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53話の物語をあなたと

傑作小説

非自己叙述的
「非自己叙述的」という言葉から生まれる概念を、満遍なく説明した作。二部構成!
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第一節 「物語(一人の老人による語り)」

君「非自己叙述的(heterological)」という言葉を知っているか? 知らないