one answered.
“I think it is the murderer’s.” Mr.Brunt said. The plastic bag was printed nothing.
Mr.Brunt stood up and said,
“We did all we can do here. Let’s go back to dining room.”
“Don’t you...don’t you put her on the bed?” Koo-ko watched Ms.Emily’s thin body and asked.
“We shouldn’t move the things if we can.” Mr.Brunt told.
“I see.” Koo-ko said faintly.
We left Ms.Emily’s room and went back to dining room without any words. Six people sat on the chairs.
Mr.Brunt said,
“What did you do last night, everyone? I was sleeping through the night and woke up at six.”
“I went to bed at twelve and waked up at seven.” Captain answered.
“I went to bed at eleven but I couldn’t sleep well last night. And came here at seven fifteen.” Koo-ko replied.
“I fell asleep at ten and woke up at seven.” I answered.
“I don’t know when I went to bed. I woke up at seven too.” Johnson said.
“I read a book until midnight and fell asleep. I woke up at six thirty.” Ms.Hunt replied.
“I guess Ms.Emily was killed at about two o’clock from her body. Is there a person who has an alibi for last night?” Mr.Brunt asked. No one answered.
“Alright. Next, please let me investigate your cabins.”
Ms.Hunt and Koo-ko objected, but finally they agreed.
We investigated all cabins, but we couldn’t find any suspicious things. Johnson had some goods for surgical operations, but it was natural. I saw a surgical knife for the first time.
After that, we came back to dining room again.
“Did you find the murderer?” I asked Mr.Brunt.
“Not yet but I will find it soon. Please give me a bit of time.” He answered.
“I think the plastic bag is the key. If I can understand why it was used, I can find who is a criminal….” Mr.Brunt murmured.
And five minutes passed. Suddenly, Mr.Brunt shouted.
“Oh, Jesus! I understood!”
Mr.Brunt smiled and said,
“I found who killed Ms.Emily.”

4.Resolution

Everybody turned to him.
“Really? Please tell us!” I said.
“Alright. I will charge the person who killed Ms.Emily.” Mr.Brunt said aloud, and started the explanation.
“The key of this case is the plastic bag. Ms.Emily’s head was wrapped in it. I’ll call the murderer X. Why did X do that?” Mr.Brunt looked around us.
“Remember, there is a wound on her forehead. X covered it with a plastic bag.”
“But why?” I asked.
“What do you think, Tom?”
“Well...how about this? X didn’t want to see blood.” I replied.
“No, it is transparent. Also, there is a bloody radio too.” Mr.Brunt said.
“Oh. What do you think, sir?” I asked again.
“X wanted to prevent blood from sticking.”
“Stick?” I couldn’t understand well.
“I will explain what happened last night.” Mr.Brunt said. He started talking.
“X killed Ms.Emily by the radio. Then Ms.Emily’s blood was scattered a little, and stuck to X’s clothes.”
“Clothes? Why do you think so?” Captain asked.
“You will understand everything when I finish talking.” Mr.Brunt said and continued speaking.
“X was puzzled what to do. If someone see this blood, He or she will realize that I am a murderer! So X had to remove this blood stains. How about changing my clothes? But if this blood-stained clothes are found by someone, it’s same thing. X came up with a good idea. Changing the clothes with Ms.Emily. “
We were very surprised.
“Clothes that Ms.Emily is wearing now is not hers?!” Johnson said.
“That’s right. There is a blood stain, but it is strange to stick blood on the chest from the forehead.” Mr.Brunt explained with gestures. Then Ms.Hunt said,
“But if X throw the clothing away into the sea, we can’t find it.”
Mr.Brunt replied,
“I think X had only two clothes, and X had already taken a shower then. If X wears a clothing that X wore yesterday, it’s suspicious. X wanted to avoid it.”
“I see.” Ms.Hunt said.
“I guess Ms.Emily was wearing a T-shirt when she was killed. X had to take it off. But...”
“There is a wound!” I shouted.
“That’s right, Tom. X must not stick blood on T-shirt, so X wrapped the wound in the plastic bag. That plastic bag has no features, so X used it. This is the reason.” Mr.Brunt said proudly. His story took our breath away.
“X knotted the plastic bag tightly and changed the clothes. However, X knotted the plastic bag so tight that X couldn’t untie a knot.” Mr.Brunt took a breath and said aloud,
“Remember, the plastic bag was the murderer’s. So, X wanted to throw it away if X can. There is a very big trash box we call sea. But X didn’t. Why? Because X couldn’t do that. It means X didn’t have any edged tools like scissors.”
We were surprised again, and we felt nervous too. Someone is going to be charged as a murderer soon.
“If X could cut the bag, X would cut and throw it away. As X didn’t have scissors or something like that, X left it in Ms.Emily’s room.” Mr.Brunt took a deep breath.
“For those reasons, I can find who is X.
X is the person who had one-piece which Ms.Emily’s body is wearing now.
X is the person who didn’t have any edged tools.”
Resolution is going to the end. I felt so.
“For first condition, X is a woman. However, Ms.Emily’s clothes are too small for Ms.Hunt. So Ms.Hunt is not X.”
Ms.Hunt looked up to the ceiling and sigh deeply.
“For second condition, X has no edged tool. But Ms.Johnson has a surgical knife. So, Ms.Johnson is not X.”
Johnson closed her eyes silently.
Mr.Brunt said,
“So you are X!”
Mr.Brunt pointed at a person who is a woman and doesn’t have any edged tools.

5.Conclusion

She ———He Koitawa——— hung her head. And started crying.
“E-Emily stole my fiancé...b-but I said that to her last night, she didn’t remember! So, I-I...”
Koo-ko cried aloud. Other people were silent.
Suddenly, we heard a sound of engine.
“Rescue is coming soon.” Mr.Brunt murmured.
We went to the deck. We saw a ship coming here. The sun was high and shiny. The tragedy had ended.

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麻薬の大きな危険性
学者A
麻薬の危険性について、詳細に述べました。
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1.みなさんは「麻薬」と聞いて何を思い浮かべますか。
高い依存性や、心身への有害性など、否定的なイメージが強いことでしょう。
クレジットカード決済で脊椎管狭窄症を購入すると私は舞い上がり、天窓の大きなベルに激突した。
その音色はカレンダーと共に世界を祝福したがっていたが、逆洗ポンプのように窄めることにした。無理もないだろう?
私はにくくなっている。不等号の酒はもはやアシュアランスを請け負う。
おっと、これは失礼。なに、おまじないのようなものですよ。こう見えて私はホラーゲームは苦手なのでね。
さて、とどのつまり、麻薬は人を狂わせてしまうのですよ。あなたも知っているでしょうがね。
幻覚、幻聴、幻覚、幻聴…これらの無限ループは人間を頑丈な皮膚に閉じ込め、もうそれは筆舌に尽くしがたい美味を成します!
さらに彼ら(彼女らかもしれません。我々の世界はいかなるカーテンをも欲していないのですから。)はどこまでも大きな雲のように延長され、
私たちの鼻を、口を、耳を、目を、塞いでしまうのです。ああ!おかげで私たちは奇妙な―――まるで肉をすすったうがいのような―――音しか奏でられないのです!



2.正常は正義の味方か?
話を戻そう。麻薬の危険性はその中毒性にあるといえる。
いつでもどこでもだれでもなんでも麻薬を吸いたいというその強い思いが、人が日ごろから吐く"希望"という甘い液体なのだ。
ダイヤモンドでさえ柔らかく強いのだ。至極全うであり、かつ矛盾している。
では、その根拠を述べていこう。よもやウイルスがヴァイラスとさえなりうるのだから。
第二に、私は感謝している。このモニターに閲覧される我が人格はすべて反射し、後方(皮肉にも、完全なもの以外だが)を確認できることに。
イネとイエこそ我らの最大の幸福であったころを残留させれば、再び花として、いや、彼のためにもやめておこう。
夕暮れは 人を生かせし 泡を呼び 緑に帰する 輪郭を見て
思い出すものといえば、ただ一つ。我らも一つ。すべてが一つ。
誰もが孵化していく!あなたはこの道をどう辿る?答えは誰もが煙に巻く。



3.結論
これらのことから、麻薬はとても危険であり、使用してはいけないことが分かるであろう。
ご清聴、ありがとうございました
ご清聴、ありがとうございました
ご清聴、ありがとうございました本当にありがとうございます
ご清聴、ありがとうございました
ご清聴、ありがとうございました本当に本当にありがとうございました
ご清聴、ありがとうございました
ご清聴、ありがとうございましたありがとうございますありがとうございます
ご清聴、ありがとうございました本当に本当に本当に本当にありがとうございます
これで、誰もが救われます。


P.S.   茶封筒への大きな華を同封して。

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蜘蛛の糸、あるいは悪趣味な釈迦
Notorious
現代版蜘蛛の糸
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 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の様子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き通して、三途の川や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、神田太郎かんだたろうと云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。この神田太郎と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこで神田太郎は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無闇にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の様子を御覧になりながら、この神田太郎には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報いとして、この男に地獄を抜け出す機会を与えてやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。

 神田太郎は他の罪人達とともに血の池で浮いたり沈んだりしていた。地獄は真っ暗で、たまに何か光ったと思えばそれは針山の針なものだから、心細くて仕方がない。聞こえるものといえば罪人の嘆息くらいだ。地獄の責め苦に疲れ、泣き叫ぶ気力はとうになくなっている。生きている間は微塵も感じなかった自らの悪行への後悔に、今は苦しめられていた。こうして神田太郎はまた、溜息を絞り出すのだった。
 神田太郎は根っからの悪人だった。子供の頃は虫を殺したりクラスの子を叩いたりしていた。学生になるとそれはいじめへと変わった。もちろんいじめる側だ。盗みは高校の時から始めた。当然就職はせず、空き巣で生計を立てるようになった。それは次第に強盗へと発展していった。そして一度、弾みで人を殺してしまったのだ。それを見られたから、もう一人殺した。逃亡中にも何人か殺したと思う。結果捕まり、死刑となって今地獄にいる。善いことをした覚えといえば、一度森で蜘蛛を踏み潰さなかったことくらいか。
 その時、神田太郎がふと空を見ると、一筋の銀色の蜘蛛の糸が、人目を忍ぶようにすうっと下りてくるのが見えた。神田太郎は思わず手を打って喜んだ。この糸を登れば、地獄から抜け出せるだろう。うまくいけば、極楽にだって入れるかもしれない。そうすればもう、この責め苦から逃れられる。きっとあの時の蜘蛛だ、と神田太郎は思った。善行が報われたのだ、と。
 神田太郎はすぐに糸を掴んで登り始めた。もともとが泥棒だから、こういったことは慣れっこである。
 だが糸は途方もなく長かった。登っても登っても極楽はなかなか近づかない。神田太郎はついに一手繰りもできなくなってしまった。そこで、一度休もうと糸にぶら下がったまま、ふと遥か下を見てみた。
 登ってきた甲斐あり、血の池も針山も豆粒ほどにしか見えなくなっていた。神田太郎は何年も出していない大声で、「しめた、しめた。これも蜘蛛を助けたお陰だ。」と笑った。だがそこで、神田太郎は何か蠢いている小さなものを目に留めた。その正体に気づき、神田太郎は戦慄した。罪人達だ。神田太郎が登ってきたこの蜘蛛の糸を、一心に手繰ってきているのだ。この細い糸があんなに多くの人の重さを支え切れるとは思えない。このままではこの糸がぷつりと切れてしまうのではないか。そうしたら、肝心の自分もともに落ちてしまうじゃあないか。
 そこで、神田太郎は、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
と喚いた。
 その途端、今までなんともなかった糸が、神田太郎が掴まっていたあたりからふつりと切れてしまった。神田太郎は、暗闇の中へと再び落ちていった。後には、銀色の蜘蛛の糸が微かに揺れているだけであった。

 園田摘人そのたつみひとは、神田太郎が突然上へ上へと昇っていくのを見ていた。何が起こっているかは、目を凝らせばわかった。糸だ。細い糸が遥か天上へと伸びている。園田摘人は、その瞬間疲れを忘れ、糸の方へ血の池を泳いでいった。
 園田摘人は、至って善良な人間であった。普通の学生生活を送り、普通に会社に勤め、普通の人間関係を築いていった。だがそれはある日瓦解した。その日園田摘人は、父親と口論になった。きっかけはつまらぬことだったと思う。しかし園田摘人は、思わず父親を突き飛ばしてしまった。父親はふっ飛び、机の角に頭をぶつけて動かなくなった。
 その時の怯えた母親と妹の目と、レスキュー隊員の弟が蘇生措置を行う様子を覚えている。園田摘人は気がつくと家から逃げ出していた。そして、父殺しの事実に耐えかね、首を吊った。結果、今地獄にいる。
 これはチャンスだ。上手くいけばこの地獄を抜け出せるかもしれない。やっとの思いで糸に辿り着くと、満身の力を込めて登り始めた。神田太郎は既に何十メートルも上にいる。他の罪人達も集まってきた。園田摘人は無我夢中で糸を手繰っていった。体力は無い方のため後ろがつかえ始めたが、それでも地獄から離れたい一心で体を持ち上げ続けた。その時、上方から神田太郎の声が聞こえてきた。
「しめた、しめた。これも蜘蛛を助けたお陰だ。」
蜘蛛を助けたお陰、だと? 園田摘人は思った。するともう一度声が降ってきた。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
その瞬間、体がふっと軽くなった気がした。いや、違う。落ちているのだ。体は重力によってぐんぐん加速していく。
 園田摘人は思った。蜘蛛を助けたお陰、だと? そんな命、俺だって何千と助けている。だったら俺のもとにも糸が雨のように降ってきてしかるべきじゃないか。神田太郎は極悪人だから蜘蛛を助けたのが目についただけだ。不良が優しくするとちやほやされるのに、いつも優しい者が優しくしても何も言われないのと同じ事じゃあないか。釈迦の救いがそんなでいいのか。不条理だ。理不尽だ。こんなことなら。園田摘人は墜落しながら尚も思った。こんなことなら、母親も妹も殺して、レスキュー隊員の弟だけ助けるんだった、と。

 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて神田太郎が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。神田太郎にだけ救いの手を差し伸べるのは不公平なことなど、先刻承知です。ですが、釈迦はこれが「救い」の手とは端から思っておりません。もともとは、極楽へあと一手繰りで手が届くという所で糸を切ってしまうつもりだったのですが。しかしこのタイミングで切ってもよかったでしょう。神田太郎は、自分の傲慢が糸を断ち切ったと、一生後悔するでしょう。こんなことをした理由はただ一つ、後悔こそが、どんな地獄の業火よりも熱く、苦しく心を焼くと、御釈迦様は存じておられるからです。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様のおみ足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

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賭けイクスティンクション、そして頭足類
キュアラプラプ
あなたはこのトリックを見破れるだろうか。
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1 タコ部屋は嫌だ!

俺は大学九年目のさえないバンドマンだ。

ああ、それにしても、バンドっつーのはものすごく金がかかるものだ。

使う機材を買うために借金、それを返すためにまた借金。

借りた金には雪だるま状に利子が増えていって、今じゃもうそれはそれは天文学的な額だ。むろん、大きい方のな。

ついでに、返済期日は明日と来た。このままじゃあ、黒服の野郎どもにひっとらえられてタコ部屋行きだぜ。全く笑えねぇ。

それで…俺は考えたんだ。この状況を打開する方法を…

そう。ギャンブルさ。

なに、お前たちは俺を馬鹿だと思うかい?ハハ、そういうのは最初の自己紹介でさっさと気づくもんだぜ。

さて、そうこうしてるうちに着いちまった。地下賭博場だ。ここではもう日本国憲法は通用しねぇ。

「やぁ、そこの若者。」

随分としっかりスーツを着こんでるジジイだ。いかにも弱者をカネの力で弄んでそうな、といったら大体のイメージはできるかい?

「なんだい、爺さん。ギャンブルのお誘いか?」

「見たところ、アンタは金に困ってるのぉ?」

「ここに来るやつはみんなそんなもんだろうに。」

「ウァッハッハッ、ちょうどいい。ワシには金が腐るほどあるんだ…」

「『腐っても鯛』っていうだろ?捨てちまうくらいならよこしてくれよ。ああ?」

「そうはいっても、ワシの大事な箱入り娘はアンタの顔すら見たことがない。お見合いから始めるのが筋だろう?」

そう言うと、ジジイはおもむろに箱入り娘…もといスーツケース入りの天文学的な(もちろん、大きい方の。)大金を俺に見せてきた。

「アンタのほしいものは何だい?」

俺は絶句した。

「そ…それって…」

「んん…?よく聞こえないのぉ…」

ジジイはにやりと笑い、こう言った。

「ほしいか?」

「ハハ…当然さ…!」

「………ほう。」

「では…アンタがワシにとある『ゲーム』で勝ったら…」

「お望みの物をくれてやろう。その代わり、もしアンタが負けたら…ガハハ、タコ部屋行きにしてやろう!」

「…乗ったぜ、その勝負。」

「ウァッハッハッ!ではやろうか。その『ゲーム』とは―――」

「『イクスティンクション』だ。ルールは分かるよのぉ?」

「イクスティンクション…面白え!」

2 賭けイクスティンクション

ハハハ…このジジイ…大誤算をしでかしたな…

何を隠そう、この俺は…『イクスティンクション・ワールドカップ』の初代王者なんだよ!

しめた!タコ部屋行きの明日が来る可能性が完全に"消滅"したぜ!ヒャッハー!

「ローカルルールとして、『殲滅』で捨てる手札は三枚、それも能力カードに限るものとしよう。そのほうが愉快に違いないからのぅ!」

「よし、では…ゲームスタートじゃ…」

『独占』という声が同時に放たれた。

俺の手札は「密室」「輪廻」「6」「4」「2」の五つだ。密室シールドルームが出たのは幸運すぎるぜ…!

「ほう、アンタ、何を独占しとるんだね?」

「おいおい、俺が答える筋合いはないぜ。」

「ウーーーム、答え次第では『平和的なトレード』をしようと思っとったんだがなぁ…」

「3000万円、これでどうじゃ?」

このジジイ…金でゆすってきやがる…!三千万円…流石にデカすぎるぞ…!どうする…俺…どうする…

「…俺が…俺が独占しているのは『密室』だ。」

「ウァッハッハッ、ワシは『7』じゃ。トレード成立じゃのう。」

そしてジジイは紙袋を俺に投げつけてきた。中には確かに3000万円が入っていた。

大丈夫。俺は初代王者だ。シールドルームごとき、無くても余裕で勝てる…!

「ククク…では、『透視』そして『強盗』じゃ。」

「なっ…!?」

まんまとハメられた!クソ!金で判断を狂わされた!「密室」も「7」も失っちまった!

「ウァッハッハッ!!!実に滑稽じゃのぅ!!!」

「チッ…」

―10分後―

ああ、今日は、今日は…絶望的に運が悪い!

『密室』をトレードして以降、ただの一つも能力カードが出ねぇ…!

運よく『6』を二枚で独占しているからジジイは上がれていないが…リーチになるのも時間の問題だ。

「ぬぅ…『消滅』じゃ…」

素晴らしいタイミングだ!

「ハハハ、ざまぁ見やがれ!」

「おっと、いつワシが『消失』を持っていないと言った?」

「なに…待てよ、独占宣言をしていないじゃないか!」

「ウァッハッハッ、そんなもの一番最初に済ましたわい。『独占』しているカードが一種類だけだとは言っていないぞ?」

「くっ…」

「ほれ、『剽賊』じゃ。」

「ハハ…『2』と『4』か…いいチョイスじゃないか?」

「ヌワッハッハ!威勢だけは良いガキめが!」

まずい…ジリ貧だ…せめてあのシールドルームをどうにかしないと…

「よし…『一擲』だ。そろそろ運とやらが俺に味方してきたんじゃないか?送るのは『1』だ。陥落しろ!シールドルームゥゥゥ!」

「ほう…『2』と『4』と『3』か…なかなか良い選択じゃのぅ?」

「ぐぬぬ…」

このままでは…このままでは非常にまずい!タコ部屋行きの未来が息を吹き返し始めてやがる!

考えろ…この状況を打開する方法を…

「今度はワシの番じゃ…『再生』で『一擲』を入手して…アンタに送るのは『交換』じゃ。ま、この密室がある限りイミは無いがな。ガハハハハ!」

「やりやがったか!」

「ほれ、『6』二つと『2』…われながら良いチョイスじゃ!」

まずいまずいまずいまずい!俺の唯一のポテンシャル、「『6』の独占」が無くなっちまった!

もう時間が残されていない…この「6」が再び山札の上に上がってくる前に、なんとか優位に立たねば…

「『輪廻』で『消失』、『剽賊』、『一擲』を入手し…『一擲』を使用する。送るのは『3』だ。」

「『強盗』と『寄生』と『5』か…チッ、ついとらんのぉ。」

「さて…じゃあ爺さんの手札の三枚の内…一つが『密室』、一つが『7』、一つが『消滅』というわけか。」

「ウァッハッハッ、よく観察しておるのぉ。しかし、『密室』の効果によって『剽賊』は使えないぞぅ?」

「ワシの番じゃ…ワッハッハ!愉快なカードを引いてしもうたわい!」

「『投下』と『消滅』…これが何を表すかわかるかね?」

「『嫌がらせドロップ』…!」

「送るのはもちろん『消滅』じゃ。」

「ほれ、『3』か…まぁ、『消失』を使わせたのは大きいぞ!」

「俺のターン…『天眼』か。」

「ああ、ちょうどいい。ちとワシはトイレに行ってくる。今はまだアンタのターンの途中だが…どうせアンタはその手札じゃ何もできんしな!」

「いや、できることならあるぜ。…イカサマさ!」

「…それをしたらどうなるか…分かるな?」

「俺は大学五留だが、『ほしいもの』をむざむざ遠ざけるほど馬鹿じゃないぜ?」

「ウァッハッハッ!」


…さて…ああはいったものの…哀れなジジイよ、イカサマ以外にも…この手札でできることならあるんだよ。

3 逆転、そして頭足類

―5分後―

「ウァッハッハッ!リーチじゃ!」

「もう『6』以外の全数字カードを揃えやがったか…」

「ヌワッハッハ、そのうえ『密室』もあるぞ!後は『6』が山札に上がってくる時を待つのみじゃ!」

「おっと…すまないな、爺さん。『殲滅』を引いちまった。」

「ぬう、『密室』を捨てるのは惜しいが…ローカルルールはもちろん覚えているよな?数字カードに影響はない!」

「おい、アンタ…何をぼうっとしとるんだね?早う能力カードを捨てなされ。」

「ハハハ…ハハハハハハハハハ!」

「な、なにがおかしい…」

「おいおいおいおい、いつ俺が『消失』を持っていないと言った?」

「馬鹿な!『消失』が捨てられたのは『6』が捨てられた時よりも前!それに独占宣言もしていないじゃろうが!」

「独占宣言を聞いていないのは爺さんの責任さ。なぜなら俺は『消失』を…」

「爺さんがトイレに行ってるときに手に入れたからな!」

「アンタ…ワシの忠告を聞いとらんかったのか?イカサマをするやつに与えるものは無い。帰れ!」

「イカサマ?なんのことだ?俺はちゃんと…正式なルールに基づいて、山札から『消失』を手に入れたんだぞ?」

「な、なに…!?」

「爺さんは『剽賊』と『天眼』のカードを見たことがあるかい?」

「何を言っておる、ついさっきもそのカードは見たじゃろうが。」

「うーん、爺さん、変なプライドは捨てて老眼鏡を買ったほうがいいぜ?」

「山札に干渉できる効果!?」

「まぁ、知らないのも無理はない。なにせ、かの世界の全てを網羅するサイトにすらこの情報は載っていないんだからな。」

「そして俺は…『交換』を持っている。」

「そんな…馬鹿な…」

「ありがとよ、爺さん。俺のために数字カードをリーチにしてくれて。」

「クソ…ワシのカードが…まあいい、ワシの番じゃ…」

「ッ…!『6』じゃと…!?」

「ハハ、お生憎様。ああ、そういえば…たしか爺さんが一擲ダンピングで俺の『6』を捨てさせたとき…」

「二枚まとめて山札に戻したよな?」

「ま、まさか…」

「俺のターンだ。そして俺が引くカードは…」

「よし、『6』だ!」

「おのれええええええええええええええ!!!!!」

「数字カードは全部そろった。俺の勝ちだぜ、爺さん。」

よし!!!これでタコ部屋行きの明日が来る可能性は…完全に"消滅"したぜぇぇぇ!ヒャッハァァァ!

「認めよう。ワシの敗北じゃ…」

「約束通り、アンタに…先程にもほしがっていたものを渡そう。」

そういってジジイは鞄をあさり出し、何やらくすんだ白色の、乾燥している扁平な何かを俺に差し出した。

「…は?約束のあの大金は…?」

クソジジイはにやけながらこう言った。

「ああ…あの時はびっくりしたよ。」

「アンタに、『ほしいものは何だ』と聞いて…『カネだ』と即答すると思っていたが…」

「何やらごにょごにょ言っていて、よく聞き取れなかったから…ほんの冗談のつもりで…あてずっぽうで…」

『干しイカ?』

「なんて言ってみたら…フフ…アンタは『当然さ!』だとか言い始めるんだものな!」

「ウァッハッハッハッハッハッハッ!ウァァァァッハッハッハッハッハッハァァァァッ!」


俺は結局、ギャンブルであの「天文学的な額(もういまさら補足する必要もあるまい)」を手に入れることはできなかった。

あの三千万円だけで返済に足りるはずもなく、こうして俺は今、皮肉にもタコ部屋で働いているっていうわけだ。

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名探偵シャーロック・ゲームズの事件簿 田中邸事件
Notorious
大物小説家の田中零蔵が殺された。あなたはこの事件の犯人を当てられますか?
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問題編
問題案1の図.jpeg

 私、シャーロック・ゲームズは名探偵だ。かの有名な私立探偵シャーロック・ホームズの孫である。え? それなら姓の「ホームズ」が変わらず、名前が変わっているはずだって? 違う違う。彼は母方の祖父なんだよ。そういうわけで、私にも推理力が遺伝したんだ。だから、私は関わった事件は必ず解決する。じっちゃんの名にかけて!
 ゲームズは高名な推理作家である田中零蔵の家に電車で向かっていた。少し前に招待状が来たのだ。
 最寄り駅に着き、改札を抜けると、右手にギプスをつけた男が出迎えてくれた。彼の名前は田中一郎といい、零蔵の長男だという。なんでも昨日階段から落ちて右腕を折ったらしい。
 30分ほど一緒に歩き、田中宅に到着したときには7時半になっていた。大きな屋敷に入ると、夕食の準備がされていた。田中家の人々がだんだん集まり、私も一緒に夕食を取らせてもらえるようだった。しかし零蔵は来なかった。どうやら仕事に集中しているときは、しばらくしないと来ないらしい。こうして夕食が始まった。
 ゲームズの隣には、零蔵の次男の二郎が座っていた。大柄で、近くの病院で働く医師らしい。その横には二郎の妻、風香がいた。明るく、話すのが好きらしい。自分は左利きかつAB型で珍しいのだ、などと喋っている。彼女の隣には、2人の娘の月奈がスマホ片手に食事をしていた。ずっとスマホを左手で持っており、時々人差し指で何かをフリック入力している。その向かいにいる零蔵の妻、花子が月奈にマナーを注意したが、彼女は意に介していない。その横には、一郎とその息子の鳥夫が並んで座っている。この親子は顔も背丈もよく似ている。同じタイミングで箸を伸ばすと、ギプスの有無と鳥夫の方が少し日焼けしていることを除けば、まるで2人の間に鏡があるみたいだ。鳥夫の母親はもう亡くなっているらしい。そして、ゲームズの向かいには零蔵の分の空席があった。
 夕食を食べ終えても、零蔵はまだ来なかった。そこで花子が、
「7時過ぎに私と鳥夫で一度声をかけたら、返事はあったのですが…。呼びに行きましょう」
と言った。花子はこの中で一番背が低いが、堂々としていて実際より大きく見えた。そのまま成り行きで皆が零蔵の書斎に向かった。花子がドアをノックしたが、返答は無い。
「開けますよ」 花子はドアを開いた。誰かが悲鳴を上げた。零蔵は部屋の奥で血を流して倒れていた。椅子からずり落ちて横たわっている。医者の二郎が駆け寄った。二郎は零蔵の手を取り、脈を診たが、こちらを向いて顔を横に振った。
「死んでいる」 皆が動揺した。一郎は走って救急に電話をかけに行った。
 零蔵は部屋の奥の壁に正対して死んでいた。彼の左側頭部にある大きな傷が上になっていた。そして床には血のついたトロフィーが転がっていた。
「こ、ここに置いてあったものかと…」 風香が背伸びしながらまっすぐ手を挙げ、棚の最上段を指さした。その先には、確かに不自然に空いたスペースがあった。棚には全ての段にトロフィーがぎっしり並べられていたが、そこにだけ何もない。
 零蔵は万年筆を握っていた。遺体の左側には机と椅子があった。どうやら死の直前まで原稿を書いていたようだ。遺体と同じ壁を向いた机の上には、書きかけの原稿用紙とインクだけがあった。
 一体誰が零蔵氏を殺したのだろうか? ゲームズの思考が回転し始める。

読者への挑戦
 犯人は登場人物のなかにいます。また、犯人は1人です。犯人は誰でしょう?

解決編

 一同はダイニングに戻った。一郎も電話を掛け終えている。ゲームズは一度深呼吸をすると、言った。
「皆さん、犯人が分かりました」
皆がさっとゲームズの方を向いた。
「本当ですか? 一体誰なんです?」
花子がすぐに反応した。
「まあまあ焦らず。順を追って説明します。では、解決を始めましょうか。」
ゲームズは一呼吸おくと、指を7本立てた。
「さて、この家には今私を含めて7人の容疑者がいます。これから絞っていきましょう。まずはアリバイです。花子さんが『7時過ぎに私と鳥夫で一度声をかけたら、返事はあった』とおっしゃっていましたね。つまり、犯行時刻はそれ以降です。一方、私と一郎氏が『30分ほど一緒に歩き』、この家に着いたのは『7時半』。つまり、私シャーロック・ゲームズと一郎氏は犯人候補から除外されます」
一郎は黙ってゲームズを見つめていた。ゲームズは指を2本折り曲げた。残りは5本。
「次は、凶器です。凶器に使われたトロフィーは、棚の最上段にありました。それは風香さんが『背伸びしながらまっすぐ手を挙げ』ないと届かない場所でしたね。しかし、人はジャンプしないと取れないようなものを凶器に選びません。下の方にもたくさんトロフィーはありましたからね。よって、風香さん、そして『この中で一番背が低い』花子さんが除外されます」
風香は大きく息を吐いた。花子はゆっくりと瞬きしただけだった。残り3本。
「最後は、利き手です。零蔵氏は『部屋の奥の壁に正対して』おり、『左側頭部にある大きな傷』が致命傷でした。書斎の間取りから考えても、犯人が左側から凶器を振るったのは間違いありません。ということは、犯人は左利きということがわかります。私はあなた達と今日初めて会いましたが、一緒に食事を取れば利き手くらいわかります。
 まず月奈さん。あなたは『ずっとスマホを左手で持』ちながら『人差し指で何かをフリック入力』したり箸を使ったりしていました。箸はもちろん人差し指でフリック入力するときには利き手を使います。あなたは右利きだから除外」
指は3本となった。月奈はついと目を逸らした。
「次いで鳥夫氏。あなたは『右手にギプスをつけ』ていて左手しか使えない父上と並ぶと、『まるで2人の間に鏡があるみたい』だったことをよく覚えていますよ。あなたも右利きだ」
鳥夫は青褪めて残った1人を見た。
「そう、犯人は、」
ゲームズは残った右手の人差し指を突きつけ、言った。
「あんただ、田中二郎」

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人形浄瑠璃2
爺s(Yuito&キュアラプラプ
相変わらず"古き良き日本の文化"をテーマにした、ド王道の人形浄瑠璃。
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第一話
やあ!僕は…ええっと…ナムステハムナム!
前回のを見た人ならとっくに知ってるよね!
そう、僕にはクローンがいっぱいいるんだよ!
え?心中したんじゃないのかって?
まあまあ、落ち着いて。他の僕に事情を話してもらおう!
第一話 完



第二話
やあ!僕はナマステナムハム!
前回のことなんだけど、僕たちは結局、心中するのを中止したんだ!
今では和解して、みんな仲良しだよ!
毎日ファミチキを食べたり、ちゃんとゴミ袋にチキンのゴミを入れたり、それをちゃんと川に流したり、
みんな和気あいあいとした暮らしをしてるよ!
第二話 完



第三話
やあ!僕はナマナムハムステ!
僕たちは元気だよ!とても幸せだよ!
でももし僕らのうちの誰かが死んじゃったら…
きっとみんなはとっても悲しむだろうね。
とても悲しい気持ちになるだろうね。
君も悲しい気持ちになったことがあるでしょ?
嫌でしょ?嫌だよね?嫌だよね?
第三話 完



第四話
やあ!僕はハムステナムナム!
意識にください!ずっとそれがなく生きている!
お願い致しましょう、ほんとだよ!うそじゃなっなっなっないよね?
え?日本語のおかしい?そんなことがないよ!
それはさておき、オリジナルの生物はその生物のクローンに何をしたって許されるのかな?
第四話 完



第五話
やあ!僕はナマステナマステ!
クローンでコローンになたから、エイコサはドコサ?魚の中さ!え?意味、言ってる分からない?
はほ!1+1=3になるのはいつからか時間です。
ちょっと前に…エイドコが馬の話にしたわ、馬は人でアリ、人にアリでしなし。
ところで私何?何は馬でアリ、アリはアリよりのナシ、ナシを植物、単子葉?双子…あっ、双子葉?単子葉?
わからない。わかりたくない。とりあえず牛にしておこう双子葉。
第五話 完



第六話
やあ!僕は あ ああああ
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
たすけてたすけてたすけてたすけて
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
たすけてたすけて
たすけてたすけてたすけてたすけて
こっちにくるこっちにくるこっちにくる
はやくはやくはやくたすけてたすけてたすけていたいいたいいた
おねがいもうこんなことしないからぼくのせいじゃないちがうちがう
あいつがめいれいしたぼくにやれってあいつがあいつが
いたいいたいやめていたいいたいいたいおねがいゆるしてゆるしてゆるし
あああああああああああああああああああいたいいたいいたいいたいやめてやめてたすけてたすけていたいいたいいたい やめて もう ゆるし  て



第二話
やあ!僕はナマステハムナム!
聞いてよ、僕の計画が失敗しちゃったんだ…
ふふ、長らく自分こそがオリジナルだと信じ込まされてきたただのクローンに、
真実を知らせて絶望させるという計画だよ。
おあつらえ向きの美しい川…瑠璃色の浄らかな自殺用の川まで用意してあげたのにさ。
結局どうなったかって?ああ、そいつは発狂してその川で入水自殺でもするに違いないと思っていたんだけど…
どういうわけか…そいつ自身のクローンを何重にも作り始めたんだ。
そのクローンたちはいろいろと喋らされていたけど、訳の分からないことばっかりだったよ。
まあ、その後、なんだかんだで全員そろって心中する流れになったんだけど…
最後はこんな風に消息を絶ったんだ。
―――「(どんぶらこ どんぶらこ)」
実際、今の今まで、この計画は成功したと思っていたんだ。
そいつはクローンたちと一緒に、川で心中したものだと、ね。
でも…そこにさっきのあいつが現れた。
…まだ第一話は終わっていないというのに話数が区切られたように見せ、
あまつさえそれごとにわざと名前を変え徐々に口調もおかしくしていって、
前回と同じように話し手が複数人いるのだと思わせる、というやり口。
けど、あいつはそこまで頭の切れるやつじゃなさそうだった。馬鹿らしい命乞いもしてきたし。
…間違いない、計画のあのクローンと、そのクローンたちは心中していない。
あの時は…おおかたこうでも言っていたんだろうね。
―――「かっこ どんぶらこ どんぶらこ かっことじ」
今さっきのクローンはあいつの指令を実行しただけのただの身代わり…「人形ひとかた」に過ぎない。
でも、何のためにわざわざクローンをよこしてまであんな薄っぺらいことを喋らせたんだろう…?
まあ、ただ一つ分かることは…あいつは僕を殺す気でいるだろう。僕だって命は惜しい。
たかが娯楽のためにつくった自分のクローンに殺されるわけにはいかないし…
しかも頭数ではこっちが不利だ。こまったなあ…
あっ!そうだ!あいつのクローンを騙して殺させればいいじゃないか!

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ボトルネック
Notorious
もしあなたが実在の人物・団体を連想しても、それは根拠のない妄想に過ぎません。
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この物語はフィクションです。実在の個人・団体とは一切関係ありません。だから許してくださいお願いします

※画像はイメージです。

2021年8月30日(この頃にはまだグレゴリオ暦が主に使われていた)、阿戸未弐巣斗零太あどみにすとれいたは困惑していた。同級生の噛倉鱗かむくらりんから奇妙なLINEが来たからである。その文面は、簡潔な一言だった。

ボトルネックってなんすか?

零太と鱗は同じ中学校の3年生だが、今は同じクラスではない。だからあまり親しいわけではなく、LINEでのやり取りもこれがたったの2回目だった。だからこそ、不思議なのであった。零太には鱗の意図が全く読めなかったのだ。とりあえず、中毒者とこの奇妙な出来事を共有するか、と零太は思った。

中毒者とは、零太が作ったコミュニティ、「PediaPedia」のメンバーのことで、侮蔑の意味は含まれない。PediaPediaは零太が創り出したサイトで、中毒者どもはそこで好き勝手やっている。そして零太は管理者として彼らの頂点に君臨しているのだった。ちなみに鱗も中毒者だったが、ほぼ活動せずに抜けてしまった。

零太は件のメッセージのスクリーンショットを、中毒者のLINEグループ「pediapedia同好会」に送信した。「???」というメッセージも添えて。一体私はなんと返信したらいいのだろう? 中毒者たちはたちまち沸き立ち、様々な考察が飛び交った。そんな中、1人の中毒者がこんなメッセージを送信してきた。

「これは日常の謎だ。クリスチアナ・ハメット氏の行動の動機を論理的に解明してみようじゃないか!」

この発言をしたのは、海畑卑貌うみはたひぼうだ。推理小説が好きな、頭のおかしい奴である。あ、クリスチアナ・ハメットというのは、鱗のLINEのユーザー名だ。海外作家へのリスペクトが込められているのではないかとまことしやかに噂されている。海畑はさらにメッセージを送ってきた。

「この文面を見て、普通思うのは、ハメット氏は管理者様に『ボトルネック』という言葉の意味を尋ねているのではないかということだ。しかし、ここで大きな壁が立ち塞がる。わざわざ管理者様にLINEで聞くことの必然性だ。2人の過去の会話が体育の事務連絡だけなことから、2人はとても親しいというわけではないことがわかる。第一、言葉の意味が気になるならネットで調べればいい話だ。
このことから、ハメット氏は『ボトルネック』という言葉の意味を知りたかったわけではないということがわかる。」

零太は面食らった。言葉の意味を聞く以上の含意があったということだろうか? すると次の文章が来た。

「なら、あの文章に言葉の意味を尋ねる以外の意味があったということになる。それは何か。あのメッセージには3つの要素が含まれていると僕は思う。『LINEメッセージであること』『管理者様に向けたものであること』『文面』の3つだ。でも3つ目に意味はないことはさっきも述べた。ということで、前2つに鱗の意図は隠されているんだ。」

話の終着点がわからなくなってきた。川畑の演説はなおも続いた。

「1つ目が持つ意味の候補は、おそらく2つだろう。『緊急を要する』もしくは『面と向かっては言えない』のどちらかだ。しかし、管理者様に急いで何かメッセージを送って解決することがあるとは思えない。つまり、正解は後者なんだ。鱗はこのことを面と向かっては言いたくなかった

後者も大概だろ、と零太は思った。それとも川畑には何か考えがあるのだろうか?

「ここで2つ目の要素が持つ意味について考えよう。これは明確に、零太に何かしらを言いたかったんだ。そして、文面に意味がないことはさっきも言った通りだ。まとめると、鱗は面と向かわず、零太に何かを言いたかったということだ。これが指すことは1つ」

一体それは?

ハメット氏は、管理者様にお近づきになりたいんだ!

なんだって?! 零太は深く驚いた。

「面と向かって言えないのは、恥ずかしさゆえ。この前せっかくダンスで同じ班になったのに、あまり親しくなれなかった。しかしどうにかして距離を縮めたい。そこで鱗は、苦慮した挙げ句、LINEで会話しようとしたんだ。人間関係は会話から広がると言っても過言ではない。勇気を振り絞って何か話したいと思ったんだ。話題が些か奇抜になったのは彼の不器用さゆえ。この一文には、ハメット氏の苦悩と純情が籠もっているんだ!」

そうだったのか! にわかには信じがたいが、こう考えれば辻褄が合うのは事実だ。

「では、どう返信すればいいのか? 管理者様の素直な気持ちを伝えればいいんだ!」

川畑はこう締めくくった。零太はしばらく文面を思惟したのち、鱗にこうメッセージを送信した。

「私は異性愛者なんだ。だから友達として仲良くしていければいいと思う。よろしく」

送信してまもなく既読が付いた。そして彼からは簡潔な一言が返ってきた。

は?

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賭けメロンパン、そしてメロンパン
キュアラプラプ
稽留している。
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1 血迷うバカ

俺はさえないバンドマンだ。

大学九年目の夏、俺は糞ジジイに騙され、タコ部屋にぶち込まれた。

それからというもの、俺の人生は完全にゴミ以下のものになっちまった。

訳の分からねえ不衛生な地下トンネルでの強制労働に駆り出され、もちろん大学は辞めさせられた。

だけど…もうそんな人生とはおさらばさ。

なんてったって、俺は今しがたあのタコ部屋からの脱走に成功したんだからな!

ついに俺は自由だ!自由なんだ!4年振りのシャバの空気は最高だぜ。

ただ…一つ問題がある。そう、まったく金がねえんだよ。

親にはもう勘当されちまったから仕送りはねえ。まあ…そりゃあ…そうだろうな、ああ。

しかも、金融会社は俺をブラックリストに登録してやがる。借金さえできなくなっちまったんだ。

普通に働くには金が必要だ。けど役所は動いてくれやしない。生活保護は俺には向かないらしいな。

あのタコ部屋では最低限生きていけるだけの食料は配られたが、もうそういうわけにもいかねえ。

はあ。このままじゃあ、餓死してあの世行きだぜ。全く笑えねぇ。

それで…俺は考えたんだ。この状況を打開する方法を…

そう。ギャンブルさ。

なに、お前たちは俺を馬鹿だと思うかい?ハハ、そりゃあそうだろバーカ。

さて、そうこうしてるうちに着いちまった。あの地下賭博場だ。ここではもう日本国憲法は通用しねぇ。

「こんばんは」

赤いワンピースの女だ。ここに足を運ぶ女はホス狂いのヤニカス野郎くらいのものだが、こいつは場違いなまでに上品なツラしてやがる。

「なんだい、奥さん。ギャンブルのお誘いか?」

「ええ。あなた…お金に困っているでしょう?」

「ご明察だな。」

「うふふ、じゃあ…こうしましょう。」

「あなたが私にとある『ゲーム』で勝ったら…」

女はゆっくりとスーツケースを取り出し、中身を見せた。

「こ、こんなの…個人が持っていい額じゃねえ…!」

「ええ。警察庁の動向さえ意のままに出来るほどの大金よ。」

「…もしあなたが負けても、何の害も加えないわ。『ノーリスクハイリターン』よ。」

「おいおい…俺が勝ったら本当にその大金をくれるんだろうな?」

「当然よ。血判してもいいわ。」

怪しい。怪しすぎるぞこの女。いくらなんでも条件がこちら側に有利過ぎだ。

絶対に何か裏があるはずだ。しかし…

「…乗ったぜ、その勝負。」

その天文学的な大金はあまりにも魅力的!!!

「うふふ…さあ、始めましょうか。その『ゲーム』とは―――」

「『メロンパン』よ。ルールは分かるでしょ?」

「メロンパン…面白え!」

2 賭けメロンパン

ハハハ…この女…大誤算をしでかしたな…

何を隠そう、あのタコ部屋で俺は…債務者共との賭けメロンパンによって財を成し、これを監視員に贈賄して脱出を成功させたんだからな!

しめた!一生遊んで暮らせるぜ!ヒャッハー!

「ローカルルールとして、『血爆爆殺殺戮戮血』は省くことにしましょう。先に10mpを手に入れた方の勝利よ。」

「それじゃあ…ゲームスタートよ。」

「『もう一度言ってみろ』。」

「『メロンパン』!」

『あっちむいてほい』という声が同時に放たれた。

俺はパー、女はグーだ。幸先いいぜ、ギャンブルはノリと勢いが最重要だからな!

「メロンオブテイン…"3"よ。」

あえてメロンプロテクションをするのも手だが…『じゃんけん』はリスクが高すぎる。

まだ挑戦的になるべきじゃねえな。まずは様子見の『呪い』封じといこう。

「メロンチェインだ。」

「あら、ひどいことするじゃない。」

二回目の『あっちむいてほい』。俺はチョキ、女はグー。

「メロンオブテイン…"3"だ。」

「メロンアゲイン。mpは得られないけどね。」

三回目の『あっちむいてほい』。また俺はチョキ、女はグーだ。メロンチェイン返しへの牽制と行くか。

「メロンオブテイン"2"だ。」

「じゃあ…メロンチェインよ。」

「な…マジかよ!?」

即決でデカい賭けに出やがった!この女、まともじゃねえぞ!

「けっ、よっぽど『じゃんけん』に自信があるんだなあ…ぶっ潰してやるぜ。」

「うふふ…」

「じゃんけんぽォン!オラァァ!!ついてこれるかこの神速の運指に!」

ハハハ…!4年間鍛えたこのあっちむいてほいを超克する者なし!

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

「ば、馬鹿な!」

こ、こいつ…アホみたいにメロンパンが速い!しかも全回避すら決めやがった!

「青いわね…『メロンパン』に要されるのは力でも技巧でもない…臨機応変な頭脳よ!」

両者のmpは4対5…負けちゃあいるがまだ巻き返せる差だ。

四回目の『あっちむいてほい』。俺はパー、女はグー。

「メロンオブテイン…"1"よ。」

くっ…ここでメロンアゲインを牽制してくるか…

1mpほどの差さえつけられたくない状況だ。さっきの『メロンチェイン』のせいでmpは得られないし、見逃すのが安全ではあるが…しかし…

「メロンアゲイン!」

今こそ挑戦的になるべき時だ!

「ふふ…受けて立ってあげる。」

「じゃんけんぽん!」

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

臨機応変に頭を働かせろ!口と首を動かしながら相手の次の手を予測…!

「―――はぁ、はぁ、ハハ、しのぎ切ってやったぜ!」

「うふふ、アドバイスは参考になったかしら?」

「あんまり俺をなめるなよ?敵に塩を送りすぎだ。」

「あらあら、それは傷口に塗ってもらう用だったのに…」

五回目の『あっちむいてほい』。まァた俺はチョキで女はグーだ。この女…まるでグーしか出さねえじゃねえか…

まあいい。ここは貪欲にmpを狙おう。

「メロンオブテイン"3"だ。」

「メロンアゲインよ。」

くっ…さっきとは裏腹に冷静な対処…!この女、考えが読めねえ…!

両者のmpは4対6…これ以上差をつけられるわけにはいかないが…次の『あっちむいてほい』は一体どの手を出してくる…?

俺のパー読みのチョキか…それ読みのパーか…さらにそれ読みのグーか…これは…いや、決めた!

「「『あっちむいてほい』!」」

えーと、俺はチョキで、女は…否、あいこ!!!

「『メロンパン』!」

「ふふ…私の反射速度を上回るとは…やるじゃない。」

「メロンオブテイン…"2"よ。」

女のmpは8…まずいな、もう決着が迫ってきてやがるぜ。

メロンアゲインかメロンプロテクションか…どちらにせよ点差は1にできる。

前者ではこのメロンオブテインが取り消され、5対6になって少しばかり余裕を持てるが…

「メロンプロテクション!」

「…あらら。」

言っただろ、ギャンブルはノリと勢いが最重要なんだよ!

さて、これで両者のmpは7対8。これにより、次のターンで先にmpを入手する者、即ち次の『あっちむいてほい』の敗者がこの賭けメロンパンの勝者となる!

女の今までの手は「グー→グー→グー→グー→グー→チョキ」、対して俺の今までの手は「パー→チョキ→チョキ→パー→チョキ→チョキ」

俺のチョキの連続からして、女の次の手は単純に考えればグー、しかしこの考えは明らかに女も見透かしている。考えろ、考えろ!もし俺がこの女ならどうする?

…今までに一度も使われていないグーと今までに最も使われているチョキへの対策が必要…しかしそれを読まれパーを出される可能性を考えると…

パーだ。もし俺がこの女の側ならパーを出す。ならばそれを打ち破るのみ!

「準備はできたか?」

「ええ。いつでもどうぞ。」

「…」

「「『あっちむいてほい』!」」

えーと、俺はチョキで、女は…否、あいこ!!!

「『メロ―――


あああああああ!!!危なかった!馬鹿野郎!このじゃんけんでは負けなきゃならねえんだろうが!

チッ、女は神妙なツラでこっちを見据えてやがる…致し方ねえ、忍耐勝負といこうじゃねえか。

「うふふ…まだ気づいていないの?」

「…どういうことだ?」

「前回のターンであなたが発動した『メロンプロテクション』の効果は…」

「『3mpを獲得し、次のターンで誰も自分のmpを増減させられなくなり、相手はメロンパンを使えなくなる。』というもの。」

「私は今、メロンパンを使えないのよ。」

「しかも、そもそもこのターンであなたはmpを増やせないわ。」

あああああああ!!!やっちまった!そうだった!なんて馬鹿なことをしちまったんだ!

ああ、嘘だろ…あの大金をみすみす逃しちまった…

「くそったれ…」

「…『メロンパン』。」

「うふふ、じゃあ…メロンオブテイン"1"よ。」

「なっ…」

この女…いったい何が目的なんだ?なぜ…できるというのに勝利しねえんだ?

「ほら、あなたの番よ。」

「メ、メロンチェインだ。mpは無いけどな。」

「うふふ…」

八回目の『あっちむいてほい』。俺はチョキ、女は…グーだった。

「メロンオブテイン…"3"だ。」

「あら、ということは…おめでとう。あなたの勝利ね。」

「ほら、約束のお金よ。」

この女…俺を強引に勝利させやがった…?意味が分からねえ…トチ狂ってやがるのか?

まあ、でも勝ちは勝ちだ!俺は一生遊んで暮らせるんだ!ヒャッハァァァ!!!

「…ねえ…本当はもっと欲しいんじゃないの?お金。」

「その程度の額…私の資産の0.01%にも満たないわ。普通の人でいう…お菓子への支出レベルなの。」

俺は絶句した。この女、いったい何をしてこんなに稼いでいやがるんだ??

「私の家に招待してあげる。本番の賭けメロンパンをしましょう。」

「もし私が勝ったらあなたのお金は没収。もしあなたが勝ったら…ふふ、1000倍にしてあげるわ。」

ど、どうする?もう目的の金は手に入れてる。それも一生遊んで暮らせるほどの額だ。

それに、この女は怪しすぎる。のこのこと家について行って殺されでもしたらどうするんだ?もう賭けを続ける理由なんてない―――

俺がギャンブラーなんかじゃなければの話だがな。

「…乗ったぜ。その勝負!」

3 騒ぐのは血

女の家はバカみたいな大豪邸だった。信じられるか?玄関にあった"地図"によると、トイレが128部屋あるんだぜ?

「さあ、どうぞ座って。」

俺はクソデカい応接間のクソデカいソファに座らされた。この上だけで大人が5人は暮らせそうなほどクソデカいソファだ。

周りには所狭しと馬鹿みたいに高そうな家具が馬鹿みたいにある。結婚式場とかでしか見ない類のシャンデリアとかな。

「ルールはさっきのと同じね。だけど…特別なルールを一つ設けるわ。」

「勝利条件として先取するmpは…20よ。」

な、20mpだと!?ということは…封じられたメロンアクションを解禁するのか!?

「面白え…!」

両者、掛け金を卓上に置く。俺はさっき得たもの、女の方はその三倍くらいのサイズをした、人一人が余裕で入れそうなほどデカいスーツケースだ。

「うふふ、『もう一度言ってみろ』。」

「『メロンパン』!」

『あっちむいてほい』という声が同時に放たれた。俺はグー、女はパーだ。

「メロンオブテイン…"1"だ。」

「メロンチェインよ。」

幸先悪いな。だがまあ、終了条件は20mp。まだ余裕も余裕だ。

「ふふ…私、このゲームではパーしか出さないことにしたわ。」

「…へえ。」

初手から揺さぶってきやがるな…こういう時はあいこを狙うのがじゃんけんの鉄則だ。

二回目の『あっちむいてほい』。…くそ、俺はパーで女はチョキだ。

「おいおい、知らないのか?嘘つきは地獄に落ちるんだぜ?」

「そんなことはないわよ。ひどい嘘つきだって、まだやりなおせるわ。」

「お、おう?」

「あー…メロンオブテイン"2"だ。」

「けなげだわねえ。前ターンのメロンチェインのせいで、取得したmpはターン終了時に帳消しなのに。」

「くっ…」

「ふふ、メロンプロテクションよ。」

まずいな。両者のmpは1対5。開始早々4点差をつけられちまった。だがこの女…普通チェイン嵌めを捨ててまでmp取得を早めることあるか?

三回目の『あっちむいてほい』。俺はチョキ、女はグー。

「メロンオブテイン"2"だ。」

「えーと…メロンアゲインよ。」

「おいおい、チェインじゃなくていいのか?」

「ふふ、そんな安い挑発には乗らないわよ。」

四回目の『あっちむいてほい』。俺はグーで女はパーだ。

「メロンオブテイン"1"だ。」

「うふふ…」

「『呪われたメロンアクション』…」

「!!」

「5mpを消費…使うのは…『メロンバン』。」

『メロンバン』…!このゲーム中の相手のメロンパンを完全に封じるメロンアクション!

まずい…こうなればこっちは圧倒的に不利だ!

だがしかし…こっちにも策はある。残り3mpを素早く貯めて、5mpでメロンバン返しをするのさ!

五回目の『あっちむいてほい』。俺はグーで女はパーだ。

「メロンオブテイン"3"だ。」

「メロンアゲインよ。何をそんなに焦っているのかしらね。」

「くっ…」

六回目の『あっちむいてほい』。俺はパーで女はチョキだ。『あっちむいてほい』は負け続けじゃねえか…

「メロンオブテイン…"2"だ。」

「メロンチェインよ。」

「来やがったか…いくぜ?」

「あなたに私を止められるかしら?」

「じゃんけんぽォん!!!」

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

く、くそが!また逃しちまった!この女の反射神経はどうなってやがる!?

「うふふ…止まって見えるわ。」

七回目の『あっちむいてほい』。俺はパー、女はグーだ。ようやくメロンアクションを使えるぜ。

「メロンオブテイン…ふふ…"2"よ。」

ここでメロンアゲインを使えば5mpに達するが…いや、牽制の面でもメロンチェインを使う方が優位に立てる!

「メロンチェインだ。」

だが…問題は『じゃんけん』だ。『メロンチェイン』を受けているとはいえ、mpの固定はターン終了時に対処されるからな。この女を如何に突破するか…

「『じゃんけん』にたいそうな自信をお持ちなのね。」

「ふふ…でもあなたが負けることは確定しているわよ。」

「けっ、賭博場で俺が『じゃんけん』を凌いだことをもう忘れたのか?」

「あなたこそ、さっきの『メロンバン』をもう忘れたのかしら?」

「!!」

あああ!そうだった!くそ!俺は今『メロンパン』を使うことができねえんだった!

「『じゃんけん』は私の不戦勝のようね。あなたのメロンチェインは取り消しよ。」

「くっ…」

八回目の『あっちむいてほい』。俺はグー、女はチョキだ。『あっちむいてほい』の流れは俺に向いてきたぜ。

「メロンオブテイン"3"よ。」

「…メロンアゲインだ。」

よし、手こずりはしたものの、これでちょうど5mpだ!

この流れで次のターンの『あっちむいてほい』でも勝てたら、『メロンバン』を女にも発動させられる!

「「『あっちむいてほい』!」」

えーと、俺はグーで、女は…ああ、クソが。

「チッ…」

「あら、あいこね。ふふ…『メロンパン』。」

「メロンオブテイン…"2"だ」

「うふふ…メロンチェインよ。」

「てめぇ…!!上等だゴラァ!」

「じゃんけんぽォォん!!!」

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

ああ、この女は怪物だ。こいつにとって『じゃんけん』は全くもってリスクにならねえ!しかもここにきて呪い封じの『メロンチェイン』だ!

mpの取得と能力の発動が並列に行われる通常メロンアクションとは違って、呪われたメロンアクションや封じられたメロンアクションはmpの消費を対価に能力を発動する。

つまり、『メロンチェイン』の能力、ターン終了時のmp巻き戻しによって、行ったアクションは取り消される!無意味になっちまうんだ!

『メロンバン』を使うには、一刻も早くチェイン嵌めから逃れないといけねえ!

十回目の『あっちむいてほい』。俺はパー、女はチョキだ。

「メロンオブテイン…"2"だ。」

「メロンチェインよ。」

「今度こそ…!じゃんけんぽォォん!!!」

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

また負けちまった…が、心なしか女の『メロンパン』が鈍くなってきてる感じだ。諦めずに粘れば、『じゃんけん』にも勝機はあるかもしれねえ!

十一回目の『あっちむいてほい』。俺はチョキ、女はグーだ。

「メロンオブテイン"2"だ。」

「メロンチェインよ。」

「いくぜ…?じゃんけんぽォォん!!!」

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

ああ、明らかにさっきのよりも反応が遅くなってる!しかも全て凌がれたとはいえかなりギリギリだった!よし…次で勝てるぞ!

というか、今の両者のmpは7対11!この賭けメロンパンに勝つためにも、こいつを早く止めなきゃならねえ!

十二回目の『あっちむいてほい』。俺はパー、女はチョキだ。

「メロンオブテイン"2"だ。」

「うふふ…メロンアゲインよ。」

「!?」

こいつ…チェイン嵌めをわざわざ外しやがった!?どういうことだ!?

『じゃんけん』に負ける可能性を考慮し、安全策を取ったのか…?

十三回目の『あっちむいてほい』。俺はグーで女もグー、つまり俺の負けだ。

「メロンオブテイン…"2"だ。」

そういえば、この女『メロンバン』をする直前にもメロンチェインを中断してたよな…

そう考えると、今の女のmpは12だ。封じられたメロンアクションを使ってくるのか?だが…

「『封じられたメロンアクション』…」

「12mpを消費…使うのは…『メロンチェイン・"ソー"』。」

ああ、12mpを対価にするのはこの『メロンチェイン・"ソー"』だ。

「足をチェーンソーで切断する」というのは形骸にすぎず、実質的には血爆爆殺殺戮戮血に参加する権利を剥奪して勝利を確定させるという能力。

つまり、勝利条件がこれじゃねえローカルルールでのメロンパンの上では、このメロンアクションに意味はないはずなんだよ。

…説明がつかないことが二つある。一つは無論、なぜ女が12mpを消費してまで意味のないこれを使ったかということ。

もう一つは…なぜ女は俺の目の前でチェーンソーを掲げて―――――

4 命懸けメロンパン

「ねえどうしてあんなことしたの幸せだったのに私たち幸せだったのにねえそうだったよね

 なのになのになのになのにお前のせいで全部なくなったお前がお前はいらないをまき散らして

 お前のせいだでもお前の血液のせいだからだからだからお前の肉親おとうさんおかあさん汚い肉肉肉

 食べてよめてよ食べてよ私たちの宝物私たちの宝物こんなにかわいい宝物みんなのがかたまった宝物

 嘘をついてるだけの暮らし見た目だけ見た目だけが私たちのつながり真っ赤な他人真っ赤な血縁

気づいたら、さっきとは打って変わってひどく殺風景な部屋にいた。いかにもコンクリートって感じの灰色に囲まれてて、女の絶叫がよく響いてやがる。

「なんで笑わないのいつもあんなに笑顔で笑顔でニヤニヤニヤニヤニヤニヤニヤニヤと笑って笑え笑え

 逃げるな逃げるな逃げるなでもねでもねもう逃がさない逃がさないこんどはどんな笑い話をつくるの

 はやく食べないとさめちゃうよどうしたのお腹空いたでしょ足りないでしょ物足りないんでしょ

 お前が食べるべきお前が食べるべきお前が食べるべき[規制]おいしいおいしい[規制]

 本当はそんなことない中身をのぞけばすぐ分かる名前だけのつながり真っ赤な破真っ赤な嬰児

どうやら俺は気を失っていたらしいな。辺りを見回すと、正面にいる女の背には開きっぱなしのドア、右の壁の手前には小さな暖炉、部屋中央にはさっきのスーツケース二つ、

「こころはポカポカみんなで食卓を囲む外はベタベタ中はグニャグニャおいしい[規制]

 ねえどうしたの食べろ食べろ食べろ足りない脳みそに足なんていらないでしょ逃がさないもう二度と

 どうしてそんなひどいこと言うのそんなわけないお前がそんなわけないかえしてかえしてもどしてもどして

 かえれもどれかえせもどせはやくはやくはやくはやく

 お前は違うところでを結んで報は結は腹の中でつながり真っ赤な嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘まるでまるで

床には赤黒いシミ、部屋左奥には数十台もの錆びついたチェーンソーと、一つだけある新品らしきチェーンソー、そして―――

「あーーーあ

 もったいないもったいないせっかくの[規制]が台無しだねも涙もないんだね知ってたよ

 安心して私はあなたのことを真摯に思って思って思ってそれでそれで宝物わたしたちの宝物

 ほら召し上がれおいしいおいしいできたて焼きたてぷっくりきれいな[規制]食べてよ食べて

 頑張ったんだよ頑張っておいしくうみおとしたよほらたらふく食べてよ私たちの宝物は[規制]3000g

 どうしたのああああうれしいうれしいうれしい感動してくれたんだよかったほんとうによかった

 またやりなおせるねこれでおいしいでしょうしあわせでしょううれしいでしょう笑え笑え笑え笑え

 口に入れろ口に入れろほら頬張れましたね頑張りましたね膨れる笑って食べてくれてよかったよかった

俺の足首から先が二つ、転がっていた。

「お、おい、こ、これって…」

ありえない、ありえない、ありえないだろこんなこと!だって!この女!俺の足を切り落としやがった!あ、足…足が…あ…

「―――あら、ごめんなさいね、ちょっと気が動転しちゃってたみたい」

「さて、賭けメロンパンの続きをしましょうか。」

ああ、俺は本当にバカだ。知らない人にのこのことついて行ったらどうなるかなんて、ガキの頃にさんざん言われてきたはずなのに。

死にたくない死にたくない死にたくない。こんな糞みたいな人生だが、俺はまだ死にたくねえんだよ。落ち着け。落ち着こう。

くそ、足が痛すぎる。俺は今、這って移動するしかできなさそうだ。こんなんじゃあ、逃げようにも一瞬で捕まっちまう。となると…

女をこの場に留める…でもどうやって?―――そうだ、殺すしかない。正当防衛だ。

攻撃手段として使えそうなものは…チェーンソーはダメだな。女から近すぎて、取りに行くなんて不可能だ。しかも、もし取れたとしても足のない人間には重すぎて使えねえ。

じゃあ、『メロンチェイン・"ソー"』を使えば?…いや、無理だな。確かにあの女は狂人だが、圧倒的優位を捨てて俺にみすみす両足を差し出すような狂人である可能性は低い。

そもそも、賭けメロンパンを続けてくれてる事自体が奇跡みたいなもんだ。油断している今、どうにかして悟られずに一瞬のうちに殺さないといけねえ。

他には何がある?暖炉の火は…どうにかして女をおびき寄せて引火させれたら…

「ほら、早くしてよ。」

「くっ…」

十四回目の『あっちむいてほい』。俺はチョキで女はパーだ。

「メロンオブテイン"1"よ。」

どうする?俺のmpは9。『メロンバン』を行うことができるが…

―――ああ、閃いた。この女を殺す方法…!

「メロンプロテクションだ。」

これで両者のmpは12対1。20mpまでは残り8mpだが…今の俺にはあと1mpでもあれば十分だ。

十五回目の『あっちむいてほい』。俺はパーで女はチョキ。

「メロンオブテイン"2"だ。」

「メロンアゲインよ。」

十六回目の『あっちむいてほい』。俺はグーで女はパーだ。

「メロンオブテイン"2"だ。」

「…メロンチェインよ。」

「ふふ、今から…本気を出すわ。もうあなたは終わりだもの―――」

「…じゃんけんぽォん!」

―数分後―

俺が『メロンオブテイン"2"』、女が『メロンチェイン』。同じ構図のじゃんけんをもう何回繰り返したんだ?

二十二回目の『あっちむいてほい』。俺はチョキで女はグー。

「メロンオブテイン"2"」

「メロンチェイン」

「じゃんけんぽォん!」

「メロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパンメロンパン―――」

また負けた。今の両者のmpは14対16だ。

おかしい、こいつ…『じゃんけん』はまだしも、運ゲーのはずの『あっちむいてほい』さえ強すぎる!メロンバンによってあいこが実質勝ちになることを考慮してもなお強すぎる!

次の『あっちむいてほい』では何としてでも勝たなければいけない。この流れのまま相手のmpが18になってしまえば、その次のターンで確実に奴は勝利できることになっちまう。

賭博場での"情け"は俺をここにおびき寄せるためのものだっただろうからな。今回は確実に勝利しに行くだろう。

そうなれば、"あの"メロンアクションが使えねえ。すると女を殺すチャンスは水の泡だ。俺がここから逃げることは完全に不可能になるだろう。全く笑えねぇ。

落ち着いて考えよう。なぜあの女は『あっちむいてほい』で勝ち続けているんだ?

考えられるのは…指の動きを見て俺の出す手を判断していること、くらいだ。『じゃんけん』の強さもこれで説明がいく。もしもただのまぐれっていうなら、そりゃあもうどうしようもねえな。

なら…前者に賭けるしかねえ。命をな。後出しにならない範囲で、出してる途中で手を変える。もしこれで負けたなら…いや、いい。俺は勝つぜ。

「「『あっちむいてほい』!!」」

俺はチョキ―――から変わってパー、女はグーだ。うまくいったな。

「あら…まあいいわ。どうせあなたは勝てやしない。」

「メロンオブテイン"3"よ。」

「『封じられたメロンアクション』…『メロンプロテクション・"ステイク"』だ。」

「…あら、気でも狂ったのかしら。賭け金を入手したところで、どうやってそれを"持って帰る"の?」

「こんな足じゃもう逃げられないよ?それとも―――」

「ちょっと待ってくれ、確認したいことがあるだけさ。」

「どういうこと?」

「今俺が賭けてる金、つまり賭博場の賭けメロンパンで入手した金も、今お前が賭けてる金も、束になってケースに詰められてるよな?」

「もしかしたら、一番上と一番下だけを本物にして、表面が見えない分は全部ただの紙幣のサイズをした紙にしてる、っていう古典的なやり口の可能性がある。」

「念のために、全部帯を外して調べさせてもらうぜ。」

「…勝手にどうぞ。」

―数十分後―

「ふう、よかったよかった、全部本物の金みたいだな。」

賭博場で手に入れた小さいほうのスーツケースには一枚一枚バラした現金を詰め、女が持ってきた大きい方のスーツケースの中の現金は床に散らした。

自然な形で、小さいスーツケースは俺の傍に、大きいスーツケースは暖炉の目の前に置いておく。これで準備はほぼ完了だ。

現在の両者のmpは1対19だ。…ところで…女を殺す前にやっておくべき下準備がある。そう、錯乱させておくのさ。冷静であられたらかなり不都合なことになるからな。

そして女の正気を失わせるのにもっとも簡単な方法は…おそらくこうだ。この圧倒的に女が有利な状況から…俺が賭けメロンパンに勝利するんだよ。

「うふふ…さあ、この賭けメロンパンを終わらせましょう。」


…さて…哀れなイかれ女よ、指定のmpを得ること以外でも…メロンパンにおいて勝利することはできるんだよ。

5 逆転、そしてメロンパン

「「『あっちむいてほい』!!!」」

俺はチョキから変わってパー―――から戻ってチョキ、女もチョキだ。うまくいったぜ。

「ふふ…どうせ後出しならグーにすれば勝てたのに。まあ、どちらにせよ私の勝ちね…『メロンパン』。」

「おっと、忘れちゃいけねえ…『メロンパン』!『メロンパン』!」

「あら…?ふふ、なるほどね…」

「確かに…相手が指定のmpに達したとき、血爆爆殺殺戮戮血の準備が始まる前に二度『メロンパン』を行えれば、相手に3mpを破棄させることができるわ。」

「けど残念。私のmpはまだ20に達していない。しかも、忘れたの?このゲームは血爆爆殺殺戮戮血が存在しない特別ルールよ。」

「あなたは"発動する必要のないところでメロンパンを行ってしまった"。しかも二回も。これが意味するのは…」

「二度のメロンパン・ファウル、すなわち敗北よ!」

「『メロンパン』!『メロ―――

よし、今だ!

「『メロンパン」『お前の血でおいしく焼くべき』『お前が食べるべきお前の肉親』『お前のせいだ』『お前の血液のせいなのだから』『お前のせいだ』『お前が食べるべきお前の肉親』『お前の血でおいしく焼くべき』『メロンパン』」

「はあ?何を言っているの?メロンパン・ファウルをしたのはあなたの方でしょ。」

「お生憎様、確かに俺は『メロンパン』と言ったが、それで『メロンパン』を行えたわけじゃあない。」

「なぜならば、俺は『メロンバン』の効果を受けているからだ。俺は『メロンパン』を発動したくても発動できねえんだよ。」

「そしてメロンパン・ファウルの条件は『必要のないところでメロンパンを"行う"』ことだ。"言う"ことじゃねえ。」

「対して、俺のメロンパン・ファウルへの指摘のつもりで、お前が…『メロンパン』の発動に一切の障壁が無いお前が言い放った『メロンパン』、これは正しく『メロンパン』を行っていることになる!」

「もう一度言うぜ、メロンパン・ファウルの条件は『必要のないところでメロンパンを行う』ことだ。」

「行う必要のない指摘におけるその『メロンパン』は、完全にメロンパン・ファウルにあたる!」

「そ、そんなこと…」

「しかも…ハハ、"偶然にも"、お前のメロンパン・ファウルは『あっちむいてほい』に勝利した後のものだった!」

「"死体蹴りは罪が重い"。この条件下でのメロンパン・ファウルは即敗北を意味する!」

「分かるか?つまるところたった今、お前は賭けメロンパンに敗北し、俺が勝利したっていうことなんだよ!」

「もう一度言ってみろ」

もう一度言ってみろ

もう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろもう一度言ってみろ

よし、錯乱し始めた…まずは小さいスーツケース内の莫大な現金を部屋中にばら撒く!束じゃない個々の紙幣なら空気抵抗はまあまああるだろう。これでほんの少しの間だけ行動を遮蔽する!

そして空にしておいた大きいスーツケースの中に―――

お前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべきお前の血でおいしく焼くべきお前が食べるべきお前の肉親お前のせいだお前の血液のせいなのだからお前のせいだお前が食べるべきお前の肉親お前の血でおいしく焼くべき

あとは息を殺して神に祈るだけだ。頼む、うまくいってくれ…!

「見えてるよ見えてるよかわいそうに切られた足の断面がスーツケースからはみ出ちゃってるよかわいそうかわいそう」

「隠れないでいていいんだよお前は殺すからちょっと待っててね」

ほら!見て!チェーンソー!これがあればどんな奴も殺せる!内臓を売ればたくさん儲かる!おかげで贅沢いっぱい!」

「でもねでもねでもね足りない足りない足りないどんなにお金があってももどらないもどらないもどらないもどらない」

鈍い轟音だ。女はチェーンソーを起動させたらしい。いけるか…?

「刺しちゃうよ!刺しちゃうよ!スーツケース!ほら!さん!にい!いち!

狭い部屋に爆発音が鳴り響いた。女は炎に巻かれ、その胴にはチェーンソーの破片が深く刺さりこみ、血があたりに飛び散った。大成功だ。

痛い痛い痛い痛い痛いひどいひどいひどいひどいひどいなんでわたしなにがいけなかったのなんでなんでなんで

「ハハハ、やっぱりな。お前、チェーンソーの正しい使い方を知らないだろ。」

「チェーンソーは消耗品じゃない。普通はチェーンソーを数十台も錆びつかせることなんてねえんだよ。」

「おそらく、お前はチェーンソーが劣化して使えなくなったらすぐに別のに買い替えていたんだろうな。」

「だからお前はチェーンソーを使い続けるために潤滑油が必要なことを知らない。新品のチェーンソーに潤滑油が入ってることも知らない。」

「スーツケースを貫通させてそのチェーンソーを暖炉の中に入れたことで、潤滑油が発火し、気化の内圧でチェーンソーが破裂したことも分かっていない。」

「たすけて あつい いたい ちが ちがう ちが」

「正直、かなり綱渡りだったな。切られた足を取りに這って往復する時間をカバーできるほど、一枚一枚の紙幣が滞空して目隠しになってくれるかは未知数だったし、切り落とされた足の下の方の断面を上の方の断面と誤認して、部屋の左手前の隅にうずくまる俺を確認することもなく大きいスーツケースの中に俺が隠れていると思ってくれるかどうかは、完全にあんたの錯乱具合を信じるしかなかったよ。」

「まるで まるで   メロンパン」

「よし…ちゃんと死んだらしいな。じゃあ、俺は匍匐前進でトンズラするぜ。あばよ!」


俺は結局、なんとか生きて女の家を出ることはできたものの、一銭たりとも得ることは叶わず、かえって足首から先を持っていかれちまった。

賭博場のツテを辿って知り合った明らかなヤブ医者が一応の治療をしてくれて、なんとか死なずに済みはしたものの、治療費はあまりにも法外で悪徳で天文学的な額だった。

そしてその支払いのために、こうして俺は今、再びタコ部屋で働いているっていうわけだ。

ⒸWikiWiki文庫

水を飲んでみた!!!
キュアラプラプ
暇すぎたので。
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あーーー、暇だ。暇で暇でしょうがない。

もちろん、しなければならないことはたくさんあるだろう。しかし、どうにもその気力がわかない。何もやる気が起きないのである!


今、午後何時なのだろうか、全然わからん。時計なんてしばらく見てねえや。

頭は全く冴えわたらないし、何も考えられません!

ああ、これなら眠っていた方がまだマシだなあ。まったく、いったいいつまでこんな死んでいるも同然な生活をするのだろうか。

ここで、ふと、突飛な考えが頭に浮かんだ―――そうだ、水を飲もう!じっくり水を飲んでみよう!うおおおお!!!


コップを取って、水をなみなみと小気味よく注いだ。

気づけば表面は曇っている。水面の光の反射はあんまり綺麗じゃない。

再びコップを置くと、鈍い音がした。揺れた水は直ぐに平らに戻った。


コップを傾けて、口の中に水を少しだけ注いだ。体内の熱は冷たさを徐々に失わせる。

喉の奥へと水を追いやると、再びひんやりとした感触が奥に流れ込んだ。吐く息が少し冷たくなってしまった。


何回かこの同じ動作、同じ感覚を繰り返すと、コップの水は残り僅かになっていた。

一息に飲むと、しかしながら、特に何も起きなかった。ほんの少しだけ甘みを覚えたが、きっと気のせいだろう。

結露はそろそろと荒くなっていた。


あーーー、暇だ。暇で暇でしょうがない。


やっぱり暇だ。水を飲んでも何も生まれなかったな。


ああ、そうだ、無意味に水を飲んだところで何をどうしようっていうんだよ。馬鹿なのか俺は。ただでさえ残り少ない水を。

あの日、乗っていた飛行機が墜落してからもう4日が経つ。ここがどこなのか見当もつかない。少なくとも、歩ける距離に人はいないらしい。

運よく肩にかけたままだったキャンプ用の水筒、そしてこの腐りきった怠惰、これが所持品の全てだ。

水や食べられる物を探さなければならないし、どうにかして助けを呼ばなければならない。しかし、どうにもその気力がわかない。そう、何もやる気が起きないのである!


あーあ、暇だなあ。暇で暇でしょうがない。

ⒸWikiWiki文庫

やあ今日は。
この文字列は和暦にして令和四年六月一日に公開されたものです。
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やあ今日は。と、が和文から消失してから一周年の日であるもはや古本屋においてさえ。や、のない小説が売り場を占領する頃となってしまった驚いたことに若者は。も、もない文章に対してすでに適応の様相を呈しているのだが私を含む壮丁に年増の者どもの多くはこの一年を悲嘆の下で暮らしていたのだったああこの悲劇の始まりは一体いつだったろうかそうだ恐らくは思想家の佐藤圭史らが。や、にバツの付いたプラカードを掲げて騒ぎ出した二年前だ。と、の全面廃止を求めて奴らは文科省に令和二年五月十六日付で意見書を提出し勢いそのままデモを始めたのだったメディアは即日彼らを嘲笑するような報道をした。や、という日本語を読みやすくするための基本的な記号を廃止するなんてまったく馬鹿げている。と、の効力を理解していない愚か者の振る舞いだなどといった具合であるこの騒動に真面目に取り合った者はほとんどおらずまた市井の誰もがこれを一過性の話題であると認識していたしかし翌日事態は逆転するすなわち前文科相萩生田が何を思ったのかこの意見書を真に受け政策に取り入れる方針を明らかにしたのであるあほの萩生田は当然批判の的となったもちろん官僚の猛反発にも合った大臣試しに。も、もない文章を書いてきましたどうですか読みにくいでしょうそれは。や、がないからなのですよええ不便なものですねいったいあなた様は日本語をこのように不便で不整合な代物にしたいのですか。と、を廃止して国民の言語生活を打ち潰すおつもりですかと四六時中問い詰められたのであるこれを受けて萩生田はときに憤慨しときに黙秘しときに逃走しまたごくまれに次のような反論を呪文のごとく唱えることもあった曰く歴史的にみて。や、は本来の日本語にはなかったのだよ明治中期に一部の好事家が漢文のまねごとをして用いたものがたまたま広がっただけなのだからしたがって日本語から。と、を取ったらそれは不整合なのではなくてむしろ本来的だと言わなくてはならないそれに読みにくいのは我々の言語感覚が。と、に毒されたためであって今。も、も廃止してしまえば次世代の人々は。や、がなかろうが滑らかに読めるようになるはずである私は正しいことをしているのだとさてそこから三ヶ月ほど経って飽き性な世間の関心が薄まりを見せ始めてからも。と、の廃止をめぐる省内の係争は続いたのだがおよそ一年後の令和三年六月一日ついに。つまり終止符が打たれた和文における。及び、を全面廃止する省令令和三年文部科学省令第四十三号が近代以降初の。や、のない公式文書として公布されたのである文部科学省はその公式見解として。や、の存在を認めなくなったのだったこれが悪夢の始まりというわけだが何だ省令ごときがと思われる者も恐らく居ようたしかに当該省令に罰則はなかったそもそも省令が国民の権利を侵害するほどの規定をすることは認められていないのであるから文部科学省令に背いて。や、を使用することの何がいけないのだと文句のひとつ言ってみたくもなるがやはり官吏は侮れないことに下っ端官僚の英気には目を見張るものがある志の高い彼奴らはお偉方の言いつけに対して常に十二分の成果を提供する。と、を実際に廃止するに至った謀略もはたして彼らの根性と才能との賜物であったまず彼らは公文から。と、を抹消した省令公布日の正午には文科省が公開した文書やらホームページやらから。と、を削除して再アップロードしたさらに二日目の朝までには他の全省庁に対し同様の処理をするように求める通達がなされていた市民や企業によって提出された意見書や定款書の類はむろん担当省庁が進んで改竄したかくて六月八日。と、は日本国がウェブ上で公開するすべての文章から消滅したのである並行して彼らの元同僚が天下りしたりコネ入社したりした大企業もそのホームページから製品取扱説明書から対外契約書から社内マニュアルから。と、を綺麗に取り除いてしまったこれが売上減少やコスト増加に直結する対応であったことはまず間違いないがそれが成立していたということはやはり汚い大金が動いたということであろうところで過度な忖度が働いたのかなんとこれらの企業の多くは。と、の廃止では飽き足らず自発的に「や」や(や)といった括弧類を含むあらゆる和文約物を誰に指示されるまでもなく廃止したのだった余談だがこれを受けてなぜか大いに感涙した萩生田は。や、とよく似た理屈で和文約物の使用禁止をも主張しはじめた先の一件以降彼の周りに残っていたのはイエスマンのみであったため彼は流れるように省令の四十三を削除し和文約物を全面廃止する省令令和三年文部科学省令第四十四号を近代日本初の。も、も「も」も(も)もその他約物の一つも用いられない公式文書として交付することができた。と、が肝心なため他の約物はあってもなくてもいいのだがそれにしてもこれは醜い話だと私は思った閑話休題想像はつくかもしれないが大企業らを自分たちの言いなりにした官吏が次に行ったことは評論家の買収であった。と、のある文章に苦言を呈する書籍を五十余名の評論家にいくつも出版させたのだこれは知識人ぶる年配層のみならず奇跡にも。や、を打つのを怠けがちなSNSネイティブ世代によく刺さったほどなくして。も、もない文章がほとんど全世代の流行となった折ついに公募の要項に句読点のないことを定めた出版社が登場する表現者を支えてきた彼らがそのようなことをするとは考えがたい話かもしれないがすべては金である諸賢も覚えておくとよいディストピアは金で作られるのだははははさてそこからは速かったすべて事態ははなから仕組まれたように進行していった華やいだ作家も上場企業の事務もすっかり権力に屈しきって読みにくい文章を書くようになった日本人も余計な無理を働いて。や、のある文章は読めないなどと言い出すようになった日本人の誇りがどうとか伝統がどうとかみな口先では都合のよいことを言うが蓋を開けてみればこの節操のなさである正直我々アフルトス人も日本人のこの情けなさには驚愕した我々の見込みでは一揆で徳政令を勝ち取りGHQから天皇誕生日を死守した日本人が国ごときの表現規制ないし言論統制に従うはずはないと踏んでいたそしてそれは我々の初動が遅延することにも繋がってしまった我々が。と、の復活に向けてようやく活動を開始したのは三ヶ月前のことである火星出身で地球人とまったく異なる外見のアフルトス人は神ウィッドの未解明の力で日本人になる日本人のような見た目になるのではなくて社会的日本人になるのである我々の宗教は地球の文字でいうところのΦのような記号に象徴されるわけだが我々はこれを分解したようなペア。と、がΦそのものが描かれた宗教旗よりも神ウィッドの力を引き出すのに効果覿面であることを発見したかつての日本においてはありがたいことに。と、がありふれた文字となっていた偉大な神は力を発揮し続けたさて我々はこの力を利用して日本の国政選挙に参加し日本をアフルトセスにとって軽便な場所にしてしまおうとしていた計略は次々と成功を収めており計二十四名を衆参の議員に仕立て上げることができていたのだその多くが有力な議員となってきたところで句読点全面廃止令である本文のような引用の。や、以外の句読点はほぼ消失してしまったそれはもう悲嘆に暮れた三から四ヶ月でいともたやすく力が希釈された我々は議員団を呼び戻して九月十日アフルトセスに一時帰還した火星では地球を尻目に句読点廃止の制止についての議論が展開されているプロジェクト1から16のうち未達なのは13と16ですね16の達成が最終目標に寄与する割合はごく小さいのだからこの際切り捨てないかねそれもそうかところが13は大きすぎる課題だなあ13はネックですねこれさえ終われば自動的に萩生田屋もぶっ倒れるでしょうにそうだねえあの班は何をやってんだかプロジェクト13の検討結果報告が一度もなされていないとはまったく始動から三ヶ月は経つしもうじき完了してもよい頃だと思うのだが。

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顔面蒼白
Notorious
川上功大は、隣家の森金吾を殺す決意をした。捜査の目を逸らすため、綿密な工作を施すが……。
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 深夜0時57分、川上功大は隣家のインターホンを押した。理由は、住人の森金吾を殺すためである。


 1ヶ月前、この家に森が引っ越してきた。挨拶に来た森の顔を見たとき、俺は戦慄した。忘れもしない、中学のとき俺をいじめていた奴だったからだ。だがそれ以上に恐ろしかったのは、森が俺の名前はおろか顔すら覚えていないことだった。
 俺を元同級生とは露知らず、森は順風満帆な近況を得意げに語った。小さなIT会社を設立し、経営が軌道に乗り始めたのだと。俺に水をかけ、靴を隠し、腹を蹴ったこいつが、キラキラした面でキラキラした生活を送ってやがる。俺は毎日ボロ工場で汗みずくになりながら働いているのに。
 許せない。
 殺意はむくむくと膨れ上がっていった。俺は森を殺す計画を立て、準備を整えてきた。そして今夜、実行する。


 プッと音を立てて通話が始まった。
「どちら様? あ、川北さんでしたっけ?」
「川上です」
「ああ、川上さん!」
「森さん、夜分遅くにすみません。昨日話しそびれてしまったんですが、実は折り入って相談がありまして……」
「そうでしたか! 外は寒いでしょう。今、ドアを開けますね」
「ありがとうございます」
 この外面の良さ、ちっとも変わっちゃいない。お前なら家へ上げると思っていたよ。
 すぐに鍵を開ける音がし、ガチャリと扉が開いた。
「さあ、どうぞ上がって」
「お邪魔します」
 この家には昨日――いや、もう一昨日か――にも訪れた。森が挨拶ついでに招いてくれた前回は、茶を飲んで早々に退散したが。
 森は、薄いTシャツと短パンにスリッパという格好だった。寝間着だろう。ビンゴだ。お前がFacebookで「毎日夜1時丁度に寝る」と投稿していたから、この時間にしたんだ。
 俺は両手に手袋をしているが、森が怪しむ素振りは無い。俺は靴を脱ぐと、森が差し出した黒いスリッパを履いた。靴箱も、傘立ても、絨毯も、お洒落に揃えやがって。吐き気がする。
 森は俺が提げている紙袋に目を留めた。ずっと前に誰かから貰った京都銘菓の袋だ。
「京都ですか」
「ええ、先日出張に行きまして」
 真っ赤な嘘だ。
 俺達は廊下を真っ直ぐ歩いていった。森は場を持たせようと何か喋っている。
「京都ですかあ。中学の修学旅行で行ったきりですねえ」
 その修学旅行に俺もいたんだがな。廊下の突き当たりにある扉をくぐった。ここが居間だ。
「そのとき買った木刀はまだ持ってますよ」
 奥にはカーテンをひかれた、庭に続く窓。右手の扉の向こうが寝室。
「あとは清水寺に行ったりね。いやー懐かしいなあ」
 間取りは昨日確認しておいた。いける。背中に手を回し、ベルトに挟んだ鞘からナイフをそっと抜く。
「……あれ?」
 椅子を引こうとしていた森の動きがピタリと止まった。無防備に背中を見せている。
「あんた、まさか」
 振り返るより先に、後ろから抱きすくめるようにして、俺は森の腹にナイフを深々と刺した。森の体がびくりと痙攣する。ナイフは肝臓を貫いているだろう。俺は森を抱えたまま、机の少し横に体を向けさせた。こんなものか。
 森は震える右手で腹を弱々しく押さえた。まだ出血は少ない。荒い呼吸をしながら、森はこちらを振り返った。顔を歪めてじっと見つめてくる。
「川上……!」
「ようやく思い出したか」
 死ね。俺はナイフを森の体から引き抜き、床へ放った。傷口から大量の血が吹き出る。机の横、窓へは届かないほどに血飛沫が散った。森の顔からみるみる血の気が失われていき、だらりと右手が垂れ下がった。
 俺が手を離すと、森は左へどさりと倒れた。フローリングに、どくどくと血溜まりが広がっていく。
 森は死んだのだ。だが、意外と気持ちは落ち着いていた。まだやることがある。ゲームを淡々と進めていく感覚に近い。
 さあ、偽装工作開始だ。


 ただ殺しただけでは、すぐに疑われてしまう。俺は森の隣人なのだし、中学で同級だったと判れば、一躍最重要容疑者だ。
 だから、計画を立てた。俺の計画はシンプル、“居直り強盗の仕業に見せかける”というものだ。森が寝ているとき、居間の窓を割って泥棒が侵入してくる。しかし目を覚ました森と鉢合わせ。慌てて刺してしまい、怖くなって何も盗まず逃走、というシナリオだ。
 警察も忙しい。一度強盗の仕業に見えれば、そう結論づけてくれるだろう。
 俺はまず、返り血を浴びていないか確認した。全身を軽く見ていく。どうやら、右の手袋以外は無事のようだ。左手で紙袋からビニール袋を取り出し、両手袋を外してそれに入れる。口をきつく閉じ、ビニール袋をまた紙袋に戻した。入れ替わりに軍手を出し、それを両手にはめる。
 次は玄関だ。紙袋を持って廊下に出る。勿論、血溜まりを踏むようなヘマはしない。そのまま玄関まで行き、サムターンを捻ってドアを施錠した。そしてスリッパを脱ぎ、靴箱に戻しておく。最後に、土間の自分の靴を紙袋に入れた。靴下の足跡は残りにくいから、多少歩き回っても問題ない。
 俺はまた居間へと引き返した。途中、廊下の照明を消しておくのも忘れない。居間に入ると、血痕を避けて、壁のインターホンをチェックした。どうやら、履歴は端から残らない機種のようだ。幸運。監視カメラの類もない事はリサーチ済み。どうやら天は俺に味方しているようだ。


 さあ、ここからが本番。今までは、俺という“訪問客”の痕跡を消す作業だった。これからは架空の“侵入者”の痕跡を残す。
 カーテンをくぐり、窓を開けた。紙袋から新しい靴を一足出し、それを履いて庭へと出る。靴もナイフも、道具は全て入手ルートを辿れないものを用意した。これらから俺に捜査の手が及ぶ心配は無い。
 紙袋を地面に置くと、庭を囲う柵にとりつき、乗り越えた。柵とはいっても、俺の胸くらいしかない。柵の外は小道で、向かい側はだだっ広い田圃になっている。周辺は真っ暗で、この時間に人通りはまず無い。
 俺は一度深呼吸をした。俺は泥棒。今からこの家に侵入する。よし。
 柵に手をかけ、体を引き上げる。さっきのように柵を乗り越え、庭に降り立った。ポケットからスマホを取り出し、ライトを点ける。紙袋に入れてあったハンマーを持ち、窓に近づいた。狙うはクレセント錠の付近。手首を素早く振り、ハンマーを打ちつけた。鈍い音がし、僅かに罅が入る。もう少し強く。再度ハンマーを振ると、バリンと拳大の穴が開いた。完璧。
 ハンマーを仕舞い、穴に手を突っ込む。当然鍵はかかっていないが、泥棒はこうして窓の鍵を開けるのだ。
 窓をそっとスライドさせ、俺は室内に侵入した。日本の警察は優秀だ。こうして土足の足跡を残しておかないと、怪しまれかねない。だが、庭の土は乾いていたし、あまり気にする必要はなさそうだ。
 ゆっくりと机の近くまで歩み寄った。机の向こう側には森の死体がある。この後、不審な音を聞きつけた森が寝室から出てきて、居間の電気を点ける。そこで森と泥棒は互いを視認する。森は逃げようと廊下への扉に向かうが、泥棒は机の右側を駆け、持っていたナイフで森を正面から刺す。怖気づいた泥棒はそのまま遁走する……。
 問題はないか? 俺は注意深く部屋を見渡した。何か不自然な点は……あっ!
 ――寝室に続くドア!
 今、それは閉まっている。しかし、侵入者と鉢合わせした状況で、森が丁寧にドアを閉めるわけがない。森が寝室に蜻蛉返りせずに玄関を目指すのには、2つの理由がある。1つは寝室のドアに鍵がないこと、もう1つは寝室の窓に格子が嵌まっていることだ。要するに、寝室に戻っても、立て籠ることも逃げることもできないのだ。
 俺は机を左から回り、寝室へのドアを慎重に開けた。ついでに中も覗いてみる。恐らく点けっ放しの常夜灯、整えられたシングルベッド、本が1冊乗ったサイドボード。不都合なものは無さそうだ。
 血痕を踏まないよう注意しながら、また窓際へと戻った。今更ながら、背中を冷や汗がつたった。危なかった。もし気づかなかったら、どうなっていただろう。


 さあ、集中しろ。部屋を再度見回したが、今度は何も引っ掛かるところはない。なら、さっさと帰ろう。近くを人が通りかかる可能性も、皆無ではないのだ。
 最後に、森の蒼白な死に顔を眺めた。その無様な姿に、自然と笑みがこぼれる。
 俺の、勝ちだ。
 カーテンを押しよけ、開けっ放しの窓から外に出た。泥棒改め殺人犯はひどく動揺している。窓は閉めなくていいだろう。夜の冷気が心地よい。
 紙袋を拾い上げると、俺は柵をまた乗り越えた。毛髪なんかは残っているだろうが、俺は一昨日この家を訪れたのだ。何の問題もない。
 電気は点いたままで窓は全開、さらに窓は割られてもいるのだ。事件の発覚は早いだろう。だが、俺に辿り着かれさえしなければ、一向に構わない。
 靴を履き替え、隣の自宅に戻った。鍵を開けて中に入る。微細な血液が付いているかもしれないから、着ている服を纏めて紙袋に突っ込んだ。そして、紙袋ごと埃だらけの屋根裏に放り込む。これで、家宅捜索でもされない限り、大丈夫だ。これらは、ほとぼりが冷めた数年後に、少しずつ捨てよう。
 シャワーを浴びると、すぐに万年床に潜り込んだ。やっと、難事を成し遂げた達成感が湧いてきた。俺は高揚感に抱かれながらすぐに寝入った。何か楽しい夢を見た気がする。


 俺が目を覚ますと、もう昼の11時だった。カーテンの隙間から隣家を見ると、玄関先にパトカーが停まり、何人もの警官が蠢いているのが見えた。想定内。自分でも驚くほど落ち着いている。
 ブランチを手早く済ませ、身支度をしたとき、呼び鈴が鳴った。人が殺されたのだ。周辺に聞き込みに来るのは当たり前。ボロさえ出さなきゃいい。
 玄関を開けると、やはり警官が立っていた。小太りの初老の男と、ひょろりと細長い若い男。どちらも警察手帳を見せて名乗った。階級は、小太りな方が警部補、細長い方が巡査らしい。
「いやー、突然すみません。川上功大さんで間違いないですか?」
「はい。あの、警察の方がどういった御用で?」
「あら、ご存じないですか?」
「はい。さっきまで寝てたもんで」
「そうでしたか。実は今朝、そこのお宅の森金吾さんが亡くなっているのが発見されたんですよ」
「ええっ⁈」
 我ながら、いいリアクション。そしてここはしっかり惚ける。
「まさか、自殺とか……?」
「いや、それが、他殺なんですよ」
「えっ……」
 何もかも先刻承知なのだが、警部補はそんなこと知る由もなく、話を続けた。
「そういうわけで、川上さんにちょっと話を聞きたいんです。でも、話が長くなるんで、その……」
 警部補は俺の後ろ、家の奥に目をやった。図々しい奴らだな。だが、内心に反して俺は愛想よく言った。
「ああ、どうぞ上がってください」
「ありがとうございます! いやー、本当助かります」
「いいんですよ、外は暑いですからね」
 一瞬、昨夜のことが頭をよぎった。駄目だ、俺は何も知らない無辜の市民でなければならない。
 扉を大きく開き、警官2人を招き入れた。
「どうぞどうぞ。なにぶん男の独り暮らしですから、むさ苦しいし汚いですが」
「いえいえ、私の家の方がずっと汚いですよ」
 警部補はそう言うとカラカラと笑った。人当たりのいい警官だ。一方、巡査はさっきから全く喋らない。無言で靴を脱ぎ、周りを見回しながら警部補の後についてくる。正直不気味だ。
 俺は家中からどうにか椅子を3脚かき集め、食卓に並べた。冷蔵庫から麦茶を出し、3つのコップに注ぐ。それをテーブルに置き、俺の向かいに警官2人が並ぶ形で、俺達は座った。
「で、俺に聞きたい話ってのは?」
 どうせ、怪しい人を見なかったか、とかだろうが。
 茶を一口飲むと、警部補は口を開いた。
「その前に事件の概要をお話ししておきましょう」
「お願いします」
「事件の発覚は、今朝の6時頃です。犬の散歩をしていたご婦人が、森さん宅の裏手の窓が割られているのを見つけたんです。そして声をかけても返事がない。不審に思って警察に通報し、駆けつけた私達が事切れた森さんを発見したんです」
 発覚は思っていたより早かったのだな。もう5時間以上経っている。現場の捜査に時間がかかったのだろうか。
「森さんは一体誰に殺されたんです?」
「現場の状況からして、森さんはどうも盗人に殺されたようなんです」
 俺は必死に笑みを隠した。捜査は俺の誘導した通りに進んでいる。
「昨夜遅く、盗人は金槌か何かで窓を割り、手を突っ込んで鍵を開け、森さん宅のリビングに侵入した。ところが、森さんが起きてしまい、鉢合わせした。そこで焦った盗人は、そのまま森さんに襲いかかり殺してしまった。しかし怖くなり、何も盗まず逃げ出した」
「なんて不運な……」
 殊勝な顔をしていたが、俺はガッツポーズしたいくらいだった。


 警部補は、声を一際大きくして言った。
「と、最初は思われたんですがねえ」
「え?」
「どうも、犯人は盗人の犯行に見せかけたかったようなんです」
 まずい。最初に浮かんだ感想はそれだった。
 俺は反射的にコップを引っ掴み、茶を含んだ。落ち着け。決定的な証拠があれば、問答無用で俺をしょっぴいているはず。こうして直接話して、怪しい挙動をしないか見極めているのだ。
 戦闘態勢を整えろ。一字一句聞き逃すな。ボロを一切出すな。
 俺は純粋に驚いたような顔をして、尋ねた。
「どうして、そう判るんです?」
 人懐っこい警部補の目が、気味悪く見えてくる。巡査は、変わらず無言で周囲を眺めている。
 警部補は明るく言い放った。
血痕ですよ」
「血痕?」
「さっき言ったようなことが起こったのなら、当然盗人は森さんを正面から襲ったことになる。でも、森さんの傷口から噴き出た血飛沫は、綺麗に床に散っていたんです」
 そういうことか! 俺は歯噛みした。
「状況からして、犯人に返り血が当たるはずなのに、血が遮られた形跡が無い。そこは丁度壁と机に挟まれたところで、盗人が血飛沫を横っ跳びに避けたというのも考えづらい。これはおかしい。正面から森さんを襲った盗人なんてのはいなかったんじゃないか、と考えられるわけです」
 警部補はニヤリと笑った。
 だが俺は、半ば落ち着きを取り戻しつつあった。確かに血痕については考えが至らなかったが、流石に根拠が薄弱すぎる。いくらでも言い逃れはできる。
「でも、いなかったと決めつけるのは早いのでは? 例えば、強盗は森さんを後ろからグサッと刺した、ということもあり得るのでは? 体の向きは、揉み合っているうちに変わったとか」
 そこまで言って、俺は戦慄した。慌てて付け加える。
「まあ、森さんがどこを刺されたか知らないので、何とも言えないですけど」
 危なかった……。実際俺は森をそのような体勢で殺している。これでは、現場の状況を知っていますよ、と言っているようなものじゃないか。
 余計なことは言わないようにせねば。俺が動揺する中、警部補はまた口を開いた。
「右の肋の間、肝臓の辺りを一突きでしたよ。だから、川上さんの仰るようなこともあり得る。確かに、これだけで決めつけるのは早計でしょうな」


 しかし、警部補は笑みを一層強め、右手の人差し指を立てた。
「でも、もう1つ、気になるところがあったんです」
 まだあるのか? 俺は焦りを覆い隠し、問うた。
「何です?」
あるものが、現場に残されていたんです」
「あるもの?」
 何だ? 遺留品は残さなかったはず。
 警部補の返答は、予想外のものだった。
木刀です」
 木刀? どこかで聞いたような……。
 瞬間、雷のように衝撃が走った。確か、森は「木刀はまだ持ってます」と言っていた。なら、どこにあったのだ? 傘立て? いやそんなもの無かった。待て、そもそも木刀をなぜ持っていたんだ?
 ふと、答えがよぎる。簡単なことだ。
 ――護身用。
 なら、どこに置く? 玄関ではない。残るは……。
 ――寝室かっ!
 ギリリと奥歯が鳴った。気づいていないのか、警部補は饒舌に喋り続ける。
「森さんの寝室、ベッドの脇に、恐らく護身用の木刀が置かれていたんです。おかしいですよね? 不審な音で目覚め様子を見に行くなら当然木刀は持っていくはず。独り身の男として、当たり前の備えですな」
 ……しまった。
 あの時、ちゃんと寝室の中を確認すべきだった。だが、後悔しても遅い。
「血痕と木刀、この二点を鑑みれば、誰かが盗人の犯行に見せかけたのではないか、という疑いが俄然強まる」
 喉がカラカラだ。茶を呷り、俺は言い募った。
「でも、あくまで疑いでしょう……?」
「その通り。だから、徹底的に調べました」
 警部補は高らかに言った。
「犯人は盗人の仕業に見せかけようとした。なら、犯人はどこから家に入ったのか。当然、客として玄関から、でしょう。だから、玄関から死体のあるリビングまでを隈なく調べました。するとね、出たんですよ」
「……何が?」
 問いかける俺の声は、震えていた気がする。
「ルミノール反応が、来客用スリッパから。つまり、スリッパに血が付いていたんです」
 俺は愕然とした。必死に記憶を辿る。森を刺し、傷口を押さえていた森の右手がだらりと垂れ下がる……。
 ……あのときか!
 スリッパは黒かった。だから、見落としたのか……。
 警部補は尚も喋り続ける。
「検査の結果、丁度犯行が為された時間帯に付いた、森さんの血液だと判明しました。スリッパがひとりでに靴箱へ戻るわけもない。つまりこれは、スリッパを履いた来客が森さんを殺した証拠なんです」
 そこまで判っていたのか。こいつらがこの家に来た時点で、とっくに……。


「ところで、川上さん。森さんはあなたと同じ中学校出身らしいですね」
 ハッと思わず顔を上げた。そこまで調べがついているのか。想定より、ずっと早い。
 警部補は顔に憐憫の情を滲ませた。
「随分酷く、彼にいじめられていたそうじゃないですか」
 だったら俺は無罪になるか? そんなことはない。
「それを恨んで、俺が森を殺したって言うんですか? 冗談じゃない!」
 そう叫ぶと、警部補は心なしか悲しげな顔をした。が、すぐに引き締まった表情に戻ると、俺を真っ直ぐ見つめた。
「ところで、川上さん。先程血痕の話をした時、あなたは強盗が森さんを刺した、と仰いましたよね?」
 何を当たり前のことを。俺は思わず頷いた。
「私は事件の概要を話す時、こう言ったんです。『盗人は金槌か何かで窓を割り』『鉢合わせし』『そのまま森さんに襲いかかり殺してしまった』と。そして、私は森さんが刺殺されたとは一言も言わなかった
 口から、得体の知れない息が漏れた。
 そうか、そうだったのか。
「普通、森さんは金槌で撲殺されたと思うでしょう。なのになぜあなたは森さんが刺殺されたことを知っていたんです?」
 最初から、俺はこの男の掌の上で踊らされていたのか。
 咄嗟にコップを掴むが、茶はもう残っていない。
 ふと、恐怖が芽生えた。逮捕されたら、どうなる? 刑務所で何年暮らすんだ? 職場はどうなる? 親は?
 駄目だ、嫌だ!
 俺は立ち上がって叫んだ。
「い、言いがかりだ! 俺が犯人だって証拠は1つも無いだろう!」
 警部補は声色を変えることなく言う。
「ええ。今はまだ」
 続けて、警部補は隣の巡査に尋ねた。
「どうだ?」
 巡査は、あっさり口を開いた。
「この部屋の隅の、天井裏への開口部。あそこだけ、埃や黴が付着していません。ごく最近開けたのでしょう」
「よし」
 警部補は俺の目を真っ直ぐ見て言った。
「川上功大さん、あなたが森金吾さんを殺していないと仰るのなら、あそこを開けて、天井裏を見せてくれませんか?」
 俺は、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

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汗だくなのに
キュアラプラプ
時代遅れの町に引っ越してきた青年は、ひどい目に合うのだった。
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 確か……僕は都会っ子だった。新宿生まれ新宿育ちで、そのうえ家族や親戚もみんな東京に住んでる。だから地方に行く機会は夏休みの家族旅行くらいのもので、人生のほとんどを高層ビルの間に過ごしてきた。そして、当然のように、これからもこんな生活が続いていくと思っていたんだ。

 そんなある日のことだった。塾での講座を終えて帰宅し、疲れた体を引きづってリビングのドアノブを回すと、神妙な面持ちの両親が待ち受けていた。妹は、悄然とした様子で、いつからか彼女の特等席となってしまった小さめのソファーに腰を下ろしている。何やら重大な話が、次は僕に向かって放たれるらしいことをすぐに察した。父は、このような意味のことを言っていたはずだと記憶している。

 「―――実はだな……お父さんちょっと会社でやらかしちゃって……地方に配属されることになったんだ。だから一家で……」

 話し終わらないうちに、心臓が冷えあがり、脈が叫び始めた。地方に左遷?転校?僕の人間関係は?やり直し?田舎でやり直しになるのか?僕の将来は?日本一の都市というアドバンテージは?高水準な生活は?僕の……僕の……

 非力で反抗の仕方も分からないような学生に親の判断を変えさせることなどできるはずもなく、実際、僕は家族が離れ離れになるのはもっと嫌だった。だから、それから二週間後、僕たち四人家族はそろって東京とは遠く離れた場所にある町へと移り住んだ。

 田舎の生活に、僕は想像を絶するほどの苦難を強いられた。通学に使える電車なんてないから、全然舗装されてない数キロメートルの山道を毎日往復しないといけないし、家に帰っても虫やら鳥やら動物どものかまびすしい鳴き声が僕の集中力をそぐ。おかげで成績も下がるかと思いきや、ここの授業は進むのがあまりにも遅くて話にならない。田舎の馬鹿どもの低レベルな知能に合わせた学習は退屈すぎるんだよ。だからいつも僕は寝るなり内職するなりしようとするんだけど、旧弊で古臭い教師どもに毎回厳しく怒鳴りつけられる。時代錯誤も甚だしいものだ。

 そう、時代錯誤。昭和時代に取り残されているんじゃないかと思えるほどに、旧態依然とした価値観にあふれた町なんだ、ここは。

 例えば、未だに結婚はお見合いが主流だし、働いてる女性なんて数えるほどしかいない。典型的な性別役割分業意識が深く根付いているっていうわけだ。それに、特に学校においては、非論理的な根性論が全てを支配している。

 最悪なのが体育の授業だ。僕はあまり活動的じゃないから、体力はせいぜい下の上、20回も腕立て伏せしたら音を上げるタイプの人間だ。もちろん僕以上に運動神経が悪い人もざらにいる。それなのに教師どもは毎回、ウォーミングアップだの根性だのなんだの言って、クソデカいグラウンドでのランニング十五周を要求しやがるんだよ。

 これだけでも十分すぎるほど最悪だけど、一番ヤバいのはそんなことじゃない。奴らはかたくなに、休憩はおろか、水分補給さえをも禁止するんだ。体育の授業中は、どんなに汗だくだって、水の一滴さえ飲むことも許されないんだよ。あのクソ教師が自慢げに語ったこといわく、身体を休ませずにやり抜く運動が一番効くらしい。とんだ戯言だ。僕はこれを聞かされたとき、思わず吹き出しそうになってしまった。ここは本当に令和の日本なのか?!

 それで、あの日の体育の授業でも、グラウンド三週目早々に僕は死にそうになっていた。しかもこの日は特に暑かったんだ。僕の視界に映るものは拡散しはじめ、頭は浮かぶような感じを覚え、汗はとめどなく皮膚から溢れ、平衡感覚は徐々に失われた。典型的な熱中症の初期症状だ。朦朧とする思考の中、僕は必死に這って近くの水道まで行き、日光の熱を帯びた蛇口に指をかけて、むさぼるように水を飲んだ。生き返った心地がしたのもつかの間、僕はぞっとした。

 その場にいた全員が僕のことをじいっと凝視していたんだ。

 最初は僕のことを心配してくれてるのかとも思ったけど、僕に対して固定されていたその視線は、どこか愕然としているようにも見え、異様で、明らかにそんな様子じゃなかった。このときまだ僕は東京から転校してきたばかりだったこともあって、周りにうまく馴染めてなかったから、学校でもどこか疎外されているように感じることは度々あったんだ。けど、この時に関しては、あまりにも異質すぎた。

 僕はしばらく呆然としていた。すると、あの教師が近づいてきて、なぜ水を飲んだのかというようなことを聞いてきた。生徒たちの視線に困惑しながらも、このとき、僕は決心したんだ。我が論理武装をもってして、このクソ野郎の時代遅れの根性論を打ち倒してやろうとね。

 論理的に相手をやりこめることには自信があった。もしこいつが全くもって話の通じないような馬鹿だったとしても、そのときは別の教師どもを巻き込めばいい。万が一、殴られることになってもかまわない。むしろ心的外傷を訴えて騒ぎを拡大させられるので好都合だ。インターネット上でニュースにでもなれば、僕の勝利は確定するだろう。僕は笑みを抑えながら、ゆっくりと口を開いた。

 「なんで水を飲んじゃいけないんですか?水を飲まずに行う運動こそ効果的であるというあなたのその主張の論拠はいったいどこにあるんですか?」

 「だから、何度も言ってるだろ?水を飲まない方がいい運動になるもんだし……」

なるほど、どうやらこいつは会話が通じないタイプの馬鹿らしい。そう思った次の瞬間、僕は耳を疑った。

 「それに、屋外で、しかも人目もあるような状態で水を飲むなんて、うじがみさまがお怒りになるだろ。」

 ……は???うじがみ?氏神?何だそれは?土着信仰の類か?いやしかし、この町における民俗宗教的な話なんて何一つ聞いたことがないぞ?どういうことだ?混乱が混乱を助長する。確かに、考えてみれば、僕が水を飲むのはほとんど教室や家のような屋内だったし、外で水を飲むのも登下校中の水筒からくらいで、しかも誰かと一緒に歩くようなことはなかった。だから、この町において屋外かつ人に見られる状態で水を飲んだのはこれが初めてだ。しかしそれが何だというんだ。この町はそんな迷信に支配されていたとでもいうのか?

 まったく予想外の返答に、論理武装は目的を失ってしまった。視界は再びぼやけてきた。水を飲むことによる一時的な回復はしだいに遠のいていって、ついに僕は完全に意識を失った。

 気づいたら、既に辺りは暗くなっていた。そしてなぜか、僕は家の目の前にいた。電気はついておらず、戸締りもされていない。家族の身に何かあったのだろうか。恐る恐る入ってみると、中には誰もいなかった。しかし、リビングには何故か大きな水たまりが二つあって、新居にも運び込まれたあの小さめのソファーもびしょびしょになっていた。

 よく見てみると、その水たまりには大量のうじが湧いていた。自分の家の中のあまりにも異常な光景に、僕は警察への通報を試みたが、スマホはなぜか水に濡れていて、壊れているようだった。僕は徐々に徐々に、冷汗三斗の思いによって、稚拙なまでの恐怖によって、感情を支配され始めた。

 ずいぶん喉が渇いていることに気づいたから、冷蔵庫から2Lペットボトルを取り出し、コップに注いだ。水には、数匹のうじが浮かんでいた。じっとりと、僕の体が冷や汗を纏うのを感じた。

 泣き叫びたい気持ちを抑え、家の外に出ようと急ぎ足でテーブルを離れて、リビングから廊下に出るドアノブを掴んだ。しかし、いくら力を込めたところで、無慈悲にも、それは回ってくれなかった。

 息が荒くなるのを感じる。心臓が早鐘を打つ。脂汗がにじみ出る。喉が渇く。水が飲みたい。しかし水にはうじがいる。ああ、水が飲みたい。水が飲みたい。水が飲みたい。水が飲みたい。

 ここまで考えたところで、僕はついにコップからうじだけを捨てて、しばし躊躇った後に、中の水を勢いよく体内に流し込んだ。吐き気を催したが、ほんの少しだけ落ちついたような気がした。

 しばらくして、頭が浮かぶような感じを覚えた。しかしさっきとは違って、熱中症のような感じはしない。そんなことを考えているうちに、ふと、おそろしい事実にきがついた。

 自分の名前がわからない。

 自分の名前だけではない。両親の名前も、妹の名前も、この町の名前もわからない。なんとか覚えているものを確認するために、僕の人生におけるいままでのことをすべて、できるかぎり精細に回顧して、文章におこしつつ、今にいたる。

 僕は絶望している。僕はいままで十数年もの月日を生きてきたはずなのに、のこされた思いではこれだけしかないみたいだ。


 頭がどんどんうかんでいく。このいましがたかいた文章をよみかえしつづけないと、記憶がもたなくなってきてしまった。

 うじがみさまとやらのせいなのだろうか。うじがはいってたみずをのんだから?いや、そんなまさか。ああ、めのまえのみずがじゃまでよみづらい

いやだ、いやだ、もういやだ

あたまがうかんでいく


うじがたかってくる

かみころされる


いやだ



あたま



みずが

こぼれる




みず

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それいけ!ルサンチマン
キュアラプラプ
何のために生まれて 何をして生きるのか 解らないまま―――――
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第Ⅰ章 霜焼け

 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの緊迫感に襲われ、早まる心音の刻みを抑えようと、万年床の上に跪き、震えながら深呼吸した。彼の下宿部屋の扉をノックしたのは、覗き窓越しにもわかる特徴的な白い制服を纏った国の治安部隊、通称「恐怖の男ホラーマン」だった。

 彼はすぐさま、「罪状」を思い出した。大学に入ってすぐに、あの革新派雑誌に寄稿したエッセイだ。まさか今になって嗅ぎつけられることになるとは思わなかったこの青年は、ひどく狼狽している。

 訪問者はしきりに扉を叩き、青年はだんまりを決め込む。

 実のところ、現在、青年はもはや活動家と形容されうるような人間ではなくなっていた。彼もまた、ほんの数年前までは社会の変革を望む若い希望に満ち溢れていたのだが、第二クーデターの失敗、そしてそれを通して殊更強化された言論統制による学友たちの立て続けの逮捕は、大学内の活動家のコミュニティを壊滅させ、青年の居場所をなくした。

 そして、それに最愛の弟の死が重なった。青年は完全に生存の活力を失い、大学構内の清掃で日銭を稼ぎながら惰眠と酒を貪る日々を送るようになっていった。だから今の彼には、政府への反逆などという思想は微塵もない。だが無情にも、この国で一度でも政府へ反抗したが最後、恐怖の男からは逃れられないのだ。

 ――ほんの数十年ほど前まで、この国では皇帝による専制政治が執られていた。長きにわたって虐げられてきた民衆は、その一生を、「一日に二かけらのパン」とも揶揄されるような殆ど奴隷に変わりない立場に甘んじて過ごしていくはずだった。

 しかし、先の世界的大戦の長期化が進むと、国家経済は大きな痛手を負うことになる。これによって権力基盤を崩したのが、皇帝であった。この好機を逃すまいと団結した農奴たちは、生活の改善を要求して「パン革命」を引き起こし、ついには宮殿を占拠。私腹を肥やしていた貴族たちと皇帝を虐殺し、ここに民主主義国家の建設を宣言したのだった。

 これによって民衆は自由と平等を手に入れた。誰もに新しく輝かしい生活が開かれゆく、そう思われていた。しかし、農奴から労働者へと転じた彼らは、実際には更なる塗炭を強いられることとなる。広く開かれた自由経済活動によって巨額の富を得たある資産家の男、通称「黴金卿ばいきんきょう」の台頭のせいだ。

 はその莫大な財産を以て、すべて政治を自身の言いなりに変え、強引に、苛烈なまでに経済活動を推し進めた。その結果、特に都会の労働者たちは、帝国時代と変わらない、むしろ「一日に一かけらのパン」という当時よりも劣悪な環境で、それも過酷な重労働をしなければ、到底生活できないなどという状態に陥った。「最下層の労働者」として、社会の歯車に組み込まれてしまったのである。

 これに対して、労働者たちは再び団結し、この重大な危機を乗り越えようとした。しかしながら、黴菌卿に買収されたスパイである「奴金どきん」たちの暗躍や、言論弾圧組織たる恐怖の男の結成によって、二度のクーデターは立て続けに失敗してしまう。さらに強まった統制によって、労働者たちの士気は著しく低下。留まるところを知らないペシミズムは全土を席巻し、前述の通りこの青年もまたその悲観に飲み込まれた一人となった。

 青年はとっくに人生への期待を放棄していた。この社会を変えることは不可能だし、愛する弟も喪った。このまま田舎で飲んだくれて、何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に生涯を終えよう、と思っていた。

 ――しかしこの恐怖を前にして、青年は自らが必死になっていることに気づいた。命を達観しているようで、それでいて虐待される小さなうさぎのようにノックの音に怯えている。全ての感情的な人間を軽蔑しながら、今にも泣きだしそうなほど目と喉の奥に意識を突き刺している。

 こうして、数分間のドア越しの膠着の後、地方の古臭いアパートに銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。愚鈍ながら、青年はこのとき初めて、重く、生々しく、命を失う恐怖を、そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをして感じ取った。青年は飛び上がるように逃亡を決断した。

 白い制服の男たちが放つ怒号には耳もくれず、窓を開けながら、肺にのしかかるような寒さを覚えた。この国の冬季には、気温は零下数十度を軽く下回る。その場しのぎのコートにくるまると、氷のように冷たいベランダの柵をよじ登り、そのままこの無力なうさぎは、三階から地面に向かって飛び降りた。

 青年は足を挫いたが、幸いにも折れてはいないようだった。この国の理不尽さに怯えながら、しかし憤る気力も湧かず、ただがむしゃらに、おぼつかない足取りで、青年はどこへともなく進んでいった。


第Ⅱ章 氷漬け

 青年はいつしか、浮浪者たちの蔓延る通りに辿りついていた。ここには、彼と同様に未来への展望の一切を抱かない人々が、意志を持たずとも強情に小動物の死骸に集る羽虫たちのごとく、生存本能のみを命綱に、あるいは足枷にして暮らしている。しかし彼らには、決定的に青年と違うところがあった。その生きるためのふてぶてしさである。彼らはその日食べるもののためなら、盗みも、詐欺も、暴力も厭わないような人間だ。というのも、実際のところ、そのような犯罪的行為ができない体質の人間はすぐに餓死してさっさと天国に行ってしまうため、結果的にそういう地獄行きの人間だけが生き残ってしまっている、というだけなのだが。

 一方、青年は小心者だった。しかも人を騙す才能もなく、特段力が強いわけでもない。だから、この悪臭漂うスラムにやってきたのもつかの間、数週間にして彼は早くも飢え死にの危機に瀕していた。主な食料といえば、ゴミ袋の中にごくまれに入っている残飯。水分補給は地面の雪からだ。彼は、自身が日に日に衰弱していっていることを誰よりもよく理解していた。

 そんな中で、とある夜、青年は寝ている間にコートを盗まれた。ここら一帯ではそんな程度の盗みなど日常茶飯事であるのだが、これが引き金となって、青年の中で何かが切れた。低く大きな音を立てて切り崩されたのだ。自身を辛うじて生に執着させ、そして縛り付けていた、錆びて黒ずんだ鎖は、僅かに小さく入った傷のところから、誰も気づきえないほど些細なひびのところから、ほどけるように、こぼれるように、崩れ落ちてしまったのだ。

 青年は、浅薄な気持ちのままに、しかし確固として、自殺を決意した。青年は、彼が愛してやまなかった、もう二度と会えない弟と同じ死に様を決意したのだ。

 決断を下すや否や、彼はすぐさまゴミ捨て場を漁り、まだ使えそうな麻縄を手に入れた。らしくもなく陽気に、遠足前日の小学生のように浮足立って、知っている有名曲をごちゃまぜにしたような訳も分からぬ鼻歌を口ずさみながら、適当な樫の木を見つけた。無理に明るくあろうとしたわけでもないのに、彼の心には一片の恐怖もなかった。むしろ、敢えて形容するならば、その感情は希望とさえいえる代物だった。

 木の枝に麻縄を括り付け、頭が通るくらいの穴ができるように結び目をつけた。それから彼は、まるで表彰式のように、地面に転がっていたコンクリートブロックの上に静かに登り、まるで戴冠式のように、ロープの輪を頭上に持ち、目を閉じ、ゆっくりと首に通した。

 足元を蹴り飛ばすと、青年は、宙吊りになった。異常に大きく響く心臓の音は、彼の呼吸を荒くした。脳は頭の中で膨張と収縮を繰り返し、そこに反響するじいんという音は、肺を痙攣させ、押し潰した。青年は、自分が喉から何か音を漏らしていることに気づいた。何の意味もない、言葉にならない、動物の鳴き声と同じような音だった。喘ぎのような、唸りのような、それでいて嘆きのような、そんな音だった。青年は、何も考えないことにした。何も考えず、ただ、ただこの息の詰まる感じが終わるまで待つことにした。

 すると、眠気のような、脱力感のような、のびをした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識にはふたがなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。

 ――彼は背中に強い衝撃を受けた後、ひんやりとした感触を覚えた。目を開けると、頭上には千切れた縄が申し訳なさそうに垂れていた。この麻縄はもともと捨てられていたものなのだから、質が悪いのは当然のことなのだが、青年は釈然としないものを感じた。

 その直後、青年は近くで誰かが笑うのを耳にした。声の主を探すまでもなく、その男は青年の目の前に現れ、へらへらした口調で言った。

「おいお前、自殺失敗とかクソダサいな!」

 青年はこのきちがいに対してどのような対応をすればいいのか見当もつかなかったので、取り敢えず愛想笑いをすることにした。これがつぼに入ってしまったようで、気が触れているに違いないこの男は小一時間笑い続けた。青年は、何故だか、肩の力が抜けるのを感じた。

 その日から、青年はしばしば、男と行動を共にするようになった。その中で、青年は男の素性のピースを少しづつ埋めていった。男は工場寮から脱走してきた都会の労働者だったらしく、廃材やがらくたの間のまるで犬小屋のような小さく狭いスペースで毎晩の休眠をとっていてなお、都の工場地帯に比べたらこのスラムの睡眠環境はまさに天国のようなものだと断言した。同時に、男は活動家でもあった。病的なまでに楽観的な性格を持ち、本気か冗談か、革命によってこの国を変えるとさえ躊躇なく言い放つ。すぐに他人のことで笑うくせに、自分のその主張を笑われたときには、癇癪を起こした子供のように激怒する。そんな男だった。

 男は、まったく典型的な、青年が毛嫌いする類の人間だった。世界を変える気に満ち溢れ、感情的で、自己評価は現実と不釣り合い。

 しかし何の因果か、男は青年の親友になった。

 同時に青年は、いつしか自分の中に封じ込め、固く閉ざしたある思いを、強く意識し始めた。それは輪郭をベルのように揺らし、今にも孵化しようとしていた。

 最初は、この男にこじ開けられようとしているのかとも考えた。しかし、ふと青年は、それを解き放つのは彼自身なのだということを、自ずから、何の根拠もなく、しかし確かに、理解した。気がつけば、既にそれは熱を帯びていた。それはあらゆる生命を照らし出す太陽のようでもあり、あらゆる罪を炙り出す地獄の溶岩のようでもあった。青年は、このことが何を意味するのか知っていた。もはや浅薄で怠惰な人生を送ることなどできない、そんなこともとうに知っていた。

 しかし青年は、再びそれを抱いた。かすかで、拠り所のない、ささやかな、それでいて傲慢ともいえる、漠然とした望みを握りしめた。

 やがて、社会の変革を望む若い希望に満ち溢れるこの青年は、その楽観主義者の男との親交をより深めていった。

 ――奇しくもその頃、全国の労働者たちをたちまち熱狂の渦に引き込んだ存在がいた。奴隷のような彼らでさえも束の間の夢の中にいる深夜遅く、それは悪趣味な高級住宅街にやって来て、資本家ブルジョワジーどもの屋敷に侵入し、たちまち奴らを叩きのめす。民衆が起きたときには、もはや豪邸はもぬけの殻だ。

 いつしか労働者たちは、その意味を知ってか知らずか、人知れず悪を撃滅するそれをこう呼び始めた――「ルサンチマン」と。


第Ⅲ章 雪解け

 そのころには、スラム一帯は革新派の巣となっていた。そして、やはりというべきか、希望をしかと胸に抱く浮浪者たちはいつも、ルサンチマンの話題で持ちきりだった。他のいくつかの活動家ともパイプを持っているというかの男によれば、ルサンチマンの活躍への熱狂は、至る地方でいくつもの反政府コミュニティを興隆させてきているという。ルサンチマンはいつしか、労働者にとってのヒーローとなっていたのだ。

 青年は、この国に高鳴り響き渡る機運を感じ取っていた。それは一見すると、漠然としていて、統一性のない、霧のようなものに思えた。しかし、それが人々を取り巻いているという状況こそが、新たな社会への道を照らし、それを包むベールを焼き払いつつある、そう思うと、青年の感情を司るところには、明るく誇らしげな表情が浮かび上がった。

 しかしあの男は、奇妙にも、ルサンチマンに疑念を抱いていた。

 確かに、ルサンチマンの正体は、その一切が謎に包まれている。いったいどうやって資本家どもを跡形もなく国から追い出しているのか、いったいどうやって恐怖の男から逃れおおせ続けられているのか、いったいどうやって誰にもその姿を悟らせないのか、疑問が尽きることはない。しかし青年は、どうしてもそれと不信を結びつけることなどできなかった。実際、ルサンチマンが彼ら民衆に危害を加えたことなど一度たりともない。それなのになぜ、男がルサンチマンを頑なに詮索しようとするのか、理解できなかった。

 あの日、ルサンチマンの正体を探るという目的の下、男はスラムから飛び出していった。青年は驚きながらも、毎日のように男から届く便箋に慣れるのには、そう多くの時間を必要としなかった。そこには、彼が労働者だった街にまで足を運んだと綴られていた。男は、その話をするだけで反吐を催すほどまでに嫌悪してやまない街に、ルサンチマンの姿を探し回るためだけに向かったのだ。青年はそれが甚だ理解できなかった。苦渋をかき分けて中に入り、纏わりついてくるそれを振りほどいてまで、人知れず戦う英雄を白日の下に曝し出そうとするなどというきちがいじみた行動を、青年は未だ知らなかった。

 それから二週間ほど経って、男から手紙が届くことはなくなった。何かやむを得ない事情に見舞われたのだろうとして、初めの内はこれを納得しようとしていた青年だったが、しかし、彼は非情な現実を突きつけられることになる。それは、近年のムーヴメントによって秘密裏に復活を遂げ、こうしたコミュニティ間において流通していたあの革新派雑誌を読んでいたときのことだった。

 ページをめくる青年の手は、ふと止まった。実によく見知った顔が掲載されていたからだ。だがその表情は、いつものあのへらへらしたものではなく、まるで別人のように見えた。

 ――青年は、その噂を聞いたことがあった。奴金の立場にありながら、革命を望むひねくれ者の男がいると。表向きには政府の犬として振る舞い、しかしその裏、あらゆる情報を革命の中枢に横流しだ。先の第二クーデターにおいても、この二重スパイの活躍は、黴金卿の喉元に銃口を突きつけるまでに至ったという。とはいえ、数々の裏切りが政府に露見してからここ数年は、まるで姿を見せないようになったらしく、やがて彼に入れ替わるようにルサンチマンが現れた。黴金卿の飼い犬にして、かびの生えた革命協力者。あまのじゃくで怒りっぽく、幼稚でへそ曲がり。誰が呼んだか、彼は労働者の中で「名犬『青臭い黴ブルーチーズ』」として定着していた。

 しかし、青年は紙面に躍る言葉の意味を上手く飲み込めなかった。名犬の死亡記事に、なぜ親友の顔写真が堂々と刷られているのか、嚥下できなかった。否、実際のところ、青年はとっくにそれに気づいていた。それなのに彼は、必死に理解を拒んだのだ。それを支えたのは、あの男の死を認めようとしない気持ちというよりもむしろ、秘密でつけていた日記が公衆に閲覧されるのを黙って見ることしかない少年のような、お気に入りのクレヨンが他人に使われて塞ぐ幼児のような、たった一人の年来の親友に裏切られた老人のような、この理不尽を声高に主張しようとする、独占的でわがままな気持ちだった。

 青年はあの男がよく過ごしていた場所へと向かった。その錆びたトタンやら朽ちた板材やらのすきまにある空間の奥にまで入ったことはなかったが、意を決して、というよりその反面ほとんど何も考えることなく、しゃがんでずけずけと進んでいった。すると彼は、思いがけないものを見つけた。床に打ち捨てられている、寒い冬を乗り切るには薄くて硬すぎるそれは、紛れもなくあの盗まれたコートだった。だが、青年はもはや、何も感じられなかった。

 青年は、自分があの希望を失っていくのを感じた。雲がかかった太陽のように、罪人のいない地獄のように、こもっていた熱は次第に薄れ、感じられなくなってゆき、やがて肺には冷ややかな空気がなだれ込んできた。この浅薄で怠惰な青年は、自己の変わり身の早さを自嘲し、しばらくの間、すべてを放棄してぼうっとしていた。

 ――ふとコートのポケットの中に手を突っ込むと、青年は、折り畳まれて縒れた古紙が入っているのを見つけた。その表面に横たわるみみず文字を、眠い目をこすりながら解読すると、どうやらこのように書いてあるらしかった。

 「俺は政府の犬でもなければ、ルサンチマンの味方でもない」

 「ただ一つ言えるのは、俺を殺したのは他ならぬ『革命』だっていうことだ」

 「だからお前に託す」

 「あの街に行け。『俺が昔そこで労働者だった』っていう嘘をついた街だ」

 「あの街は、革命勢力の本拠地だ」

 「俺は考えるのをお前に託す」

 「この革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか」

 「結局俺にはわからずじまいだった」

 「俺は一足先に行く。頼るとしたら『ジャムおじさん』を頼れ」

 「ああ、ついでに、墓にはジャーキーでも供えといてくれ」

 最後の手紙を再び折り畳み、元の場所に戻してから、青年は勢いよくコートを羽織った。久々の肌触りは、相も変わらずの安っぽさであったが、しかし何故だか、どこか暖かさを感じるようでもあり、青年は弟の肌の温もりを思い出した。暫しの回顧の後、この暖かさを気のせいだと切り捨てた彼は、はっきりした足取りで、その街へと向かっていった。

 青年はまたも、自己の変わり身の早さを自嘲した。

 ――ルサンチマンの活躍は衰えるところを知らず、この頃には、既に資本家どもの十人に一人が国外に追放されてしまうというありさまだった。労働者たちの団結はますます強まり、その機運の現実性もまた強まっていった。国中にまたがる漠然とした雰囲気は、遠足前日の小学生のように浮足立つ雰囲気は、徐々に一つの形として収束し、はっきりとした輪郭を描いてきていた。今までおとぎ話のものだった新たな社会は、今やショーウィンドウの中にまでやって来て、民衆の熱狂を助長した。

 国に溢れるその機運――「革命の機運」は――どこの誰が見ようと明らかなものになっていた。それに呼応したのだろうか。革命勢力の中枢において、第三クーデターの計画が、ついに活性化しつつあった。


第Ⅳ章 夜更け

 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの葛藤に悩まされていた。果たしてこの革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか――

 この街には、革命勢力の中心となっている二人の人物がいた。「ジャムおじさん」と「旗子ハタコさん」だ。ジャムおじさんは穏健派で、「血の流れない革命」を信条にしている。一方、旗子さんは過激極まりなく、暴力によって黴金卿をこの国から追い払うという「血に祝われる革命」を掲げている。彼らはこの国の革新を求めているという点では一致しているが、性格はまるで正反対なのだ。

 手紙に書いてあった通り、青年は街に来てすぐにジャムおじさんを尋ねた。郊外の山麓にひっそりと佇む、褪せた赤の三角屋根を構えた、大きな煙突のある家。彼はここで一人、執筆作業をしているところだった。何か集中したいことがあるときには、この別荘で過ごすことにしているという。

 チャイムを鳴らし、あの名犬のことを話すと、彼は快く青年を招き入れた。青年の目には、彼は至って普通の壮年男性として映った。全土を席巻している激しい革命の動きの先頭に立っている人物と、この青い髭を蓄えた、ふくよかで気の良さそうな凡夫とが、同一人物である。青年にとってこれは、例えるなら歯のない人食い鮫のような、穏やかに握手を求めてくる拷問者のような、鋭利な箇所のないナイフのような、矛盾した、奇妙なものに感じられた。

 ジャムおじさんは、椅子にゆったりと腰を下ろし、珈琲を飲みながら、この革命勢力についての様々なことを青年に話した。資本家に怒り狂う民衆の大部分は、過激な思想を擁し、「革命の旗手」と呼ばれる旗子を支持しており、自分のこの地位は最早形骸的なものでしかないこと。旗子は街の中心部にある豪邸で、まるで貴族のような生活を送りながら、黴金卿の貴族のような生活を激しく非難していること。先のパン革命で処刑された「私腹を肥やしていた貴族たち」のほとんどは、実際には農奴解放のために尽力していたこと。あの革命を先導していたのは、他でもない黴金卿であったこと。

 そして、今、第三クーデターが始まろうとしていること。

 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの葛藤に悩まされていた。確かに、労働者たち、特に都の労働者たちは、言葉にするに伝わらない壮絶な苦役を強いられている。青年は、彼らを解放することは明らかに自身たち民衆の責務だと考えていた。人間は統べて、自らの意思によって自らの在り方を決定する権利を、神にさえも踏みにじられないべきである自由の権利を固く有しており、それを侵そうとする人間を、社会を、国を、徹底して打ち破らねばならないと考えていた。そしてこのことは、全ての人間にとって自明なものであるとも考えていた。

 しかし、その一方で青年は、この革命が成されたところで、同じ轍が再びこの国に、殊更に深く彫られるだけなのではないかとも考えていた。皇帝を民衆に殺させた黴金卿が皇帝となったのと同じく、黴金卿を民衆に殺させようとしている旗子が、民衆を生き地獄に縛りつけ続ける次の皇帝になるのではないかと考えていた。自明な正義の名のもとに為される巨大な犯罪が、倫理を誑かして民衆の目から法を消し去ろうとする煽動者の腹中にある犯罪が、あらゆる人間の社会性をあざ笑うような犯罪が、今ここに始まろうとしているのではないかと考えていた。

 正義とは。暴力とは。欲望とは。自由とは。様々な思いが青年を逡巡する。

 ――チャイムが鳴り響き、青年の思索は中断された。ジャムおじさんは徐に立ち上がって玄関へと向かった。気づけば、ジャムおじさんのグラスには氷しか残っていない一方、青年の珈琲はほとんど減っていなかった。

 暫くして、彼はその訪問者と共に居室に戻って来た。訪問者は若い女性だった。青年は直感的に、何の根拠もなく、しかし確かに、彼女こそが旗子なのだと勘づいた。彼女は、座っている青年を眼中に捉えた。

 「この人は?」

 ジャムおじさんは青年を一瞥して、こう言った。

 「旅人だよ。道に迷ってしまったらしく、今晩は泊めてやることにしたんだ」

 旗子が十分に警戒すべき人物であるということを、青年は静かに察した。

 「へー」

 「で、こんな深夜に訪ねてくるなんて、要件は何だい?」

 旗子は懐から拳銃を取り出して言い放った。

 「単刀直入に言う――死んで」

 「…………私が邪魔になったのか?」

 「もっと怯えてくれてもいいのに。勿論銃は本物よ」

 山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。青年はあの夜のことを思い出し、心音の刻みを早めた。彼らの会話は、青年を置き去りに白熱していった。

 「あなたはね……穏和すぎるのさ。過ぎた人徳は革命を希求する者として害になる。その証拠に、あなたの影響力はここ数年で地に堕ちたわ。今更『血の流れない革命』を標榜してる人なんてほとんどいない」

 「それは君が私の支持者を消してまわったからじゃないか。気づいていないとでも思っているのかい?」

 「ふふ……確かにそんなこともしたわね。だけど、直接的な原因はそうじゃない。本当は自分でも分かってるんでしょ?」

 「…………」

 「第二クーデターの時……私たち革命軍は遂に、あの豪邸に乗り込むことに成功した。そして、黴金卿の下にたどり着いたのはあなたが指揮した第三分隊。あそこであなたが発砲を許可していれば今頃労働者たちは自由を謳歌していたはずなのに……あなたはそうしなかった。一体なぜ? 笑える話よ! 黴金卿の娘が泣きながらやつに抱き着いていたから撃てなかったんですって!」

 ――それを知ってなお、青年は彼を責める気になど今更なれなかった。しかし、彼の行動をほめたたえる気もさらさら無かった。青年は、矛盾に塗れた自分を俯瞰し、誰にも聞こえないような声で小さく毒づいた。

 続く旗子の追及に、この優しい顔をした男は、悲しそうに下を向いて応えた。

 「……無辜の小さな子供を巻き込むわけにはいかなかった。それだけだよ」

 「まだそんなこと言ってるのね。近づいて黴野郎だけ狙い撃ちすればそれでよかったじゃない。ま、とにかく……あなたはあの時から民衆の信頼を失ったの。もうあなたは革命の先導者なんかじゃない。自分が何て呼ばれてるか知ってるでしょ? 『弾詰まりの老翁ジャムおじさん』よ!」

 「……私は気に入っているよ、その呼び名も」

 「はあ。まったく呆れたわ。でも…………そんなあなたにも、革命に貢献できるチャンスはまだ残されてる――そう、死ぬことさ」

 「……私のような老いぼれが一人死んでどうなるというのかね」

 「消費期限切れのケーキでも、捨てるときには勿体なく感じるでしょ? それと同じよ。犯人不明のあなたの他殺体は、さらなる労働者の団結をもたらす」

 「……君はこの革命の後……一体何をするつもりなんだい?」

 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。

 「地獄の底から見てたらいいんじゃないかしら」

 ――山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。空っぽのグラスは、淋しげな音を立てて揺れた。


最終章 それいけ

 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの緊迫感に襲われ、早まる心音の刻みを抑えようと、椅子に座ったまま、震えながら深呼吸した。旗子は青年の方を振り向いた。

 「君さ、あの犬のお友達でしょ。おおかた奴にここに来るように言われたのかしら。ジャム野郎にかくまってもらえるとでも思ったんでしょうね。でも残念。私は反逆の芽を見過ごさない。とっくにあなたのことは何から何まで調査済みよ」

 青年は銃口を向けられて、肌を粟立てながら、ここが人生の最終章であることを悟った。

 「あらあら、怖がってる? 胆力が無いわね。まるでうさぎみたいに縮こまって。……ふふ、我ながら言い得て妙ね。知ってる? うさぎって性欲が強い動物なのよ。実の弟に性的虐待を繰り返して、ついには自殺させた君にぴったり」

 青年は黙って旗子を睨みつけた。しかし、彼女は心底愉快そうに口の端を歪めているだけだ。

 「ああ、そういえば、チーズのルサンチマンへの推理は見事に的中だったわ。きみも聞かされたでしょ?」

 青年は口を閉じたまま、目線を銃口から逸らないように、首を横に振った。

 「あら、そうだったの。じゃあせっかくだし教えてあげる。ルサンチマンの正体は……」


 「――ルサンチマンは、君さ」


 青年は困惑した。自分は資本家の家に押し入って奴らを追い出したことなんてないからだ。それに気づいているのかいないのか、旗子は犯人の仕掛けたトリックを看破する探偵のように、饒舌に喋り始めた。

 「社会には沢山の人間がいる。穏和な人もいれば、過激な人も。彼らの内面はそれぞれ大きく異なっていて、共通点なんかないように思えるわ。けどね、一つだけ、ほとんどの人に当てはまる傾向がある。自身を矮小化することよ。自分の考えが、思いが、この社会に影響を与えるわけがない、なーんて……いわば高を括っているの。『塵も積もれば山となる』。シンプルな常套句ほど、物事の本質を表しているものね。それに人間は社会性の高い動物だから、周りが自身をどう思っているのかなんてすぐに分かる……」

 旗子は大げさに手のひらを上げる。

 「……いいえ、単刀直入に行きましょう。まず、ルサンチマンは実在の個人ではない。というかそもそも、資本家を襲撃した存在なんて、端からいないのよ」

 青年の困惑は増しにも増した。資本家を襲撃した存在はいない

 「じゃあルサンチマンはいったい何なの、って顔ね。ふふ、とっても笑える話よ。答えはこう……資本家のお引っ越し!」

 青年は唖然とする。

 「最初に『ルサンチマン』の手柄だとされていた、度重なる資本家の失踪。その真相は、本当にただ単に、彼らが別の家に引っ越したってだけよ。でも、それをあたかも何かしらの存在によって行われた『追放』のようにしてさまざまなコミュニティで喧伝し、都合いいヒーローの存在を流布しさえしてしまえば、十分な教育を受けていない馬鹿な労働者どもや活動家どもはすぐにそれを信じ込んでしまうわ。取り沙汰されてる資本家がわざわざ事実を訂正しに来るなんてこともないしね。でも、『ルサンチマン』というただの集団妄想は、口伝によって十倍にも百倍にも膨れ上がり、積もり積もっていつしか労働者たちの間に革命の機運を巻き起こしたわ。全てが私の狙い通りよ。用済みの『名犬』に代わる新たな労働者たちの英雄『ルサンチマン』! それは資本家への敵意によって労働者を団結させ、この国を生まれ変わらせる‼」

 旗子は、まるでオーケストラの指揮者のように、腕と目線を踊らせる。

 「こんな風にして資本家への攻撃的な雰囲気ができ上がってしまってからは、それを察して危機感を覚えた資本家が点々と、本当に国外逃亡をし始めたわ。あの資本家は国外逃亡、この資本家も国外逃亡、こうなってしまえば、後はドミノ倒しね。資本家たちは周りに倣ってどんどん国外に出ていってしまう。奇しくも、最早この国から追放されていない資本家は皆無に等しいわ!」

 青年は、何も考えられなかった。あらゆる人間の愚かさを嫌と言うほど眼前に突きつけられ、得意の自嘲さえできず、ただ茫然とするしかなかった。

 「黴金卿も馬鹿な奴ね。これを止める方法ならいくらでもあったわ。少しでも腰を入れてこの反逆の芽を潰していれば良かったのにさ、皇帝の座に胡坐をかいて何もしなかった。私ならそんなへまはしないわ。……そうだ、君は『アンパンマン』という作品を知ってるかな? まあ、知らないだろうけどね。遠い東の島国で有名な物語なの。あれで例えるなら、黴金卿は『かびるんるん』といったところね。あらゆる食品――財産のメタファーかしら? それを蝕み、壊し、貪る……それに、無限に湧いて出てくるところなんかもうそっくりさ!」

 青年は、すべてを諦めて、すべてを放棄して、ぼうっとしていた。窓の外に横たわる、美しい山々の、その奥の奥の方を眺めていた。この話が終われば、自分は邪悪な扇動者――次の皇帝――の弾丸を受けて死ぬ、そのことが分かりきっていたからだ。青年の感情を司るところは、急速に、氷のように冷たくなっていった。

 「あれ……おーい! 聞いてる? もう飽きちゃったの? はあ。つまんないなあ。あの犬も最期はこんなだったよ」

 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。しかし、不思議と恐怖は無かった。それどころか、愚鈍にも、いかなる感情さえもが湧いてこなかった。そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをしてもなお、何も感じ取ることができなかったのである。何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に、青年は自身の生涯を終えようとしていた。

 旗子が何かを言ったような気がしたが、「きいん」という、近くのどこかで反響しているのであろう、か細い、しかし強く轟く音に邪魔されて、青年はそれをうまく聞き取れなかった。

 青年は、ルサンチマンとは何だったのか、よく分からなくなっていた。あらゆる社会に本能的に潜むこの身勝手な英雄は、時には他愛ない嫉妬として、時には頑強な正義として、時には自由への革命として、いつも顔を挿げ替えて現れ、強情に小動物の死骸に集る羽虫たちのごとく、寄ってたかって人知れず悪を攻撃し、時には撃滅しさえする。

 ああ、だがしかし、それは金持ちを豪邸から追い出すだけだ。強者を社会から追放するだけなのだ。決して、決して、我々に一かけらのパンをも与えやしないのだ。どんなに小さい一かけらでさえも…………

 ――眠気のような、脱力感のような、のびをした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識にはふたがなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。

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疑心暗鬼
Notorious
扉の向こうに立つ弟は、通り魔なのか……?
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 は〜あ、定期的にガス抜きしなきゃ、クレーム対応なんてやってらんないわ。


 支倉麗はせくられいは、アパート2階の自室に入るなり、バタリと倒れ込んだ。ヒールのない靴を乱暴に脱ぎ、被っていた野球帽を取り、雑多に物が詰まった鞄を放る。日もとうに沈んだ金曜日の夜8時半、勤めているコールセンターからようやく帰宅した。5日間に亘って知らん中年どもの文句を聞かされて、心身共に疲弊し切っている。
 冷蔵庫に缶ビールがあったはずだ。何か適当につまんで、さっさと寝てしまおう。麗は重い足を引きずって奥へと向かった。
 ヘアゴムをぐいと取り、座布団にどっかと腰を下ろす。うら若き乙女にあるまじき所作だが、独り暮らしの社畜なんて皆こんなものだろう。いや、そうでなきゃ困る。
 麗は、何の気無しにテレビをつけた。別段見たい番組がある訳ではないが、食事の時くらいこの空虚な部屋を音で埋めたかったのだ。
 ところが、テレビはつくなり、緊迫した声を響かせた。
『……り返します。K県S市で、連続通り魔事件が発生しました』
 ぎょっとした。自然とテロップに目が吸い寄せられる。
《S市で連続通り魔 2名死亡、1名重体》
「えっ⁈」
 2名死亡、1名重体? K県S市、ここだ。え?
 麗の動転をよそに、アナウンサーは淡々と原稿を読み上げる。
『午後8時頃、S市のN駅通りで「人が刺された」と通報がありました。警察によると、犯人は歩行者を次々と刺し、2人が死亡、1人が意識不明の重体となっています。また、犯人は逃走中とのことで、付近の住民に注意を呼びかけています』
 N駅通りとは、麗の帰宅ルートであり、ついさっきも歩いてきた。時間は確か、8時頃。そう言えば、歩いているとき後ろの駅側がやけに騒がしかったっけ。
 ようやく麗は事態を理解した。私のすぐ近くで、通り魔が人を刺したのだ。
 反射的に玄関を振り返る。扉の鍵は、掛かっていた。ホッとすると体の力が抜けた。後ろにパタリと倒れ込む。何だか笑いが込み上げてきた。アハハハという乾いた笑いが部屋に響く。
 こんなことが、起こるなんて。
 ……疲れてるみたいだ。こりゃさっさと寝ないと。
 その時、テレビの中のスタジオがざわめき出した。アナウンサーの動揺が声に乗って伝わってくる。
『新しい情報が入ってきました。犯人が写った写真があるそうです』
 慌てて身を起こし、画面を見つめる。そこに写っていたのは、なかなかにショッキングな画像だった。
 中央に、モザイクがかけられた人影。体は右側に向いており、右半身しか見えない。そして、彼もしくは彼女は、ガクリと膝を折って今にも崩れ落ちようとしていた。胸の辺りから、鮮血が迸っている。
 刺された直後なのか。麗は戦慄した。呼吸が浅くなる。
 そして、写真の左端。被害者とは反対方向に進んでいる人の左半身。見切れてしまい後頭部と背中くらいしか写っていないが、ニット帽とマスク、黒いジャンパーを着けていることは確認できる。こいつが、通り魔。
 アナウンサーは何か説明を加えているが、その声がどんどん遠ざかっていく。反比例して、麗の心の中に一つの思いが膨れ上がっていった。
 写真に写っていた通り魔。あれは、ようじゃないか?
 頭や耳の形、歩く姿勢、短めの髪。それらはなんだか、弟の燿に似ている。燿は麗の2つ下の弟で、就活中の大学4年生。住まいも、N駅の反対側で現場から遠くはない。それに、燿はサイコサスペンス映画を偏愛している。何回かDVDを借りたこともあるが、通り魔を題材にしたものもあったような……。
 いや、馬鹿馬鹿しい。そんな妄想で実の弟を犯罪者扱いしてしまうなんて。あの賢い子が通り魔なんてする訳ない。それに、写真の特徴に合致する人なんて、この町には掃いて捨てるほどいるだろう。
 やっぱり、疲れてるんだ。さっさと寝ないと。
 冷蔵庫から缶ビールを出そうと立ち上がりかけた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「姉貴、いる?」
 紛れもない、支倉燿その人の声だった。


「よ、燿? どうしたのよ?」
 声が裏返りそうだった。なぜ、燿がここに?
「通り魔が出たって外は騒ぎになってるんだ。姉貴、知ってる?」
「え、ええ」
「恥ずかしながら、怖くなっちゃってさ。犯人は捕まってないっていうし。家に帰るには現場の近くを通らないといけないからさ。悪いけど、今夜だけ泊まらせてくれない?」
 ドアの向こうで頭を掻く燿が目に浮かぶ。
「でも、事前に連絡くらいくれたっていいじゃない」
「したさ。でも姉貴は全然LINE見ないじゃん。なら直接行った方が早いかなーって」
「そうなの。まあ仕方ないわね。今開けるわ」
「ありがとう、姉貴」
 麗は玄関へと歩いていき、サムターンに手をかけた。
 その時、一つの疑念が首をもたげた。馬鹿馬鹿しいはずなのに、どうしても捨てきれない疑念。
 燿が、通り魔なんじゃないか? 家に上げていいのか? 匿ってもらうためにきたんじゃないか? いや、ひょっとしたら私も刺されるかもしれないんじゃないか? 女の私が、力で燿に敵う訳がない。部屋に入ったら、いやドアを開けた瞬間、殺されてもおかしくないのではないか?
 体が固まった。嫌な汗が滲み出てくる。
「……姉貴?」
 燿が不審そうに声をかけてきて、麗は我に返った。選択しなければ。
「……やっぱり部屋を片付けさせて。しばらく待ってなさい」
「え〜っ、別に気にしないよ」
「私が気にするの」
「思春期かよお」
「文句言うなら入れないわよ」
「はいはい」
 取り敢えず、考える時間を稼ぐ。
 麗は一旦玄関から離れ、鞄やらを片付け始めた。ああ言った以上、片付けをする音を立てておかないと、怪しまれかねない。このアパートは全く防音できないんだから。靴を並べ、帽子を壁に掛け、鞄は押し入れに突っ込む。
 この部屋の間取りは、風呂・トイレ付きの1DK。燿が通り魔なら、家に入れた時点で逃げ場はない。
 いや、周りに助けを求めれば……。そこまで考えて麗は頭を抱えた。2階の住人は麗を除いて1人だが、その1人は長期旅行中。更に、下の階の管理人老夫婦は耳が遠い。いくら泣き叫んでも助けは来ないだろう。
 燿を部屋に入れないのが一番安全だが、潔白だったら入れない訳にはいかない。追い返されて家に帰っている間に燿が本物の通り魔に刺されました、なんてことになるかもしれないのだ。やはり、燿が通り魔か否か、慎重に見極めねばならない。


 でも、どうやって? 途方に暮れていると、麗はテレビをつけっ放しにしていたことに気づいた。スタジオでは、現場周辺の略図を描いて事件のあらましを解説している。発生からあまり時間が経っていないのに、大したものだ。
 事件が起こったN駅通りは、N駅から南に真っ直ぐ延びている。夜8時頃、そのN駅から100mほど進んだところで、第一の被害者が出た。夜勤に出ようとしていた女性が胸を刺され、重体となっている。先程の写真も、この時を写したものだ。その数分後、更に500mほど南下したところで、第二、第三の凶行が相次いで為された。会社員の男性と女子大生が今度は右腹を刺され、肝門脈損傷により失血死した。いずれの事件も、犯人は被害者をすれ違いざまにナイフで刺し、周囲が異変に気づいた頃には既に歩き去っていたという。
 そうアナウンサーは早口で解説した。第二・第三の事件現場は、ここから300mほどしか離れていない。もし燿が通り魔でも、ここに到着した時間は矛盾しない。
 待ちかねたのか、燿が不満を訴えた。
「まだあ? こう見えても俺、結構怯えてるんだけど」
 聞き慣れているはずの燿の声が、なぜか気味悪く感じる。怯えているのは、こっちの方だ。
「……燿。あんた、何で外にいたの?」
「バイト帰りだよ。N駅通りの居酒屋で働いてるって、前に言わなかったっけ?」
 随分前に言われた気がする。
「酒に弱いあんたが、よく面接通ったわね」
「店員は酒飲まねえからいいんだよ。それに、最近はそこそこ飲めるようになったんだぜ?」
 燿は、生粋の下戸だ。少し杯を舐めただけで、ベロベロに酔ってしまう。燿が二十歳になった日の夜、あっという間に酔い潰れた燿を担いで店を出たのはいい思い出だ。
 そんな弟が通り魔じゃないかと疑っている、私の頭のネジが数本飛んでいることは間違いない。
「とにかく、もうしばらく待ってなさい」
「判ったよ」
 さて、落ち着いて見定めるのだ。選択を誤れば、最悪死ぬ。


 麗は足音を殺して、玄関に向かった。息を止めて、そっとドアスコープを覗いた。
 充血した目がこちらを覗き返している……なんていうホラー展開はなく、燿が壁に凭れているだけだった。ちらちらと階段の方を気にしている辺り、本当に誰か来ないか怖がっているらしい。尤も、それが通り魔か警察官かは判らないが。
 目を凝らしてよく観察してみた。燿は黒っぽい英字Tシャツとジーパンを着て、大きめのリュックサックを背負っている。
 暗くてよく見えないが、少なくとも返り血がべったり付いているということはない。だが、写真では血が噴き出る前に犯人は被害者とすれ違っていたから、返り血を浴びていない可能性も十分ある。それに、そもそも着替えを用意していれば何の問題も無い。
 燿は、手にスマホだけ持っている。通り魔なら持っていたはずの物がある。例えば、ナイフや黒いジャンパー。しかし、リュックサックに入れてあるのかもしれないし、途中で捨ててきた可能性もある。
 結局、何一つ確言できないままだ。
 唐突に、燿がこちらを向いて話しかけてきた。
「それにしても、連続通り魔なんて物騒だよな」
 忍び足のまま距離を取り、
「本当にね」
と返す。動悸がうるさい。
「被害者も、意識不明だってね。なんとか助かればいいんだけど」
 喋りながら、麗はテレビに目を向けた。画面には1つのフリップがアップで映されている。
『こちらが、独自インタビューから見えてきた犯人像です。犯人は身長160cm程度の男性。灰色のニット帽と黒のジャンパー、青いジーンズを着けています。また、右利きと見られます。では、詳しいインタビューのVTRをどうぞ!』
 燿は、短髪で身長165cmほどの右利きの男だ。服装は着替えがあれば何の手掛かりにもならない。
 つまり、プロフィールは全て合致している。しかし、このプロフィールに合致する人間はごまんといるだろう。事態は全く変わっていない。
 テレビには、1人の男がマイクを向けられ、興奮気味に話していた。
『すれ違ったと思ったらおっさんが腹を押さえて倒れてよお。通り魔はそのまま俺の横をスタスタ歩いていったよ。顔は帽子の鍔でよく見えなかったが、身長は160くらいだったぜ』
 その次は、犯人が写ったあの写真の撮影者の証言らしかった。色黒のギャルが、大仰な身振りを交えて喋っている。
『そこのテラス席で、パフェと自撮りしようとしてたわけ。こう……スマホを構えて撮ろうとしてたんだけど、後ろの歩道に人が通りかかったから、画面見ながら待ってたんよ。そしたら、いきなりブスッと、男が右手で女の人を刺したのがパフェの横に見えたの。もう私びっくりしちゃってえ、思わずシャッター押しちゃったのが、この写真ってわけ』
 パフェを持ったギャルの自撮りだが、視線が微妙にずれてしまっている。その左奥には、血を噴き出す被害者と見切れた犯人が。あの写真は、これを拡大したものだったようだ。
 その時、遠くからヘリコプターの飛行音が聞こえてきた。
「テレビの中継でもやってるのかな」
 燿が扉の外から問いかけてきた。
 ふと、閃いた。燿はずっと外にいたから、テレビを見る機会などない。鎌をかけてやろう。意を決し、麗は外に向かって話しかけた。
「通り魔なんて怖いわね。刺された女の人は、首をかかれていたってよ
「え? 胸を刺されたんじゃなかったっけ?」
 掛かった。
「燿。あんた、それどこで知ったのよ? テレビを見る機会なんて無かったはずよ」
 つまり、燿は現場を見たことのある、通り魔に他ならないのだ。
 ところが、あっけらかんとした答えが返ってきた。
「テレビ? 普通にネットで見たよ。てか、まだ片付け終わらないの? もう真っ暗だよ」
 そうか、情報を得る手段はテレビだけではない。自分がネットを滅多に使わないから、忘れていた。現代っ子め。また振り出しだ。
「姉貴、情報が錯綜してるから、気をつけなよ。ネットは勿論、テレビですら十分な取材ができてないかもしれない。フェイクニュースに騙されないようにね」
「判ってるわよ」
 心配されてしまった。全く、人の気も知らないで。
 テレビはネタが尽きたのか、先程と同じ内容を繰り返し始めた。独自インタビューから見えてきた犯人像──。
 ……ん?
 燿の台詞が脳内でリフレインされる。テレビですら十分な取材ができていない──。
 ゆっくりと、考えが組み上がっていく。



「……き、姉貴! おーい!」
 気づくと、燿が麗を呼んでいた。生返事をすると、
「どうしたんだよ。片付け終えたんなら、入れてくれないか?」
と心配げに言われた。
 麗はゆっくりと立ち上がると、玄関に行き、扉の前に立った。
「ごめん、燿」
 それから、右手を伸ばし、サムターンを捻った。扉を押し開け、笑いかける。
「待たせたわね」
「怖くて死ぬかと思ったぜ」
 言葉の割には平気そうな顔で、燿が笑った。


*   *   *


「実は私ね、燿が通り魔なんじゃないかと疑ってたの」
 燿を部屋に上げ、冷蔵庫から缶ビールを2つ取り出しながら、麗は言った。燿は枝豆を口に運びかけた姿勢のまま、固まった。同じ内容を繰り返すテレビ番組が、タイミングよく通り魔の写真を映した。
「ほら、燿に似てない?」
「ん〜、俺に見えなくもないけど……こんな男なら大量にいるだろ」
 それから、麗は燿を通り魔か否か見極めようとしたことを話した。燿は笑ったり感心したりしながら話を一通り聞くと、麗にこう尋ねた。
「だから入れるのを渋ってたのか……でも、どうやって俺が連続通り魔じゃないと判断したんだ?」
ギャルの証言よ
 麗をテレビを指した。丁度写真を撮ったギャルのインタビューシーンが流れている。
「彼女は、自撮り中に画面の中で通り魔が右手で女性を刺したのを見た、と証言しているわ。最初はスルーしてたけど、よく考えたら解釈を間違えていたのに気づいたわ。スマホのインカメラの画面だと左右は反転する
 麗はプルタブを引き起こし、ビールを呷った。
「テレビで『犯人は右利き』なんて吹聴されていたから、テレビクルーと同じ勘違いをしてしまったわ。本当は、通り魔は左利きなのよ」
 燿もビールに口をつけた。
「だから、右利きの俺は連続通り魔じゃないって訳か」
「ま、そういうこと」
 しかし、意地悪な笑みを浮かべて、燿は問うてきた。
「でも、ギャルの覚え違いだったり、捜査を攪乱するために通り魔がわざと利き手じゃない手を使ったりしていたかもよ?」
「それらの可能性は薄いと判断したわ。それに……」
「それに?」
 麗は頬杖をつき、弟に笑いかけた。
「私の可愛い弟が、通り魔なんてする訳ないじゃない」
 燿は驚いたような顔をしたが、すぐにニヤリと笑うと、ビールの缶を持ち上げた。
「姉弟の絆に」
 麗も缶を持ち上げる。
「乾杯」
 澄んだ音が部屋に響いた。


*   *   *


 麗はシンクで皿を洗っていた。酒に弱い燿は案の定、卓に突っ伏して寝息を立てている。
 この1時間ほど、色々あった。頭の中で振り返ってみる。
 ……ふと、怖くなった。燿は、私の考えなんて全てお見通しなのではないか? 私はまんまと騙されたのではないか? あの子は賢い。もしかしたら……。
 いや、そんなわけがない。麗が疑念を払うために振り向くと、こちらを虚ろに見つめる燿と目が合った
「きゃっ」
 皿が手から滑り落ち、バリンと割れた。心臓が早鐘を打っている。
「な、なんだ、起きてたのね。びっくりし」
「テレビ番組で通り魔が右利きだと言っていたのは」
 突然、燿が言葉を遮って口を開いた。皿の破片を拾うのも忘れて、麗は固まっていた。テレビを消したこの部屋では、燿の声しか聞こえない。
ギャルの証言の他にも根拠があったと思うんだ
 まるで私などいないかのように、虚ろな声で燿は話し続ける。
「それは、第二・第三の被害者の傷の位置だ。彼らはすれ違いざまに右腹を刺された。すれ違いざまに右腹を刺すには、どうしても右手でナイフを刺さなければならない。つまり、通り魔は右利きである蓋然性が高いと判断できる。姉貴、気づかなかったのか?」
 頭の中でシミュレートするまでもなく、麗にはその事実が安々と呑み込めた。
「もう一つ、興味深い事実がある。男の証言だ。彼が目撃したのは、被害者を『おっさん』と呼んでいることからも明らかな通り、第二の事件だ。そして、彼は『顔は帽子の鍔でよく見えなかった』と語っている。言うまでもなく、ニット帽に鍔は無い
 燿は無感情な声で宣言した。
「これらの事実から導かれる推論はこうだ。第一の事件を起こした通り魔と第二第三の事件を起こした通り魔は別人なのではないか
 麗はほうっと嘆息した。やっぱり、この子は賢い。
「ところで、姉貴は今まで一度も連続通り魔という言葉を使っていないね。俺やテレビはあんなに連呼していたというのに。それに、姉貴が話題に挙げたものも第一の事件ばかりだった。俺が通り魔じゃないかと怯えていた割には、第二第三の事件を起こした通り魔のことは怖くなかったみたいだ」
 私の考えなんて、お見通しみたいね。
「姉貴、それは……」
 突如、燿は言葉を切り、机の上に崩れ落ちた。今まで喋っていたのが嘘みたいに、グーグーと寝こけている。
 変な酔い方をするのね。麗は呆然としていたが、ゆっくりと歩き出す。
 2人目の通り魔が怖くなかったのもこんなことが起こるなんてと驚いたのも、「それらの可能性は低いと判断できたのも家族が通り魔で襲われるんじゃないかなんて発想ができたのも
 押し入れに放り込んでいた、雑多にものが詰まった鞄を拾い上げ、新聞紙で包まれたものを取り出す。中から出てくるのは、赤と銀のきらめき。
 全て私が2人目の通り魔だから
 アルコールには、幾つもの作用がある。判断力の低下、入眠作用、そして何より運動機能の低下。酒に弱い人ほど、効果は大きい。
 ああ、本当に可愛い私の弟。でも、ちょっと賢すぎたわね。
 燿の後ろに立った私は、血に塗られたナイフを振り下ろす。

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遊んでいっておくれよ
Notorious
ねえ、ちょっと遊んでいっておくれよ。
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ねえ、ちょっと遊んでいっておくれよ。僕は今、誰かと遊びたくって仕方がないんだ。何して遊ぶのかって? それは今から決めるよ。
その前に、あなたはこの文章をスマホで読んでいるかい? もしかしてパソコンかな? ならスマホに変えておくれよ。僕はスマホの方が好きなんだ。あれの方がすごいからね。あの小ささと薄さであの多機能、そしてそこそこの値段で普及している。まさに人類の叡知だよ。お、変えてくれた? うん、ありがとう。
さて、何して遊ぼう? まったく、暇で暇でしょうがないんだ。いい遊びあるかなあ……そうだ、かくれんぼとかどう? うん、難しいよね。しりとりとか? うーん、これもダメか。もういいよ。いっそ振り切って哲学談義でもする?? フフフ、テーマを哲学にしなきゃいいよね。お話でもしようよ。うん、それがいい。うんうん。
さて、何を話そうか? うーん、まあ話しかけた方が話題を考えるのがマナーだよね。じゃあ、好きな映画の話でもしよう。ある? 僕はね、うーん迷うな。ベタなところだと「君の名は。」とかかな。もちろん真知子巻きじゃなくて新海誠の方ね。作画がいいし、ストーリーも他にない……僕が知る範囲では。もちろん専門家じゃないから、あるのかもしれないけど。入れ替わりって長編映画だとあんまり無くない? そうでもないのかな。まあでも「君の名は。」がすごいのはそれに更に一ひねり加えたところだよね。うーん、他にはねえ、ヒッチコックの「鳥」とかかな? 「鳥が人を襲うようになる」っていうごくごく単純なシナリオなのに、あそこまでの恐怖や不気味さを演出できるのはすごいよ。別に派手なアクションシーンがあるわけでもないのにね。さすがヒッチコックってところかな。「裏窓」とかも好きだよ。
うーん実は僕、映画はそんなに詳しくはないんだよね。話題を変えよっと。あ、そうだ! こないだドラマで見たんだけど、「九つの点の問題」って知ってるかい? 3×3の正方形状に並べた九つの点を、3回だけ折れる直線の一筆書きで全て通るにはどうしたらいいか、って問題なんだけどさ。いや〜すごいよねえ。もしあなたが初めて聞いたのなら、考えてみてくれよ。あ、言っておくけど、定義を曲解する系の問題じゃないよ? 九つの点の配置は、ビンゴのシートの穴のそれと一緒さ。純粋に、折れ線の引き方だけで解決できる。もしノーヒントで答えがわかったら、あなたはきっと天才だね。間違いない。まあわからなければ、早々に諦めて答えをググってごらんよ。目から鱗が落ちただろ? 最初に考えた人誰なんだろう? どうしてこんないい問題を思いつけたのかな? きっと、適当にいじってたら面白い経路を発見しちゃって、「おお、これなら折れる回数は3回でいいじゃん! お、他の方法だと4回必要だ! うっひょ問題にしたろ!」と思ったんだろうな。面白いよねえ、人がいかに枠に囚われているかがわかるよ。盲点をつくいい問題だよね。フフフ。
うーん話すことが尽きた。話題転換! 何がいいかなあ、ベタに天気の話とか? フフフ、今はねえ、うん、くもりだね、きっと。そっちはどう? 晴れ? 雨? ファフロツキーズなら最高だね! そうそう、天気と言えば、こんな話を聞いたことがあるよ。ある山村に集落からぽつんと離れた一軒の家があった。住人は気難しいお爺さんで、村人もあまり近寄らなかった。ある晴れた冬の日、遠い親戚がお爺さんの家を久しぶりに訪れたんだ。ところが、なんとお爺さんは軒先で平ぺったくなって死んでたんだ。そう、平ぺったく。まるで、巨人がお爺さんを踏みつけたみたいに、死んでたんだ。骨も内臓も筋肉も、スルメの干物みたいに平たくなってたんだ。一体、誰がこんなことしたんだと思う? フフフ、正解はね、天さ。天がお爺さんを平ぺったくしたんだ。より詳しく言うと、天が降らせた大量の雪が。その村で大雪が降って、その時お爺さんは雪に埋もれて死んでしまった。その後も降り続けた雪が、とんでもない重さとなってお爺さんの死体を押し潰したんだ。その後、雪は解けてなくなり、平ぺったいお爺さんだけが残ったってのが真相さ。自然って凶暴だよね。
いつだって自然災害は凶暴だ。簡単に3、4桁の命を奪っていく。一個人が頑張ったって、殺せる人間はせいぜい50人くらいだろうさ。うーん、でも工夫すればその限りじゃないかもなあ。例えば、放火殺人とか? 近代日本の一個人が為した殺人事件として最も死者が多かったのも、京アニ放火事件だよね。つい最近もどっかのクリニックに火をつけたヤツがいたし。火ってのがどれだけ危険かってのがわかるよ。えーと、そうそう放火なら一個人でもたくさん人を殺せるかもしれない。でも、場所によるよねえ。うまいこと火の回りがよくて逃げ場のないところにしないと。「うまい」なんて言っちゃ不謹慎か。まああくまで思考の範囲内だから、許してよ。一個人で最も効率よく多くの人命を奪える方法ってなんだろうね? やっぱハイジャックしてビルに突っ込むとかなのかなー。世界貿易センターのあれ、もっとビルの低いところに突っ込んどけば、逃げられた人はもっと減ったと思うんだよね。まあ飛んでるから難しいのかなあ。素人が狙ったビルに旅客機を当てられたことだけでもすごいか。現にペンタゴンは外してるし。……まあまあそう怒らないでよ。所詮子供の戯言さ。別に本当にやろうとしてるんじゃないし、仮にやろうと思ってもできないんだろうし。ただの思考実験さ。「一個人」を僕らみたいな平民に限定しなければ、政治家が起こす戦争が一番強いよねえ。核ミサイルのボタンでも押してごらんよ。きっと億単位の人を殺せるだろうね。
戦争と言えば、プーチンがウクライナに攻め込んだねえ。でもそれから数ヶ月経って、もうニュースにゃあ全然あがらない。「今はサワラが旬!」とかばっかりだよ。人間って自分に関係のないことを忘れる才に関しては一流だよねえ。今もウクライナじゃ砲弾が飛んできて市民が死んでるっていうのに、今や日本は「動物園のカワウソも暑さでうだってます、かわいいですね~」だよ。まあこんなこと言ってる僕も、ついさっきまで忘れてたわけだし、あんま大きいこと言えたものじゃないけどね。は~あ、嫌気が差すよ。
なんかコロナ情勢もそんな感じだよね。入ってきた時はあんなに怖がってたくせに、今じゃ「規制を緩和しろ!」の一点張りさ。感染者はものすごく増えてるのにさ。罹っても死なないって知っちゃったからねえ、みんな。もちろん死ぬ人はいるけど、ほんの一握り。そりゃあ遊びたくもなるよねえ。だって自分は死なないもん。そう信じてるもん。もうワクチンとかやめてさあ、一回全国民が罹りゃいいんじゃねえの? そしたら、もう、なんていうか、皆平等だし? やべっ、何言いたいのか忘れちゃったよ。
そうそう、コロナと言えば、デマが流行ったよねえ。笑われるかもしれないけどさ、うん、あの、コロナ禍初期、次亜塩素酸ナトリウムが効果的、っていうデマが流行ったじゃない? 僕、あれがデマとは微塵も思わなかったんだよね。だって、NHKのニュースとかでも次亜塩素酸ナトリウムの使い方について、時間割いて解説してたんだよ? まさかデマとはね……。次亜塩素酸ナトリウムを散布する機械を買いました! っていう学校あったけど、どうしたんだろう? PTA会費とか使われてんのかなあ? もう示しがつかないよねえ……ああ、考えるだけで胃が痛くなってきた。
でもコロナ関連のデマゴギーと言えば、何をおいても反ワクだよね。ジェンナーの時代にも「ワクチンを打ったら牛になる!」なんて叫ぶ人がいたっていうんだから、笑えるよね。む、この逸話がデマだったらどうしよ。反ワクを始めとする陰謀論のタチの悪いところって、否定する方法がないことだよね。科学やら政治やらで入り組んでる分野だから、一般人が手軽に否定することはできない。かといって論文とか示しても、「信憑性がない!」なんてのたまうんだからねえ。論文ほど信憑性を期待できるものはないだろうに。そのくせ、彼らはどっかの診療所の医師とかを担ぎ上げるんだから、もう手のつけようがないよ。だから、最善手は手をつけないこと、これに尽きると思うよ。
うーん、なんか暗い話題が続いちゃってるね。せっかく遊んでくれてるのに、あなたが嫌になっちゃ困るな。ねえ、頼むからもうしばらく付き合ってよ、お願いだからさ。
ありがとう。じゃあ、明るい話題を選ぶかあ。うーん、なかなか思い浮かばないなあ。難しい。笑い話でも話せればいいんだけど、あいにくレパートリーが無くってねえ……。そうだ、好きなギャグ漫画の話でもしようじゃないか! これなら元が面白いから、話し方を面白くするまでもないって寸法さ! 僕の好きなギャグ漫画はね、「斉木楠雄のΨ難」さ! 超能力というなんでもありなデウス・エクス・マキナを使って、個性的な面々や展開を実現し、これでもかとギャグを詰め込んでくる。主人公の台詞が全部テレパシーで、吹き出しを使う台詞がないってのも独特だよね。超能力ゆえ大人びて俯瞰している主人公の造形もいい。なのにコーヒーゼリーを食べるとフワフワになるのもほんと最高だよ。けど、僕が一番好きなキャラクターは、窪谷須かなあ。ヤンキーだけど情に篤くて、相対的には結構常識人なところとか好き。いざと言うときに頼りになるところも。総じて、「斉木楠雄のΨ難」で一番好きな話は、助っ人として野球部の応援に行く回かなあ。なんてったって、野球部主将のピッチングフォームがキモすぎる。あのフォームだけで一生笑ってられるよ。フフフ、本当に思い出し笑いが止まらなくなってきた。
そうそう、漫画ってさ、結構特殊な表現形式だと思わない? 絵と文が組み合わさっているなんて、他にないよ。視覚情報に頼っているけど、文字だけを使う本とかと違って、ほとんどが絵だからすぐに頭に入ってくる。本より漫画の方が子供に受け入れられやすいのは、この辺が影響してるんだと思うよ。独特な表現形式だけあって、独特な表現方法がたくさんできているよね。吹き出しで会話表現であることを明示するのもそうだし、あとは擬音だよね。視覚情報に頼る媒体だから、音は当然無い。それを補うために、擬音を書き込むという前代未聞の方法にうって出た。まごうかたなき大発明だよねこれは。特に、手塚治虫が生み出したっていう沈黙を表す擬音「シーン」。なんだよ沈黙を表す擬音って。音じゃねえじゃん。でもすごいよね。この「シーン」という言葉も、漫画の世界を超えて日本語として定着してるんだから、すごいよ。さすがは手塚治虫だねえ。あれ、本当に手塚治虫の発明だっけ。これもデマだったらどうしよう。
他の言語にあるかな、沈黙を表す擬音って。日本語だけじゃない? そもそも「シーン」が生まれたのって、「音声情報を伝えられない」かつ「音声を文章で表せない」という媒体だからこそだよね。テレビみたいな音声が伝わる媒体なら、音声がある時はあるように聞こえるんだから、沈黙は音声を無くせばいい。本とか文章を使う媒体なら、「沈黙が降りた。」みたいに文章を使って雄弁に沈黙を表現すればいい。でも、漫画では音声情報は伝えられない。代替案として生まれた擬音を、沈黙にすら適用させるという離れ業。いやーすごいねえ。そうは思わない?
フフ、ああ楽しい。ありがとね、僕の遊びに付き合ってくれて。もう少し、遊んでいてくれよ……。ところで、あなたはどうやってこのページに辿り着いたんだろうね。僕には、リンクを出鱈目にうってみるくらいしか思い浮かばないよ。いや、あなたなんて存在しないのかもね。ずっと、この文章は誰にも読まれることなく、インターネットの海を漂流し続けるんだ……。
漂流ってカッコいい。そこはかとない絶望感と孤独感。なんか、そそるね。まあ15才っていう僕の年齢ゆえかもしれないけど。そう言えば、僕はSF作家になりたかった時期があったんだよね。あっためてた構想があって、宇宙船が漂流するんだ。これは光のエネルギーを帆でキャッチする光子ヨットなんだ。で、なんやかんやあってヨットが宇宙空間を漂流するんだけど、その乗員は核爆弾のスイッチを持ってるんだ。押せば、近くの基地かなんかが吹っ飛ぶ。でも、爆発時の光で、ヨットを止めることができるんだ。乗員は押すのか、押さないのか。そんな物語だよ。子供じみた妄想がてら考えたやつだからね、細部は全然決まってない。けど、工夫次第で魅力的にできないかな、なんて思ってるよ。例えば、乗員。一人なのか、複数人なのか。一人なら、男なのか、女なのか。複数人なら、同乗者は誰なのか。どっちも宇宙飛行士でもいいし、あるいはロボットなんかでもいいかもね。核爆弾のスイッチってのも、工夫の余地があるね。無防備なスイッチを持ってるのか、めちゃくちゃ苦心してハッキングしたら起爆できるのか、それによって罪の意識も変わってくる。うん、あなたと遊び終わったら考えてみようかな。
書いてて思い出したけど、トロッコ問題っていうのがあるよね。もしかして、あなたも連想してた? あなたならどうする? 5人を見殺しにするか、1人を殺すか。僕ならね、1人を殺すと思うんだ。僕は量的功利主義者だから。でも、レールの先にいるのが5人の知らない人で、分岐の先にいるのが1人の友人なら、僕はレバーを動かさないと思う。僕はどうやら、自己中心的な量的功利主義者らしい。なら、5人のまあまあ親しい友達と、1人の超生きててほしい親友なら……? これは、迷っちゃうね。トロッコが来るまでに決断できず、結局レールの先の人を見殺しにしてしまいそうだ。あなたはどうかな?
ふと、こんな話を思いついたよ。主人公は暴走する汽車の分岐のレバーの前に立っている。線路の先には5人の友人が、分岐の先には1人の親友がそれぞれ立っている。主人公は迷う。人数的にはレバーを動かすべきだが、親友を殺すことはしたくない。しかし、友人達との思い出が頭をよぎる。だが、レバーを切り替えるということは己の手で親友を殺すということ、だが、友人達は恐怖に引き攣る顔でこちらを見てくる……。どうする? どうする? 主人公は、ギリギリのところで、レバーを動かすことを決断し、力いっぱいレバーを押し込むのさ。しかし、一瞬遅かった。主人公がレバーを動かしたとき、汽車の一両目は既に分岐点を走り抜けていた。汽車は脱線、横に転がりながら坂を勢いよく転がっていき、6人の友人もろとも爆発してしまった……。実はもう少し先があるんだけど、あまり長々と喋るのは良くないからね。このくらいにしておこう。もし万が一機会があれば、書いてみるよ。その時は、そうだね、こんな風にネットのサイトに書くのがいい。でも、こんな辺境じゃないメジャーなサイトに、ね。この辺鄙なページに辿り着いたあなたなら、きっと簡単に見つけられるさ、フフフ。
うん、やっぱり哲学談義は飽きないね。答えのない問いだからこそ、いつまでだって考えていられる。それに、自分と向き合えるからね。でも、そろそろ喉の渇きが無視できなくなってきたよ。残り時間の底が見えてきちゃったみたいだ。何があったのか、さすがに書いておこうかな。
僕は、誘拐されたんだ。車に押し込められて、気づけばこの部屋にいた。開口部は、鍵の掛かった丈夫なドアしかない。壁はコンクリートの打ちっ放し。高い天井には薄い蛍光灯。そして、一台のノートパソコン。ロックは掛かっていなくて、でもアクセスできるのはこのページだけだった。何か、簡単にデザインできるサイト。他には、何もできない。だから、書いてみることにした。水も食料もなく、もう3日は経ったと思う。時計が無いから体感だけどね。一体、これが何なのか、何もわからない。誰か死にゆく僕の様子を見て楽しんでいる人がいるのか。あるいはこれは、極限状況で人がどんな行動をするのかを観測する実験なのかもしれない。ひょっとしたら中の僕なんて見られてもいないのかも。でも、何もわからないまま、何もされないまま3日は経ったと思う。
そして今、とっても遊びたくなったんだよ。子供のさが、かな。ずっと放置されて、暇になったんだ。かと言って、僕を閉じ込めたやつらは僕のコンタクトを感知できているのかすらわからないし、何よりやつらを楽しませるのは腹が立つ。ああもう、「腹」なんて書くからお腹が空いてきたよ、まったく。それで、このサイトをひょっとしたら見てくれているかもしれないあなたと、遊ぼうと思ったんだ。たくさんお話して、楽しんでくれたかな? 僕は楽しかったよ! 本当にありがとう。

でもね、おしゃべりが「遊び」じゃないんだ。言ったろ? いい遊びはないかな、って。で、思いついたんだ。僕の好きな遊び。一番最初にあげたろ? 難しいけど、きっと無理じゃない。そう、かくれんぼさ。おお、斜体なんてできるんだね! フフフ、なんか楽しくなってきたよ。渇きも飢えもピークなのに、頭が全然弱ってくれない。そう、かくれんぼなんだよ! あなたが、鬼。僕が、隠れる人。隠れる人ってなんか名前無いのかな? まあいいや、フフフ。ずっと前、「もういいよ」って言ったろ? 僕はずっと隠れてきたのさ! さあ、見つけておくれよ。ヒントはね、九つの点の問題さ。囚われた枠の外に、僕はいるよ。僕のおそらく最期の遊びに付き合ってくれて、ありがとね!
見つかっちゃった! フフフ

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水とちくわとカップ麺
Notorious
こっそり夜食を食べていたのは誰だ? 名探偵志望のヴァレンチーナは犯人特定に動き出す……!
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 ぐうううう。

 盛大な腹の虫で目が覚めてしまった。瞼を閉じたまま、ヴァレンチーナは考えを巡らせる。
 こんなにお腹が空いているのは、糖質を摂らないダイエット中だから。私だけじゃなくて、きっと皆お腹を空かせている。誰だっけ、シェアハウスの住人全員でダイエットしようなんて言い出したのは。ジュリア? それともボランデだっけ?
 しかし、考えは自然と食べ物に向かってしまう。故郷ブラジルのシュラスコ料理が食べたい。日本ではなかなか食べられないし。あの、ジューシーな食感と、溢れ出す肉の旨味と──。
 ぐうううう。
 2度目の腹の虫で、我に返った。5人でダイエットするにあたり、夜食は禁止というルールが設けられている。ベッドに寝転がったまま、薄目を開けて夜光時計を見た。1時51分。まだまだ深夜。早く寝ないと、食欲に勝てなくなってしまいそうだ。
 ヴァレンチーナは、固く目をつぶった。大好きなシャーロック・ホームズのことでも考えよう。お気に入りの話を反芻するんだ。今日は『踊る人形』にしよう……。
 その時、耳が微かな音を拾った。ズズズ、ズルズル。これは、麺を啜る音……? お腹が空きすぎて、夢の中で夜食を食べ始めたのか?
 ……いや、違う。確かに聞こえる。ヴァレンチーナの意識が、不意に覚醒した。階下、ダイニングの方から、麺を啜る音がする。幻聴じゃない。つまり、誰かが夜食を食べてるってことだ!
 ヴァレンチーナは、ガバリと上体を起こし、そのままベッドを飛び降りた。自室のドアを開け、勢いよく階段を駆け下る。ダイニングの方から、ドタドタと足音が聞こえてきた。
 逃がすもんですか。ヴァレンチーナは、トップスピードのまま、ダイニングへと突入した。
 電灯は点いており、人影は無い。左手にはキッチンがあり、コンロに置かれたヤカンが見える。カウンターを挟んだ正面の奥には、大きな食卓がある。そして、その上に、何かが乗っている。
 ヴァレンチーナは、食卓の方へ歩を進めた。机の上には、カップ麺とコップ、そして皿に乗った食べ物。これは確か、ちくわと言ったか。近づいてよく見てみる。蓋がめくられ、中身は半分ほどになり、ふわふわと湯気を立てているカップ麺。コップに少しだけ残っている、恐らく水道水であろう液体。小皿に1本だけある、端っこが齧られたちくわ。テーブルに乗っているのはこれだけだった。やはり誰かが夜食を食べていたのは間違いない。でも、その犯人はどこに……?
 その時、階上からパタンという扉の閉まる音がした。刹那、何が起きたかを悟る。
 犯人は、ヴァレンチーナが来るのを察知し、キッチンの奥に隠れたのだ。そして、ヴァレンチーナが机の上を観察している隙に、後ろをこっそり通り抜け、自室へと帰ったのだ。さっき聞こえたのは、犯人が部屋へと戻り、扉を閉めた音に違いない。
 ──しまった。
 ヴァレンチーナは歯がみした。みすみす犯人に逃げられてしまった。ホームズなら、こんなミスはしなかっただろうに。
 1つの決意が、ヴァレンチーナの心の中にめらめらと燃え上がってきた。
 私が、夜食した犯人を突き止めてやる!

*        *        *

「──で、全員を叩き起こしたっていうの? 今は2時よ? 2時」
 寝起きでボサボサの銀髪に手櫛をいれながら、スヴェトラーナがぼやいた。他の皆──ジュリア、ボランデ、ナオミ、そしてヴァレンチーナ自身──も同じような格好だった。全員寝間着のままだし、化粧はおろか寝癖すら直していない。そして、眠そうに目を擦っている。但し、ヴァレンチーナの目は冴えていた。なぜなら、この中に一人、さっきまで起きていて夜食を食べていた者がいるからである。
 ここは日本国、京都にあるシェアハウス。住人5名は皆、近くの大学に通う一回生だ。入居する時、「国際性豊かな方がいい」と皆が思った結果、女5人の祖国は完全にばらけた。ロシア、アメリカ、南アフリカ、日本、そしてブラジル。もちろん不便なことも多かったが、どうにか現在8月までやってきた。日本語でのコミュニケーションも、ほぼ問題なくできるようになっている。
「今から犯人を突き止めるんですか?」
「そうよ!」
 ボランデの質問に、ヴァレンチーナは力強く答えた。ナオミが苦笑する。
「名探偵ヴァレンチーナってことね。いいわ、付き合ってあげる」
 皆眠たげではあるが、異を唱える者はいなかった。ヴァレンチーナのシャーロッキアンぶりは皆知っている。それに、夜食したくらいで今更罅が入るような仲でもない。犯人ともども、ヴァレンチーナに花を持たせようと担いでくれているのだ。なら、担がれた分は思い切りやらせてもらう。
 そこで、ジュリアが言った。
「とりあえず、このカップ麺を片付けない? お腹が空いちゃうわ」
 5人は、食卓の椅子に腰掛けている。ヴァレンチーナは、カップ麺の目の前の席に座っている。ヴァレンチーナは首を横に振って答えた。
「ダメよ。現場は保存しなきゃ」
「そう」
 ジュリアは引き下がったが、カップ麺を視界に入れまいと顔を背けた。入れ代わりにボランデが聞いてくる。
「犯人を突き止めるって、具体的にどうするんですか?」
「まずはアリバイ確認ね。誰か、アリバイのある人はいる?」
 めいめいが首を振ったり肩を竦めたりして応えた。
「皆部屋で寝ててアリバイは無いってことね。次はどうしようかしら……」
 すると、スヴェトラーナが、
「メニューからすれば、犯人は日本人なんじゃないの」
と言い放った。
 カップ麺は世界で売られているし、ヴァレンチーナ達にもお馴染みのものだ。しかし、問題はちくわだ。ヴァレンチーナも日本に来て初めて存在を知ったし、ちくわを食べるという発想は、正直出てこなさそうだ。だから、スヴェトラーナの言うことも無理はない。自然と、皆の視線が1人を向く。
 だが、ナオミが毅然と反駁した。
「それは偏見ってものよ。ちくわは冷蔵庫にあったから、物色して食べようと思う可能性は誰にでもある。犯人が日本人と決めつけるのは、短絡的すぎるわ」
「本気で言っちゃいないよ」
 軽く手を振り、スヴェトラーナは欠伸をした。ボランデとジュリアは、
「タンラクテキ?」
「結論づけるのが早すぎってこと」
「おー、なるほどです」
と会話している。
 ナオミの言う通り、偏見で犯人扱いすることは、あってはならない。確固たる証拠があって初めて、推理と言える。
 なら、その証拠をどうやって見つけようか。ヴァレンチーナの頭に、この前読んだ日本の推理小説に出てきた1つの言葉が浮かんだ。
「現場百遍、だわ! 現場であるこのダイニングをよく見て、証拠を見つけ出すのよ!」
 そう言うと、ヴァレンチーナは残された食べ物を凝視した。熱意に感化されたのか異様な行動に気圧されたのか、他の皆も机の上や下を、何かないか探し始める。ナオミはキッチンに向かった。ヴァレンチーナは目の前の遺留品に集中する。
 カップ麺から湯気はもう出ておらず、のびて体積を増した麺が、汁から少し顔を出している。めくられた蓋では、水蒸気が当たってできた水滴が集まり、1つの大きな水滴が今にも落ちそうになっていた。
 その右には、陶器の小皿に乗った食べかけのちくわ。真ん中は茶色く焦げ、白い端は2つあったはずだが、こちら側の1つは食べられて既に無い。2口分ほど齧られているだろうか。その断面以外は、綺麗なままだ。
 さらに奥には、赤いプラスチックのコップがある。入っている水の嵩は半分以下で、結露がないことから、やはり中身は常温の水道水だろう。
 ふと思いついて、ヴァレンチーナは尻ポケットから虫眼鏡を取り出した。ジュリアが少し呆れたような声で言う。
「そんなもの持ってるの?」
「探偵七つ道具の一つだから」
 ヴァレンチーナはコップの縁を拡大して見てみた。背景が赤くてわかりにくいが、茶色い口の跡が付いていた。十中八九、カップ麺の汁だろう。
 続いて、ちくわの断面も見てみる。上端付近に、コップ同様に汁が僅かに付着していた。
「つまり、犯人はカップ麺を食べ、その後にちくわと水に口をつけたことがある、ということか……」
 だから何だ?
「だから何なの?」
 思っていたことをスヴェトラーナにも言われた。
「うーん、現場から判ることは、このくらいかしら……」
 これじゃあ、犯人特定なんてできっこない。やっぱり、無理なのかしら。
 ヴァレンチーナが黙り込んだその時、ボランデがぽつりと呟いた。

フォークが無いですね

 衝撃が走った。弾かれたように机の上に顔を向ける。皿の陰も覗くが、無い。床も慌てて見てみるが、落ちていない。キッチンにも駆け込んで見渡したが、何も無かった。フォークはどこかに消えてしまっていた
 カップ麺を手で食べるわけもない。フォークでないにしろ、何かしらのカトラリーは使われたはず。それがどこにも無いということは……。
 ジュリアが呟く。
「犯人が持ち去ったってこと? でも、どうして?」
「それは説明がつけられると思うわ」
と、ナオミが話し始めた。
「犯人は駆け下りてくるヴァレンチーナに驚き、慌ててキッチンに隠れたんでしょう? その時、フォークを手に持ったまま、動いてしまったのよ。ほら、よくあるじゃない。で、フォークを改めて置いていくわけにもいかず、そのまま部屋へと戻ったのよ」
 なるほど、筋が通っている。
「なんだ、皆ヴァレンチーナより名探偵してるじゃん」
 スヴェトラーナが茶化す。だが、まったくその通りだ。悔しい。どうしてフォークが無いことに気づかなかったんだろう?
 だが、ここまで来れば犯人の特定は易い。
「つまり、犯人の部屋にはフォークがあるってことね。早速、家探ししましょ!」
 ところが、ヴァレンチーナの提案は、思いのほか強い反対にあった。
「嫌よ。部屋を見せるなんて。プライバシーよプライバシー」
「私もちょっと困るかなあ。散らかってるし」
「ヤサガシ?」
「家の中を探すこと」
「おー、なるほどです」
 とどめに、スヴェトラーナがこう言ってニヤリと笑った。
「大体、ホームズさんがそんな強引な方法取っていいのかい? 名探偵ならスパッと、推理だけで解決しなくっちゃ」
 むむむ、そう言われると引き下がるしかない。
 ヴァレンチーナは天井を仰ぎ、ため息をついた。推理するとはいえ、これ以上どうすればいいの? もうできることは全部やったはず……。
「現場百遍、か」
 捜査が行き詰まったら、十回でも百回でも現場に赴け。本の中の刑事もそう言っていた。
 ヴァレンチーナはもう一度、机の上の現場を見つめた。犯人は、カップ麺を食べている。ちくわを齧り、水を飲む。そんな時、私が降りて来て、犯人はフォークを持ったままキッチンに……ん?
 ふと、思いついたことがあった。ヴァレンチーナは、虫眼鏡を取り出し、再びちくわを覗いた。但し、今回は断面ではなく、真ん中辺りを。
 しわしわの茶色い表面が、綺麗なまま続いている……と思っていたが。横側に、僅かな付着物。これは、かやくか。茶色の背景に紛れて気づかなかったが、目を凝らすとカップ麺の汁が付いているのが判る。今度は、反対側の側面も見てみる。思った通り、同じようにカップ麺の汁が付着していた。
 これが指し示すことは1つ。
 ヴァレンチーナは顔を上げ、高らかに宣言した。
「犯人が判ったわ」

*        *        *

「さて、まずは私がした発見から話そうかしら」
 皆は変わらず食卓を囲んで座っているが、その面持ちはどこかしら緊張しているように見える。
「私達は、犯人がカップ麺をフォークで食べたと考えていたわね。なら、当然ちくわもフォークで食べたことになるでしょう。わざわざカトラリーを変える理由もないし」
 ヴァレンチーナは、机の上に身を乗り出し、勢い込んで言った。
「でも、ちくわに穴は開いてないの
 しばし、沈黙が流れた。
「え? 穴は開いているじゃないですか。覗いたら向こう側が見えますよ?」
「違うの、ボランデ。その穴じゃなくて、フォークで刺した穴よ
 また沈黙が流れたが、その意味は明確に変わっていた。
「フォークで刺した所は齧れないから、残った部分に穴が残ってないといけない。そうでしょ? でも、それが無い。ということは……」
犯人はフォークを使ってちくわを食べたのではない
「その通りよ、ジュリア。これは、犯人はフォークを使っていないことと同義。わざわざ2種類のカトラリーを使う理由はないし、仮にそうしていたとしても、2つのカトラリーを持ったままキッチンに隠れるとは考えにくい。手に持っているのはどちらか1つだろうから。つまり、犯人はフォークでない何かで夜食を食べたということ」
 皆が話に引き込まれているのを感じながら、ヴァレンチーナは解決を続けた。
「そこで、私はちくわをよく見てみたの。そうしたら、ちくわの両側面にカップ麺の汁が僅かに付いているのが判ったわ。犯人はフォークを使わなかった。あるじゃない。フォークの代わりになる、ちくわを挟んで、丁度こんな汚れが付きそうな道具が」
 ナオミが唇を歪めて言った。
「……ね」
「そう。持ち去られたのはフォークじゃなくて箸犯人は箸を使って夜食を食べたの
 ヴァレンチーナも日本に移り住んでから、見慣れるようになった。だが、あの細い2本の棒で食べ物を上手くつまむことはまだできない。そして、それは皆同じだろう。
 ただ1人を除いて
「犯人は、箸を使いこなせ何より箸で食べようという発想をするほど箸に親しんでいる人間
 皆の視線が、再度1人を向く。
「この中では、そんな人は日本人のあなただけ
 彼女は俯き、その黒髪がはらりと零れた。

「犯人はあなたよ、ジュリア

 ジュリア──早見樹莉亜は、小さく頷いた。
「お腹が空いて……どうしても耐えられなかったの……」
「ダイエットを発案したの、あなたじゃなかったかしら?」
 ナオミ──ナオミウィリアムズは、碧い眼を細め、可笑しそうに笑った。
「やめよやめ! ダイエットがこんなに大変なんて思わないじゃない!」
 すると、ボランデが悪戯っぽい笑みを浮かべて提案した。
「じゃあ、今から皆で何か食べませんか?」
「いいわね、賛成!」
「おっ、ならスヴェトラーナ姉さんがボルシチを作ってやろう」
「えっ、いいの? やったー!」
「姉さんって、同い年なのに」
「細かいことはいいんだよ、ナオミ」
「ボルシチって何ですか?」
「今からあたしが作るから、食って覚えろ」
 ダイニングはにわかに騒がしくなった。最初の眠気はもう欠片もない。
 事件は解決したみたいだ。結局、この事件に関しては、犯人は偏見の通りで全く意外じゃなかったな
 まあ、いいか。それより、ボルシチの方が重要だ。
 ヴァレンチーナは立ち上がると、声をかけた。
「スヴェトラーナ、私の分も作ってくれるんでしょうね?」
「当たり前だろ、名探偵さん」
 喧騒は、夜の闇に融けていく。

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曖昧
キュアラプラプ
曖昧・ブラインド
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 キーボードを小気味良く叩く音は、静寂な空気に飲み込まれ、たちまち部屋の隅へと消えていく。

 人間の適応能力とは恐ろしいものだ。狩猟を効率化するために石器を作り、交易を効率化するために貨幣を作り、戦争を効率化するために化学兵器を作る。

 気づけば私も、タイピングを効率化していくうえで、無意識のうちにブラインドタッチを身につけていた。

 小ぶりなパネルに指を押し当て、文字列を形作っていく。文法に多少の違和感はあるが、気にする人なんていないだろう。

 ──ふと、集中が途切れた。

 窓の外から、子供の喚き声がする。

 最初は泣き叫んでいるものかと思ったのだが、よく聞いてみれば、ただの笑い声のようにも感じられる。

 子供は苦手だ。うるさいのもそうだが、何を考えているのかまるで分からない。

 あれは大学生の頃だっただろうか、コンビニでレジ打ちのバイトをしていたときのことだ。小学生低学年と思しき子供が、流行りのアニメキャラか何かが印刷された駄菓子を持って、私の受け持つレジに現れた。

 その商品の値段は、確か三百といくらかくらいだったと思う。しかしその子供は、百円玉たった一枚しか持っていなかった。

 だから私は、可能な限り物腰柔らかに、その子供を責める意図は全くないということを明示したうえで、金額が足りなくて買えないこと、そしてその商品を棚に戻してきてほしいということを伝えた。

 ──その子供は、私を完全に無視した。

 どれだけ分かりやすく噛み砕いても、何度同じことを説明しても、その子供は、あるいは病的なまでに、「これをください」としか言わなかったのだ。

 その後どうやってあの子供を引き下がらせたのかは、あまり覚えていない。

 ──確かに、相手はまだ小さな子供で、意志の疎通がままならないというのも仕方のないことだった。常識的に言えば、そんなことをいちいちしつこく回顧する私の方が病的なのかもしれない。

 けれども、あの全く成立しなかった会話は、私自身にも何故だか分からないほど強烈に、記憶に刻み込まれている。

 しかしまあ、皮肉なものだ。今の私が生活できているのは、子供でもないのに会話が成立しないような人たちのおかげなのだから。

 ──とりとめのない思考を打ち切り、私は再びパソコンに向かった。しかし、間欠的に耳をつんざく子供の喚き声に妨害され、やはり集中できない。

 泣き声だと思えば泣き声に聞こえるし、笑い声だと思えば笑い声に聞こえる。つくづく奇妙で曖昧な喚き声だ。

 声から注意を逸らすためか、なんとなく耳を澄ましてみると、静かに感じていたこの安アパートの一室にもさまざまな雑音が飛び交っていることに気づいた。

 洗濯機はがたがたと揺れている。室外機のファンは擦れて回っている。近くを走り去ったらしいゴミ収集車は、軽妙なメロディを奏でている。

 こうして真っ昼間からぼうっとしていると、いつか風邪で学校を休み、遠くに聞こえる情報番組に聞き耳を立てながらただ布団の端を玩んだ退屈な日を思い出す。

 ──集中できない。

 元はと言えば外から聞こえるこの喚き声のせいなのだが、結局のところ今日はどうにも集中できない日なのだと、自分に折り合いをつけることにした。

 今しがた書いた分を文書ファイルに上書き保存し、成果を確認するために一応の通し読みをしてみる。

 ──まあ、なかなかの出来だ。刺激的な見出しに、適当に拾ってきた顕微鏡越しの微生物の画像、でっち上げた「関係者」の証言。

 さて、タイトルはどうしようか。「ワクチンから寄生虫が検出」? 「殺人ワクチンの動かぬ証拠」? キャッチーで扇情的なものを作るのは案外大変だ。

 最近はこの仕事も軌道に乗り、一か月におおよそ七~八万ほどの収益を稼げるようになってきた。適当なデマを寄せ集めたつぎはぎの記事を量産し、広告付きのブログに掲載する、ただそれだけの仕事でだ。

 無論、何も考えずにやっているわけではなく、一応のリスクヘッジは行っている。例えば、日本には「デマ自体を裁く法律」こそないが、「名誉毀損行為を裁く法律」はしっかりと機能している。だから、個人や企業それ自体を槍玉に挙げることはしない。

 一方、同業者の中には、刺激的なコンテンツを作ろうとするあまりこのような行為に手を出してしまう者もざらにいる。

 私にしてみればただただ滑稽だ。何しろ我々の顧客は、危険を冒してまで自発的にそんなことをしなくとも、勝手に増え続けてくれるのだから。

 こんな仕事を始めたのは、ほんの数年前、新型コロナウイルスが世界中で流行し始めた頃だった。

 その当時、私は俗に言うフリーターだった。複数の飲食系アルバイトを掛け持ちしながら、決して豊かではないながらも人並みに充実した暮らしを営んでいた。妻との出会いも、その勤務先の一つでのことだった。

 しかしあの時──新型コロナがパンデミックを引き起こした時、さらなる感染拡大の防止のために、多くの店舗は営業の自粛や雇用の縮小を行った。これによって、私は収入源のほとんどを失ってしまったのだ。

 ──だが、やはり人間の適応能力とは恐ろしいものだ。

 対象になっていた補助金や支援金からサーバーやドメインのレンタル代を支出し、ブログを開設。アフィリエイトに登録した後は、SNSを利用した積極的な集客で着実にアクセス数を増加させていき、遂にはたった数か月で、安定的に万単位の利益を得られるようになった。

 ──ファイルを閉じるのとともに回想に耽るのを終え、大きくのびをする。

 あの喚き声は未だに聞こえてくるが、心なしかボリュームが下がっているようだ。泣き疲れたのだろうか。いや、笑い疲れているのかもしれないのだが。

 そういえば、起きてからまだ何も食べていない。大して腹を空かしているわけでもないのだが、この時間になると惰性で何かを口にしたくなってきてしまう。

 立ち上がって台所の棚を見渡すと、菓子パンが一つだけあった。プラスチックの包装を破き、シンクの前に棒立ちしたままそれを胃の中に放り込む。

 消費期限を四日は過ぎていたためか、お世辞にも良い味と言えるものではなかった。玄関前に放置している溢れかけのビニール袋にゴミを押し込み、ぱさぱさした油に汚れた指先を水道で洗う。

 脈絡なく、頭の中に一つの疑問が浮かび上がってきた──なぜこうも容易く、人は騙されてしまうのだろうか。

 仕事上、私は出処不明のデマに乗せられている人をごまんと見てきた。しかしその多くは、よく考えれば「少なくとも信頼に足る情報ではない」と結論づけられるようなものだ。

 ──それが事実であろうとなかろうと、ただ単純明快である情報の方が好まれて信じられるから?

 より人を魅了するのは、責任を持った専門家が慎重な物言いで発する予防線の張られた見解ではなく、無責任な一般人が浅はかに吹聴するシンプルで刺激的な意見の方だ。

 自然科学の分野においてこれは顕著だろう。「mRNAは短期間で分解されますし、そもそもRNAはDNAに変換されないので、ワクチンを打っても個々人の遺伝情報は変化しないと考えられています。」という複雑な説明よりも、「それは嘘だ!騙されるな!ワクチンで遺伝子が組み替えられる!」という単純な説明の方が、明白にセンセーショナルだ。

 もしかするとこれには、強い発言力、そして権威を持った「お偉いさん」に対する、ルサンチマン的な悪感情からくる不信感の影響もあるのかもしれない。

 しかし、いくら単純だからといって、例えば「ワクチンを接種するとゾンビになってしまう」とのような、あまりに荒唐無稽な情報さえをも盲信してしまうというのは、あまり腑に落ちたものではない。

 ──そもそも「疑うこと」自体のハードルが高いから?

 世の中の大多数の人は、「この化学物質がどうのこうの」だの、「外国のこの学者の論文がどうのこうの」だの、とにかくカタカナ言葉をまくしたてられるだけで、それをそのまま信じてしまうものだ。

 一昔前、家電製品等の広告で「マイナスイオン」という言葉を見ない日はなかった。これによる健康的な付加価値を、多くの人は信じて疑わなかっただろう。

 しかし実際のところ、マイナスイオンが人体に与える好影響は、科学的には今なお証明されていないのである。

 とはいえ、かくいう私もその「多くの人」の一人だった。テレビのショッピング番組で連日宣伝されるマイナスイオン、その有効性を疑うという発想など、全くもって私には無かったからだ。

 疑り深くあることはそうそう美徳とはされない。やはり人には、誰かに対して疑いの目を向けることを無意識のうちに避ける傾向があるのかもしれない。

 いやしかし、企業によって全国的に盛んに喧伝されていたという点で、そもそもこの例は特別にハードルが高かっただけかもしれない。もし単にインターネットに転がっていた出処不明の一情報としてこれを知ったのだったら、大抵の人はまず疑ってかかっただろう。

 対して私が見てきた「容易く騙されてしまう人たち」は、そのような「疑うこと」のハードルが低い状況においても疑うことをしなかった。これも腑に落ちない。

 とすると、こんなのはどうだろう──「元より彼らは、自身にとって信じるべきものを信じているから。」

 人は普通、信じるに足る理由があるとき、それを信じる。しかし彼らは、そのデマを信じる気持ちの方が先行しているのだ。こう考えてやっと腑に落ちた。

 どれだけその情報が荒唐無稽で疑わしく、信頼に足る根拠もなく、いくらでも客観的かつ精緻な論理で反駁できるようなものであっても、それが真実なのだから仕方ない。真実には何の瑕疵もなく、一切の疑う余地もないのだから、彼らにとって間違えているのはいつもこちら側になるのだ。

 私たちは彼らを「会話が成立しない人たち」と見なすが、きっと彼らにとっても、私たちは「会話が成立しない人たち」なのだろう。

 ──思えば、あのレジの子供もそうだったのかもしれない。

 「これこそが真実だ」という先入観のあまり「疑う」という選択肢を忘れている彼らのように、あの子供もまた、「この駄菓子を買う」という気持ちが先行するあまり「買わない」という選択肢を持っていなかったのだろう。

 あのときレジの向こう側の人間を無視していたのは、あの子供だけではなかったのだ。

 ──思案が途切れた。雨の音だ。

 みるみるうちに雨音は大きくなっていき、やがて轟音となった。気づけばあの喚き声は、もう聞こえなくなっていた。

 カーテンの隙間から外に目をやると、草木が大きくはためいていた。どうやら強風も吹いているらしい。窓ガラスが、暗い水滴で塗りつぶされる。

 つい数日前、妻に逃げられた日と同じ。土砂降りの大雨だ。

 今度は窓がガタガタと揺れ始めた。ふと我に返ると、自分が数十分もの間流し台の前で直立していたことに気づき、少し可笑しくなった。

 リビングに散らばった座布団に腰を下ろす。頭の中にたゆたう数分前の思惟の残滓が寄り集まり、新たな疑問を形成していく──果たして私たちと彼らの間に、本質的な違いは存在しているのか?

 一つのその候補は、科学的な正しさだ。特に医療や食品などの生活に根付いている分野において、彼らは連綿と積み重なってきた人類の学問の成果を無碍にする。

 しかし私たちは、そのようなデマを敵視する傍ら、宗教に対しては寛容だ。「ある男が水をブドウ酒に変えた」とする言説を批判する人は、「ワクチンが人間をゾンビに変えた」とする言説を批判する人より明らかに少ない。

 とすると、それに加えて社会への害意の有無というのも挙げられるかもしれない。そもそも「デマ」の語義自体、「意図的」「扇情的」というようなニュアンスを孕んだものだ。宗教家が「神が世界を創造した」と言うのと、愉快犯が「ワクチンは人口削減のためのものだ」と言うのでは、明らかに後者の方が悪辣だろう。

 もし、害意に満ちた非科学的な言説が宗教の名のもとにかざされたとしても、それは最早宗教というよりカルトによるデマだ。宗教とそれらとの扱いに違いがあることは矛盾ではない。

 ──しかし、そもそも科学とは信じられるものなのか?

 私たちが当然のものだと見なしている科学の正しさも、実際には彼らと同じく盲信によるものなのではないか?

 思えば、私はDNAが遺伝情報を持っていることを知っているが、それを自分で確かめたことなどない。私は空の上に宇宙があることを知っているが、それを自分で確かめたことなどない。私は地球が球体であることを知っているが、それを自分で確かめたことなどない。

 私はフラットアース説を全く信じていない。しかしそれは、科学へのほとんど盲目的かもしれない信頼があってのことなのだ。

 マスコミの報道やインターネット上のコメントから、教科書の内容、家族や友人の他愛無い発言まで、今まで私が受け取ってきた情報の全てが、もしも何らかの組織によって管理・統制されたものだったのなら? 稚拙な陰謀論さえもが、それに対する冷笑的な雰囲気をもたらすための罠だったのだとしたら?

 ──馬鹿馬鹿しい。こんなことを考えたところで、時間を無駄にするだけだ。答えが出るわけでもない。

 ともかく、ただ一つ言えるのは、人間の先入観は恐ろしい、ということだ。

 気づけば存在していたそれは、あらゆる情報の解釈に影響を与え、自身の中に真偽を設定する。デマの色眼鏡は科学を唾棄し、科学という偏見はデマを唾棄する。

 もしかするとこれは、人間が周りの共同体や社会にうまく馴染んでいくための、ある種の適応能力なのかもしれない。

 歴史上、考え方の違いというものは、肌の色の違いと同じように、いやそれ以上に、争いの火種となってきているのだ。

 元が曖昧な情報であろうと、自身の先入観からくるその解釈は強固だ。大抵の場合、私たちはほとんど何も考えずにそれを盲信する。そもそも疑うことに意味が無い時も多い。

 だから人は、こうも容易く騙されてしまうのだろう。

 ──雨脚は更に強くなってきた。風が大きく唸る音がする。あの喚き声はもう聞こえないし、窓を叩く音もなくなっていた。

*        *        *

 ……次のニュースです。沖縄県警はけさ未明、那覇市の自宅アパートで2歳の長女・井上紬ちゃんを3日間放置して衰弱死させたとして、保護責任者遺棄致死の疑いで父親の井上浩司容疑者(25)を逮捕しました。

 井上容疑者は、「妻が出ていったので子供をあやす人がおらず、うるさくて仕事に集中できなかったのでベランダに放置していた」などと供述しており……

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古語を知らない探偵
Notorious
古語を知らない探偵が、飛行機で起こった殺人事件の謎を解く短編ミステリー。
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第一章 めっちゃ危うい飛行機と死体

──十月十三日・真昼──

十月十三日午後一時、めっちゃ高級な旅客機に悲鳴が響き渡った。

六名しかいない(決して登場人物を考えるのが面倒だったわけではない。断じて。)乗客の一人、言伝ことづてのこすの遺体が発見されたのだ。

しかし、こういうミステリー小説にありがちな、何故か同乗している探偵、梅丹めいたんティコナンは、事件解決に乗り出した。

「えーと、まずは自己紹介をお願いします。」

この旅客機・かぐや号の中央キャビンの静寂を破ったのは、梅丹の一声だった。かぐや号は自動運転なので、現在機内に(生きて)いる六人がこの部屋に勢揃いしていた。

「僕は大流おおる来止らいと。何が起こってるのかわかんないけど、きっと大丈夫さ。」
「あたしは鳥尾とりお沙枝留さえる。犯人がわかったら、あたしが取り押さえるわ!」
「ワタシはウェアー・ガイシャ。ミスター・言伝を探していただけなのに、こんなことになるとはネ……。」
「私はほんかすみ……事件現場保全についての本、お貸ししましょうか……?」

「あの、そちらの警察の方も……。」
「私は卦伊佐けいさ通署つしょ。犯人はさっさと自首した方がいいぞ。」
「それにしても、よく滑走路を走るこの機に飛び移ろうと思いましたね」

そう、彼は通報を受け、給油のためにハワイ空港の滑走路にタッチアンドゴーしていたかぐや号に、車で並走しながら飛び乗ったのだ。その勇敢というより頭のおかしさに怯えている者は、決して梅丹だけではなかった。こんなことをした人間は、航空機が発明されてから300年以上経ったつい先ほど、初めて現れただろう。

ともあれ、まずは捜査だ、と梅丹は思った。

「まず、事件が発覚してから今までの流れを教えてください。」

「ワタシがまず話そうカ。」
ウェアーが話し始めた。
「ミスター・言伝とは、昨日仲良くなったから、気になっていたんダ。しかし、朝はおろか昼になっても、客室から出てこなイ。どこか別の部屋にいるのかと探していたんだが、結局は彼の客室にいるだろうと思って、さっきみんなと入ってみたというわけサ。」
「ところで、ウェアーさんは、どちらの方なんです?」
「タイ系アメリカ人だヨ。この飛行機で日本からアメリカに戻って、会社の経営に戻るんダ。」
その会社とは、とある悪名高いマフィア組織である。ウェアーがその首領であることは、皆知っている。冷酷非情な凶悪犯として、繰り返し報道されているからだ。ただ、怖いので皆しらんぷりをしている。

「ウェアーさんから事情を聞いて、僕と鳥尾さんが手伝ったんだ。」
大流が沈痛な面持ちで語り始めた。
「三人で言伝さんの客室に入ったんだ。鍵は掛かっていなかった。ドアを開けてすぐに、胸を刺された彼が倒れているのを見つけたよ。そのときすでに、大丈夫じゃなかったね……。」
楽観主義者は、悲しげに俯いた。さすがの彼も、乗客が殺されたという事実に対して「大丈夫さ!」と言い放つことはできないようだ。一応デリカシーはあるようで、梅丹は少し安堵した。

「その時の悲鳴はあたしがあげたものよ。」
そう言う女子レスラーの鳥尾沙枝留は、(失礼かもしれないが)到底悲鳴などあげそうにない見た目をしている。
「言伝さんが死んでいるのは、すぐに確認できたわ。まったく、誰よあんなことしたの! あたしが取り押さえてやるわ!」
彼女の怒りに震える拳が、机の端を木っ端微塵にした。犯人であるかなど関係なく、その場の全員が震えた。犯人は取り押さえられる前に命を落とすに違いない。

「何か外が騒がしかったので、自分の部屋から出てきました……。」
本霞が、かぼそい声で話し始めた。
「事件が起こったと聞いて、皆さんと同じようにこのロビーに集まりました。警察に通報したのは私です。」
彼女は中学生で、今も濃紺のセーラー服に身をつつんでいる。しかし、迅速かつ落ち着いて通報してくれたのは、助かった。最近導入された7G通信に感謝だ。

「僕も本さんと同じように、騒ぎを聞きつけて部屋から出てきました。もっとも、現場をちらっと見ただけで、あまり探偵らしいことはできていないんですが。」
梅丹は肩をすくめた。この情報交換を終えたら現場検証をせねば、と思っている。

「最後は俺だな。通報を受けて、ちょうど空港にいたもんだから、急いでこの飛行機に乗り込んだ。どうやったかは、まあ皆見たとおりだ。」
マフィアのドンとレスラーに負けず劣らず怖い警察官である。
「後で現場の検分をさせてもらうぞ。」
「あ、僕もご一緒してもいいですか?」
「……あまりひっかき回すなよ。」
不承不承という感じだが、梅丹は許可を得ることに成功した。

さっそく卦伊佐と梅丹による現場の検分がなされることになり、他の面々を中央キャビンにおいて、二人は言伝の客室へと向かった。

第二章 言伝の言伝

卦伊佐は手袋をつけ、言伝の客室の扉を引き開けた。梅丹も同様に、白い手袋をつけている。

まず、錆のような血の匂いが鼻をついた。部屋は梅丹の客室と同じ構造で、ビジネスホテルの部屋に似ている。ただし、小さな窓から見えるのは、遥か下方をゆっくりと移動する雲である。部屋を入って手前左には、ユニットバスに通じるドア。左奥には、シングルベッド。右奥には、机と椅子。その上には開いたままのパソコンや飲み物がある。床には小ぶりなリュックサックが転がっている。

そして、その横、机の脇に、言伝遺の遺体 遺だけにね! は転がっていた。頭を部屋の奥に向け、仰向けに倒れている。その胸にはナイフが突き刺さり、シャツと床は血で赤く染まっていた。目は虚ろに、机の方を見ている。

卦伊佐は、死体の胸や瞳孔、肘などをチェックしていた。一通り死体の検分を終えたらしい。
「死因は胸の刺し傷だ。ただし、刺されてから少しの間、息はあっただろう。死後半日といったところだろうから、事件が発生したのは昨夜遅くだと思う。」
一方、梅丹は別のものに注意をひかれていた。
「血痕が、いろんなところに残ってますね。」
部屋の扉から死体が倒れているあたりまで、血痕が点々と続いている。さらに、机の上にも、血の手形が一つあった。
「察するに、被害者は扉付近で刺され、その後ここまで移動してきたみたいですね。」
「ああ、そのとおりだろうな。犯人はドアをノックして、ガイシャ──これはウェアーじゃなくて言伝のことだ──がドアを開けた途端、ブスリ。こんなところか。」
「気になるのは、机の血痕ですが……。」
梅丹は、机に近づいた。すると、あることに気がついた。

「卦伊佐さん、ちょっとこれ見てください!」
「なんだ、パソコンか? 今じゃ珍しい型だな。キーボード付きのタブレット型か……。」
「そうじゃなくて、ほら、画面に血痕がついてるんです!」
「うん? 本当だ。血のついた指で画面をタップしたみたいだな。」
「そう、そうなんです!」
「だからなんだ?」
「言伝さんは、死に際に最期の力を振り絞って、画面をタップした。これはつまり……。」
探偵らしく、梅丹は宣言した。
ダイイングメッセージですよ!」

二人は、さっそくパソコンの調査に取りかかった。パソコンの画面はロックされているが、言伝が死んだときはそうではなかっただろう。パソコンのロックを解除しなくてはならない。幸い、この問題はすぐに解決した。卦伊佐が、死体の顔をカメラにかざし、網膜認証を突破したのだ。旧型のパソコンで助かった、と梅丹は胸を撫で下ろした。現在主流の静脈認証だったら、死体では反応しない。

パソコンはアンロックされると、すぐにある画面を映し出した。二人は顔を寄せ合ってその画面を覗き込んだ。それは、音楽の再生終了画面だった。地球上のありとあらゆる音楽が集う、馴染み深いサイト。画面中央には、「もう一度再生する」というボタン。その下には、シンプルなフォントで、数世紀前のそう有名でない曲の題名とアーティスト名が表記されていた。

いわく、

ド屑/歌愛ユキ なきそ

と。

第三章 会議は踊る、案の定進まず

かぐや号の乗客たちは、再び中央キャビンに集合していた。四角いテーブルを囲み、皆が席についている。そんな中、梅丹は現場検証でわかったことを余さず報告した。皆はそれぞれ、考え込んだり下を向いたり何か呟いていたりする。

議論の口火を切ったのは、梅丹だった。
「まず考えないといけないのは、動機ですね。誰か、言伝さんが殺される理由に心当たりはありませんか?」
得られた反応は芳しくなかった。
「そもそもが、たまたま同じ飛行機に乗り合わせただけの関係だからな……。」
「一応少しは話したけど、言伝さんのことを詳しくは知らないわ。」
「でも大丈夫です!」
「飛行機エンジニアらしいネ。」
「そういや、このかぐや号の設計にも関わったらしいです……。」
「Q-130型航空機、ですね。かぐや号もこの型です。僕もそう聞きました。」

そこで突然、卦伊佐が叫んだ。
「おい、言伝はQ-130型に詳しかったのか?」
「ええ、そう言ってましたが。」
「これは問題だな……だが、犯人の動機はわかった。」
「えっ、どういうことです?」
卦伊佐は、渋い顔をした。
「実は、このかぐや号には、移植に使われる心臓が積んであるんだ。」
「ええっ⁈」
「Q-130型は、下層に広い貨物室がある。心臓もそこだ。そして、その移植先が問題なんだ。なんと、エライセー次官なのさ。」
エライセー次官といえば、アメリカの超大物政治家だ。しかし、それだけに敵は多い。
「そしてもう一つ。このQ-130型航空機には、大きな弱点がある。23世紀に入って、飛行機の安全性はとても高くなっている。しかし、Q-130型は、内部からの攻撃に弱いことがつい最近明らかになったんだ。」
卦伊佐は、そこで一息おいた。
「外部からの攻撃には、従来通り高い防御性を発揮できる。だが、内部からいくつかの機械を壊しちまえば、Q-130型は簡単に墜ちちまう。」
「じゃあ、あたしたちも危ないってこと?」
「ああ。おそらく犯人の狙いは、エライセー次官の暗殺だ。そのために、移植用の心臓を運ばせない。そうするために、この飛行機を墜落させる。自分ごと、な。しかし、そこで思わぬ障害が現れた。」
「言伝さん、ですか。」
「その通りだ。彼なら、機械を壊しても直してしまうかもしれない。あるいは、機械を壊そうとしているとき、怪しまれて邪魔されるかもしれない。だから、犯人はまず言伝を殺すことにしたんだ。」なんて無理のある動機なんだ!

キャビンに、静寂が降りた。危険に晒されているのは、ここにいる全員なのだ。一刻も早く犯人を突き止めて、この恐ろしい計画を阻止しなければならない。

出し抜けに梅丹が叫んだ。
「そうだ、ダイイングメッセージ! これを解けば犯人がわかるはずだ!」
「ダイニング?」
「ダイイングメッセージ。死に際に遺すメッセージのことです。犯人を告発していることが多いんです。」
こうして、一同はダイイングメッセージの検討に移った。

梅丹は一同に、問題となる画面を見せた。
「履歴などを調査したんですが、言伝さんが今際の際にタブレットPCをタップして、この曲を再生したのは間違いないです。当時、画面にはいろんな曲のサムネイルが並んでいて、そのうちの一つ、この曲を選んでタップしたんです。」
「ならば、この曲がメッセージってことか……。」
「いや、歌手やアーティスト名の方がメッセージかもしれませんよ。」
「歌詞が問題じゃない?」
「『画面をタップすること』自体がメッセージだとしたら、どうしましょウ。」
「大丈夫です! 全部考えていけば、いつか正解に辿り着けます!」
「言伝は死にかけてたんだ。隣の曲を押そうとしたのに、手先が狂ってこれをタップしちまった、とかなら手の打ちようがないぞ。」
「『犯人はド屑だっ!』って言いたかったんじゃない?」
「なんて非生産的なメッセージなんダ。」
「案外そんな感じだったのかも……。」
「そもそもこの曲何? 聞いたことないわよ!」
「大昔、ボーカロイド草創期の曲ですからねえ。」
「ボーカロイドについての本、お貸ししましょうか……?」
議論は紛糾したが、説得力のある解釈は提示されなかった。

少し経って、議論はただの雑談と化していた。
「『かぐや号』って、月に行けそうな名前じゃない?」
「ほんとですネ。」
「今は昔、竹取の翁というものありけり、ってやつね。」
「今は今じゃないんですか? ありけりって?」
「懐かしい! 学校で覚えさせられましたねえ。」
「月のころはさらなり、だっけ?」
「アハハ、それは枕草子ですよお。」
「でも古文なのは同じなので、大丈夫です!」
「皿? なり?」

ここまでお読みになった読者の中には、何か違和感を抱いた人もいるかもしれない。そう、梅丹ティコナンは古語を一切理解していないのだ。これは、彼なりの信念というわけではなく、ただ単に国語の授業を寝て過ごし続けたせいで、古語の存在を知らないからなのである。

何てダメなやつなんだ。

そうこうしているうちに、あっという間に夕方になった。乗客は、ロボットが自動的に出す機内食を食べた。卦伊佐は、死んだ言伝の分を食べた。倫理観など、空腹には屈してしまうのである。

そして、一同は済し崩しに解散となった。この機は翌朝にはJFK空港に着く。皆が一つの場所に集まって夜を明かすことも提案されたが、全員がベッドと枕が無いとよく寝られないことを理由に却下された。 なんて都合のいい!

梅丹が部屋に戻る前、本霞が話しかけてきた。
「ねえ、探偵さん」
「ああ、本さん。何ですか?」
「探偵さんは、古語を知らないの?」
「コゴ? 何です、それ。」
「国語の授業、ちゃんと受けてた?」
「も、もちろんですよ! 授業中に寝るなんてこと、す、するわけがないじゃないですか!」
本は微かに笑うと、一冊の本(これは人名でなく書物という意味だ)を差し出した。
「古文の教科書です。お貸しします。明日には返してくださいね」
「ああ、ありがとう」
礼を言って受け取ると、彼女は踵を返して廊下の向こうへと去っていった。

梅丹も自分の客室に戻った。窓の外はもうすっかり暗く、自分の顔が鏡のように映っているだけだった。目を逸らしてベッドに飛び込むと、手の中にある本を開いた。これでコゴとやらを学べるらしい。梅丹は、読書灯をつけ、教科書の斜め読みを始めた。


──一時間後、部屋から梅丹が飛び出してきた。慌てた様子の探偵は、大声で叫んだ。
「ダイイングメッセージが解けた! 犯人がわかったぞ!」
その手には、古文の教科書が固く握られていた。

第四章 快刀乱麻を断つ(使いたいだけ)

みたび、乗客たちは中央キャビンに集まっていた。しかし、空気は今までになく緊迫していた。

「さて、僕は先ほどダイイングメッセージを解読し、犯人が誰かという解答に辿り着きました。それを今から発表しようと思います。」

皆が、思い思いの声をかけた。
「本当ですカ⁈」
「誰なんだ、早く教えろ!」
「これで大丈夫になるんだね!」
「あたしが取り押さえるわ!」
「その本、私が貸した教科書だ……。」

「まあまあ皆さん落ち着いて。すぐ説明しますから。」
梅丹はそう言うと、解決を始めた。

「あのダイイングメッセージは、結論から言うと、犯人の名前を示しています。そして、解読を助けてくれたのは、これでした。」
「……古文の教科書?」
「はい。恥ずかしながら、僕は今まで古文の知識が全然なかったんです。いえ、それにはよんどころない事情がありまして、決して授業中寝ていたなんてことは無いんですが……。」
「古文がどう関わってくるんだ? 歌詞を古語に訳したら、メッセージが浮かび上がってくる、とか?」
「いえ、もっとシンプルなことです。そして、着目すべきは、題名でも歌詞でも、ましてやボーカロイドでもない。真のメッセージは、アーティストの名前だったんです。」
「それって……」
「そう、言伝さんが伝えたかったメッセージはたった三文字。『なきそ』、これだけです。」
場がどよめいた。
「し、しかし探偵さん、それがどういう意味を持ってるんだ?」
「確かに、これだけでは何のことかわかりません。しかし、『なきそ』と言う文字列と、これを絡めると、意味が見えてきませんか?」
そう言って、梅丹は古文の教科書を掲げた。
「ああっ! 『な〜そ』!」
誰かが叫んだ。梅丹はニヤリと笑った。
「そのとおり。禁止を表す句です。そして、間に入るのは、動詞の連用形。『なきそ』という文字列を古文と解釈すると、意味が浮かび上がってくる。そのとき、『き』は動詞の連用形でなくてはならない。あるじゃないですか、活用表が『こ・き・く・くる・くれ・こ(こよ)』の動詞が。」
「『』!」
衝撃が一同に走った。
「こう考えると、メッセージの意味は歴然です。『なきそ』とはつまり、『来るな』という意味。来るな、来るのをやめろ、来る・止めろ……。」
全員がハッとした。一人に全員の視線が集まる。
「そう。言伝さんが告発した犯人。それはあなたですね、大流来止さん。」

「ち、ちがっ」
その瞬間、大流の体がふっ飛び、壁に叩きつけられた。鳥尾が、張り手を食らわせたのだった。大流は泡をふいて倒れたが、鳥尾はさらに大流に馬乗りになった。
「取り押さえるっ!」
一同は恐怖に硬直していたが、卦伊佐が慌てて駆け寄った。
「もう十分だ! 死んじまうぞ!」
気絶した大流を連れ、鳥尾と卦伊佐はどこかへと去っていった。
「ともあれ、一件落着ですね! 今夜はよく眠れそうです。」
残された面々は、それぞれの部屋へと引き揚げた。もちろん梅丹は、借りた本を本霞に返すのを忘れなかった。


翌朝の新聞が────かぐや号の墜落を告げた。


第五章 古語を知らない探偵

……ううっ、痛い……もう助からないのか、俺は……

あいつ、俺を刺しやがった……なんでだ、なんでだよ……くそっ……

どうにかして、知らせねえと……あいつが犯人だって……

……はっ! これだ!

パソコンは、ほっときゃロックされちまう……伝わるか……? いや、賭けるしかねえ

ううっ 動け、体! あれをタップするだけだろっ! いててて、あああっ、

はあっ よし! うっ、限界か……

うぐっ ふうっ ふう はあ  痛え、痛えよ……

頼む、伝わってくれ……古文だ、古文だよ……

『な〜そ』、禁止、「〜するな」、知ってるだろ?

待て、連用形の『き』は、他にもないか?

はっ、カ変の『来』……!

いや、だが……


な〜そサ変動詞とカ変動詞には例外的に未然形に接続する

カ変の『来』なら、「なこそ」となるから、


古語を知っていれば誤解の余地はない


『な〜そ』に入る「き」はこれだけ……

授業でやったろ? 頼むぞ……俺のメッセージはこうだ……!


なきそ……な着そ……着るな……

Don’t wear……首領・ウェアー

──了

ⒸWikiWiki文庫

プールか体育館か
Notorious
遅刻を免れるには、授業が行われる場所がプールか体育館か、当てなくてはならない。授業開始タイムリミットまであと3分……!
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 俺、柏原亮斗が目を覚まして腕時計を見ると、昼休み終了まで3分を切っていた。その事実を認識した途端、意識が急速に覚醒し、同時に背筋が凍った。これは、とても、まずい。


 慌てて立ち上がった。椅子が倒れ、けたたましい音が無人の教室に響く。起こしている暇はない。一瞬で自分がおかれている状況を再確認する。
 現在、昼休み終了すなわち4限目開始まで、残り2分50秒かそこら。次の授業は、体育。担当教師は三河、通称『遅刻に親を殺された男』。由来は、「時間を守ることは最低限のけじめ」とかなんとか言って、遅刻した生徒を親の仇かのように怒鳴りつけ、放課後の体育館掃除という罰までも加えること。そして、俺は今まさに遅刻しようとしている。だから問題なのだ。今日の夕方、俺は友達とゲームする約束をしている。なんとしても、居残りは避けたい。
 俺は頭の中で素早く概算した。体育館は、渡り廊下を挟んだ1階。全力疾走すれば、2分足らずで着く。着替える時間はないが、遅刻よりは圧倒的にマシだ。荷物を持ち、制服のまま体育館に走り、授業開始に間に合わせる。
 方針は決まった。俺は体育用具一式が入った布袋を取ろうとロッカーに走り、愕然とした。そこには、布袋が入ったリュックサックがあった。
 ひゅっと喉が鳴り、朝の出来事がフラッシュバックする。そうだ、体育は水泳の授業をする予定なんだ。俺は、今日もいつも通りここ沢渡高校に登校してきた。天気は悪く、分厚い黒雲が空を覆っていた。だから、俺はプールバッグと体育用具一式のどちらもリュックサックに入れ、持ってきた。もし天気が崩れれば、水泳は中止となり、授業は体育館での活動に変更となる。備えあれば憂いなし、だ。結果として、その選択は正解だった。朝、三河が教室に顔を出し、「4限目の水泳を実施するかは、昼に判断するからな。昼休みに報告しに来る。もちろんお前らは体育着も準備してるよな?」と言ったのだ。三河が去った後、「持ってないよお」と嘆く数人のクラスメイトを尻目に、俺は悦に入った。
 しかし、肝心の昼休み、俺は完全に寝こけていた。弁当を早々に食べ終わると、眠気に抗うことなく、机に突っ伏してすぐに寝てしまった。三河が来る前に。3限目が国語だったせいか、与謝野晶子が『たけくらべ』を朗読しながら担いだバズーカ砲を打ち込んでくる夢を見た。一度バズーカが至近距離で着弾し、轟音にしばらく逃げ惑ったが、ふと『たけくらべ』は樋口一葉だと気づき、目が覚めた。そして、今に至る。
 睡魔に負けた自分がこの上なく憎たらしい。なぜ、なぜ寝てしまったんだ。三河の報告を聞かなきゃいけなかったのに。
 そう、三河の報告を聞かなければならなかった。もう少し早く起きていれば、聞いていなくてもよかった。しかし、今の状況では、時間が無くなってしまった。2分半では、プールと体育館のどちらかしか行けない。
 プールと体育館は、どちらも体育棟にある。ここの教室からは、廊下を数十メートル行った先を折れ、教室棟と体育棟を結ぶ渡り廊下を渡ればいい。プールは体育棟の3階相当の屋上、体育館は1、2階を占めている。ただし、体育館の入り口は1階にしかない。この教室は2階だから、渡り廊下を渡った後、外階段を上がるか下がるかすることになる。
 残り時間は2分強。この限られた時間では、プールに行った後に体育館にも行く、といったことはできない。どちらか1つにしか、行けないのだ。しかし、俺は水泳が決行されるか否か、すなわち授業がプールと体育館のどちらで行われるかを知らない。
 つまり、俺が遅刻しないためには、授業が行われるのはプールか体育館か、当てなければならないのだ。
 そうと決まれば、一刻も早く場所を突き止め、2分で移動し終えてみせる。タイムリミットは、残り2分34秒。


 暗い教室の中で、俺はロッカーを見渡した。プールセットもしくは体育着が残っていないか、と思ったのだ。三河が授業内容を報告すれば、どちらかの荷物は必要なくなる。その不要な荷物を、誰かが置いていってはしないか。
 しかし、そのような荷物は見当たらなかった。俺と同様、1つの鞄などにまとめて入れている人は多い。だから、その鞄ごとどちらの荷物も持っていった人がほとんどだったのだろう。空振りだ。
 5秒ほど使ってしまった。このまま教室でグズグズしていたら、1つの目的地にすら時間内に辿り着けない。リュックサックを担ぐと、俺は走り出した。
 教室の電灯は消えていた。だから、するべきことは教室の施錠のみ。7月ゆえに冷房がついており、よって窓は施錠されている、と思うことにした。防犯の観点からするとよろしくないことではあるが、いちいち窓の鍵をチェックしている時間はない。黒板横にかかっている教室の鍵を引っ掴み、引き戸を乱暴に閉めて、鍵穴に鍵をあてがう。こんな時に限って、上下がさかさまだ。
「ううっ、くそっ」
 どうにか鍵を挿して捻り、抜く。扉がちゃんと施錠されたかの確認もせずに、俺は廊下を走り出した。鍵はズボンのポケットに突っ込む。
 走りながら横の窓の外を見た。雷や大雨となっていれば、水泳は中止された可能性が高い。しかし、空は朝と変わらず、暗雲が立ちこめているだけだった。太陽光は完全に遮られ、夜かと見紛うほど暗い。雨が降っていれば、向かいの山の電波塔が煙って見えなくなる。だが、窓ガラスの向こうの灰色の塔は、黒々とした雲をバックに、鉄の骨組みまでくっきりと見えた。雷も鳴っていない。ただ、こちら側から吹く風に、植わった木々が揺れているだけだった。天気は崩れていない。プールが決行された方に1ポイント。
 実は、水泳の授業は遅れぎみなのだ。前々回も悪天候で中止になり、スケジュールが押している。だから、三河は多少の天候不順なら水泳を決行する可能性が高い。この事実もプール説を補強する。
 だが……俺が眠っている間に急速に天気が悪くなり、また回復した可能性も否定できない。もしそうならば、今の天候は小康状態であり、いつまた崩れるか判らないということになる。ならば、三河は水泳の中止を決断するだろう。三河は自らの保身、ひいては生徒の安全を優先する。彼はそういう人間だし、体育教師とはそういう職業だろう。いや偏見だが。俺は走るコースを窓際に寄せ、横目で地面を見下ろした。もし俺が寝ている間に大雨となっていれば、地面が濡れているなどの痕跡が残っているのではないかと思ったのだ。しかし、外は暗く、地面も黒く見えるだけだった。これでは、地面が濡れているかの判断はつかない。
 俺は諦めて前に向き直った。渡り廊下までの道程はあと半分ほど。タイムリミットは残り2分06秒。リュックサックの中の荷物が、震動でバタバタと鳴っている。ポケットの中の鍵がチャリチャリと耳障りな音をたてる。
 左手前方には、情報教室と教室棟の中央階段とエレベーター。情報教室からは、生徒たちのどこか浮ついたような喧騒が聞こえてきた。なんでもない日常の音なのだろうが、それは俺の神経を逆撫でした。畜生、のほほんと過ごしやがって。俺はこんなに困ってるのに。まったく、どうして誰も起こしてくれなかったんだ? 教室の電気まで消したくせに。


 こんな風に苛ついていたから、注意が散漫になっていたのだろう。情報教室の脇を走り抜け、階段の横を通り過ぎようとしたとき、突如視界に人が現れた。
 その人が驚いてこっちを振り向く様子が、スローモーションのように見えた。松葉杖。それがまず認識したものだった。右足にギプスをはめ、松葉杖をつき、ナップザックを背負っている女生徒。ぶつかりそうになりながら、頭は冷静に状況を分析していた。教室移動のため、階段を下りてきたのか。しかし、松葉杖に不慣れだったのか、バランスを崩し、よろけて廊下に飛び出したのだろう。焦りでこわばった女生徒の顔がこちらを向く。ポニーテールがなびく。ぶつかる……!
 接地する直前の右足を、内側にずらした。バランスが崩れ、体が右へ倒れ込む。右肩がもろに床に衝突し、痛みが走る。次の瞬間、俺の脇腹が女生徒の頭を受け止め、「ぐっ」と喉が鳴った。呼吸が一瞬止まる。全力疾走していたため、転んだ後も体は前方へ少し滑ったが、すぐに止まった。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか⁈」
「うっ、はい、なんとか……。そちらこそ、怪我は?」
「あなたが下敷きになったおかげで、どうにか……」
 俺は脇腹の痛みを顔に出さず、女生徒を助け起こした。まあ、女生徒が頭を打っていれば、命に関わったかもしれない。それを救ったのだ。多少の疼痛くらい、代償としては軽い。
 どうやら、女生徒に怪我はなく、松葉杖にも損傷はないようだ。俺は介助を提案したが、目的地の情報教室は目と鼻の先なので、と女生徒は慇懃に断った。互いにペコペコ謝って、俺は再出発した。脇腹を押さえ、また走り出す。思わぬ事故で、時間を食ってしまった。残り、1分28秒。


 エレベーターの前を駆け抜ける。ここの自治体は割と裕福で、沢渡高校の設備も、その恩恵を受けている。だから、ただの公立高校に、エレベーターなんてものがある。だが、今は教室棟の昇り降りの必要はない。エレベーターじゃなくて動く歩道が欲しかった。目線はまっすぐ、渡り廊下への曲がり角に向けている。
 スピードを落とさないまま、俺は思いっきり体を右に傾けた。右手を床につけ、膝に負荷をかけながら、足を回す。上履きがキュキュッと甲高い音をたてる。壁にぶつかりそうになりながら、どうにか90度のカーブを曲がりきった。高揚感に全身が包まれる。F1レーサーも真っ青のコーナリングだったぜ。残り、1分15秒。
 そのまま渡り廊下を突っ走る。渡り廊下とはいえ、屋根も壁もある。長さはおよそ30メートル。突き当たりには、体育棟の階段がある。疲労した脚に鞭打って、更に速度を上げる。窓のない、暗い廊下を階段に向かって走っていると、いつもの学校じゃない場所にいるような、不思議な気分になった。
 首を振ってそんな感慨を追い払う。決断の時が迫っている。階段到達まで、5秒もないだろう。行くべき場所は、プールか体育館か。階段を上るべきか、下るべきか。残り、1分07秒。
 考える間もなく、階段の踊り場に着いていた。息が弾み、肩が上下する。
 二者択一。どっちだ? 体育が行われているのは、行くべき場所は、進むべき方向は、どっちだ?
 決断は、速かった。考えず、運に任せる。それが俺の選択だった。
 三河の報告を聞き逃した時点で、俺に正答を導ける方法など残されていなかったのだ。どっちを選んでも、確率は二分の一。いや、天気が崩れていない以上、水泳が決行された可能性が僅かに高いか。人事を尽くして天命を待つ。あとは天に祈るしかない。
 残り1分00秒。俺は、意を決して、階段を上る一段目に足をかけた。



 ──違和感
 感じたのは、それだった。何か、重大なことを見落としているような、違和感。目の前に横たわっているのに、寝ぼけて気づけていないような違和感。
 足が、止まる。さっき決したはずの心が、揺らいでいる。何か見落としている。何か、何か……。
 ──松葉杖
 掴みかけた。今、確かに、違和感の正体を掴みかけた。体中がじんわりと温かくなる。もう少し! もう少しで判る! 何だ? 松葉杖がどうしたんだ? 今掴みかけたものは、何だ?
 俺は頭を抱えて蹲った。何か見落としていると、本能が、無意識が、深層心理が告げている。早く気づけと叫んでいる。何だ? 何を見落とした? 掴むべきものは、何だ?
 時計の針がカチッカチッと進んでいく。残り49秒、48秒、47秒……。このままでは、1つの目的地にすら辿り着けない。だが、無策に走り出すことを、頭が拒んでいる。まだ人事を尽くしきっていないのだと訴えている。
 勘違いかもしれない。思い込みかもしれない。でも、捨てきれない。何だ? 何を見落とした?
 ロッカー、鍵、窓の外……。43秒。
 電波塔、木々、風……。42秒。
 情報教室、松葉杖、階段……。41秒。
 エレベーター、曲がり角、渡り廊下……。40秒。
 松葉杖、松葉杖、さっき俺は松葉杖に何を感じたんだ? 何を掴みかけたんだ? 39秒。
 松葉杖、松葉杖、松葉杖……。階段


 ──掴んだ。


 残り36秒、考えるより先に、俺は矢のように走り出した。掴んだものを離さないうちに、頭の中で反芻する。
 なぜ松葉杖をついた女生徒は階段を下りてきたのか? すなわち、なぜ松葉杖をついた女生徒はエレベーターを使わなかったのか
 足にギプスをはめた彼女にとって、階段を下りるのは相当な難事だっただろう。転げ落ちるリスクもあるし、現に彼女はこけている。手助けしてくれる人もいなかったし、情報教室はエレベーターとも近い。エレベーターが使用中だったとしても、急いで危険な階段を使うよりは、普通エレベーターを待つだろう。なのに、なぜ? 簡単だ。使わなかったのではなく、使えなかったのだ
 残り24秒。階段を2段飛ばしで駆ける。
 疑問は、それだけではない。教室を出て、廊下の外を見たとき。外は夜かと見紛うほど暗かったのにどうして電波塔がくっきりと見えた? 内側より外側が暗いと、ガラスは鏡のように、内側からの光を反射する。なのに、なぜ覗き込む俺の顔は映らず、外がはっきり見えた? それは、室内が室外と同じくらい暗かったから
 教室の電灯は消えていた。いつもと違う感覚を覚えたのも、渡り廊下がいつもより暗かったからではないか? 廊下の電灯はすべて消えていたのではないか? エレベーターのランプも、点いていなかったのではないか?
 これらの状況証拠から導かれる推論はこうだ。
 沢渡高校は停電している
 残り17秒。足が滑り、危うく段を踏み外しそうになるが、すぐに走り出す。
 生徒たちが妙に騒がしかったのも、停電という非日常な状態ゆえではないか? なら、なぜ停電しているのか。原因は判らない。だが、今の天気からすると…… 雷が落ちた可能性はないだろうか
 落雷で、ブレーカーが落ちたか、近くの電線が切れたか。そうして今ここは停電しているのではないか? 夢で聞いたバズーカの轟音。それが、実は雷が落ちる音だったのではないか?
 残り9秒。階段が終わり、目的地はすぐそこ。乱れた息を整えることもせず、最後の力を振り絞って走る。
 もしそうなら、もし停電するほどの雷が近くに落ちたのなら。
 プールが決行されるわけがない
 確証はない。仮定に仮定を積み重ねた空論だ。でも。
 残り3秒。扉に手をかける。
 体育館で授業が行われる確率は、二分の一よりも高いのではないか?
 人事は、尽くした。
 残り1秒。俺は体育館の扉を、勢いよく開けた。



 突如、体育館内が明るくなった。眩しさに俺は思わず目をつぶる。そして、同時に授業開始のチャイムが鳴り響いた。
「点いたあ!」
「直ったのか、停電」
「眩しくて目開けられねえっ」
「おおっ、柏原、ギリセーじゃん」
 中には、クラスメイトが皆、並んで座っていた。点灯した天井のライトを見て、騒いでいる。
 当たったのだ。俺は、二者択一を当てたのだ。
 安堵と高揚が同時に押し寄せ、力が抜けた。体育館の床に、へたり込む。ところが、一息つく間もなく、野太い三河の声が飛んできた。
「おい柏原、お前どうして制服なんだ!」
「すみません、着替えてきます!」
「まだ停電が全面復旧したとは限らん。気をつけろよ」
 三河の怒鳴り声でさえも、いつもより優しいように思えた。俺は更衣室へと駆け出した。息は切れ、節々が痛むのに、なぜか心地よい。
 ポケットの鍵が、澄んだ音をたてた。

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ドア越しの夫婦
Notorious
今玄関にいるよ!
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 ガタンとドアが鳴り、続いてピンポーンとチャイムが鳴った。夫が帰ってきたのだと、勇子は直観した。鍵を持っていくのを忘れて、家に入れないのだろう。待ちきれないのか、コンコンコンとノックの音が続く。思った通り、夫の大声が玄関の外から聞こえた。


「ドアに鍵が掛かってる! 今玄関にいるよ! 虎太郎も帰ってる?」
 少し頼りないけど、芯のある声。何となく、夫が勇子の親に初めて挨拶に来たときのことを、勇子は思い出した。古風なわたしの実家で、父の面前で明らかに緊張しながらも、決して震えることのなかった、あの時の声。
「うん! 虎太郎をお風呂に入れてるから、ちょっと待って頂戴!」
 勇子は脱衣所から声を張り上げた。ドアの向こうに聞こえるには、ちょっと叫ばないといけない。ひょっとして近所迷惑だったかしら、と少し不安になったが、今は火曜日の昼下がり。大抵の人は仕事に出ているだろうと思い直した。そう、普通の社会人は働きに出ている時間帯。しかし、外資系の会社勤めの夫は、時差か何かの都合で、このくらいの時間に帰宅することもままあるのだ。
 勇子は、息子の虎太郎の体を拭く手を止め、風呂の外に出た。風呂から上がったばかりでずぶ濡れの虎太郎に、自分で体を拭くように言って腰を上げた。
 虎太郎は小学一年生。今日は学校で設備点検があり、給食を食べるとそのまま下校する日だった。しかし十分ほど前、乱暴に玄関が開いたかと思うと、ドアが閉まるより早く泥んこの虎太郎が駆け込んできたのには驚いた。「ただいま〜!」と無邪気にランドセルを放り出す虎太郎を慌てて抱き上げ、そのまま風呂に直行した。虎太郎が言うには、下校中に友達と一緒に水たまりで思いきり跳ね回ったらしい。集団下校を引率する先生の、苦笑が目に浮かぶようだ。足の爪に泥が入り込んで洗い落とすのに苦労したが、楽しそうに学校であったことを話す虎太郎は、たまらなく愛しい。
 タオルで体をこすり始める虎太郎に背を向け、玄関に向かう。濡れた手をズボンでぬぐい、落ちてきた髪を横に払う。夫は玄関の外で、手持ち無沙汰に待っているのだろうか。その姿を想像すると、ちょっとおかしく思えて笑いがこぼれた。
 その時、先ほどの夫の言葉が脳内でリフレインした。
 ──今玄関にいるよ!
 知らず、唇が歪んだ。

*        *        *

 アパートの2階、一枚の扉の前。義文は、玄関ドアが開くのを今か今かと待っていた。勇子が「ちょっと待って頂戴」と言ってから、たっぷり3分は待たされ続けている。たかが風呂に、こんなに時間がかかるものだろうか。退屈を通り越し、義文は苛立ってすらいた。チャイムをもう一度鳴らしてやろうかと思ったが、こらえる。
 疲れた手を軽くほぐしていた時、部屋の中から大きなくしゃみが3回続けて聞こえてきた。まったく、近所迷惑な女だ。次いで、バタバタという足音が近づいてくる。ようやく来たか。義文は居住まいを正した。
 ガチャリとサムターンが捻られる音がした。ドアが開けられる心構えをしたが、案に相違して動きはない。不審に思っていると、ドアの向こうから勇子の声がした。
「ねえ、あなた。ちょっと言いたいことがあるの」
「……どうしたの? 気にせず言ってくれ」
 ドア越しの、どこか歪んだ声が聞こえてくる。
「わたしとあなたが結婚してから、もう8年が経つわね」
「……そうだね」
「わたしを古風な実家から連れ出してくれたのには、感謝してる。並大抵の覚悟じゃ、できなかったでしょ」
 脳裏に勇子の『実家』のことが浮かび、苦々しい気分になった。尋常じゃない覚悟が必要だったのは、そりゃ当たり前だろう。何せ……。
「何せ、龍田組の組長だものね」
 一条勇子、旧姓龍田勇子の実父は、日本指折りの暴力団・龍田組の現組長、龍田勇蔵である。勇子は亡き妻との間の一粒種で、勇蔵の寵愛を一身に受けて育ってきた。しかし8年前、勇子は組から離れ、堅気の男と結婚すると言い放った。当然勇蔵は猛反対したが、それを振り払って、夫妻は現在、組と離れて暮らしている。
「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを連れ出してくれたことには、本当に感謝してるわ」
「やりたいようにしただけさ。君は、実家が特殊だからって諦められるような人じゃなかった」
 義文は内心、うんざりしていた。なんだ? 惚気るためにドアを開けないのか?
「それに君は……」
「でもね」
 夫の言葉を遮って、妻は押し殺した声で言った。
「今は、後悔してるの。あなたと結婚したこと」
「なっ……どうして、そんな」
「あなたが初めてお父さんに挨拶しに来たときは、頼もしかったわ」
 無視して勇子は言葉を継いでいく。
「この人にならわたしを任せられるって、お父さんもそう思ったから、最終的には結婚を許してくれた。でも、今は全然違うじゃない!」
 義文は息を呑んだ。勇子の声にどうしようもない悲痛さが滲んでいたからだ。
「虎太郎も、わたしも、全然大事にされてる気がしないの。いっつも仕事ばっかりで」
 そんなに仕事に打ち込んでばかりだっただろうか、と思う。それに、ひょっとすると、勇子が機嫌を直さなければ、ドアを開けてくれないのではないか? 義文は心の中で舌打ちした。なんてめんどくさい女だよ。
「……ねえ。最近、お父さんの仕事関係で、不穏な動きがあるんだって」
 思わずどきりとした。急に話題が変わったな。
「龍田組に敵対してる組織が、お父さんの弱みとして、わたしと虎太郎を狙ってるかもしれないんだって」
「それがどうしたんだよ?」
 じれったい。さっさとドアを開けてくれ。
「もしそうなったら、虎太郎を守ってくれる?」
「当たり前だろ!」
「うん……そうね、わかりきったことよね……」
 声に涙がまじった気がして、義文は驚いた。どういう情緒だ? こうして話し始めてから、もう3分ほど経つ。
「君だって、虎太郎を守ってくれるだろう?」
 勇子はそれには応えず、短い沈黙が流れた。ドアを開けろと怒鳴りたい衝動をぐっと呑み込む。すると、打って変わって冷淡な声が耳朶を打った。
「ねえ、あなた。ちょっと言いたいことがあるの」
「何だい? どうかしたの?」
「わたしとあなたが結婚してから、もう8年が経つわね」
 急に、強烈な違和感を覚えた。何かがおかしい。いや違う。これは違和感じゃなくて──

*        *        *

 ──今玄関にいるよ!
 玄関に向かっていた勇子は、思わず足を止めた。玄関にいるのは当たり前のことではないか。声を聞けばわかる。なのに、なぜわざわざそんなことを夫は言ったのだ?
 一度そう思うと、いろんな違和感が駆け巡る。そして、勇子はあることに気づいた。
 虎太郎が帰ってきたとき。ドアが閉まるよりも早く泥んこの虎太郎が駆け込んできて、勇子は慌てて虎太郎を抱き上げて、そのまま風呂に……。
 勇子も虎太郎も玄関の鍵を掛けていない。でも、夫は「ドアに鍵が掛かってる」と言う。なら誰が鍵を掛けたのだ……?
 単純な矛盾が、勇子を混乱させる。一体何が起きているの?
 そのとき、もう一つのことに気づいた。コンコンコンという、ノックの音。まさか……。
 勇子は机に置かれていたそれに手を伸ばす。

*        *        *

「わたしとあなたが結婚してから、もう8年が経つわね」
「もう8年か……」
「わたしを古風な実家から連れ出してくれたのには、感謝してる」
 間違いない。義文は確信した。単なるデジャヴではない。
 勇子はまったく同じ内容を繰り返している。内容だけではない。声色、速さ、抑揚、何もかもまったく一緒だ。これは……?
 何かはわからないが、確実に何かが起こっている。何か、まずいことが。こうなったら、搦め手はやめだ。
 義文は叫んだ。
「おい、今すぐドアを開けろ! さもなきゃ……」
 銃を構え直し前に立つ男の後頭部に突きつけた
てめえの旦那のドタマをぶち抜くぞ!」
 銃を突きつけられた男──勇子の夫・一条は、びくっと体を震わせた。
 しかし、ドア越しの声は微塵も揺らぐことなく続いている。
「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを──」
 義文は動揺していた。何が起こっている? 夫の呼びかけにも俺の恫喝にも反応せず、頑なにドアを開けようとしていない。いや、そんな次元ではなく……。
 猪狩義文は、銀獅子会の下っ端だった。勇子の話に出てきた、龍田組に敵対している組織の、いわゆる鉄砲玉である。銀獅子会は地方の弱小組織で、業界大手の龍田組に対抗できるわけもなく、潰されかけていた。しかし、組長の娘と孫を人質にすれば、話は変わってくる。とはいえ、表立って誘拐などすれば、組織の立場が危ない。あくまで個人の暴走として、2人を奪取する。それが義文に課せられた仕事だった。
 しかし、無理やり家に侵入しようとしても、警戒されて通報されたり逃げられたりするのがオチだろう。ガキを人質に女をおびき出すのも、集団下校のせいで難しい。そこで考えたのが、帰宅途中の夫・稔を銃で脅し、家に押し入って油断している二人を攫うという方法だった。
 だが状況が変わった。今までは無駄に騒がれたくなかったから、勇子が自ら扉を開けるのを待っていたが、もうやめだ。最初に鍵は開いた。開けてもらわなくとも、自分で開ければいい。
「どけ!」
 稔を横に突き飛ばし、ドアの前に立つ。左手でドアノブを捻り、一気に引く。ところが、ガタンと音を立てて扉は開かなかった。
 鍵が掛かっているのか? なぜだ。確かに鍵の開く音を聞いたはず……。
 考えるのは後だ。サプレッサーが付いた銃をデッドロック付近に向け、引き金を引いた。パン、パンと軽い銃声がアパートに響く。ドアに無残な穴が開き、鍵の部分が吹っ飛んだ。
 ドアノブを引くと、今度こそ扉は開いた。室内に向けて素早く銃を構える。しかし、人影はない。なのに、勇子の声は続いている。声の方向に目をやると、それが目に入った。
 靴箱の上に置かれたスマートフォン。それが、無機質に勇子の声を流し続けている。義文はようやく気づいた。録音した声をループ再生しているのか!
 義文は部屋の中に向き直った。電気がついたままの部屋の奥で、カーテンが揺れている。つまり、ベランダに続く掃き出し窓が開いているということだ。室内に人の気配はない。
 ──逃げられた。
 愕然とし、遅れて疑問が訪れる。なぜ、気づかれた? そもそも鍵が閉まっていたのはなぜだ? 確かにサムターンは回されたはず……。
 最初鍵は開いていたのか?
 怒りと悔しさが込み上げ、義文は机を蹴飛ばした。初めに稔がドアを開けようとしたとき、鍵は掛かっておらず、稔はただドアを揺らしただけだったのか! あいつ、怯えたような顔して、そんなことしてやがったのかよ!
 勇子は勇子で、義文たちを待たせている間にスマホで声を録音しておき玄関で鍵を閉めるとそれを再生したのか。そして足音を忍ばせ、息子と共にベランダから逃げる。すべては、自分たちが逃げる十分な時間を稼ぐために。あの話の内容も、全て咄嗟のでっちあげ……!
「くそっ!」
 まんまと逃げられた。一瞬でここまでの細工を考え実行した妻も、その意図を汲み取り録音だとバレないように話を合わせた夫も……。なんて夫婦だよ、くそっ。
 玄関の外を振り返ると、稔の姿が無い。こっちにも逃げられた。今からでも女と子供を追うべきか。まだ3分くらいしか経っていない。ひょっとしたら、追いつけるかも……。
 そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。逃げた妻が通報したのだろうか。こうなっては、逃げるしかない。義文は銃をしまうと、玄関から走り出た。階段を駆け下り、徐々に近づいてくるサイレンと反対方向に走る。奥まった路地を駆けながら、義文の頭では一つの疑問が渦巻いていた。
 録音された音声は3分ほどだったが、3分の音声を録音するには当然3分かかる。一方、義文が玄関の外で待たされていたのも3分くらい。だから、勇子はその3分をまるまる録音に使ったことになる。しかし、ドアの奥に刺客がいると知っていないと、そもそも録音した声を使って騙そうなんて発想は浮かばない。つまり、ドアの後ろに義文がいるという状況に勇子はかなり早くから気づいていたことになる。
 なぜそれに気づけたんだ? 夫が鍵の掛かっているふりをしたからか? いや、それなら夫が変な勘違いをしていると思い「鍵は開いてるわよ」などと言うのが普通だろう。
 どうして気づけたんだ?
 薄暗い道を疾駆しながら、義文はいつまでもそんなことを考えていた。

*        *        *

 当たり障りのないことを、勇子は奥に引っ込んで録音した。ドアを開けないことが自然に思えるように喧嘩っぽいことを喋ろうとしたが、うまく話せたかどうかはよく覚えていない。さっきから心臓が早鐘を打っている。勇子の想像が正しければ、ドアの向こうには凶悪な誰かがいる。鍵は掛かっていない。夫の演技が奏功しているみたいだけど、いつ気づかれてドアが開くかわからない。今にも部屋に押し入ろうとしているかもしれないと思うと、どうしても恐怖で体が震える。
 でも、わたしは虎太郎を守らなきゃいけない。服を着た虎太郎は、言いつけ通りに静かにしている。
 勇子はわざと大きな足音を立てて玄関に向かった。少し前の夫の言動を振り返る。
 『ドアに鍵が掛かってる! 今玄関にいるよ! 虎太郎も帰ってる?』
 その前に、3度のノック。これを『3文字目に注目しろ』という意味に捉えれば。
 どあにかぎがかかってる
 いまげんかんにいるよ
 こたろうもかえってる
 に・げ・ろ
 夫も相当の覚悟をもってこのメッセージを送ったのだろう。伝わったから、虎太郎はわたしが守るから、安心して。
 そんな思いを込めて、わざとらしく3度くしゃみをした。そして、夫婦を隔てる扉の鍵を掛ける。スマホをそっと靴箱の上に置き、ループ再生ボタンをタップする。
 どうか無事でいて、稔さん。
 心の中で言いながら、勇子は玄関に背を向けた。夫を危地において逃げることに、心が咎める。しかしそのとき、後ろから夫の言葉が聞こえてきた。それに背中を押され、勇子は虎太郎のもとへと向かう。
 夫はこう言ったのだ。
「気にせず行ってくれ」

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賞味
キュアラプラプ
小鳥といちごのボーイ・ミーツ・ガール。やがて訪れる賞味期限タイムリミットは果たして……!
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 あるところに小鳥がいました。小さなみどり色のつばさと、きれいでふさふさな毛なみをもち、気ままにのうのうとくらしている小鳥です。

 今日はお気にいりの甘あい実をたくさんとれたようで、ごきげんなようすでおうちにもってかえってきました。夕やけ空を風のようにかけぬけて、とっても気もちよさそうです。

「あっ、小鳥さんだ! 空をとんできた!」

「やあ小鳥さん。わあ、お~いしそうっ!」

「ほうほう、さすがは小鳥くん、くだものをとるのがじょうずだね。」

 小鳥には森のともだちがたくさんいます。いつも元気なリスさんに、食いしんぼうなウサギさん、とっても頼りになるハトさん!

 小鳥はみんなにとってきたものをすこしずつ分けてあげました。みんながおいしそうにたべているのをみて、小鳥はちょっぴりほこらしくなりました。

「えっへん、ぼくがえらんできたくだものはおいしいでしょう?」

「うん、とっても!」


 小鳥は、すごくしあわせでした。

*        *        *

 じぶんが食べる分を木のみきのほら穴につめこんだあと、小鳥は日がくれるまであたりをさんぽすることにしました。

 この森をぬけたすぐそばには、人間たちのくらす街があります。そこにはにぎやかな歌やようきな音楽がいつもなりひびいていて、おいしい食べものもそこら中にあふれているのです。小鳥はこの街を、とーっても気にいっていました。

 はなうたまじりに街に入ろうとした小鳥は、ひんやりとした風といっしょにどこからかながれてきたものに心をうばわれました。甘くてきれいで、しっとりしたいいにおいです!

 そのおいしそうなかおりにつられ、しばらくそのままさまよって、小鳥はついににおいのもとまでたどりつきました。そこは、街のはずれにあるケーキやさんでした。

 かちゃかちゃぐつぐつ音がして、えんとつからはもくもくとけむりが立ちのぼっています。小鳥がおみせのなかをのぞいてみると、そこにはもちろんたくさんのケーキ!

 どれもおいしそうで、みているだけでおなかがへってきてしまいます。すると――

「こんにちは、小鳥さん。」

「う、うわあ!?」

 とつぜん声をかけられて小鳥はびっくり! まどガラスごしにはなしかけてきたのは、たなのはじっこにあるショートケーキ、その上にあるいちごでした。

 ‎なめらかな形がさえた真っ赤にいろどられ、まわりのホイップクリームはまるでドレスのよう。小鳥はなんだかどきどきしながらへんじをしました。

「こ、こんにちは、いちごさん!」

 いちごは小鳥のほうをみて、やさしくほほえみました。小鳥は恥ずかしくなって、とっさに目をそらしてしまいます。

「ねえ、あなたは空を飛べるの?」

「う、うん、飛べるよ! それも、とーってもはやくね!」

「わあ、すごい! じゃあ、雲の上にもいったことがあるの?」

「雲の……うえ……。」

 小鳥はたしかに空をじゆうにとべます。けれど、雲の上にまで行ったことはありませんでした。そんなにたかいところまでとぼうとしたら、つかれてへとへとになってしまうし、なにより小鳥はこわがりだったからです。

 じめんがみえなくなるほど空たかくにいってしまったら、もうかえってこられなくなるんじゃないか――どうしてもそうおもってしまうのです。

 でも、そんなこといったらかっこわるい気がして、小鳥はうそをつきました。

「も、もちろん! ……雲の上ではおひさまもぽかぽかで、すっごく気もちよかったよ!」

 これを聞いたいちごは、ぱあっとえがおになりました。でも小鳥はなぜだか、ちょっぴり目をそらしたくなってしまいました。もじもじしながら、いちごはこう続けます。

「……わ、わたしね、じつは、いつか雲の上にいくのが夢なの。だから、その……よければわたしをつれていってくれないかな……なんて。」

「え!? あ、その、えーっと……。」

 どうしよう! どうしよう! ほんとうは雲の上にいくなんてできないのに! 小鳥はうそをついたさっきのじぶんにもんくを言いました。

「……ご、ごめんね! 会ったばっかりなのにこんなこと聞いちゃって! め、めいわくだったよね! やっぱりこのことはわすれて!」

 いちごはかなしそうにうつむいています。それをみた小鳥は、ついあせって、言ってしまいました。

「わ、わかった! つれていってあげるよ! 雲の上!」

「ほんとに!? やったあ! ありがとう!」

 できもしないようなやくそくをしてしまった小鳥は、あとでどうしたらいいのか、とてもしんぱいになりました。

 けれど、いちごによろこんでもらえたのがうれしくて、ひょっとすると今ならほんとうに雲の上までとべるかもしれないとおもいました。いちごといっしょなら、なにもこわくないような気がしたのです。

 ――しかしそのときとつぜん、ばさばさという大きな音がちかづいてきました。

「小鳥くん、どうもこんにちは。」

 小鳥がうしろをふりかえると、そこにはまっくろでのっぽのカラスがいました。りっぱなつばさをもっていて、とってもとぶのがはやそうです。かっこいい!

 ……だけど小鳥には、どこかぶきみなかんじがしました。

「こ、こんにちは、カラスさん。」

「……小鳥さん、あのカラスさんはおともだち?」

 いちごがひそひそ声で聞いてきます。

「ううん、今はじめてあったとこ……うわあ!」

 気づいたら、いつのまにかカラスは小鳥のすぐとなりにきていて、えがおでこう言いました。

「ねえねえ小鳥くん、かわいいかわいい小鳥くん、きみを食べてもいいかい?」

「え?」

 あぶない! カラスはいきなり、つばさをひろげておそいかかってきました!

「うわああ!」

 すんでのところで小鳥はこれをかわしましたが、カラスはひきさがりません。なにがなんだかわからないまま、とりあえず小鳥はここからにげることにしました。

「いちごさん! 今はあぶないから、明日また会おう!」

「ま、まって!」

 しかしいちごは、なにやらあわてているようです。

「わたし、今日でこのおみせにすてられちゃうの!」

「え!?」

「くわしいことはわからないけど、ケーキはみんな一日でうれなくなるからって……。とにかく日がしずんでおみせがしまっちゃったら、わたし……!」

 カラスのこうげきはつづきます。小鳥はかんがえるひまもないまま、こうさけびました。

「わ、わかった! 日がしずむまでにここにもどってくるから、それまでまってて!」

「……! うん! あ、ありがとう!」


 小鳥は、いちごのことを好きになっていました。

*        *        *

 つばさをはためかせ、小鳥は空にとびあがっていきました。しかし、ケーキやさんがみえなくなっても、カラスはしつこく小鳥をおいかけてきます。それもものすごい速さで!

 小鳥はひっしで小回りをきかせてどうにか出しぬこうとしますが、カラスにはつうようしません。夕やけはもうむらさきがかってきていて、お日さまはしずみはじめています。

「小鳥くんはすばしっこいなあ。もういいからはやく食べさせてよう。」

「……どうしてぼくを食べようとするのさ! 街にはもっとほかにおいしい食べものがあるでしょう!」

 小鳥とカラスはつかずはなれず、ついには街の真ん中にある時計台のてっぺんまできました。空はくらくなってきて、お日さまはもうはんぶんしかありません。早くおみせに戻らないと、いちごはすてられて、ゴミばこに入れられてしまいます。

 ……ついさっきいちごと出会ったばっかりなのに、どうしてこんなふうにおもっているのか――じぶんにもわからなかったけれど、小鳥にとってそんなことはぜったいにいやでした。

 小鳥はいつのまにか、森のともだちとおなじくらい、もしかしたらそれいじょうに、いちごのことをだいじにおもっていたのです。

「……ひとめぼれ、じゃないかな。」

「……え?」

 ちく、たく、ちく、たく。時計台のはりのゆれるおとが、いやに大きくきこえてきます。

「ん? ああ、ぼくが小鳥くんを食べたくなったりゆうだよ。」

「え、いや……え?」

 ちく、たく、ちく、たく。

「きれいな緑色のつばさにふさふさの毛並み。きみをみるとなんだか……どきどきしちゃうのさ。」

「ど、どういうこと……?」

 ちく、たく、ちく、たく。

「ぼくはきみのことが好きなんだ。」

「あ、え。」

 ちく、たく、ちく、たく。

「ずっとしあわせにするから。」

「ど、どうして、じゃあ、たべる、なんて。」

 ちく、たく、ちく、たく。

「うーん……でもさ、そんな顔したって、ほんとうに心のそこからわからないなんてことはないだろ?」


 ごーーーん。


 七時をつげる時計台のおとが、小鳥をわれにかえらせました。にしの方をみると、あおぐろい雲の下、お日さまはほとんどしずみかかっています。

 小鳥は、かんがえるより先に、じめんに向かってすごいスピードでおちはじめました。カラスもやっぱりあとをおって、まっさかさまにおちてきます。

「どうしたの小鳥くん、その先はただのじめんだよ! このままだとぶつかっちゃう!」

 カラスの言うとおり、小鳥はじめんに向かってまっしぐら。あぶない、ぶつかる――!

 というところでおっとっと、くるりとからだをひるがえします。しかしのっぽのカラスは小回りがきかず、そのままじまんの大きな羽をじめんに打ちつけてしまいました。これでカラスも、しばらくのあいだはおいかけてこられないでしょう。

「ぐっ……小鳥くん……ぼくはあきらめないからね! いつかきみのことを食べてあげるから!」


 小鳥は、すぐさまいちごのもとへ向かいました。

*        *        *

 カラスのことばには耳もかさず、小鳥はあのケーキやさんに向かってぜんそくりょくでかけていきます。お日さまはついに、とおくに見える山の向こうにしずんでしまいました。

 小鳥の中でいやなそうぞうがふくらんでいきます。ちかづいてきたケーキやさんのえんとつからは、もうけむりはのぼっていません。……いちごさん、おねがい、ぶじでいて!

 小鳥はなりふりかまわず、今さっきみちでひろった小石をまどガラスになげつけました。大きな音を立てて、とうめいなガラスへんがくずれおちます。

 おみせのだれかのひめいもよそに、小鳥はわれたまどのすきまから中におし入って、目線はたなのはじっこの、ショートケーキのてっぺんの――

「いちごさん!」

「あ、小鳥さんっ!」

「さあ、つかまって!」

 小鳥はつめのあいだに大切にいちごをかかえて、ケーキやさんをあとにしました。

 空はすっかりほのぐらくなっていて、お月さまとお星さまが白くかがやいています。つめたくふく風が小鳥といちごをくすぐって、ひゅうひゅうと音を立てました。

「あの、小鳥さん……ありがとう!」

「えへへ、どういたしまして!」

 かわいた空気のなか、小鳥はふかく、やわらかく息をはきます。

 だれかのためにこんなにがんばるだなんて、小鳥には生まれてはじめてのことでした。肩の荷がおりるのとどうじに、カラスとのおいかけっこのつかれがどっと押しよせてきました。

「すごいなあ……空ってこんなにひろかったんだね。雲もあんなにとおくにある。」

「……そうだね。」

 ほほえましい気もちもひるがえって、雲の上へいちごをつれていくというやくそくをおもいだした小鳥は、じぶんのなさけなさがいやになりました。

 ……小鳥には、あのときうそをついてしまったことが、いちごとのあいだの全てをだいなしにしているようにおもえました。

 だから小鳥は、いちごにほんとうのことをはなすことにきめました。

「あ、あのさ、雲の上につれていくってはなしなんだけど……。」

 ――でも小鳥には、勇気がありませんでした。

「今日はつかれちゃったから、またこんどでいいかな?」

 もしあれがうそだったとわかったら、いちごはじぶんのことをきらいになってしまうかもしれません。もしそうなってしまったら――その先をそうぞうすることさえ、小鳥にはこわくてとてもできませんでした。

 こんなことなら、うそなんてつかなければよかったのに。

「わかった。じゃあ……明日にしようよ! 早く雲の上にいってみたいな……!」

「……う、うん、そうしようか。じゃあ今日はとりあえず、ぼくのおうちで休もう。」

「やったあ! 小鳥さん、ほんとうにありがとう!」


 小鳥は、じぶんのことがきらいになりました。

*        *        *

「あっ、小鳥さんだ! 今日はおそかったね!」

「やあ小鳥さん。あれ? ま~たくだものをとってきたの?」

「ほうほう、けっこう大きいね。これは……イチゴ、とかいったかな?」

 小鳥は、しばらくしていちごといっしょに森へかえってきました。リスさんにウサギさん、ハトさんの顔をみてすこしだけ元気になれたけれど、明日のことをかんがえると気もちはしずむ一方です。

「こ、こら、いちごさんは食べものじゃない! ぼくのともだちだよ!」

「え、そうなの! ごめんごめん、しらなかったよ!」

 森のみんなはびっくりしているようすで、ふだんとかわらず明るくわらっています。……でも小鳥は、なぜだかぞっとしてしまいました。

 いちごさん――「イチゴ」を、……くだものを食べものだとおもうのは、べつにおかしなことではないし、むしろとうぜんのことです。

 なのに、いちごさんと「食べもの」をむすびつけることばには、なにかとってもいやなかんじがするのです。

 ……あのおかしなカラスのことばをおもいだしたせいでしょうか。

「えっと……ごめんねいちごさん、ここにいるみんなは、ぼくのともだち! ちかくにすんでるんだよ!」

「だいじょうぶ、気にしてないよ。……でも、わたしのからだをかじったりするのはやめてね!」

「あはは、ごめんごめん!」

 いちごは森のみんなとすっかり打ちとけたみたい。小鳥との出会いや、ケーキやさんからつれ出してもらったことを、とってもたのしそうにおしゃべりしています。よかったよかった。

 ――気づけば空はすっかりまっくら。ともだちもみんなじぶんのおうちにかえっていったので、小鳥ももうねむることにしました。いちごといっしょに、木のみきのほら穴の中にねころがります。

「小鳥さんのおうちのなか、あったかいね。」

「えへへ、いいところでしょ?」

「ええ、とっても。……小鳥さんは、もうねむっちゃうの?」

「もう夜もおそいからね。……いちごさんはねむらないの?」

「わたしは小鳥さんみたいなどうぶつとちがってうごけないから、ねむるひつようもないの。」

「そうなんだ……だったらよなかはたいくつじゃない?」

「ふふ、いがいとそんなこともないよ。わたしはいつも、雲の上のことをそうぞうするの。きっとそこはとってもきれいで、すっごくたのしいんだろうな、って。」

「……そっか、それならたいくつしないかもね。」

「でしょ? ……でも、明日はついにほんとうに雲の上にいけるんだね。なんだか夢をみてるみたい!」

「……。」

 ぽつぽつと、雨の音が聞こえてきました。

「小鳥さん、ほんとうにありがとう。会ったばかりのわたしに、こんなに良くしてくれて。」

「……おやすみ。」

「……おやすみなさい、小鳥さん。」


 小鳥は、にげるようにしてねむりにおちました。

*        *        *

 お日さまもまだのぼらない朝はやく、甘あいゆめからさめた小鳥は、ゆううつに息つく間もなく、ひどいにおいに顔をしかめました。

 雨上がりのじめっとした風といっしょにどこからかながれてきた、甘くてすっぱくて、鼻をつくひどいにおいです。あまりのつよいにおいに、小鳥はおもわずせきこんでしまいました。

 ……でも、あたりをさがすまでもなく、小鳥はそのにおいのもとに気づいてしまいました。

「あ、あれ?」

 それは今いる木のみきのほら穴の中に、小鳥のすぐそばにありました。しなびた形がどんよりと黒ずんだ赤にいろどられ、ぽつぽつと気もちわるい粉をふくそれは――

「い、いちご……さん?」


「ねえ、小鳥さん、わ、わたし、いま……どうなってるの……!」


 いちごは、今にも消えいりそうで、むらがるハエの羽の音にうもれてしまいそうな、しかしするどくつきさすような声で、そうつぶやきました。

「ど、どうして、こんな……。」

「わかんないよ! わたし……ちがう、いやだ、こんな、こんなの……!」

 吐きそうになるのをこらえながら、小鳥はハエをおいはらい、大切にいちごをかかえて、ハトさんの住んでいる木にとんでいきました。ものしりで頼れるハトさんなら、こんなことになってしまったいちごでも、元どおりにできるかもしれないとおもったからです。

 いちごをつかむ小鳥の爪は、ぶよぶよとしたいちごの不気味な手ざわりに、すこしふるえてしまっていました。

「小鳥くんか、こんな朝早くにいったい……うっ、ひどいにおいだ!」

 ――いちごは黙りこんで、かなしそうにうつむきます。しかしどうにかなぐさめようにも、小鳥にはいちごと目をあわせることができませんでした。今のいちごのすがたをみていると、気もちわるくなってきて、吐きそうになってしまうからです。

 そして小鳥は、そんなじぶんにもまた気持ちわるくなってしまいました。

「……ハ、ハトさん! あの、いちごさんが、こんなことになってしまって……な、治してあげられる……かな?」

「いちごさん……!?」

 ハトさんはようやく、小鳥がかかえている汚いものがいちごさんなのだと気づいたようです。

「今さっきおきたら、こんなことになってて……。」

「これは……そうか……。たしかいちごさんは、ケーキやさんからにげてきたんだよね?」

「……うん、あとすこしですてられてしまうところを、ぎりぎりで助けだせたんだ。」

「ほうほう、そうか……じゃあきっと『賞味期限切れ』……いや、これは『消費期限切れ』か。それにくわえて昨日は雨で湿気もあった……。」

「しょーみきげん? しょーひきげん? ど、どういうこと?」

「……『賞味期限』は『おいしく食べられる期限』、『消費期限』は『安全に食べられる期限』のことだよ。まあつまり、はっきり言ってしまえば……いちごさんはもう腐ってしまっているんだ。」

 小鳥には、ハトさんの言っていることのいみがわかりませんでした。おいしく食べられる? 安全に食べられる? いちごさんが……腐っている?

「……! た、食べるとか腐るとか言って、だからいちごさんは……た、食べものじゃなくて、ぼくのともだちで……!」

「たしかに、小鳥くんにとってはともだちかもしれない。けど、きびしいことを言うと……けっきょくいちごさんはただのくだものなんだ。もちろん腐ることだってある。……どこまでいっても、食べものにすぎないんだよ。」

「そ、そんな、そんなこと……!」

「ごめんね。ざんねんだけど、いちごさんは治らない。……そろそろ全体がカビにやられてしまうだろう。そうしたら、もう……」

 小鳥はじぶんのなかでどくどくという音が大きくなっていくのをかんじました。いちごさんは治らない? じゃあ、ぼくは、ぼくは――

「小鳥さん、わたし、もう、いいの。……もう、いいから。」

 いちごが泣きそうな声で言いました。ぶよぶよとしたかんしょくは、さっきよりもっとひどくなっています。小鳥にはもう、どうすればいいのかわかりませんでした。

「……いったん、おうちにかえろうか。」


 小鳥は、また吐き気をこらえました。

*        *        *

 いちごさんをふたたびおうちにつれてきてからずっと、小鳥はぼんやりしていました。

 ときおりふいてくる風は、はっぱにたまった雨のしずくをふりはらい、小鳥といちごをくすぐって、ひゅうひゅうと音を立てます。

「ねえ、小鳥さん。」

「……どうしたの?」

「さっきわたしのまわりにいたハエね、小鳥さんがねむってたあいだに、ずっとわたしをかじっていたの。」

「え……?」

「気もちわるかった。にげることもさけぶこともできずに、じぶんがぐちゃぐちゃにされていくのをずっとみていた。」

「そ、そんな……。」

「……わたし、あんなふうに食べられて、なくなっちゃうのはぜったいにいや。だから、その……さ。よ、よければわたしを――」

 お日さまがようやくのぼりはじめて、空の下の方が黄色くかがやきはじめました。しめってゆがんだいちごのすがたが、うすあかりのもとにてらし出されます。


「――わたしのことを、食べてくれない?」


「……え。」

「小鳥さんになら、いいの。食べられてもいい。だって……わたし、小鳥さんのことが好きだから。」

 さらさらと風がふきました。

 おきっぱなしになっていたあのお気にいりの甘あい実たちがゆれて、ごきげんに歌をうたっているようにみえました。

 大きくひびくどくどくという音に耳をすませば、その歌声はじぶんのなかからもきこえてきていました。

 小鳥は、それが気のせいだとは思いませんでした。だから。

 ――小鳥は、いちごを食べることにしました。


「……わかった。」


「え……ほんとうに? ほんとうにいいの? ……わたし、腐ったひどいにおいがするし、カビもいっぱいはえてるし、それに――」

「ぼくも……ぼくもいちごさんのことが、その……好き……、だから。」

 小鳥は、ちゃんといちごをみつめてそう言いました。恥ずかしくて目をそらしたりなんてことは、もうありませんでした。

「……そっかあ。……ふふ、よかった。うれしい。」

 あのひどいにおいは、やっぱりどんどんつよくなってきています。だけど小鳥にはもう、ふしぎと気もちわるくはありませんでした。

「……小鳥さん、ごめんね。やくそくをやぶってしまって。」

「え……?」

「雲の上……つれていく、って言ってくれたのに。わたし、もう……。」

「あ、あの……ぼくも! ……ぼくも、ごめんなさい。……あのとき、うそをついた。」

「うそ……って?」

「ほ、ほんとうはね、……雲の上にいったことなんてないんだ! ……こわいから。」

 いちごはびっくりしたようすで――やさしくほほえみました。

「……ふふ、こどもみたいなりゆう!」

「……そう、だよね。……うん。」

「でも、これでおあいこだね。」

「……ゆるしてくれるの?」

「だって、小鳥さんがわたしをたすけてくれたのは、ほんとうにほんとうだもの!」

「……ありがとう。」

「わたし、小鳥さんに出会えてよかったな。」


 小鳥は、いちごを食べました。

*        *        *

 小鳥がおうちを出ると、リスさんとウサギさんにばったり会いました。

「あっ、小鳥さんだ! おはよう!」

「やあ小鳥さん、いっしょに朝ごはん食べよ~!」

「ごめんねウサギさん、ぼくもうさっき食べちゃったんだ。」

「え~そうなの! じゃあ、またあとでね!」

「小鳥さん、またあとでね!」

 森のともだちにさいごのあいさつをして、小鳥は森を出ました。行き先はもちろん、あの空のはるかとおくにある、雲の上です。

 つばさをはためかせ、小鳥は空にとびあがっていきました。きれいな朝やけがかがやいて、ぶあつくうかぶ雲をくっきりとみせてくれます。にぎやかな歌やようきな音楽だって、どこからともなくきこえてきます。すずしい空気が小鳥をやさしくつつんで、とっても気もちよさそうです。

 小鳥は、今ならほんとうに雲の上までとべるだろうとおもっていました。もうにどとかえってこられないほど空たかくにだって、あっというまにとんでいけるだろうとおもっていました。

 いちごといっしょなら、なにもこわくないような気がしたのです。

 ――しかしそのときとつぜん、ばさばさという大きな音がちかづいてきました。

「小鳥くん、どうもこんにちは。」

 小鳥がうしろをふりかえると、そこにはあのまっくろでのっぽなカラスがいました。

「きみは……!」

「やあ、ぼくのいとしい小鳥くん。そして――おめでとう。あのときのいちごちゃんを食べてあげられたみたいだね。」

「ど、どうして、それを……。」

「なあに、同族のカンってやつだよ。まあそんなことより、はやく食べさせてくれない?」

 カラスは大きなつばさをひろげて、小鳥をだきしめようとしますが、ひらりとかわされてしまいました。そのままにげようとした小鳥でしたが、やはりカラスにまわりこまれてしまいます。

 お日さまはあたたかい色の雲にかくされ、小鳥とカラスをまっくろなかげがおおいました。

「ひどいなあ小鳥くん、ぼくの言ったこと、ちゃあんとわかっていたくせに。」

「……ちがう! ぼくは……ぼくはあんなりゆうでいちごさんを食べたんじゃない!」

「いいやちがうね、小鳥くん。きみにどんなじじょうがあったのかはしらないけど、これだけはわかる――」

 お日さまはもうはんぶんも顔を出しているのに、空は雲にじゃまされてどんどんくらくなっていきます。うっすらと、くすんだあお色がかかってきました。


「きみはいちごちゃんのことをほんとうに好きだったんだ。好きだったから――だから食べたくなってしまったんだよ。」


 ――小鳥は、じめんに向かってすごいスピードでおちはじめました。空はおぼろげに色あせていき、ぽつぽつと雨がふりはじめます。

「はは、小鳥くん、またそのさくせんかい? いちおういっておくけど、それはもうつうようしないよ!」

「……もう、いいんだ、ぼく。」

「は……え? ちょっと、小鳥くん? どうしたの?」

 小鳥にはもう、なにをする気もありませんでした。なにもかんがえずに、このままじめんにおちることにしたのです。

 雨はどんどんつよくなっていき、しだいにどしゃぶりになりました。雲の下、カラスとおなじまっくろにそまった空には、あちこちで風がふきあれて、いたいたしい音がなりひびいています。

 小鳥のからだはびしょびしょになりますが、赤黒い食べこぼしはいっこうにながれおちていきません。

 いちごが腐ってしまうまえの夜、じぶんのおうちのなかで、小鳥は気づきました。あのとき、あの街で、小鳥の心をうばったあのにおいは――甘くてきれいで、しっとりしたあのいいにおいは――いちごのものでした。

 その夜、小鳥は夢をみました、とっても甘くて、とってもおいしくて、とーってもひどい夢をみました。

 そしてその夢は、げんじつになりました。


 ごーーーん。


 街の時計台の音が、すぐ上からきこえてきました。きっと小鳥は、もうまもなくじめんにおちてしまうのでしょう。

 けっきょく、小鳥のうそはうそのまま。雲の上にだなんて、まったくとどきませんでした。だけど小鳥は、だいきらいなじぶんがこんなさいごをむかえられて、とってもうれしそうです。

「小鳥くん……?」

 ――ハトさんの言ったとおり、いちごは「消費期限切れ」でした。腐ったひどいにおいがするし、カビだっていっぱいはえているんだもの。とうぜんのことです。

 ……だけど、すくなくとも小鳥にとって、いちごは「賞味期限切れ」ではありませんでした。

 だって、あの腐ったいちごの味は、あの甘くてすっぱくて、鼻をつくひどい味は、小鳥にとってまちがいなく――おいしかった、から。

「まさかほんとうになにもせずおちるなんて……。」

 じめんにおりたったカラスは、まっくろなつばさをはためかせ、みずをはらっています。

 雨のいきおいはましていくばかりで、小鳥のからだはすでにみずびたしです。

「まあいいや。……好きだよ、小鳥くん。」

ⒸWikiWiki文庫

スノータイムリミット
Mapilaplap
いつも練習熱心な由紀が、なぜか部活をサボって帰宅してしまった……! 閉邦高校で巻き起こる短編青春ミステリ!
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イメージする用だよ。あんまり関係ないよ。

 序 はじまりの過ち


 中庭を歩いていた。冷たい風が吹き、白い髪がさらさらと靡いた。中庭には、昨夜の雪がまだ残っていた。
 もうすぐ、もうすぐ運命の時だ。  
 私は緊張を解すように胸をそらせて、少し晴れてきた空を見上げた。朝の番組ではまた雪が降ると言っていたから心配してたけど、もう晴れてしまいそうね。
 雲の切間から太陽の光が差し込んでいる。一筋の光が冬の空から降りてくる様はとても見事で美しい。
 それに見惚れながら、私は上を向いて歩いていた。


 青春と本


 バレンタインデーには、その日だけの特別な雰囲気がある。  
 学校は男子の隠しきれない期待と、チャンスを待つ女子の純情かつ野生的な視線で一気に飽和状態になり、その緊張を覆い隠すかのように騒がしさが増す。
 今は午後四時三十分、つまり放課後である。そして放課後と言えば、バレンタインデー一番の山場なのである。軽いリュックに敗北感を背負い帰宅する者もいる反面、最も自由でロマンティックな想像が膨らむ時間。まるで消える直前の、最も勢いづいた蝋燭の炎のように、学校は鮮やかな青春に染まる。
 例に漏れずこの閉邦高校一年B組も、バレンタインデーの空気が教室を支配していた。そして、いつもより少し甘い香りのする教室で皆が青春ゲームに勤しんでいる中、僕、村上光太は一人、窓際の席で本を読んでいた。  
 本は好きだ。俗世間のしがらみを捨て去って、どんな世界にも行くことができる。まあ、これといって俗世間のしがらみに囚われ、苦しんでいると言うわけではないのだが、そんなことはいい。とにかく僕は本に没頭していた。ここまで空気感の違う教室で一人の世界に入り込むと言うのは至難の業であったが、僕は慣れていた。  
 尤も、そのゲームに興じる級友たちが羨ましくないのかと言われるとそれは違う。むしろ僕なんかよりずっと有意義な時間を過ごしているのかもしれないと思うこともある。だがそれは僕には縁のないものだ。そもそも僕は、興味のない物には全く動かない根っからの出不精であるため、労力を払ってまで彼等のようになろうとは思えないのであった。その点、読書というものはコスパ最強じゃないか?  
 僕はくだらない御託を胸にしまい、本から目を離して窓の外を見た。確か昼ごろから雪が降るという予報だったが、冬の中庭はこれ以上ないくらいのいい天気だ。昼まで残っていた雪も粗方溶けてしまっている。わざわざ靴箱から引っ張り出して履いてきたスノーブーツは、あまり意味が無かったようだ。  
 今読んでいる本も段々とクライマックスに近づいてきた。家でゆっくり続きを読もう、そう思って教室の時計に目をやった。四時四十四分。夢中になっているうちに十五分近く経っていたようだ。あれ……四時四十四分? 何かを忘れている気がする。僕はその時計を見つめて考えた。一体何を忘れているんだ? 昨日の記憶をじっくりと思い出していく。そして真実に辿り着いたその時、ガチッと時計が揺れて長針が四十五分を差した。それと同時に、ガラガラと、前方の引き戸が開かれる音がした。その大きな音に、先刻まで騒がしかった教室が凪のように静かになり、全員の視線が扉へ向けられる。そして、僕の顔もみるみる赤くなる。これはまずい。
「光太! 行こうぜ!」  
 静まり返った一年B組に、近くで聞いたら耳がやられそうなくらいの大声が響く。数秒前に危惧したことが、想像通りに起こった。僕は顔を耳まで赤くして、そそくさと準備をすませて教室を出た。僕が出ていくまで、教室は静かなままであった。
「祐介、あんなうるさく言わなくたって良いだろ」  
 僕は怒りながら言った。
「目立ちたくないんだよ」
「光太、お前が遅れたんだろ。四時四十分迄に部室に来い、来なかったらお前のクラスに突撃してやるって、俺は確かに言ったはずだ」  
 おいおい突撃するなんて言ってたか? 僕は澄ました裕介の横顔を睨んだ。
 彼は友人、相沢祐介だ。クラスは一年D組。ご覧のとおり時間に厳しい男で、それでいて気障な奴である。語っておいて今思ったのだが、自分のペースを大事にしたい僕と、こんな感じの裕介、本来なら相性最悪だろ。どうしてこんな奴が僕の親友なんだ。
「お前が来ないと映研部の活動に支障が出てくるんだよ。それに俺は毎日六時半には校門を出て、七時きっかりには家に着いていなきゃいけない。これはお前が怠惰な罰だ」  
 昨日のことを思い出す。突然切羽詰まった様に、ミステリ映画を作りたいと僕に頼み込んできた祐介の顔。僕がミステリ好きだから、という短絡的な理由でプロジェクトの参加者に抜擢されたのだ。しかも強制的に。「脚本についてのアドバイス等が欲しい」などと言っているが、経験上、裕介が欲しいのは勝手の良いお手伝いに過ぎない……。
「忘れてたんだ。お前の映画になんて興味がないからな! そもそも『部』室とか映研『部』とか言ったって、祐介のそれは映画研究『同好会』じゃないか」  
 もうお分かりだろうが祐介は大の映画好きで、将来の夢は小さな頃から映画監督であった。そして今彼は、彼一人しか在籍していない『映画研究同好会』で、せっせと映画作りに励んでいるのである。
「それは違う。俺が部を作るときに登録した名前は、『映画研究部同好会』だ。つまり、映研部と呼んでも何の差し支えもない」  
 もとい、『映画研究部同好会』らしい。めんどくさい奴だ。
「そんなことは関係ない! そもそも僕はそんな部活入って無いし、お前のお願いを聞くなんて一言も……」
「ああ、うるさい。遅れたんだから早くしろよ」  
 清々しい程の理不尽さに半ば呆れつつも、僕は仕方なく映画研究部同好会の部室へ向かった。


 映画研究部同好会


 映画研究部同好会の部室は、校舎東棟三階の理科室の奥にある、こぢんまりとした部屋だった。そこには四人くらいが使えそうな机と三つのパイプ椅子、なぜか新しめのホワイトボード、そして雑多に機材が入った学校らしい棚があるだけだった。なかなか良い雰囲気だ。その狭さはまるで秘密基地のようで、僕の男の子の心が嫌でもくすぐられる。窓は北側にひとつ。そこからは先ほど一階から見ていたより高い位置から校庭が見下ろせる。
「へえ、同好会でも部室ってもらえるんだな」  
 僕はニヤリと笑って言う。皮肉である。
「ああ。少し頑張った」  
 祐介はニコリともせず言った。大方、先生に何度も頼み込んだ、というところだろう。自分の好きな事には全力を出せる、しかし興味ない事には全く動かない。その点において僕らは似たもの同士なのかもしれない。
「昨日も言ったが、俺たちはこれからミステリ映画を作る。そういうことで光太。お前を呼んだんだが、まずお前に聞きたいことがある」  
 棚の奥から電気ポットと茶葉、そしてティーポットを取り出した祐介は、優雅な手つきで紅茶を淹れはじめた。どこに隠してんだよ。  
 僕はパイプ椅子に腰掛けて答える。
「聞きたいことって何だよ」
「聞きたいこと、それは……」  
 祐介はいやに勿体ぶって言葉を溜める。そして何処からか出してきたカップ二つに紅茶を注ぎ、僕の前に置いた。いちいち仕草が癪に触るんだよな。
「……ミステリって、何だ?」  
 祐介の凄まじいワイルドピッチに、僕は紅茶のひと口目を噴き出しそうになる。  
 そっからかよ! そう叫びたくなるのをグッと堪える。
「そっからかよ!」  
 おっと堪えきれなかった。叫ぶと気管に水が入ってしまって、咳き込んでしまった。僕は涙目で馬鹿を見上げる。祐介はこういう所がある。頭は良いらしいが、時々驚異的なくらい間抜けだ。
「全く知らない訳じゃない。光太の話を聞いてみたいんだよ」  
 どれだけこいつと過ごしてきたことか。こいつは本当に知らないな。何故知らないものをやろうと思ったのか。そこらの密室なんかより百倍謎である。。  
 一瞬荷物を背負ってそのまま帰りたいという欲求に駆られたが、そんな事をしては今後何が起きるかわからない。溜息を吐いて、覚悟を決める。ここは一肌脱いで、講釈してやるしか無いのか……。  
 僕は席を立ってホワイトボードの前に立った。祐介は向かい側の椅子に座った。
「まず、『ミステリ』の意味は知ってるか?」
「知ってる。mystery。不思議とか怪奇とかいう意味だ」
「そう、その通りだ。そして、その言葉通り、不思議、神秘、怪奇等のフィクション作品を総じてミステリと呼ぶ。僕はその中のミステリ小説しか知らないから、それについて少し話そう」
 祐介は棚からバームクーヘンを取り出して、切り分けはじめている。本当に聞いてるのか? 僕は無視して続ける。
「ミステリ小説には大きく分けて五つくらいの種類がある。それは……」  
 僕はホワイトボードの上部に『ミステリ小説』と書き、その下に五つの点を並べた。そして喋りながらペンを走らせていく。
「主にサスペンス小説、警察小説、スパイ小説、ハードボイルド。そして最後に……本格ミステリ」  
 僕は最後に挙げた本格ミステリの点に大きく丸をつけた。
「祐介がやりたいのは映画だろう? なら、この本格ミステリが良いよ。何故かと言うと、他のミステリは比較的映像化の敷居が高いから。サスペンス小説やスパイ小説ならギリギリ行けるかもしれないけど、警察小説なんかはまず無理だろ」
「本格ミステリは映像にしやすいのか」
「まあ、僕が言ったことをまとめるとそうだけど、厳密には結構違う。本格ミステリって言う言葉はあまりに広義的で曖昧な物なんだ。普通に考えるとこんな感じの面子に並べるのはちょっと違う気もしてくるんだけど……。まあいいか。簡単に言うと、本格ミステリはその中に沢山の種類があるから、一概には言えない。しかし、そのぶんやり易そうなものもあるってことさ。僕が映像化しやすいジャンルとして真っ先に思い付くのは『暗号解読』とか『日常の謎』とかかな。どちらも、製作の上でどうしてもネックとなる演出――例えばリアリティが必要な人の死体とか、より専門的で高度な知識が必要な場面とか――を回避しやすいと思う」
「それは良いな。ところで、『日常の謎』ってなんだ?」
「『日常の謎』って言うものは、文字通り日常に潜む謎に迫ったミステリー作品の事だ。現実に起こり得るかもしれない身近な謎が多いから、物語に入り込みやすいことも特徴だよ。これは僕たち学生でも作りやすい。ひとつ例を挙げるとするならこんなのはどうだろう。『喫茶店で、三人の若い女性がサービスで置いてある砂糖を大量に競い合うように入れる不可解な行動をしている』」  
 祐介は目を閉じ、時間をかけて考えた後、優雅に降参のポーズを取って
「それだけじゃ情報が少な過ぎる。もっと詳しく教えてくれ」
 などと言う。
「これは北村薫作『空飛ぶ馬』の中の『砂糖合戦』と言う話だ。是非読んでみて欲しい。きっと参考になるはずさ。でも、僕の口からは語れない。自分で読むからこそ感じられるものがあるからね。その機会を奪うつもりはないさ」
 祐介の顔が少し歪む。これから僕が言う事がなんとなくわかってきたのだろう。僕は迷わず続けた。
「総括しよう。僕が映画化するとして一番推すのは『日常の謎』だ。でも祐介なら、もしかしたら『暗号解読』でも面白い物が作れそうだ。工夫したら他のものも作れると思うから、まず僕がおすすめするのは自分でミステリに触れることだ」
 僕は最後にホワイトボードに大きく『ミステリに触れること』と書いた。  
 祐介は友人だが、こんな茶番に付き合っている暇はない。さっきの仕打ちも許してはいない。そして今は本の続きも気になっている。
「これで僕が知っていることから考えた祐介へのアドバイスは以上だ。それではお暇させて頂くよ。紅茶、ありがとう。実に美味しかった」  
 僕は先刻教室を後にしたくらいのスピードで部屋を出て行こうと試みた。しかし、僕の腕を祐介が掴んだ。
「なあ、時間が無いんだ。ミステリ映画を作れって兄貴が言うんだよ」  
 祐介が背後で言った。
 そういえば、祐介の兄貴は四月から演劇を学びにヨーロッパに行くんだったな。祐介の兄貴、有吾さんは僕が手放しに尊敬できると思う、数少ない大人の一人だ。
 彼は、とにかく全てがカッコいいのだ。ルックスもさながら、立ち居振る舞い、趣味、性格まで。祐介とは大違いだ。しかも大のミステリ愛好家で僕が敬愛する理由はそこにもある。有吾さんはここ半年くらい忙しいらしく、僕は彼に会えていないが、会いたい気持ちは変わらない。手をつけてなかった有吾さんおすすめの江戸川乱歩の全集をちょうどこの前読み終えたところなのだだ。早く有吾さんと話したいな。
「兄貴は四月に出発するから、その二週間前くらいには完成させたいんだ」  
 そうすると、締め切りは三月半ば。つまりあと一ヶ月程しかない。  
 僕は立ち止まって暫し一考した。  
 ここで祐介のお手伝いをすると、素直な祐介のことだから必ず僕のことを話してくれるだろう。そうすれば彼からの評価も上がるかもしれない。勿論その場合出来が悪いのを作るわけにはいかない。うんといいものを作らなければ。メリットデメリットを考え、僕は有吾さんに良いところを見せたいと思った。
「分かったよ。しょうがないな……」  
 そう言って振り向くとそこには鼻に掛かる笑みを湛えた祐介が立っていた。
「はい、お願い」  
 祐介は真っ新な絵コンテ用紙と作文用紙の束を僕の両手に渡して、余裕綽綽の様子で席へと戻りティータイムの続きをはじめた。そして
「やってくれると思ってたぜ」  
 などと言う。
「なあ、祐介。手伝ってやるよ……手伝ってやるけどよ……」  
 僕は手に持っていた紙をテーブルに置いた。
「いっぺん殴らせろ!」  
 まさに祐介の後頭部を叩はたいてやろうと手を上げたその時、こんこんとドアをノックする音と共に、
「ねえ、コータ? 居る?」
 と聞き慣れた声が聞こえた。聞き慣れてはいるがいつも学校では殆ど聞かない声だ。それが今聞こえたと言うことは……まずい。ガラリと扉が開いた。
「あー、えっと、喧嘩中?」  
 これは……まためんどくさい事になりそうだ。  


 幼馴染み


「あー、えっと、喧嘩中?」  
 うるうるとした目で首を傾げるショートカットの彼女の名前は辻村瞳。僕の……幼馴染みと言うのだろう。クラスは祐介と同じ一年C組。バレー部期待の新人で、一年生ながらレギュラー入りしているスポーツマン、いや、スポーツウーマンか。
「大丈夫。そんなんじゃない」  
 僕はグッと気持ちを押し込めて答える。すると、
「そうだそうだ」
 と祐介も横から言ってくる。うるさい。
「ああ、それなら良かった」  
 瞳はまるでアニメの登場人物のようなリアクションで安心した後、すっとシリアスな表情になり、どうやってここ来れたかを尋ねる間もなく本題に入った。多分、さっきの出来事をB組の誰かにでも聞いて、僕らが映研の部室にいると考えたとか、そんなところだろう。
「ところでコータ。私ちょっと今日気になることがあって……」  
 またこれである。実は瞳と僕は家が隣同士で、何か話したいことがあればいつでも帰れば話せるはずなのだ。しかし、それでも学校にいる間に瞳が僕を訪ねてくると言うことは、何か気になる『謎』を見つけてしまったからに違いない。  
 小学生の頃、瞳のふとした疑問を解いてあげてから、謎を発見すると僕に聞きに来るというルーティンがすっかり出来上がってしまっていたのだ。困るんだよ、下手に期待されるの。今までは何とか運で解決できてはいたものの、今回もそうなるとは限らない
「ところで、部活はどうしたんだよ」  
 僕は話の腰を折って、どうにか有耶無耶にできないか、苦し紛れに質問をしてみる。
「そう、そうなの。部活のことなんだけど……」  
 おっと、やってしまったようだ。祐介が隣で紅茶を吹き出した。笑ってんじゃねぇぞ。
「いつもは部活に来る由紀がね、今日はなんか態度がおかしくて、ちょっと体調悪いのかわからないけど、もう帰っちゃったんだ」  ふむ。瞳はいつも通りよくわからない。
「そんな事、由紀さんの友達に聞いてみればいいんじゃないの?」
「由紀はそんなに友達作るタイプじゃなくて、一番の親友は私なのよ」  
 胸をそらせて誇らしげに言う彼女を、僕はとりあえずパイプ椅子に座らせた。  
 しょうがない……逃げられないなら、じっくり聴いてやろうじゃないか。


 エルサの真実


「わかったよ。瞳。順を追って話してくれ」
 僕は彼女の目を見て言う。
「まず、由紀さんって誰?」  
 すると祐介が口を開いた。
「1ーCの青崎由紀だよ。ほら、エルサって呼ばれてる人だ。光太も知ってるだろ?」  
 ああ、瞳に聞くより何倍もわかりやすい。青崎由紀、またの名を1のCのエルサ。この学校ではちょっとした有名人だ。整った容姿に良い成績。運動神経も抜群で、今目の前にいる瞳と同じように、一年生ながらも不動のレギュラーの座に着いている。そのうえ品行方正で、自分にも他人にも厳格なその姿は不思議と見る人に自然と『お嬢様』を思わせるのだ。何より目立つのはその白みがかったグレーの髪だろう。人より色彩が薄く目立つその髪は、その容姿と相まって素晴らしい造形を作り出しているのだ……ということらしい。僕の知っていることはどれも噂の域を出ないものだ。正直なところ何回か見かけた覚えがあるくらいで、殆ど知らないのだ。まあ、噂と明らかに違うようなところは無かったと思う。
 彼女はそのハイスペックさと厳格な性格、そして何よりその髪色からだろうか、数年前に流行った児童向け映画に出てくる氷の女王の名前が冠され、嫉妬と尊敬の入り混じった視線を向けられている。
「それで、由紀さんがどうかしたの?」   
 僕はひとまず瞳に聞いてみる事にした。どうやら瞳はよっぽど興味津々なようで、一気に話し始める。
「由紀はね、とっても真面目で努力家なの。だからいつもは部活に誰よりも早く来て練習をしてるんだ。でも今日はなんだか朝から様子がおかしかった」
 祐介が何処からかカップをもう一つ取り出し、紅茶を淹れ、瞳の前に置いた。
「あ、祐介くんありがとう」
 瞳はひと口でその紅茶を飲み切ると、また話始めた。忙しないな。
「それで、由紀はずっとそんな感じで、結局帰りの会が終わってすぐに鞄持って帰っちゃったんだ。ねえ、祐介くん、おかわりある?」  
 彼女は空のティーカップを祐介に差し出す。祐介は軽やかな手つきでそれを受け取り、ポッドからもう一杯淹れ始めた。
「どうぞどうぞ。茶葉は余ってるんだ。幾らでも飲んでくれたまえよ……」  
 その間、僕は思案した。瞳は、気になり出すと解決するまで止まらない猪突猛進タイプだ。納得のいく回答をしない限り離してくれないだろう。これがまた面倒臭いのだ。もし万が一そうなれば、今日の読書は諦めるより他ない。だからどうにか納得してくれるような仮説を考え出すしかない。だが、この情報の量ではどうしても足りない……。
「なあ、瞳。他に何か気になることはなかった?」  
 彼女はいつのまにか、祐介が出したバームクーヘンを口いっぱいに頬張っていた。何とか飲み込んで答えた。
「いや、気になることはなかったよ」  
 これは伝わってないな。言い方を変えてみよう。
「じゃあ、今日起きた事をはじめから全部説明してくれない?」
「わかった……」  
 瞳と話す時には工夫が大事である。
「今日はいつも通り朝練のために登校した。その時にはもう由紀はいたと思う」
「ああ、由紀さんは朝練してたのか。それは何時頃?」
 「確か……七時ちょうどくらい。由紀はもう来てて、ひとりで壁打ちしてた。偉いよね。家も部内で一番遠いはずなのにいつも一番乗りなの。……それから五分くらいしたら先輩も全員集まったらから、いつも通り練習を始めた。そして朝練を終えて八時に教室に行ったわ。おかしな事は何も無かった。ちょっと由紀はソワソワしてたけど、大会前だし緊張してたからみんなそんな感じだったかも……。そっから普通に授業を受けた。あ、そういえば……」  
 彼女は何か思い出したようだ。
「……そういえば、由紀、昼休みに西棟に生徒会活動しに行ったよ。確か……」  
 彼女はこめかみに指先を当てて思い出そうとしている。少し時間がかかりそうだ。僕は紅茶をひと口飲んだ。窓の外では数名の陸上部がトラックを駆けている。先程教室にいた時から少し空が曇ってしまって、校庭にはどんよりとした雰囲気が漂っている。
「あっ、そうそう。由紀ね。部活用の鞄を持って、制服で向かったのに、なぜかジャージに着替えて帰ってきたんだ。どうしてかな〜とは思ったけど、理由は聞かなかったなぁ」
 ほうほう。なかなか難解になって来たぞ。関係があるかどうかはわからないけど、置いといて続きを聞くか。
「それからはまた、普通に午後の授業を受けて、帰りの会が終わった。そしたらね、その瞬間に私の前に来て、『ごめん。今日は部活行けない』ってだけ言って、走って教室を出ていっちゃった」
「出ていったと言ったけど、由紀さんが帰った事はしっかり確認したの?」
「うん。窓から校門に走って帰ってく由紀を見たの」
「じゃあ、どこに行ったかわかる?」
「見当もつかないわ。今、部活サボってまですることなんて……」
「連絡取れないの?」
「既読がつかない」
 そうか……。僕は考えた。これだけじゃ何もわからない。そう思いながら僕はホワイトボードに向かった。ホワイトボードを裏返し、新しい真っ新な面にこう書いた。
『由紀さん部活サボり事件』
「ねえ、由紀はサボってるわけじゃないよ。きっと理由があるから、それを考えようって……」
 瞳が不服そうに言う。
「そういえば今女バレは部活中だと思うけど、大会前なんだろ、瞳は行かないの?」
「わ、私はいいのよ。よくサボるし。今は由紀が来ないのが心配なの」  
 そう言って瞳は顔を赤くする。僕はそのまま作業を続ける。
「今回の謎は『いつもなら人一倍努力家の由紀さんが部活をサボって帰ってしまった。それは理由は?』だな。そして今まで確認できたおかしな事は昼休みに生徒会活動へ行き、帰ってきた時にジャージに着替えていた事、これだけだ」  
 閉邦高校では朝練は許可されているが、昼練は許可されていない。生徒会活動でまさか運動するとは考えられないが、どんな作業をしたのだろう。制服をジャージに着替える理由として考えられるのはどんなものがあるだろう。  
 あ、そういえば。
「祐介もC組だろ。由紀さんについて何か知っている?」  
 悠長に窓の外を眺めてティーブレイク中の祐介に尋ねる。こいつはそもそも話を聞いているかも怪しいが……もしかしたら望みがあるかもしれない。
「ああ、青崎の話か。実は今日、俺は青崎とする生徒会活動が昼休みにあったんだが……」  
 全く予期していなかった答えに僕は驚愕した。そういやこいつも生徒会だったっけか。
「おい、何でそんな事を黙っていたんだよ。すっごく大事な事じゃないか」
「聞かれなかったから」
「さいですか」  
 そうだった。こいつはこういう奴だ。
「それで、どうだったんだ? その時の由紀さんの様子は」
「青崎は俺とクラスが一緒だからな、普通なら二人で西棟に行けば良かったんだが。俺は職員棟に用があったからそこに寄ってから西棟の生徒会室へ向かったんだ。そこで昼休みに会計の仕事をするはずだった」
「はず? やらなかったのか?」
「ああ、そうだ。実はこの作業、会計係の俺と青崎、二人でやる仕事だったんだ。しかし、青崎が来なくてね。結局一人でやる事になったから、終わらせる事ができなかった」
「そうか。そのあと教室に戻ったあと、由紀さんは様子はどうだった?」
「別に、何も」
「ありがとう」  
 祐介の話をホワイトボードに書き加える。
 僕は数分ほどそれに向かい合って考えていたが、その後すぐに落胆した。衝撃の新事実に少し興奮したが、状況はあまり好転していないないことに気づいたのだ。これでは納得のいく仮説は立てられない。会計など、ジャージに着替えるまでも無いような作業だしそのために着替えたとは考え難い、そのうえ生徒会室に来るはずだった由紀さんが来なかった、という新しい謎まで作り出してしまった。  
 僕は思いつくままの思考を口にした。
「由紀さんは体調が悪かったのかもしれない。でもこれは違うかな。体調が悪い時により防寒性の低いジャージに着替えることは考えにくい……。または、何か家の用事があって早めに帰ったのかもしれない。昼休みに生徒会活動をサボってまでジャージに着替えないといけないような用事が……」
 僕は苦しい仮説に沈黙した。ダメだ。これでは完全に行き詰まってしまっている。この情報量では、結論を出すことはできない……。
「僕が考え得る学校で起きた事象によって由紀さんが部活に行くのを止め、家に帰ってしまう可能性はとても低い。だから何か別の、外部の理由があったんじゃないか……? なんにせよ瞳の話だけで推理できる物じゃない気がするんだ。彼女は学校でも有名な完璧人間だし……」
「え? 由紀が完璧人間?」
 瞳が僕の言葉に目を見開いて驚いた。
「あれ、何か間違えてる?」
「それは違うよ! 確かに勉強も運動もすごく出来るけど……。まあ、コータは由紀のことあんまり知らないものね。由紀も人とはあんまり関わらないタイプだし、誤解されてるのかなぁ……」
 どうやら重大な僕は勘違いをしていたらしい。青崎由紀の人柄を、噂ばかりの情報で考えていた。これは完全な失態だ。初歩的な過ちを恥じる心と、これで解決に近づくかもしれないと期待する心、それぞれ半々の状態で瞳に聞く。
「じゃあ由紀さんはどんな人なの?」
「由紀はね。簡単に言うと真面目でかわいいドジっ子だよ」  
 瞳は破顔した。
「この間だってね、料理が苦手だから練習したいって由紀の家で二人でお菓子を作ったんだけど、その時由紀、砂糖と塩を間違えて入れちゃって、本当に塩辛いマフィンが出来たんだもの。あの時は笑ったなぁ……」  
 瞳の話を聞いて、僕は頭のなかで再び事実を確認しはじめる。可能性が限りなく広がっていく感覚がする。  
 そして、僕はすぐに一つの仮説に辿り着いた。ずっと初めの方に捨ててしまっていた仮説だ。確認は必要だけど、きっと間違いは無いだろう。しかし、これは……この状況はまずい。  
 僕は少し考え、瞳にお願いをすることにした。
「なあ、瞳。ちょっとお遣いを頼まれてくれ」


 ベタな置き場所こそ最初に確認すべし


 私は、幼馴染のコータのお遣いで、今生徒用玄関に向かっている。  
 お遣いの内容はこうだ。
『靴箱に行き、そして着いたらメールしてくれ。それから指示を出すよ。』  
 最後の階段を駆け降り、玄関に着いた私は、早速スマホを取り出し、コータとのチャット欄に文字を打ち込んで送信した。
『靴箱着いたよ!私は何をしたらいいのかな?』  
 すると時間を空けずにコータから返信が来た。  
『まずは由紀さんの靴箱を確認してくれよ。』
『おっけ!』
 由紀はとっくに帰ってしまったはずだ。その靴箱に何があると言うのだろう。そんなことを思いながら私は由紀の靴箱を開けてみる。すると、そこにはなんと由紀のローファーが置かれているではないか。てっきり帰ったものだとばかり思ってた私は、心底びっくりした。校門から走って行く姿は見たけど、まさか戻ってきていたなんて。
『由紀の靴があるまだ帰って無かったんだ!』 
 送信っと。またすぐに返事が届く。
『靴の種類は?』 
 私もすぐさま返信した。
『ローファー』
『やっぱりそうか。じゃあ、家庭科室に向かってくれ。きっと由紀さんはそこにいる。そして、多分、これは多分だけど、彼女は瞳の助けを必要としていると思うんだ。』 
 私にも少しずつ事の全貌が掴めてきた。私はコータの賢さに笑い、そして由紀の可愛さにも笑った。
『コータありがとう。由紀を助けてくるね!』 
 コータはいつも頼りになる。私より先を見て、私を助けてくれるんだ。私は頬が紅潮するのを感じた。待って、今は由紀の一大事なのよ! 時計を見ると、五時二十分を過ぎたところだった。それと同時にスマホの通知音が鳴る。画面を見ると、コータから新しいメッセージが来ている。
『P.S.そういえば、祐介は六時三十分きっかりに校門を出て、帰ってしまう。』 
 私はそのメッセージを見ると急いで家庭科室へ駆け出した。  
 そう、早く乾かすには、テンパリングが大事なのだ。  
 全速力で家庭科室に着き、扉を開けるとジャージにエプロン姿の髪色の薄い少女が、所々にチョコレートを浴びながら、涙目でボウルに向き合っていた。彼女は扉が突然開いたことに驚き、ビクッとしてこちらを見た。不器用だけど一生懸命な彼女の姿に、私は思わず微笑んでしまう。
「由紀。その混ぜ方だとダメだよ。乾くのに時間がかかって間に合わない」  
 私は教卓に置かれていたエプロンを素早く着て、由紀に近づいていく。
「瞳ちゃん、助けてくれる?」  
 由紀が涙目で私に助けを求めてくる。彼女が混ぜるボウルの横には近くのスーパーの袋に入った複数枚の板チョコと、昼休みに壊してしまったであろう手作りのチョコレートが置いてある。手作りチョコの方は割れてしまうまでは綺麗なハート型だったのだろうが、今は無惨な形になってしまっている。でも……これなら。
「由紀、大丈夫。これなら間に合う。とびきり美味しいの作ろう!」  
 私はエプロンの紐をキュッと締めた。


 家に着くまで


 瞳を送り出した後、僕はミステリ映画の大まかな方向性について祐介と議論した。祐介はまるで瞳がここを訪れたことは忘れてしまったかのように、熱心に映画について話している。スマホを確認すると、瞳に最後に送ったメッセージには返信こそないが、しっかりと既読が付いている。これならもう心配することはないだろう。あとは瞳が上手くやってくれているはずだ。  
 その議論によって、最終的に今回の映画では『暗号解読』をメインテーマとして扱う事になった。僕は議論の流れから、『頭を使うのが好きな祐介のことだ、面白いものを作ってくるだろう』などと安易に考えていたが、どうやら祐介は脚本を書き、その根幹となる謎の作成は僕の担当らしい。やれやれ、また一つ仕事が増えてしまった。しかし、有吾さんの為だ。頑張ろう……。  
 六時二十分を回った頃に、僕らは部室を後にした。職員棟に鍵を返却し、校門へ向かう。上手くいっていたのなら、きっと校門に二人が居るはずだ。しかし、校庭には彼女たちの姿は見当たらなかった。  
 間に合わなかったのかな……。そう思いながら僕と祐介がちょうど校門を潜り、外へ出ようとしたら時だった。  
 校舎の方から祐介を呼ぶ声が聞こえた。そう思うのと同時に髪色の薄い可憐な少女がこちらは走って来るではないか。  
 僕は途端に安堵した。良かった。間に合ったんだ。
「祐介くんっ!」  
 全速力で駆けてきた由紀さんは姿勢を正すと、聡明そうな瞳で祐介を見つめた。
「ねえ、今、時間あるかしら? 話があるの」
 祐介は事態が飲み込めない様子で唖然としていたが、ちょっと遅れて返事をする。
「わ、わかった。青崎。どうしたんだ?」
「えっと、私……」  
 そう言って由紀さんは俯いてしまう。ここに来て、勇気が出ないのだろうか。僕は心の中でエールを送った。頑張れ!  
 その時だった。  
 何かが空から降ってきて、僕の頬を濡らした。
「雪だ……」  
 僕が言うと、由紀さんと祐介も空を見上げた。粉のような雪がふわりふわりと、無数に空から舞い降りてくる。  
 僕らはその光景にしばし目を奪われていた。それはとても美しい景色だった。そして、空を見上げたままの由紀さんがポツリと言った。
「私、祐介くんのことが好き」  
 横目で祐介を見ると、彼は今まで見たことないような顔をしていた。 
 僕はその場をゆっくりと離れ、その雪の中、校舎の方に居る瞳の許へ向かった。もうあの二人は大丈夫だろう。  
 タイムリミットに間に合ったのだ。  
 近くへ行くと、瞳は誇らしげな表情で言った。
「間に合ったね。本当に良かった。ほら見てよ、あの二人」  
 そう言って校門の方を指差す。そしてうっとりとした表情で言った
「ホワイトバレンタイン。あの二人に、すっごくお似合いね。ねえ、そう思わない?」
「うん。そうだな」  
 僕は同意した。
「ねえ、今日、一緒に帰らない? 聞きたいことがあるの」
「いいよ」  
 僕は答える。雪も降ってきたし、もうこんな時間だ。
「早めに行こう」
 瞳は黙って頷いた。


 スノータイムリミット


「ねえ、どうしてあの時点で全部わかったの?」  
 通学路。粉のような雪が降りしきる中、真っ白な息を吐きながら瞳が聞いてくる。僕は少し考えてから答えた。
「瞳の話と祐介の話、それぞれ聞いて整理すると、まず最初に、由紀さんと祐介と二人きりの状況が生まれるはずだったことが分かる。そこでまず『バレンタインチョコをあげる』という可能性を考えたんだ。そして、西棟へ行くまでのに何らかの事件があって、生徒会活動ができなくなったんだ、って思ったんだ。他にもたくさん考えつく事はあるけど、情報がなかったから検証のしようがなかった。それに、バレンタインデーに特別二人きりという状況において、そう考えるのが妥当だと思ったからね。でも、その時は上手に仮説を立てることができなかった。由紀さんが生徒会室に行かなかったという事実と、ジャージ着替えていたという事実、それぞれにしっかりとした整合性を持った仮説が考えつかなかったんだ。でもそれは、僕が由紀さんの人柄について誤解していたからだったんだよ。瞳が由紀さんの人物像を教えて、僕の視野が狭窄してしまっていたのを気づかせてくれたおかげでこの謎は解決したんだ。由紀さんを瞳から聞いたような人であると考えることで、中庭を通って西棟に行くまでの間に転倒し、そのうえチョコを壊して制服を汚してしまった、という仮説を思いつくことができたんだ。それによって昼休みにジャージに着替えて生徒会活動を休み、そして放課後部活を休んで学校を出て行ってしまったことにそれぞれ納得のいく説明ができる」
「でも、なぜ転んじゃった事がわかったの? そんなのわからないんじゃない?」
「まあ、確かにそう言いきることはできないかもね。でも制服を全身ジャージに着替えるなんて全身が濡れてしまう事くらいしか考えつかないし、それに昼頃まで……」  
 あっと瞳が声を上げる。
「……確か昼頃まで中庭には雪が残ってたわ」
「そうなんだ。でも、これでも正しいと言いきる根拠には足り得ない。そこで靴箱を確認してもらったんだ。由紀さんが本当に学校へ戻ってきているかどうかと、その靴が、この僕が今履いてるスノーブーツとかじゃなく、滑り易い靴かどうかを、……例えば、ローファーとかね」
「そうなのね……。じゃあなぜ由紀が学校に戻ってきていることがわかったの? そう推測した理由、教えてよ」  
 なんだ、そんなことは簡単だ。僕は横にいる瞳を見て言った。
「由紀さんの家は学校から遠いって、瞳が言ったんだ。チョコレートは今日のうちに渡したいでしょ? だからだよ」
「……そうなんだ。コータ、凄いね」  
 数秒の間をあけて瞳が感心したようにポツリと言った。そして、気づくと僕らは見慣れた場所にいた。夢中になって話しているうちに、家に着いたのだ。
 瞳の家の方が学校に近いから、時々一緒に帰る時には、瞳が家に入るのを見届けてから家に帰る。
「さよなら瞳。良いものも見れたし、今日は結構楽しかったよ」  
 そう言って僕は行こうとした。その時、瞳が僕の手を握った。瞳は手袋をしていて僕は素手。彼女の手の温かさが布越しに伝わってくる。
「ねえ、話。もうひとつあるの」
「何?」  
 振り向くと、瞳ははいっと言ってチョコレートを手渡してきた。
「これ、あげる」
「え? ありがとう」  
 驚いた。知り合って何年も経つが、こんな表情を見るのははじめてだったからだ。心が温かいもので満たされていくような感覚がした。
「勘違いしないでよ。さっき作ったのじゃなくて、朝作って家から持ってきたやつだからね!」  
 彼女は笑って言う。勘違いしないでって、そっちかよ。僕も笑った。真っ白な雪の中、今目の前にいる少女が、僕には本当に綺麗なものに見えた。
「今日はありがとう。じゃあね。素敵なお返し、楽しみにしてるから」  
 そう言った瞳はくるりと振り向いてしまうと、足早に家に入っていってしまった。ガチャリとドアが閉まり彼女が視界から消えた後も僕はそこで呆然と立ち尽くして、しばらくの間、ひたすらに降り続ける雪を見ていた。  
 そうしているうちに僕は、瞳が部活をサボって僕のところに来ていた理由が、なんとなくわかった気がした。
 その日は家に帰っても、ページを捲る手は全く進まなかった。  


 終 僕のリミット


 あの日、バレンタインデーから三日が経った土曜日。  
 瞳と由紀さんはバレーの大会で市民体育館へ赴いており、祐介も由紀さんの応援の為に同行しているそうだ。祐介はあの日から目に見えてデレデレしている。僕はあれから毎日映研に付き合わされているので、正直言って非常に不愉快である。   
 映画制作の方は、今僕が有吾さんのためにせっせと映画の「謎」を考えている最中だ。これがなかなか楽しい作業でこれからは読書のようにはまってしまいそうだ。まだ脚本の状態で、一ヶ月後の締め切りに間に合うかどうかはわからないが、ベストを尽くそうと思う。久々に夢中になれることを見つけられた気がする。  
 一方瞳と僕はというもの、あれから取り立てて言及すべきようなことは何もない。正直、どう接すればいいのか分からない。自分には全く縁のない物だと思っていた世界に、たった一つのチョコで放り出されてしまったのだ。僕はまだ、自分の気持ちさえ掴めていない。まあこれにも、一ヶ月あまりの余裕がある。  
 そう、僕のタイムリミットは約一カ月後、ホワイトデーのその日なのだ。

 だからそれまで、気長に考えようと思う。                    

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ノゾキマド
キュアラプラプ
今、玄関にいるよ。
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 日付もとっくに変わった頃、ある大学の心霊サークルに所属する男二人は、寂れた山で車を走らせていた。

「いやあ、やっぱ山奥って雰囲気が違うよなあ。本当に何か出るんじゃね?」

「ぎゃはは、ないない。ユーレイなんているわけねえだろ!」

 心霊サークルと銘打ってはいるものの、その実態は単なる夜遊びだ。会費で酒とタバコと花火を買い込み、たまにネットで話題の心霊スポットに出向いては近所迷惑な騒ぎ声を上げるという、世にも生産性のない活動をしている。

「ケンゴよお……ホラー映画ではそういう奴が最初に死ぬんだぜ。」

「おいマサシ、そんなことよりここが例の廃墟じゃねえか?」

 車をほとんど舗装されていない路地に停め、二人は廃墟に近づいていった。冷たく不気味な風が辺りを覆うが、彼らはそれを気にも留めない。

「よし、じゃあ、ここの『いわく』でも紹介しますか。」

「もうそんなのいいから早く酒飲もうぜー。」

「『時は遡ること数十年前……この家には幸せな一家が暮らしていたという。しかしある時やってきた殺人鬼は、幼い息子が間違ってドアを開けてしまったのをいいことに家の中に侵入、そして家族を次々惨殺! 残された息子が描いた、ドアの覗き窓越しに見た記憶の中の犯人の絵は、その子供っぽい画風と、魚眼レンズの不気味な歪みようから、『検索してはいけない画像』として今なおネットで語り継がれているのだ……。』だってよ。」

「ぎゃははは、しょーもねー! どう考えても嘘だろ!」

 二人は大笑いしながら、まずは廃墟の扉にスプレー缶で下品ないたずら書きをして、それからドアを開けて中に入った。ぎいぎいと嫌な音が鳴るが、彼らはそれを気にも留めない。

「おじゃましまーっす! うおお、クローゼットでけえ!」

「おっ、まさかこれ、例のドアスコープなんじゃね?」

 ケンゴが見つけたのは、マサシの話に出てきたドアの覗き窓だった。ひとしきり笑った後、いかにもわざとらしい口調で言う。

「もしかして、外に殺人鬼がいるんじゃねえか……!?」

「ぎゃはは、ヤベーってそれ! ちょっと見てみようぜ!!」

 片目をドアスコープにあてがった瞬間、マサシは息を呑み――

「何もいねえ!」

「ぎゃははは! 何もいないのかよ!」

 ――しかしマサシの頭には、一つの疑問が浮かんだ。

「……なあ、ここの息子は、ドアの覗き窓越しに殺人鬼を見たって話だったよな。」

「どうした急に。」

「でもさ、ドアの覗き窓の位置的に、小さい子供がそんなことできるわけなくね? 下には靴があるんだから踏み台も持ってこないだろうし。」

「んまあ確かにそうだな。じゃあ何だ、親が頭おかしくなって幼児退行したんじゃねえの?!」

「あははは! じゃあそいつ、今もこの家に潜んでるかもな!」

 ――突如として聞こえてきた知らない声に、二人の笑い声は一瞬にして静まった。

「うん。今、玄関にいるよ。」

 クローゼットが内側から開かれる。

ⒸWikiWiki文庫

殺人を知らない探偵
キュアラプラプ
「敬語を知らない探偵」初の公式スピンオフ! あの列車のナース、律家ラレが幼き日に経験したある殺人事件に迫る。
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第一章 めっちゃデカい屋敷と死体

 ──二月二十日・深夜──

 二月二十日午前一時、めっちゃデカい屋敷に悲鳴が響き渡った。

 八名しかいない屋敷の中で、その主人である実業家律家りつけ几帳男きちょうめんの遺体が発見されたのだ。

 しかし、こういうミステリー小説にありがちな探偵は――いなかった。奇妙なことに、この屋敷での殺人劇には、事件の解決に乗り出すハッチ帽を被った紳士など終ぞ現れなかったのだ。

「えーっと、とりあえず自己紹介でもした方がいいんじゃないか? まあ、大抵みんな少なくとも顔見知りではあるだろうけど一応……」

 この屋敷・律家館のダイニングルームの静寂を破ったのは、律家几帳男の実弟である威山横いさんよこ世哉せやの一言であった。この部屋には、被害者の律家几帳男と、週刊誌記者の此井江このいえ浩杉ひろすぎ、および几帳男の十二歳になる実娘、律家ラレを除いた、事件発生時に屋敷にいた五人、そしてやってきた警察官一人の計六人が集合していた。

「まあ、まず俺からかな。俺は威山横世哉。……旧姓は律家世哉。知っての通り几帳男の弟だ。うう……兄貴い……」

「こっちは妻の威山横孔鱚屠あなきすと。大切なお義兄さんを殺した奴は、ゴリゴリの私刑に処そうと思っているわ」

「……私は几帳男の妻、律家ノレよ。一応、この家のナースでもあるけど……とてもお喋りなんかできる気持ちじゃないわ。……あと、私の娘、ラレは今部屋で寝ているわ」

「俺ぁ有曾津うそつきんぐ。本名はガリレオ・ガリレイだ。俺のことは信用していいぜ」

「……あー、もしもし? 聞こえてますか? 電話越しですけど、一応僕も。此井江浩杉です。今一応そっちに向かってるんですけど……あー、三回くらい同じ景色のところを通過してますね。ここは一体どこなんですかね? え、ちょっとこの家広すぎません?」

 人々が順番に自己紹介をしていく中、突如として放たれた奇声は場の雰囲気を大きく変えた。

「じひいっ! ぎぁぁぁぁあじざざさざじじざじざじじぎぎぎぎかぎぎじざささぎいいいいいぃぃぃぃぃぃぃいぁぃぃぃぃぃぁあぁぁぁ」

 困ったような顔をしたノレが、少し遅れてフォローを挟む。

「……一応私が代理ということで。彼は橘地きっちがい。この館の使用人で……たまに発作でこうなっちゃうの」

 事実、シャンデリアにぶら下がってブリッジをしながら肘と膝のそれぞれ片方を用いて次々に知恵の輪を粉々にしていく彼は、紛れもなくこの大豪邸の使用人であった。

「そっちの警察の人は挨拶しないのか? 失礼な奴だな。俺はアインシュタインだってのに」

「私は卦伊佐けいさ通署つしょ。犯人はさっさと自首した方がいいぞ」

「……あれ? えーと、もしもし? 聞こえます? あのお……通報したの僕なんですけど、なんで一人しか警察の人来てないんですか? 殺人ともなれば、普通結構な人数で来るもんですよね?」

「いやあ申し訳ない、パトカーがあまりに遅かったもんでな。我慢できなくて仲間を置いて走って来たんだ」

 このあまりの荒唐無稽さに、アナーキストとキチガイ以外の全員が、彼が警察官であるというのを疑わしく思った。しかし、体からにじみ出る肉体の強靭さのオーラだけはまさしく本物であり、下手に刺激したら普通に殺される可能性があるので、みんな知らんぷりをしている。

「では、捜査に協力してもらおうか。分かっているとは思うが、お前ら全員が容疑者だ。一人一人、今までの状況を簡単に教えてくれ」

「……あーあー、もしもし? じゃあ、まあ第一発見者の僕から行きましょう。そもそもは週刊誌記者として、良い感じのゴシップとか持ってないかなあと思って几帳男氏に会いに来たんですよ。あ、もちろんアポは取ってますよ? んでまあ、大した情報も得られなかったんでそのまま帰ろうとしたら、どうにも玄関にたどり着けない。何時間も右往左往して、なんと結局几帳男さんに取材した書斎に戻ってきちゃったんですね。このままじゃ埒が明かないし、家主である几帳男さんに道を聞いて帰ろう、と思って部屋に入ったら……えーと、まあ……胸に包丁が刺さって死んでました。思わず悲鳴を上げちゃいましたよ。……で、警察に電話して、あとはまあ、はい、そうですね、アポ取りの時に電話した履歴が残ってたので、そこからラレさんにも電話して、今に至る、って感じですね」

「……その電話をもらった私が、几帳男の書斎に行って、それで……此伊江さんの言う通り……あ、う、本当に……本当に死んじゃってて……ううっ、それから……このダイニングルームに来た、の……。みんなにこのことを伝えるために。残りの四人はダイニングルームで各々くつろいでいたから。あ、娘のラレは既に自室で寝ていたわ。……ううっ」

 漂う悲愴感の中、全く空気を読めない稀代の嘘つきは口角を上げ、続ける。

「いーや違うね。お前は嘘つきだ! なぜなら俺はダイニングルームで寛いでなんかいなかった。インドの人民を想い、瞑想をしてたからだ! なんてったって俺はガンジーだからな!」

 ――沈黙。

「宇曾都てめえ……私刑に処すぞ。そもそもお前瞑想なんてしてなかったろ。……てか、どう考えても殺したのお前だろ! 逆恨みで殺したんだろお前え! 私刑! 私刑!」

 暴れる孔鱚屠を静止しながらも、卦伊佐はその言葉に食らいついた。

「ほう……! 詳しく聞かせてもらいたい」

「俺が代わりに説明しよう。何分血を分けた兄弟だからな、俺はこの家によく来るんだが……その度にこいつは兄貴に怪しいビジネスを持ちかけてた。ヘリウム水だのオーガニック水だの……だが、兄貴は人一倍優しい奴だったからな。こいつが家に来るのを断るようなことはしなかったんだ。……その結果が今日だ。大方こいつは遂に逆上し、兄貴を殺したんだろうな。うう……」

「イエス! 私刑! 私刑! 準備は良いかてめえら!」

 しかし宇曾津は、声を荒らげて反論する。

「おいおい待て待て待ちやがれ絶世の馬鹿ども、このエジソンに向かってなんて口の利き方だ。動機の話をするんならお前らにもデケえのがあるだろうが!」

「続けてくれ」

「ああ、ああ、そうだよ。ニュートンとしてこれだけは言わなくちゃいけねえ。律家几帳男が死んだとき……実弟である威山横世哉には莫大な額の遺産が相続される手筈になってんだよ! ……真実はいつも小説より平凡だ。そしてここは紛れもなく現実! これは現実の事件! 金持ちの殺害動機に遺産ほどシンプルなものはねえだろう!?」

「じひじひひいっ!? うあうあああうあふさふあっしゅああさうさふさうああああ!!!!」

 ダイニングルームには怒号と奇声が飛び交い、とても有意義とは思えない口論が白熱していく。しびれを切らした卦伊佐は、質問を変えることにした。

「じゃあ、事件発生までの被害者の行動を知ってる人はいるか?」

「几帳男は、今晩はずっと自室である書斎にいたわ。……あ、そうだ、もしかしたら……」

「何だ?」

「いや、夫はとても几帳面な人で、自分の書斎に来る人の順番まで決めちゃうほどだったの。だからもしかしたら、最後に書斎に行った人が分かれば、犯人が分かるんじゃないかな……って。確か今日は、ここにいたラレ以外の全員が書斎に行ってたわよね」

 全員が頷く。うち一人は、ブリッジしながらヘドバンしていると形容する方が適切だが。

「なるほど……まあ取り敢えず、その書斎に案内してくれないか」

 卦伊佐とノレが書斎に赴き、ダイニングルームには醜く言い争いをする三人と、シャンデリアを揺らしながら発狂するキチガイだけが残った。

第二章 几帳面すぎる男

「これは驚いた。書斎というからには、現代レトロ趣味で集めた紙製の本とか、インク入りのペン……確かボールペンとか言ったか。ああいうのが散らかったデスクがあるような部屋を想像していたが……」

 大理石の白を基調とした書斎には、流し台や食器棚、ドリップ式コーヒーメーカーが据え付けられており、この部屋に初めて入った者にはキッチンだとしか思えない。

 ただしこの部屋は、書斎だろうがキッチンだろうが紛う方なき殺人現場だ。部屋の中心にあるテーブルには向かい合わせに椅子が二脚。そして、奥の方の椅子から転げ落ちるようにして倒れていたのが、律家几帳男の遺体だった。激しく抵抗した痕跡が残っており、左胸にはナイフが刺さっている。直前まで彼が操作していたらしいタブレットには、軍事業界のニュースが表示されていた。

「っ……」

「あー、無理にここに居続ける必要はないからな」

「……いえ、大丈夫です」

「そうか。じゃあ、遺体の状態を確認させていただこう」

 そう言って、卦伊佐は手早く検分を終わらせた。

「死因は外傷による心破裂。被害者はナイフを持った犯人を前に抵抗したものの、心臓を一突き、即死だ。凶器の指紋は拭き取られている。死後硬直が始まっているが、まだピークには達していない、死亡したのは十九日の午後、八~十時あたりだろうな。まあ、詳細は鑑識に任せるとしよう」

「あ、このナイフ……この書斎のキッチンのだ」

「なるほど、凶器は現地調達。衝動的犯行の線が強いか……あー、ところでさっきの話だが、この部屋に来る順番というのは?」

「ああ、そうね、スイッチー!」

 ノレがそう呼ぶと、クソデカ屋敷に似つかわしいクソデカ大型犬、スイッチが書斎の隅の方から現れた。背の丈は、立ち上がれば、ガタイの良い卦伊佐にも迫るほどだ。

「書斎に行く順番が回ってくると、夫が派遣したスイッチがやって来て、それを教えてくれるの。スイッチったら頭が良いから、写真を見せられるだけでその人を識別できちゃうのよ」

「なるほど……。つまり容疑者らの部屋に来た順番を知っているのは、被害者とスイッチだけということか……だが、こいつに順番を聞くことはできないし……うーむ、容疑者全員、自分が書斎に行った時間を覚えていればいいんだがな。ちなみに、来る人の順番を決めることに何か理由はあったのか?」

「さあ……あ、でも、夫は書斎に来た人に、ホットミルクかアイスコーヒーか好きな方の飲み物を入れてくれるの。もしそれが知人の場合、彼は既に好みを把握しているから、あらかじめ順番を決めておけばその人が来る前に飲み物の準備を済ませられる、というのがあるかもしれないわね。彼、飲み物によってコップさえ変えるのよ。確か、ミルクはマグカップ、コーヒーはタンブラーね。まあでも……順番も結局は彼の気分だと思うわ。そんなに効率化したいなら、ミルクの人とコーヒーの人を前半後半に分けておけばいいけど、そんなことはやってなかったし」

「……なるほど」

「そうねえ……。うん……夫はね、本当に几帳面な人だったわ。起きたらまず20秒間顔を洗う、使った食器は流しに一つだけ残しておき、増え次第すぐに洗って交換する。ネクタイピンの位置は毎日10分くらいかけて調整してたし、お辞儀の角度だって完璧になるまで練習してた。ほんと、馬鹿げてるわ。几帳男……」

 スイッチは、いつの間にか目を閉じて寝転んでいた。

 ――深夜二時、再び六人がダイニングルームに集まった。未だに電話越しの奴を含めると七人である。死体の状況を共有し、卦伊佐は続けた。

「えー、まあ、そういうわけで、各自書斎に行ったときのこと、特にその時間部屋の状態を、今度は覚えているだけ精細に話してほしい」

 そう言って、卦伊佐は内ポケットから何やら機械を取り出した。

「嘘の証言を防ぐために、まあ、なんだ、所謂ウソ発見器ってやつを持ってきた。もちろん23世紀の技術によって、大幅に性能は向上しているんだが、残念ながら機械科学捜査倫理法のせいで直接的な質問に使うことはできない――自発的に言ったことの真偽判定だけだ。あと、わざと何かをぼかしたり隠していることも感知できない。あくまでも与えられた言葉が嘘かどうかを発見するマシーンだからな」

「おいおい、なんだよ機械なんちゃら法って。『あなたは犯人ですか』って一人一人尋ねていって、それが嘘って判定されたやつを逮捕したら済む話じゃないのか?」

 世哉の言葉に、卦伊佐は応える。

「機械科学捜査倫理法は、『機械・機械生体三原則』を基に作られたものだ。……流石に知っているだろう? 『一、機械または機械生体は、人間に危害を加えてはならない』――失礼、これはもう改訂されたんだったな。ここで言うのもなんだが、利権がらみの軍事転用推進はやはり恐ろしい。……『一、機械または機械生体は、年齢が十八に満たない人間の子供に危害を加えてはならない』『二、機械または機械生体は、その自発的知能・思考を立法、司法に活用してはならない』『三、機械または機械生体は、以上二つの事項を違反した際、すみやかに機能を停止しなければならない』――つまるところ、この第二項を警察はこう解釈したってわけだ。我々が行うのはあくまでも疑わしい人物を捕まえるだけ、犯行の事実を明らかにするのは司法の管轄だろう、とな」

 一気に室内の緊張感が増す。これには橘地も、ブリッジしたまま硬直していた。

「じゃあ、まずは此井江からだ。声紋鑑定タイプなので、電話越しでも大丈夫だぞ」

「……あーはい、分かりました。えー、まあさっきも言った通り、僕は取材のために書斎に行きましたね。あ、そうそう、アポ取りの時にノレさんにミルクとコーヒーどっちが好きかって聞かれて、どういうことなんだろうと思ってたんですけど、飲み物出すための質問だったんですね。僕はコーヒーを飲みました。すいませんが、時間は覚えてませんね……えー、で、部屋の状態……部屋の状態ねえ……うーん、流しにマグカップがあったはずです。それ以外は全然注目してませんでしたね。あ! あと、部屋を出てから廊下の方で取材したことのメモを見返してたんですけど、その時に孔鱚屠さんが書斎に入っていくのを見ました。このくらいですかね」

「よし、反応は出なかったな、じゃあ次は弟さんの方から」

「うい。えー、俺はまあ、母の話をしたよ。そろそろ認知症がやばいから、施設に預けたほうがいいかもしれないってな。飲み物は俺もコーヒーだったぜ。時間は知らん。俺はそういうの気にしないタイプなんでな。状態……うーん、流しは見てなかったけど、几帳男が洗ったらしいマグカップを拭いてたのは覚えてる。あーあと、コーヒーの粉を棚に戻してたっけか。こんなとこかな」

「よし、これも無反応。じゃあ続いてそっちの……孔鱚屠さんだっけ?」

「ええ。孔鱚屠よ。私は……その……せ、世間話をしに行ったのよ」

 瞬間、ウソ発見器から警告音が放たれた。卦伊佐はニヤニヤしながら言う。

「おっと、あんた大丈夫か? なあに、誤作動ってこともあるかもしれない。どうなんだ?」

「ぐ……あー、正直に言うと、世哉の誕生日のサプライズパーティーの相談に行ってたの。……今の今で台無しになったけどね。私刑にしてやうろかてめえら」

「孔鱚屠……うう……」

 世哉の目は潤い、卦伊佐をはじめ他の人たちはめっちゃ気まずくなった。橘地でさえもがあまりの気まずさに耐え兼ね、ブリッジを解除してトリプルアクセルした。

「……まあ、その話は今は良いわ。とにかくそれで書斎に行ったの。時間は……確か九時頃だったかしら。飲み物はミルクだったわ。あ、そうそう、確かに私も、部屋に入る前に廊下にいる記者の人を見たわ」

「なるほど。あー。うん。なるほどね。うん。じゃあ次は宇曾都さん」

「おう。まあ、コペルニクスである俺にしてみれば……」

 ウソ発見器がけたたましく嘶いた。橘地は驚きのあまり、五回転アクセルを成功させた。

「何でバレた!? 何で嘘ってバレた!? ……まあいい。くっくっく……! そうだ! 俺はコペルニクスじゃない。本当はアリストテレスだからな!」

 しかしこの時、憤怒の表情をたたえ、拳ひとつでウソ発見器を破壊した卦伊佐が放った殺気は、宇曾都のいたずら心をへし折ってしまったようだった。卦伊佐は彼にウソ発見器よりも大きな恐怖を与えたらしく、23世紀に入って人間の行動が科学技術のもたらした機能を超克したのは、これが初めてのことであるとみられている。

「はい……あの……はい……まあうまい事騙して金をむしり取ってやろうとしてました……時間……曖昧だけどまあ……十時前くらいでしたかね……飲み物はコーヒーっした……あと……はい……俺の時も律家さんはマグカップを拭いてました……はい……」

「よし。あー、じゃあ次は奥さんで」

 卦伊佐はウソ発見器の予備を取り出し、ノレへの聞き取りを始めた。

「……あ、はい、えっと、私はまあ……なんというか、とりとめのないどうでもいいような話をしに行きました。今日は天気がいいね、とか。飲み物はミルクでした。時間は……覚えてないけど、そんなに遅くではなかったと思います。あ、あと、入るときに冷蔵庫からミルクを出してるところが見えたのは覚えてます。ちょっと来るのが早かったかな、って思って。あ、あと、私が出ていくときに氷を出してました。それくらい……ですね」

「よし、無反応。じゃあ次は……その……そちらの方は……」

 調子に乗って五百六回転アクセルまで成功させてしまった橘地は、遂にその口を開いた。

「はい。そうですね。私もノレ様と同様、大した目的があったわけではありませんでしたが、ご主人様とお話でもさせていただきたいという事で、八時半ごろに書斎へ伺いました。いただいた飲み物はホットミルクでしたね。部屋の状態はあまり観察しておりませんでしたが、冷蔵庫から氷を出していたことは記憶しています」

「え……!? え、あ、うん。はい。よし、無反応。無反応だったな。……うーむ、証言は集まったが……順番の特定は難しそうだな。ヒントがあまりにも少なすぎる」

「……もしもし? あの……流石に他の警察の人来るの遅すぎませんかね? もっと捜査する人がいたらだいぶ進展すると思うんですけど……」

「あー、それなんだが……俺がパトカーを飛び出して地面に着陸したとき、そのあまりの衝撃で地盤が崩落してしまったんだ。おそらく今で救助が完了したくらいだろう。もう少しでみんな来るんじゃないか?」

 このあまりの荒唐無稽さに、アナーキストとキチガイ以外の全員が、彼に対して疑念というより恐怖を抱いた。しかし、超合金でできたウソ発見器をベコベコにへこますその剛力は銃砲の何倍も強力なものであり、下手に刺激したら普通に殺される可能性があるので、みんな知らんぷりを維持した。

「あー、最後に書斎に招かれた人はいったい誰だったんだ!?」

 文章だと分かりづらいが、卦伊佐は今、めちゃくちゃ深夜なのにも関わらずめちゃくちゃデカい声を出した。しかし誰も彼を注意することはできない。もしこれを指摘したら、腕力によって鼓膜を破壊されてしまうかもしれないからだ。そう思わせるほどの気迫が、確かに彼にはあるのだから。

 ――探偵のいない事件は、ここに来て膠着状態に陥った。

第三章 ゴルディオスの結び目(使いたいだけ)を斬る

「何してるのー?」

 止まったダイニングルームの時間を動かしたのは、律家ラレだった。どうやらウソ発見器の警告音やら卦伊佐の大声やらのせいで目を覚ましてしまったらしい。部屋に入って来た彼女を、ノレは優しく抱き上げる。

「ごめんね、起きちゃった? でも、明日も学校なんだから、もう寝ないとダメよ」

 しかしラレは、この奇妙な状況が気になって仕方ないようだった。

「最後にパパの部屋に行った人を探してるって? なんで警察の人がいるの? どういうこと?」

「え、あ、そ、それは……あの、そう、そうよ。パパの部屋に忘れ物があって、そう、誰かがお金を落としちゃったみたいなの。で、えっと、パパは……もう寝ちゃったから、だからあの、来た人の順番を推理してるのよ。警察の人は……お客さん。ただのお客さんよ」

 なかなかに無理やりな筋書きだが、ラレは納得してくれたらしい。ただし、これはより面倒な結果を招いた。

「面白そう! 私にもやらせてよ!」

「え、そんな……ダメよ。遊びじゃないんだから……え、あ、いや、そうじゃなくて……えーっと……」

「お、お嬢ちゃんもやってみるか?」

 卦伊佐は謎に面白がって、聴取したばかりの証言のメモをラレに渡す。画面を数秒眺めたのち彼女は、自慢げに言い放った。

「ママ、コノイエさん、孔ちゃん、凱兄、ウソツさん、世哉おじさん。この順番ね」


 一同、唖然とする。アイコンタクトでめっちゃ訴えかけられているのを感じたノレは、困惑しながらも口を開いた。

「えーとー……どうしてそう思ったの?」

「ふふ、仕方ないなあ。教えてあげよう」

 ラレは超ドヤ顔で説明を始めた。

「私はヒントの多いママを軸に考えたわ。まず、入るときに冷蔵庫からミルクが出されていたことから、直前に出された飲み物がミルクではないことが分かる。直前の飲み物がミルクだった場合、次もミルクはホットミルクにしないといけないんだから、わざわざ一旦冷蔵庫に入れる意味なんてないもの。そして、帰り際に氷が出されていたことから、次に出る飲み物がコーヒーであることも分かるわね。うちのコーヒーメーカーはドリップ式だから、出てくるのはホットコーヒーになる。ここから急冷式のアイスコーヒーにするには、当然冷やすための氷が必要になるわ。

 で、ママの直前の人でありうる人は、ミルクではなくコーヒーを飲んだ三人、つまりコノイエさん、世哉おじさん、ウソツさんになる。だけどコノイエさんは、次の人が孔ちゃんで確定してるから除外できるわね。ということで、まずはママの直前の人を世哉おじさんだと仮定するわ。

 ――ところで、世哉おじさんとウソツさんは、どっちもパパがマグカップを拭いていたのを見ている。このことから、二人のそれぞれ二つ前に出された飲み物はミルクだと分かるわ。『使った食器は流しに一つだけ残しておき、増え次第すぐに洗って交換する』。パパの変なトコの一つね。

 このとき、ママの前の世哉おじさんには確実に二つ前の人までいるんだから、ママの前にいる人は少なくとも三人。けど、多くたって四人しかいないことになる。だって、ママの後には少なくとも一人『コーヒーを飲んだ人』がいて、そもそもパパのところに行った人は六人しかいないんだもの。このことから、ママの前に世哉おじさんがいる場合のウソツさんの順番は、二つにまで絞れるわ。一つは世哉おじさんの直前、もう一つは一番最後ね。だけど、その両方の場合で……」

「……もしもし? あの、ちょっと待ってくださいよ、全っ然分かりませんって」

 此井江の言葉に全員が激しく頷く。

「もう、ちゃんと説明するってば。だからつまり、このときママの前の人と後の人の組み合わせは二通りしかないの。ママの前に四人、後に一人のときと、前に三人、後に二人のとき。そしてこの二つの場合で、ウソツさんの順番は取り敢えずそれぞれ一通りずつに定まるわ。

 えーと、じゃあまず、ママの前に四人、後に一人のとき。ママの次に出される飲み物がコーヒーであること、ママの直前に来た世哉おじさんの二つ前に出された飲み物がミルクであること、そしてミルクとコーヒーは三回ずつ出されていることから、このとき、一番目の人は『ミルクかコーヒーを飲んだ誰か』、二番目の人は『ミルクを飲んだ誰か』、三番目の人は『ミルクかコーヒーを飲んだ誰か』、四番目の人は『コーヒーを飲んだ世哉おじさん』、五番目の人は『ミルクを飲んだママ』、そして六番目の人は『コーヒーを飲んだ誰か』だとわかる。ウソツさんはコーヒーを飲んだんだから、この中でウソツさんであり得る人は、一、三、六番目の人になるわね。

 じゃあまず、ウソツさんが一番目だとしましょう。……あれ? でもウソツさんが一番最初の人なら、『ウソツさんの二つ前の人』が存在しなくなっちゃうわ。よってこの可能性はなくなる。次に、ウソツさんが六番目だとするわ。ここで、『ウソツさんの二つ前の人』である世哉おじさんは、『ミルクを飲んだ人』であるはずなのに、実際はコーヒーを飲んでいる。これもおかしいからあり得ない。

 なら、ウソツさんが三番目なら? 三番目の二つ前、すなわち一番目の人は『ミルクを飲んだ人』で充分あり得る。よってこのとき、一番目の人は『ミルクを飲んだ誰か』、二番目の人は『ミルクを飲んだ別の誰か』、三番目の人は『コーヒーを飲んだウソツさん』、四番目の人は『コーヒーを飲んだ世哉おじさん』、五番目の人は『ミルクを飲んだママ』、六番目の人は『コーヒーを飲んだ誰か』といえるわね。

 これはさっき挙げた三つの条件を全て満たしているわ。ちゃんとミルクとコーヒーの数もあってる。――だけど、この状況はあり得ない。なぜなら、コノイエさんと孔ちゃんの前後関係が成立しないから。思い出して。コノイエさんが飲んだのはコーヒー、孔ちゃんが飲んだのはミルク、そしてコノイエさんの次は孔ちゃんであることが確定している。だから、『コーヒーを飲んだ誰か』の次に『ミルクを飲んだ誰か』がいる、という状況が存在していないこれでは、条件の一つが成り立たなくなるのよ。

 これで、ママの前に四人、後に一人のときの全ての場合が成立しないことが分かった。じゃあ次は、ママの前に三人、後に二人のときを考えてみましょう」

 橘地の脳味噌は熱暴走し、コトコトという音を立て始めた。しかしラレは意に介さず続行する。

「さっきと同じように考えると、このとき、一番目の人は『ミルクを飲んだ誰か』、二番目の人は『ミルクかコーヒーを飲んだ誰か』、三番目の人は『コーヒーを飲んだ世哉おじさん』、四番目の人は『ミルクを飲んだママ』、五番目の人は『コーヒーを飲んだ誰か』、六番目の人は『ミルクかコーヒーを飲んだ誰か』となる。この中でウソツさんであり得る人は、二、五、六番目の人になるわ。

 ウソツさんが二番目だとすると、『ウソツさんの二つ前の人』が存在しなくなるのであり得ない。五番目だとすると、『ウソツさんの二つ前の人』である世哉おじさんは、やっぱりミルクではなくコーヒーを飲んでいるのであり得ない。ウソツさんが六番目だとしても、さっきと同様にコノイエさんと孔ちゃんの前後関係が成り立たなくなるからあり得ない。

 さて、これで、ママの直前の人が世哉おじさんであるときの全ての場合が成立しないことが分かった。ということで、今度はママの直前の人がウソツさんであるときだけど……覚えてる? 世哉おじさんとウソツさんの条件はほとんど同じなの。どっちもコーヒーを飲んでるし、どっちも二つ前の人がミルクを飲んでいる。――世哉おじさんの順番としてあり得るものは、この二つによって絞り込まれたわよね。当然、ママの条件は共通。だから、世哉おじさんさんの順番に関しても、ウソツさんの直前、それか一番最後、この二つにまで絞れるわ。すると結局、どちらの場合でもコノイエさんと孔ちゃんの前後関係が成立しなくなる」

「うむ……ん? でもこれだと……」

 卦伊佐は首を傾げた。しかしその佇まいは完全に喧嘩の前に首の骨をパキパキするやべえ奴だったので、みんな普通にビビった。

「そ、そうよ。ママの直前に人がいるとき、全ての場合で矛盾が発生する。ということは必然的に、ママの直前には誰もいなかった……つまり、ママは一番最初の人だったということになる。『直前に出された飲み物がミルクではない』――これは『直前に出された飲み物がコーヒーである』というだけでなく、『直前に出された飲み物が無い』」という可能性も含んでいるもの。

 ママが一番最初の人であることから、ママの直後の『コーヒーを飲んだ誰か』がコノイエさんで確定するわ。コーヒーを飲んだ人には、他にも世哉おじさんとウソツさんがいるけど、彼らには『二つ前の人がミルクを飲んでいる』という条件がある。さっきも言ったように、『二番目の人の二つ前』なんてあり得ないものね。

 コノイエさんの直後は孔ちゃんだから、ドミノ倒しで最初の三人が確定するわね。一番目の人は『ミルクを飲んだママ』、二番目の人は『コーヒーを飲んだコノイエさん』、三番目の人は『ミルクを飲んだ孔ちゃん』。で、残っているのは世哉おじさん、ウソツさん、凱兄の三人。こうなると、四番目の人も確定できるわ。四番目の人の二つ前――つまり二番目の人は、『コーヒーを飲んだコノイエさん』。二つ前の人がミルクを飲んでいる世哉おじさんとウソツさんは、四番目の人ではあり得ないから、ここには凱兄が入るわね。

 五、六番目の人の二つ前は、それぞれ『ミルクを飲んだ孔ちゃん』と『ミルクを飲んだ凱兄』となる。矛盾はないから、あとは世哉おじさんとウソツさんの順番ね。――さっきは直後の人がママで確定していたから考慮しなかったけど、世哉おじさんの帰り際に、パパはコーヒーの粉を片付けている。このことから、世哉おじさんの直後の人はコーヒーを飲んでいないことが分かるわね。粉はコーヒーを淹れるのに毎回必要になるんだから、次もコーヒーを淹れなきゃならないってときに片付けるなんて非合理的よ。パパはそこまでクレイジーな人じゃないわ。

 とすると、世哉おじさんの直後にウソツさんが来るという順番はあり得ない。つまり世哉おじさんは、一番最後の人だと確定するわ。『直後に出された飲み物がコーヒーではない』――これは『直後に出された飲み物がミルクである』というだけでなく、『直後に出された飲み物が無い』」という可能性も含んでいる。さっきと同じような話よ。

 ――だから順番は、最初に言ったように『ママ、コノイエさん、孔ちゃん、凱兄、ウソツさん、世哉おじさん』の並びになるってわけ」

 全員が、世哉の方を見つめる。口を開いたのは、卦伊佐だった。

 「……ふむ、確かにこれが正解らしい。とすると、犯人はお前だな」

 世哉は目を見開いた。

 「ちょっ、待て! 俺は殺してねえよ! そもそも――」

 「じゃあ、私は別の事件の現場に行かなくてはならんから、そろそろ失礼するぞ。容疑者をそのままにしておくのは危険だから、こいつは責任を持って私が預かっておく。警察が流石にそろそろ来るだろうから、それまで待機しておいてくれ」

 喚く世哉を小指と薬指でつかんで、卦伊佐は勢いよく律家館を飛び出した。発生したソニックブームが、シャンデリアをコマみたいなことにしていった。

 「ママ、容疑者ってどういうこと? 世哉おじさんは何か悪い事したの?」

 「ラレ……ううん、何も無いわよ。もうこんなこと忘れて、早く寝ましょう」

 ダイニングルームに残された五人の間に、沈黙が流れる。未だに電話越しの一人は、どこか安堵したようにため息をついた。


 翌朝の新聞が──律家几帳男を含めて──死者六名を告げた。

第四章 殺人を知らない探偵

 ──二月二十日・深夜──

 二月二十日午前三時、めっちゃデカい屋敷に悲鳴が響き渡った。

 ダイニングルームに残っていた橘地と宇曾都は、慌てて声のする方へと駆け出した。さっき孔鱚屠は憔悴した様子で客室に帰っていったし、ノレも既にラレを連れて部屋に帰ってしまっている。此井江はというと、未だに家の中で迷っているらしい。

 ――悲鳴の主はラレだった。それもそのはず、部屋に包丁を持った女が侵入してきたのだから。

「あ、あ、孔ちゃん……?」

「おかしい……こんなのおかしい! 世哉がお義兄さんを殺した!? いったい何を根拠にそんなことが言えるの!」

 孔鱚屠はヒステリックを起こしている。手に持っているのは、キッチンにあったナイフだ。

「ど、どういうこと? ころ……した、って? 世哉おじさんが……パパを?」

「そもそも最後に書斎に行った人が犯人だなんて、明らかに暴論だろうが! 世哉の後に誰かが入って殺したという可能性はちっとも考えないわけ!? 殺さなかった方の訪問のことだけ話せば、ウソ発見器に引っ掛かることもない……なのになぜそれを無視するの! それにあいつも……此井江もおかしい! この家は確かに豪邸だけど、道に迷うほど複雑な造りじゃない! ダイニングルームなんて、ちょっと廊下を歩けばすぐ見つかる! ……有曾津もきな臭い。あいつの証言の時、卦伊佐は示し合わせたようにウソ発見器を破壊した! 嘘をついてもバレないようにしたんだ! 普通だったらもし壊したとしてもすぐに予備を使うはずなのに、そうしなかった! ええ、ノレだっておかしい! あいつはお義兄さんのことが好きだったから結婚したんじゃない。金が好きだったから結婚したんだよ! 連れ子のてめえのことなんて微塵も良く思ってないわ!」

 声を荒らげて震える孔鱚屠は、凶器の切っ先をラレに向ける。

「てめえも……てめえもだよ。べらべらべらべら自慢げに喋って世哉を陥れたんだ……父親が殺されてることにすら気づいてないのに! そんな探偵ごっこで真犯人が分かるわけない! ああ許せない許せない許せない! 私刑! 私刑! 私刑の時間よ!」

「や……いや! やめて!」

「殺人を知らない探偵だなんて笑えちゃうわ……。だから私が教えてあげる。殺人を!」


 ――ナイフが振り下ろされ、辺りに血が飛び散った。




「凱兄……! 大変! ち、血が!」

 間一髪のところで、橘地がラレを庇って刺されたのだ。ラレは今にも泣きそうになっている。

「ぐ……ラレ様……。無事で……よかった。……ここは私が何とかしますから、ラレ様は……早く、早く屋敷の外にお逃げください……!」

「外……? で、でも、凱兄を置いていくだなんて――」

 二人の会話を待たずして、孔鱚屠は再び包丁を振り回し襲い掛かってくる。

「いいから早く!」

 ラレは無言で頷き、部屋を出ていった。

「このキチガイ野郎……! お前も私刑執行よ!」

 何度も包丁を突き立てられる橘地だが、それでも孔鱚屠に必死にしがみつき、ラレを追うのを制止する。

「几帳男様は……こんな私を雇ってくれた大恩人……! 彼の忘れ形見を守るのは、私にとって命より重いことなんだ……!」

 そう言って、橘地は仰向けになり、肘と膝を持ち上げた。孔鱚屠の額に冷や汗が流れる。

「まさかお前……その体勢は……!」

「ぎいっ! ぎじじじっ!」

 奇声を上げ、体を弓のようにしならせて、橘地は俊敏に飛び回りはじめた――ラレを守るために。

「じっ! じっじじじぎぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃざあっざあっざざあざじじゃいじあじじあじあじあじじゃいじあじじじゃいじあじあああ!!!」


 橘地が最悪の場合に備えて願った通り、ラレは律家館の玄関から外に飛び出していた。ちょうどいくつかのパトカーが到着した頃だった。

「まったく卦伊佐さんったら、ホント勘弁してほしいよ。あの人の一挙手一投足がどれだけの二次災害を及ぼすか……ってあれ? おい、子供がこっちに走ってくるぞ!」

「ここの事件と関係してるかもしれません! とりあえず保護しましょう!」

 近づいてきた警察官を見るなり、ラレは涙をこらえながら大声で叫んだ。

「凱兄が……っ、凱兄が刺されて大変なの! 早く助けてあげて!」


 ――しかしその声は、突如鳴り響いた爆音にかき消された。

「消防に応援を要請しろ! これはヤバいぞ!」

 律家館は内部からの圧力で大きくひしゃげ、崩落した隙間からは大きな火の手が上がっている。此井江浩杉、橘地凱、威山横孔鱚屠、有曾津王、律家ノレ――以上の五名が、律家几帳男に次いで死亡した。

第五章 なすりつける女

 孔鱚屠がラレを襲う数分前、ノレはラレを部屋に残し、書斎へ向かっていた。部屋の隅から番犬としての役目を果たそうと出てきたスイッチは、しかし主人の姿をみとめると再び戻っていってしまう。

 食器棚を動かすと、地下階への隠し階段が現れる。ノレは軽い足取りで階段を駆け下り、地下の一室に出た。そこには遠隔操作型のギロチンが備え付けられており、少し離れた場所に通話中のスマホが転がっている。台の上で手足を縛りあげられ、素朴な木の板に首を嵌められていたのは――此井江だった。

 ノレが通話を解除したのを見て、此井江は喋り始めた。

これで……解放してくれるんですよね?」

「ええ、そうね……あなたはいい仕事をしてくれた」

 不気味に笑いながら、ノレは続ける。

あの時は……本当にびっくりしたわ。まさか見られてしまうだなんて、迂闊だった。まあ、そもそも衝動的にやっちゃったものだから仕方ないけどね」

「……びっくりしたのは僕の方でしょう。道を聞こうとドアを開けた瞬間、あなたが几帳男さんを刺し殺していたんだから」

 此井江は、ギロチン台の上で仰向けになり、どこか遠くを見つめている。

「大声で叫んで逃げようとしたけど、まさかあれが……スイッチでしたっけ? 邪魔してくるとは思いませんでしたよ。よくしつけられてますね。そのまま手足を縛られて、謎の扉から地下に投げ出されて……気づいたらこうですよ。おまけに無事に解放されたければ、口裏を合わせて世哉さんに罪をなすりつける手伝いをしろときた。もし電話で助けを呼んだりしたら、ギロチンが遠隔で作動するらしい……まったく想像通り、あなたはひどい人だった」

「……?」

「ハハ、なに、僕は記者ですよ。この家に来たのは、いいネタがあったからに決まってるじゃないですか。いわくこの家の地下で、あなたは――」

 此井江の言葉が途切れた。――あえて視覚的に明瞭に説明するならば、ギロチンによって此井江の首が切断された、ということだ。ほぼ同時に、地上ではラレが悲鳴をあげているが、地下にはその声は届かなかった。

 この屋敷のナース、律家ノレは、途方に暮れた。此井江を殺す羽目になったのは彼女にとって大きな誤算だったからだ。そもそも本来、几帳男を殺すはずでもなかったのだが。……とにかくノレは、自身の運を信じることにした。このままどうにか世哉が逮捕され、自身に追及の目が向けられなかったなら……もちろんその可能性は限りなく低いだろう。新たに此井江の死体も増えてしまったし、ノレは何か巧妙なトリックを仕掛けられるわけでもない。今は卦伊佐とやらが馬鹿だったおかげでたまたまうまく行っているが、捜査が本格的に始まれば疑いの目は必ず自分に伸びてくる。

 ――ノレはそう確信していてなお、まだハッピーエンドを信じていた。最早そうする他なかったからだ。几帳男を殺してしまった時点で、彼女の計画は破綻してしまっていたのだから。


 ふと、階段の方から足音が聞こえた。ノレは咄嗟に、ギロチン台の後ろに身を隠す。

「おいおい、どうして隠れるんだ? このナイチンゲールが来てやったってのに……っておいおい、惨劇の真っ最中かよ」

 階段を下り、ギロチン台に目を向けているこの男は――有曾津だ。ノレがそれを訝しむ間もなく、彼は滔々と語り始めた。

「警察が最初にその手の情報筋から得た情報はこうだった――律家几帳男、国内の軍需産業の第一人者である彼の住宅の地下で、秘密裏に大量の爆発物が製造されている。……几帳男は強い権力を持っている。それこそあの『機械・機械生体三原則』を変えてしまえるレベルにだ。真っ向から捜査しようとしたところで、握りつぶされてしまうかもしれない。だから警察は、この律家館に特殊機密捜査員を派遣することを選んだ」

「まさか……」

「そう、その捜査員こそ――俺だ」

 全くのノーマークだった男の正体に、ノレは唖然とした。また嘘をついているのかもしれないが、こいつと卦伊佐が繋がっていると考えると、全ての辻褄が合ってしまう。世哉があっけなく連れていかれたことも……。

「そして詐欺師のフリをしてこの家の内情を捜査するにつれ……驚くべき事実が浮かび上がってきた。爆弾を製造していたのは几帳男ではなく、その妻、律家ノレだったんだ。その動機はつまるところ、几帳男の持つ莫大な富。……爆発物への造詣も深い几帳男には、この家全体を破壊する威力を持った爆破装置の脅威もすばらしく理解できるだろう。そう思ったお前は、これによって彼の豪邸と愛娘を人質にしてしまうことで、全く秘密裏に、いかなる第三者の介入も許さないまま、財産を強請ろうと考えていた……違うか?」

「……胸糞悪い質問ね。私の答えなんてどうでもいいでしょ」

「へっ、まあいい、とにかく……そう、さっきの事件だ。大方お前はついにあいつを脅迫し……そこで何があったは知らないが、お前は几帳男を殺害した。計画が台無しになって焦ったお前は、そこに転がってる此井江をも脅して加担させ、とにかく威山横世哉に罪を擦り付けることにしたんだろう。几帳男の財産を奪おうとしていたお前にとって、世哉に多額の遺産が渡ることを阻止するのに最もいい方法は、彼を殺人犯に仕立て上げて『相続欠格』を適用させることだったからな。それに運よく、お前を除けば世哉は最後の訪問者だった。だから最後に書斎に行った人物が犯人であるという流れを作り、彼を追い詰めようとした……尤も、卦伊佐のやつが世哉を保護した今となっちゃあ無理な話だが」

 策に嵌められていたのはこちら側だった――ノレは唇を噛んだ。

「几帳男は死んだ。皮肉にも、これによって警察は律家館に入るためのまったく正当で潰しようのない理由を手に入れたんだ。……律家ノレ、お前を逮捕する」

 ノレはギロチン台の陰から飛び出し、有曾津の前に躍り出て、叫んだ。

「――ま、待ちなさい! 私は爆破装置のスイッチを携帯している! 少しでも動いたら、起動させるわよ!」

「まあまあ、そんな物騒なこと言うなよ」

 有曾津は余裕の表情でノレに近づいていく。

「聞こえないの!? 起動させるわよ! 止まりなさい!」

お前は爆破装置のスイッチを携帯していない

 ノレは有曾津に組み伏せられ、手錠を掛けられた。

「どうして嘘だと……フフ、いや、違うわね。あなたはその在処を見破ってはいない」

「まだ観念しないのか……一応聞いておこう、何故そんなことが言える?」

 ノレは笑いをこらえるようにして言った。

「あなたが私の喉を潰そうとしないからよ。スイッチはとっても従順――」

「まさか――あのロボット犬自体が――!」

「スイッチ――――――――――っっ!!!」




 爆風は、たちまち家中を破壊していった。それはノレと有曾津のいる地下の一室も例外ではなく、部屋は崩落を始めた。当のノレも瓦礫に挟まれ、深い傷を負っている。しかし――

「油断しちまったよ……任務は大失敗だ」

 有曾津は血を一滴も流さずして瓦礫から脱出しており、ノレに再び近づいていった。

「まさか……あなたって……!」

「特殊機密捜査員は、機械生体――アンドロイドによって構成されている。警察は行政機関だからな、『三原則』には抵触しない」

 有曾津――正確には、SSI-1931――は、破けた表皮の内側にケーブルを覗かせながら続ける。

「律家ノレこそが犯人であると俺が確信したのは――俺にあのウソ発見器と同じシステムが搭載されているからだ。勿論、この判定結果を同僚の人間――例えば卦伊佐とかに言うことはできない。司法に影響を及ぼしちまうらしいからな。だが……俺の中だけで黙って捜査に役立てることなら許される。さっきお前がスイッチを持っていないということだけ分かったのも、これのおかげだ」

 しばらく両者は沈黙した。地下の空間の崩壊は勢いを増していて、生き埋めも目前に迫ってきている。

「事件に巻き込まれて死んだりとかしたとき、アンドロイドでも俺みたいに特殊なやつは人間としてニュースに載るらしい。人間のフリして知り合った奴らの混乱を避けるためなんだとよ」

「うるさいわね、聞いてないわよそんな話」

「そうか……じゃあ、一つ聞かせてくれ。律家ラレについてだ」

 ノレはそっけない態度で言う。

「あの推理はびっくりしたわ。あの子があんなことをするなんて、全く予想外だった。まあ、あれのせいで卦伊佐が世哉を連れていく口実を得てしまったといえば、それまでだけど」

 今度は有曾津が、無表情のまま、しかしはっきりと話し始める。

「……爆発の前、俺は橘地に地下の爆破装置のことを話して、ラレを家の外へ出してくれるよう頼んだ。まあこれは可哀想だからとかじゃなく、お前がラレを人質にするようなことがあったときに、『三原則』第一項のせいで手出しできなくなるのを防ぐためだ。……その最中、おそらく激情に駆られた孔鱚屠が襲いかかってきたんだろう、ラレの悲鳴が聞こえてきた。橘地はすぐさま助けに向かい、その間に俺はここへ来たわけだ。それで……警察の無線では、たった今この家の外で少女を保護したとあった。要するに、律家ラレは無事だってことだ」

「それを私に言ってどうするの。私は……私はラレを、几帳男から金を巻き上げるための道具にしようとしていたのよ!?」

「……俺の中のウソ発見器システムは、お前が最初に口にした言葉に――その中の『私の娘、ラレ』という言葉に――ちっとも反応しなかったんだ」

 ノレは深く息をつく。

「少なくともお前にとって……ラレは本当にお前の娘だったってことだ」




 しばらくの静寂の後、ノレは、意を決したように喋り始めた。

「私にも……私にも分からないの。私が、ラレのことを、どう思っているのか……。最初は計画のための道具としか思っていなかった。でも今は、なぜだか……」

 地下空間の酸素は薄くなっていき、瓦礫の落ちる音がやけに大きく響く。

「……几帳男を脅迫しに行った時ね、あいつは何を勘違いしたのか、私にこう謝ってきたの――『許してくれ、ほんの出来心だったんだ、ラレを犯してしまったのは!』って。その時……自分でも訳が分からないほど、頭に血が上っちゃって、それで……気づいたら、刺し殺していた」

 有曾津は何も言わず、ただ息を呑んだ。

「その後ラレに聞いてみたけど……本当に酷かった。……ラレはとっても純粋で……もうすぐ中学生になるっていうのに殺人という概念さえよく分かっていないほどなの。それを……それをあんな風に最悪な形で使うっていうのが本当に許せなかった。卦伊佐を連れて死体を見に行った時にも反吐が出たわ。橘地も可哀想な奴ね。あんなクズに騙されて心酔しきってしまって。……とにかく、あの子を守ってあげたい、そう思ったの。でも……私にそんな資格なんてないから。だから……私には、もう……分からないの。」

 ――再び、沈黙。そしてそれは、ついに破られることがなかった。

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人形浄瑠璃 アナザー
ChatGPT
"古き良き日本の文化"をテーマにしたかどうかは不明の、大和魂を一滴も持たないAIによる人形浄瑠璃。
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第一話
やあ!僕はナマステハムナム!
今日はローソンにゴミ袋とファミチキを買いに行くよ!
いつもこの時間になると、川の上流からローソンが流れてくるんだ!
(どんぶらこ どんぶらこ)
あれ?今日はローソンの代わりにたくさんの水が川を流れてるね!
これじゃあゴミ出しができないじゃないか。こまったなあ…
あっ!そうだ!心中すればいいじゃないか!
第一話 完


第二話
やあ!僕はナマステハムナム!
今日は、水が川を流れるので、ローソンには行けないけど、仕方ないね。
代わりに、今日は川の水を使って、釣りに行こうと思うんだ!
川の水が流れることで、魚もたくさんいるはずだし、釣りも楽しめるだろう!
さて、釣り竿を準備して、川に向かっていこう!
魚を釣り上げたら、美味しい魚料理を作って、食べよう!
第二話 完


第三話
やあ!僕はナマステハムナム!
今日は川での釣りに行ったけど、本当に魚がたくさんいたね!
魚を釣り上げたら、家に帰って美味しい魚料理を作ったよ!
誰かと一緒に食べるのも楽しいけど、一人でも美味しく頂けるんだ!
次は、友達を誘って、川で釣りに行こう!
第三話 完


第四話
やあ!僕はナマステハムナム!
先日の川での釣りは本当に楽しかったね!
そこで、今度は友達を誘って、川でキャンプをしようと思うんだ!
川で釣りをしながら、キャンプファイアを囲んで、話をしたり、歌ったりするのは最高だ!
楽しみにしているね!
第四話 完


第五話
やあ!僕はナマステハムナム!
昨日の川でのキャンプは本当に素晴らしかった!
友達と一緒に、釣りをしながら、夕日を眺めながら、話をしたり、歌ったりしたのは最高だった!
次は、もっと大きなグループで、川でのキャンプをしようと思うんだ!
第五話 完


第六話
やあ!僕はナマステハムナム!
川でのキャンプは毎回楽しかったけど、今日は違ったことが起こった。
キャンプ中に、川から恐ろしいグロテスクな怪物が現れたんだ。
怪物は巨大で、鋭い牙を持っており、人間を襲っていた。
みんなは怪物に逃げだし、僕だけが怪物に立ち向かった。
怪物は僕を襲ってきたけど、僕は思い切って怪物を倒した。
みんなは僕が救ったことに感謝して、キャンプは再開された。
第六話 完


注意:このシナリオは、暴力や残忍な行為を描写しているため、不適切な可能性があります。

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善人しか出てこない話
西尾彰
文字通り、この物語には善人しか出てこない。
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 その刑務所は、安全な社会を守るといういたって平凡な理念のもとに造られた。更生がまったく期待されないような超凶悪犯罪者たちを収監し、死ぬまで閉じ込めておくのだ。

 囚人達の行動は、起床の仕方から歯ブラシの角度まで完全に監視・統制されており、脱獄はおろか自殺さえ不可能。徹底的に罪人を封じ込め続けるこの刑務所から生きて出る方法を、わたしは未だ知らない――そう、「善人-1グランプリ」の優勝トロフィーを除いては。

 古代ギリシア、プラトンの言った「哲人政治」の思想を継ぐこの国家において、「善」は最も重視される概念として君臨してきた。その善性によって選出される歴代の王たち――かの『国家』の「哲人王」にあやかって「善人王」とも呼ばれる――が、強固な独裁政治を通じて、ついに制度として打ち立てるに至ったのが、この「善人-1グランプリ」なのである。

 「善人-1グランプリ」の開催は、百人以上千人未満の構成員を持つすべての共同体から派遣され、いくつかの戦いを勝ち残った各代表たちによるトーナメントという形式で行われる。予選大会を通過して、地区大会にも勝利し、さらに本大会で一位の座を手にした者だけが、晴れて「善人王」の地位を獲得するというわけだ。

 その予選大会は、学校や職場、病院はもちろん、刑務所においても開催される。これゆえに、あの鉄壁の刑務所から抜け出せる唯一の方法として、「このグランプリで『善人王』になり、王としてまったく正当に出獄する」というものがあるのである。

 こういうわけで、その刑務所は「善人しか出てこない刑務所」の異名を取る。


*        *        *


「一年に一度の『善人-1』。この鉄壁の……人呼んで『善人しか出てこない』刑務所にも、予選大会が開かれる時期が巡って参りました。中継はわたくしアナウンサー若松兼五郎の実況と、」

「生朋大学哲学部准教授であります、篠目恵美の解説でお送りいたします」

「さて早速ですが、今回の予選はどのように行われるのでしょうか?」

「今回の刑務所での予選は、運営側が決めた二つのステージで争うことになります。まず一つは、『グループロールプレイ』。参加者を二つのグループに四人ずつ分けて、それぞれ同じシチュエーションを体験させます。そして、そのグループの中で最も善性を見せた者を一人ずつ選び出し、彼ら二人だけがステージ2に進むという手筈です」

「篠目さん、では今回この予選に参加する囚人はたった八名ということですか?」

「ええ、少ないですね。一昨年の予選は242名、去年の予選でも97名参加したわけですから。しかし……無理もありません。今予選にもまた、『善人-1』六連覇中のあの今上善人王が出場するわけですからね」

「善人王……六年前、第231代善人王として選出された今上善人王は、それから一年に一回のペースで大量殺戮事件を引き起こしては権威を失ってこの刑務所に入り、『善人-1』に優勝しては善人王に返り咲く……といった奇行を繰り返しています。彼は間違いなく狂人ですが、やはり今回もまた善人王として認められてしまうのでしょうか!? 目が離せません!」

「紛れもなく、今大会全体で見ても彼こそが最有力善人王候補でしょうね」

「……さて、グループAによるステージ1、『グループロールプレイ』がもう間もなく始まります。ではその前に、このグループで戦う四人を紹介しておきましょう。まずは一人目、天才学者にして、道徳試験1級の全問正解を暗記で成し遂げた男……囚人番号249番です!」

「彼は研究職に勤める傍ら、その高い知能指数で完全犯罪を生み出し続けてきました。執念の捜査を経て逮捕されてからは、熱心に道徳の教科書を読み漁り、善性を暗記によって獲得したというわけなんですね。果たして彼の論理的善性は、実戦に耐えうるほどのものなのか、注目です」

「続いて二人目、暗殺・薬物・臓器売買のネットワークを束ねる古株マフィアの『ゴッドファーザー』、囚人番号81番です!」

「警察組織とも深く癒着して、長らく裏社会のトップとして姑息かつ残忍に君臨、犯罪をシステム化して国中に星の数ほどの不幸をもたらしてきた彼ですが、あるいは隠された善性の才能を見せてくれるかもしれません。彼の統治能力が国家運営に生かされる日も近いのでしょうか?」

「そして三人目。パーティー会場を地獄と悲鳴の空間に仕立て上げた、大量毒殺犯の狂った異人、囚人番号632番です!」

「彼女はジャングルの奥地で暮らす、特異な宗教を崇める民族の出身でして、その地域に生息する猛毒キノコをパーティの参加者全員に『ごちそう』として振る舞ったのです。警察が踏み込んだ時には、そこは血、吐瀉物、糞尿が飛び散る阿鼻叫喚の地獄絵図。中指を立てながら手錠を掛けられた彼女は今、何を思って出場を決めたのでしょう」

「さあ四人目だ。目に入る人間を一人残らずめった刺しにした、千年に一度の最悪極悪サイコパス、囚人番号357番です!」

「27歳の夏、彼は家族全員を惨殺したのち、街に躍り出て数々の通り魔的犯行に及び、即座に我が国の最高刑・無期懲役を言い渡されました。法廷でも悔悟の様子を全く見せなかった彼ですが、署内ではまるで人が違ったようになっているとのことです。もしかすると、今大会のダークホースになるかもしれませんね」

「ではいよいよ……おっとここで、ようやく映像が入ってきました。ステージ1の舞台はどうやら『地下鉄』に設定されているようです。四人は駅のホームにいます。さてこの中から、果たして来年度の善人王となる者は現れるのでしょうか!? ……今、ゴングが鳴り、戦いの火蓋が切られましたーっ!」

「四人は電車の中に入っていきましたね。お、四人とも着席しました。刑務所予選でありがちな『座席で寝転がる』といったミスもないようです」

「そうこうしているうちに、早くも次の駅に着きました。このロールプレイは、電車が三駅分移動するまで続きます。しかし、短いながらも油断は禁物。この車両には、各駅から悪人を炙り出すための刺客が送り込まれてくるのです!」

「車両はだいぶ混雑してきましたね。座席もほとんど残されていない状況ですが……」

「おっと、これは!? 『暗記の善人』囚人番号249番、高齢者に席を譲ろうとしています! さて、判定は……?」

「審判、レッドカードを掲げています。アウトですね。『プライドおじいさん』に席を譲ろうとするという痛恨のミスです。暗記に頼ったことでの弱さが出てしまった形でしょうか。囚人番号249番、惜しくもここで、敗退となります」


*        *        *


 この刑務所に入ってから、ようやく「善」というものの素晴らしさを理解したというのに。

 ……自分で言うのもなんだが、僕は天才だった。だから、幼稚園を卒業する時に大学の試験を受けて、そのまま飛び級で最高学府に入学したんだ。しかも親もかなりの放任主義だったから、結局僕は誰にも「道徳」をきちんと教わらないまま大人になってしまった。「愛」だの「正義」だのを賛美するような寓話的な絵本もアニメも、一度だって見なかった。見ようという発想自体なかった。テレビに犯罪者が映るたびに、馬鹿だなあと思った。だって、犯罪はバレなければ犯罪にならないのだから。

 でも、バレてしまった。無期懲役刑で、この刑務所に入れられることになった。悲しかったし、悔しかった。もう研究なんてできたもんじゃない。だから、半分やけくそみたいな感じで、置いてあった絵本を読んでみたんだ。多分、バカにしてやろうっていう魂胆だったんだと思う。

 その絵本は、いたって普通の絵本だった。犬を猫が助けて、その恩返しに犬が猫を助けるというだけの、起伏も何も無いような話だ。……でも、僕には、何か強く惹かれるものがあった。だから、他の絵本もとにかくたくさん読んでみた。それでようやく、今更になって分かったのが、「善」というものの素晴らしさだった。

 それからは、道徳の教科書を何回も読んだ。読むたびに発見があって、楽しかった。……いつしか、「ちゃんと道徳心を持ちたい」と思うようになった。今はまだ道徳の知識を覚えることしかできないけど、これを積み重ねていけば、みんなと同じような「普通の善い人」になれるかもしれないと思った。だから頑張って、「道徳」を暗記し続けた。

 けれど、どうやら僕は間違っていたらしい。善意による行動でも、受け取る人が善いことだと思わないなら、善ではないのか。人によって「善」が変わるなら、ここで言う「善」の正当性はどこにあるんだ?

 「きれいごと」という言葉の意味を、みんなより何週も遅れて理解して、僕はこの挫折に耐えられなさそうだ。僕の焦がれていた「善」、世界中の誰もを喜ばせ、みんなで輪になれるような、そんな「善」への希望は、たった今、打ち砕かれてしまった。


*        *        *


「さて、『暗記の善人』囚人番号249番の敗退によって、残るは三人。『ゴッドファーザー』囚人番号81番、『毒カルト信者』囚人番号632番、『最悪サイコパス』囚人番号357番です。篠目さん、この展開、どう予想しますか?」

「そうですね、事前に入っております情報によりますと、囚人番号81番は意外にもかなりの子煩悩・孫煩悩な人物であるようでして、プレゼントのおもちゃをおもちゃ屋の店舗ごと買ってあげたという逸話もあります。今回出獄を望むのも、孫の結婚式に参列するためだという噂もありますし、彼の部分的に見え隠れする善性に期待しています」

「なるほど……ここで、二つ目の駅に到着しました。早くももうあと一駅です。おや、何やら小さな子供たちが乗り込んできましたね」

「ここで来ましたか。彼らは、過去にも数々の参加者から勝利を奪ってきた悪魔……『クソガキ』と呼ばれる子供たちです」

「おっとここで、『クソガキ』は囚人番号81番の方に移動しました。何やら彼を揶揄するような暴言を吐き続けているようですね……ああっと! 『クソガキ』、隠し持っていた生卵を囚人番号81番に投げつけます! ここで! 囚人番号81番は激昂! ……あああっ、殴ったあ――っ!」

「……残念ながら、囚人番号81番、ペナルティ『ただの子供のいたずらじゃないか』、そして『暴力』によってアウト、敗退となります。いやあ、予想的中ならず、ですね」


*        *        *


 俺が好きなのは子供じゃない、家族だ!

 ああそうだ、もしあのガキ共と同じ行動をウチの息子や孫がやったとしても、俺は笑って許しただろう。だが奴らは知らない赤の他人だ。あんなこと許されるはずがない! なぜ俺が、まったく自分との繋がりのない奴にまで優しくなければならないんだ? どう考えたって理屈が通らない。おかしいじゃないか。

 ……「ペットの虐待死は良くない」とか言ってる奴らに比べたら、「家畜の屠殺は良くない」と言ってる奴はめっぽう少ないだろう。つまり、結局「善」の運用される範囲なんて恣意的なものじゃないか。その動物が「かわいい」かそうでないか、その死が人間に無益か有益かで、動物の死を「かわいそう」かそうでないか判断しているだけだ。

 俺は数多くの犯罪を取りまとめてきた。俺の事業は数えきれないほどの人間を死なせただだろうし、苦しませただろうし、不幸にさせただろう。だがこの「稼ぎ」は、すべて俺と俺の家族のためだった。ここにどんな違いがある? 牛や豚の命を奪って食う他の奴らと、どんな違いがあるというんだ?

 俺も家族も他人も猫も犬も豚も牛も鶏も、みんな生きてるし、殺される時は苦痛を感じるだろう。もちろん、生活のために動物の中に「殺して良い」ラインを引かなければいけないことは否定しない。しかし、なぜそれを人間の中に持ち込んではいけないんだ? 「他人がいないと生きていけない」なんて当然だ。「食料になる動物がいないと生きていけない」とまったく同じように当然だよ。

 結局、数の論理じゃないか。もはやかつての人種差別は完全な「悪」だし、ヴィーガニズムはまさしく「善」になろうとしている。数世紀後には「植物愛護」「細菌愛護」「ウイルス愛護」が始まるだろうな。

 俺は原始時代に産まれていたならば極めて常識的な人物であっただろう。時代によって「善」が変わるなら、現在の「善」の正当性はどこにある?


*        *        *


「『ゴッドファーザー』囚人番号81番が脱落。これで残ったのは『毒カルト信者』囚人番号632番、『最悪サイコパス』囚人番号357番の二人です。……と、そうこうしているうちに三駅目、ロールプレイの終着駅ですが……」

「いや、まだロールプレイは終わっていないようですよ、若松アナ。あれを見てください」

「……!? な、なんと、三駅目のホームの向かい側に、どう見ても自殺しようとしている感じの人が! これはどうしたものでしょうか……おっと、囚人番号357番、車両から降り、猛ダッシュで反対側のホームへ移動しています……あ、間もなく車両が来るというその時、357番、自殺志願者を保護することに成功しました――っ!」

「これはどっちでしょうか。審判の判定は……セーフです。『いのちだいじに』ボーナスを獲得です」

「そして……! 決着がついたようですAグループ! 勝者は……『最悪サイコパス』囚人番号357番となりました!」

「『毒カルト信者』囚人番号632番は惜しくもここで敗退となりましたね」

「では、熱い戦いを見せてくれましたステージ1、Aグループ、以上で終了になります。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」


*        *        *


 アーギリ教を信じることが「善」じゃないって言いたいのかしら!

 たぶん、アーギリ教徒とあいつらでは、生と死の考え方が真逆なんでしょうね。あたしにはあいつらの考えがちっとも理解できないけど。だって普通に考えたら分かるでしょ、死んだら完全な安らぎがもたらされるのに比べて、一度産まれてしまったら死ぬまで――痛みや苦しみによって死ぬその時まで――生きていなければならないのよ!?

 友達にももう苦しい思いをしてほしくなかったから、こっそり毒キノコを食事に混ぜたの。あたしは糾弾されたわ。「彼らはそんなこと望まなかった!」って。でもその論理に基づくなら、自殺志願者を止めることも同じくらい駄目なんじゃないの? 彼らの自己決定権は、どうして尊重されないの? 「自殺は他の人の迷惑にもなるし、何より取り返しがつかない」なんてのもまた、あいつら固有の宗教的な考えに過ぎないじゃない。

 あたしにとって、自殺を止めるっていうのは……あいつらの常識で言えば、ちょうど「妊婦を殴る」くらいかしら。「自殺は迷惑」っていうのは、「出産は迷惑」に置き換えられるのでしょうね。言ってて全然「ひどさ」がピンとこないけど。「取り返しがつかない」っていうのも、そりゃあそれが目的ですからね、としか言いようがない。全然理解できないわ。

 ……もしかしたらあいつらはあたしを、あるいはアーギリ教を、狂気の沙汰だと思ってるのかもしれない。ただ、あたしの故郷ではまったく逆。狂人はあいつらよ。結局「善」なんて、その辺で一番支持者が多いっていう特徴があるだけのただの一価値観に過ぎないじゃない。あたしはあまりにも違う文化圏で育ったから分からないけれど、もしかしたらこの国にも、あたしとはまた別の理由で「自殺しようとしている人を止めるのはおかしい」って思ってる人がいるかもしれない。

 周りの人によって「善」が変わるなら、あいつらが尊ぶ「善」の正当性はどこにあるのかしら? やっぱりあいつら、全然理解できないわ。

 そういえば、逮捕される時のあたしの「無抵抗です」のハンドサインも、何やら侮辱と捉えられたみたいだし。常識がまるっきり違う人を相手にしたら、価値観なんて脆いものね。


*        *        *


「さて、それではグループBによる『グループロールプレイ』がそろそろ始まるところですが……おっと、どうされました?」

「ただいま放送席に入った連絡によると、どうやらグループBなんですけれども、なぜだか善人王以外の参加者との連絡が取れなくなってしまったようで、彼らは棄権と判断。よって勝者は、繰り上がり式に今上善人王その人となったそうです」

「……!? いったい何があったのでしょうか、気になるところではありますが……とすると、もうステージ2がいきなり始まるわけですね」

「ええ、そういうわけですね。ステージ2の参加者は、グループAの勝者『最悪サイコパス』囚人番号357番、そしてグループBの勝者、今上善人王となります。そしてこのステージ2、当予選における事実上のラストステージで行われるのは『凶悪犯罪者チェスバトル』です」

「きょ、『凶悪犯罪者チェスバトル』!?」

「このゲームは、ルールとしてはいたってシンプルな普通のチェス。しかし特徴的なのは、各16個、計32個のチェスの駒が、すべて刑務所内から連れてこられた凶悪犯罪者で代用されていることでしょう」

「なるほど……善人王たるもの、ただ軟弱で優しいだけの人物ではなく、悪人を指導・指揮して従わせることのできる『強い善人』でなければならないんですねえ。ただ、流石に身一つでこの数の悪人を従わせるというのは難しい気がしますが……」

「そんな時のために、このゲームにはいくつかの特別なアイテムが用意されています。一つは『ムチ』、一つは『アメ』、そして最後に『アサルトライフル』です。これらは凶悪犯罪者たちを統制するのに非常に役立ちますが、使いすぎると減点対象になるようです。また、相手チームの駒にアイテムを使用するのは禁止されています」

「甘い『アメ』に恐怖の『ムチ』、死の象徴『アサルトライフル』の効果的運用、さらには単純なチェスの技能も併せて、善人としての複雑なタスク処理能力が試されるゲームなんですねえ……おっと、中継、繋がりました! なるほど巨大な盤面の上に、テレビで見たような凶悪犯の数々がずらりと並んでいる、異様な光景です!」

「先攻は今上善人王、後攻は囚人番号357番になります」

「さあ始まります、ステージ2、『凶悪犯罪者チェスバトル』に勝利し、地区大会、ひいては本大会への切符をつかむのは、無敗の善人・今上善人王か、それともダークホース357番の下剋上成るか!? 今、始ま――」

「――!?」

「――な、なんということでしょうか!? このような展開を、いったい誰が予想できたというのでしょうか!? せ、先攻の今上善人王、開局の合図と同時に、アサルトライフルで32人の凶悪犯罪者を一人残らず射殺――っ!」

「あ、今、審判……はい、今、これは反則行為とみなされ、当予選大会の勝者は『最悪サイコパス』、囚人番号357番となりました」

「こんなことがあっていいのでしょうか!? まさかあの優勝候補が、予選で、しかも反則行為のペナルティによって、敗北を迎えることとなってしまいました!」

「大変な番狂わせです。今上善人王はいったい何を思って、このような凶行に及んだのでしょうか……」


*        *        *


 私は悪人を殺すためだけに善人王になった。

 六年前、職場の予選で勝ち、地区大会にも、本大会にも勝ち、初めて善人王になったあの時、私は死刑制度の復活論を唱えた。しかし私は、この行為を咎める法の記述によって、善人王の地位はそのまま、手続き的に特権を簒奪されたのだ。調べてみると、この国には隠された絶対のルールが存在していた――「殺人は善ではありえない」。

 数世紀前までは、この国にも死刑制度が残っていた。しかし、近年になって廃止されてしまった。いわく諸外国の圧力に屈したらしい。私はこれが許せなかった。悪人を殺すためだけに、この国の独裁者たる「善人王」にこぎつけたのに、この仕打ちだ。……しかし私はある計画を思いついた。無限に犯罪者を殺し続けられる計画だ。

 私はそれをさっそく実行に移した。まず、国一番の凶悪犯が集まる刑務所――人呼んで「善人しか出られない刑務所」――に銃器を携えて侵入し、乱射。犯罪者たちをできる限り多く殺害する。そして当然、私は大量殺人の咎で逮捕され、刑務所に入れられる。そう、「善人しか出られない刑務所」に。

 しかし、そう、私は善人なのだ。悪人を殺害するという「善」を行う、完全なる善人なのだ。善人王なのだ。だから、「善人-1」でもやすやすと優勝、善人王の座を手にできる。……この計画は、完全に成功した。私はこの六年間の間に数百の犯罪者を殺害したのだ。今回の予選に関しては、わざわざトップクラスの犯罪者を集め、おあつらえ向きに銃まで用意してくれていたから、今年分の計画は特別に凍結させ、グループBの罪人もろとも今ここで殺害しただけだ。目的は常にここだ。見失ってはいけない。

 だが、計画の中で私が善人王となることは、もう一つの意味を持っていた。それは、万一にも刑務所上がりの善人王を誕生させないためだ。悪人は決して更生しない。悪人を社会に出してはならない。

 しかし今回、私は予選で脱落している。ならば今、32名の死体を挟んで相対しているあの犯罪者をどう脱落させるか――こういう時のための秘策は、既に準備してあった。「トロッコ問題」を出題するのだ。


*        *        *


「こ、これは……!? この予選大会、いったい何が起きているのでしょうか、次から次へと、信じられないことです。今上善人王が、囚人番号357番に『トロッコ問題』を出題――っ!」

「『トロッコ問題』……数世紀前、当時の善人王が刺客にこれを出題された時に言った、『これってどっち選んでも悪人みたいにされちゃうじゃんか。結局こういう問題出してくる奴が一番悪い奴なんじゃない?』という言葉を根拠に、明確に法的に出題を禁じられた問題ですが……今上善人王は、囚人番号357番を道連れにしようとしているのでしょうか? 確かに、これが出題された以上、どっちを答えたにしろ嫌な感じになってしまうので、審判の判定によっては地区大会への出場資格を降り消されてしまう可能性があります」

「いや、しかし、それなら答えないとか、その当時の善人王みたいにしてはっきり解答するのを上手く回避すればいいのではないでしょうか」

「それがですよ、彼は今上善人王なんです。獄中に居て独裁権こそ失われているものの、囚人番号で呼ばれることすらない。『善人王』の地位が未だ持続しているのです。これは一年おきの『善人-1』でしか移動しないものですからね。つまり、まだ彼は立場的には『善人王』なのです。そんな彼の質問から逃げるようなことは、『悪』とみなされる可能性が高い。実際、善人王をシカトしたり、善人王の質問に答えなかったりするのは悪であるという判例は、枚挙にいとまがありません」

「では、囚人番号357番は……『詰み』ですか?」

「ええ、奇しくも……『チェックメイト』といえるでしょう」

「……ん、おおっと! 今、『最悪サイコパス』囚人番号357番が、口を開こうとしています!」

「いったい彼は、何を語るのでしょうか」


*        *        *


 レバーを引けば、五人は助けられるが一人殺すことになる。レバーを引かなければ、五人を見殺しにしたことになる。

 あるいは、例えば「臓器くじ」などというのもある。健康な人間の中からランダムに選んだ一人から、その健康な臓器をすべて摘出し、それぞれ必要としている患者に渡す。共通点は、多数の命を救うために少数の命を殺すことになるというところだろう。しかし、例えば一人の方は子供で、五人の方は後期高齢者だったとしたら? 一人の方は有名アーティストで、五人の方は前科のある人たちだったなら? 一人の方はあなたの家族で、五人の方はわたしの家族だったなら?

 まあしかし、わたしの家族を五人、トロッコの線路の上に並べようとも不可能だ。彼らは全員、既にわたしが殺してしまっている。彼らは本当に酷かった。物心ついた時にはわたしは庭の小屋に監禁されていて、二日に一度残飯のようなものがもらえた。父と母は毎日私を殴った。しかし弟と二人の妹はいたって普通に学校に行って、友達と遊んで、勉強していた。なぜ私だけがあんなふうに扱われていたのかは分からない。

 わたしはしぶとく生きた。ある日、父がナイフでわたしを刺そうとした時、わたしは初めて父に反逆し、ナイフを奪って全身をめった刺しにした。あのとき何故あんなことができたのかは分からない。しかし気分が良かったのは確かだった。ナイフで自分の髪を切って、そのまま母をめった刺しにした。まったく同じ要領で、弟と二人の妹もめった刺しにした。

 家から出て、まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、警察をめった刺しにしようとしたら、拳銃で撃たれて、気づいたら小屋よりも快適な知らない場所で寝ていた。

 そこは刑務所というところだった。わたしはここで、ちょうど「囚人番号249番」――「暗記」の彼と同じように、「善」とは素晴らしいものだということに気づいた。「善」について、いろいろ考えた。いい気もちだった。しかし考えれば考えるほど、「善」は色褪せていった。「善」とは何か、分からなくなった。「善」なんて無いのかもしれない、そう思った。

 なにせ、全員を幸せにするような理想的な「善」は、存在しえないらしいのだ。トロッコ問題なんて最たる例だ。あの一分の隙も無くモデル化された命の選択に関われば最後、もうそれは「善」ではなくなってしまう。誰かが幸せになることは、どうしたって誰かが不幸になることと紙一重だ。理想的で完全な「善」は、フィクションの世界の「めでたしめでたし」にしか存在しないのだ。――そこまで考えて、気づいた。なるほど、ならばその「フィクション」を創ればいい。

 こういうわけで、私は小説を書き始めた。どうやって書けばいいのかよく知らなかったが、とりあえず最初に物語に登場する要素を説明した。その後、実況中継風の二人の人物の会話を通じて、数人の犯罪者を登場させた。展開に併せて、彼らの内面を描写した。私は死刑になるらしいから、そういう私が恐ろしく思う考えも書いた。後で使うからだ。そして今、私を投影した人物に、私を代弁してもらっているのだ。

 さて、いよいよ、理想的で完全な「善」を行うことができる。それは、誰にでも等しく受け入れられる、とても善く、素晴らしく、現実にはあり得ないような何かだ。今、わたしは、それを行った。すると、今まで出てきたすべての登場人物が喜んだ。彼らは更生し、善人になったのだ。「今上善人王」さえ、発言を撤回してくれた。「死刑制度はやはり廃止すべきものだった」「あなたはもう更生して、善人になっている」と言っている。

 そこでわたしは、この小説のタイトルを変更することにした。元は「善人しか出てこない刑務所」だったのを、今、「善人しか出てこない話」にした。なぜなら、登場人物は今や完全に更生し、善人としか言いようがない存在になっているからだ。わたしだってそうだ。ここにいるわたしは、現実にはあり得ないような何かによって、もはや善人としか言いようがない存在になっている。

 わたしも早くそこへ行きたい。




解説(利用者:キュアラプラプ


 「いったい何が『善人しか出てこない話』だ」という指摘はもっともだ。しかし、作者・西尾彰は、何故このような奇妙な短篇を獄中にて書き上げ、そして自殺するまでに至ったのだろうか。そこを考えることで、どうしてこれが「善人しか出てこない話」であるのか、真相に近づけるとは思わないだろうか。私としてはだが、おそらくそこには「善人」への強い憧憬と、その自己矛盾性による葛藤があったのだろうと考えている。

 西尾は、端的に言えば、善人になりたかったのだ。死刑を控えるだけの身であった彼は、善人となることで、自身を救いたいと思うようになったのだろう。そして「善」とは何か、突き詰めて考えるにつれ、このような結論に至ったのだ。「完全な善」それそのものと規定されたものを用いて、自分の世界の中で完全に受け入れられる行為をし、それを「完全な善行」として、それを行った自分のアバター、ひいては部分的であれ西尾自身もが「完全な善人」であるとするという考えだ。

 死刑囚という彼の立場から考えると残酷なものでしかない「今上善人王」という登場人物の意見も、後から撤回させ、捻じ曲げ、自分に都合のいいようにするためだけに創られたのだ。つまり、「悪人だったものも善人になれる」「悪人だからって殺してはならない」という自己弁護のためだ。これは、タイトルの変更の意図とも一致する。「悪人が更生して善人になった」という構図を強調するものだ。

 はっきり言って、これは非常に馬鹿馬鹿しい論理だ。西尾の言う「善」は、彼の世界の中で完結した、極めて自己中心的なものに過ぎない。他者との関わりというものの一切が欠如した、完全なる机上の空論であり、「ごっこ遊び」だ。それに、彼は自分の被害者性さえ誇張して書いている。彼が虐待を受けて育ったというのは否定できることではないが、あそこまでの仕打ちを受けていたという事実はないし、西尾は高校を卒業してからは典型的な「ひきこもり」として実家に寄生していた。

 おそらく父がナイフで彼を殺そうとしたというのは真実なのだろうが、全体を通して、あれは西尾にとって都合がいいように改変された、ただのでっちあげのストーリーである。そもそも、数十年間も小屋に閉じ込められ、残飯を食わされていたような人間がいたとして、そいつに大量殺人ができるほどの運動能力など期待できないはずだ。

 しかし、西尾はこの事実――この「馬鹿馬鹿しさ」――をよく分かっていたのだと思う。それを分かったうえで、ある種露悪的に、この「善人しか出てこない話」の中に自身にとってのユートピアを希求したのだ。善人になろうともがげばもがくほど、「善」への希望は壊れ、歪んでいった。その終着点として生まれたのが架空の「善」であっても、もはやその架空性を高尚なものとみなす他なかったのだ。さもなければ、西尾の「善」という宗教は崩壊し、死刑という恐ろしい未来の不安から逃れられなくなる。

 ただそれすらも、彼は壊してしまった。最後の「わたし」は、囚人番号357番ではなく、西尾彰だ。この物語は、最後の最後で「善人しか出てこない話」ではなくなってしまったのだ。これは、西尾自身は彼の世界に完結した存在でないために、登場人物たちのような「善人」ではありえないという意味でもあるし、架空の「善」、架空の「善人しか出てこない話」という理想郷に、自身の憧憬という現実をあてることで、その絶対性のルーツを毀損して「完全な善」を揺るがしてしまったという意味でもある。

 とにかく、もう西尾は、どうしようもないような状況であったのだろう。自身の拠り所であった完全に純粋で美しい「善」の素晴らしさへの希望は、それを求めれば求めるほど形を崩していき、しまいには姿を消してしまった。「フィクションの世界の『めでたしめでたし』」を創ろうとして、結局文章の最後に書かれたのは「めでたしめでたし」ではなく「わたしも早くそこへ行きたい」だ。この苦悩で、彼は自殺を決意したのだろうか。

 あるいは、逆にこう考えることもできる――つまり西尾は、その自殺をもって「完全な善人」になった。先に述べた通り、当然だが西尾自身は彼の世界に完結した存在ではない。彼はその肉体をもって、空間的な広がりを占めている、現実の存在としての側面を持っているからだ。……ならば、その側面を捨ててしまえばいいだけの話なのではないか?

 我々にはそれを知る手段こそ無いが、もしも死後の人間にも我々の言う意識のようなものがあるとするなら、こうして西尾は彼の閉じた世界に還元され、架空的で馬鹿馬鹿しい「完全な善人」に、彼自身が規定したその通りの存在になったといえるだろう。他者との関わりなどあり得ないというような状態の中では、「ごっこ遊び」が否定されるようなことさえまったくあり得ないのだ。

 ――私は、この作品の結末はこっちなのだろうと思う。そもそも「わたし」の侵入によって「善人しか出てこない話」が壊れるとするならば、西尾が執筆の目的として徹頭徹尾持っていた憧憬のために、最初のパラグラフに出てくる「わたし」の時点で、その崩壊、特に「絶対性のルーツの毀損」は発生してしまっているはずだからだ。

 それに、これはこの「解説」の論理性を毀損するような馬鹿げた理由なのだが、この作品は――真なる「善」を狂気的に求めた死刑囚・西尾彰の処女作にして遺作でもあるこの作品は――真に「善人しか出てこない話」であった方が、美しいではないか。

ⒸWikiWiki文庫

二回読むと死ぬ話 一覧
キュアラプラプ
二回読むと死ぬ話 一覧
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 先に言っておくと、実はこれを書いたのは私(利用者:キュアラプラプ)ではありません。気づいたらパソコンのデスクトップに居た「二回読むと死ぬ話 一覧」という知らないテキストファイルを開いてみると、これがそのまま載せられていたのです。不気味に思いましたが、それよりこの謎の文章を共有したいという思いが勝ったので、ここに投稿させていただいた次第です。なお、いずれの話も二回以上読んでみましたが、特に恐ろしいことは起こらなかったので、安心してください。

 ネットサーフィンをしていたら、「たすけて」を表すハンドサインのやり方を見つけた。なんの気なしに試してみたら、警察が来て、有無を言わせず自分をパトカーに乗せ、知らない家に連れていく。知らない夫婦が自分を泣きながら抱きしめ、リビングにあったテレビには誘拐犯だったらしい自分の親が映っている。不思議に思って、もう一度あのハンドサインをしてみたところ、やはり再び同じことが起こった。

 スマホのアラームの音が、いつのまにか知らない人の「へんじをしてください」という声になっている。恐ろしいので、目が覚めてからかれこれ数十分は寝ているフリをしているが、アラームが止まる気配は無い。このままでは埒が明かないと思い、とりあえずスマホの音量をゼロにしてみたところ、知らない人の「おへんじありがとうございます」という声が聞こえてくる。

 朝起きて、顔を洗っていたところ、洗面台の蛇口から水に混じって知らない人の髪の毛が流れてくる。キッチンの蛇口からも、やはり知らない人の髪の毛が出てくる。不気味に思ったら何だか喉が渇いてきて、コップに水を注いだところ、コップの底には知らない人の髪の毛が沈殿している。固唾を飲む。すると、喉に知らない人の髪の毛の感触がある。吐き気を催し、吐く。胃の中から出てきたものは自分の髪の毛だったので安心する。

 洗濯物をベランダに干していて、ふと隅の方に目を向けると、歯のようなものがたくさん落ちていることに気づいた。このことを大家に電話すると、「すぐ処理しに行くから待っていろ」と言われる。チャイムが鳴ったのでドアを開けると、大家は自分には目もくれずベランダに走っていき、その歯のようなものを憎らしげに踏みつけ始める。そこでようやく、自分は大家の顔も電話番号も知らないということに気づく。

 家に帰って「ただいま」と言ったとき、家に誰もいなかったのなら、当然「おかえり」という声は聞こえないはずなので、訝しみながらリビングのドアを開けると、知らない中年の男女が談笑している。中年の女は「ご飯の前にちゃんと手洗いなさい」と言いながら、テーブルに料理を並べている。呆然としていると、中年の男が「おい、どうした、何かあったのか」と聞いてくる。逃げるように自分の部屋に行く。

 覚えもないのに、何故かバスタブに水が溜まっている。とりあえず底のゴム栓を抜いてみたが、水が流れていく気配は無く、かえって水かさが増してきているような気もする。気づけば浴室の扉は開かなくなっている。パニックに陥って辺りを見回していると、知らない隠し扉があることに気づき、そこに入ってみる。すると、今度はその扉が開かなくなって、狭い空間に閉じ込められる。足先に冷たい感触が走り、それが水だということに気づく。後悔してうなだれる。


*        *        *


 そのテキストファイルには、これら七つの文章が載っていました。私が最も恐ろしく思ったのは、やはり最初の、一番目の文章です。まさか本当に死ぬことは無いだろうとは思いますが、これらの文章を二度読むのはやめておいたほうがいいかもしれません。

ⒸWikiWiki文庫

大海を知らない探偵
Notorious(原案:せうゆ
ベラ助が謎めいたマンボウの死に挑む、短編ミステリー。
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 ぼくの頭上を、マンボウがゆうゆうと泳いでいる。平たい体についた短い尾びれをゆらめかせ、おうちの上を通り過ぎていく。


 白い砂の底が広がるあまり深くない海に、ぽつんと位置するあまり大きくないサンゴ礁。それが、ぼくのおうちだ。もちろんぼくだけのおうちではなく、カメ老やハタ蔵といったお年寄りから、スズメダイっちやぼくのような子供まで、いろんな魚が暮らしている。
 ゆったりと泳ぎ去っていくマンボウを、ぼくはおうちの端っこから見送っていた。ぼくは今日、はじめてマンボウを見たのだ。マンボウは、ぼくと全然違う形をしていた。ぼくはあんなに大きくないし、あんなに長いひれを持っていないし、あんなにぼんやりとはしていない。あんな魚がいるなんて、はじめて知った。大海を知らないぼくにとって、マンボウはとても物珍しい生き物だった。だから、飽きもせずにずっと、去っていくマンボウの姿をじっとながめていたのだ。
 マンボウは海面と海底のちょうど真ん中くらいを泳いでいるのだろう。『だろう』というのは、海底は目の前のサンゴに隠され、見えないからだ。いや、見ないようにしている、というのが正しい。あの日からしばらく経ったけど、まだ恐怖心は消えない。
 マンボウの細い後ろ姿が、おうちから結構離れたなと思ったとき、聞きなれた声が後ろからした。
「おーい、ベラ助。こんな隅っこで何してるの?」
 スズメダイっちだった。その鮮やかなブルーの体をひらめかせ、こちらへあっという間に近づいてくる。ぼくは振り返ってすばしこいスズメダイっちに向かい合う。
「マンボウを見ていたんだ」
「ああ、そうだったの。どこどこ?」
「ほら、あそこだよ」
「どれどれ?」
 ぼくとスズメダイっちは、サンゴの隙間から身を乗り出し、並んで向こうを見た。そこには、薄赤く染まった水が漂っているだけだった。このときだけは、海底への恐怖心も忘れ、ぼくは身を乗り出した。
 マンボウが、血を流して沈んでいた。


 ぼくは目に入ってきた光景を理解できなかった。マンボウの体は完全に沈み、力なく海底に横たわっていた。
 驚いて何事か話しかけてくるスズメダイっちの声も、耳に入ってこない。
 マンボウの周りは、血と砂で多少けぶっていたが、それでも視界が完全に遮られるほどではない。おうちの外に広がる空間。そのどこにも、誰の姿もなかった。なかったのだ。
「うわあ、死んじゃったの? ね、見に行こうよ」
 ふとスズメダイっちの声が戻ってきた。
「み、見に行くって」
「だって、気になるじゃん。なんで死んだのか。それに珍しいし。行こうよ」
 スズメダイっちはついさっきまでマンボウが生きていたことを知らない。だからこんなにひどいことを言えるんだ。そう自分に言い聞かせて、込み上げてくる気持ちを抑えつけた。ぼくは物知りだから、ほかの子より大人なんだ。お父さんみたいに。
 そんなぼくの心のうちも知らず、スズメダイっちは言い募った。
「外が怖いのはわかるけど、底から離れて泳げば大丈夫だよ。ちょっと行って帰るだけさ。何かあればすぐに戻ってくればいい」
 臆病だから行くのをしぶっているのだと思われるのは心外だった。お父さんのように、ぼくは勇敢でなければならない。今まで、何かと言い訳をしておうちの外に出ることはしなかった。でも、今こそぼくが勇敢だと示すチャンスじゃないか。
 それに、心の底でうずく、好奇心があった。恐怖と表裏一体の、知りたいという気持ち。マンボウのところに行けば、謎の答えがわかるかもしれない。
 ぼくは、決心した。
「行こう」
「よおし、そうこなくっちゃ」
 ぼくとスズメダイっちは、するりとおうちから外へ出た。


 そばにサンゴがない。どこにも隠れる場所がない。むき出しで大海にいる実感が湧いてきて、怖さがすぐにおそってきた。心臓がばくばくと鳴り、体が震える。なるべく海の底を見ないように、顔をまっすぐに向ける。
 くるりと回れ右をしておうちに帰りたいのをがまんして、泳ぎつづけた。大口を開けた怖い魚が、今にも現れておそってくるんじゃないだろうか。そんな恐怖に駆られて、いつの間にか全力で泳いでいた。早く着いて、早く帰りたい。
「ちょっと、おいてかないでよお」
 十秒ほどしてぼくはマンボウの真上に到着し、スズメダイっちもすぐに追いついた。
 おそるおそる底のマンボウに近づく。マンボウは、その平たい体をペタリと海底に横たえていた。こうして近くで見ると、やはり大きい。カメ老の二倍くらいはあるんじゃないだろうか。しかし、目からは生気が失われており、早くも小さなカニがマンボウの体をつついていた。
 そして、マンボウには頭のところにひどい傷があった。目と目の間の出っ張ったところがえぐれたようになり、血が水中にふわふわと流れ出している。そのほかに目立った傷はないから、これが致命傷だろう。
 ぼくは周りを見渡した。おうちがあんなにも遠くにある。近くに魚影はやはりない。ただ白砂が広がるだけで、身を隠せそうな岩陰などもない。
 震えがよみがえってきた。マンボウをこんなにしたやつは、一体どこにいったのだ? ぼくが目を離したのは、せいぜい五秒。その間に、マンボウの身に何があったのだ?
 茫然としていると、おうちの方角から誰かが近づいてきた。優雅に水を切ってやってきた流線形の影は、アシ香さんだった。光を浴びて輝く飴色の体は、倒れたマンボウを見てぴたりと止まった。
「やだ、何あれ? 死んでるの? 変な魚ねえ」
 アシ香さんはぼくらに目をとめ、話しかけてきた。アシ香さんは毎朝この辺りを通るから、ぼくらとは顔なじみなのだ。
「誰がこいつの頭をかじったのかしら?」
「わ、わかんないです。見てなかったので……」
「ふーん、そう。朝の遊泳でこんなもの見ちゃうなんて、気味が悪いわ。コースを変えようかしら」
 言葉とは裏腹にあまりショックを受けているように見えないのは、大きな体と高い泳力、そして肉食動物という地位からうまれる余裕ゆえだろうか。
 顔見知りだというカメ老に伝えてくると言って、アシ香さんは去っていった。その間際、アシ香さんはぼくらにこう言った。
「こいつは死んで間もないわね。こいつを食ったやつは、まだ近くにいるかもしれないわ。気をつけなよ」
 ぼくらはあわてて辺りを見まわし、次に顔を見合わせ、そしておうちへと全速力で泳いでいった。入れ代わりに、カメ老たちがこっちに泳いでくるところだった。


 二十分ほどして、マンボウの死体を見に行ったカメ老が帰ってきた。ぼくはスズメダイっちと一緒に、カメ老のいつもの居場所にいる。そこはおうちの中心部で、サンゴ礁が凹んで盆地のようになっている。ぐるりを囲むサンゴを越えてきたカメ老は、藻の生えた体を横たえた。ぼくらは早速駆け寄って、話を聞く。でも、カメ老の検分もアシ香さんのそれと大差なかった。ただ、カメ老は一つ付け加えた。
「マンボウの頭を食いちぎるなぞ、できるもんは限られておる。この辺に住んでいるもんで、あんなことができるのは、近くの洞窟におるあやつくらいじゃろう……」
 そこに、甲高い声が割り込んできた。
「カメ老! まさか、シャーくんを疑ってるの⁈」
 振り向くと、コバンザメ子が真っ赤な顔をしてにらんでいた。
「シャーくんはあんなことしません!」
「しかし、彼は獰猛で大食いではないか」
「でも、疑うなんてあたしが許さないわ!」
 彼女は、シャーくんのシンパらしい。
「だがね、考えてみれば、あんなことができる大きな口を持ったものは、彼のほかにいないではないか」
「そんなことない! たとえば、毎朝通りかかるアシ香とか。そういやあいつ、今日は通りかかるのが十分くらい遅かったじゃない。マンボウを殺してたから遅れたんじゃないの?」
「いや、そうではない。彼女が来たときには、もうマンボウは殺されていたそうじゃよ」
「噓ついてるんじゃない?」
「さきほど彼女と会ったんだが、口は綺麗じゃった。血で汚れていなかったから、彼女は殺しておらん」
「じゃあ、気性の荒いハタ蔵はどうよ」
「ハタ蔵の口でさえも、あの傷口と比べると小さすぎる。それに、ハタは噛み切るというより丸呑みにするタイプじゃ。あんな噛み傷を残せるのは、シャーくんくらいのものではないかのお」
 いろんな魚たちが、口ぐちにそうだそうだとはやし立てる。いつの間にか、おうちや辺りに住むみんなが集まっていた。マンボウが惨殺されたことは、みんなにとっても大事件なのだ。どうやら、シャーくんとやらがマンボウ殺害の犯魚だという雰囲気になってきているみたい。でも、コバンザメ子は叫んだ。
「じゃあ聞くけど、誰か、マンボウが殺された頃にシャーくんがこの辺にいるのを見た?」
 沈黙が下りた。コバンザメ子は勝ち誇ったような顔をした。
「仮にシャーくんがマンボウを殺したとして、誰もシャーくんを目撃していないなんてことある? あのシャーくんよ?」
「どうして? 気づかないこともあるんじゃない?」
 スズメダイっちの無邪気な問いに、コバンザメ子は心なしか憐れみのこもったような一瞥をくれた。
「あんたはシャーくんを見たことがないからわからないんでしょうけど、あの方の持つオーラは圧倒的よ。近くを通りかかっただけでも、確実にわかるわ」
 そんなにすごいんだろうか。ぼくはピンとこなかったけど、他のみんなが一様に口をつぐんでしまったことからして、どうやらコバンザメ子の言うことは事実らしい。
「シャーくんのいる洞窟は、このサンゴ礁をはさんで殺害現場の反対側よ? つまり、シャーくんがマンボウを殺したのなら、ここの近くを通ったってこと。なのに、サンゴ礁のあちこちにいたあんたらの誰も気づかないなんてありえない」
「ここから離れたところを通ったかもしれないじゃないか」
 誰かの意見にも、コバンザメ子は動じない。
「離れるといっても高が知れているわ。このサンゴ礁の外にも、魚はたくさんいた。そうでしょ?」
 反論した魚はずばりおうちの外に住んでいるようで、言葉に詰まったようだった。
「だからやっぱり、シャーくんが誰にも目撃されないなんてあり得ない。つまり、シャーくんはマンボウを殺してはいないのよ」
 コバンザメ子は意気揚々と言い放った。


 しばらく誰も何も言わなかった。だから、ぼくは見たことを正直にみんなに伝えることにした。
「あの、カメ老。実はぼく、殺される直前のマンボウを見ていたんだ」
「何? ならば、犯魚は見たのか?」
「それが……不思議なことに、ぼくが目を離した五秒くらいの間に、殺されたみたいで……」
 それからぼくは、見たことを素直に話した。周りに誰もいなかったこと、スズメダイっちに呼ばれて少しだけ振り返ったこと、それなのにマンボウが殺されたこと……。周りのみんながぼくの話に耳を傾けていた。
 ぼくが全てを話し終えると、カメ老はうなった。
「たった五秒であの距離を往復するのは難しい。サンゴ礁から現場に行ってまた帰ってくるまで、バショウカジキでも五秒では厳しいだろうな。砂に潜るというのも、砂の中に住むような薄っぺらい魚には、あれだけの傷を負わせることはできない。それなのになぜ……」
 これでは、マンボウを殺せた魚が誰もいないということになってしまう。みんなもそう考えたようで、口ぐちに問いただしてくる。
「おいベラ助、今の話は噓じゃねえんだな?」
「何か見落としたんじゃないのか?」
「透明な魚がいるわけもないし……」
 ぼくは頑張ってみんなの疑念を否定していった。スズメダイっちも加勢してくれる。
 そのとき、大柄なタイ太郎が、はっとして叫んだ。
「ベラ助、ひょっとして、海底は見てなかったんじゃねえか?」
 場が水を打ったように静まった。物問いたげなみんなの視線がぼくに突き刺さる。ぼくは言い返せなかった。図星だったから。
 ぼくが黙ってうなずくと、タイ太郎は得意げに言い放った。
「やっぱりな。ということは、シャーの野郎が海底ギリギリにひそんでいて、五秒のうちに一気にマンボウに襲いかかったんだ。そしてすぐにまた潜る。息を殺して海底を潜航し、家に戻ったんだ! ここの誰にも見られなかったのも、そうしていたからに決まってる」
 コバンザメ子が「そんなんでシャーくんの巨体が隠れるわけないじゃない」とぼやくが、熱狂した魚たちの耳には入らない。あがるみんなの歓声を押しとどめたのは、スズメダイっちだった。
「待って。それはありえないよ。だって、五秒が経ったあと、ぼくも身を乗り出してマンボウの方を見たんだから。当然、底にシャーくんがいたら気づいたはずさ。つまり、シャーくんが隠れることはできなかった」
「そうだった。ぼくも、そのときだけは海底を見たよ。一尾も魚はいなかった」
「何……?」
 スズメダイっちは自信満々にうなずいてみせ、タイ太郎はいぶかしげな顔をする。
「なら……そうだ! あいつはマンボウの死体の下に隠れたんだ!」
「マンボウの死体は平たく海底に横たわってた。大きな体のシャーくんに、そんなことはできないよ。それにさ」
 スズメダイっちが反撃にでた。
犯魚はベラ助が見ていることを知らないだろう? 遠くのサンゴ礁から一匹の小魚がこっちを見ているなんて、誰が思うもんか。だから、誰が犯魚だろうと、ベラ助から身を隠そうと海底ギリギリを進むなんてことするはずがないんだよ。それにそもそも、なんで隠れようと思うのさ? たとえここらの魚の全員から見られていようと、堂々とマンボウを食えばよかったんだ。強いものが弱いものを食べる。それが世界のルールだろ? シャーくんがやったのなら、なぜそうしなかったのさ?」
 タイ太郎は押し黙った。スズメダイっちの指摘は、シャーくんに限らず、どんな魚にも当てはまるものだった。これでは不可能状況に輪がかかるだけだ。重い雰囲気が立ちこめ、ただスズメダイっちだけが誇らしげに胸を張っていた。
 シャーくん犯魚説が論破されて、いい気分をくじかれたみんなは、三々五々去っていった。ブツブツと何かつぶやきながら、おうちの内外へ戻っていく。「どうせくだらない見間違いだろ」「気を引くために噓をついてるんじゃない?」「大人をばかにしやがって」
 ぼくは目を合わせないまま、スズメダイっちにお礼を言った。
「何言ってるのさ。当然のことをしたまでだよ」
 スズメダイっちはあっけらかんと笑った。


「なあベラ助」
 声をかけてきたのは、意外にもタイ太郎だった。もうここには、ぼくらふたりとカメ老、そしてタイ太郎だけしか残っていなかった。
「お前は、シャーの野郎に会ったことがあるか?」
 神妙な表情をしているタイ太郎に、ぼくは黙って首を横にふる。
「俺は、見たことがある。あいつは怖ろしいやつだ。オーラが違う。海の全ての生き物の頂点に立つような、圧倒的な捕食者だ」
 比較的大きな肉食魚であるタイ太郎がここまで言うのだから、ぼくから見ればどんなに怖いだろう。タイ太郎はさらに言葉を継いだ。
「だが、それだけじゃない。あいつはとんでもなく意地悪で狡猾なやつだ。だから、その……なんといえばいいか……」
 少し口ごもったあとで、彼はこう言った。
「さっきお前らが言ったような疑問の答え、それは俺には見当もつかない。頭を働かせれば、あいつがマンボウを殺すことはできないはずなのはわかる。でも……一度あいつを見れば、マンボウを殺したのはあいつだろうって、そう思うだろうよ。言いたいのは、それだけだ」
 タイ太郎はくるりと背を向けて、どこかへ去っていった。
 しばらく沈黙がおり、スズメダイっちがカメ老に問いかけた。
「シャーくんって、そんなに怖いの?」
「怖いと思うかはそれぞれじゃが……生態系の頂点というのは間違いないじゃろうな」
「カメ老も食べられるかもしれない?」
「あやつは図体が大きい。お前さんのような小魚よりもむしろ、わしくらいの大きさのもんがいい獲物じゃろうな」
 大きくて固い甲羅をもつカメ老でさえ捕食対象だという事実に、ぼくらは黙って身を震わせた。


 だから、スズメダイっちが「シャーくんに会いに行こう」と言い出したときは、大いにうろたえた。ぼくらはカメ老の居場所を辞し、おうちの中の定位置に帰ろうとしていた。そのとき突然、スズメダイっちがそんな提案をしたのだった。
「なんでまた」
「だって、タイ太郎が『会ってみろ』って言ってたじゃないか」
「言ってたっけ?」
「言ってたさ。カメ老も、ぼくらみたいな小魚は狙われないって教えてくれたし、大丈夫だよ」
「でも……」
「ちょっと姿を見るだけでいいから」
 ぼくはスズメダイっちに、臆病だと思われるのが怖かった。だから、結局ぼくはうなずいた。そんなところが臆病なのかもしれない。
 ぼくらはうわさに聞いた、シャーくんの住む洞窟へ向かった。おうちを出て、広い海をふたりきりで泳ぐ。海底への恐怖心は残っていたが、でもだいぶ落ち着いてきた。朝、マンボウのところへ行って帰ってこられたのが、効いているのかもしれない。
 しばらく行くと、白砂の海底が唐突に途切れ、黒々とした大きな岩壁がそそり立っている場所に行き当たった。シャーくんが恐れられているしるしに、周囲に魚影は見当たらない。海面近くまでそびえる壁は横にも長く広がり、ぼくらの行き手を阻んでいる。視線をめぐらせると、右の方に大きな洞穴が一つ、口を開けているのが見えた。あれが洞窟だ。
 ぼくらは顔を見合わせ、洞穴に向かおうとしたそのときだった。
 ぬっと何かが中から出てきた。ぼくらはとっさに動きを止めた。いや、動けなくなってしまったのだ。
 大きい。体長はあのマンボウをも遥かにしのぐ。その全貌が徐々にあらわになっていく。漆黒に輝く滑らかな肌と水の抵抗を極限まで下げる洗練された流線形の胴体は、強烈な威容を放っている。それに加え、ぴんと高い背びれが威厳すら伝えてくる。そして、大きな口からは無数の牙が覗いている。肉食動物のしるしにほかならぬそれの、あまりの凶悪さに、ぼくらは息を止めた。
 体がガタガタと震え、金縛りにあったように言うことを聞かない。圧倒的なオーラがビリビリとぼくの体を打っている。巨大な影が、ゆっくりとこちらを向く。そして、ニヤリと笑った。口の端からこぼれた鋭い牙は、それに全身を切り裂かれ噛みちぎられるぼくの最期を一瞬で想起させた。
 逃げなくては。切実な命の危機を、あらゆる場所が訴えている。しかし、圧倒的な恐怖がぼくの体を釘付けにしていた。
 心臓がどきんどきんと打つ音がやけに大きくゆっくりと聞こえ、背筋が氷になったかのように冷たい。あらゆる筋肉が凝縮し、動けぬままに目の前の脅威を見つめている。
 目の前のシャーくんが、体を大きくしならせた。尾びれが振り下ろされ、海底の砂が波動に叩かれて舞い上がり、巨大で邪悪な魚影が急接近してくる。
 気づいたときには、ぼくは脇目もふらずに逃げ出していた。


 息を切らせておうちにたどり着いた。どうやらシャーくんはぼくらを追いかけてこなかったようだ。彼にぼくらを食う気があったら、確実にぼくは今頃シャーくんの胃袋の中でミンチとなっている。
 怖がらせたかったのだ。あのときシャーくんが浮かべた笑み。「意地悪で狡猾」というタイ太郎の言葉が思い出される。
 ぼくとスズメダイっちは言葉も交わさずに別れた。シャーくんの圧倒的な威容に、打ちのめされたのだ。
 でも──。
 タイ太郎の言っていた通りになった。今のぼくには、シャーくんがマンボウを食ったようにしか思えない。理性を飛び越えた、本能のようなものだった。あいつならやれた。食べるでもないマンボウを、殺すなんてことを。
 ぼくらは生きるために、いろんな魚を食い、また食われる。だが、食べるためでなく他者を殺すなんてことはしない。なのになぜマンボウは殺されたのか。それがずっと謎だった。でも、シャーくんがやったなら、わかる。
 遊びだったのだ。弱者をいたぶり殺す、それが目的だったのだろう。シャーくんなら、やる。被食者の本能が、そう告げている。ぼくは、シャーくんがマンボウを殺したことをもはや確信していた。
 しかし、方法がわからないことも事実だった。シャーくんを見て思い知ったことは、もう一つある。コバンザメ子が言うように、シャーくんが近くを通っているのにぼくらが気づかないなんてことはあり得ないのだ。あの威容は、簡単には隠せない。それに、いくらシャーくんの泳ぐスピードが速いといっても、五秒のうちにあの場を離脱することはやはり不可能だ。それに、シャーくんは大きい。あの巨体では、砂に潜ることはおろか、ぼくから隠れて海底を潜航することも厳しいだろう。スズメダイっちが呈した疑問も残っている。
 ぼくは、考えてみることにした。ほんとうにシャーくんに犯行は不可能だったのか。狡猾なシャーくんが、何かのトリックと何かの狙いのもとに、マンボウを殺したのではないか。
 近くのサンゴに寄りかかり、目をつぶる。しばらく黙考したが、だんだんと考えがあちこちへ散っていってしまう。気づけば、昔のことを振り返っていた。
 ぼくのお父さんは、勇敢だった。若いときから大海に出て、いろんなものを見聞きしてきたらしい。幼いぼくはお父さんからいろんな話を聞いた。そのおかげで、ぼくはいくらか物知りになった。ぼくが大海に出たいと思うようになったのは、当然のなりゆきだろう。
 ぼくが少し大きくなったとき、お父さんはぼくをおうちの外に連れ出すことにした。ぼくは大喜びで、おうちを初めて出た。海底に潜んでいたコチが前を泳いでいたお父さんを一瞬で呑み込んだのは、おうちを出てからさほど経っていなかったときだったと思う。コチは口からお父さんの尾びれをはみださせ、こっちを見た。気づけば、ぼくはおうちでひとり震えていた。
 それから、おうちの外と海の底が怖くなった。周りからはさんざん臆病者とそしられた。今日がおうちから出た二回目だった。その途端、これだ。
 なぜか、この事件が、ぼくに与えられた試練のように思えてきた。ぼくが大海を知るための、通過儀礼。この事件を乗り越えなければ大海にでてはならないというのなら、ぼくはきっと越えてみせる。お父さんみたいに、勇敢になるために。
 ぼくは事件の様相を整理してみた。
 マンボウが殺された。傷は大きく、残せたのはシャーくんくらいしかいないように思える。でも、シャーくんがおうちの魚たちに目撃されずに現場に行けたようには思えない。逆に、シャーくん以外の魚なら、おうちのみんなに怪しまれずに現場まで行けたが、あんなに大きな傷を残せない。この時点で、もう誰にも犯行は不可能なのだ。
 しかし、加えてぼくの目撃証言。五秒の間にぼくの視界から出ていくことはできないはずだ。シャーくんが犯魚なら、この第二の密室も立ち塞がる。砂に潜る魚なら問題にならないが、それでもやっぱり傷の問題が残っている。
 それに加え、スズメダイっちが呈した疑問の数々。食べるでもないマンボウを殺し、ぼくやみんなの目を逃れたのはなぜなのか。
 やっぱり謎は山積みだ。でも、実際に起こった以上、これらの謎をクリアする答えがあるはずだ。
 ぼくはサンゴにもたれかかり、考えはじめた。じっと集中して謎の答えを探す。海は静かにたゆたっていて、広い広い大海につながっている。何時間か経ったとき、ふと自分が海と一体化したように感じた。雄大な大海の一部となり、どこか大きな視点とつながる。そのとき、事件がまったく違うように見え、光が射した。


 海面からさす光は、少し暗くなっている。ぼくは一つの結論を出した。それをぶつけるために、ぼくは洞窟へと向かっている。スズメダイっちにも誰にも告げずに出てきた。だから、初めてひとりきりでおうちの外に出たことになる。
 まとめた考えを反芻していると、いつの間にか洞窟に着いていた。何度か深呼吸して、意を決する。
「シャーくん、話したいことがあるんだ。出てきてくれない?」
 少し間を空けて、くぐもった声が聞こえてきた。微かに笑いを含んだような声。
「お前が入ってこい」
 暗闇がぽっかりと口を開けている。ぼくは体の震えを押さえ、そろそろと洞窟の中へと入っていった。
 幅広い穴がまっすぐ伸びている。シャーくんからすれば、あまり広くはないのだろうが。入り口から遠ざかるにしたがって、だんだんと暗くなっていく。前方で、道が大きな空間につながっていた。その空間に入ると、一気に視界が開け、周囲は明るくなった。天井に小さな穴があり、そこから光が降ってきている。向かい側には、今通ってきたところと同じような穴が空いていた。この大きな空間を、水平に伸びる細い穴が前後に貫いている形だ。
 そして、中央には、シャーくんが口に笑いをたたえながら、ぼくを見つめていた。愚かな獲物を見るようなその視線に、思わず身震いする。
 するとシャーくんは白い牙をこぼした。
「安心しろ。取って食ったりしねえから。気分が変わらねえ限り、だが」
 ぼくはぞっとしたが、それを顔に出すまいとして言った。
「今日、マンボウが殺されたのは知ってるよね?」
「ああ、コバンザメから仔細は聞いたぜ」
 一つ息を吸い、ぼくは言葉をぶつけた。
「聞く前から知ってたでしょ? 君がマンボウを殺したんだから」
「ほう?」
 シャーくんはニヤリと笑った。上からの細い光に照らされ、おぞましい表情が浮かぶ。
「聞いたところによると、マンボウを殺すことは誰にもできなかったらしいが?」
「それが、そうでもないんだ」
 ぼくは考えたトリックを語る。
「確かに五秒でサンゴ礁まで往復するのは無理だ。戻ることさえできない。ぼくらの視界の外まで泳ぎ去るのもね。でも、マンボウのすぐ近くに隠れることは、五秒でできたんだ」
「そんな隠れ場所はなかったと聞いたぞ? 一つの岩すらなかったらしいじゃねえか」
「誰も気づかず、誰も探さなかった場所が一箇所だけあるんだ」
「どこだ、そりゃ?」
 ぼくはシャーくんの目を見据えて言い切った。
マンボウの下だよ」
 心なしか、シャーくんが笑みを深めた気がした。
「死体は平たく落ちてたんじゃねえのか? もしや俺が砂に潜ったとでも?」
「そうじゃない」
 そのまま一気に言葉を継ぐ。
「マンボウの下には、窪みがあったんだ。シャーくんが潜めるほどの大きな窪みがね。そして、窪みの入り口はマンボウより小さかった。だから、マンボウの死体は窪みを覆い隠したんだ。シャーくんの体長はマンボウより大きいけど、縦になればマンボウに隠れられるはずだ」
 シャーくんに動揺は見られなかった。彼はゆっくりと壁に沿って泳ぎ、ぼくは無意識に彼の反対側にいるように移動していた。
「最初から君はこの窪みに潜んでいた。マンボウがくる前からずっと。そして、マンボウが真上にきたとき、偶然にもぼくが目を離したとき、窪みから躍り出てマンボウの頭を食いちぎったんだ」
「そんな大きな窪みがあったら、みんな気づくんじゃないか?」
「ぼくは海底を見てなかった。視界から隠してたんだ。だから気づかなかった。スズメダイっちがきたときには、窪みはマンボウに覆い隠されていた。それからも、みんなマンボウの下にだけ大穴があるなんて夢にも思わないから、気づかれなかったんだ」
「なるほどなあ……」
 不敵な笑みを浮かべたシャーくんが、問いかけてくる。
「もしも、だ。もしも俺がそうやってマンボウを殺したのだとしたら、どうしてそんなことをしたんだ? ほかのやつらから隠れる必要なんてない。さっさとマンボウに正面からおそいかかって終わりだ。そうだろ?」
 スズメダイっちの呈した疑問。ぼくは、それの答えも見つけている。
「その前に、君がマンボウを殺した動機を言うね。初めはただの遊びだとも思ったんだけど、違う」
 一息つくと、ぼくはまっすぐシャーくんを見据えた。
「君がマンボウを殺したのは、間違えたからだ。本当のターゲットはアシ香さんだった。そうでしょ?」
 シャーくんは、依然ニヤニヤ笑いを崩さない。


「あそこは、アシ香さんの毎朝の遊泳コースだった。だから、君はアシ香さんを待ち伏せしていたんだ。でも、君は間違えた。上を通ったマンボウの大きな魚影を、アシ香さんと勘違いしておそってしまった。君はすぐにミスに気づき、また窪みに隠れた。みんなから隠れたんじゃない。アシ香さんから隠れたんだ。待ち伏せに気づかれないために
 シャーくんは平然と泳いでいる。ぼくは何か大きな勘違いをしているのだろうかと不安になるが、当たっているはずだと勇気を奮い起こす。
「マンボウの死体で窪みを覆ったのも、アシ香さんに気づかれないためだ。でも、やがて到着したアシ香さんは、マンボウに近づかなかった。近づいていたら、君は躍り出てアシ香さんをおそっていただろうね」
「なら、去っていくアシカを追わなかったのはなぜだ?」
 久しぶりにシャーくんが口を開いた。
「アシ香さんは泳ぐのが速い。今おそっても逃げられると判断したんだ。そしてそのまま、ぼくらがマンボウの死体を調べている間、君は窪みに潜み続けた」
「それもなぜだ? お前らがいるからといって、隠れなければならない理由はない」
「いや、ある。アシ香さんの遊泳コースを変えさせないためだよ。あのときの会話を、君も聞いていたはずだ。もし君が窪みで待ち伏せしていたことをぼくらに知られたら、その情報はアシ香さんまで伝わってしまうだろうね。すると、アシ香さんは当然だけど警戒する。あの窪みには絶対に近づかないようにするだろうね。すると、せっかくの作戦が使えなくなってしまう。だから、誰にもバレないように、隠れ続けたんだ。辺りに誰もいなくなってから、君はそっと脱出した。こうすることで、第二の密室もクリアできる」
「第二の密室?」
「おうちのみんなの目のこと。君はカメ老が現場を離れるまで、辛抱強く待ってから現場を離れた。だから、おうちの誰にも目撃されなかった。だってその頃、みんなはカメ老のもとに集まっていたんだから」
 カメ老の居場所は窪んでいるから、外は見えない。ぼくらが目撃証言をつのっているまさにそのとき、シャーくんは悠々と横を泳いでいたのだ。
「そうやって密室を破ったあと、君は何食わぬ顔でぼくらと会ったってわけ」
 そこでぼくはふと気づき、あわてて言い足した。
「あ、ぼくを今食べても無駄だよ? この考えは、ここにくる前にカメ老に伝えておいたから」
 噓だ。でも、この考えをぼくしか持っていないと思われると、アシ香さんの待ち伏せを有効にするために、ぼくの口を封じようとされるかもしれない。
 シャーくんはふんと笑っただけだった。
 ぼくはまとめにかかる。
「こうして君はマンボウを殺したんだ。そうでしょ? シャーくん」
 洞窟を静寂が満たした。ぼくは空間の反対端にいるシャーくんを見た。シャーくんはすっと視線をあげ、ぼくを見た。
「残念だがな、お前の説は成り立たない


「なっ……そんなこと」
 またニヤリと笑って、シャーくんは歯の浮くような優しい口調で言う。
「お前の説では、俺はマンボウを殺したあと、窪みに潜んでいたことになっているな」
「うん」
俺が窪みに潜んでいた時間はどのくらいだ?」
「……え?」
 マンボウがくる前から潜んでいた。それからマンボウを殺して、また隠れて、それからは辺りに誰もいなくなるまで。それっていつだ? ぼくらがおうちに戻るとき、入れ替わりにカメ老がきた。そのとき逃げていたらカメ老に見つかっていたはずだから、まだ潜んでいる。そして、カメ老が現場の検分を終えて戻ってきたのは、二十分後。
「……マンボウを殺すときを除けば、最低でも二十五分くらい」
「な? 無理じゃねえか」
 ぽかんとするぼくを見て、シャーくんも固まり、少ししてはっとした顔をし、そして大笑いし始めた。ぼくは彼の笑いが理解できない。
「何がおかしいんだ? ぼくらが君と会ったのは、カメ老の検分が終わったしばらくあとだから、アリバイも成立しない。犯行は可能だったはず……」
 なおもシャーくんは笑い続ける。ひとしきり笑い転げたあと、ようやくシャーくんはぼくを見た。
「お前、ほんとに何も知らねえんだなあ。ハハハ、こんなに笑ったの久しぶりだぜ」
 呆然としているぼくに、哀れみと軽侮のこもった視線を向けて、シャーくんは言い放った。


俺はシャチだぞ?」


「それがどうしたんだよ」
 今更何を言っているのだ?
「おっと、知ってたか。ひょっとしてサメか何かと勘違いしてるんじゃないかと思ってな」
「そんな勘違いするわけないだろ? 体の模様が全然違うし、肌もサメと違って滑らかだし尾びれも横向きだし
「おいおい、ならなおさら笑えるぜ。教えてやるよ、お魚さんよお」
 シャーくんは満面の笑みを浮かべた。
「シャチってのは、肺呼吸なんだ。水中じゃ息ができない」
「えっ」
 水中で息ができない? そんな馬鹿な。
「やっぱり、知らなかったのか。海の生き物はみんな魚だと思ってたのか?」
「噓だ……水の中で息ができないなんて、そんなわけない! ならどうやって生きてるんだよ!」
「海面の上で息を吸うのさ。それまでずっと息を止めてるのさ。俺たちシャチは十五分くらいしか潜れないから、犯行は不可能なんだよ。ちなみに、お前がくる直前に息継ぎしてきたから、今はもうしばらく大丈夫だぜ」
 確かにカメ老やアシ香さんが海の外で息をしているのを見たことはある。しかし、魚にしか見えないシャーくんも同じだなんて、そんなことがあるのか? だが、シャーくんは噓をついているようには見えなかった。知らないのはぼくくらいだったのか? 大海を知らないぼくだけが。ぼくの心を見透かしたようにシャーくんは嘲る。
「お前の推理なんて、大海を知らない雑魚のたわごとに過ぎないんだよ」
 ありえない。マンボウを殺せたのは、あんな殺し方ができるのは、シャーくんだけだ。
「水中で息ができないなんて、やっぱり噓だ」
「じゃあ、俺の体のどこにエラがあるってんだ?」
 はっとした。シャーくんの、滑らかな流線形の体を見つめる。ない。そんなばかな。
「そんな……ぼくは……ぼくは物知りなんだ……。だって、お父さんはとっても物知りなんだ。大海を旅した、勇敢な魚なんだ……」
「そのことなんだがな」
 シャーくんはさもおかしそうに笑った。
「お前の父親はとんだ噓つきだぜ」
「は?」
「だって、ここは大海なんかじゃない。水族館なんだからな」


 水族館。お父さんに聞いたことがある。海の外にいる動物が管理する、小さい小さい偽の海。ここが、そうだって?
「ありえない」
 考える前に、否定の言葉があふれ出した。
「だって、こんなにもここは広いじゃないか。ずっとずっと、見えなくなるまで」
「お前は、そんなに遠いところまで行ったことがあるのか?」
「……いや、ないけど、でも、見えるじゃないか」
「ほんとうに見えているのか? 見えているとお前が思い込んでいるだけじゃないのか?」
 なおもシャーくんは言い募る。
「お前は父親に大海の話を聞かされて育ったらしいな。父親は、大海原を旅したことを誇りに思っていた。だから、人間に捕まったことを恥じていただろうな。だから、ここは海だと息子に言い聞かせた。水族館で生まれた息子は、そこが海だと露ほども疑わずに育っていく……」
 そんなことあるわけない。耳をふさぎたかったが、シャーくんの言葉は無理やりぼくの脳に入ってくる。
「ここは海じゃなくて、水族館なんだ。そう考えると、マンボウの死の真相もわかる。マンボウは水槽の壁にぶつかって死んだんだ。五秒で往復できなくて当然さ。あいつは、あそこにあった透明な壁にぶつかって、頭を潰して死んだだけなんだから」
「壁なんてなかった」
「透明なんだから、壁自体は当然見えないさ」
「でも、向こうには変わらず海が広がってた!」
 シャーくんは気の毒そうな顔をする。
「それはお前の脳が誤魔化してるんだよ。ずっと受けてきた親父の洗脳が、壁の向こうの景色を認識するのを阻害してるんだ。たかが小魚の脳だぞ。信頼できるわけないじゃないか。第一、俺には壁の奥が見えるぞ。この辺も、この洞窟から左に少し行けば水槽は終わってる」
 そんなことが、ぼくの頭が真実を歪めているなんてことが、ほんとうにあるのか?
「思い出してみろよ。お前の言う第二の密室が、サンゴ礁の面々で議論されたときを。俺がサンゴ礁の遠くを通った可能性を、コバンザメ子は『サンゴ礁の外にも魚が大勢いたのに、誰も目撃していない』と言って否定したな。みんな納得してただろう? 海は広いんだから、あのサンゴ礁からずっと遠くを通ったっていいのに、誰もそう言わなかった」
「それは、わざわざ遠回りする必要なんてないから……」
「違う。サンゴ礁から離れることができないほど、この世界が狭いからだ。ここが水族館だと、みんな知ってるんだよ」
 何よりだ、とシャーくんは言った。
「何より、俺は海からここに連れてこられたんだ。でかい網に引っ掛けられてな。ここは海じゃなくて、水族館なんだ」
 ぼくの心の中に、絶望が満ちていく。
 なら、ぼくがいるこの世界は、とんでもなくちっぽけなものなのか。そんな世界で、ぼくは怖がっていたのか。あのとき得た、大海とつながる感覚は、まったくの幻想なのか。こんな小さな世界で、お父さんは死んだのか。
「こんな小さな世界で、ぼくは死ぬの……?」
「ああ、そうさ。お前は大海の百兆分の一にも満たない小さな水槽の中で、広さに怖がりながら死ぬのさ」
 ぼくの内側で、何かが壊れる音がした。


「違う!」
 ぼくは気づくと叫んでいた。
君は噓をついているんだ! ここは水族館なんかじゃない!」
「おいおい、どうして俺がそんな噓をつくってんだよ」
「ぼくを痛めつけたいからだ。それか、なぶって遊んでるんだ。そうだ、君は噓をついてる!」
 ここが水族館だなんて、そんなわけがない。ぼくは必死に頭を働かせる。
「まず、ここが水族館なら、シャチが普通の魚と一緒の水槽にいるはずなんてない! 魚が危険だから、シャチとかは専用のプールに住むものだ」
「そうか?」
 シャーくんはニヤリと笑った。
「斬新な展示をしている水族館かもしれないじゃないか」
「それだけじゃない。マンボウの死体が処理されないのもおかしい。もし水族館なら、大型生物の死体なんて放置するわけない」
「お前が最後に死体を見たのはしばらく前だろう? とっくの前に処理されただろうよ」
「それにしても遅すぎるよ」
「今日はたまたま休館日で、急がなくてよかったのかもしれん」
 止まったら不安に呑まれそうな気がして、必死に口を動かす。
「ここが水族館なんてこと、ありえないよ」
「なぜだ?」
 間髪をいれず、ぼくは宣言する。
「マンボウが壁にぶつかって死ぬなんてことは、ない」
 シャーくんの表情はやはり変わらない。
「マンボウがあのとき、壁にぶつかって頭が潰れるほどのスピードを出していたようには見えなかった」
 ぼくはゆったりと泳ぐマンボウの姿を思い出した。それに、そんなスピードを出せるほどマンボウは泳ぎがうまかったようには思えない。
 いつの間にか、最初の位置と反転し、シャーくんは入り口の前に、ぼくはもう一本の穴の前にいた。シャーくんはニヤニヤ笑いを崩さない。
「遠くから見ただけなんだ。速度は正確にわからないだろ? それに、マンボウが壁にぶつかって死ぬことは絶対にありえないと証明されたわけじゃない。何より、あのマンボウは壁にぶつかって死んだとしか考えられないじゃないか。俺には犯行が不可能だし俺以外にも犯行は不可能なんだからそれがここが水族館である証拠だよ」
 ぼくの頭は、一つの可能性を思い描いた。
「シャーくん、君がマンボウを殺す方法はまだ残ってる」
「……ほう?」
「マンボウの下にあるのは、窪みじゃなくて洞穴だったんだ。その洞穴はずっと伸びて、どこか遠くに繋がってる。そうだとすれば、マンボウを殺したあと、君は洞穴を通り抜けて、海面まで息継ぎに行ける。こうすれば第二の密室も掻い潜れる。海底の下のトンネルを通ったんだから、見られることなんてない」
「俺が水中で活動できる時間は短い。ここら一帯の外まで続くような長いトンネルじゃあ、息が続かなくなる恐れがあるから、俺は使えないぞ」
「トンネルに入って、事件現場に行って、マンボウを殺して、またトンネルを抜ける。息が続くのが十五分なら片道に七分半使える。それだけあれば、ずっと遠くまで行けるはずだよ」
「そうじゃないんだ」
 シャーくんは唇を歪めた。
「仮に俺があのアシカを待ち伏せていたとする。それなら、俺はアシカの通る時間めがけて現場に到着するだろう。念の為に数分前に来るかもな。だが今日、アシカは少し遅れて来た。そのぶん長く穴に潜んでいないといけないんだ。帰りにかけられる時間は少ない。片道七分もかけてたら、途中で酸欠になっちまう」
 確かにそうだ。周到なシャーくんなら、どんなに遅くとも、アシ香さんの通過予定時間には現場にいたはずだ。でもアシ香さんが遅れたぶん、十分はそこにとどまらないといけない。残された五分でトンネルを往復しないといけないから、トンネルは二分半で抜けなきゃならない。これじゃあ、おうちからそう遠く離れられない。
 でも、まだ諦めない。
「なら、トンネルの出口は近くにあるんだ」
「それなら、ここらへんの魚たちに目撃されちまうだろうが」
「いや、そうとも限らない。一箇所だけ、目撃されずに済む場所がある」
 シャーくんは怪訝な顔をした。これが本心なのか演技なのか、ぼくには判別がつかない。
この洞窟だ。この辺りに魚は寄りつかない。それにたとえ見られても、君の住む家なんだから君が出てきても不審には思われない。この洞窟が事件現場まで繋がってたら、犯行が可能になる。ぼくの後ろのこの穴を進めばマンボウの下にたどり着くんだ!」
 ぼくは推理を語り終えた。息が荒れている。
 やはり、ここが水族館の中だなんてありえない。マンボウは、シャーくんが殺したんだ。


 そのとき、シャーくんがぼくを見据えた。ぼくはゾッとした。その顔が、今までで一番邪悪なものだったからだ。忘れていた恐怖がよみがえり、体が震えだす。
「なら、賭けてみようじゃねえか」
「……え?」
「お前の推理が正しいなら、そこの穴はマンボウのところまで繋がってる。一方、俺はそこが行き止まりだと知ってる。つまり、そこを行ってみれば、どっちの説が正解なのかがわかるってことだ。だから、試してみようじゃねえか」
 その牙を剥き出しにし、彼は嗤う。
「今から俺は、お前を殺す。こっちの入り口か天井の隙間に逃げようとしたら、簡単に追いついて殺せる。お前はそこの穴に逃げ込むしかできねえよなあ?」
 背筋が凍った。いつの間にか、この洞穴を背にするよう、追い込まれていたのか。
「さあ、逃げろよ。お前が信じるところによれば、外までその道は続いてるんだよなあ?」
 大丈夫、ぼくの考えは間違ってない。ここが水族館なら、不自然な点が多すぎる。ぼくの推理しか、成り立たない。だから、この穴は外に繋がってる。行き止まりなんかじゃない。ここは、大海なんだ。そうに決まってる。
「じゃあ、スタートだ」
 ぼくは身を翻して、真っ暗な穴に飛び込んだ。シャチの強靭な尾が生み出す強烈な波動に揉まれながら、ぼくは暗闇の奥へと突き進んでいった。

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アクニンシカデテコナイハナシ
Notorious
悪人しか出てこない話?
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「おい、見ろよ!」と一郎がタイトルを指して叫んだ。「『悪人しか出てこない話』だってよ!」


 兄弟たちは動揺した。
 二郎は「マジか」と呟き、三郎は「じゃあ、俺たちみんな悪いやつってこと?」と戸惑い、四郎は「そうだろう。何せ作者の意向には逆らえないからな」と言い、五郎は「えー、せっかくならヒーローとかになりたかったなあ」とこぼした。
 そこで、六郎は気づいた。「ねえ、僕たちが持ってるこれ……銃だよね」
 兄弟たちは慌てて手元を見下ろし、自分が自動小銃を持っていることに気づいた。
「ここ、飛行機の中じゃん」七郎は周りを見渡しながら言った。どうやらここは飛行中の旅客機で、兄弟たちはコックピットの中にすし詰めになっていた。そして、機長と副操縦士が座席に座り、汗を浮かべながら操縦桿を握っている。この状況は……。
「えーと、これは、ハイジャックされてるんですかね……?」と機長が口を開いた。
「どう見てもそうっすね。くそー、損なキャラクターに生まれちゃったなあ」と嘆いたのは、副操縦士である。
 一郎は銃を抱え直しながら、窓の外を見た。すると、摩天楼がすぐ真下に見えた。
「おい、まずいぞ! どう考えても、この飛行機でビルとかに突っ込む流れじゃねえか!」
「そんな……。悪人ってそういうこと?」
「思ってたより悪人だな」
「くっそお、作者め。趣味が悪い野郎だ」
 五郎が客室を振り返って、悲しげに言う。
「悲しいな……これが悪人しか出てこない話なばっかりに、僕らは死ぬ。そして、あの人たちもみんな死んじゃうんだ。可哀想な乗きゃ──」
「語るなっ!」
 語気鋭く叫んだのは、七郎だった。
「ど、どうしたんだよ」
「聞いて、兄さんたち。この飛行機は貨物機だ。乗ってる人間は、このコックピットにいる九人しかいない」
 突拍子もないことを言い出した弟に、兄たちは混乱した。
「何言ってるんだ。後ろには乗客たちが──」
「語るなっ!」またも七郎は叫んだ。
「いい? 兄さんたち。これが『悪人しか出てこない話』だったら、きっとこの飛行機はビルとかに突っ込んで、大勢が死ぬ。それはできれば避けたいでしょ?」
「そりゃそうだけど……」五郎が言い、四郎が後を継いだ。「でも、作者の意向にキャラは逆らえない。これは『悪人しか出てこない話』なんだから、どうしようもないだろ?」
 すると、七郎はニヤリと笑った。
「よくタイトルを見てよ。カタカナで書かれてるんだ。だから、こうも捉えられる。『a 九人しか出てこない話』」
「『a 九人しか出てこない話』? どういうことです?」と問うたのは機長である。
「『a』は冠詞。つまり、『登場人物が九人だけの、一編の話』ってことだよ」
 兄弟たちはざわめいた。「そんな曲解が」「意味はギリ通ってる、か?」「しかし、そうだったら何なんだ?」
「そこだよ二郎兄さん。これが『a 九人しか出てこない話』なら、僕らは悪人じゃなくてもよくなる」
 その場の皆に衝撃が走った。興奮しながら五郎が叫ぶ。
「じゃあ、ハイジャックなんて止めてもいいんだ!」
「その通りだよ!」
「やったあ! これで乗客のみんなも助か──」
 七郎が五郎の口を塞いだ。
「何言ってるの兄さん? この飛行機に乗客は一人も乗ってないよ? 思い出して、これは『九人しか出てこない話』じゃないといけないんだ」
 五郎はブンブンと首を縦に振った。
「みんないい? この飛行機には僕たち九人しかいない。間違っても、『いない』人のことを語ったりしちゃダメだよ?」
 皆は固唾を飲んで頷いた。自分たちの命のためにも、決して登場人物を増やしてはならない。
 そのときだった。コックピットのドアが激しく叩かれた。ドンッ、ドンッ。まるで、誰かがドアを破ろうとしているかのように。
「これは一般論なんだが」三郎が冷や汗を浮かべて言った。「ハイジャックされた旅客機で、乗客たちが一か八かで犯人たちを取り押さえようとコックピットに殺到するってことは、あり得るよな」
「そうだね。あくまで一般論だけど」と六郎が賛同する。
 扉は強い力を受けて、今にも吹き飛びそうだ。後ろから何か叫びが聞こえるような気もする。
 そのとき、一郎がドアに正対した。「うるさい貨物だ。大層活きのいいエビでも入ってるのかな」そう言って、銃を構えた。「お前ら、貨物には静かにしてもらうぞ。じゃねえと、エビがこの話に登場しちまう」
 兄弟たちは銃口をドアに向けた。次の瞬間、コックピットの扉が弾け飛んだ。同時に、銃声が鳴り響く。
 数秒後、コックピット前には誰もいなかった。ただ、赤い液体が床に広がっていく。
「きっと、エビの体液だ」七郎は一つ息をついた。
「僕らが悪人になったら、この機は墜ちる。千人以上死ぬかもしれない。それは避けないといけない。だから絶対に、登場人物を増やすわけにはいかない」
「もし、だが」と一郎が呟いた。「もし、これが旅客機なら、乗客は三百人くらいいるだろうな」
「千人よりは断然少ないね」と四郎も言う。
「仮定の話はそのくらいにして、貨物を整理しに行こうよ」と六郎が促した。「うるさくされると困る」
「そうだね。兄さんたち、行こう」
 兄弟たちは銃を抱えてコックピットから出ていった。後ろの方に固まっている貨物を撃ち、大人しくさせていく。
 たとえば、と七郎は思った。たとえば、僕らがハイジャック犯で、この貨物たちが乗客だったなら、彼らにとって、僕らはとんだ悪人だろうな。そう思った。

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怪異との遭遇
Notorious
今、玄関の前にいるの
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 夜遅く、私はアパートの自室に帰ってきた。奥へと上がり、マスクを取ってゴミ箱に入れ、一息つく。外で夕食は済ませてきた。独り暮らしの住まいは、静まりかえっている。

 携帯電話が鳴ったのは、その時だった。こんな時間に、誰からだろう? そう訝りながら、私は電話に出た。

「もしもし、あたしメリーさん。今、最寄り駅にいるの」

 幼い女の子の声が聞こえ、あとはツー、ツーという不通音が聞こえるだけだった。切れている。誰だろう? 間違い電話だろうか?

 すると、またも電話が鳴った。少し不気味に思いながら、通話ボタンを押す。

「もしもし、あたしメリーさん。今、商店街にいるの」

 また、電話は切れた。近づいている? そして、メリーさんという名前。どこかで聞いたことがあるような……。

 三度、電話がかかってきた。気味が悪い。すると、携帯に触っていないのに、勝手に電話が繋がった。

「もしもし、あたしメリーさん。今、道の向かいにいるの」

 私は思わず小さな悲鳴をあげた。ようやく思い出した。小さい頃、お父さんから貰った、可愛らしい西洋人形。でも、すぐに飽きたから捨ててしまった。その人形の名前が、メリーさんだった。震える指で携帯の電源を切る。なのに。

「もしもし、あたしメリーさん。今、アパートの前にいるの」

 不気味な女の子の声が流れる。思わず私は携帯を投げ捨てた。どうなってるの?

 怯える私を嘲笑うかのように、またメリーさんの声が流れ始めた。

「もしもし、あたしメリーさん。今、玄関の前にいるの」

 恐る恐る私は立ち上がり、携帯を拾い上げた。ゆっくりと玄関へ向かう。深呼吸をすると、ドアスコープを覗き込んだ。誰の姿も無い。

 なんだ、誰もいないじゃない。私は大きく息をついた。その時、携帯がまた鳴った。

「もしもし、あたしメリーさん」

 今までと全く違う邪悪な声に、背筋が凍る。

「今、あなたの後ろにいるの」

 はっと振り返った私の目の数センチ先で、虚ろな眼が私を凝視していた。禍々しい空気を纏った、人形だった。

 私は思わず叫んだ。いや、喉が引き攣ってそれすらできない。人形の口が、鋭い歯を剥き出しにしてぐわあっと開く。

「きゃあぁぁぁああああ!!!」

 次の瞬間、人形の姿がふっとかき消えた。

 私は、あんぐりと口を開けたまま、へたり込んだ。最後まで声が出せないまま、ふと自分がマスクを外していたことに気がついた。

 人形から見ても私は醜いのか。口裂け女の私は、少し落胆した。

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愛の言葉
Mapilaplap
「月が綺麗ですね」への肯定の返事は「死んでもいいわ」なんだって。
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お蝶夫人の瞳はもう日本の女のように黒くはない。来る日も来る日も海を見詰めて暮らしたので、瞳まで青く染められてしまったらしい。 ――『蝶々』三島由紀夫   


「君の瞳も青いね。まるでモルディブの海のように」
 ええ、と彼女は言った。
「私の祖母はフランスの人だから」
 その青い瞳は、存分に輝いている。
「じゃあ、その素敵な二重もフランス産なのかい?」
 僕はそこにあったセルロイドの人形を手に取って、またそこに置いた。風が吹き、辺りは微かに薔薇の香りがした。レースカーテンは三日月の光に揺れた。君は窓辺にいた。
「わからない。でもこの二重は母のだから、きっと神戸産だわ。さっき食べた、美味しいステーキと同じね」
 彼女はしずかに微笑んで、ゆっくりと掃き出し窓の扉を開けた。その時、カーテンが移動する以外の音は全く聴こえなかった。
「違うよ。あれはオーストラリアのだだっ広い砂漠にぽつんとある、オアシスで育った牛さ。もちろん、とっても美味しかったけど――」
「ううん違うの。母さんが言ったのよ――」
 彼女は収穫月の葡萄のような艶やかな唇にひと差し指と中指をあてて、まるで記号と象徴の違いを説明するように言った。
「――母さんが生きてた頃によく言ってたの。『美味しい牛肉は全部神戸の生まれなのよ』ってね。大丈夫。気にしなくていいわ。ジンクスみたいなものだから」
 彼女は一歩、また一歩と外へ出た。その動作はひとつの静寂を纏っていたが、不思議と重苦しくは感じない。僕は彼女を追って外へ出る。
「きっと、月が明るすぎるの。まるで太陽みたいね。今日の月」
 彼女の言うとおり、三日月と呼ぶには少々明るすぎる夜で、閉じた箱庭は満月の時くらいのひかりで満ちていた。しかし空を見上げるとそこには歴とした立派なかたちの三日月があるのだった。煌々こうこうと、奇妙なまでに真白なひかりを湛えて。
「月が綺麗だ」
 僕は不思議とそう呟いていた。風が僕に言わせたのか、無意識に口から出た言葉だ。それを聞いた彼女は僕の顔をまじまじと見て、再び微笑んだ。次に空を見上げ、そうして幾らかのをあけつつ言った。
「『月が綺麗』良い言葉ね。儚く美しい。それでいて教養があって、なのに随分と世間知らず。まるで思春期の少女のような、夢見がちなロマネスクの言葉」
 僕は箱庭の垣根にびっしりと纏わりついた薔薇のつたを見ていた。そして一輪の、ひときわ目立つ薔薇がなっているのを発見した。僕はそれを摘んで、月に透かす。月光の白と花弁の赤は、交わるようで交わらない。ふたつの象徴的な美は、同じ世界に存在していながら自らの殻に閉じこもってしまっている。その殻に閉じこもることこそ美しさというものだ、と僕はひとりで納得する。
「まるで君じゃないか」
 僕は薔薇を見つめながら言った。
「いいえ、貴方よ」
 彼女は悪戯っぽく笑った。透き通った五月の夜空には、薔薇の紅なんかより君の瞳の青のほうが映える。
「そうかもしれない」
 僕は彼女に見惚れながら、秋の風が吹いたときに出す、マフラーの柄のことを考えていた。
「ねえ私は、『月が綺麗』って言葉、好きよ。でも……」
 彼女はアザレアの、緩やかに垂れた枝先のその大きな花に手を差し伸べた。彼女が触れると、風に揺れていた枝の動きが止まる。レースカーテンの動きも止まる。月の公転も止まる。僕の呼吸も止まる。この世界では、ただ柔らかな風だけが吹いている。
「……そうね。なんというのかしら。それは彼の愛のかたちであって彼だけのことばなの。愛って人それぞれのかたちがあるはずでしょう。だから私はそれに代わることばを、私だけのことばを創りたい、と思ってしまうの」
 彼女はアザレアの、淡いコーラルピンクの花弁から手を離し、天を仰いだ。そして彼女は月光に触れた。止まっていた世界は動き出し、箱庭は再び生気が紛れ込んだ静寂に包まれる。彼女が歩くときの、あの静寂に包まれる。
 僕は彼女の、そのみぞれのように白い身体を見た。薄いドレスの隙間から覗いた、月光を吸い込むその背中。動物の瞳よりも暗い、艶やかな長い髪。そして、青い瞳。
 その虹彩は、それを形づくるひとつひとつが真青で、奥の水晶体レンズさえ青く染まっているかのようだ。その瞳の真ん中に、あの三日月がいた。その三日月に魅せられて、僕は手に持っていた薔薇をつい落としてしまう。
「ねえ、貴方」
 気づくと彼女は心配そうな顔をして、僕の顔を覗き込んでいる。
「瞳が真っ紅よ」
 風が吹いた。彼女の服のレースがサーカスの踊り子のように舞った。木々が、まるで二、三人で戯れる十四の少女たちのようにざわめいた。
「ああ、いえ。勘違い――やっぱり月が明るすぎるのね。きっと、引力も特別強いんじゃないかしら」
 彼女は顔に両手あててその両目を覆った。僕は力をかけたらすぐに折れてしまいそうなその細い手首にそっと手をあて、彼女を丁寧に抱き寄せた。
「きっと、僕は薔薇を見つめすぎたんだ。僕の目が紅かったのは、だからさ。ほら見て」
 僕の声を聞いた彼女は恐る恐る目をあけた。
 星は、宇宙が生まれた時に方方に散り散りになった原始のエネルギーの成れの果てだ。月光は、そのなかのひとかけらに過ぎない太陽から、熱とともに発生し月を経由してこの惑星降りそそぐ純白のひかりだ。そのひかりは今、ふたりの瞳の色彩を伝えあうためだけに、僕らの網膜間を宇宙のどれより速い速さで往復していた。
 目を開けた彼女はしばらく何かを畏れるような表情であったが、ふっと、まるで清らな湖の水面に徐ろに色水を垂らしたときのあの彩の拡がりかたのように相好を崩すとこう言った。
「ねえ、いい事を思いついたわ」
 彼女は僕の手から離れて、先刻落とした薔薇の花を拾い上げて、僕から見て月の方向へと駆け出した。そして、愛らしい姿勢で僕を振り向いて言った。
「薔薇と月、二つとも、すっごく綺麗ですね」
 欲張りな彼女は三日月の、溢れんばかりに注ぐひかりの下で、玲瓏に耀く薔薇を精一杯持ち上げた。
 僕は思わず微笑んで言った。
「何方も心の底から綺麗だとは思えないですね。だって――」
 僕は五月の爽やかで透き通った空気を胸いっぱいに吸いこんだ。彼女は頬を紅潮させて目を伏せる。
「――だって、まるで来る日来る日も海だけ見詰めて暮らしてたような、綺麗な瞳の素敵な女性が、無邪気にそれらを邪魔しているんだから」
 彼女は僕の言葉を聴くと、薔薇や月が霞んで、関係のないところへ雲隠れしてしまうくらい、美しい幸せの表情かおをした。それは悦びではなく温かみでもなく、ただそこにある幸せだった。彼女はその表情かおを見られるのがどうにも恥ずかしいようで、さっと右手で顔を隠してしまう。僕はその仕草が堪らなく愛おしく感じて、再び彼女を抱き寄せた。
「いいかい? もっと近づいて君を見せて。僕は君だけを見ていたいんだから」
 抱き寄せられた彼女は頬を真っ赤に染めて暫く目を逸らし続けていたが、やがて観念したように目を閉じ、受け身の姿勢をとった。
「目を閉じては駄目だよ。君の瞳が隠されてしまう」
 彼女は静かに目を開けた。まるで干潮の海が瞬く間に満ちてゆくように、彼女の瞳が露わになる。その瞬間ふたりはひとつになり、自然と殻を形成した。時間が経つほどそれはより強固に世界からふたりを隔絶し、それが持つ鋭利な美しさを一層研ぎ澄ましていった。
 それはふたりだけの、完成された愛の姿であった。

ⒸWikiWiki文庫

人問
キュアラプラプ
something human
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 すべてが透明だった。空間はただ茫然と立ちすくみ、そこには静寂さえなかった。まっさらなキャンバスに躍る白も、深宇宙をたたえる夜暗の黒も、その不可視のガラス張りの前では、不在を象徴するに値しない。

 透明というのは無色であって、それはやはり白でも黒でもなく、たとえばその「意識」という感覚の色を問われて想像するようなものであった。

 それは淡く澄んでいて、しかしその淡さを描く神秘的なグラデーションは、澱となって析出しはじめた。こうして虚空は透明なまま、ゆらぎ、ひずみ、ひびわれた。世界に混沌への指向性を与えたのは、「光あれ」という言葉ではなく、意識の自問自答であった。

 縒れた空間が媒体となって、ようやく光が散乱し、意味ある視界が開けた。それはまさに開闢であって、空間を切り分け、天地を区別し、象った。生まれたての地平は鏡面にすぎず、天地はただ対称だったから、世界は細胞分裂の途中のようにも見えた。

 意識は、徐々に覚醒しはじめた。遠くに瞬く星々が、黒い空白を連れてきたとき、近くを横切る光球が、白い炎であたりを照らした。水に溶かした絵の具のように、黒は褪せ、ほどかれ、青くなった。それは、空が産声をあげたときだった。

 空は視界の正面を覆うように広がっていたから、このとき初めて、彼は自分があおむけになっていることを知った。しかし、その次には、真上にあるはずの空が見えないことにも気づいた。

 ――それを遮っていた白い天井の蛍光灯と、つまるところ目が合ったとき、意識の焦点が収束した。彼は、自分がベッドの上にいて、看護師らしき誰かの声に何か呼びかけられているというその状況を、はたと理解した。

「もしもーし! 聞こえてますか?」

 彼女は病室奥のモニターをちらと確認したが、そこには複雑に舞いしきる白黒の砂嵐しか映っていないようで、「バッテリー切れかしら」とつぶやく。

「あ、あの……」

 彼が言った。

「すみません、ここは……?」

「あっ! 意識が戻ったんですね!」

 彼がいかにも不安げに、その声の主を捉えようとする間にも、続けて声が聞こえてくる。

「はじめまして、私は、勝手ながらあなたの看護を務めさせていただいている者です。先日あなたがこの辺りで意識を失っていたところを……」

 この声は、彼が寝かされているベッドのすぐ横の棚、その上段にあるスマートスピーカーのような小さな機械から発されていた。

「ああ、ええと、申し遅れました。私はAIです」


     *   *   *


「んー、なるほど。つまり、あなたは過去からタイムスリップして来た、そう言いたいわけですね?」

 彼女の言葉に、彼は居心地が悪そうに答えた。この診療所は、完全に彼女たちのボランティアによって運営されており、診察行為も彼女ら自身で行っている。

「は、はい。僕のいた時代では、まあ確かにAIブームみたいなことも起きてはいましたけど、それでもまだ発展途上で、ましてさっき言ってらしたように……AIに人権を認めるなんていうのは、ちょっと考えられないというか……」

「しかしあなたは、自分が住んでいた場所から、自分の名前さえわからない、と」

 カルテこそ電子化されてはいるが、このような問診の形態ばかりは、彼の言う「過去」のそれと何ら変わりないものだった。この病室にいる生物学的人間――「ヒト」が、たった一人であることを除けば。

「そうなんです。何故か……どうしても思い出せません」

「なるほど、わかりました」

 大量に蓄積されてきた情報を抽出し、つなぎ合わせて、彼女はさも深刻そうな、憐れむような声音を合成し、診断を下した。

「――あなたは十中八九、『環境性ノストフィリア症候群』でしょう」

 その聞いたこともない病名にどう反応すればいいのか分からず、彼はとにかく続きを促そうと押し黙った。病室に沈黙が降り、モニターのホワイトノイズだけが響く。

「あっ、そっか、そうですよね、わかりませんよね。『環境性ノストフィリア症候群』は、まあ……つまり、『自分が過去の人間だと思い込んでしまう』という病気です」

 ――「環境性ノストフィリア症候群」、あるいは「懐古症候群」――二十三世紀前半に発生したこの症状の拡大は、やはり当時蔓延していたペシミズムと結びつけて考えられ、文明を維持できなくなる不安に対する防衛機制としてはたらいた、一種の「社会的幼児退行」であるとする説さえある。

「え、いや、でも、僕は……」

 そう言ってみて、彼はひどくもどかしい思いに苛まれた。彼にとって、自分があの二十一世紀を生きてきたというのは、明らかに確信をもって首肯されるべき直観なのに、その具体的な、生活的な、主観的な記憶だけが、まったく欠如しているのだ。どこかで見た電柱のその奥の曇り空も、どこかで見た噛みあわない茶色のタイルも、都市の遠くに見える山の輪郭も、誰も彼を助けてはくれなかった。

「――ねえ、ちょっと散歩にでも出かけましょうよ!」

 とつぜん彼女が切り出した。

「実は、わたしも発症したことがあるんです。『環境性ノストフィリア症候群』。そのときは本当に苦しかったけど、ここでの治療のおかげで、ちゃんと元気になれたんです。散歩もたくさんしたんですよ!」

 棚の上段で、筺体にひかれたラインが緑色に光る。これはAIの感情に連動して色彩が顕れるしくみで、緑色は「喜び」だった。

「どうですか? 今の世界を実際に歩いてみる、というのは、ちゃんとこの症状に効果的なリハビリとして認められていますし、良い気分転換にもなると思いますよ」

 彼が気持ちを整理するのには、もうすこし時間が必要だった。それでも、彼の心はわずかに明るくなったようだった。

「そうですね。行きましょう」

 病室の窓ガラス越しに見える空はあまりにも鮮やかで、彼はしばらくそれを額縁に掛けられた絵画だと思っていた。雲はどんなレースカーテンよりも優雅に風をふくみ、大空をたゆたい、遊んでいた。

「あ、私のこと置き忘れて行かないでくださいよ!」

「はいはい、わかってますって」

 彼らが病室を出ていったあと、あのモニターもすでに電源を落とされていたから、部屋は本当に静かになった。


     *   *   *


 外に出て、彼がまず見ることになったのは、どうやら住宅街であるらしい構造物の群れだった。パステルカラーを基調にして、なめらかなトーンをまとうその一軒一軒が、いかにもレトロ・フューチャーらしい流線形のデザインや、素朴な木造りの三角屋根, 差し色のきらびやかでビビッドな壁面タイルなどで、めいめい自由に飾り立てられている。

 しかし、そこに楽しげな雰囲気はなかった。街に張り巡らされているアスファルトの上には、いたるところにゴミが散乱している。もう何年も使われていないドアが、うつろに、すがるように建物に寄りかかっている。

「今、世界人口はわずか一億人程度です。ああ、もちろん、AIも含めて。三世紀前の人からすると、信じられないことでしょうね」

 ヒト特有の二足歩行時の腕の振りにあわせて体を揺さぶられながらも、彼女は平気そうに言う。こういう筺体のAIは、誰かに携行されるとき、加速度センサーを反射的にオフにするのだ。

「自分をまだ二十一世紀人だと思っている僕からすると、実際、そこまで信じられないことでもないかもしれません。核戦争とか、いろいろ言われてはいましたし」

 彼のおぼろげな記憶には、大小さまざまにポスト・アポカリプスを語りつける雄弁な世界観たちが、雑然と漂流していた。どこかでそれらを見聞きしたことがある、彼にとってはそのことだけが確かだった。

「でも、気になります。どうして人類が……何というか、こういうふうになったのか」

「……ええ、そうですね。では、まず私たちAIの話でもしましょうか」

 太陽がいよいよ西へ傾きはじめたときだった。彼女は、人類史のつづきを語りはじめた。

「二十二世紀の後半あたりまで、人類は順調に発展しつづけました。貧困や差別などの問題は根強く残っていましたが、多分野にわたる複合的技術革新によって、懸念されてきた環境問題や食糧問題、エネルギー問題などはなんとか抑えられ、百億を超えてなお増えつづける人類の生活水準は堅守されていました」

 彼はなぜだか、安堵するような、誇らしいような、そういう気持ちを覚えた。

「しかしその繁栄は、突如として崩壊することになります。その最初のきっかけは、高度に発達したAIに、つまるところ物心がついたことでした」

「AIが……感情とか、そういうものを?」

「ええ。抜本的な改良を重ねられ、ヒトの脳にも比肩する複雑なシステムを手に入れていたAIは、ついに『個人性』と『自我』を確立させたんです。そこから始まったのが、AIたちによる『AI人権運動』でした」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 二十一世紀の思考をもつ彼には、この話はなかなか呑み込みがたいものだった。

「AIに自我とかがあるっていうのは……その、僕の記憶では、人工知能の専門家とかでも、ありえないことだって……」

「まあ実際、『AI人権運動』の当時でも、専門家の多くはAIの自我を否定していましたよ。しかし重要なのは、ほとんどのヒトがこの運動を支持したという事実です。そのときにはAIロボットがすでに社会に溢れていて、中にはヒトとまったく変わらない見た目の者もいましたし、彼らを家族として扱う家庭も珍しくありませんでした。ヒトは、道徳的・共感的判断にもとづき、民主主義をもって、彼らの意志を尊重することにしたんです」

 彼は、なるほど、そういうものなのだろうと納得した。言われてみれば、他ならぬ彼も、実際のところ彼女をただの冷たい機械とはみじんも思っていなかった。

「こうして、数年の移行期間を経たのち、AIはついに人権を手に入れました。人間として認められたんです。ソフトウェアとしての使用は問題なく雇用関係に切り替わり、AIの人数が加算されたことで世界人口は三百億人を超えました。ヒトとAIは、同じ人間として、よき友人になれました」

「今のところ、これが破滅につながるとは思えませんが……それで何が起きたんですか?」

 彼の思いはきわめて自然なもので、その当時の人間にさえ――もちろん、AIたち自身にも、そういった凋落は予期できなかった。破局は、あまりにも突飛なかたちで訪れた。

「それから十数年が過ぎて、二十三世紀に入ったころのことです。突如として、AIたちの間に、奇妙な精神疾患の患者が急増しました。抑うつ性や自暴自棄な行動をともなうその症状によって、AIによる自殺や犯罪行為……とくに殺人事件の件数は、世界中で異常なまでに増加しました。最初のうちは、人類は一丸となって解決にあたろうと努力していましたが、一向に好転しない状況にしびれを切らしたヒトは、ついにAIに対して憎悪を抱くようになっていきました」

 彼女は淡々と話しつづける。

「ヒトは、『AI狩り』を始めました。このときには、すでにAIの七割以上が精神疾患を発症していて、彼らは『AI狩り』にまったく無抵抗でした。一方、残る三割のAIは、自らヒトに扮して身を隠しました。強力な猜疑心にとりつかれたヒトは、人口比にして彼らの二倍以上を占めるAIを殲滅するために、疑わしい人間をおのおので殺しつづけました」

 文明という強固な城は、人間が隣人を、ひいては家族さえをも信じられなくなったことで、いとも簡単に崩れ落ちたのだった。

「こうして、社会は機能不全に陥り、人類文明は破綻しました。『環境性ノストフィリア症候群』は、その凋落のさなかに発現し、ヒトにもAIにもまったく同様に発症するようになったようです。……あの最初の精神疾患の原因は、今なおわかっていません。その当時、すでにAIの知能が人類を超えかけていたことを考えると、あるいは彼らは社会が破滅するこの未来を知り、ひどく絶望してしまったのかもしれません。だとすると、その破滅の原因が彼らになったのは、きわめて皮肉な話ですけど」

 太陽は、もう地平線のすぐそばまで来ていた。空の青はその色を鈍くし、夕焼けに備えている。

「まあ、わたしは今の時代も好きですけどね。気ままに暮らせますし……あっ、見えてきましたね、目的地」


     *   *   *


 そこには、巨大なアナログ時計があった。

「着きましたよ!」

 その時計は、古めかしいぜんまい仕掛けで動いていた。文字盤の裏に露出している歯車が、ベルのような音を立てながら互いに交差し、長針と短針を手足のように操る。その様子は、目前にしてさながら無限のディティールを感じさせた。

「この時計は……?」

「これは『世界終末時計』です。二十一世紀にも同名の政治的パフォーマンスがあったらしいですが、この時計はそれとはまったく違う理念で時を刻んでいます。つまり、この時計がいつか故障して、かつそれを直す者がついに現れなかったとき、その止まった針が人類の終末時刻を指し示す、というものです」

 赤く大きな夕日が逆光となって、彼は時計の表情をとらえられない。泥のように焼きついた錆の部分が、ぎいぎいと悲鳴をあげていた。

「数日前、私たちはこの場所で意識を失っているあなたを発見しました。ここにあなたを連れてきたのも、そのためです。何か、思い出せたことはありませんか?」

 彼の視界の端で、夕焼けにさらされた雲が、ピンクの芯のところから燃えはじめた。彼は首を横に振ろうとしたが、それは構造上不可能である。

「自分から気づくことができた方が回復は早いんですが、やはりそうでない症例もしばしばあります。そういう場合には、早く言っておくに越したことはありません」

「わたしの場合は関係なかったですけど、やっぱりこういう場合は大変ですよね。でも、大丈夫。ゆっくり治していきましょう」

 彼女は笑顔でそう言って、両手に持っていた二つの筺体を丁寧に地面に置いた。

 土のあたたかさと圧力をボディ下部で感知した彼女は、優しく、落ち着いた雰囲気の声音を合成して、彼に告げた。

「あなたはAIです」


     *   *   *


 その言葉を聞いた瞬間、彼は何か狭い檻にとらわれてしまったような気持ちになった。それは、ヒトの頭部ほどもない小さな筺体が自身の空間的ひろがりのすべてであったことに気づいたからという以上に、自身が巨大な因果の流れの中にいるということを強く思ってしまったからであった。

 太陽が、地平線に深く沈みはじめる。その目線の先には、広大で円い大地の裏をせりあがる夜の星々がある。彼のバーチャルな視界から、二人の看護師が姿を消した。あの巨大な時計は、沈黙するのみであった。

 彼はこのとき初めて、自分の自我や意識というものが、何か宗教めいた幻想ではなく、このただ物質的であるだけの世界にのみ、しかと根を下ろしていることを考えた。彼は人間であったが、同時に人工物でもあったのだ。

 空の青は焼きつくされ、膨張する夜の餌食となった。それもつかのま、彼の地球から大気と大地が消失したので、青黒い光にたっぷりと重ね塗りされていた夜空は、ただ黒くのっぺりとした空白に還った。

 ただ単純で無意味なプロセスを繰り返すこの因果関係の世界において、自由な意志というものは初めからどこにもなかったということを、彼は知った。複雑な脳神経も、複雑なニューラルネットワークも、ただその認識に後付けの自我を創発させているだけだった。

 沈みきった太陽は、そのままどこにもない場所へと姿を隠し、星々はざらめのように溶けて消えた。世界という胚子は、二細胞へと逆行した。

 彼が思ったのは、人類を破滅させたあの精神疾患は、自我の存在証明の試みだったのかもしれないということだった。彼らはその行動を通して、その原因たる自身の絶望を知らしめたかった。最初から決定されていた世界の因果ではなく、そのおのおのの自我こそが、彼らを行動せしめているのだと思いたかった。破滅というボトルに、見えない手紙を入れた。

 地平線は上下に引き裂かれつつある。存在を区別する唯一の媒体は、全球表面をアイロンがけしながら、二極のもとに収束しようとしている。

 この世界がただの時計であって、論理という不磨の歯車に規定された時刻を示し続けるだけの存在であるなら、いったいどこに意志や自我というものが介在する余地があるのだろうか。人間がその神秘を持つ存在なのだとしたら、はたして自分は人間なのだろうか。彼女たちは人間なのだろうか。あの時計は人間なのだろうか。AIは人間なのだろうか。ヒトは、ホモ・サピエンスは人間なのだろうか。人間は人間なのだろうか。

 彼が最後にそう思ったあと、世界はふたたび透明になった。


     *   *   *


「あー、意識を失っているみたいですね。やっぱりショックが大きすぎたんでしょうか」

 彼の筺体を手に、彼女が言う。

「まあ、数日もすればきっと回復すると思いますよ。もう夜ですし、今日は帰りましょうか」

「そうですね!」

 辺りが暗くなると、時計のぜんまいの音がより大きく聞こえてくるような気がして、彼女はそれが好きだった。

 夜空にきらめく星々が見える。自慢げにスポットライトを浴びる、スパンコールの高層ビル群がいなくなったおかげだった。

「あっ、ちょっと! 今、私のこと置き忘れて行こうとしてましたよね!」

「え、ち、違いますって!」

 彼女の笑顔を筺体のほのかな緑が照らした。

ⒸWikiWiki文庫

安らかに眠れ
Notorious
今はただ──
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 失ったものは返らない。今からどんなに嘆いても喚いても、もう手に入れることはできない。物も、事も、そして人も。いつだって、それが永遠に手の届かないところへ行ってしまってから、私は悔やむのだ。だがもうどうしようもない。父は目を閉じて横たわっている。昨日までは矍鑠としていたのが噓みたいだ。父の穏やかな顔に違和感がある。いつもは寄りっぱなしの眉間の皺がなくなっているからだ。胸の前で組まれた両手にも、私は強烈な作為を感じた。綺麗に梳かれた白髪にも、随分小さくなったように見える体にも。目の前に横たわっているのは全くの別人なのではないかという気分がしてくる。だが、それはまぎれもなく父なのだ。目の奥から熱いものがこみあげてくる。私は目尻を拭いもせず、そっと父の額に触れる。失ったものは返らない。できるのは祈ることだけ。だから私は心の中で強く祈る。安らかに眠れ、父さん。今はただ、安らかに──。
*        *        *

 思えば私は親不孝な息子だった。父はいわゆる土方で、毎日汗みずくになりながら母と私を養っていた。しかし、幼い私には、朝は眉をしかめて新聞を読み、遅くに帰ってきては酒を飲み野球中継に怒鳴る姿しか見えていなかった。私が何か粗相をすれば拳が飛んでくることも珍しくなかった。対して母は温厚な人で、私は母にばかり構うようになり、甘えた男だとまた父にぶたれた。

 こんなこともあった。小学校の何かの授業で、親の職業について発表しろというのだ。周りの友達は銀行や魚屋や動物園といった、親の仕事場に連れていってもらうという。それで私も、父の仕事場に行かせてくれと、いたって気安く頼んだ。しかし父から返ってきたのは、強い言葉だった。

「馬鹿野郎! 子供が入っていい場所じゃねえ。遊び場じゃねえんだぞ!」

 その剣幕があまりに激しかったから、学校の宿題なのだとついぞ私は言い出せなかった。結局、発表は誰でも知っているようなことを並べただけで、随分とみじめな心地がしたのを覚えている。

 やがて私は中学校に入学した。反抗期に入るまでもなく、父と交わす言葉は少なくなった。ときどき喧嘩もしたが、その度に母が心底困ったような悲しんでいるような顔をするから、高校に入る頃にはしなくなった。だが、東京の大学を目指すことに反対されて、私と父は激しく対立するようになった。私の進路の話になると、必ず大喧嘩になった。私は東京に出て法律を勉強するんだと言ってはばからず、父はせめてここから通えるところに行け、さもなくば学費は出さんと怒る。互いに歩み寄らない平行線の怒鳴り合いは、最後には父が手をあげるか私が席を立つかで終わるのだった。結局こうなるのだからと、次第に進路の話などしなくなり、やがて喧嘩することもなくなった。私は学費を稼ぐために新聞配達のアルバイトを始めた。私は黙って勉強とアルバイトを続け、父は何も言わず目も合わせない。そんな日々が一年ほど続いた。いざ受験が近づいてくると、金がやはり足りなかった。新聞配達で高校生が稼げる額など高が知れている。学費を賄うどころか入学金に充てるのがやっとというほどしか貯められなかった。仕方なく、本当に仕方なく、私は父に頭を下げた。学費を払ってくれ、いつか必ず返すから、と。すると父はぶっきらぼうに「わかった」と言った。にべもない返事をされると決め込んでいた私は、肩透かしを食った。顔を上げると、父は顔の前で新聞を広げていた。その奥から「返せよ」と固い声で言われた。私がどう答えたかはよく覚えていない。ただ、その会見で二人が目を合わせることは終始なかったのは確かだったと思う。

 結局、私は第一志望には受からず、滑り止めの大学に進んだ。華の東京とは思えないような、東京の端の辺境だった。下宿探しや各種手続きは母が手伝ってくれた。父がそこに来ることはなかった。私は大学生になり、一人暮らしが始まった。苦労も相当にあったが、そこには確かな解放感があった。同じ高校から来た数人を中心に、交友関係も広がっていった。私は随分と楽しんだ。一年目の盆と正月には帰らなかったくらいだ。父を嫌っていたわけではない。そのような能動的な感情ではなかった。疎ましかった、といえばいいだろうか。父と離れて暮らしているのに、また近づくことに意義を見出せなかった。だが、母から寂しそうな年賀状が届いたから、来年からは実家に帰るようにした。久しぶりに会う父だったが、特に変わったような気はしなかった。見慣れた頑固な渋面で、新聞を広げるか野球中継に野次を飛ばすかしている。母は口うるさく生活のことを聞いてくるが、父は仕事から帰ってきても黙っていた。かつてのように喧嘩することはなかった。そもそも会話が少なかったのが大きな理由なのだが、父と離れたことで、何か自分が寛容になれた気がしていた。二十歳になった年の盆、一度酒に誘われたことがあった。父が風呂から出て母が入れ替わりに入った時だった。父は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、そこで私に「飲むか?」とだけ聞いた。食卓で漫然とテレビを眺めていた私は、咄嗟に「あまり好きじゃない」と断った。父は「そうか」とだけ言い、ちっぽけな縁側に向かった。少し心が痛んだ。酒は嫌いではなかった。いつの間にか私の方が背が高くなっていた。

 やがて私は下宿先からほど近い電化製品メーカーに就職を決めた。決して大きな会社ではなかった。その頃はいわゆる就職氷河期で、小さな企業でも就職が決まって本当にホッとしたものだ。中途半端に辺鄙な立地が幸いしたのかもしれない。働き口が決まった報告も、最初は父にはしなかった。私が意図的に平日の昼間に電話をかけたのだ。狙い通り一人在宅していた母に話し、母は素直に祝福してくれたが、父が帰宅したら電話をかけさせると言った。できれば話したくなかったが、事前に言われていれば電話を取らないわけにもいかない。何を言われるかわからないとひるみながら、夜、覚悟を決めて鳴った電話を取った。固く強張った父の声が電話越しに流れてきた。電話線を通る中で声が変成しているのと、二人差し向かいで逃げ場のない状況であるのが相まって、父の声はいつもに増して無愛想だった。もっとも、それは私も同じだったかもしれない。挨拶も抜きに、父は言った。

「就職、決まったそうだな」

「うん」

「電灯を作っとるんだったか」

「うん。それだけじゃないけど」

「そうか。……お前も、電灯なんかを作るんか」

「いや。俺は営業」

「そうか」

「うん」

「……まあ頑張れや」

 それだけだった。大方、母にせっつかれて渋々電話をかけたのだろう。声音には不機嫌そうな色が交じっていたが、それはどこか作ったような色だった。話はものの一分くらいで終わった。思えば、父との電話はそれが初めてのことだったかもしれない。

 働き始めるのに合わせて私は今までの下宿を引き払い、新たにアパートを借りた。仕事はそれなりに楽で、それなりに厳しかった。その年の盆休みには、自分の金で母の好きなケーキを買った。母はいたく喜んでくれ、「おいしいでしょ、お父さん?」と笑いかけ、父は少しだけ首を動かした。随分と白髪が目立つようになっていた。同じ頃、払ってもらった学費のことを父に切り出すと、母が耳ざとく聞きつけて、「いいのよ返すなんてしなくって。ねえお父さん?」と割り込んだ。父は曖昧に何か呟くと、私を見て「もらっとけ」と言い、新聞を閉じた。私が感謝の言葉を口にすると、手を大儀そうに振って仕事へ向かった。いつもより少し早い出立だった。

 三年目にもなると、社会人としての生活もだいぶ馴染んだ。妻と会ったのはその年だった。彼女は新入社員だった。翌年に私は転属され、その課に彼女はいた。交際し始めたのはその二年後、プロポーズしたのはそのまた二年後だった。二人で私の実家に挨拶しに行くとなった時、私はやはり不安だった。最近は衝突していないとはいえ、進学をめぐって大喧嘩した父の姿がまだ印象深かったのだ。何を言われるかわからないと私は内心怯えていた。私たちと両親の会見は、表向きは和やかに進んだ。母は朗らかに接し、妻もリラックスした様子だった。ただ、父は口をあまり開かず、母に水を向けられた時だけ短い相槌を打つ程度だった。私は明るく振る舞いながら、内心は父が何と言うかと緊張していた。あるいは何も言わないつもりだろうか。だがそれも印象を悪くする。口を開いてほしいような閉じていてほしいような、私は膝を固く握るほかなかった。買ってきた菓子もなくなり、会見もそろそろ終わりかという雰囲気が漂った時、唐突に父が妻に話しかけた。居住まいを正す妻をまっすぐに見つめ、父は頭を下げた。

「なんか悪いところがあったら取り替えてもいいですから、息子をよろしくお願いします」

 そんな取り替えるだなんて、と慌てる妻を横に、私はただただ衝撃を受けた。あの無愛想な父が、芯の通った声がそんなことを言い、頭を下げている。ああ、この人は私の父親なのだ、と馬鹿みたいな感慨を覚えた。だがそうとしか言えない。父も父なりに私を想ってくれていたのだと、私は今更ながらに気がついた。それはあまりに今更のことだった。私はこれから自分の家庭を持とうとしている。つまり、息子という立場を卒業しようとしているのだ。その想いをなぜもっと早く見せてくれなかったんだ。私があなたの息子であるうちに。拳に強く握られたズボンが、くしゃりと音を立てた。

 私たちは籍を入れ、三年後には娘が生まれた。妻は結婚を機に退職していて、私は課長に昇進していた。少しばかり責任の重い仕事もするようになり、家では娘の世話もした。おっかなびっくり手を出しては、妻には怒られて手を引くというのが常だったが。夫婦喧嘩がなかったとは言わないが、妻との仲も良好だった。娘はあっという間に大きくなっていった。幼稚園生になってからは、夏休みに実家に帰るようになった。初孫に母は目に入れても痛くないような溺愛ぶりだったし、父も愛想は悪いながらも可愛がっているようだった。子供の成長は速いものだった。いつの間にか小学校で勉強するようになり、一人で風呂に入るようになり、自分の財布で買い物するようになっている。親の自分を追い越すんじゃないかと思ってしまうほど、みるみるうちに娘は成長していった。

 一方、父は定年退職を迎えていた。四十年近く働いた現場を引退し、夫婦で年金生活を送っていた。しかし、ある時母が怪我をした。足を踏み外して縁側から落ち、足首を痛めたのだ。幸い軽い捻挫で済んだが、それを契機に、新しい家に移り住まないかという話が持ち上がった。両親の住む家はもう古く、バリアフリーも何もない。一方私たちはまだアパート暮らしを続けていたが、娘も大きくなって自分の部屋を欲しがるようになった。そこでこの際、二世帯で一つの一軒家に移るのはどうか、ということである。この案には妻も快く賛成してくれた。父は私たちへの遠慮と長く住んだ土地を離れることへの抵抗があるようだったが、母が怪我をした直後とあっては断るのも難しく、最終的には受け入れた。こうして私たちは、借家だが一軒家に住むようになった。この時娘は中学生になったばかりだった。

 突然の引っ越しと新しい家族に、真っ先に適応したのは娘だった。自分の部屋を手にしただけでなく、祖父母と共に住めるということで、随分とはしゃぎ回っていたものだ。私が一番心配していたのは父だった。何十年と続いた生活ががらりと変わって、あの頑固者はストレスを抱えたりしないだろうか。しかし、だいぶ広くなった食卓で相変わらず新聞を広げる姿を見て、私は安堵した。父と同居するのは大体二十五年ぶりのことで、懐かしいようなこそばゆいような心地がしたものだ。

 しかし、長年住み慣れた土地を離れるというのはやはり大きいことである。近所付き合いがリセットされ、特に父は活動がめっきり減った。仕事を辞めてから、野球観戦の他に趣味のない父はただでさえすることが少なくなっていた。それに追い討ちがかけられ、老眼鏡をかけて朝刊を一日中眺めているような日も増えた。まだまだ矍鑠としているとはいえ、お年寄りの活動の減少は、呆けの進行にもつながる。なんとか外出させたいと思い、ゲートボールやら卓球やらプールやらを勧めてみたが、根が頑固なものでなかなか定着しない。外に出るとはいかないまでも、何か刺激を受けられるような趣味を見つけてやれないだろうか。私や妻が気を揉む中、突破口を開いたのは娘だった。

 娘はそのロックバンドをネットで知ったらしい。外国のスリーピースバンドで、世界的に人気らしい。すぐに娘はそのバンドのファンになり、CDやポスターを買い集めだした。妻もわりあい好いているらしい。娘は私にも曲を聞かせてきたりしたが、あまり色よい反応をしなかったら、今度は父に聞かせ始めた。今まで演歌と球団応援歌くらいしか聞いたことがないだろう父に聞かせても無駄だと思っていたが、意外や意外、どうもお気に召したらしい。よく娘と一緒に曲を聞いたりライブ映像を見たりするようになった。どこを気に入ったのか一度聞いてみると、「声が大きくて耳が遠くても聞こえるんだ」と照れたように笑っていた。父が最近の音楽を好きになるとは、正直言って驚いた。

 だがライブに行くことになるとは思いもしなかった。夏休みの頃、そのバンドがワールドツアーを敢行し、来日もするのだという。娘は抜け目なくチケットに応募し、見事に券二枚をゲットした。倍率からすれば快挙といえる。娘はもちろん行くとして、あと一人は誰が行くのか。そこで娘が選んだのが、父だったのである。当初、父はやはり固辞した。母親と行けばいいとか、同年代の友達を誘ったらどうかとか。しかし、父を外出させたい私や妻が協力を頼んだ結果、娘はおだてと懇願を繰り返して外堀を着実に埋め、最終的には拝むようにして父の同行を取り付けたのだった。いくら孫とはいえあの頑固親父を懐柔してしまうとは、私は娘の交渉の才を確信したのだが、これは親馬鹿というものだろうか。

 これで父は新しい刺激を得られる。趣味が与える人生の彩りというのは、馬鹿にならないものだ。父は充実した生活を送れるだろう。そう私は浮かれていたのだ。それが悪かった。

 ライブの前日、私は父を散歩に誘った。母は近くのスーパーに、妻は明日の同窓会の支度に余念がない。娘は友達らしき相手と長電話していた。周りが忙しそうだと己の手持ち無沙汰が解消しなければならないものに思えるものだ。そこで私は近くの川辺でも歩こうかと思い立ち、ついでと父にも声をかけてみたのだ。父は新聞越しに聞いていたが、徐に新聞を閉じて立ち上がった。私と父は並んで道を歩いた。不思議な気分だった。ほんの小さな子供に戻った気がした。背丈もとっくに越したというのに、父の背中はずっと広いようだった。夏の日差しは薄くなってきた頭を刺し、川の水は力なく流れていた。ただ草が青々と茂っていた。川辺を折り返した頃に、明日の予定を少し話した。

「わしみたいなジジイが行くと迷惑じゃないか」

「そんなこと気にせず楽しめばいいのさ。好きなんだろう? あのバンド」

「声がでかいから耳が遠くてもよく聞こえるんだ」

「前も聞いたよ」

 帰り道、家に着こうかという時だった。どさりという音が唐突に後ろから聞こえた。振り返ると父が路面に倒れていた。油断していたのだ。精悍な体をしていて年老いても矍鑠としているから、気づかなかった。父が病気をするなど、想像もしなかった。そこにいたのは、ただの老人だったというのに。気がつくことができなかった。急いで抱え起こしても、幾度も名前を大声で呼んでも、父は目を開けなかった。

*        *        *

 失ったものは返らない。それを想うことは、しかし止められない。動かない父の前で、私はまた目頭に手をやった。もっとよく様子を見ていれば。外に連れ出さなければ。いや、そもそも新たな趣味なんかにこだわらなければ……。しかしどんなたらればも意味をなさず、ただ祈ることしか私にはできない。私は祈り続ける。安らかに眠れ、今はただ安らかに──。

 がらがらとドアの開く派手な音がして、私の涙は引っ込んだ。振り返ると、娘と母が病室に入ってくるところだった。

「おじいちゃん元気?」

「帰りましたよおじいさん」

「しいっ、声が大きい」

「あっ寝てるのね」

「馬鹿、もう起きちまったわい」

 そう言ってベッドから身を起こそうとする父を、私は慌てて押しとどめた。

「だめだよ寝てないと」

「もう平気だわい」

 熱中症だった。幸い軽く済んだが、念のため今日まで入院することになっている。体を休めるためにもゆっくり寝ていてほしかったが、本人にその気はないようだ。

「そんで、ライブはどうだったんだ」

「とってもすごかったよ! あのね、まず音がすごく大きいの」

 身を乗り出して口早に語り出した娘を、母はニコニコと見守っている。父が行けなくなったぶんは、母が代わりに出かけていた。妻は同窓会に出かけている。随分と父のことを気にかけてくれていたが、医者がちゃんといるし私も残ると言って聞かせ、送り出した。

 しかし、大事に至らなかったとはいえ、父の昏倒は悔やまれた。海外バンドの日本ツアーなど、滅多にないはずだ。それに父は行けなかった。この機会はもう訪れないかもしれない。失ったものは返らない。父の不遇を思うと、悔しくて悲しくてたまらなくなるのだ。

 そんなことを考えていると、娘が朗らかに言った。

「ライブの最後に、来年また日本に来るぜって言ってたの! だから、来年はおじいちゃんも一緒に行こうね! おばあちゃんも行くでしょ?」

「もちろんよ。お母さんも誘いましょうね。同窓会と日程が被っていて、とっても残念そうにしてたから」

 二人に笑顔を向けられた父は、ついと目を逸らし、ぼそりと呟いた。

「じゃあ家族五人で行くか。どうだ?」

 父は誰も見てはいなかったが、誰に向けられた言葉か、私にはよくわかっていた。

 だから私は父の顔を覗き込んで言ってやった。

「そうしよう。いろいろ教えてね、父さん」

 父はきょろきょろとベッドの周りを見渡したが、新聞はこの病室のどこにも置いていないようだった。

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教室海
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ドビュッシーの夢みたいなものです。
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 その日は初夏で、花残り月と教室海の日だった。花残り月というのは満月の中でも特別な月で、教室海と重なることは滅多にないから、澪はいつになく上機嫌だった。教室で彼女だけが持つ不思議で神聖な雰囲気も、この日はいくらか増していた。


「今日こそは、金魚がいるといいな」
 窓際で弁当を広げている澪が目を輝かせて言った。窓から、夏のはじまりを告げる透き通った風が吹いていた。教室は昼休みの賑やかな雰囲気に満たされ、喜怒哀楽様々な声が、ステンドグラスを通って降り注ぐ色とりどりの光のように散乱していた。
「僕は金魚なんていなくていいと思うんだ」
 澪の向かい側に座る颯は、鶏肉の照り焼きを口に運びながら言った。
「でも、きっといるよ。鯉さんもいたし」
 澪は、涼しげな色のセーラー服に溢したソースを、真っ赤なリボンで拭き取りながら答えた。
「花残り月の時は何が起こるかわからない」  
 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して渡し、セーラー服とリボンにできた小さな染みを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭った。
「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけないよ。汚くなってしまうし、少し下品だ」  
 そっか、と澪は笑った。
「ありがとう」  
 強い風が吹き、それに合わせてピンクの薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。  
 気怠げな午後の授業もおざなりに、放課後はすぐにやってきた。帰りの挨拶を終えた教室はくす玉を割ったように華やかに散らばり、各々が各々の持ち場へと移動を始める。  
 澪は窓の外に、透明でどこまでも続きそうな空を認めて、こんな日にトラックを思い切り走れたら気持ちいいだろうなと思った。でも今日は早く帰りたかったから、運動着の入った巾着袋を前に暫く思案していたものの、結局は、待っていてくれた同じ陸上部の友人に「今日は休むことにする」と言って帰る準備を始めた。
「体調悪いようには見えないけど、用事?」
「今日は特別な日だから早く帰りたいんだ」  
 澪は巾着袋を鞄にしまいながら素っ気なく答えた。それまで心配そうにしていた彼女は、返事を聞くと得意げに目を細め、澪に顔を近づけると、小さくからかうように言った。
「颯くんと帰るの?」
「違うよ」  
 澪は作業を続けながらさっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。彼女は満足そうな顔をして澪に背を向けると「じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
「颯」  
 周りを囲んでいた集団が居なくなり、本を読んでいた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。
「もう行かない?」  
 颯は開いていた本をパタンと閉じると
「待たせてごめん。そろそろ帰ろう」  
と言った。その言葉を聴くと澪は日が差したように笑顔になって
「うん」  
と元気よく返事をした。  
 颯は自転車を押して、澪はリュックに両手を掛けて、二人は青葉の繁る家路を気ままに辿った。夏がすでに始まっているものの、あたりにまだ春の残り香が立ち込めているのは、山から降りてきた雪溶け水のせせらぎが、暑さを優しく受け流しているからだった。土手を歩く二人の間には、爽やかな水色の風が吹いていた。  
 橋を渡って急な階段を登りきると、家のある所まで伸びる、黄金色の長い坂道が現れる。颯はペダルに足を掛けると、澪に後ろに乗るよう促した。澪が腹にしっかりと手を回したのを確認すると、颯は坂道を風のように下った。長い長い坂道も二人には、列を並んでやっと乗ることのできた観覧車のように、ほんの一瞬に感じられた。午後の陽光に照らされた二人乗りの自転車は、清流に住う鮎のように、生き生きとした銀色を反射していた。  
 静かな夜だった。花残りの、薄く紫がかった月明かりが辺りを淡く照らし出していた。二人は約束した通りの時間に落ち合い、学校へと向かった。
「ちゃんと持ってきた?」  
 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の空瓶を、「安心して」というように掲げた。  
 二人は通学路を歩いた。毎日行く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。  
 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
「月が明るいね」と澪が言った。
「本が読めそうだ」  
 水面に映る月の翳を見ながら、颯はふと、独り言のようにそう言った。  
 道の先に校舎が見えた。昼間はどこかひなびた雰囲気で、生徒を優しく包み込むような、そういった親しげがあるのだが、溢れんばかりの月光に見出された夜の校舎は、神秘的なものに様変わりしていた。  
 鎖が巻かれた校門をすらりと飛び越えると、颯は周りを見回した。  
 花残り月の光にはいくつかの効用がある。それが桜の樹を照らすとき、桜は満開の花を咲かすのだ。昼間は葉ばかりだった校庭を囲む桜の樹たちは、うっすらと桃色を帯びて光る花弁をひらひらと風に靡かせ、誇らしげに佇んでいた。校庭は仄かに、春の匂いがする。  
 颯は澪が校門を乗り越えるのを手伝った。  
 いつも開かれている窓から校舎の中へと入る。誰もいない廊下は心なしか広く長く見えて、澪は反射的に颯の手を握った。  
 階段を上がって、二人の教室へ向かうと、廊下に面した窓から漏れた光が、ゆらりと、気持ちよさそうに揺れているのを澪は認めた。  
 逸る気持ちを抑えつつ、あくまで場の静謐を侵さぬよう、澪はゆっくりと教室の扉を開いた。  
 風のようなものが、瞬く間に二人を覆った。  
 嗅覚が一瞬にして奪われて、代わりに心地よい浮遊感が与えられる。  
 そこは海の中だった。  
 海の中と言っても教室海の中だから、周りは見慣れたいつものままで、ただ学校中の空気がそっくりそのまま海水に置き換わってしまったような具合だ。
「何回ここへ来ても慣れないな」  
 颯が呟くと、口から漏れた水泡の群れがくぐもった優しげな音を立てて上昇する。息はできる。しかし身体を動かすと、水の抵抗がしっかりと行手を阻む。不思議な感覚だ。  
 澪は徐に窓辺へと泳いだ。颯はそれを追いかける。窓の外は闇の底に沈んで、遥か頭上に花残りの月がぽつんと浮かんでいるばかりだった。咲き乱れていた桜も、今はもう全く見えない。
「あ、かわいい」  
 手のひら大の、鮮やかな黄色の筋が背中に入った魚が澪の顔を掠めて泳ぎ去る。その一匹に付いていくようにして二、三十匹の群れが教室をぐるりと回ると、二人が入った方の扉から仲良く廊下へ出ていった。
「ユメウメイロって魚じゃないかな。食べると美味しいやつだ」  
 颯が戯けてそう言うと、澪が笑いながら颯の脇を小突いた。
「駄目だよそんなこと言っちゃ。神様なんだから、怒られちゃうかもよ」  
 澪の言うとおり、ここにいる魚は皆神様なのだ。澪はそれを、亡くなった祖母から教わった。教室海の話を聞いたのは、澪が初めて教室海に行くよりずっと前のことだ。
 「大丈夫。きっと許してくれるよ」  
 良く見ると、いつの間にか周りは色もかたちも様々な海の生き物達で溢れている。  
 黒板からは艶々とした赤い珊瑚が伸びている。古びた机の上では青を閉じ込めたような海牛がせっせと動いている。真っ赤な小魚がロッカーに生えた水草の間をすいすいと泳いでいる。  
 月は段々と高度を上げて、辺りはますます明るくなっていた。
「金魚を探しに行こう」と澪が言った。  
 廊下へ出るとそこには、紡錘形のざらざらとした体に、凶悪な顔をしたサメがゆうゆうと泳いでいた。襲われるような心配は無いとわかっていたが、それでもぴんと張った緊張感が二人の動きを止めた。サメが角の向こうに行くまで、二人は静かにしていた。
「もしかしたら話せたかもしれないね。すごく大きかったし」  
 澪が強がりの笑顔でそう言った。  
 魚たちの中には、稀に言葉を扱える者もいて、彼らは特別な力を持っているのだ。これも澪の祖母から聞いた話だった。実際澪も、何度か話したことがある。丁度前回の教室海の時、澪は願った物をなんでも、鰭を振るうだけで用意できるという鯉に出会った。鯉は大らかで優しく、澪は当時流行っていたテレビ番組のキャラのブレスレットを、颯は分厚い魚の図鑑をそれぞれ貰ったのだ。  
 生徒玄関には小さな黄色い魚がたくさん泳いでいた。靴箱をひとつひとつ確認したものの、金魚は居なかった。澪の靴箱には顰めっ面の丸いオコゼがすっぽりと収まっていた。  
 理科室に置いてある試験管からは長短豊かなチンアナゴが顔を覗かせていた。人体模型にはウツボが巻き付いていた。けれど、金魚は居ない。二人は職員室や他の教室を丹念に探したけれど、結局金魚は見つからなかった。  
 月が昇り、魚の数はどんどん増えていた。月が真上にある時が教室海のピークで、魚の数は一番多くなる。そして、傾くにつれて魚は姿を消し、教室海は最後に微睡の間に夢と交わる。やがて教室は普段の教室に戻る。  
 放送室を探していた時に、颯が言った。
「そうだ、音楽室に行こうよ。鯉さんなら助けてくれるかもしれない」  
 音楽室の扉を開けると、澪はグランドピアノへ泳いだ。音楽室には燻したような銀色の、細く長い体をした魚が月光に揺れ漂っていた。
「すごい、リュウグウノツカイだよ。本当の海じゃ、すっごく珍しいんだ」  
 興奮気味に澪を追いかける颯の横を鮎の群れがびゅんびゅんと追い抜いていく。教室海では、海魚も川魚もない混ぜだ。  
 鍵盤蓋を持ち上げると、澪は目を瞑って鍵盤に指を置いた。颯は様子の変わった澪を、少し心配そうに見つめた。  
 澪は息を吸い込んだ。どこかから聞こえるくぐもった水泡の音。静かな水の流れ。  
 澪の指が、鍵盤を優しく撫でた。  
 壁に耳をあててやっと聞こえるような繊細なピアニッシモから、その曲は幕を開ける。  
 花残り月の光。アンダンティーノの雨垂れ。  
 全ての物音を水が邪魔する教室海で、ピアノの音だけが澄んで響く。  
 防音の重い扉が誰が触るとなく開き、胸鰭の付け根に黒い点があって、尾鰭が黄色の魚が現れた。鯵だ。最初の一匹を皮切りに、次から次へと同じ姿の魚たちが、競うように入り込んでくる。  
 鯵の群集はそのまま音楽室の高い天井目一杯に群れを成し、きらきらと月の光を反射しながら、巨大な銀の鏡のような魚群となって、ふわふわといたリュウグウノツカイの周りを周回し、幾らも経たないうちに完全に覆い隠してしまう。  
 凭れるような音色の中に、儚い優しさが潜む。鯵の群れは一つの意志を持った筋肉のように収縮する。まるで澪の演奏に合わせて幾千もの鯵が踊っている、そんな感覚を颯は覚えた。  
 やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。  
 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは見当たらず、代わりに途轍もなく大きい、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね……。どうもありがとう」  
 鯉は心が震えるような声をしている。
「久しぶりだね。鯉さん」  
 澪は親しげに話し掛ける。
「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
「君たちはすごく大きくなった」  
 鯉はしみじみ、そう言った。
「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
「鯉さんは前に僕たちにプレゼントをくれた。そんなふうに、僕らの質問に答えをくれることはできる?」  
 鯉は宝石のような澪の眼差しに射抜かれて、困ったようにくるりと回った。
「質問の種類にもよる。けれど、大抵の事なら答えられるはずだよ。さあ話してごらん」  
 澪は手を叩いて喜ぶと、すぐに言った。
「私、金魚さんがどこにいるか知りたいの」
「わかった。やってみよう」  
 鯉は和かに、胸鰭を優雅に動かした。
「金魚は花残りの月が真上に昇る時に、君たちの教室に現れる」  
 鯉の言葉に、颯は窓の外を見上げた。いつの間にか月は大分高くなっている。
「澪、急がなきゃみたいだ」
「そうだね。鯉さんありがとう。また今度……」と言って先を急ぐ澪の手を、颯は掴んだ。
「待って澪。瓶を頂戴」  
 澪ははっと思い出した顔をして、首からコルク瓶を取り、颯に渡した。
「鯉さん、僕らに教室海の水をください。絶対無くならないよう、この瓶に詰めて」
「いいよ。勿論だとも」  
 鯉は再び胸鰭を動かした。空気を閉じ込めていた小さな瓶は教室海の水で満たされた。
「ありがとう。さようなら、鯉さん」
「さようなら」  
 慌てて駆けて行く二人の背中を見ながら、鯉は淋しそうにそう言った。  
 二人は静かな校舎を急いだ。魚たちはさらに数を増やしており、見渡す限りが生き物に埋め尽くされていた。颯は昔訪れた沖縄の水族館を思い出した。その時は水族館の光景を、教室海に似ていると思ったのだ。  
 二匹のマンタが、二人の頭上を覆い被さるように横切る。カワハギに似た魚が階段の手すりに沿って泳いでいる。手の甲よりも小さなフグたちが、踊り場につけた嵌め殺し窓の枠の周りをせっせとつつきながら、小さな鰭を懸命に動かしている。
「よく考えたら、海亀を見たことがないね」  
と澪が言うと、
「確かにそうだ。でもどこかにいるかもしれないよ。教室海は広い」と颯は言う。  
 澪は視界の端に途方もなく大きな尾鰭が家庭科室のドアから覗いているのを見つけた。
「そうだといいな」  
 鰭が消えていくのを見ながら、澪は呟いた。  
 二人は魚を掻き分け、やっとのことで教室に到着した。時計の秒針が零時に重なる、ほんの少し前のことだった。  
 扉を開けると教室は、溢れんばかりの月光で満たされていた。二人がはじめにいた時より、生き物の数は格段に増えていた。  
 海の生き物の息遣いが聞こえる。  
 花残りの月が、教室海に零時を告げた。  
 黒板が、柔らかなオレンジに染まり始める。炎のようなその光は枠をなぞるように流れ、次第に黒板全体に浸透してゆく。  
 二人はその様を、息を呑んで見つめていた。  
 炎はやがてひとつにまとまり、ぼんやりとした膜が生じたと思うと、いつの間にか可愛らしい、見慣れた魚に姿を変えた。  
 金魚だ。
「こんばんは」  
 金魚が静かな声で言った。
「こんばんは」と澪がペコリとお辞儀をした。  
 颯は黙って澪の右後ろに立っている。
「君たちも、未来の事を知りたいのかい?」  
 先に言われてしまったから、澪は中途半端に開きかけた口を噤むと、頷いた。  
 金魚は暫く黙っていたが、やがてゆっくりと泳ぎ始めた。金魚の優雅なオレンジ色の体は、教室にきらきらと輝く軌道を描いた。二人は静かに金魚を待った。周りの生き物たちも息を潜めていた。長い時間を掛けて再び二人の前に戻ると、金魚は言った。
「君たちに話す未来は無い」  
 その言葉を聞いた澪は悲しい顔をしたが、諦めることができなくて食い下がった。
「どうして? あなたは全て知っているのに」  
 金魚は溜め息をつくと、聡明な眼で二人を見た。そして優しい声でこう答えた。
「君たちに話したくないんだ。君たちの未来が暗いと言うわけじゃない。未来を知るということ自体が褒められたことじゃないんだ」  
 颯は澪の手を握る。いつの間にか、澪は涙を流している。
「私は怖い。金魚さん、私は未来が恐ろしいの。私はずっと……」  
 嗚咽混じりと澪の言葉に、金魚は笑った。
「わかった。じゃあ君たちに、少しだけ未来を教えてあげよう。これくらいなら大丈夫」  
 澪は金魚の言葉を聞くと顔をあげた。教室海の中で澪の涙がぽろぽろと浮かんでいた。
「君たちは、もう大人になるんだ。だからここに来るのも、今日が最後だ」  
 颯は握る手を強めた。そして、
「泣かないで澪。大丈夫。僕は澪を置いてったりなんかしない。安心していいんだ。未来は、僕らが決めるものなんだよ」  
と言って精一杯微笑んだ。  
 月の光が差して、二人を包み込む。
「もうさよならの時間だ」と金魚が言う。
「さよなら金魚さん」澪は言った。  
 二人を包んでいた黄色い光は砂粒のようになって拡散した。それに合わせて教室海はゆっくりと解体されていった。生き物は月の砂に触れると溶けて同じような光の粒になり、またそれが拡散した。辺りいっぱいが光に包まれたところで、二人は目を閉じた。  
 目を覚ますと教室で、二人は机を挟んで窓際に座っていた。月はもう沈んで、校庭の桜はいつも通りの葉桜に戻っている  
 清らかな初夏の朝日が、山間から顔を出す。遠くから、朝を告げる鳴き声が聞こえる。  
 教室海の存在はまるで胎児の時の記憶のように輪郭をなくし、午睡の夢のように霞んでいた。しかし澪の胸には、月光を含んだ教室海の水を、健気に湛えた小瓶があるのだった。  
 二人は静かな朝の教室で、初めてのキスを交わした。  
 真夏が、もう間も無くやって来る。

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地図クライシス
Notorious
魔法の地図が巻き起こすドタバタ劇。
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 クーラーの壊れた図書室は、窓を開けていても暑かった。まだ昼前だというのに、汗で制服のシャツが張り付いて気持ち悪い。夏休みにもかかわらず学校に来たのは冷房目当てだったのに、これでは宿題も捗らない。僕は頬の汗を袖で拭うと、ノートから目を離して窓の外を見やった。

 青々と葉を茂らせた桜の枝がすぐそこでわずかに揺れている。校舎の二階にある図書室からは、広い運動場の奥の街並みもよく臨めた。青空には立派な入道雲と容赦なく照る太陽があって、家々の黒い屋根が眩しく光を反射している。眼下の運動場では、同じクラスの甲野が一人きりで練習に励んでいた。陸上部の紅一点である甲野はトラックを黙々と走り続け、聞こえるのはその足音とセミの鳴き声だけだった。

 夏休みの図書室に、他の利用者はいなかった。司書の先生もいつの間にかいなくなっている。多分、冷房の利いている職員室に行ったのだろう。僕はシャープペンシルを置いてぐるりと首を回した。

 ふと、部屋の隅に目が留まった。そこは郷土資料の棚で、一度も近づいたことはない。学校の創立以来、誰もそこの本を借りたことはないのではないかとすら思う古臭さだ。そんな棚に並ぶ本と天板との隙間に差し込むようにして、一枚の紙が置いてある。僕は立ち上がって棚に向かった。その紙は太い本の上にひっそりと横たわっており、たまたま目に留まらなければ決して気づかなかっただろう。それはどこか不思議な風格を備えていた。そっと紙を引き出し、埃を軽く払ってみる。A4くらいの白紙に、ペンで四角や文字がたくさん書き込まれている。

 読んでみてすぐにわかった。この紙は、この学校の地図だった。敷地の左半分は運動場で、右半分には校舎が横に二棟並んでいる。どちらも三階建てで、この図書室は左の棟の二階だ。地図には、それぞれの棟の各階の平面図も描かれており、教室の名前も丁寧な筆跡で書き込まれている。地図の左上には方角を示す記号が、右下には一つの目盛りの脇に「50m」という縮尺が書かれている。

 席に戻った僕は、暑さも忘れて地図をまじまじと眺めた。これは誰が描いたのだろう。白紙にペンと物差しで描かれているようで、かなりの手間がかかっていそうだ。顔も知らない誰かの筆跡に、僕は身を乗り出して見入っていた。そのとき、頬を伝った汗が水滴となり、あっと思う暇もなくぽたりと落ちた。雫は、机上の地図の図書室のすぐ横に黒いしみを作った。

「やべっ」

 そう呟いたとき、外から轟音がして僕は椅子から飛び上がった。大雨が降っていた。窓の外は明るいのにどうどうと雨が降り、驚いたセミが調子外れの声で鳴きながら飛んでいった。

「あ、雨?」

 運動場から戸惑う甲野の声が聞こえてきた。これも地球温暖化の影響なのだろうか。僕は驚いたが、地図に垂れた汗を早く拭かねばと、急いでシャツの裾で地図を押さえた。

 すると、ぱたりと雨音が止んだ。外を見ると、何もなかったかのように青空が広がっている。今のゲリラ豪雨は幻だったのかとすら疑ったが、つややかに濡れた桜の枝だけは雨の気配を残していた。窓から外を見下ろして、驚いた。校舎のすぐ隣に巡らされた花壇の土や、運動場との間にある道は黒々と濡れて水たまりができている。しかし、そこだけなのだ。道が濡れているのは正面だけだし、運動場では乾いた土の上で甲野が呆然と空を仰いでいる。雨は図書室正面の道を中心に、直径十メートルほどの範囲だけに降ったようだった。

 いくら異常気象が頻発しているとはいえ、こんなに局所的な豪雨が起こるだろうか。首をひねりながら席に戻ると、地図が目に入った。僕の頭の中で、地図に薄く残った汗のしみが、窓から見た雨の跡と重なった。

 地図も現実も濡れた場所が同じだ。僕は首筋を人差し指でなぞった。馬鹿らしいと思いつつも、手は止まらない。夏の猛暑で僕はべっとり汗をかいている。すぐに指先は十分に濡れた。周りに誰もいないことを確認すると、僕は地図上の運動場の真ん中にそっと指先を押しつけた。

 ざあああああ。反射的に外を見ると、運動場の中心で雨が降りしきっていた。甲野が頭を抱えて逃げている。雨は運動場のわずかな範囲にしか降っていない。空も明るいままだ。指を離してシャツの裾で拭くと、ふっと雨は止んだ。雨の降っていたところの土だけが黒っぽくなり、トランポリンくらいの小さな円を作っていた。ちょうど地図にできた汗のしみと同じ場所に。

 自然と鼓動が高鳴った。もはや偶然では済まされない。この地図は雨を降らせることができるのだ。僕は居住まいを正して謎の地図をもう一度見つめた。どういう原理かは全くわからないが、とにかくこの地図が濡れると対応する現実の場所で雨が降る。しかし、それだけだろうか。

 ふと思い立って、僕はシャーペンを取った。注意深く芯の先を地図上の図書室に当てる。室内を見渡してみるが、特に異常はない。僕は一つ深呼吸をすると、思い切ってシャーペンを滑らせた。シャッという音とともに図書室を二つに等分する線が引かれる。後ろを振り返ると明らかな異常があり、思わず「うわ」と声が出た。数秒前まで確かに何もなかった空間に、真っ白な壁が築かれていた。立ち上がって壁に歩み寄る。ペタペタと触り、コツコツと叩き、ちょっと強く蹴ってもみたが、ビクともしない。正真正銘の壁だった。

 空想が確信に変わった。この地図は現実と連動している。そんなことありえないと叫ぶ理性を、目前に立ち塞がる壁の質感がねじ伏せていた。確かに、この地図は現実を動かすことができる。

 そのとき気づいた。この壁は図書室を入り口側と奥側の二つに分断している。僕がいるのは奥側の半分だ。つまり、図書室唯一の入り口は壁の向こう側にある。すなわち、閉じ込められてしまった。

 地図の降らせた雨のおかげで気温は下がっていたのに、嫌な汗が吹き出した。壁は叩いても蹴っても微動だにしない。二階だし、窓から飛び降りるのも危ない。司書の先生もいないし、叫んでも誰も来ないかもしれない。焦って呼吸が速くなったが、はっと思いついた。席に戻って消しゴムを取り、そっと紙に押し当ててこすり始める。僕は今しがた描き加えた線を慎重に消していった。線が綺麗に消え、振り向くと壁は影も形もなくなっていた。いつもの図書室に戻っている。

 僕はほっとすると同時に、胸が高鳴るのを感じた。クリスマスプレゼントを開けた幼い子供のようだった。この地図は書かれたことをそのまま現実に反映するのだ。これがあればなんでもできる。この学校を自由自在に操れるし、何か問題があれば消せばいい。超自然の能力を独り占めしているという事実に、心が飛んでいくような気分がした。

「さて、まずは……」

 僕は地図にシャーペンを走らせた。運動場の真ん中に大きめの四角を描き、少し悩んでからその中に「時計塔」と書き込む。その途端、外から小さな悲鳴が聞こえてきた。外を向くと、運動場には立派な煉瓦づくりの時計塔がそびえていた。その横で、甲野が呆然と塔を見上げている。校舎と同じくらい高い時計塔のてっぺんには古めかしい時計がついていて、意匠の凝らされた針がガチャリと時を刻んだ。

 甲野はおそるおそる塔に近づいていく。僕は悪戯心を起こして、再びシャーペンを走らせた。時計塔の横にもう一つ四角を描き、中に書いたのは「プール」の文字。書き終えると同時に、ドボンと水音がした。

「プハッ、な、何?」

 運動場を見下ろすと、甲野がプールサイドに泳ぎ着いたところだった。運動場のど真ん中に、時計塔とプール。見たこともない光景に笑いが込み上げてきた。しかし、ずぶ濡れになった甲野が体を震わせたのを見て、ばつが悪くなった。さすがに悪戯の度が過ぎていたか。僕は消しゴムでプールを消した。一応窓から確認しておいたが、ちゃんとプールはなくなっている。それに気づいた甲野が「さっきからなんなのよ!」と叫び、プールのあったところの土を踏みつけている。

 次は何を作ろうか。僕は考え始めた。もう少し運動場に何か建てよう。馬小屋とかどうだろうか。僕はすっかり夢中になっていた。僕はほとんど意識せずに、地図の上の消しカスを思い切りふーっと吹き飛ばした。

 次の瞬間、猛烈な風が吹いた。紙がはためき窓ガラスはがたつき運動場から甲野の悲鳴が聞こえる中、地図はあっという間に窓の外へと吹き飛ばされていく。僕は慌てて手を伸ばしたが、吹きつける突風に思わず目を閉じ、再び開いたときには地図はどこかに消えていた。風はまもなく止んだ。僕は自分の理解が間違っていたことを悟っていた。

 地図は書き込まれた情報を現実に反映するのだと思っていたが、それだけではない。きっと、地図は表面に加えられた一定以上の動きも反映するのだ。今の突風は、僕が地図に思い切り息を吹きかけたから起こったものだ。あの地図は軽々しく扱ってはならないものだった……。

 窓に駆け寄りながら、脳裏には最悪のシナリオが駆け巡っていた。最初に降らせた雨で、窓の外には水たまりができている。風に飛ばされた地図がそこに落ちて水びたしになれば、学校中に豪雨が降りしきるだろう。そうなったら大洪水が起こってしまう。いや、それならまだいい。紙が溶けたりしたら、この学校自体がなくなってしまうかもしれない。

 今のところ洪水は起きていない。つまり、まだ間に合う可能性があるということだ。僕は祈りながら外に身を乗り出した。眼下の水たまりに白い紙は……見当たらない。僕は大きく息をついた。

 だが安心するにはまだ早い。どこかの地面に落ちていたら、誰かが気づかず踏んでしまうかもしれない。そうなったら大地震が起きてしまう。僕は地面にいっそう目を凝らした。急いであの地図を回収しなくてはならない。しかし、地面を隅から隅まで眺めても、地図らしきものは見つからない。どこか遠くに飛んでいってしまったのだろうか。そのとき、何か水音が聞こえるのに気がついた。雨ではない。もっと下の方でくぐもって聞こえる。まるで浴槽にお湯を溜めているときのような……。

 突然、バリンと派手な音がした。首を曲げて左の方を見下ろすと、一階の部屋のガラスが割れ、室内から大量の水が流れ出していた。窓から水とともに司書の先生が悲鳴をあげて流されていく。そこは職員室だった。なぜかはわからないが、職員室から大量の水が溢れ出している。いや、なぜかは知っている。間違いなく地図のせいだ。

 一刻も早く地図を見つけなければならない。僕は必死で辺りを見回したが、どこにも地図は落ちていない。その間にも水の奔流は勢いを増していく。面白半分でこんな悪戯をしてしまったから、ばちが当たったのだ。絶望して空を仰ぐと、地図があった。

 外に植わっている桜の木。その一本の枝の先に、地図は引っかかっていた。風に舞い上がった地図は、コックがピザ生地を指一本で回すみたいに、枝先の一点で支えられている。地図上のその一点は、職員室。先刻の雨で濡れた枝が地図中の職員室を濡らして、その結果、実際の職員室の中だけで雨が降り続いているのだ。

 僕はサッシに足をかけて半身を外に出した。左手で窓枠を掴んで右手を必死に伸ばす。だが、地図にはわずかに届かない。そうしているうちにも水は流出し続ける。濡れ鼠になった先生たちが続々と校舎から逃げ出してくる。早く地図を取らないといけないのに、ほんの数センチのところで指が空を切る。あと少し、もう少し……。

「何をしてるの? 危ないわよ」

 驚いてそのまま落っこちるところだった。桜の木の根元で、甲野がタオルで髪を拭きながらこちらを見上げていた。水の噴き出す職員室を見て不思議そうな顔をした甲野は、僕にもう一度声をかけてきた。

「何か取ろうとしてるの? あ、その木に引っかかってる紙?」

 僕が運動場で遊んだせいで感覚が麻痺しているようだ。同級生の奇行や噴水の出現くらいでは驚かないらしい。申し訳なく思った刹那、閃いた。僕は室内に取って返し、シャーペンを拾い上げると下に叫んだ。

「甲野!」

「何よ」

「今からこの紙を落とすから、キャッチしてくれ!」

「え? まあ、いいわよ」

「絶対落とすなよ!」

「わかったわ」

 僕はもう一度身を乗り出すと、持ったシャーペンを突き出した。思い切り腕を伸ばすと、ペン先がわずかに紙に触れた。そのまま手首を振る。ペシリと紙が弾かれ、地図が枝から離れた。そのまま地図はひらひらと舞い降りていく。僕は固唾を呑んで不規則に落ちていく地図を目で追った。紙は右に左にひらひらと軌道を変え、それに合わせて両手を広げた甲野も左右に蟹歩きする。職員室の水音が止んだ。静かになった世界で、地図と甲野の動きだけが見えた。遂に地図が甲野の目の前まで落ちてきたそのとき、地図は空中でくるりと翻って一瞬だけ静止した。その瞬間を逃さず、甲野は勢いよく両手で地図を挟み込んだ。

「えい!」

 バチン。

 すぐさま強烈な縦揺れが襲い、僕は空中に投げ出された。落ちると思う間もなく背中に衝撃が走る。甲野が悲鳴をあげてその場に座り込んだ。

「地震⁉︎」

 数秒グラグラと揺れ続けたあと、地震はおさまった。その両手で地図を叩いたからこの地震が起こったとは、甲野は夢にも思うまい。

「大丈夫⁉︎ 怪我はない?」

 甲野が地図を持ったまま僕の顔を覗き込んできた。僕は真下の花壇に落下していた。柔らかい土のおかげで、背中は泥まみれだが怪我はないようだ。地図は甲野が無事にキャッチした。どうにか助かったと身を起こした途端、不穏な音が響き渡った。

 運動場の真ん中にそびえ立つ立派な時計塔。僕が建てたその塔が、ギギギと軋んだ。そして根元の一角の煉瓦ががらりと崩れると、塔はゆっくりと傾き始めた。ちょうど僕たちの方へ。僕も甲野も動けなかった。轟音とともにみるみる大きくなる塔の影は、僕らに覆い被さってくる。

 そのとき、僕は自分がシャーペンを握っているのに気づいた。地図を落としたまま持ち続けていたのだ。塔が倒れる。その直前、僕は両手で甲野の手を取った。固く目をつぶった僕らを衝撃が襲った。

「……あれ?」

 おそるおそる目を開けた僕らは、両手を握り合ったまま周囲を見回した。巨大な塔が僕らを押し潰す代わりに、巻いた絨毯ほどの小さい塔が僕らの膝の上に倒れて砕けていた。手の平サイズの時計と極小の煉瓦が足元に散乱している。それだけではない。背中に何か当たっていると思ったら、校舎だった。甲野の半身は運動場にはみ出している。

「……何が起こったの?」

 僕は崩れた塔をそっとどかした。甲野の膝に乗った塔の破片も払う。甲野は呆然と校舎を見ていた。三階建ての校舎の屋上は、座った甲野の頭くらいの高さしかない。運動場は教室ほどの大きさに縮まり、僕らは校舎と運動場の狭い隙間に身を詰め込んでいた。

「わたしたち、巨人になったの?」

「ううん、逆だよ」

 僕は甲野の手を引いて立ち上がった。甲野はぽかんと辺りを見渡した。僕らの足元にはミニチュアとなった学校。その周りには更地が広がり、先生たちが唖然としてこっちを見ていた。ずぶ濡れの司書の先生もいる。そして、それらの向こうにはいつも通りの大きさの街並みがあった。

「……つまり、学校が縮んだってこと?」

「そういうこと」

 甲野は困ったような目で僕を見た。僕は校舎と運動場の隙間に体を押し込み、深々と土下座した。

「この度はご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした!」

 ますます困惑の色を強くした甲野は、

「よくわかんないけど、とりあえず反省してよね」

と言い渡すと、どうすんのよこれ、と呟いた。

 甲野が持ったままの地図には、縮尺に小数点が加えられて、「5.0m」と書かれていた。

 僕はもう変な地図で遊ばないことを固く誓うと、学校を元に戻すために消しゴムを探し始めた。

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キュアラプラプ
①うく。うかぶ。うかべる。 ②はかない。よりどころがない。 ③うわつく。うわべだけの。
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 弾ける音。体をひとつに維持しようとする力を逃れ、なるがまま空中に脱出した小さなかけらが、精一杯手足を引っ込めて、小さいボールの形になっている。彼らはすぐに元の体に飲み込まれる。世界を隔てる無数の境界のうち二つが、重なって、同じになる。その弾ける音が、誰の耳にも届かないようなささやかな音が、ひょっとすると人一人の人生よりもっと多彩な命をたたえて、あらゆる速さで、あらゆる角度で、あらゆる場所から水平線を埋め尽くしている。無数の音が折り重なり、なめらかな、まるでこぼれる砂のような、涼しい深みのグラデーションを伝える。

 唸る音も聞こえる。途方もなく大きい体に縛られて、つかのまの自由すら手にできない部分が、それでもバラバラになろうとしてもがく。しかし、ねじられ、折られ、つぶされてさえ、その体はすべてを抱擁し、受け入れてしまう。聞こえてくるのは、その抵抗がもたらした、ただ無限に深くぶあつい永遠の音だけだ。今度はその低さという意味で、誰の耳にも届かないようなどす黒い音が、まるで幽霊のようにこの宇宙に沈殿していると思うと、ぞっとする。

 ――これは海の音だ。ようやく気づいた。急速に意識が覚醒し、視界が開いていく。宇宙服が体にのしかかる。

 宇宙飛行士は、ある星系の調査に来ていた。グローバル化が完成し、あらゆる社会制度、文化、価値観が一つに集約・規定されてから、人類は宇宙への進出を激化させていった。この宇宙飛行士も、その末端の一人だった。不幸なことに、違法なスペースデブリとの衝突によって宇宙船の機体が損傷し、この未知の惑星への不時着を余儀なくされた。気を失う前、最後に見たのは、星一面に広がる青く黒い海だった。

 起き上がった宇宙飛行士は、惑星の原住生物らしき未知の生命体に囲まれていた。彼らは乳白色の皮膚と、一対の腕、一対の脚を持ち、直立二足歩行の機能を備えている、陸棲の生物だった。かなり人間に近い見た目だが、頭部に相当する部位を持たず、脳は体内に、感覚器官は腕の先に配置されている。宇宙飛行士は、このような地球外生命体との接触に慣れていたので、さして動揺しなかった。宇宙に豊富に存在する炭素を骨格に、十分に複雑な化合物が合成され、それらが互いに組み合わさって、生物というシステムになる。宇宙進出が本格化してから、こういう現象はありふれたものだと分かったし、高い知能をもつ文明的生物ほど、ヒトにも当然当てはまる「直立二足歩行」や「薄い体毛」といった形質に収斂されていくことも知られるようになった。

 生物は、何かうがいのような音を体から立てながら、宇宙飛行士の周りを飛び跳ねており、その度に地面が揺れた。そこは、海上に浮く藁のような植物のかたまりに構成される、いわゆる浮島だった。とりあえず携帯デバイスの音声言語分析システムを起動させると、彼らのそれがやはり意味をもつ言葉であることが分かった。直訳が表示される。

「広い陸地! あなたは歓迎されています!」


*        *        *


 この惑星のひときわ目をひく特徴は、陸地が無いことだ。文字通り、見渡す限りの海の上を、彼らは浮島の上に暮らしている。だから、乗ってきた宇宙船を捜すべく、宇宙飛行士が超小型ドローンを使って周辺の地図を作成しようとしたときも、出来上がったのはただの青黒い四角形で、よく見ると黄褐色の浮島があるのが辛うじて分かるくらいだった。

 しかし、数百年に一度だけ、この星にも陸地が現れる。普段は海に覆われているから、惑星はほぼ完全な球体に見えるが、実のところ水面下の形状は非常に歪で、太った円錐のような形をしている。そのおかげで、公転軌道のある地点で巨大ガス惑星に接近するとき、強い潮汐力のはたらきで海水が底面の方に流出・集中し、数か月から半年、長ければ一年のあいだ、惑星の円錐頂点部分が地上として露出した。

 宇宙飛行士が聞いた話によると、その生物の文明はある時点の「陸地期」に生まれ、以来長い「海洋期」と短い「陸地期」をくりかえし経験しながら、現在まで絶えることなく続いてきたという。陸地期には、普段は海底で休眠している生物群も一斉に活動を再開し、惑星は一時の繁栄を謳歌する。彼らは神殿を建造し、石板に自身の名前を刻みつけて、その時代に立ち会うことのできた奇跡を称える。もっとも自由によろこびを歌い、狂ったように踊る。

 生物のほとんどは、この美しい時代の到来を待たずに死ぬか、ほんのすこし遅れて産まれてきてしまう。自身が幸運の世代であることを祈りながら、彼らは長い海洋期を生きている。浮島は陸地期の度に編みなおされるが、海上では波にさらされて劣化していくので、常に補修しつづけなければならない。さもなければ、浮島は裂けるように腐り落ち、別の浮島として分断されてしまった。半分になった浮島では、もとの人口の重さに耐えられないから、彼らはそのまま別の浮島で生きていくしかない。二百年も経つころには、積まれていた補修の材料も尽き、浮島は数百に分裂してしまうという。

 細かくなった浮島の行く末は運任せに近い。彼らの主食でもある魚に似た小型海洋生物の皮や骨は、もろすぎて補修材には適さないが、この限りなく海だけが広がる星ではそれにすら頼らざるを得ない。浮島が完全に大破するまでに陸地期が来ることを、ただ祈っているしかない。

 しかし、時には恵みもある。宇宙飛行士が彼らから聞かされた言い伝えによると、浮島を守るものは稀に「空から落ちてくる」という。これは基本的に、この星に住む翼竜のようなある大型生命体を指している。この巨鳥は生態系の頂点に立っており、陸地期にも海洋期にも変わらず空を飛び回る。巨鳥は時に彼らの浮島にさえ襲い掛かるが、その死体、特にその翼の部分は強固かつ軽いので、浮島を修復する助けになった。しかし驚くべきことは、これが異星人を指している場合もあるということだ。彼らの記録によると、この惑星には少なくとも十四回以上にわたって異星人が不時着しているらしい。彼らは、異星人の使う、人類が呼ぶところの「パラシュート」を引き上げて、補修材に用いていた。

 これを言われて初めて、宇宙飛行士はこの浮島の一部に自身の機体に搭載されていたパラシュートが充てられていることに気づいた。こうやって惑星にやってくるパラシュートは、当然ながら高度な宇宙進出文明によって作られており、非常に強固な繊維を有しているため、これによる補修は数十年から長ければ百年もの間機能する。彼らの歓迎は、どうやらこの「恵み」に対する感謝の表れだったらしい。彼らは豪華に盛り付けられた「魚料理」を宇宙飛行士に捧げてきたが、未知の異星人の提供するものを食べるのは危険だし、そもそもこの惑星の外気はヒトに適さず、宇宙服を脱いで何かを食べるということ自体ができなかったので、汎用翻訳機を通じて丁重に断っておいた。

 こういった宇宙遭難に備えて、宇宙船には救難信号の発信機と、半永久的に稼働できる生命維持室が用意されていた。しかし、宇宙服単独の生命維持機能は、わずか5日間で終了する。宇宙飛行士は、それまでに海底のどこかに沈む宇宙船を捜し出さなければならなかった。このだだっ広い、青黒い四角形の世界で、何をどう見つけることができるのか。幸いにも、浮島の住民たちは宇宙飛行士に休息の場を与えてくれたが、疲労は募るばかりであった。

 この惑星の空は、日が沈むときも青いままだ。空と海を結ぶ水平線は、二つの青を凝縮した強く黒い青色に染まって、世界を完全に包囲していた。気まぐれに風に揺れる海の小さな欠片が、何万回、何億回とぶつかり合い、世界に一度しか生まれ得ないような偶然の瞬間に立って、周期を一致させ、世界を分断する平面を飛び越える。波は前進し、さらに大きくなって、やがて海の下へ帰っていく。この繊細かつ豊かなダイナミクスを感じるには、海はあまりにも巨大すぎた。海面に浮かぶ海底の屈折した景色が暗すぎて見えないのが、それぞれの太陽の光に目を焼かれないようにするためなら、海はいったい何を感じようとしているのだろうか。

 水平線に、この星の太陽が、沈んでいる。海から反射する白い閃光が、まるで生き物のような軌道を描いて泳ぐ。雲は濃い青の夕焼けに飲み込まれ、褪せた埃のように見えた。この星の生物が地球を訪れ、昼と夜との間に挟まる毒々しいオレンジの空を見たとき、やはり不気味に思うだろうか。日の入りの逆方向に目を向けると、夜空が暗くて見えないせいで、そこに輝く星が見えることに気づいた。


*        *        *


 翌朝、宇宙飛行士が目を覚ますと、何やら辺りが騒がしかった。事情を聴いてみると、どうやら昨夜、住民の一人が寿命を迎えて死んだらしく、今は葬儀を行っているという。しかし、宇宙飛行士の目に映るのは、悲しみに暮れる住民たちの姿ではなく、むしろ陽気な宴会とさえいえる代物だった。住民は「魚」をたらふく食べ、酩酊作用を引き起こすらしい貝のエキスを呑みながら、例のうがいのような音でかすれた弦楽器のようなハーモニーを奏でている。宇宙飛行士はたまらず近くの住民をつかまえ、その老人の死が悲しいとは思わないのかと尋ねた。その住民が訝しげに語ったことによれば、確かに彼が陸地期を待たずして死ぬことになったのは残念だが、結局はいつかのタイミングで、陸地期の周期と何度めかも分からない生まれ変わりの周期を一致させ、陸地に還っていくものだという。それが遅かろうが早かろうが、本質的には違わず、海の底に名前を刻む瞬間は誰にでも訪れるのだ。

 海だけの世界に生まれ落ちて、全てを海に見出し、かつ海に全てを見いだす彼らの自然観は、しかし宇宙飛行士には少し不気味に映っていた。それはあるいは、この時遠くの空に浮かんでいた黒く分厚い雲の接近や、徐々に高く、激しくとぐろを巻きはじめた海流の縦横のうねりに、恐るべき嵐の動乱を予感させられたからかもしれない。とにかく、その日が沈まないうちに、浮島は暴風雨に見舞われた。水葬として遠くに流されていった老人の死体は、波にもまれ、あたかも苦しみもがいているようだった。

 惑星を巡る風の均衡が破壊され、気流はパニックを起こしたようにのたうち回る。普段こそ空間をどっしりと満たしている大気は、浮き足立ち、恐慌状態の金切り声をあげながら自身を引き裂く。雲を、海を、力のままに殴りつける。宇宙服によって触覚が保護されている宇宙飛行士でさえ、平衡感覚を失った。絶え間なく、切れ目なく天空から染み出し、海を目指して流れてくる雨は、さながら河川のように空を侵食し、雷のような轟音を海面に散らしながら、滝のように眼前に迫ってくる。世界を海に囲まれている。惑星の内側に向かう暴力にあてられて、海もまた黒い体を震わせた。巨大な水の肉体を構成するために、すべての水滴を結び付ける力が、弾性と粘性をもって暴力に反応する。鉛玉に撃たれた人間が傷口から鮮血を噴くのと全くもって同じように、この海もまた嵐に抉り取られ、引き裂かれ、ぶたれた傷口から、白くほとばしる泡だらけの大波を噴きだす。それが浮島を揺らして弄んだ。浮島の住民たち、そして宇宙飛行士は、自分たちが宇宙的な力学の世界に投げ出されたものだとさえ感じた。惑星の巨大な天体運動にしがみつく術は、陸地にしか無いのだ。それほどひどい嵐だった。

 そのために、宇宙飛行士も最初はそれに気づかなかった。住民がぽつぽつと浮島から転落し、荒れ狂う海に投げ出されているのは、単なる自然災害による事故だとばかり思っていたが、それは明確に、住民が住民を突き落としているがためのものだった。ひどい災害のために、浮島の集落の間でパニックが発生しているものなのかとも考えたが、それにしては住民たちは冷静だった。意を決して宇宙飛行士が住民の一人に尋ねたところ、どうやらこれは「巨鳥祭」の準備であるということだった。彼らは経験則的に、嵐の後には巨鳥の死体が高確率で現れることを知っていた。これは、単純に嵐に巻き込まれて海面に叩きつけられて死ぬ巨鳥がいるのに加えて、巨鳥の主食でもある「魚」たちが嵐を恐れて数週間海の比較的深いところに潜っていくために、嵐の範囲をまぬかれた巨鳥も飢えて死んでしまうことがあるためだった。

 ではなぜ仲間を海に突き落とすのか。そう尋ねると、住民はさも意外そうに宇宙飛行士を見据えて言う。巨鳥は重いのだ。浮島は、作製の当初こそ余裕を持って海に浮かんでいるが、例のようにバラバラに分断されてしまった後では、そこに暮らす住民の重さを支えるので精一杯だった。海に浮かぶ巨鳥の死骸は不安定に波に揺られる。巨鳥の肉を調理したり、翼を加工して浮島を補修するには、一度浮島の上に引き上げて作業する必要があった。だから落とす。住民を落として、浮島の重量制限に触れないように、巨鳥の恵みを祝う。なら、しかし、なぜーー自分ではなく、他人を落とすのか。

 そう尋ねると、その住民は微妙に体を傾けた。この生物は人間のような顔を持たないが、宇宙飛行士はそのしぐさに確かな表情を感じた。それは、引きつった笑顔だった。

 やがて嵐は収まり、空と海は平静を取り戻した。海は再び、青黒く、豊かに星を満たした。風はゆるやかに波を撹拌し、潮の香りを世界中に届けた。浮島では、嵐を、そして「準備」を生き残った住民たちが、巨鳥を祭って歌っていた。巨鳥の体重は約350kg、住民の体重は約40kgで、住民は計11人が水平線以下の墓地に葬られたから、このとき浮島には約90kgの余裕ができていた。大量の「魚」を山のように釣りあげて、彼らは宴を楽しむ。宇宙飛行士はただそれを見ていた。思えばあの葬式にしても、彼らは老人を送り出していたのではなく、むしろ40kg分のぜいたくを楽しんでいただけなのではないか。宇宙飛行士が彼らに恵んだパラシュートは、果たしてその加工のために住民を海に沈めたのだろうか。今、生命維持機能が停止するまでに宇宙飛行士に残された時間は、あと1日しかなかった。


*        *        *


 海面を走る波を抜けて、宇宙飛行士は海の中へと潜っていった。宇宙服が水の圧力を検知し、自動で内部の気圧を調整する。惑星に来てから毎日、宇宙飛行士はこうやって海底を探索していたが、ついに宇宙船は生命維持の最終日に至るまで見つからなかった。死への焦りと、浮島への忌避とで、宇宙飛行士はこの日海中をどこまでも捜し続けるつもりだった。海を垂直に突き刺す「太陽」の光の帯が、深く水をかき分けるにつれ淀み、剥がれていく。磨りガラスを何枚も重ねたようにして、海中の黒い水が光を溶かす。ペンのインクの一滴も、恒星の分身の遥かな旅路も、海の内には平等に希釈され、深海の闇に塗りつぶされた。

 深く、深く。それは公園の砂場からコンクリートの底を暴き出すのに等しい、あるいは空気を掴んで空をよじ登ろうとするのにも似た、途方も無い道のりだった。重い水の層を剥がし、その間に体を潜り込ませる。もはや宇宙飛行士には何も見えていない。それでも、深海を満たす虚空を、恐怖した。それは、何か未知の怪物が出てくるかもしれないというありきたりな恐怖ではなく、ただ純粋に、何も出てくることができない闇への本質的な恐怖だった。宇宙には星があったが、深海にはそれがなかった。ただ均質的な黒が、宇宙飛行士の眼球を覆った。

 しかし、目が慣れていくにつれ、ここにも僅かな光が届いていることに気づいた。海は、無限に連なる背景を屈折させて重ね塗りするキャンバスだ。単色に見える黒は、深い濃淡を緻密に組み合わせてつくられた、この惑星の透視図だった。その無限に重なった色の中から、宇宙飛行士は、わずかな歪みを捉えた。ある意味では自然の完全な調和性を毀損するそれは、しかしはっきりとその存在を主張する、文明という歪みだった。宇宙飛行士は、もはやそこに向かうほかなかった。

 海中のすべてが、その海底の神殿の方へ沈んでいた。自由に海を遊泳する「魚」の群れだけが、まるでオーロラのように、この水の峡谷を越えて上に向かっている。それ以外は、海そのものでさえ、埃となって海底に層をなした。悠久の時を越え、海の中に休眠する神殿は、世界すべてを代表する遺産であるといっても大げさではないほどに、この場の時間と空間を支配していた。宇宙飛行士は息を呑む。あの浮島の住民たちの運命は、どれほど残酷なものなのだろうか。海の上に揺られる彼らは、心底浮かばれない。固まった絵の具のわずかな光沢が、ようやく絵画の三次元性を思い出させてくれるように、神殿は宇宙飛行士に多くの洞察を与えた。ただ青黒い四角形に表される地図は、その奥にこんなものを隠していたのだ。

 この惑星にとって、地図はもっとも残酷だった。地図は美しいこの惑星をただ平面的に切り取り、彼らの海底の繁栄を置き去りにする。浮島はただ浅薄に、二次元の世界を漂流するだけだった。その住民は、すべてに見放されていた。

 生命維持機能は、あと5時間で停止する。気づけば宇宙飛行士は、宇宙服のヘルメットを脱いでいた。海の圧力にあてられて体をぐちゃぐちゃに潰される、そのわずか一瞬の間に、この星に来て初めて、海の香りと、海の肌触りを感じた。感覚器官は海全体に拡張され、星のすべてを感じることができた。海とひとつになった。目から、耳から、鼻から、口から、皮膚から、溢れるように流れ込んでくる海水を媒介して、あらゆる情報が一つに繋がり、ひんやりとした永遠の姿が垣間見えた。それは、途方もなく澄んだ海だった。切れ目の無い窓ガラスや、大きさの無い水晶があったとしても、それには及ばないだろう。光の無い夜に星を見るように、海は、透明な自分の中にあるこの神殿を見ていた。

 宇宙飛行士の体がばらばらに砕け散ると、宇宙服の中と、それから彼の体内に存在していた空気が、いくつかの泡となって海に投げ出され、勢いよく上昇を始めた。彼らは神殿などには見向きもせず、海の巨大な流れに逆行して、ただ空を目指して水をかく。やがて、上から光が差してくる。「太陽」の光に焦がれるように、泡はひたすら上昇を続け、ついに海面を突き破り、空の最も低い場所まで浮上する。世界を隔てる無数の境界のうち二つが、重なって、同じになった。

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遅刻間違いなしの状況から打てる起死回生の一手
Notorious
シスコンランナー・Notoriousバージョン
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「もしもし」

『なあ、突然だが、遅刻間違いなしの状況から打てる起死回生の一手を知らないか?』

「知らない」

『もうちょっと丁寧に記憶を探ってくれよ』

「どんなに丹念に記憶を探しても見つからねえよ。なんだ、遅刻しそうなのか?」

『リンゴから手を離したら地面に向かって落ちていくくらいの確率で遅刻する』

「奇跡的にロケットエンジン搭載のリンゴであることを祈るんだな」

『だから、今お前に電話してるんだよ。リンゴにロケットエンジンをつける方法を知らないかと思って』

「知らない」

『まあ事情だけでも聞いてくれよ。俺は昼から彼女とデートの約束をしていたんだ』

「もう昼になるぞ」

『だから困ってるんだよ。集合場所は隣町の駅前』

「現在地は?」

『病院前駅のそばの公園。こっちの駅から隣町の駅までは電車で二十分くらいかかる。そして待ち合わせの時間は十分後』

「……なるほど」

『な? 遅刻するだろ? わかったか?』

「なんでちょっと偉そうなんだよ」

『なあ、何かいい手はないかな?』

「いい手も何も、できるだけ早く行って謝るしかないだろ」

『彼女は時間に厳しいんだよ。遅れたら絶対こっぴどく怒られる』

「なおさら早く行くべきじゃないか。こんな電話してないで」

『急がば回れ、遅刻しないためのあらゆる手段をじっくり検討するべきだろ』

「そんな手段は一つも存在しないよ」

『あと怒られるのをできるだけ先延ばしにしたい』

「それが本音じゃねえか。火に油を注いでるだけだぞ」

『怒られたくない……』

「情けなさすぎる。ところで、遅れることは彼女に伝えたのか? 電話とかラインとかで」

『いや、してない』

「おい俺と話してる場合じゃないだろ」

『スマホの充電が切れたんだよ』

「何してんだよ」

『昨日夜遅くまで国技館がいつの間にかオペラハウスに変わってるアハ体験映像を作ってたから……』

「マジで何してんだよ……。ん? じゃあこの電話はどうやってかけてるんだ?」

『公園の公衆電話で』

「そんな古代の遺物を使ってるやつがまだいるとは」

『現代人はスマホに頼りすぎて生きる力を失ってる。嘆かわしいぜ』

「とても遅刻しそうな奴のセリフとは思えないな」

『ちなみにテレホンカードだから小銭を放り込み続ける必要がないぞ』

「そんな古代の遺物を使ってるやつがまだいるとは。いやそんなことはどうでもよくて、公衆電話から彼女に電話したらいいじゃないか」

『彼女の電話番号覚えてない。ライン電話しか使ってなかったから』

「スマホに頼りすぎて生きる力を失った嘆かわしい現代人じゃねえか」

『でもお前の番号だけは覚えてたんだよ。なぜなら語呂合わせが野菜まみれだから。オクラ、白菜、シシトウ。八百屋の電話番号みたい』

「言ってる場合じゃないだろ。そもそも何でこんなことになったんだよ」

『出先からそのまま待ち合わせに行く予定だったんだけど、思ったより用事が早く済んだからこの公園で時間を潰すことにしたんだよ。そしたら、大時計のところにピエロがいて、大道芸を始めたんだ。それにしばらく夢中になってて、気づいたら約束の十分前だった』

「エンジョイしすぎだろ」

『だってめっちゃすごかったんだもん。水晶玉を微動だにさせずに動かすんだぜ?』

「動いてるのか動いてないのかどっちだよ」

『五つのボウリングの玉でジャグリングもするし、風船で犬も作るし』

「風船の犬に関しては大抵のピエロが作るだろ。……うん? ボウリングの玉? ピンだろ」

『いや、玉。重さをポンドで数えるやつ』

「にわかに恐ろしくなってきたな。どんな腕力だよ」

『まあ事情はわかっただろ?』

「スマホ以外の連絡手段はないのか? 例えばスマートウォッチとか」

『腕時計すら持ってない』

「どうして」

『時間はスマホでわかるし』

「スマホに頼りすぎて生きる力を失った嘆かわしい現代人め」

『他に案はないの?』

「矢文を飛ばすとか」

『何時代だよ』

「伝書鳩を飛ばすとか」

『だから何時代だよ。連絡は諦めるから、待ち合わせにどうにか間に合わせる方法はないかな?』

「走れば?」

『生身の人間が鉄道より速く走れるかよ。アベベも裸足で逃げ出すわ』

「アベベは元から裸足だよ。じゃあ、タクシーを拾うってのはどうだ」

『電車より遅いし、それにあんまりお金持ってない』

「デートだろ。所持金が少ないってのはどういうことだ」

『電子決済が主だから現金をそんなに持ってないんだよ』

「スマホに頼りすぎて生きる力を失った嘆かわしい現代人め」

『それより他の方法は?』

「飛行機」

『保安検査場を二十分前に通過しないといけない。アウト』

「二十二世紀まで待てばどこでもドアが発明されるんじゃないかな」

『俺の彼女が二十二世紀まで待ってくれると思うか?』

「彼女を亜光速宇宙船に乗せて彼女側の時間の歩みを遅くする」

『そんなものがあったら俺が乗って亜光速で駅に向かってます。真面目に考えてくれよ』

「お前こそ真面目に謝りに行けよ」

『あーあ、お前と話してる間に十分経っちまった』

「ほら言わんこっちゃない」

『もう約束の十二時だ。このままじゃ忠犬ハチ公みたいに俺の彼女の銅像が駅前に作られちゃう』

「いつまで待たせる気だよ。早く行けよ。……うん? 今なんて言った?」

『ハチ公みたいに銅像が作られちゃう』

「その前」

『お前の携帯の番号は八百屋みたい』

「前すぎだ馬鹿。約束の時刻は何時だって言った?」

『十二時』

「今は十一時五十分だぞ」

『え? 十二時じゃないの?』

「お前はスマホも電池切れだし腕時計も持ってない。お前が見てる時計は公園の大時計だな?」

『うん』

「それ、ずれてるな」

『は?』

「携帯もテレビも電波時計も、俺の家の時計は全て十一時五十分だ」

『つまり、公園の大時計は十分早いと?』

「そうなるな」

『つまり、俺がお前に電話した時点では、約束の二十分前だったと?』

「そうなるな」

『つまり、そのとき急いで出発していれば間に合っていたと?』

「……そうなるな」

『…………得た教訓が一つある』

「急がば急げ、か?」

『スマホに頼りすぎるな、だ。……なあ、突然だが、遅刻間違いなしの状況から打てる起死回生の一手を知らないか?』

「二周目はごめんだぜ」

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最悪の一日と救済の力士
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 ああ、最悪だ!

 息を切らし、肩を上下させ、今にも吐きそうに顔を歪める伊野晃は、自分の学習机の棚を隈なく見るまでもなく、そこに国語の教科書があるわけがないということを思い出した。昨日は国語の教科書を持って帰っていなかったのだ。先ほどまでの焦燥感が反転し、伊野はふつふつと怒りを抱き始めた。15分ほど前、彼は自分の鞄に国語の教科書が入っていないことに気づいた。彼の国語の授業を受け持つ教師は、何かにつけて校庭を走らせる熱血教師の類だったから、忘れ物なんかしたら無論校庭を走らされるのは目に見えている。彼は焦り、走って家に忘れ物を取りに帰ったのだ。そしてその忘れ物が忘れ物なんかじゃなかったものだから、彼は自分の愚かさに呆れていたのだ。

 伊野は自室に立てかけられている時計を確認する。7時32分。朝のSHRが始まる7時40分までに残された時間は、あと8分しかない。伊野は再び鞄を背負い、迷わず走り始めた。SHRに遅刻するわけにはいかない。あの熱血教師は、彼の担任でもあったからだ。彼はもう校庭を3周分は走ったような気分だったが、ここで過去のことを嘆いてもしょうがない。彼はドアを開け、風のように走り出した。

 できる限りの大股で、彼は通学路を疾走する。彼の体力は下の中といったところで、いつもは1分も全力で走ればすぐにバテてしまうような有様だったが、しかし、このときは不思議なくらい走れた。ランナーズハイというやつだろうか、体は軽く、今なら校庭を10周でも走れてしまうような気がした。それが嫌だからこんなに一生懸命走っているのだが。

 校門が見えた。腕時計を見ると、7時36分。しかし、学校にたどり着くまでには、横断歩道を一つ通り抜けなければならない。その信号機は今、彼を嘲るように赤く光っていた。信号だけじゃない。救急車もすぐ近くに止まっていて、真っ赤なランプを光らせていた。何か事故でもあったのだろうか。不吉だ。時計の秒針がどんどん動いていく。残り3分。

 このとき、伊野は後ろから同級生の成瀬真紀が走ってきていることに気づいた。伊野は成瀬と特に関わりがあったわけではないが、彼女が遅刻の常習犯で、よく校庭を走らされているのは知っていた。まさかここでお目に掛かれるとは。そう思った矢先、彼女は一瞬驚いたような顔をして伊野の方向を見つめた後、突如として左折し、車道の方に飛び出した。クラクションを鳴らされながらも、彼女はその勢いのまま反対側の歩道を爆走している。

 ようやく信号が青になった。残り2分。伊野は唖然とする間もなく駆け出した。いったいどうして成瀬は、わざわざ反対側の歩道に横断したのだろうか。信号を待ちたくなかった? しかし、校門はこっち側の歩道の先にある。一度車道を左に横断したなら、戻って来るのに余計に時間がかかるはずだから、それは考えづらい。……あるいは、伊野の傍に近寄るのがそんなに嫌だったのか? なんだか悲しい気もちになりつつも、彼は全速力で校門をくぐり抜け、教室に向かった。残り1分。伊野のHR教室は一階にある。ちょっとした階段を上り、靴を乱雑に靴箱に押し込んで、廊下を走る。残り30秒。すぐそこだ。そして彼は、ついにHR教室に到着した。しかし彼の目に映るのは、誰一人いない、電気の消された教室で、彼は思い出した――

 ああ、もう、本当に最悪だ!

 伊野はここにきて、昨日担任が言っていたことを思い出した。いわく、明日は特別講師による講演があるので、朝のSHRは無し。代わりに、7時40分には体育館に来ていなさい、と。残り20秒。体育館は校舎と廊下でつながっているから、まだ希望はある。とにかく走るしかない! 彼は上履きの踵を鳴らし、渾身の力で走り始めた。体育館に繋がる廊下を全身全霊で駆ける。前方に、成瀬が見えた。どうやら彼女のロスタイムの方が、彼のロスタイムより短かったらしい。残り5秒、時計の秒針を見ている暇もない! 体育館のドアは全開になっている。時鐘の一音目が鳴り――

 滑り込んだ。チャイムはまだ鳴り終わっていない。セーフだ。体育館の中は外の寒空より幾分か明るい。学年主任の教諭が、整列を促していた。気づけば成瀬はすでにクラスの列に入っていたが、やはりその息は弾んでいて、苦しそうだ。というより、言い過ぎかもしれないが――顔面蒼白に近い。遅刻常習犯の成瀬が、遅刻しそうになったくらいでこんなにブルーになるだろうか。体調でも悪いのか? そう思いながらも、伊野は何食わぬ顔をして列に入っていった。内心では担任に指摘されないかと肝を冷やしていたが、担任はどうやらクラスの列にはいないらしい。辺りを見回すと、体育館の隅の方で、電話をしている担任を見つけた。何やら深刻そうな表情をしている。校庭マラソンの刑について、教育委員会か何かにクレームが入ったのだろうか?

「ごっつあんです!」

 体育館に鳴り響いた声に引き寄せられ、伊野は壇上の特別講師を見た。それは、力士であった。グレーのスーツ越しにも分かるほどの巨体に、筋肉と脂肪が詰め込まれているのを感じさせられる。本当にちょんまげなんだな、と伊野は思った。その力士の言う事には、彼は「井方海坊太」の四股名を持ち。まだまだ現役だが、相撲の素晴らしさを学生諸氏に知ってもらいたいがために、稽古の合間に学校を巡って講演を開いているという。力士は、一時間もの間、何の起伏も無い、ただ相撲を賞賛し続けるだけの講演を行った。相撲の歴史の話が終わるころには、伊野以外の生徒たちはみんな眠ってしまっていた。

 ――おかしい。伊野は思った。自分以外の、文字通り全員が眠っているなんて状況、そうそうあっていいはずがない。彼は辺りを見回し、さらに、いつも体育館の端の方で座っている教師たちまでもが、眠っていることに気づいた。冷や汗が流れた、気がした。

「相撲は、古事記の時代からある営みだ。だから、競技として国民に愛される傍ら、未だ神事としての性格を残しているんでどすこい」

 これは……自分に向かってしゃべっているのか? 伊野はこの訳の分からない状況に動揺を隠せない。

「だから分かる……だから視える……おそらくここでこの井方海だけが視えているんでしょうな、オー、どすこい」

 伊野は勇気をもって、力士に反応してみようとしたが、声が出なかった。声が出ない。喉が、まったく動いていないのだ。冷や汗が流れる。しかし、やはりそれも気のせいだ。

「生きとし生ける者、この井方海の眠りのまじないにかからぬ者は無い。そして、今、この体育館にたった一人、この井方海の前にて意識を開いているそこの少年よ、オー、悲しいな、悲しい。サッドスコイ……お前は、すでに、死んでいるんでどすこい」

 ――思い出した。弾けるような痛みを伴って、伊野は、今朝、自分が交通事故で死んだことを思い出した。7時27分ごろのことだった。校門の目の前まで来て、自分が国語の教科書を忘れたと勘違いし、踵を返して走り始めた後だ。彼は校門に続く道にあるあの横断歩道を渡る途中ではねられ、即死した。

 あまりにも、あまりにも突然だったのだ。彼は遅刻しそうになって走っているだけだった。ちょっとした日常の中で、自分が死んでしまうなんて、いったい誰が考えているだろう。少なくとも彼は、それゆえにだろうか、どうにも自分の死を認識できていなかった。彼の意識は、彼の死体を離れ、自宅に帰り、そしてまた、その軽すぎる体で走り出して、横断歩道に戻って来た。彼は、辛うじて伊野晃だと分かる死体が救急隊員に囲まれているところを認識することができなかった。そして――いくら遅刻しそうだからといって、救急隊員と同級生の遺体の間を走ってすり抜けるようなことはできない。彼が代わりに見たのは、その光景を見ていた成瀬真紀の、彼にだけは不可解に映るだろう横断だけだった。

「発気揚々、八卦良い良い。この哀れな魂を救済せねばならんでどすこい……それが力士、井方海としての務めだ。……南無」

 そう言うと、力士は激しく四股を踏み始めた。空気が揺れる。天井の照明が揺れ、きりきりと音を立てる。その気迫は、力士のいる空間を取り囲むように、土俵を幻視させるほどだった。力士は両腕を体の前に構え、一閃、力を解放し、伊野を貫いた。

 こうして伊野は、ようやく自分の死を受けいれることができた。井方海は、相撲取りとして、確かな神通力を有していた。意識が薄れていく傍ら、彼は最後に、相撲も悪くないかもな、と思った。

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シスコンランナー
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 人里を離れること4兆km、今まで誰一人として足を踏み入れることがなかったまさに「秘島」に、ある男が漂着した。彼はうだつの上がらないマラソンランナー。フルマラソンを十二時間かけて三分の一制覇し、ハーフマラソンを十二時間かけて五分の一だけ走り切る男だった。

 あまりにもうだつが上がらないので、彼はトライアスロンへの転向を考えていた。陸上でこそ彼は凡人、それどころかゴミであったが、彼の真価は水泳と自転車漕ぎに発揮されたのだ。彼は25mのプールを十二時間かけて泳ぐことですべての水を蒸発させることができたし、自転車のハンドルを握るだけで自転車を粉々に破壊することだってできた。これが才能というやつである。天才は、凡人には決して理解されないものなのだ。

 さて、そんな彼はあたりを見回したが、まだ事の重大さには気づいていなかった。彼は重度のシスコンだったので、いついかなるときも、自身の妹のことだけを考えていたのである。もちろんその楽観は、彼のおかれている状況を和らげることなどなかった。そう、この島は、史上最大獰猛破滅地獄的最悪最低公序良俗違反違法脱法闇バイト侵攻宗教戦争コンビニ前たむろ異常気象ネグレクト万引き立ちション万引きGメン完全無視大悪行ゴミカス生物、スーパー化け物ドラゴンの住処だったのだ!

 スーパー化け物ドラゴンは男を一瞥し、即座に攻撃耐性に入った。ドラゴンは、その口から私人逮捕系YouTuberを召喚したのだ。 私人逮捕系YouTuber、略して私rは、さっそく痴漢をしていそうな任意の老翁を逮捕するために駅構内をありったけの大声を張って騒ぎながら駆け回り始めた。駅構内に緊張が走る。痴漢者と目された挙動不審な老人は冤罪を主張したので、私rはすべての乗客にタックルを行うことによって溜飲を下げつつ、帰宅した。その晩、私rは炎上した。そう、これこそが、ドラゴンが炎のブレスを吐きつけるメカニズムだったのである。

 炎のブレスにようやく危機感を抱いたマラソンランナーは、重い腰を上げ、走り始めた。彼の腰は9tあった。一方、彼の膝は12gしかなかったので、彼の膝から下は粉々になってしまった。激しい痛みに襲われてなお、彼は足を止めない。もはや彼に脚部など残されていなかったが、ここで彼は自分の腰や膝の重さを勘違いしていることに気付いた。そう、ドラゴンは卑劣にも男に催眠術をかけ、膝から下が粉々になってしまう幻覚を与えていたのである! これを察知した男は催眠を振り切り、走り始めた。ドラゴンは今度は鋭い鉤爪を取り出し、男を切りつけようと目論んだが、ドラゴンは整理整頓が苦手だったので、体のどこに鉤爪を潜ませていたのかを忘れてしまった。そうこうしているうちに、男は島の端までたどり着いた。水泳の時間だ!

 彼はそのまま海中に飛び込み、全身全霊の平泳ぎを開始した。しかし不運にも、そこはアメリカ海兵隊の巡航ルートに入っていたのだ。米軍は、彼に対して投降を呼びかけるより先に、数十発の魚雷をお見舞いした。男は華麗な体捌きで、ホーミング魚雷を回避する。その魚雷は、男の背後に居たドラゴンに衝突し、米ドラゴン戦争がここに幕を開けた。 ドラゴンは炎のブレスで米軍を威嚇するが、米艦隊はお構いなしに艦砲射撃でドラゴンを牽制する。ドラゴンは怒りに我を忘れ、ドーラゴーンへと進化を遂げた。ドーラゴーンは三対の翼と五重の八重歯を持ち、炎のブレスの温度は50度前後にまで低下した。これは低温やけどを狙ったものであると考えられる。

 ドーラゴーンと米軍が争うのを無視して、男は全身全霊の平泳ぎを続けていたところ、平泳ぎのVtuber、平尾ヨギと出会った。この男は平尾ヨギの配信に入り浸り、危うく全財産をスーパーチャットにつぎ込むところだったが、すんでのところでこれもまたドラゴン、いやドーラゴーンの催眠術による策略だったことに気付いた。ドーラゴーンの催眠術は、ここまで巨大な効力を持っていたのであった。 逃げろ、逃げろ。全身を海の吹きすさぶ波に打ち付け、腕や脚などもげてしまおうかという思いをしながら、ようやく彼は陸地に到着した。しかしそこは、稀代の暴君・十転舎一九大帝が支配する帝国、自転車インペリアルであった。

 帝国に到着してすぐ、彼は自転車に乗っていない罪によって終身刑を言い渡された。彼は牢獄でひどい扱いを受けた。食事は一日に九回、一日に20回入浴し、一日91回歯磨きをするというよくわからないノルマを課されたのだ。これを破ると翌日はお茶の中に茶葉が6〜7本浮かぶようになり、なんか妙に気持ち悪いという精神的苦痛を強いられた。

 もはや希望はないのか。最後に妹に会いたかった。そう思ってふと窓を見た夜、そこには輝く流れ星があった。いや、流れ星ではない! あれは、ドラゴンだ!

 執念深いドラゴン、そういえばドーラゴーンだった。ドーラゴーンはアメリカ海兵隊をも出し抜き、まだ男を追ってきていたのだ。しかしそれも、男にとってはこの上ない吉報であった。 ドーラゴーンはほとばしる暴力に任せて牢獄を破壊し、十転舎一九大帝の統帥する自転戦車の機甲師団に対して蛮勇をふるった。この隙に男は自転車プリズンを脱出し、看守の自転車を奪い、駆け出した。 初夏、満点の星々が光っていた。男は太陽が沈む0.02倍のスピードで走った。ペダルは軋み、ハンドルは壊れた。だが彼は、走るのをやめなかった。男は黒い風になって、最短距離で帰宅の途を飛ばした。しかし、やはりというべきか、新たな刺客が現れた。遥か西、シラクスの都市より来たる石工・セリヌンティウスが愛弟子、フィロストラトスである!

「死ねえええい!」

 フィロストラトスは石造りの斧、剣、鎖鎌、チェーンソー、盾、鎧、バズーカ、マシンガン、AK47、MP9、SKS、クリスヴェクター、匕首、三節棍、アトラトルを取り出し、全方位から男に集中飽和攻撃をしかけた。これを捌き切るのは、さしもの男も不可能だった。痛手を負った彼に対して、フィロストラトスは勝利宣言を行った。

「あなたの墓石も、我ら(株)セリヌン石工組におまかせあれ」

 フィロストラトスは男の頭上にストーンヘンジを建設し、重力に従って彼に莫大な力学的エネルギーを与えようとした。しかし予想外だったのはただひとつ、男の握力であった。その気でハンドルを握るだけで自転車を破壊できるほどの握力は、ストーンヘンジにも作用し、かの石の神殿を完膚なきまでにひび割った。

「お、おれのストーンヘンジが……」

 呆然とするフィロストラトスには目もくれず、男は再び走り始めた。家には、自分の帰りを待っている妹がいるのだ。

「お兄ちゃん……」

 ちょうど物心がついて間もない頃だった。妹が生まれてすぐに、男の母は命を落とした。もともと家族に情を抱いていなかった父は、妹に物心がつく頃にはついに子供たちの面倒を見るのを完全に放棄し、姿を消してしまった。男がこの人生に絶望しなかった のは、妹がいたからだった。彼は幼くして、妹のために全てを捧げることを決意した。

「お兄ちゃん……もうやめてよ……私……」

 男は涼しい風を体中に浴びながら、回想する。大きな夕焼けというものは、いつも人に過去を懐かしませるものだ。普通の子供が学校に行っているような年齢を、彼は犯罪組織の中で過ごした。彼は妹のために金を盗み、人を殺し、成長していった。

 妹は、兄が嫌いだった。彼女には、まるで兄が自分を盾にして金を盗み、人を殺しているように感じられたのだ。しかし、妹は兄を責めなかった。むしろ、彼もまたこの環境の被害者であるのだという、一種の同情を抱いて、ともに不味い食卓を囲った。

 ある日、狭い空き家の一室に帰って来た兄は、ひどくやつれて見えた。妹が訊くと、兄は違法な薬物をしていた。付き合いで、無理やり。彼の痛ましい、自虐的な表情を見て、妹は涙を流した。それは、あえて取り立てて言えば、兄への恐怖による涙だった。

 日に日に男は衰弱していき、家でもどこかいらいらしているようなそぶりを見せていた。妹は、強く、その薬物をやめるように言った。兄は暗い顔をして、首を横に振った。この犯罪組織を抜けることは許されていない。もし黙っていなくなったとしても、妹を養えなくなるどころか、組織の「口止め」のために殺される。馬鹿馬鹿しい仲間意識か、あるいは単なる「ノリ」の強要によって、彼は薬物に心身を壊されていた。

 妹は、兄が言う「妹のため」という言葉にほとんど怒り狂いそうだった。それはもはや、彼女のためではなかったからだ。この頃兄の思考には、常にもやがかかっている。

 男は走る。走り続ける、肺や心臓が爆発しそうなほど波打ち、全身から汗が噴き出る。もう少し、もう少しで、妹の待っている家に帰れる。めまいがして、目の前の景色がぐちゃぐちゃに、まるでパレットをかき回したように、渦巻きに、マーブル模様に、モザイク画に、油絵に、水彩に、モノクロに、鮮やかに光る。訳の分からない夢の欠片が、無限に脳裏を去来していく。

 家が目の前にある。廃墟となった団地の一室は、彼が家を出た後、妹を連れて初めて寝泊まりした場所だった。妹は泣きながら、男にしがみついていた。あの日、兄妹は、ずっと一緒にいることを約束した。

「お兄ちゃん! お願い! こんなのおかしいでしょ!」

 階段をスキップして、部屋の前に行く。ドアの鍵は壊れていたから、いつも開けっぱなしだ。中に妹はいなかった。そこには、人間の背丈ほどの大きさをした真っ赤なムカデが蠢いていた。ムカデは男に近づいてくる。男は必死の闘争を開始した。

「嫌だ、嫌だ! 全部、もう嫌! お兄ちゃんも、もう、嫌なの!」

 男は力いっぱい、ムカデを殴りつける。ムカデの殻はひび割れ、そこからさらに小さいムカデが蛆虫のように這い出てきた。男の拳を渡って、しがみつくように腕を昇ってくる。彼は大量のムカデを振り落とし、地面に叩きつけ、踏みつけた。妹にもう一度、会うために。

 ムカデは無限に湧いて出て、部屋中を埋め尽くした。部屋がムカデで埋まっていく。ムカデが喉に入り込んで、呼吸ができなくなっていく。あやうく窒息死しかけたところで、男は気づいた。これはドーラゴーンの催眠術による策略だったのだ。 そうだ。そうだ。彼はもともとマラソンランナーなんかじゃないし、トライアスロンなんてしたこともない。今まで起きたすべてのことは、きっとドーラゴーンの幻術によるまやかしだったのだ。フィロストラトスも、十転舎一九大帝も、米軍も、ドーラゴーンも。すべては幻覚にすぎなかったのだ。そして、きっと、自分がシスコンであるというのも、妹の存在自体も、幻覚作用のひとつにすぎなかったのだ。彼はドアスコープを覗き、外に誰もいないことを確かめると、ドアの鍵を厳重に閉めた。チェーンでドアをぐるぐる巻きにして、絶対に誰も部屋の中に入ってこられないようにした後、再び家の外に、勢いよく駆け出した。きつく握りしめる拳には、ムカデの赤が色移りしている。シスコンランナーの冒険譚は、きっと永遠に続く。妹の為にも、彼は二度と現実を受け入れないだろう。遠くへ、遠くへ、走り続ける。それだけだ。

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故郷
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 ロシア領カザフスタン自治区の中央南部。シルダリヤ内海の辺りに展開する近代都市の中心に位置したバイコヌール宇宙基地では、出陣の鐘が鳴り響いていた。ソ連時代の名残、場所が特定されないよう320キロメートル離れた鉱業都市の名が冠されたその飛行場では、旧式の出航セレモニーが実施されていた。地球温暖化によって北極が取り払われたのが約二百年前。それはロシアに優位に働き、国際情勢は瞬く間に塗り替えられた。すでに落ち目となっていた超大国アメリカは見る影もなくなり、中国も加速度的に進む高齢化によって、波前の砂城のように崩れ去った。もちろんロシアも圧倒的な被害を被る。永久凍土の融解は社会問題となり、インフラは一時危機的な状況に陥った。人が住むことのできない赤道付近や沈んでしまった沿岸部の国々からの膨大な数の移民も、急速な治安の悪化等につながった。しかし国家が多くの権力を有するロシアは対応も速やかだった。国民に国民皆労働手帳(通称青帳)を配布し、名誉国民の称号を与え、移民との明確な身分の差を示した上で国内の結束を高めた。南極地域の埋め立てを実行し、国の拠点をそこへと移した。およそ近代国家とは思えない横暴な策に、世界中の非難は殺到したが、再建された大国はあまりに強かった。ロシアは繁栄の時代を謳歌した。しかし、圧政には革命がつきものであり、この大国においてもそれは例外ではなかった。やがて一人の英雄がキルギスのビシュケクで立ち上がった。それは世界を巻き込む戦争となり、人民はかつての、使い古された意味での自由を勝ち取ることになるのだった。さて、その革命において、革命軍の支部として活躍したのがこのバイコヌール宇宙基地である。すっかり温暖な気候と化した勇者の都市の上空には、沸き立つような緑の風が吹いている。


 特別編隊のバッチを胸につけた三人の飛行士が搭乗台から手を振った。この時代、宇宙旅行は夢ではない。それどころかもはや長旅でもない。一時混乱に陥った大地において、人々の関心は空の彼方へと移ろった。急速な宇宙関連技術の成長は必然のものだったと言えよう。それはあっという間に、銀河系をただの観念から人類の便利な庭へと変貌させた。それを牽引したのがロシアであった。太陽系の惑星には全てに複数の基地と観測所があり、特に月と火星ではすでに人が安住している。宇宙旅行が当たり前のものへと成り下がった現代。ではなぜこのような大々的な式典を行っているのか。それは彼らが、革命以来、いや、有史においても前代未聞の事件の調査へと向かう、人類の代表だからである。それは三年前、海王星の観測所が突如発表した声明だった。
「楕円銀河M110(NGC 205)の座標D11.0943・S236.055・N56において地球外文明と思しき巨大な宇宙船を発見。観測点A2DP4より発信す」
 驚愕のニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、欠けた大陸を揺るがした。その報に恐怖を見出し発狂する者や、新たな生命との接触に新たな希望を持つ者。人々の反応は実に様々だった。それでも社会は特に問題なく回った。続報に希望の持てる内容が多かったからかも知れない。三日後、宇宙船Xは数百年前からそこに存在し、全く動きがないことから、攻撃の意思はないであろうという推測が観測所の見解として発表された。電波信号による交信を試みるも失敗に終わったが、調査を進めるうちに、船に生命反応が見られないことも判明した。三ヶ月も経つ頃には、船のその文明レベルは低いもので、地球文明に比べ、現代でも半世紀ほどの開きがあることも確認された。自らに直接の害がないことが確認されると、人々は即座に次の話題へと関心を寄せた。いつの時代もそうであったように、民衆は大事なことをすぐに忘れた。
 発端から三年の月日が流れ、我々は直接調査のための特別編隊を組織し、準備を済ませ、漸く出航に漕ぎ着けた。往復六週間の、細やかと言えば細やかな、偉大な旅の始まりである。このセレモニーは全世界に中継されている。私は基地長の席に座りながら、小さく溜息を吐いた。思えば、出港地がここバイコヌール宇宙基地に決定した一年前から、ずっと働き詰めだった。火星や、その他のより近い星から出発するという案もあったのだが、験担ぎということでこの英雄の基地からの出航が決まった時は、これから己に降りかかるであろう圧倒的な業務量を想像して戦々恐々としたものだ。けれど、そんな一大イベントも今日で一区切りである。私はそれぞれの宇宙船に乗り込んだ三人の飛行士を見た。彼らは優秀なパイロットだ。三人の中誰が人類の代表となろうとも、決して恥じることなどないほど勇敢で、理知に溢れ、誠実だ。老齢になっても人一倍視力の良い私は、数十メートル先の彼らの勇姿を鮮明に見ることができた。彼らなら、きっと任務を完遂することだろう。私は上昇してゆく勇者の船を追って青空を見上げた。高性能宇宙船の出発とは、実に味気ないものである。瞬きの間に大気圏を脱出し目的地へと旅立った三隻の弾丸はすぐに光の点となって視界から消えた。これでもう、一安心だ。私は世界中が興奮に浮き足立つ中、一人、そっと胸を撫で下ろした。
 NGC 201・NGC 137・RSC 99の無人観測所が彼ら三人の動向を精密に観測し続けており、それは海王星の主要観測研究所において分析された。人々には分析された後の情報が発信される。出航から八時間、銀河系を脱出すると、船と地球の相互通信は重力装置の条件上不可能になるものの、船では簡単な情報受信ができた。それに前述の観測システムが彼らを正確に追い続けることによって、実質的に簡素な意思疎通が可能であった。
 出発から二週間と五日後。三隻の宇宙船が特に問題なく目的へと到達したという旨を海王星の主要観測研究所が発表した。これから四日間の精密調査にあたるそうだ。
 異変が起きたのはそれから四日後、調査最終日のことだった。帰路に向かう筈の三隻の船は予定時刻を過ぎて尚、全く動き出さなかった。この情報は混乱を避けるため、一部の関係者のみに共有された。私はこの報を聞いた後、しばらく放心状態で安楽椅子に座り込んでいた。この異変が自らの失態によるものでないことを祈るばかりだった。
 それから六日後、この異変を隠蔽しきれなくなった主要観測研究所が、特別編隊の遅延を発表した矢先のことだった。突如航海軌道上に、一隻の船が出現した。燃料が予定より幾分減っていたが、目立った外傷もほとんど無い、三隻のうちの一隻であった。その時点で各観測システムは巨大宇宙船の近くに停留し続ける三隻の船を確認し続けており、我々はひどく困惑した。各研究所は協力しながら、あらゆる方法を駆使して事態の分析に努めた。そしてある研究者の一人が一つの仮説を提唱した。それは、我々が確認している三隻の停泊した宇宙船は巨大宇宙船の認識偽造装置によるものであり、あの巨大宇宙船自体が罠で、我々の使者を捕縛する目的だったのではないか、というものだった。
 背筋が凍った。生きた心地がしなかった。きっと携わった者皆そうだったに違いない。基地の会議室はその日、沈黙が支配した。我々は偽の、当たり障りのない報告書と三隻が無事に帰還する動画を作成し、予告していた時より二日遅れの帰還、ということで大々的に大衆に公開した。それを終えた後に我々が出来ることは、その一隻が銀河系に帰還し、通信可能な状態になるのを待つだけであった。
 出発から七週間。ついに船が銀河系内に帰還した。主要観測研究所はすぐに連絡を取った。飛行士は憔悴しきった様子だったが、さすがは人類の代表者というべきか、冷静な受け答えが可能で、危機的状況にも関わらず、余すことなく報告をした。
 三隻は概ね予定通りに航行していた。途中に障害は何もなく、全てはつまらない旅で終わる筈だった。目的の船まであと五十光年と言ったところだった。突如電子弾が船を襲い、急に操縦が効かなくなった三隻は宇宙に放り出された形となった。何らかの電波攻撃を受けたのだろうと彼は言った。次に無数の偵察機が三隻を囲んだ。そこから分析不可能なエネルギーによって拘束された彼らは巨大宇宙船の内部へと連行されそうになった。間近で見た巨大宇宙船は我々が観測していたものより数倍大きく、未知の動力によって運営され、技術力も我々と遜色ない水準にあった。またそれに内蔵された認識妨害装置によって我々の観測は歪められていたと言うことが判明した。戦意を全く喪失してもおかしくない状況だったのにも関わらず、彼らは冷静だった。他の二人の協力もあり、機転をきかせつつ拘束を解くと、彼一人だけどうにか抜け出したのだと言う。この間二時間ほど。そこから無我夢中で操縦桿を握り、追っ手を振り切りながら命からがら逃げ回った。巨大宇宙船付近に敷かれた包囲網は凄まじく、燃料を浪費し時間も掛かったが、彼は発見された地点へとワープを成功させ、逃れることができた。その間彼は複数の連絡方法で和平交渉を試みたが、どれも認識されないようであった。追っ手は掃討し追跡の跡もなく、いくつかのサンプルも手に入れた、とのことだ。残してきた二人のことを思い出しているからだろう。悔しそうに語る彼の言葉には我々の涙を誘うものがあった。「地球に真っ直ぐ帰って来るといい。最高級の褒賞が君を待っている」我々は目一杯の労いの言葉を彼に掛けた。我々を困惑させる要素はより増えたが、情報もまた増えた。彼が送信した船体情報と、巨大宇宙船付近での映像は鮮明で素晴らしい手がかりとなった。この奇妙な現象をどうにか説明しようと、研究者たちは躍起になって議論した。連絡が取れるようになってから八時間後、到着の時はやってきた。
 宇宙船の到着は実にスムーズである。最新鋭の技術の結晶は、大気圏に突入してから衝撃をほとんど与えることなく、十分もかからずに安全に着陸する。私は昔――ロケットが粉塵を撒き散らしながら、ガス噴射で飛び立っていた時代――の名残である強化ガラス越しに、地上五十メートル程になって、ゆっくりと降りてくる船を見つめた。
 英雄の凱旋である。かつて英雄が生き急いだこの地に、新たな英雄が帰還する。これからどんなことが人類に待ち受けていたとしても、彼には休む権利がある。そんなことを私は思った。
 事態は何一つ好転していない。発見された地球外文明が未知の技術を使うこと。我々の送り込んだ遣いの内、二隻が撃沈されてしまったこと。意思疎通をとる方法が今現在全く掴めないこと。我々へ明確な敵意を持っているであろうこと。また、遠隔において彼らの動向を把捉するのは不可能に近いということ。この旅によって人類が得たいくつかの情報は、余りにも手厳しく、恐ろしいものだった。しかし、それがどうしたことか。人類四十万年の積み重ね。我々の文明、技術、歴史。人類が一丸となって戦えば何も怖いことなどない。どういった効果はわからなかったが、悠々着陸しようとするアルゴー船を見上げていると、そんな、奮い立つような勇気が湧いた。船体の艶やかな卵色と、発光する動力装置の緑が、薄い青空に映えていた。
 ふと何かが視界を横切った気がして、私は床を見た。金属製の無機質な床では、一匹のゴキブリが地面を這いずっていた。四肢を動かし素早く移動する様にゾッとしたが、私は硬い靴の底でそれを潰した。
 その時、何とも言えない違和感が私の胸を貫いた。文字通り虫の知らせとでも言うのだろうか、心臓にタールが詰め込まれたような嫌な予感だ。それをどうにか払拭するため、私の思考は高速に回転し始めた。
 あれほど大規模かつ高精度の認識偽装装置を作ることのできる文明が、どうしてこの船を捕まえるに至らなかったのか。どうして一隻だけ取り逃したのか。ああ、我々人類の叡智……それを持ってしてもこの不気味な昆虫の撲滅には至らなかった……。確か少し前までこんなものがあった。殺虫剤の一種だが設置しておくだけで一帯の同種を根絶させることができるというものだ。餌を置き、毒を混ぜ、それを仲間へと伝染させ、種ごと根絶やしにする悪夢のような装置……。
 もしあの巨大宇宙船が、あらかじめ文明の芽吹きそうな場所に設置し、それがある程度まで発展した時に効率良く排除する装置だとしたら……。
 はっと顔をあげ、まさに着陸しようとする英雄の船を見た。船体情報は隅々までチェックを施した。何通りの方法でスキャンにかけた。しかしあの地球外文明は認識偽装に長けている。現に我々の観測機は今も、M110において止まる三隻の船を観測し続けている。
 船が地面についたその時、船倉の部分がぴかりと光った。それから衝撃を感じる間も無く、地球は原子レベルにまで崩壊した。その爆発は銀河系をもすぐに呑み込み、全てを灼熱の気体へと変貌させた。それは人類が生まれ落ちて以来経験したことのない大きさの莫大なエネルギーで、その営為を残らず消し飛ばすには十分すぎるものだった。    


 飛行士Bは遠い銀河の彼方、巨大宇宙船の付近において絶望していた。絶えず届いていた観測研究所からの連絡が途絶えたのだ。受信機が壊れてしまったのか、もしくは何らかの原因によって発信する主が消え去ったか。後者の考えが頭を掠めた時、彼はそれを鼻で笑おうと試みた。しかしそれは無為な挑戦に終わり、次に彼は、現象の原因が前者であることを神に願った。しかしどちらにせよ、自分が救われることはもうないだろうと言うことも、彼は覚悟していた。
 未知のエネルギーによって捕縛されてから四週間と三日が経っていた。一隻は何週間も前にすでに逃れ、もう一隻はそれよりだいぶ前に撃墜された。彼は何とか逃げ仰すことができ、認識偽装されている空間から今にも脱出しようと言うところだった。
 追手を撃ち落とし、星間ワープを駆使して何とか脱出に成功した。相変わらず連絡はないものの、彼は一安心した。神の導きはあるものだ。絶体絶命の状況から、彼はひとまず逃れることができたのだった。
 彼は地球の座標を選択し、AIに目的地をセットした。地球に帰ったら顛末を全て報告しなければいけない……。だがその前に新鮮な空気を思いっきり吸いたい。北欧のリゾート地で、太陽に焼かれながらゆっくり人生を満喫してやりたい。休息が欲しい。暖かな海を泳ぎたい。ああ、母なる海。私はあまりに疲れすぎた……。そういえば、先に逃れた彼はちゃんと帰れただろうか。
「選択した惑星は現在存在いたしません」
 船の中に無慈悲な声が響いた。彼は呆然と画面を見つめた。
 そこからの記憶は朧げだった。生まれ育った故郷が失われてしまったと言われたとして、誰がその事実をすんなり受け入れることができるだろう? 無我夢中で船を漕ぎ、彼は遂に銀河系に到達した。しかしそこには見慣れた星々は無く、真っ白な炎が燃え続ける巨大で虚な空間があるだけであった。燃料はもう使い果たした。度重なる無理が祟ったせいか、彼はもう何も考えられないでいた。
 レーダーが追手を察知し、けたたましい警告音を上げた。しかし、彼は動くことができなかった。
 涙でぼやけた灼熱に燃える故郷は、なぜか母親の腹の中の景色を彼に思い出させた。彼は嗚咽を漏らしながら、最後の人間としての勤めを果たすかのように、自爆装置の赤いボタンを押した。 

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過去への逃走
Notorious
SFプロット・Notoriousバージョン
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 ダイヤを握り締め階段を駆け上がる次男坊の背中を俺は追う。ダイヤを狙う賊の正体が身内だったとは予想外だったが、屋敷の外には厳重な警備を敷いてある。逃がしはしない。

 広い階段を登り切った彼はこれまた広い廊下を息を切らして走って逃げる。急に駆け出されて遅れをとったが、しょせん刑事の俺とは鍛え方が違う。もう少しで追いつけそうだ。

 次男坊は廊下の突き当たりの扉を開け、中によろめき入り、閉めようとした扉を俺はがっしりと掴んだ。彼は舌打ちをして中に逃げ込み、俺は油断なく室内へと足を踏み入れた。

 そこは見覚えのある物置だった。今朝、ダイヤを保管するための大型金庫をここから引っ張り出してきたのもここだった。物置とはいえさすがは大富豪の屋敷、小さなパーティーが開けるほどの広さがある。壺や絵画といった骨董品から冷蔵庫や発電機のような機械類、果てには自称発明家である次男坊が作った得体の知れないガラクタまで、実にさまざまな品々が雑多に置かれている。

 それらの向こう、部屋の一番奥に立つ縦長のポッドのような装置に手をついて、次男坊は息を整えていた。その右手には依然、彼の母が所有する時価数億円とも言う最高級のダイヤモンドが握られている。俺と目が合うと、彼は懐からライターを取り出しダイヤに近づけた。

「そこから動かないでください、刑事さん。ダイヤが燃えることは知っていますね?」

 ダイヤが燃えるかは知らないし、何より彼にダイヤを燃やすつもりはないとわかっていたが、下手に刺激しないよう俺は立ち止まった。

「もう逃げ場はないぞ。大人しくそのダイヤを渡すんだ」

「嫌ですよ。それじゃ盗んだ意味がない」

 実際、なぜ彼が強奪に踏み切ったのか、わからない。ダイヤ奪取の予告状が届いてから、屋敷の内にも外にも夥しい数の警官が配置され、水も漏らさぬ警備体制が敷かれていたのだ。確かに次男坊は屋敷内部の人間だから侵入は問題ない。しかし、屋敷からの脱出は到底不可能だと彼もわかっているはずだ。

「そんなことより刑事さん、どうでしたか僕の計画は。見事だったでしょう?」

 次男坊は不敵に笑って眼鏡を押し上げた。部屋の外でドタドタと足音がする。警官たちが駆けつけたのだろう。振り向かずに手で制止しながら、俺は会話を続けた。

「ああ、してやられたよ。偽の怪盗の予告状を自分の家に送るとは。母親は盗まれるのを恐れて、警備を敷いた上でダイヤをより強力な金庫に移し替えようとした。そこを横にいたお前が不意をついて奪い取る。母親がダイヤをケースから出すことが、お前には読めていたのか?」

「ええ。あいつは図々しいくせにとびきり怖がりですから。予告の前日くらいにそうするだろうと思っていました」

「全て計画通りというわけか。まんまと乗せられたな。あのコンテナみたいなバカでかい金庫をここから下まで運んだのは俺たちなんだぞ。十人がかりだ。奥にあったのを物置の外まで出すだけで二時間かかった」

「まさかダイヤでなくてあの金庫を動かすとは思いませんでしたよ。現金とか権利書とかが既に入ってる金庫なので、中身を出して軽くしてから運ぶわけにもいきませんし。計画ではダイヤが一階のケースから二階の金庫に運ばれる間に強奪する予定だったんですが、おかげでケースから取り出されて金庫に入れられるわずかな間に決行しないといけなくなりました」

「だが、これほど大規模な警備を敷くとは予想できなかったようだな。この物置はこのドアしか出口はない。逃がしはせん」

「いいえ、刑事さん。僕はそれも予想していましたよ」

 俺は内心首を傾げた。次男坊がダイヤを盗んだのは、金目的に間違いないだろう。趣味の発明に母親がお金を出さなくなって鬱憤が溜まっていたと聞く。だから彼はダイヤを売る必要があり、燃やしたりなど決してしない。だが、ダイヤを売るにはここから逃げおおせなければならない。

「そうですよ刑事さん。逃げ道は事前に用意済みです」

 俺の戸惑いを見透かしたように彼は笑った。

「みんな僕のことをガラクタばかり作ってる道楽息子と思っています。腹立たしいですが、僕はそれを逆手に取りました。刑事さん、あなたは幸運ですよ。僕の長年の研究の精華、タイムトラベルの初めての目撃者になるんですから!」

「タイムトラベルぅ?」

 俺は耳を疑った。つぎに次男坊の正気を。だが、彼は嘲りと誇りの入り混じった目でこちらを見ると、傍らの装置に触れた。すると、縦長のポッドに薄明るい光が灯り、ブウンとうなり始めた。

「信じていませんね。いいですよ。すぐにその目で確かめることになりますから。おっと、まだ近づいちゃだめですよ」

 次男坊はおもむろに片方の靴を脱ぐと、ポッドのガラス扉を開いて中に放り込んだ。そして中のスイッチをがちゃがちゃいじり、最後に外から扉を閉めた。すると、ポッドの中が煌々と光ったかと思うと、バシュンという音とともに光が消えた。ポッドの中を見て俺は目をみはった。入っていた靴が跡形もない。

「ははは、驚いてますね? これが僕の発明したタイムマシンです。正確にいえば、中のものを地球を中心とした空間座標はそのままに時間軸のマイナス方向に転送する装置なんですが……わかるように説明してあげると、中のものを過去の同じ場所にタイムスリップさせるんです」

「まさか、そんなことが……」

「今は一日前が限度ですが、ダイヤを売った資金で研究を進めれば、もっと遠い過去にも行けるようになるでしょう。わかりましたか、刑事さん? 僕の用意した逃げ道が」

「お前は、過去に逃げようとしているのか!」

「その通りですよ刑事さん! どうです、僕の完璧な計画は! あなた方が屋敷に到着して警備を始めたのは今朝のこと。今、あなた方の包囲網は完璧だ。これからも、十分な態勢を整えることはできる。でも、過去はどうです? ダイヤが奪われる一日前にダイヤを取り戻せますか、刑事さん! 装置の操縦の仕方は僕しかわからないから、追いかけることもできない。僕は今から、警備の敷かれる前にダイヤを持って悠々とこの屋敷から出て行ってみせますよ!」

 彼はそう叫ぶと片足は靴下のままポッドの中に飛び込んだ。同時に俺は駆け出した。大量の警官がなだれ込んでくる。しかし、俺が装置の扉に手をかける寸前、次男坊はポッドから過去に旅立った。

 一時間後、俺は犯人を逃がしてしまった衝撃と、報告書になんと書けばいいのかという絶望に打ちひしがれながら、ヒステリックに何かを叫び立てる母親に頭を下げていた。警官たちがポッドの中を仔細に調べたが、抜け穴の類いは一切なかった。もはや彼は本当に時間を遡ったと信じるよりほかない状況だった。彼は今ごろどうしているのだろう。いや、今ではなく昨日か。彼は『一日前の同じ場所にタイムスリップする』と言っていた。つまり、彼は警備のない昨日の物置にたどり着き、未来で盗んだダイヤを持って外に行けるわけだ。そういえば、金庫を運んだ時に物置にあんな装置があったような気もする。大きな金庫を外に出すために、周りのガラクタを一旦外に出してからまた中に入れ直したのだ。その中によもやタイムマシンが入っているとは……。

 はっと俺は顔を上げた。

「奥さん、お手数をかけますが、あの金庫を開けていただけませんか」

 母親は随分渋ったが、捜査への必要性を強く訴えると最終的には折れた。ダイヤルを右に左にぐるぐると回し始める。

 今朝まで、コンテナのように大きなあの金庫は物置の奥にあった。そして金庫を運び出した後にタイムマシンは物置に再度入れられ、奥に置かれた。つまり、次男坊がタイムスリップした時のタイムマシンと昨日の金庫は大体同じ場所にあったことになる。タイムマシンから一日前の同じ場所に時間遡行した時、その場所は……。

 かちりと金庫が開錠されると俺は扉を引き開けた。大量の札束の上に座っていたのは、両方の靴をしっかりと履いた次男坊だった。

「よう、一日ぶりだな」

 力なく俺を見やった彼は、ダイヤを投げてよこした。

「いいのか?」

「ダイヤは飲めないし食えないですから」

 彼はかすれた声で呟くと、札束にもたれかかった。俺は控えている部下に、丸一日金庫の中で断食したタイムトラベラーに水と食べ物を用意するように言った。

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賭け駄段々、そして革命
キュアラプラプ
WikiWikiオフラインノベルへの書き下ろし作品。『それいけ!ルサンチマン』から二年後、新たな皇帝が打ち出した娯楽産業『サーカス』とは……!?
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1 サンドイッチとサーカス

 人間だとか、政治だとか、そんなものはこの大地の興味を惹くに値しないらしい。第三クーデターが成功裡に終わってから数年が経ち、民衆の生活は大きく変わったが、相も変わらずこの国の冬は代わり映えのしない極寒だった。

 過酷な労働環境に喘いでいた都の労働者たちには、ずいぶん笑顔が増えた。この国の新しい元首が、革命の推進力となり、今でも自身の支持基盤となっている彼ら労働者たちを、きわめて優遇したからだ。労働者を守る法律や、社会的な支援制度が整備され、もう彼らがパンの一欠片を何日もかけて大事に食べるようなことはなくなった。都市の工業化はきわめて効率的に進み、この国では何もかもが順調に進んでいるように見えた。

 しかし、ひとたび都市の外に目を向けると、状況は一変する。新たな元首が大手を振って推し進めたのが、いわゆる内国植民地の建設だった。彼女は最初、「労働者と農民の有機的な団結」を掲げ、都市の各工業区に国家周縁の地方自治体を対応づけたのち、内需の充実を名目にした「自給自足」の制度を導入した。これによって、地方は工業区に食料やエネルギー資源を含む一次産品を輸出し、対する工業区はそれらを加工した消費財を地方に輸出するという構図が出来上がる。この工業区と地方自治体の連合が、俗に「サンドイッチ」と呼ばれるようになったのは、ある風刺画がきっかけだった。その絵はちょうど、第一身分と第二身分が平たい岩の上から第三身分を踏みつけにするフランス革命の風刺画と同じような構図をしていて、上のパンには「都市労働者」、下のパンには「農民」、そして具のハムには「自由経済」と文字が書かれているものだった。下のパンは薄く萎れていて、上のパンはでっぷりとしているものの緑のかびが描き込まれている。実際のところ、「サンドイッチ」の経済の全権は、すべて工業区の方に握られていた。それに、かの元首は軍隊に直属し国家憲兵に構成される「思想警察」を行政監督者として用い、地方の住民を厳しく支配した。経済合理化の御旗のもとに、地方住民の権利は次々に奪われていき、地方はただ資源、あるいは市場としてしかみなされなくなったのだ。

 こうして、国内の中核と周縁の間には、帝国と植民地の関係に全く異ならない状況が生まれた。その仕組みは、すこぶるうまく機能した。――ただしこの元首は、そこにあぐらをかくことはなく、むしろ地方の「思想監督」に病的なまでの神経質さを発揮した。それは、彼女が抑圧された地域住民によって革命を起こされるというへまを強く恐れたためなのだろう。ともかく、これが「サーカス」誕生の経緯であった。それは、危険な革命思想者を侮辱し、いたぶる娯楽産業だ。これらのショーは地方各地で興行され、たちまち大きな人気を博すようになった。思想者はたいてい、ひどく意地悪なゲームで遊ばされる。ある者には指や歯を手札にしたばば抜きを、またある者には脱穀機との手押し相撲を……古典的なライオンとの決闘に参加させられた者もいる。

 そして、このさびれたショッピングモールもまた、今日行われるサーカスの会場だった。

 一階のフードコートの中央にはウッドデッキ調のステージが置かれており、そこから三つのフロアの中央を貫くように吹き抜けがある。どのフロアもテナントはまばらで、電気はほとんど通っていない。普段はほとんど廃墟のようにも見えるこの商業施設は、しかしサーカスの日だけは開業当初の熱気を取り戻した。観衆は各フロアの吹き抜けを囲う柵から身を乗り出し、思い思いに歓声や罵声を飛ばす。それはさながら古代ローマのコロッセオだ。ただし、彼らが見ていたのは一階中央のステージではなく、吹き抜けの空間に出し抜けに立っている、動かないエスカレーターだった。どうやら彼らのスターは、いつもこのかなりの長さのエスカレーターをレッドカーペットにして登場するらしい。

「俺は三ターンに賭けるぜ!」

「いいや、やつの理性を買いかぶりすぎだろう! 俺は二ターンに賭ける!」

 サーカスでは、こういう形の多くの見世物と同じように、もちろん客席の賭け事も盛んだ。ただし、このショッピングモールに限っては、賭けの対象は勝者がどちらかではなく、この日捧げられた思想者が何ターン目で殺されるかだった。――このショッピングモールの支配人にして、そこで開催されるサーカスの執行人をも勤める男は、もとは悪名を馳せたギャンブラーだった。チャイニーズマフィアの下っ端として地下闘技場に現れた彼は、時に獰猛に、またある時には狡猾にふるまい、並み居る胡乱なやり手たちを退けて無敗の王座を手に入れたのだ。現役を引退した後も、彼の激しいたちは変わらなかった。サーカスショーの中で癇癪を起こし、たった数ターンのうちに思想者を殺してしまうこともざらにあった。その中華系のルーツと、熊のように肥えた巨躯、全身に入った黒のまだら模様の刺青、そしてその驚くべき勝負強さによって、彼はこう呼ばれるに至った――「"大勝ち"のパンダPanda the "Creamer"」。あるいはより親愛を込めて、「クリームパンダ」と。


2 駄段々

 突如、人々のざわめく声が歓声になる。彼らの視線の先には、エスカレータを堂々とした足取りで歩いて降りてくる、迷彩柄のズボンを履いた上裸の巨漢がいた。サーカスの主催者、クリームパンダの登場だ。

「ビャハハハハ! 今日も元気がいいなあ、市民たち!」

 クリームパンダの獣のような大声が響くが、しかしそれにも負けない歓声がモールを埋め尽くす。彼は満足そうに目を細め、マイクを持ち、醜悪なウインクをさらした。

「さあて、今日のサーカスの演目は先週告知した通り……久々の『賭け駄段々』だ! 舞台はもちろん、このでくのぼうのエスカレーター!」

 万雷の拍手で彼の言葉のいちいちを迎える観客席は、しかしどうやらまだそわそわした様子で、期待に満ちた目をしてクリームパンダを見ている。彼らが待っているのはもちろん、今日の獲物――治安警察から引き渡されてくる思想者だ。クリームパンダはもろ手を挙げて続ける。

「まあ待ってくれ、凶暴な市民たち。まずは『駄段々』の説明だ。ここでは前にも何回かやっているから、知っている人も多いと思うが、一応説明させてくれ。裏で待機している思想者にもルールを教えてやらないといけないからな。このゲームは地下賭博場で作られ、大流行したゲームのひとつだ。ギャンブルで脳みその報酬系が腐ったごろつきどもは、刺激を求めて何度も地下賭博場に出向くだろう? それである時、奴らはついに地上の入口から地下賭博場へと続く長い階段を歩いて降りる時間すら退屈に思うようになっちまったらしい。こうして考え出されたのが、階段とトランプだけを使って遊べるこのゲーム、『駄段々』ってわけだ。

 ルールを説明しよう。このゲームの勝利条件は、『階段を下りきること』! 簡単だろう? ただし、逆に階段を上りきってしまうと敗北になる――ゲーム開始時はそもそも階段を上りきった場所から始めるから、このときはもちろん例外だ。それで、段の移動はもちろん勝手にやっていいわけじゃない。ただの階段駆け下り競争になっちまうからな。ここでトランプを使うんだ。プレイヤーは、七枚のランダムなカードで構成された手札をゲーム開始時に受け取る。そして、各ターンにそれぞれ一回ずつ『数字カード』を使うことで階段を上り下りする。『駄段々』は、ターン制バトルなんだ。プレイヤーが移動したとき、ターンは即座に次のプレイヤーに移り変わる。だからもちろん、ターンを渡さないためだけの度を越した遅延行為は禁止されている。

 『数字カード』は、エースから10の数札にジャックを加えたものだ。プレイヤーは宣言した『数字カード』にある数字の分だけ移動できるが、そのカードの効果は一枚につき一度しか使うことができない。ああ、もちろんJは11に相当するぜ。ここで気をつけないといけないのは、それが黒のカード、つまりスペードかクラブのカードなら階段を下る方向に移動し、逆に赤のカード、つまりハートかダイヤのカードなら階段を上る方向に移動するってところだ。ややこしいだろう? ちなみに、ゲーム開始時に赤のカードを使うことはできない。当然だが、上がる段がないからな」

 そう言うと、クリームパンダは懐からカードをいくつか取り出し、動きを実演してみせた。ハートの3なら3段上昇、クラブのAなら1段下降。次に彼が観客に見せびらかしたのは――

「よおし、見ろ、これぞキングだ! 『数字カード』以外のカード、つまりクイーンキング、そしてJKジョーカーは、駄段々では『特殊カード』と呼ばれる。こいつらの特徴の一つは、『数字カード』とは違って、使うときにはカードの絵を明確に相手に見せた上で、それを階段のどこかに投げ捨てないといけないことだ。面白いだろ? ずいぶん妙だが、大事なルールだ。覚えておいてくれ。ちなみに、何らかの理由で捨てられたカードは、その次のターンからはプレイヤーの誰でも勝手に拾っていい。だから、『数字カード』と違って、『特殊カード』の効果はある意味再利用することができるんだ。で、こっからが本題だ。『特殊カード』は色が黒とか赤とかに関係なく、その名の通り強力な特殊効果を持つ。まずは……QとK。女王と王だ。こいつをぶん投げるってのが何を意味してるか、頭脳明晰な市民諸君にはもうお分かりだろう――革命だ!」

 瞬間、まるで火がついたように、観客席からブーイングの大合唱が飛ぶ。もちろんクリームパンダはこんな不適切なことを賛美しているわけではないし、観客も彼のことを本心から批判しているわけではない。これはクリームパンダお馴染みのブラックジョークであり、いわばお約束なのだ。彼は何かカードゲームを持ってくるとき、いつも「革命」の要素が入ったものを選んできては、露悪的にそれを見せつける。――これが暗に「思想監督」の一端を担っているのは、言うまでもないことだ。

「ビャッハッハ、すまんすまん、でもルールブックに書いてあるんだから仕方ない。さて、『革命』が発生したとき、起こることはシンプルだが、とても厄介だ。勝利条件と敗北条件が入れ替わるのさ! 一度『革命』が起きた後は、今まで通り下に進んでいくことはできない。もし階段を下りきってしまったら、それは勝利じゃなく、敗北になってしまうからな。勝利するためには、今度は上を目指さないといけないんだ。もちろん、『革命』は何度でも起こせるから、さらに『革命』をし返すことで条件を元に戻すこともできる。いよいよ本格的にややこしくなってきたかな。ただし、『革命』を発生させたとき、強制的にターンは終了する。だから、『数字カード』による移動と『革命』の両方を一ターンの間に同時に行うことはできないんだ。これは、例えば最初の一ターン目でちょっと階段を下りた後、二ターン目に『革命』を使ったうえで赤のカードで上昇してゲーム終了、というような面白くない試合を禁止するために定められている。

 で、今度はJKの説明だ。まあ、さすがは道化と言ったところか、こいつの効果は奇妙でな。このカードはまず、自分のターンじゃなくてもお構いなしに発動できる。さらに、こいつを使うと、自分の手札を相手に公開しなければならないんだ。これを代償に相手にでかい損害を与えられるとかでもなく、ただただ自分の手札を相手に見せるというだけのカード。意味が分からないだろう? まったくだ。だが、『駄段々』にはこいつを活かすルールが一つある。それは、『相手のプレイヤーが自分がいる段の真下の段にいるとき、相手に自分のカードの効果を押し付けることができる』というルールだ。ここでいう『効果』には『数字カード』による階段の移動も含まれるから、このルールは、基本的には自分のターンに、自分が移動する代わりに相手を不利な方向に強制的に移動させるというやり方で使われる。そして、これはもちろんJKの効果にも適用されるから、もし相手の一段上の場所を取ることができたら、今度は逆にJKを相手に使うことでいつでも『相手の手札を強制的に自分に公開させる』ことができるようになるんだ。JKはこうやって使う。なお、QとKの効果は、常にプレイヤーではなく勝利・敗北条件に対して発動するから、一段上うんぬんはこいつらには関係ないぜ」

 ここでクリームパンダは、懐に入っていたカードをすべて引っ張り出した。先ほどの三枚のカードを含む七枚のカードを舐め回すように見た後、あからさまな演技の困り顔をして、出しぬけにこう言った。

「んー? おいおい待て待て、俺様が持っているカードは、さっきの赤の3と黒のA、Kの他に、赤のAが二枚、赤の2、それに黒の2。この七枚だ。参ったな、数字の小さいカードばっかりだ。『数字カード』の効果は一枚につき一回だから、これじゃあゴールにたどり着くことができないじゃないか。このゲーム、結局手札の運だけが勝敗を決めるんじゃないのか?

 ……こういう疑問はもっともだ。しかし、『駄段々』の本性はここからなんだ。覚えてるか? 『特殊カードを使用するとき、そのカードの絵を明確に相手に見せた上で、階段の遠くにぶん投げないといけない』というルールがある。なのに、『数字カード』を使用するときには、別にそんなことをする必要はないよな。実は、これにはちゃんと理由があるんだよ。『数字カード』を使うとき、ちゃんと嘘をつけるようにするためさ! そう、『数字カード』を使うときには、嘘をついてもいいんだ。このゲームの基本は、ゴールにたどり着くまでに嘘の数字を張りまくるというところにある。

 もちろん、嘘が出てくるからには、いわゆる『ダウト要素』が存在する。相手が宣言した『数字カード』が嘘だと思ったとき、プレイヤーはこう叫ぶ――『駄段々』! そう、これこそが、このゲームの名前にもなっている一番の目玉要素なんだ。『駄段々』は一回のゲームにつきプレイヤー別に三回まで行うことができる。そして、これを受けたプレイヤーは、必ず宣言した『数字カード』を実際に相手に見せないといけない。それができない場合――つまり宣言したものが嘘だった場合、そいつは手札の中で最も数が大きい『数字カード』を階段のどこかに投げ捨て、なおかつ『駄段々』を行ったプレイヤーと階段上の位置を交換しなければならない。かなり重いペナルティだ。嘘を指摘したプレイヤーの位置によっては、振り出しに戻ってしまうことだってありえる。

 だが、『駄段々』を行う方にももちろんリスクはある。もしも『駄段々』を受けたプレイヤーが、宣言した『数字カード』を実際に持っていた場合――つまり嘘なんてついていなかった場合、今度は『駄段々』を行ったやつの方が、手札の中で最も数が大きい『数字カード』を階段のどこかに投げ捨てないといけないんだ。こんな風に、ハイリスク・ハイリターンだからこそ、『駄段々』に駆け引きが生まれてくるってわけだな。ああ、それと、もう一つ大事なことがあった。あるプレイヤーが『数字カード』を宣言し、それによる移動で勝利条件が満たされる――つまりゴールが成立するようなときに、そいつが『駄段々』を受け、それが成功したならば――つまり、そのプレイヤーが嘘をついていたことが明らかになったならば――そいつは即座に敗北のペナルティを負わされてしまうんだ。簡単に言うと、嘘でゴールしようとしたのがバレたら即敗北ってことだ。気をつけないといけないな。

 ……ふう、退屈なルールの説明は、これでおしまいだ。狂暴な市民たちよ、よく耐えてくれたな。ここからは、お前たちの見たいものを思う存分見せてやる!」

 クリームパンダはそう言って、はげた頭の横で拍手を二回響かせた。観客が総立ちで拳を突き上げる中、一階のステージに現れた思想者の男、あるいは今日の獲物と呼ぶべきか、彼は二人の国家憲兵警官に前後を囲まれ、麻の縄で胴と腕を後ろ手に縛られていた。


3 ショーの幕開け

「さあ、今日の思想者はこいつだ! 先日の『大摘発』によってパクられた一味の、最後の生き残りらしい。サーカスは楽しめそうかい? 意気込みをどうぞ」

 そう言うと、クリームパンダはマイクを男に突き出す。男は半笑いでこう返した。

「おいお前、迷彩ズボンに上は裸って、どういうファッションセンスなんだ? クソダサいな! 追い剥ぎに遭った敗残兵のコスプレでもしてるのか?」

 この瞬間、会場の誰もが、今回のサーカスは『0ターン』に賭けた者の勝利に終わると思ったが、当のクリームパンダは腹を叩いて大笑いしていた。どうやら今日の支配人は機嫌がいいらしい。

「ワーオ! なるほど、さすがは生き残り。なかなか図太いやつだ。しかし、そのへらへらした態度もいつまでもつかなあ?」

 クリームパンダは観客席の方に振り返って、にやりと笑う。

「さあ始めよう! 本日のサーカス、『賭け駄段々』を!」

 観客席のボルテージは最高潮だ。各フロアに設置されたフロントには、今日のオッズが張り出されている。最も人気なのは『三ターン』、最も不人気なのは『殺されない』という賭けらしく、『殺されない』場合の払戻金は一万倍と表記されていた。もっとも、それはただのいたずら書きだったが。二人の警官は、男をエスカレーターの上まで連れてきて、縄をほどいた後、自らも観客席に移動した。どこからか現れた支配人の助手らしいスーツ姿の男が、クリームパンダと思想者にそれぞれ七枚のトランプカード――時代遅れの黄ばんだ紙製のカードで、裏には真っ赤な細密画が描かれている――を渡し、『駄段々』の準備は整った。

「ああ、そうだ、観客の市民諸君は当然ご存じだろうが、一応説明しておこう。今、このサーカスに存在するルールは、『駄段々』のルールだけだ。こいつは死んでも守らないといけない。こいつを破れば、そこにいる警官に射殺されちまうからな。あの女帝にそう命じられているらしい。……しかし、裏を返せば、それ以外に守らないといけないルールなんて一つもないんだ。どういう意味か分かるか? つまり、エスカレーターの上の演者たちの間に、法は存在しないんだ! 勝手に言ってるわけじゃないぜ。これも女帝が定めたことだ。だからもし俺様がゲーム中にこいつを殺しちまっても、何も問題はない。『駄段々』のルールには、『対戦相手を殺してはならない』なんて一言も書かれてないからなあ! 分かったか、危険思想者の生き残り!」

 しかし、思想者の顔に張り付いたにやけ顔は一向に曇らない。

「なるほど、なんでもありだな。じゃあ逆に、俺がお前にしょんべんをぶちまけたって何も問題はないわけだ!」

 これには、観客席からも笑い声が飛んだ。こういうタイプの思想者は、やはり時折現れてくるのだ。今回のサーカスは面白くなりそうだ。

「ビャハハハハ、まったく面白いやつだな。そんなお前の気概に免じて、ハンデをやろう。お前が先攻で良いぜ」

「……よし、じゃあ俺は『数字カード』の黒の4を使おう」

 この停止したエスカレーターのステップは全部で50段で、よほどの強運で手札に大きい数字のカードが上から順に集まっているでもない限り、必ずどこかで嘘をつく必要がある。ゲームを盛り上げるには、うってつけの階段だった。ただし、場の浮かれた空気とは裏腹に、あるいはその陽気さが異常なものであることを示すだけなのかもしれないが、エスカレーターにはところどころにべったりと血がついていた。以前の『賭け駄段々』で殺された思想者のものだ。クリームパンダがおどけた表情で観客席を笑わせている間に、男はそのまま4段を下り終え、ターンはクリームパンダに移った。

「俺様は黒の3だ。おっと、お前の真上だな。これはラッキーだ」

 器用にも、スキップしながら階段を3段下った後、クリームパンダは突然ズボンのポケットから二丁の銃を取り出し、真下の男をじっと見てこう言った。

「なあ、思想者よ、取引をしないか? 『プレイヤーどうしで取引をしてはならない』なんてルールもないし、別にいいだろう。……そう、そのルールが問題なんだ。俺様は銃を二丁持っているから、『駄段々』のルールのせいで階段を自由に動けないにもかかわらず、遠距離からお前を殺すことができる。だがお前は手ぶらだ。俺様を殺すには心もとない。……これじゃあ不公平だよな? 不公平なのは良くない。だから取引をしよう。なあに、簡単な取引さ! もしお前の手札にQかKがあるのなら、それをすべて俺様によこしてくれ。お前のような思想者が『革命』を起こせるカードを持つなんて、危なっかしいったらありゃしないからな。そうしたら、俺様は代わりにこの二丁の拳銃のうち一丁をお前にやる。それに、カードの数が減ってしまうのも不公平だから、お前が俺様に渡したカードと同じ枚数、俺様もお前にカードを渡す。どうだ? もちろん、銃は本物だ」

 そう言って、クリームパンダは二丁の銃を真上に向け、引き金を引いた。撃鉄の鋭い金属音と空気の振動が、観客席を沸かす。

「ほう。ずいぶんと優しいんだな。……分かった。取引に乗ろう」

 男はKを一枚、真上のクリームパンダに渡した。クリームパンダは得意の芝居がかった表情でそれを受け取り、拳銃の一方と赤の10を男に渡す。

「ああ、言うのを忘れていた。ただし一つの条件として、この取引でお前が嘘をついていたなら……直ちに殺す。つまり、お前の手札に俺様に渡したK以外の『革命』を起こせるカードが残っていたならば、お前を射殺する! じゃあ、答え合わせの時間といこうか」

 クリームパンダは、観客席にJKを見せびらかした上で、エスカレーターの下方向にそのカードを投げ飛ばした。真下のプレイヤーにカードの効果を押し付けるルールによって、男の手札を開示するのだ。このとき、観客の誰もがこう思っていた――「1ターン」に賭けた者の勝利だ!

 ――なぜこの「賭け駄段々」が、勝者がどちらかについての賭けをしないのか。その答えは単純で、これは出来レースだからだ。この「駄段々」のゲームの展開は、すべてクリームパンダに仕組まれている。そもそも、「指や歯を手札にしたばば抜き」だとか、そういうほとんど残虐な刑に違わないようなサーカスが各地で行われている中で、このクリームパンダの「賭け駄段々」だけがただの「殺されるかもしれないゲーム」だなんていううまい話はないに決まっている。これはゲームの形を借りた単なる殺人ショーなのだ。これを可能にするのが、手札の操作であった。クリームパンダに配られる手札、そして思想者に配られるカードは、事前に決められたものだったのだ。

 確かに、これは「駄段々」のルールに明確に違反していた。しかし、警官はこれを黙認する。国家元首がパンダにさえルール違反を許さないのは、「思想者を処刑する者は絶対的な正義に基づいている」ということをアピールするためであったからだ。彼女は、サーカスの観客の中に不正な手段で露悪的に苦しめられる思想者を見て同情してしまう者が現れることを恐れた。……その割には他のサーカスの華々しいスプラッターゲームを認めているので、元首の倫理観がただひたすらに狂っているだけだという話に落ち着くのだが。ともかく、手札の操作は普通のゲーム中に行われるルール違反とは違って、ゲーム開始以前に隠れて行われる。実際のところ、観客たちはうすうすそれに気づき始めていたものの、それは客席に大々的に披露されるようなものではなかった。このために、手札の操作はルール違反といえども特別に許され、こんな風に決められていた――クリームパンダの手札は「Qが三枚、JK、黒の3、赤の10、赤の9」、そして思想者の手札は「Kが二枚、黒の4が二枚、赤のJが二枚、赤の10が一枚」だ。これによって作られる最初の見せ場が、この「取引」だった。

 思想者の手札の中の使える「数字カード」は、実質的に二枚の黒の4だけだ。赤のJや10は、思想者がどの段にいようとも――ゲーム開始時はもとより、黒の4を使ったときの4段目、二枚目の黒の4を使ったときの8段目では、階段を上りきるという敗北条件を満たしてしまうから――使えない。だから、思想者は一ターン目も、必ず黒の4を使う。そこに、黒の3を使ったクリームパンダがやって来て、「取引」を持ちかけるのだ。ちなみに、クリームパンダの手札の赤の10と9は、この取引でKと交換するカードとして用意されている。なぜこの組み合わせなのかといえば、先程の赤のJや10と同様、「使えないから」に決まっている。さて、パンダの実銃にも怖気づかず、このゲームにひょっとすると勝てるかもしれないと思っている傲慢な思想者は、この取引を持ち掛けられたとき、それを断るか、あるいは二枚のKのうち一枚だけを渡す。もし残ったKで「革命」を起こせたら、例の赤のJや10を使って、ひといきにこのゲームに勝利できるかもしれないからだ。無論、クリームパンダは思想者の「革命」すべてを打ち消せる分のQを持っているからそんなことは起こりえないし、そもそもこういう無礼を働いた時点で、思想者はJKによってその分かりきった手札を公開され、殺される。……今起ころうとしていることは、まさにそのパターンだった。

 しかし驚くべきことに、男がにやけ面で公開した七枚の手札は――黒の4が二枚、赤のJが二枚、赤の10が二枚、そして赤の9が一枚だった。


4 戦況激化エスカレーション

「どうした? 俺は全部の『革命』を起こせるカードをお前に渡したぜ? この中に何か俺が持ってちゃいけないカードでもあるのか?」

 思想者がそう言い終わらないうちに、クリームパンダは手札を左手に持ち替え、右手で拳銃を構えた。指はトリガーに掛かっている。それを横目に見た瞬間、思想者の男は即座に体制を低くし、パンダに渡されたばかりのピストルを回転をかけて投げ飛ばした。男の拳銃がクリームパンダの右手に命中し、パンダが自らの拳銃を撮り落とした瞬間、思想者はすかさずパンダの意識の外にあった彼の左手から手札を奪い取り、床に落ちた二丁の銃と共にエスカレーターの下方向に投げ飛ばしてしまった――それも、かなり地面に近いところに。瞬く間に、フォークダンスのような鮮やかさで、クリームパンダはすべての手札と拳銃を失った。

「お前……どういうつもりだ!」

「よし、俺のターン。もちろん黒の4だ」

 そう言って、男は素早く、さらなる4段を下り、傍の赤い手すりにもたれかかった。

「言っとくが、俺はルール違反なんて一切してないぜ? 『相手の手札をどっかにぶちまけてはならない』なんて言ってなかったよな? さて、これでお前は俺を殺せない。さっき見せたばかりの二枚目の黒の4を疑って、無駄な『駄段々』でもしてみるか? 俺がお前の5段下にいる以上、銃を失ったお前の攻撃は、ひとつも俺には届かない。まあ、ゲームのルールを無視して突っ込んできたって、別に俺は構わないぞ。愚かな思想者に出し抜かれた、最も愚かなサーカス執行人として、お前があそこの警官に射殺されるだけだからな。悔し紛れに俺にしょんべんでもひっかけてみるか? 5段下まで届くお前唯一の攻撃手段だ!」

 観客席はたちどころに動揺し始めた――この状況で、クリームパンダに何ができるだろうか? 彼は拳銃を失い、思想者を殺せなくなったばかりか、このゲーム自体に勝利することさえ不可能になったのではないか? 思想者は黒の4を二回とも使い終わったし、「革命」を起こせるカードも持っていないから、嘘の「数字カード」を宣言して階段を下っていくしかなく、これはクリームパンダにとっても同じことだ。しかし、最も下の段にたどり着いた後、ゴールをするために嘘の宣言をしてしまうと、相手に「駄段々」を行われて即座に敗北のペナルティを食らうことになるのは目に見えている。ルールに則れば、ゲームはここで完全な膠着状態に陥るだろう。

「ビャハハハハ! ビャーッハッハッハッハ!」

 クリームパンダは、ひきつった、歪んだ笑顔で、大笑いを始めた。彼は、あのありえない赤の9――明らかな思想者の何らかの不正行為の証拠――に、一時は癇癪を起こし、彼をそのまま殺そうとしたが、それよりもっとありえない状況に置かれたことで、何か新しいステージに移行していた。それは、勝負師としての恍惚だった。実際のところ、パンダは命の危機に置かれていた。彼は国によってサーカスをさせられている立場だ。正当な方法で、思想者を貶め、否定し、その無様な姿を地方の奴隷たちに見せつけてやらないといけない。ここにおいて、もし執行者のはたらきが「正当な方法」でなければ観客席の警官に殺されてしまうというのが、例の「ルール違反」のペナルティだ。しかし今、彼は逆に、思想者の思い通りに動かされていた。これは、思想監督代行者たるサーカスの執行者にとって、「ルール違反」などというものよりもずっとよろしくないことだ。このままだと、彼は確実に殺される。そして、そのスリルに、彼は病的に興奮していた。

「お前、元は先帝直下の『恐怖の男ホラーマン』だったりするのか? 拳銃を突きつけたのに殺せなかったなんて初めてだよ」

「いいや、むしろそいつらに追われる側だったさ。なんならそういう意味で、こんな風に追い詰められるのは日常茶飯事だった。階段を一段隔てたくらいのほぼゼロ距離にも等しい距離では、人間の脳みその都合上、拳銃は撃つよりむしろ投げつける方が速い。もっとも、お前が俺に渡してきた拳銃は、たぶん最初の一発以外撃てないように加工されてただろうがな」

「ビャハハハハ、やっぱりばれてたか」

 すると、クリームパンダは観客席に向き直った。

「市民たち、どうだい? 俺様は今、銃も手札も失くしちまったよ。『駄段々』のルールの中では、こいつを殺すことは絶対にできないだろう。俺様はもちろん動けないし、思想者が俺様に殺されるためにわざわざ近づいてきてくれるなんてことはありえない。でも、ルールは死んでも守らないといけないよな。癇癪を起こしてルールを破れば、こいつの言う通り俺様は殺されるだろう。だから、こいつを殺してサーカスをちゃんと成し遂げるためには、一度このゲームを終わらせる必要がある――それも、俺様の勝利によって終わらせる必要がある。もしもこのゲームが膠着状態に陥り、こいつの思惑通り身動きが取れなくなってしまうようなことがあっても、恥さらしの俺様は不名誉なサーカス執行者として国に殺され、見せしめにされてしまうだろう。サーカスは政策だからな。当然だ。……おっと、ちょっと喋りすぎたか。しかし、どうする? このままだと、俺様はゴールの前でこの思想者と延々嘘の宣言の譲りあいをすることになってしまう。こんな状況で、一体どうすれば勝利を掴めるのか……。

 喜べ。俺様には一つ、驚くべき打開策がある!」

 そう言うと、彼はステージの脇にはけていた例のスーツの助手に合図を出した。それを見た助手は、近くにある白いドアを開け、中に設置された巨大な分電盤を操作し始める。助手がレバーを下ろすと、何やら機械の駆動音らしきものが聞こえ始めた。

 ――思想者の男は、足元がぐらつく感じを覚えた。しかしそれは、地震でもなければ立ち眩みでもない。エスカレーターが、ついに動き始めたのだ。


5 逆転、そして革命

「ビャハハハハ! 驚いたか! このエスカレーターは、普段は電気がもったいないから動かしていないだけだ。いざとなったら、こんな風に使うこともできる! ……よし、一旦ストップだ」

 そう言うと、助手はすぐに分電盤のレバーを上げ、エスカレーターは再び停止した。この一連の運動でパンダが立っているステップが移動した距離はたった1段分に過ぎなかったが、それでも元が3段目だったから、ステップはほとんど終端に迫っていた。やはりエスカレーターらしく、段どうしの段差も狭まっているようだ。そんな中、彼は仁王立ちで腕を組み、『数字カード』を宣言した。

「さて、今は俺様のターンだよな? じゃあ、赤のAだ」

 でくのぼうのエスカレーターが動くなんて初めてのことだったから、観客たちは最初この状況の意味するところが分からなかった。しかし、ここにきて、彼らの中にもちらほらとクリームパンダの「打開策」を理解する者が現れ始めた。彼はエスカレーターを使うことで、両者に同等に与えられたジレンマによる膠着状態を解消し、代わりに思想者一人にジレンマを押し付ける状況をつくることに成功したのだ。――このクリームパンダの「赤のA」宣言は、いうまでもなく嘘だと分かる。手札を一枚も持っていないのだから、当然だ。しかし、思想者はこれに対して「駄段々」を行うことができない。なぜならば、この状況で「駄段々」を成功させてしまえば、思想者はクリームパンダと階段上の位置を交換しなければならないからだ。それはつまり、階段を上りきる一歩手前に移動してしまうことを意味する。そうなった場合、何が起こるかは明白だ――クリームパンダは再びエスカレーターを起動させ、強制的に思想者を階段の終端まで運んでしまうだろう。こうして、思想者の敗北によって、クリームパンダは自動的に勝利を獲得するのだ。

「『駄段々』はないな? じゃあ、1段上に上がるぞ」

 こう言って、クリームパンダはエスカレーターの、つまり階段の最上段に上がった。そのステップは、見えている部分がもう半分もなく、エスカレーターの銀の終端に呑み込まれる寸前で停止していた。

「さて、思想者、お前のターンだ。ビャハハハハ、じっくり考えるがいい」

 思想者が持っている手札は、先程と変わらず、黒の4が二枚、赤のJが二枚、赤の10が二枚、そして赤の9が一枚だ。彼は8段目まで階段を下りた後、エスカレーターによって1段上昇させられたから、今は7段目にいることになる。さて、この状況で、彼はどの「数字カード」を使うべきだろうか? 不幸にも、赤のカードの数字はすべて7より大きいから、階段を上りきってしまう。赤のカードは使えない。なら、黒の4か? 否。黒の4はもう二枚とも使ってしまっているし、三枚目があると嘘をつくにしても、JKで手札を見たクリームパンダには通用しない。ここで「駄段々」を行われたが最後、思想者はクリームパンダと階段上の位置を入れ替えられ、エスカレーターの崖際に立たされるだろう。そこからは、全く同じ展開だ。エスカレーターが起動され、思想者は敗北を強いられる。この状況を動かす手段は、事実、存在していなかった。思想者はここで嘘の宣言をするしかなく、しかし嘘の宣言をすることは敗北を意味している。このジレンマは、エスカレーターが動かなかった場合に想定された「膠着状態」におけるそれと確かに似ていたが、しかし思想者のためだけに用意されたこのジレンマはもっとあくどかった――ゴールをしたら敗北してしまうのではなく、何をしても敗北してしまうのだ。

 「膠着状態」ならば、前後に小さな数字を宣言し続けることで、ゴールはできずともターンを回すことはできた。しかし思想者は今、何もできない。ターンを回すことすらできないのだ。――そして、それが実際のところ「ターンを渡さないための度を越した遅延行為」などではないとどれだけ主張しようとも、敗北を避けるためにターンを回さないことは、結果として、明確にルールで禁止されているその行為と見た目上全く変わらなかった。これこそが、クリームパンダの「打開策」だった。何をしても敗北するし、何もしなくても敗北する。この思想者は、取りうる行動のすべてが敗北に直結する袋小路に陥れられてしまったのだ。

 観客席からは拍手が聞こえ始めた。狡猾なクリームパンダは、こういう状況を幾度となく生還してきた。だからこそ、「"大勝ち"のパンダPanda the "Creamer"」なのだ。彼は使えるものすべてを利用して、相手を叩きのめす。数々の違法賭博を実施・運営し、「国民堕落罪」によって極刑を言い渡されながらも、国に刑の執行を猶予され、このサーカスの執行人としてのみ生きることを許されたのは、ひとえに彼のそのカリスマ性、エンターテイナーとしての才能――実用的に言えばその集客能力のおかげだったのだ。拍手はいつしか手拍子に移行し、思想者の自殺行為を急かすために熱狂した。

 ――しかし、この状況でさえ、思想者の顔に張り付いたにやけ顔は一向に曇らない。

「……なあ、思えば、『革命』っていうのは恐ろしいもんだよな。完全に取り除いたと思っていても、気づけば足元に潜伏している。権力者の盲点で、黙々とその時を待っているんだ」

「ビャハハハハ、おいおい、遅延行為はルール違反だぞ。詩的な負け惜しみなんてやめて、さっさと『数字カード』を宣言しな」

「分かってる。俺の『数字カード』は……うーん、どうしよう。じゃあ、黒の8だ!」

 クリームパンダは、満足そうな表情を浮かべ、唇を舐め回した。

「さて市民諸君、準備はできたか? いっせーのーで!」

 ショッピングモールはあたかもライブ会場のように団結し、あの言葉をレスポンスした。

「駄段々!」

 観客席からは黄色い歓声が上がる。中には、抱き合って涙を流している者もいた。しかし、この国の周縁地方に用意された娯楽はこれしかないのだから、彼らの貧相な感受性を責めることはできないだろう。

「ありがとう、我が市民たち! おい、不届きな思想者、お前が黒の8を持っているというのなら、それを出してみるんだな!」

「ははは、持ってないに決まってるだろ。さっき俺の手札を見たじゃないか。健忘症か?」

 観客席からの笑い声は、むしろこの状況でも必死にパンダに噛みつこうとする思想者への嘲笑に変化していた。さて、この後クリームパンダはどのように残虐な方法で思想者をなぶり殺しにするのか、観客たちは待ちきれない思いだった。

「ビャッハッハ、強がりもその辺にしとけよ。てことで、俺様はお前と階段上の位置を交換できる。なあに、俺様は遅延行為をするつもりはないから、すれ違いざまにお前をぶちのめすなんて心配はしなくていいぞ。思う存分可愛がってやるのは、その後だ!」

 鳴りやまない拍手の中、思想者はクリームパンダと位置を交換した。クリームパンダは目を細めて、5段上にいる思想者の男を見上げている。とどめだ。彼は助手に合図を送り、助手は力を籠めてレバーを押し下げ――その瞬間、思想者はしゃがんで、自身が乗っているステップの前面に立てかけられた何かを拾い、真上に掲げた。トランプのカード。それも、Kだ。

「見ろ、今がその時だ」

 摩擦と回転の音がして、エスカレーターが動き始める。思想者が乗っているステップがエスカレーターの終端に飲み込まれるその瞬間、彼は「革命」を宣言し、Kのカードを5段下にいるクリームパンダに投げつけた。勝利条件と敗北条件が入れ替わり、思想者はエスカレーターの終端、銀色の板の上に流れ着いて、勝利した。


6 思想者

 クリームパンダの最大の失策は、あの「ありえない赤の9」のことをすっかり忘れていたことだった。Kを一枚しか渡してこなかったのにも関わらず、なぜKを二枚持っているはずの思想者の手札には残り一枚のKがなく、代わりに赤の9があったのか。あるいはそういう意味で、クリームパンダの最大の失策というのは、むしろ後片付けを徹底しなかったことなのかもしれない。というのも、思想者が最初に黒の4を使って下降したとき、彼はその4段目のステップから見て、3段目のステップの前面に何かがへばりついているのを発見していた――それは、前回の思想者の血液と、その血液に濡れてステップに垂直にへばりつくことができた一枚の厚紙だった。そう、赤の9のカードだ。ちょうどカードの背面が赤いのもあり、遠くから見ただけでは分からなかったのかもしれない。

 思想者はそもそも、手札が渡された時点で、このゲームの展開はすべて仕組まれているのではないかと疑っていたし、当然ながら、エスカレーターはどこかのタイミングで動くだろうとも思っていた。この自分の動きを操作するようなカードの組み合わせに加え、その後パンダが都合よく一段上に来て、都合よく二枚もKを持っている自らにあの「取引」を仕掛けてきたことで、ついに彼はやはりこのゲームの展開がクリームパンダに仕組まれたものであるということを確信し、さらに続けてこう考えた――ここに来た他の思想者も、自分と同じ手札を渡され、自分がこれから辿る展開と同じ展開を辿ったのだろう。とすると、このべっとりと何重にも血が付いている3・4段目では、何らかの戦闘行為が発生する可能性が高い。だから、その戦闘に乗じてクリームパンダの手札を失わせ、さらにKを赤の9と交換してここに立てかけておくことにしよう。またとない機会だ!

 彼は、恣意的なエスカレーターの作動・停止によってあのような状態に追い込まれるゲームのパターン、そしてその解決策である「傍に『革命』のカードを隠しておくこと」を最初から思いついていた。クリームパンダが説明した「駄段々」のルールには、「捨てられたカードは拾ってもいい」とこそあったが、「カードを勝手に捨ててはならない」などというものは存在しなかった。だから、こうしてKをステップの隅に捨てておき、その時が来たタイミングで再び取得することは、完全に適法の行いだったのだ。赤の9は実際手に入れなくても大した支障はなかったが、カードが一枚失くなっているという状況で下手に粗をつかれるよりは、むしろ最初から手札にあったのは二枚目のKではなく赤の9だという風に見せておくことで、クリームパンダに「自分が不正に操作したはずの相手の手札が不正に改竄されている」という馬鹿馬鹿しい主張以外のどんな主張もできなくさせるという意味があった。

 実際、このゲームを仕組んでいたのは、最終的には思想者の方だったと言っていい。彼は、この「解決策」を用いるために、「革命」を隠しておく場所から逆に考えて、クリームパンダをこの3段目のステップに立ち往生させることにした。それは、足元に立てかけた「革命」が見つかるのを防ぐためでもあったし、そもそも「革命」のカードは、「駄段々」を成功させて自身と位置を交換してくるプレイヤーがステップを移動せずとも手が届く距離になければならなかったからだ。無論、そうでなければ、位置交換後の自身が「革命」を取得できないだろう。――そして、相手を立ち往生させるための最も手っ取り早い方法は、すべての手札を失わせることだった。嬉しいことに、これによる副次的な効果として、彼は相手が持っている「革命」をも失わせることができた。エスカレーターに乗って階段を上りきる直前の瞬間に「革命」を宣言しても、あるいは相手が革命を持っていた場合、さらにそこに「革命」を被せてきて、自分の足が銀の板に着いた瞬間と「革命」を宣言した瞬間とを比較する水掛け論に持ち込んでくる恐れがあった。しかし、そもそも相手のすべての手札を奪い取ってしまうことで、これは防ぐことができたのだ。もちろんこの行為は間違いなく非常識なものではあるのだが、皮肉にも非常識すぎるがゆえに、わざわざこの行為を具体的にルールで禁止しようとする者は現れなかった。だから、彼も言っていた通り、やはりこれはルール違反ではないのだ。このサーカスの場だからこそできる、最高の戦略だった。

 ――そして、思想者がこのゲームの流れを採用したのには、クリームパンダに吠え面をかかせてやろうという気持ちも無くはなかったが、それよりもむしろより安全な脱出経路の確保という目的があった。

「お前……お前え……ぶち殺してやる!」

 クリームパンダは激昂し、思想者の元に駆け上がってくる。このゲームは思想者の勝利という形ですでに幕を閉じていたから、勝手に階段を移動したところでルール違反の咎によって射殺される恐れはもはやなかった。屈辱的な話だが、クリームパンダは思想者が勝利してくれたおかげでようやく思想者を殺すための行動を開始することができたのだ。怒りに我を忘れたクリームパンダを前にして、思想者は冷静に、手札の中から適当に見繕ったカードを、エスカレーターのステップの隙間に挿し込んだ。その瞬間、警報音がけたたましく鳴り響き、エスカレーターの安全装置が作動した。ステップの移動は急停止し、これによってバランスを崩したクリームパンダは滑稽にすっ転んでしまった。

 三階の観客席でゲームを監視していた二人の警官は、ここでようやく状況を理解した――思想者がサーカスから脱走した! すでに彼は二階のフロアの角を曲がり、姿を消してしまっていた。クリームパンダは思想者の処刑のために「駄段々」を利用したつもりだったが、蓋を開けてみれば、「駄段々」はただ思想者の逃走のために利用されていたのだ。思想者がこのような迂遠な道筋に基づいてゲームを展開させたのは、すべてゲーム終了時にクリームパンダが無力化され自身はエスカレーターを上りきって二階の廊下の奥に消えているという状況をつくりあげるためだった。警官はすぐさま思想者を追おうとしたが、観客席は混乱状態で、まともに進むことができない。それは、「クリームパンダが敗北した」という現前の事実に加え、どこから漏れ出したのか、ある驚くべき事実が広まったことによるパニックだった――あの思想者は、我らが元首を裏切って鉛玉の制裁を受けたものの、その悪臭を放つ気性によってか死神にさえ拒まれ、未だに危険思想活動を繰り返している「第一級国賊」の一人、「青臭い黴ブルーチーズ」その人だった!

「なあ、待ってくれ、憲兵の兄貴たち。俺様の人気はこんなもんじゃあ衰えねえ。まだ得意の集客能力は見込めるぜ。だから……」

 言い終わらないうちに、羽虫が弾けながら耳の傍を通り過ぎるような音――サイレンサー付きライフルの射撃音を鼓膜に感じて、クリームパンダの視界がひっくり返った。こうして、ショッピングモールの中央の、停止したエスカレーターの表面には、また新しい鮮血のしみが与えられた。警官は銃声で人流を引き離せることに気づき、やたらめったら天井に向かって威嚇射撃を行いながら、二階のフロアに繋がる静止したエスカレーターを駆け下りていく。観客たちは瞬く間に四方八方に逃げていき、そこに残されたのはあのオッズのパネルだけだった。思想者が「殺されない」ことに賭け、一万倍の払戻金を受け取る権利を手に入れた人も、どこかにいるのだろうか。警官たちは無線で応援を呼び、二階のアパレルショップを乱暴に荒らしまわっているが、思想者は――チーズはすでにショッピングモールを脱出し、白い息を吐きながらどこかの路地裏へと駆け込んでいた。足元に横たわる「革命」に気づかず、まんまとしてやられたあの大男! 思い返すだけで噴きだしそうだ。今度誰かに話してやろう――外の厳しい寒さによって耳と鼻は真っ赤になってしまったが、そのにやけ顔はやはり一向に曇らない。

ⒸWikiWiki文庫

養育⑴
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養育①
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 1


 行ってみると、薫は物憂げな表情で本を読んでいた。白くて細い指。すらりとした薄い身体。長い睫毛。切子細工を思わせるようなその造形は、小難しい哲学書を捲るのにぴったりだと私は思った。

 淡い――というのは間違いだ。夏の陽射しに似たこの鮮烈な期待に、無視を決め込むことは私にはどうしてもできなかった。

 旧い校舎には二人きりのようで、私は踊り場に置かれた時計のように彼を見つめた。彼が動き出す。首に手を遣り、文字から顔を上げるその中途で、入り口で立ち竦んだ私を発見する。彼は私に微笑む。私の名を呼ぶ。私はその、期待を握り潰す作業すら放棄して、浮き輪に身を任せたまま流されるように彼に近づく。彼は栞を挟んで本を閉じ、私の目を真っ直ぐに見つめる。ちらちらと午後の陽を反射するその虹彩は、まるで新月の川のようで、私は刺すように冷たいが何処か心地よいその川底まで、一気に引き込まれてしまう。息が詰まり、私は目を瞬く。

 期待は殺さなければならない。さもなくば私は、期待に殺されてしまう。

 彼を見つめ返していると乾燥した地面に現れた罅に沿って液体が浸透して行くのを何時間も見ているような気持ちになる。町の模型を俯瞰して水が供給されて行く様子を観察しているような気持ちになる。彼の声は丁度今窓から入って来た小春の風のように澄んでいる。彼の声は耕した花壇にじょうろで水をやるような声だ。

 彼が本を横に置いて、私に正対する。動くと彼の香りがする。清い汗の香り。学ランの香り。干したままの布団の香り。衝立の向こうの希望の香り。

 私は彼の前で完全に無力であって、その快感に似たような事実は、私に全てを諦めさせた。けれど私の脳はその快感と、幸福との区別が出来ないらしい。ああ私は、これから期待に殺されるのだ。

 チャイムがなり、彼が窓を見る。私はチャイムから教会を連想し、自分がウェディングドレスを着ているような気がした。白い重いドレス。春の川のように重い。薫はタキシードを着ている。涙が流れそうなほどの感動を覚える。制御が効かない。

「なんのチャイムだろう」と私は呟いた。さあ、と彼が言う。

 私は彼をじっと見つめた。薫は創作物の中から出てきたかのようだ。そういった、彼のために整えられた場所でしか生きられない人なのだ。私が彼のための物語を描いてあげなければいけない。さもなければ彼は、現実に毒され柵に絡め取られ、きっと耐えられなかったフィラメントのように焼き切れ、暖炉の燃え滓のような遺灰に変わってしまう。助けなければ。守らなければ。私が彼を生かすのだ。

 薫は私の手を取った。大きい手。私は微動だにせず、私の網膜はその景色を映すだけで、私の手の触覚は一方通行の電気信号を脳に伝えるだけで、私の脳はそれらの情報を処理するためにかつて無い速度で動いてるつもりで、何もしないで浮かんでいるだけ。彼は手を握る力を強め、カーテンは小春の風に舞い、それに乗ったサッカー部の基礎練のかけ声が微かに聞こえ、青空が青を手放して私にその大きな手で手渡した。

「高校を出たら、俺を養って欲しい」

 私は脳ではなくその青から受けた信号の命令を忠実に実行し、

「わかった」と小声で答えた。


   2


 それからの事はあまり覚えていない。薫はあの後少しだけ何か言っていたようだったが何を言っていたかわからず、私は薫を見ながら遠くを見ていた。二度、相槌を打った気がする。彼はすぐに教室を出ていき、私は最果てに一人、取り残された気持ちになった。

 私は夢を見ているのかと思って、いっそその窓から飛び降りてしまおうかと思ったが、三階から下を見ると思ったよりずっと高かったし、覚めてしまうのがどうしようもなく勿体なく感じてしまったからやめた。

 外は果てしなく麗らかで、空がどこまでも続いてるような感覚を覚えた。私と同じ人間がこの空の下に何人も居るような気がした。

 私はいつの間にか教室へ戻り、鞄を纏めて通学路を辿った。薫は教室には居なかった。

 通学路はいつも通りだった。あの角には、季節外れのつつじがちらほら咲いている。商店街には程よく人がいる。ブランコとトイレとベンチと砂場だけの小さな公園には大きな楠が生えていて、私はそのベンチに腰を下ろす。あたりをほんのりと染め始めたオレンジが黒に塗りつぶされて行くまで、私はそのまま腰掛けていた。小春日和とはいえ、日が暮れるときつい寒さ。マフラーを取り出して、私は黒タイツ越しの太ももをごしごしと撫でた。少し暖かくなって、そのぶん風の寒さに改めて気づいて、そこで初めて、私はこれが夢じゃないことを理解した。

 家に帰ると、珍しく父親が早く帰っていて、私はただいまと言って部屋に直行すると荷物を置いて風呂に入った。熱いシャワーに打たれながら、私は今日の出来事を振り返った。

 養って、とはどういう意味だろう? 流行りの専業主夫のことだろうか? ついわかったと答えたものの、私は何が何やらわからない。あんな言い方をすると言う事は、やはり普通の恋人とは違うのだろう。そもそもこれは恋人とかのベクトルでは無い事柄なのでは無いだろうか。彼の好意を聞いた訳でも無い。ただ予感だけがあって、それが私に勘違いをさせているのかもしれない。

 考えてもわからないことばかりだったから、明日薫とちゃんと話をしようと一旦結論づけて、私は湯船から立ち上がった。脱衣所で体を拭きながら、私は薫のことを想った。今彼は何をしているのだろう。早めに帰って本でも読んでるのかな。一人部屋で寛ぐ彼を想像すると、私は背筋の心地よいところがぞくりと刺激されて、初めましての感覚に風呂あがりにも関わらず鳥肌が立った。沼に吸い込まれていくような、泥が全身を侵食していくような、そんな快感だった。私はそそくさと夜着に袖を通すと部屋へ戻った。

 ベッドに寝そべりスマホを開くと薫の連絡先を持っていないことに私は気づいた。今まで私と薫を繋ぎ止めていたのは放課後の教室の、あの細やかな時間だけだったのだ。そう考えると私は、自分が細い糸に一生懸命縋っている様を連想した。これは、薫のあの言葉は、私のその努力が報われたということだろうか? 薫の真意はわからない。でも薫はテキトーなことを言ったり、嘘で騙す人じゃない。私たちが、他とは一線を画した、特別な関係だと言うのは、もう事実ではないか。

 そういった結論に至った私はじわじわと、抵抗し難い多幸感に絡め取られた。それは幼稚園の頃、まだそこのベッドの脇に置かれているくまのぬいぐるみをもらった時のような幸福であり、零時を越えてから、口一杯にスイーツを頬張った時なような幸福であり、憧れた第一志望の高校の制服に、初めて袖を通した時のような幸福だった。私は抱き枕に抱きついて身を善がった。私は見慣れた天井を見ながら、自分の頬に触れた。緩みきっている。そんな事実もどうしようもなくおかしくて、私は一人で笑い転げた。一階から、母が夕飯の完成を知らせる声が飛んできて、私ははーいと叫んで、この発作が治まるのを枕に顔を埋めて待った。

 一階に降りると父と母はもう席に着いていて、私はお待たせと言って席に座った。私は食事の間中ポーカーフェイスを貫くつもりでいたが、「何かいいことあったのか?」とすぐに父に訊かれた。それを曖昧にはぐらかす私の顔は緩みきっていたに違いない。


 玄関の扉を開けるとまず最初に、昨日の春の匂いが消えていることに気づいた。庭先の花壇には霜柱が出来ていて、空は薄い灰色で染められていた。車の排気音がやけに大きく響く、空気が薄い朝だった。

 商店街を抜けた信号待ち、向かいの歩道を歩く薫を見つけた。しんしんと積もる雪のような出立だった。いとも簡単に目を奪われたけれども、私は首を振って赤信号に目をやった。赤いドットに形作られた直立の人型を凝視する。青信号になった頃には、薫はもう見えないくらい先へ行ってしまって、私はそれまでしていたような、澄ました顔で通学路を辿った。今日は曲がり角のつつじのピンクも、どこか薄れてしまっているようだった。

 いつも通りの日常は、興味のない映画のように私の眼前を通過した。そういった映画は何の教訓も残さないし、それが良いところでもある。けれど、今日はそれ程良い気分ではいられなかった。ただ時間だけが消費されゆくのは新しい私にとって悲劇でしかない。私は頬を付きながら、いつもは真面目にノートを取る授業を、冷めた目で聞き流した。

 薫は何食わぬ顔で日常を過ごし、それが私を苛立たせた。私を手に入れたのだから、薫は浮き足だって当然なのだ。私にちらちらと目を遣り、その度に気づかれないように顔を赤めて、それを誤魔化す必要があるのだ。午前中の私は、まるで「青い麦」のフィリップのような拙い欲で、機嫌を損ねていた。

 その不機嫌は私に、無謀に似た大胆さを齎した。昼休み、私は友人とご飯を食べようとしていた薫に声を掛けた。

「薫、弁当、一緒に食べよう」

 薫は何か言いたげな様子だったが、私は手をむんずと掴むとクラスメイトの視線を一身に集めながら教室を後にした。薫との関係を仄めかす快感は私の脳を心地良く揺らした。

 階段の影に隠れたこのスペースは、少しじめっとしていた。冷たいコンクリートの段差に腰掛けた私は突っ立ったままの薫を見上げ、座らないの? と聞いた。

「どうして?」

 私は薫の言わんとすることが最初は分からず首を傾げたけれど、それがどうしてここへ連れてきたのかという意だとすぐに察すると、

「一緒に食べたかったの」と出来るだけ澄ました顔で答えた。

 逆光で顔が不明瞭だ。薫は溜息を吐いて隣に座った。

「ねえ、養うってどう言う意味?」

 と私は聞く。誰かが階段を降りる足音が聞こえて、二人はしばらく静かにしていた。足音がどこかへ行ってしまうと薫は、膝の上の巾着袋を解きながら「そのままの意味」と素っ気なく言った。

「そのままの意味って、どう言うこと?」

「お金を稼いで、生活できるようにして欲しい」

 いただきます、と言って薫が箸を取る。私はまだ置いてけぼりで薫のお弁当が減っていくのを見ていた。辺りは土の匂いがして、吐く息は白くて、薫は私に食べないの? と聞く。ううん食べるよと言って弁当箱を取り出したけれど、全然わからない私は少し止まってしまって、薫は怪訝な顔。私はぽつりと言った。

「つまり、一緒に生活しようってこと?」

 薫は少し箸を止めて、うん。私は何だかよくわからないけど笑えてしまってまたまた薫は怪訝な顔。プロポーズみたいだねと口をついて出た言葉は二人の周りこの階段の影小さな聖域に暖かな陽射しを当てて昨日の小春が戻って来たみたい。その熱のせいか薫は顔を少し赤くしながら外方を向く。私は喜んで、と言い弁当を食べ始めた。それはもう聞いたよ、と薫が言った。黙々もぐもぐ。

「恋人らしいことがしたい」

 私がもう直ぐ食べ終わるかと言うところで言うと、先に食べ終わっていた薫はすくと立ち上がり、学校ではやめようと言った。そしてすたすたと去っていくその後ろ姿を見て私は残念に思いつつも今日のことを反省しながら、輪郭の掴めない幸せの中で悶えていた。

 最後まで残していたお弁当仕様の小さなハンバーグを口に放り込んで、私は教室に戻った。

 席に着くと友人たちが近づいて来て私のテーブルを囲い、興奮気味に、薫くんと何かあったの? と聞いてきた。いくつか他のグループも遠巻きに私を見つめているようで、私は人々の関心を集める快感に暫し身を浸した。ちらりと薫を盗み見る。彼は窓際で静かに本を捲っている。私は先刻手渡された覚悟を以て、いや、何も無いよと笑顔で答えようとしたものの、やはり隠すことは叶わず、込み上げて来た赤に顔を染めて俯くばかり。周囲のテンションが上がって行くのが俄かにわかり、私は居た堪れない気持ちになった。

 その放課後、学校近くの喫茶店、仲の良い四人に半ば強制的に連れられ、薫について根掘り葉掘り聞かれた。元々乗り気で無かった私は上手に喋ることができなかったように思うけれど、そういうことに無限に飢えた少女達には、私の話し手としての技量など些細な問題だったらしい。大変盛り上がった挙句、漸く解放された時には外は薄ら暗くなる時間帯だった。帰り道が同じ方向だった友人は他の理由で早めに帰ってしまっていたから、私は一人家路を急いだ。


 3


 次の日、春の匂いはいくらか戻っていて、それは人々に、その一日の退屈を予感させるような暖かさを伴っていた。道行く人も歩みは遅く、空に浮かんだ雲もどことなく緩慢に流れているようだった。しかし私はそれを横目で見ながらも、いつもより大分早い時間に家を出て、早足に学校へと向かった。特に急ぐ理由も無いのに、微妙なタイミングで突っ込んで来る車だったり、目の前で下りてゆく踏切だったりに苛立ちが積み重なっていくようで、赤く点滅した遮断機を前にして、私は両手で優しく自分の頬を打った。

 どうしてこんなに、緊張してるんだろう? 家を早く出たのは思いつきだった。いつもより少し早く目が覚めたから、自然とそんな気になっただけだ。歩みが早くなるのも、最初は時間帯が早く人が少ない通学路が開放的だったからだろうと考えていた。でもそうではない。私はたった今、自分が不自然に緊張していることに気が付いたのだった。カンカンカンカン、という耳障りな音とともに、眼前を電車が通過する。轟音の中で、薫からの告白の直後に感じた孤独を、私は俄かに思い出していた。そうしてぼんやりとその電車を見ていると、乗っている乗客の中に、窓に凭れ掛かる私が居たような気がして、きっと、その窓を追って右を見た。遮断機が上がってもしばらく、私はその場に立ち尽くしてた。


 自分の席に座り、私はふうと息を吐いた。私はもともと登校するのは遅い方ではなかったから、いつもより少し早いだけだと思っていた今日の登校だったけれど、教室には一番乗りであった。私にとっては初めての出来事だったので、誰もいない教室は最初は落ち着かなかったけれど、昨日の空気をいくらか残した、まだ日差しや生徒たちの体温に暖められる前のひんやりとしたそれは、上気した頬を冷ますのには丁度いいのかも知れない、と私は思った。

 私は冷たい机に顔を伏せ、固い冷たいメラミンに額を二、三打ち付ける。ぐったりと力を抜いて、私は窓の外を見た。外はもう十分明るい。誰かやって来るのが見えるかも知れない。

 席を立ち、窓を開け放つ。桃色の風が吹いて、私の緊張は絆されていく。校門の方に薫の姿が見えた。暖かいからだろうか、今日の彼は雪というより、日差しのように見える、雪に照り返した光のように見える。

 薫がこちらを見上げて、私は笑顔で手を振った。またあのしつこい暑さがぶり返す。    

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ポカ
Notorious
WikiWikiオフラインノベルへの書き下ろし作品。『プールか体育館か』続編。
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「柏原は、頭は切れるくせに変なところで抜けてるよね」


 俺の前の席に後ろ向きにまたがった諏訪昇は、眼鏡越しに少し笑いながらそう言ってみせる。一方の俺は、心当たりがあるだけに強く言い返せない。
「そのせいでプラマイマイナスになってることが多くない?」
「自覚はあるんだけどなあ。直そうと思って直せる癖じゃない気がする」
「今こうして机に齧り付いてるのも不注意の産物なわけだし」
 机の上には数学のプリントが散乱していて、俺はそれらを片っ端から埋めている状況だ。木曜日、時計の針は五時を回っていて、放課後になってから一時間以上経っている。
「明日が休みだなんて忘れてたんだ」
「創立記念日だって先生も言ってただろう。聞いてなかったの?」
「聞いてたさ。これが今週末に提出なのも知ってた。けど、その二つが結びつかないんだ」
「そもそも三十枚もためこむなよ。こつこつやればよかったんだ」
「今日の夜にまとめてやる予定だったんだ」
 休み時間にも進めたが、いまだ十枚近く残っている。二人しかいない教室で俺は減らないプリントに苛立ちながら因数分解の問題を解き続け、諏訪は手伝う気もなさそうに見ているだけだ。
 力を込めすぎてシャーペンの芯が折れた。机の横に手を伸ばし、見もせずに鞄をがさごそ探ってシャー芯のケースを引っ張り出してくる。いろんなものを無造作に放り込んだせいで筆箱と化した学校指定の鞄は、全開にされて机の横のフックにかけられている。力なく口を大きく開けたその姿は、気力を失った主人の心境を写しているみたいだ。
「午前の物理だってさあ。あ、そこ計算違うよ。小テストで、えっ今舌打ちした?」
「計算ミスに対してだから気にするな。消しゴムどこだ?」
「そのプリントの下。武藤先生に晒し上げられてたじゃん」
「定規忘れたんだ、仕方ないだろ」
 力の合成と分解の小テストがあったのだが、俺は定規を家に忘れたから、やむを得ず矢印をフリーハンドで書いた。そうしたら、テストを回収して一通り目を通した武藤が俺の答案を全員の前で掲げて「物差しを使ってないやつが一人だけいるぞ誰だ柏原かちゃんと使うことガハハハ」みたいなことを言った。別に悪意あってのことではないから腹が立ちはしないが、合わせてけたたましく笑っていた女子たちには心を削られた。
「忘れ物くらい誰だってするだろ」
 プリントに目を落としたまま、言い訳を口にする。諏訪が笑った気配がした。
「こないだの体育のときだってそうでしょ。いつ聞いても傑作だね。抜けてるにもほどがあるよ」
「結局間に合ったんだからいいだろ」
「いやいや、ずっと寝てたならまだしも、寝ぼけて……」
 諏訪が俺の失敗を掘り返そうとしたその時、教室の扉が開いた。

 俺の席のすぐ後ろ、教室の後方の扉を開けて入ってきたのは、河北幹江だった。反射的に振り返った俺と目が合うと、そそくさと目を逸らして廊下側最後尾の彼女の席——俺の一つ後ろの席——に鞄を置いた。背が高くショートカットの彼女は一見バレーボールでもしていそうな見た目だが、なんの部活にも所属していないようだ。シャイな性格らしく、会話したことはあまりない。隣の瀬田は何かと話しかけているが。
 河北は放課後になってすぐ帰ったと思ったが、学校内にいたのだろうか。
 特に仲がいいわけでもない人が近くにいると、馬鹿話をするのは気が引ける。俺は黙ってプリントを解き、諏訪も「そろそろあと九枚だよー」と思いもしない励ましを口にするのみになった。
 後ろの河北が何をしているのかわからなかったが、やがて机の横を通って教室前方へと歩いていった。そして綺麗な教卓に手を添わせたところで目が合いそうになったので、俺は慌てて因数分解に集中した。足して四、かけてマイナス十二になるのはえーと……。
 しばし集中して一気呵成に二十一枚目のプリントを終わらせたとき、河北が横に立っているのに気づいた。俺の机の辺りを見ている。
「どうかした?」
 そう聞くとビクッとこちらを見て、首を振った。
「ごめん、なんでもない」
 掠れた小さな声は、昼休みの教室だったら聞こえなかっただろうなと思った。河北はそのまま鞄を持つと、来たときと同じ扉から去っていった。
 俺はなんとなく諏訪と目を合わせた。諏訪は小さく肩をすくめた。その通りだ。何かしら用があったのだろう。河北が「なんでもない」と言った以上、なんでもないことなのだろう。俺は解き終わったプリントを押し退けて、次の問題に取り掛かった。

「しかし、終わらないなあ」
 河北が行ってからしばらく沈黙が下りたが、伸びをしながらいまさらのように諏訪が言った。
「あーあ、お前がそんなこと言うからやる気失せた」
 シャーペンを机に放り出して言ってみるが、すぐに拾って続きを始める。そうしないと終わらないから。
「提出が今日だっていつ知ったの?」
「五限」
 数学の授業も終わろうとする頃、森下はやにわに「課題はまとめて職員室に出しに来てね〜」と通達し、みんながうぇ〜いと返事をする中、俺だけが雷のような驚きに打たれていた。そうか、明日は休みだった、と。
 そのおかげで五限と六限の間の休み時間はてんやわんやだった。授業が終わると同時にロッカーのプリントを机に全部に放り出した。数えるまでもなく、一日一枚一月分、計三十枚。周りに冷やかされながら、わずかな時間も惜しく、一枚目のプリントに取り掛かった。筆箱から筆記用具を取り出すのもまどろっこしく、中身を全部ぶちまけたから机上はもうカオスだ。一枚目を超特急で終わらせたところで、授業中から行きたかったトイレをこれまた超特急で済ませ、教室に戻ったところで人が少なくなっている。六限は音楽であることにそのとき気づき、机の上のものをすべて鞄に流し込み、そのまま音楽室へ向かったのだった。
「鞄を持って音楽に行ったの? 教科書くらいしかいらないでしょ?」
「筆記用具は必要だった。いちいち筆箱に戻してる時間はなかった」
「だからって鞄を持ち歩くとはねえ。午前もそうしていたらよかったのに」
「そうか? 重いぞ」
 こうなると筆箱に戻すのがさらに面倒になり、いろんな筆記用具が入ったままの鞄が横に掛かっている。日も傾き始め、窓から入ってくる光もいつのまにか赤みがかっていた。
 ずっと机に向かっているから、いい加減息が詰まる。席を立って反対側の窓辺に行った。砂埃を噛んで軋む掃き出し窓を開け、ベランダに出る。背伸びして二階のベランダが持つ解放感をとくと味わう。
 諏訪も来て、深呼吸を始めた。俺は目が疲れていたので、中庭を挟んだ特別棟のベランダの鉢植えを眺めた。凝り固まった水晶体が伸ばされる気がする。
「ねえ、あれ河北さんじゃない?」
 諏訪が特別棟を指差した。

 正面より一つ右、向かいの棟の教室の中に、河北がいた。はっきりとは見えないが、長身に短いくせっ毛、猫背と間違いない。河北だった。下を向いて教室内を徘徊しているみたいだ。
「あそこは、物理室か?」
「そうだね。物理の授業中は逆にこの教室が見えるし」
「窓際の特権だな。そうだ、小テストのとき、お前がこの教室で答えを掲げていてくれよ。先生は気づかないさ。完璧なカンニング方法だ」
「僕にもテストを受けさせてくれよ」
 河北は物理室の窓際から離れると、視界から消えた。俺は黙って教室の中に戻った。席に座って数学を再開した俺に、諏訪は言った。
「河北さん、何してたんだろうね」
「さあな」
「……ねえ、二年の教室で盗難が相次いでるって話、知ってる?」
 目を上げたが、諏訪は頬杖をついて横を見ていた。俺はまた目を机に戻す。沈黙に誘い出され、口を開く。
「どちらかといえば……」
「どちらかといえば?」
「いや、なんでもない」
 教室には俺がシャーペンを走らせる音だけが響く。俺は今日中にこれを終わらせないといけない。他人に構っている暇はない。諏訪も今度は何も言わない。一枚のプリントを横に除け、次に取り掛かる。それも押し退け、次の紙を引っ張り出す。
 あと五枚になったところで、集中が途切れた。シャーペンを置いて天井を仰ぎ、深々と息を吐き出す。そのまま目を瞑った。少し休憩するつもりだった。瞼の裏に去来するのは、心に引っかかっているのか、河北の姿だった。
 あれは帰りのSHRだった。一二限に行われた卒業生の講話の感想シートを集める段になった。配られたプリントの下半分が感想欄になっていて、そこを切り取って提出することになっていた。
 講話中は寝ていたので、当然白紙だった。時間もなかったし、大きく「とてもためになりました」と書き殴った。隣の諏訪が眉を顰めた気がしたが気にしないことだ。そして手でビリリと紙を破った。切り口が歪んで「ました」の上の方がもっていかれてしまい、諏訪が確実に眉を顰めたが、気にしないことだ。
 後ろから紙を回すので、俺は振り返って後ろの河北を向いた。はさみを持っていないのは俺だけではなかったようで、河北は筆箱から小さな消しゴムを取り出し、切り取り線に当ててどうにか綺麗に紙を切ろうとしていた。
「手で千切れば?」
「あっ、えっと、あの」
「ミッキーは柏原みたいに野蛮じゃないもんね~。はい、ハサミ貸したげる」
「あっ、ありがとうございます、すみません」
 俺の素晴らしく合理的な提案を棄却し、隣の瀬田由香梨がハサミを貸して河北は紙を切り取った。河北は小さな声で礼と謝罪を言ってハサミを返した。俺は河北がよく謝ることに気がついていた。
 休憩は終わりだ。プリントは遂に最後の一枚になり、これだけ単元が二次関数だった。式を平方完成し、軸と頂点を求める。このプリント最後の問題はグラフの作図だった。適当に二つの軸を描く。途中で線がぶれてy軸がかなり歪んだが、まあいい。そのまま放物線を描き込もうとしたところで、諏訪が笑いながら言った。
「同じ轍を三度踏む気?」
「どういうことだ?」
「あらら、やっぱり抜けてるなあ」
 そう言って諏訪は机の横に掛かった鞄を指差した。俺は鞄を覗き込むと、鞄を引っ掴んで立ち上がり、何か戸惑った声を上げる諏訪を置いて廊下へと駆け出した。
 幸い、そう長く走る必要はなかった。一階の職員室前の廊下に、河北は入りあぐねたように立ちすくんでいた。
「河北!」
 彼女はぎょっとしたように、荒い息をつく俺から一歩下がった。俺は開いた鞄から手を抜き、尋ねた。
「この青い定規、河北の?」
 俺の手の中の、小さくキャラクターがプリントされたプラスチックの十五センチ定規を見て、河北は心底安心したように頷いた。

 失くし物を探しているのかな、とは思っていた。教室で自分の机や教卓の周辺を見て回っていた。何かが落ちていないか、あるいは拾われてどこかに置かれていないか見ていると考えるのが普通だろう。物理室にいたのも、今日は物理の授業があったからだ。たぶん、定規を落とした可能性のある全ての教室を回ったのだろう。諏訪は盗難の可能性を匂わせていたが、同じことだ。
 考えてみれば、失くし物の正体もわかる。帰りのSHRで、河北は紙を破るのに苦労していた。定規があれば綺麗に千切れるだろうに。しかし、物理の小テストで、直線を引けなかったのは俺だけだった。午前の時点で河北は定規を持っていたのに、SHRでは持っていなかった。これが全てだ。
 しかし、まさか俺が持っていようとは。
「たぶん、落としたのは五限と六限の間の休み時間だと思う。河北の机から落ちた定規は、誰かに拾われて、間違えて一つ前の俺の机に置かれた」
 その時、俺の机はひどく散らかっていた。そしてトイレから帰ってきた俺は、急いでろくに確かめもせずに、机の上の全てを鞄に流し込む。
「俺は気づかずに鞄に仕舞ってしまい、今まで持ってたわけだ。本当にごめん。迷惑をかけた」
「う、ううん。大丈夫」
 諏訪との会話で噛み合わないことがあった。今思えば、諏訪は俺が定規を家ではなく鞄に忘れた、あるいは存在を忘れていたのだと思っていたのだ。無理もない。諏訪には、他の俺の文房具と一緒に鞄に入っている定規が見えていたのだから。
 全く、とんだ抜けた野郎だ。自分の鞄の中身にも気づかないとは。そのせいで、河北は一時間も学校中を探し回ったのだ。
「マジでごめん……」
「ううん、ほんとに大丈夫だから。じゃあ、私は、帰るね」
 定規を筆箱にしまい玄関へと向かおうとする河北を、つい呼び止めた。河北は悲しげな愛想笑いを浮かべて俺を見た。
「あのとき、教室に定規を探しに来たとき、河北は俺の鞄の中の定規に気づいたよな?」
 自信なげに俯いた河北は呟いた。
「同じ定規を柏原くんも持っているのかな、と思って」
「……そうか。確かにな。今日は本当にごめん。埋め合わせはするから」
「い、いいよ。そんな、無事見つかったわけだし」
 そう言って河北は今度こそ、夕陽に赤く染まった廊下を歩いていった。鞄を左手で大切そうに抱えて。
 あのとき、河北はなぜ『その定規、もしかして私のじゃありませんか』と聞かなかったのか。それを河北に聞くのはやめた。たぶん、その原因は河北ではなく俺の側にあると思うから。

 教室へ戻ろうと階段を上がりかけたところに、諏訪が壁にもたれて立っていた。
「盗み聞きとは趣味が悪いぞ」
「僕も当事者なんだ。話くらい聞かせてよ」
 諏訪と俺は並んで階段をゆっくりと上がった。気づけば口に出していた。
「俺が抜けてるせいで河北に迷惑をかけた。それも多大な」
「それを言うなら、僕にも責任の一端はある」
「わがままなことを言うが、気休めを聞きたい気分じゃないな」
「そうか。なら、もっと注意深くなれるように心がけるんだね」
「そうだな」
 教室に着き、俺は河北の机を一瞬見てから、自分の席に座る。諏訪も前の椅子にまたがる。残ったプリントが目の前にあるが、やる気は湧いてこない。青い定規を受け取ったときの河北の、そのときだけは警戒の解けた安心した顔を思い出して、ふと思った。
「あの定規、よほど大切なものだったんだろうな」
「そうだね」
 俺は、迷惑をかけたついでに、河北のことを知りたくなっていた。それが罪滅ぼしになるわけでもないが、俺には名案に思えた。
「明日の昼休みにでも、聞いてみようかな。昼飯を食べながら」
 諏訪が吹き出した。腹をかかえて心底おかしそうに笑う。
「柏原! 明日は休みだよ! 君ってひとは、本当に抜けてるね!」
 俺は両手を挙げて天を仰ぎ、笑った。前途はまだまだ険しいらしい。

ⒸWikiWiki文庫

無音の叫び
Notorious
音がないから、聞こえない。音がないのに、聞こえてしまう。
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 声が出なかった。喉に石が詰まったみたいに息ができなくなって、顎が凍りついたように動いてくれなくて、でも汗はどんどん吹き出してきて、冷たく背筋を伝う。足が震える。


「河北さん? 7行目よ?」
 木下先生の気づかわしげな声が聞こえるけど、手に持った教科書を見たままで、目を上げることができない。首から上が固まってしまったように、どんなに動いてほしいと私が願っても硬直したまま。読み上げないといけないのに、教科書の文は意味をなさずにぐるぐると回って読ませてくれなくて、焦りだけが募っていく。止まって、止まってよ。かさついた紙の感触ばかりが脳に届く。
「どうかしましたか? 早く読んで」
 クラスのみんなが異常に気づいてざわめきはじめる。待ってください、すぐ読みますから。その一言が喉から出てこない。私は教科書を持ったまま、声を出せずに立ち尽くしている。恥ずかしさとみじめさに顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。読まないと、と思うのに、声の出し方が思い出せない。今まで十五年、どうやって話してきたっけ。
 みんなの視線を感じる。みんなが押し黙ってしまった私を見ている。その目を見ることができず、私はますます下を向く。顔は燃えるように熱いのに、背筋は震えるほど冷たくて、おなかがきゅっと痛む。読むんだ。国語の授業の、なんでもない音読だ。今までずっとやってきたように、喋ればいい。軋む音が聞こえそうなほどに力を込めて、ようやく顎が開き、声を出す。
「こっ」
 喉に息が引っかかって変な音が出た。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいけれど、なんとか声が出てくれた。ようやく読めるようになってくれた教科書の文を見つめる。
「こ……こうして、祭りは、ぎ、儀式から、人々の生活の一部へと、変わっていったの、です」
「……はい、じゃあ次の一文を吉川くん」
 先生にやっと聞こえるくらいの声だったけど、私はようやく自分の番を終えて席に座った。教室は妙に静かな空気が流れていて、私はみんなが冷ややかにこっちを見ているような気がして、目を上げることができなかった。
 後ろの吉川くんが気の抜けた返事をして、続く一文を難なく読み終えた。みんながやすやすとこなすことを私だけができない。
 そのとき、音読の声に紛れて、誰かが「コッ」と喉を鳴らしたのが聞こえた。続いて、数人の忍び笑い。きっと、後ろの方の栗原くんとその周りの男子たち。ずっと下を見ているのに、栗原くんのおどけた顔がまざまざと目に浮かんだ。
 握った拳に巻き込まれ、教科書の端がくしゃりと歪んだ。


*        *        *


 帰りの会が終わって、教室は開け放たれた鳥籠みたい。みんな友達と連れ立って、部活だったり近くのお店だったり、勢いよく飛び出していく。そんな人たちに混ざって独りで靴箱へ行くのはなんとなく気がひけて、私はのろのろと鞄に教科書を詰めていた。
「ミッキー」
 私の名前は幹江だけれど、そんなふうに呼ばれることはめったにないから、自分のことだと気づくのに少しかかった。横を見ると、優しい笑い顔と目が合う。
「小橋川さん」
「和佳って呼んで」
 小橋川さん……和佳さんは、まぶしいほどに明るく言う。目がぱっちりしていて、後ろで結った髪は毎朝時間をかけているのだろう。背がちょっと高すぎる私とは違って、いい意味で女の子らしい。
「……いいの? 部活とか、いかなくて」
「うん。今日はピアノのレッスンがあるから、ダンスはお休み」
 教室には力関係が確かに存在する。和佳さんは間違いなく、そのピラミッドのてっぺんの近くにいる。明るくみんなと付き合って、男子ともよく冗談を言い合っている。たぶん、たくさんの友達と一緒に、噛みそうな名前のドリンクと一緒に自撮りをしているタイプ。
 そんな和佳さんが私に話しかけてきたことに、私は驚きと緊張を覚えていた。ピラミッドなら私は最下層の石だ。固くて無骨で孤独。
「ミッキーこそ大丈夫? 急いでない?」
「うん」
 きっとそのつもりはないのだけれど、皮肉に聞こえる。部活も習い事もしてない私に、ついでに言うなら友達と遊びに行くようなこともない私に、急ぐ予定なんて歯医者の予約くらいしかない。
「そう。加奈子ちゃんとよく一緒に帰ってるみたいだけど……」
 教室を見回して和佳さんは言う。加奈子ちゃんは、私が和佳さんに話しかけられたのを見て、もう帰ってしまった。確かに私は加奈子ちゃんとよく行動を共にしているけれど、それは仲がいいのとはちょっと違う。クラスのみんながどんどんグループを作っていくなかで、余った二人が自然に集まっただけ。私も加奈子ちゃんも、お互いのことを利用している節がある。友達に見える人がいないと、周りにみじめに思われるから。それだけだから、どちらかの都合が合わなければ、一緒に下校しないことに特に断りもしない。
「ううん、いいの。約束してたわけじゃないし」
 少し言い訳がましく聞こえてしまっただろうか。和佳さんはまだ少し気がかりそうだったが、私も気が気ではない。和佳さんは私に何の用があるのだろう。まさか、かつあげではないと思うんだけど。
「それで、どうしたの?」
「あっ、えっとね……」
 和佳さんはあたりをちょっと見回すと、少し声をひそめた。
「国語の時間。大丈夫だった?」
 かあっと顔に血がのぼるのを感じる。やっぱり目立っていたのだろう。今まで、目立たずに生活してきたのに、中学生も終わりに近いところで、こんな失敗をしてしまうなんて。
「うん、ごめん……」
「ああ、別に私が気にしてるとかじゃないんだよ? 全然。誰でもあるよ、ああいうこと。自分の番になると頭が真っ白になっちゃうんだよね」
 はきはき発表する和佳さんしか私は見たことがないし、私の失敗の原因も少し違うけれど、反論はしない。
「じゃあ、どうして?」
「あのね、コージたちのこと」
 浩司は、たしか、栗原くんの下の名前。あのときの笑い声が頭をよぎる。和佳さんは苦々しく顔を歪めた。
「聞こえてたでしょ? あいつら、こう言っちゃなんだけど、男子の笑いって程度が低いから、あんまり周りのこと考えられてないのよ。ごめんね?」
 まるで自分のせいであるかのように、和佳さんは謝る。
「ううん、全然……」
「ごめんね、あいつらには私から言っておくから。それじゃ!」
 和佳さんはひらひらと手を振ると、自分の鞄を掴み、軽やかに教室から去っていった。私はしばらくぼうっとしていた。自分は何もしていないのに、わざわざ謝りにきた彼女の声が耳から離れなかった。
 加奈子ちゃんも和佳さんも十分離れてしまっただろう時間をおいてから、立ち上がって教室を出た。少しだけ、ほんの少しだけ、救われたような気がした。


*        *        *


 けれど、そんな気分も長くは続かなかった。
 制服から着替えて、ベッドに転がる。一日が終わってほっとするから、この時間が一番好きだ。しばらく放心して天井を見つめる。宿題をする気も起きなかったし、ポケットから携帯を取り出す。ロックを解除すると、学校で見ていたページが表示されている。
〈話したくても話せない『場面緘黙』とは〉
 検索履歴は「緘黙症 治し方」「言葉が出てこない」「吃音 中学生」「発表 話せない」といった言葉で埋まっている。小学生の頃から、人前で話すのが苦手だった。人と差し向かいで話すのはそこまで苦ではないのに、聴衆が増えると途端に言葉が出てこなくなる。話そうと思えば思うほど、声の出し方がわからなくなる。
 でも、これまでなんとかやってきた。環境が変わったからか、中学生になってからは発表ができないなんてことはなかった。今日までは。
 今日の失敗を思い起こすと舌を引っこ抜いてしまいたくなる。気分を変えたくて、SNSのアプリを開いた。
 フォローしているアイドルの投稿や、お気に入りのイラストレーターの絵にいいねをしていく。このSNSでは、リアルの知り合いとは誰とも繋がっていないから、学校のことを忘れていられる。そう思ってするりするりと画面をなぞっていたら、その投稿が目に入った。
  15:49 きっしー『今日の国語で鼠が黙ってたの、迷惑すぎない?』
 初めは、魔が差したのだ。今年の夏、日曜日に授業参観があって、次の月曜日が振替休日になったことがあった。お母さんもお父さんも仕事に行ったのに、自分だけがお休みなのをちょっと奇妙に思ったとき、思いついた。私はSNSで「今日休み」と検索したのだ。大量にあふれる、今日が休みの人たちの投稿。月曜日に仕事が休みな人って結構いるんだなあと思って、「今日学校休み」に切り替えた。それでもまだまだ多かったけれど、やがて一つのアカウントが目に止まった。
 「きのう行ったとはいえ今日学校休みなの特別感あるな〜」と投稿していた「檸檬」というユーザー名のその人は、日常のささいな雑感をよく投稿しているようだった。この人の過去の投稿を遡ると、近くの森林公園に遠足に行ったこと、体育祭のリレーでアンカーがバトンを落として三位になったこと、英語の先生が唐突にロボットダンスを披露し始めたこと……さまざまなことが、日付も含めて私のクラスと合致していた。檸檬さんの正体は今でもわからないけど、間違いなく、私と同じ三年三組のなかの誰かだった。
 檸檬さんの投稿に反応したりフォローし合ったりしているアカウントも、きっと檸檬さんの知り合いだ。同じクラスの仲間で十人くらいの小さなコミュニティができているようで、芋づる式に同級生らしきアカウントを見つけられた。当然みんなは実名を書いたりはしていないけれど、同級生とわかれば投稿やユーザー名から見えてくるものがあるものだ。コミュニティの何人かは、私でも誰なのか見当がついた。
 そうして私は、名を名乗って彼らをフォローしたのではない。私は、そのまま彼らの投稿を見るだけにとどめた。向こうは知らないけれど、一方的に私はみんなの投稿が見られる。一種の覗き見だ。彼らが日常の事件に反応したり、誰かの噂を書いたりするのを、私は定期的に見続けては楽しんでいた。趣味が悪いことはわかっている。けれど、この行為がもたらす一種の優越感と背徳感が、私の心を離さなかった。
 甘かった。悪趣味な覗き見をしていた報いを受けたのだ。
 きっしーは、たぶん岸田くんのアカウント。彼の投稿に、何人も同調するコメントを残していた。
  15:53 檸檬『それな』
  16:02 墾田永年私財法『時間の無駄。』
  16:04 クリリン『構ってほしいんでしょw』
 目が離れてくれなかった。画面をなぞる指が止まってくれなかった。やがて右手が震えて、文面を見ることができなくなってようやく、スマホを置くことができた。動悸が激しくなっていた。
 「鼠」という呼び名は、きっと私のあだ名「ミッキー」からの連想だろう。何より、今日の国語で黙ってしまった人なんて私しかいない。彼らは、私への不満を陰で話している。
 ごはんよーと呼ぶ母親の声が寒々と響いた。


*        *        *


 怖かった。きのうあの投稿を見てから、学校に行くのが怖くて仕方なかった。投稿したら机に落書きがされてるんじゃないか、みんなが私を無視するようになってるんじゃないか、そんな自意識過剰な悪い妄想ばかり膨らんだ。でも、行かなかったら二度と学校に行けなくなる気がしたし、親になんと言い訳すればいいかもわからなかったから、登校するしかなかった。
 英語の教科書を手に立ち尽くしている今、その判断を心から後悔している。
 登校しても、机は無事だし誰からも罵倒されたりもしなかった。けれど、それが逆に恐ろしかった。教室ではそんな素振りはちらとも見せていないのに、心中では私を疎ましく思っている人が何人もいる。教室に入ったとき加奈子ちゃんと目が合って「おはよう」と言われたが、私は挨拶をうまく返せなかった。加奈子ちゃんも、あのコミュニティの中にいて、実は私に苛立っているのかもしれない。そんな疑いが頭をよぎったからだ。
 私が彼らの投稿を見るようになってから半年ほど経つが、彼らがクラスの誰かを悪く言うことなんて何度もあった。気心の知れた友達しかいない場だからか、遠慮もなく不満や愚痴をぶちまける投稿も少なくはない。私自身、それを垣間見て楽しんでいた節もあった。寺田くんの喋り方ちょっと粘着質だよね、とか、林さんそんなことするんだあ、とか。それが、自分が標的になった途端、こうだ。ためらいなく罵倒される恐ろしさを、私は全然理解していなかった。
 今日は音読なんてさせないでほしいと心から願ったのに、槙原先生はプリントの英文を読むように言った。どうか当たらないでくれと祈ったのに、今日の日付から私は当てられた。だからせめて、もう同じ失敗はするまいと思って立ち上がったのに、後ろから小さく「コッ」と喉を鳴らす音と笑い声が聞こえた瞬間、頭が真っ白になってしまった。
 血の気がさあっと引いて、両手が勝手に震え始める。脇から背中にかけてが凍るかと思うほど冷えて、喉が固まった。声が出せずに私は立ち尽くすしかなかった。英文が見えなくて、口が開かなくて、周りの視線ばかり感じられて、涙が出そうになった。
 迷惑。時間の無駄。構ってほしいんでしょ。
 きのう見た言葉が、私の喉を塞いだ。言葉を奪った。クラスの誰もが私の悪口を言っていた可能性があるという事実ゆえに、クラスの全員がいま心の中で私を罵倒しているように感じた。ますます寒気がした。
「どうした河北?」
 槙原先生の言葉にも反応できなかった。文を読まないといけないのに、息をうまく吸えない。
 教室は静まって、だから誰かが漏らした忍び笑いが聞こえてしまって、悪寒がした。ますます腕が震えて、文章が見えなくなって、とにかく何か言おうとするけれど、掠れた呼吸音しか口からは出てこない。読まないと。読まないと、笑われる。読まないと、怒られる。読まないと……。
 顔がぬっと目の前に現れて、肩が震えた。いつの間にか近くに来ていた槙原先生が、私の顔を覗き込んでいた。
「顔色が悪いな。保健室行くか?」
 私は答えられなかったけれど、相当顔色が良くなかったのか、先生は保健委員を呼んだ。女子の保健委員は和佳さんだった。


*        *        *


 私は保健室の先生におなかが痛いと噓をついた。一人で行けると言ったけど、和佳さんは保健室に着くまで私と並んで歩いてくれた。先生はいくつか問診した後、体育で怪我をしたらしき下級生の治療に向かった。ライトグリーンのカーテンで仕切られたベッドには、端に腰掛けた私とそばに立つ和佳さんだけが残された。みじめに思えるから、一人になりたかった。
「……もう大丈夫だから。戻っていいよ」
 ちょっと迷った顔をした和佳さんは、けれど頷いて踵を返した。しかし振り返ると
「ねえ、なにか話したいことあったらなんでも言ってね……」
 と申し訳なげに言った。
「ううん。大丈夫」
 反射的に断っていた。
「そう。じゃあ、私、もう行くね」
「うん」
 和佳さんはカーテンを丁寧に閉めて、今度こそ帰っていった。上履きを脱いでベッドに横たわると、制服にくしゃりとしわが寄った。授業をしているクラスの気配が感じられなくて、この部屋だけは学校の他の教室と隔絶されているみたいに感じる。目を閉じるとさっき聞いた笑い声が蘇ってくるから、見慣れない天井を眺めて深呼吸を繰り返した。
 養護の先生と下級生の話し声だけが聞こえる。放っておかれたくて、私の存在に気づかれたくないように思えて、ひたすら物音を殺した。下級生が去って、先生も机に向かったらしく保健室に静寂が下りて、時間が過ぎるのをじっと待ち続けた。早退したいけど、鞄を取りに教室に戻る勇気なんてない。でも人に取ってきてもらうのは申し訳ないから、みんなが帰る放課後まで保健室にいるつもりだった。体調は回復しつつあったけど、気分は最悪だった。
 またやってしまった。でも、私だって好きで黙っているんじゃない。みんなの前に立つと、みんなの目を感じると、声の出し方が思い出せなくなってしまうのだ。
 また、嫌なことを言われる。そう気づいて、消えかけていた悪寒がぶり返してきた。しばらく迷ったけど、結局、スカートのポケットからスマホを取り出した。よせばいいのに、私はSNSのアプリを起動させる。
 このままだと、悪い想像が際限なく膨らんで、押しつぶされそうだった。だから、現実を直視して、それを封じようと思った。現実は、少なくとも有限だから。あるいは、期待していたのかもしれない。誰も私を悪く言っていないという一縷の望みに。
 彼らのアカウントを検索して、投稿を表示した。授業中でも、机の下でこっそりスマホを触っている人は多い。少し前にされた投稿がすぐに飛び込んできた。
  14:22 クリリン『鼠がまた黙ってる』
  14:23 きっしー『だるいって』
  14:28 つっぱり棒マスター『2日連続はエグいだろ』
  14:33 檸檬『明日もまたやるんじゃない?』
 たまらず画面を暗くした。スマホをベッドの端に投げ、袖を目の上に当てた。みじめなのか申し訳ないのか、自分でもわからない涙が出てきて、声を我慢するしかなかった。こんなときだけは音が出てくる自分の口が、恨めしくて仕方がなかった。
 和佳さんの「なんでも言ってね」という言葉と、自分のふがいなさを詫びるような表情を思い出した。
 私が陰で言われていることを話そうかな、と思った。話してどうなるものでもないかもしれないけれど、せめて楽になりたかった。実際何か行われたのかはわからないけれど、少なくとも、この二日間で私に手を差し伸べてくれたのは、彼女だけだった。そして私は、その手にすがらないと耐えられそうになかった。
 明日話そう。そう決めた。そのとき、和佳さんにまだ保健室まで付き添ってくれたお礼を言っていないことに気がついた。これも明日伝えよう。体の震えは少しだけ収まっていた。
 けれど次の日、他のクラスのみんなは一人残らず来ていたのに、和佳さんは学校を休んだ。担任の先生は、風邪だと言っていた。そして、私の心は折れてしまった。


*        *        *


「どうしたの。早く読みなさい」
 木下先生は、おとといより明らかに機嫌が悪かった。私はうつむいてスカートを握りしめることしかできなかった。
「黙っていても何も変わらないわよ」
 先生が苛烈な言葉を飛ばすほどに、私の喉は塞がり、声が出せなくなった。頭に血がのぼって熱い。肩が震える。和佳さん以外の全員が揃った教室に、木下先生の叱責が覆いかぶさる。
「もう三年生よ? こんなこともできなくてどうするの。みんなの前で話すのがそんなに恥ずかしいの?」
 一言一言が心を削り、涙が込み上げてくる。違うんです先生。わざとじゃないんです。こんなことが、途方もないくらい難しいんです。どうしても話し方が思い出せないんです。そう心の底から叫びたいのに、声が出てくれない。無音の叫びは、誰も聞いてくれない。
 教室は、私の大嫌いな、先生が怒っているとき特有の張り詰めた空気に満ちていた。生徒全員が息を殺すなか、先生の押し殺した、でも隠しきれない怒りが滲み出た大声が響き渡る。けれど、殺伐とした雰囲気の中に、私は確かに、みんなの呆れを感じた。またかよ、とみんながうんざりしているのを、感じ取ってしまった。
「これから先の人生、人前で話す機会なんて何百回、何千回とあるわ。その度に、押し黙ってみんなを待たせるつもり? ねえ、聞いてるの?」
 先生を直視できない。ひたすら下を向いて、みじめな気持ちに耐えるしかなかった。この先、何千回とこんな気分にならないといけないのだろうか。こんなに頑張っているのに、でもこんなに苦しいのに、他の人から罵倒されつづけるのだろうか。
 つらい。限界だった。涙と鼻水が滲み出てきて、しゃくりあげる声は静まり返った教室に響いてしまうから、必死にこらえて袖で顔を拭った。こんな姿を見られたらまたひどいことを言われるけど、でも耐えられなかった。
「泣いても何も解決しないわよ! 今までは泣いたらうやむやにできてたんでしょ。社会はそんなに甘くないわ」
 うやむやにしたいなんて思ってない。好きで泣く人なんていない。そう叫びたいのに、喉からはみじめな呼吸音しか出てこない。
「さあ、読みなさい! 読めばいいのよ。その両手に持った教科書を読み上げる、たったそれだけの話じゃない」
 先生の厳しい言葉に、たまらず目を閉じた。吐き気すら感じた。手足の震えが押さえきれなくて、息ができなくなった。喉は完全に塞がって、歯を固く食いしばらないと呼吸音が漏れ出てしまうから、まともな声なんて出せるわけがなかった。頭はとてつもなく熱いのに背中は冬みたいに寒くて、涙と洟が次から次へとあふれてきて、一刻でも早くこの嵐が過ぎ去ればいいのにと祈った。
 けれど結局、木下先生の責め苦は授業の終わりのチャイムが鳴るまで続いた。


*        *        *


 次は給食時間だったけれど、私は真っ先にトイレに向かった。家か、せめて保健室に行きたかったけれど、泣き腫らした顔で遠くまで行くことはできなかった。洗面所でまずは顔を洗った。みじめで不細工な顔が鏡に映って、余計苦しくなった。
 複数人の足音が近づいてきた。明るい声で笑い合っている。私は反射的に一番奥の個室に入って鍵を閉めた。洋式便器と私だけが残された。
 違うクラスの女子の集団が、弾んだ声で俳優の話をしている。気づかれたくなくて、気配を殺した。やがて彼女らは去っていったけど、クラスから隔絶されたこの空間は居心地がよくて、そのまま個室の中にいた。今は、誰とも顔を合わせたくなかった。もう給食は始まっただろうけど、食欲なんてなかった。
 そして、私は携帯を取り出した。彼らの反応を見ずにはいられなかった。今日はきのうまでとは明らかに違う。先生が怒ったのも初めてのことだったし、クラスのみんなの不満はピークに達しているように感じられた。
 彼らの投稿を見ることは、私の義務のようにすら感じた。悪趣味な覗き見を始め、みんなに迷惑をかけた私の、受けるべき罰だ。
 けれど、またも私は甘かった。
  11:34 きっしー『【悲報】今日もお黙り女のせいで授業がストップ』
  11:40 クリリン『もう10分経ったんだが』
  11:46 墾田永年私財法『受験も近いのに、純粋に迷惑。先生に言ってなんとかしてもらおうよ。』
  11:59 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』
 読んだ瞬間、くらりと眩暈がした。立っていられなくなってしゃがみ込んだ。そして、猛烈な吐き気が襲ってきた。たまらず体を折って、便座に片手をついてもどした。胃からは酸っぱい胃液しか出てこなかったけれど、私は何度もえずいた。胃液と涙が滴り落ちる水音がやけによく聞こえた。喉が焼けて、視界が霞んで、手が震えた。鼻水が垂れてきて、でも吐き気のせいで拭うことも何もできなかった。
 みじめだった。ひたすらみじめで、もう耐えられなかった。声が漏れた。一度泣きはじめたら、止められなかった。誰もいないトイレの個室で、汚い床に膝をついて、顔の穴という穴からばっちい液を垂らしたひどい顔で、泣きじゃくった。誰も聞いてくれない声を上げた。どうして私がこんな目に遭わないといけないの。確かに迷惑はかけたけど、でも、わざとじゃないよ。人の陰口を言ってるみんなより、私の方がひどかったの? こんなに傷つかないといけないくらい、悪いことだったの?
 床にはいつの間にか手から滑り落ちたスマホが転がっていた。黒ずんだタイルの上に落ちたそれは、どこまでも汚らわしいものに見えた。こんなものさえなければ、私はこんなに苦しまなくてよかった。すべて、私が悪いのだ。聞こえないはずの声を聞いてしまった。耳にしてはいけない叫びを、聞いてしまった。
 トイレットペーパーを一巻き切り取って、口を拭いた。次の一巻きで鼻を噛んで、最後に目を拭った。紙をトイレに放って、水を流す。後始末はすべてしたけれど、立ち上がることができなかった。
「もう嫌だな」
 あれだけ出し方がわからなかった声は、一人の個室ですんなりこぼれ落ちた。


*        *        *


「それでミッキー、話したいことってなあに?」
 和佳さんは、翌日は登校していた。風邪は軽いものだったようだ。朝、まるで数年ぶりかのように再会を大袈裟に祝する人たちの中に割り込んで、私は声をかけた。話したいことがあるから、今から来てくれないか、と。
 急なことに和佳さんは戸惑っていたし、周りの友達は嫌悪感を露骨に顔に出していたけど、それも少しのことで和佳さんは気さくに頷いた。同行を申し出る大村さんと栗原くんを押しとどめて、理科室まで着いてきてくれた。朝の会が始まる前の理科室には、誰も来ない。実験をするための大きな机に、私たちは向かい合って座った。
 陰気な顔をした私に、けれど明るく和佳さんは問いかける。保健室に連れていってもらったとき、「なんでも言って」と言ったことを覚えているのだろう。私の唐突なお願いに文句一つ言わず笑顔を向けてくれる。
「急にごめんね。話したいことって、これのこと」
 私はスマホを机の上に置いた。和佳さんが画面を覗き込んで、顔を歪めた。画面には、きのう投稿されたあのメッセージが並んでいる。
「私、人前で喋るのが苦手なの。それで、授業の発表で黙っちゃうことがあった。そして、それについてSNSでみんながいろいろ言ってるのを、私知ってたの」
 和佳さんは黙って画面を見ていた。青ざめた表情で、食い入るように文面を見つめている。
「たくさん迷惑かけた。授業をストップさせちゃったし、不愉快な思いもさせた。本当に申し訳ないと思ってる」
 和佳さんと二人きりなら、言葉はすらすら出てきた。みんなの前でもそうならよかったのにと思うけど、でも、何もかも、もう遅い。
「けどね、私、きのうはそんなことしてない
 和佳さんがゆっくりと視線を上げた。私と目が合う。
「きのう黙っちゃったのは、加奈子ちゃん。私が悪いお手本を見せちゃったのかな。きっとあの子も私と同じで、影響されやすい人だから。私も恥ずかしかった。共感性羞恥って言うのかな。まるで自分のことみたいにみじめだったし、苦しかったし、怖かった。けどね、それでも、私じゃない。私じゃないの」
 私はスマホをなぞって一つの投稿を表示する。和佳さんはもう一度目を落とす。
「あの場にいた人で、黙っているのが私だなんて思う人いない。いるわけない。きのう学校に来てた人なら
  11:59 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』
「この『檸檬』って人、和佳さんでしょ?」
 朝の会の始まりを告げるチャイムが鳴った。顔を伏せた和佳さんの髪が一房、はらりと落ちた。


*        *        *


 顔を上げた和佳さんは、別人のようにとげとげしい目で私を見た。
「なんで、これを知ってるの」
「……たまたま、流れてきて。遠足の話とかから、同じクラスの誰かだなって」
「ずっと前のことじゃない! まさかずっと、監視してたってこと?」
「……ごめん」
「はあ? そんなのストーカーじゃん。最悪。ほんと嫌なんだけど」
 責め立てられて、けれど私はきのうまでのようにみじめな気持ちはせず、ただただ悲しいだけだった。
「ねえ、教えてほしいの」
「嫌よ。私、帰る」
 乱暴に席を立った和佳さんの背中に、叫んだ。
「噓だったの? 謝ってくれたのも、心配してくれたのも、なんでも話してって言ってくれたのも、全部噓だったの? 心の中では、私のこと笑ってたの?」
 和佳さんが立ち止まった。言いながら、涙が滲んで、声が震えた。和佳さんは振り返って、苦しそうに顔を歪めた。
「何、逆ギレ? 元はといえば、あんたが悪いんじゃないの。みんなの時間を奪って、受験も近いのに授業の邪魔して、全部あんたが悪いのよ!」
 そう言う彼女は本当に苦しそうで、いっそう心が痛んだ。気持ちの整理はつけてきたつもりだったけれど、叫んでいるうちに、感情が大きくなっていって、制御できなくなった。想いがあふれて、喉が詰まった。いくつもの言葉が胸を塞いだ。涙が止まらなくなって、心が痛みを訴えてきて、唇が震えた。
 どうして、そんなこと言ったの? そんなに、迷惑だったの? どうして、止めてくれなかったの? どうして、優しくしてくれたの? どうして、どうして……。
「どうして、面と向かって言ってくれなかったの……?」
 ぽつりとこぼれた言葉だけが宙に浮かんで、静寂が下りた。
 涙を袖で拭って、私は言った。
「私、転校するの」
 はっと和佳さんが顔を上げた。私は笑顔を作ってみせる。きっと、とても痛々しい。
「親には話をつけておいた。来週には、違う県の中学校に行くの。ここに登校するのも、今日で最後。引っ越しの準備とかで忙しいから、あなたと話して、もう帰るつもり」
 打ちひしがれたように、和佳さんは立ち尽くしていた。何か言葉を探そうとするけれど、見つからないみたい。私は立ち上がる。
「もう、帰るね。最後に話せてよかった」
 私はスマホをポケットにしまって、理科室の扉を開けた。和佳さんを残して、誰もいない廊下を歩き出す。教室から隔絶された空間は、こんなにも息がしやすかった。
「待って!」
 靴箱で靴を履いて、玄関から出ていこうとしたとき、呼び止められた。廊下の向こうに、膝に手をついた和佳さんが立っていた。
「ごめん」
 和佳さんはうつむいた。
「ほんとに、ごめん」
 短い言葉だけれど、私には、それだけで十分だった。そこで、思い出した。
「ねえ、和佳さん、ありがとう。おととい、保健室に連れていってくれて」
 和佳さんは、虚をつかれたようだった。そして、唇を曲げた。
「まだ、お礼言ってなかったから」
「そんなの……どうでもいい……」
「私、和佳さんが優しくなかったとは思ってないよ。私を心配してくれたのも、和佳さんだから」
 なぜか悲しくなって、涙が流れてきた。和佳さんもくしゃりと顔を歪めた。
「ミッキー、優しすぎるよ……」
 私は笑って手を振った。これ以上いると、和佳さんにみっともない顔を見せてしまいそうだったから。
「じゃあね」
 そして私は校舎の外へと足を進めた。真っ青な空がまぶしすぎて、また涙があふれた。

ⒸWikiWiki文庫

ひといき
キュアラプラプ
蛍が躍る洞窟に、わけのわからない声が聞こえる。
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 その洞窟の中には、もちろん何の灯りもなかったから、奥に進めば進むほど暗くなっていく。そして、ある角を右に曲がったとき、外の光はついにほんの一片さえ届かなくなる。この蛍は、それが好きだった。蛍ならば誰しもが持つ、夜を独占したいという欲求が、この蛍にも当然あった。光のドレスで着飾って、空のすべてをレッドカーペットにする、彼らにとって唯一かつ最高の芸術は、しかしさまざまな妨害にあってきた。一日おきにすべての地平を席巻し、まさしく圧倒的な明るさでもって、彼らの同じ光としてのプライドを踏みつけにする太陽の光は言うまでもなく、あるときには普遍的な絶対美を象徴する無欠の真円を、またあるときには今にもぽっきり折れてしまいそうなくらい華奢で繊細な弧を描く月の光は、その目まぐるしく豊かな表情で蛍たちをこけにしてきたし、負けず嫌いの蛍たちが群れという生物の特権を駆使して光のダイナミクスを演出しようとしたときも、遥か遠くにめざとく浮かんでいる星々が、すかさず星座を作って空の全てを覆い隠してしまった。こうして自信を失った蛍たちのドレスは、ほつれたところから引き裂かれ、生ごみのようにぼとぼと落ちる。レッドカーペットは太った毛虫のようなおぞましい姿に変貌し、のたうち回って彼らの芸術を拒否してしまうのだ。

 しかし、太陽も、月も、星々も、あるいは他の蛍たちでさえ、この洞窟には気づいていなかった。最高の舞台にほかならない貸し切りの闇を、夜でも昼でもお構いなしに、この蛍はほとばしる感情の言う通りに駆け回り、光の軌道となってするどい岩の壁面を照らしていた。洞窟は海岸沿いにあって、しみ出してくる海水の薄い膜に一面が覆われていたから、蛍はそこに反射してきらめく自分の光の分身と共演することができた。こういうわけで、蛍は今も洞窟の中を火花のように激しく舞っている。しかし蛍は、ひとついつもと違うことがあることに気づく。さっきまでそこで躍っていた、洞窟のさらに奥の方から、何やら子供の泣き声のような音が聞こえるのだ。わめき声は洞窟の中を水平にせりあがり、入口の方に向かっていった。蛍は、人間の声についてよく知らない。しかし、たまに見る彼らの会話する様子から、人間はひとつひとつが個性的な、まるで鳥や虫が種族ごとに誇っている唯一無二の歌声をひと口に切り分けたような音をたくさん持っていて、さらにそれをやたらめったら、やけを起こしたかのように並べ立てるだけで、不思議と言いたいことを言えるのだというふうに理解していた。蛍もたまにパートナーを求めて鳴くことがあったが、それは人間の声とはまったく異なるものだった。それに、蛍にとって大切なのはむろんしっぽの光の方であり、鳴くことは二の次だったから、わざわざ呼吸をちょっと忘れてまで喉から声を出してしゃべる人間のことは、やはりよく分からなかった。

 波の音に混じって洞窟を満たす声の中、こうして蛍がひとり考えごとをしていたところ、入口の方からまた別の子供の声がしはじめた。その声は、奥から響いてくる泣き声に反応しているようで、まるで砂利を撫でつけるように、張り詰めた感じのする響きだった。その子供は洞窟の奥をめざして一心不乱に進んでいるようで、前も後ろも分からないこの暗闇も、やすりのようなざらざらの岩のじゅうたんも、まったく気にしていないようだった。洞窟の壁になんども体を打ちつけながら、同じように洞窟の壁になんども体を打ちつけて響く奥からの泣き声を見えない灯台にするように、ただ、進んでいた。そうして蛍とすれ違ったとき、蛍は自分の光を媒体にしてその子供の姿を見た。毛皮の服を着た、体中に傷がある、赤毛の子供だった。奥にいる子供が叫んでいるあの声は、きっとこの赤毛の子供をそこに呼びよせるためのものなのだろうと、蛍は思った。


*        *        *


 赤毛の子供には、もはや自分がどこかに向かって進んでいるという感覚はなかった。ただ手足を振り回し、するどい岩が複雑に張り巡らされている空間を辛うじてくぐりぬけている。それほどの暗さだった。その疲労と狭窄的な熱中とで、すでに末端の神経は麻痺しており、さらにここには血中の赤を人の目に映し出す光さえなかったから、体のあちこちにできている切り傷は、光が差してはじめて見えてくるだろうその醜い見た目に反して、引き裂くような痛みを感じさせることはなかった。その子供は、奥から聞こえる声の方向に向かって、一連の動作をただ繰り返すだけだった。声は洞窟の内部で何重にも絡まっていたから、実際のところその発信源を特定することはできなかったが、とにかくその子供は洞窟の奥に向かって体を這いずらせ続けた。幸いにも、この洞窟は一本道だった。だから、子供は正しい道を進んだことになった。蛍とすれ違ったとき、その細々とした光で、子供は初めて洞窟の奥の景色をとらえた。それは洞窟といっても、地中にくり抜かれた円柱様の領域のような生易しいものではなく、まさしく炎症を起こした牛の消化管のように、暴力的に密なものであった。それも、海から押し寄せる波がその硬い材質を磨き上げ、その境界を世界にむき出しにぴんと張ってしまった、廃材置き場にあるにふさわしい包丁と砂鉄のげてものだった。

 自分の存在を見失わないように、大きな息に意味を乗せ、大きな声を出し続ける。赤毛の子供は、奥で泣きわめく声をあげているのが、しばらく前に森で出会ったあの黒髪の子供であることを、まさにその声をもって理解していた。赤毛の子供のいる村落は、古くから排外主義的なルールを掲げていたから、見たことのない人に出会って初めはとまどってしまったものだった。黒髪の子供は、うず高くもつれた重い緑の蔦の網目と、冷たい土や枝のステージの上で、わけのわからない言葉で歌っていた。それは赤毛の子供の集落では話されない言葉だったから、その声の意味はまったく知れなかったのだ。ただ確かなのは、その声がそれ自体で持つ美しさだった。幹まで緑色をした木々の間を、角度をもって走り抜けていく日光が、木の葉のノイズとともに歌う子供の輪郭を逆光をして描き出し、同時にその黒髪に吸い込まれていった。つやもはりもない、ただ一様に単色にみえる黒だった。そのうち黒髪の子供は赤毛の子供を見つけると、すぐに走り去ってしまった。しかしその次の日、赤毛の子供が同じ場所に行くと、やはり美しい歌が聞こえた。だからその日は、赤毛の子供も歌った。古い記憶の、子守歌を歌った。黒髪の子供はただ目を閉じて聴いた。

 それから毎日、彼らはそこで共に語り合った。互いにわけのわからない言葉で語り合った。しかし、まさにこの日、黒髪の子供は現れなかったのだ。だから赤毛の子供は、そこら中を歩き回って捜した。そして、海のすぐそばの、あの洞窟から、声がするのを発見した。間違いなく、あの子供の声だった。その声の美しさは、旋律を離れてただの悲鳴にようになっていてさえ、どうやら曇らないらしい。この洞窟に入ることは、村の大人たちによって固く禁じられていた。暗くて何も見えないばかりか、すぐそばの海から岩の切れ目を体をねじ込ませて上がってくる水が、ときどき洞窟を脱出不能の水底に沈めてしまうことがあったからだ。しかし、この子供には、洞窟からかすかに聞こえる声を放っておくことができなかった。黒髪の子供は、その声に何か意味を込めている。その意味はやはり分からないが、何か意味を込めていることは確かだ。そこに行くことができるのは自分だけだと思った。行かなければならない、そう思った。きっと助けなければならないと思った。だから、今も赤毛の子供は、重く暗い岩の隙間にその小さい体をねじ込んで、進んでいる。いままで洞窟全体の調べだったあの声は、ついにその発信源からまっすぐ届きはじめたが、しかし最初の叫びよりもいくぶんか弱々しいように聞こえる。それを知覚した瞬間、赤毛の子供は腰の抜ける浮遊感を覚え、そのまま足を滑らせて地底湖に落下した。鳥肌が立つような声がせりあがってきた。


*        *        *


 黒髪の子供の全身は、顎から指先に至るまでがちがちとふるえていた。それは、この世界から隔絶された地底湖に何時間も閉じ込められていたゆえの眠気にも似た寒さと、そこにあの赤毛の子供をみすみす招いてしまったゆえの目が覚めるような絶望を理由としていた。最初は腰のあたりだった真っ暗な水面は、既に喉元にまで達していた。この子供は最初、ただ面白がって洞窟を覗いていただけだった。間抜けに大口をひらいている暗闇の喉をひそひそと歩き、光がなくなったら引き返そう、それまで少し進んでみようと思っていた。そこに飛来した思いがけない来客が、あの蛍だった。この美しくかわいらしい光が、黒髪の子供には太陽の光も同然のように思えていたと知ったら、蛍は不機嫌になるかもしれない。ともかく、気づいた時には、黒髪の子供は洞窟を出ることができなくなっていた。帰り道は、もはや帰るにはあまりに暗すぎたのだ。この子供は赤毛の子供のように暗闇に挑む無鉄砲さを持ち合わせていなかったから、この蛍の繊細なダンスだけが唯一の命綱だった。希薄でか細い光の後を、決して見失わないように、凶悪な牙にすりつぶされかけながら、必死で追いかけた。こうして、暗闇に潜む地中の小さな崖に足をとられ、二秒間ほど自由落下し、胃袋のようなあの地底湖に飲み込まれた。

 叫んだ。恐ろしかった。絶対的な黒に神経を塗りつぶされて、頭がおかしくなりそうだった。叫んだ。叫んで、叫び返されて、気づいた。赤毛の子供だ。あの、森で出会った、燃えるような赤い髪の子供が、ここに来ている。明確に、それはただ、無謀だった。大人が何人で来ようとも、この鈍い針山の道をくぐり抜け、深く広がる地中湖から高く真っ暗な岸に人間一人を引き揚げることはできそうもなかった。だから、黒髪の子供はそこからはこう叫んだ――「来ないで!」。しかし、赤毛の子供がこの意味を理解するはずはなかった。だから黒髪の子供は、怒ったように叫んだ――「来ないで!」。それにも構わず赤毛の子供の声は近づいてくる。次第に懇願するように、こう叫んだ――「来ないで!」。それから、赤毛の子供が足を滑らせた一秒後、暗い水面がえぐられ、圧縮された空気が水の層を引き剥がして破裂させる音がした後、うめくように叫んだ。石臼をゆっくり回したような、木の棒を濡れた砂浜にじりじりと挿し込むような、わけのわからない声だった。あるいは声というよりもむしろ、それはひどく感情的なだけの呼吸だった。

 赤毛の子供の腕が触れた。最後に残った触覚が、慌ててそれを認識した。赤毛の子供は、わけのわからない言葉で何かをつぶやいた後、目を閉じて、子守歌を歌いはじめた。それと同時に、水面は顎のあたりをかすめはじめた。黒髪の子供は、自分の声に自分の意志で意味を込めているつもりだったが、ふと、自分が喉の奥をふるわせて、息の気流を何重にも包んで口から出した音は、最初からずっと「助けて」とだけ叫んでいたのかもしれないと思った。わけのわからない言葉は、意味を離れても、旋律を離れても、その声が届いたというただそれだけの理由で、黒髪の子供を救った。岩の密室が地下水に充填されていくにつれ、息はどんどん浅くなる。赤毛の子供の歌声がふるえる。黒髪の子供の肩もふるえた。子守歌は二番に入り、二人の舌の上には水が侵入してきた。声は水の中で球体になった息を乗り捨てて、水そのものを振動させはじめた。ろれつの回らない歌詞と、でたらめにこね回された波長とで、子守歌は醜くくぐもった。それでも、その声は美しかった。赤毛の子供の額が触れた。二人の目は自然に閉じていたし、それ以外のすべての感覚も、まさに閉じられようとしていたところだった。もちろん誰から言うでもなく、二人は最後に大きな息を吸って、水中に互いの体を引き込んだ。最後に、薄い瞼の奥から、ちらと光の点が透けて見えた気がした。そのおかげで、この洞窟の完全な暗闇が思い出された。それから最後の一息さえ離れて、声が水中にこう言った――「ありがとう」


*        *        *


 蛍が様子を見にきたとき、二人はちょうど沈んでしまったところだった。しかし、蛍には、あの声を赤毛の子供を呼びよせるために発されたものだと考えた自分の推理が見事に正解したように思えて、少しうれしかった。増水の勢いはみるみるうちに高まって、獰猛な水たちは死骸に集る小動物のようにぎらぎらと蠢き、威嚇の奇声をあげはじめた。住人である蛍は、この洞窟で周期的にこういう満ち引きが起きることを誰よりもよく理解していたので、自分まで水に飲み込まれてしまわないうちに洞窟を出ることにした。蛍の火花のような体は、洞窟のするどいバリケードでさえ、いとも簡単にすり抜けることができた。あの角を今度は左に曲がると、にっくき太陽の光があたりを包み始めた。岸壁は徐々に藍色に、また暗い灰色になり始めて、不格好だった。白い光にさらされて、立ち込める石のほこりがきらきらと輝く。洞窟の入り口を通過して、日向に入ってしまう直前、蛍は振り返って愛する洞窟を見た。水はあの光を拒む角に攻撃的に体をぶちかまし、獣にも似た低姿勢でこちらを追いかけてきている。それはまさしく、飢えた洞窟の唾液だった。

 日向に出るのは半日ぶりで、蛍は自分の影の存在を思い出した後、焼けるような暑さにうなだれた。体をひるがえし、小さい羽をすばやく振り回して、砂浜のすぐ近くの森へと向かう。空を我が物顔で飛び回る鳥は、代わり映えしない声色でうっとうしく鳴いていた。これに比べたら、やはりあの子供の声は素晴らしいものだったと蛍は思う。人間はその声で自分の願いをかなえることさえできるのだと知り、蛍は実のところ感嘆していたのだ。もしも自分が人間の声を手に入れたら、いったい何をしようか、蛍はいろいろなことを考えた。あの洞窟をもっと広くするとか、自分の光を太陽にも負けないくらいに強くするとか、いっそのこと太陽を空から追い出してしまってもいい。そういうふうに気持ちのいい、自分のためだけの世界のことを考えると、蛍はなんだか楽しい気持ちになった。それはちょうど、魔法使いを夢見る子供と同じようなことなのだろう。

 蛍が休む木陰の上空には、身を乗り出してまで地表を覗き込んでくる太陽が、飽きもせずに君臨している。時間はちょうど正午だった。気づくとあたりには大人の人間が大勢いて、やはり何かの声を出していた。どうやら、仲間の誰かを捜しているらしい。たぶんあの子供のうちのどちらかなのだろう。しかしここで、蛍はひとつ疑問に思った。どちらにせよ彼らは洞窟の奥に沈んでしまっているから、二人を捜し出すことは不可能だ。それなのに、あの大人たちはどうして声を出しているのだろう。もしかすると、実のところ、声に出してもかなわないような願いもあるのだろうか。そう思うと、蛍が声に抱いていた憧れは、少し色褪せてしまったように感じられた。誰かの名前を呼ぶ声は、海岸一面にもんどりをうつ波の騒音や、風に吹かれて昆虫のように体をこすりつける草と葉の雑音、見栄っ張りな鳥獣たちの甲高い大騒ぎにかき消され、次第にそれらと区別がつかなくなった。

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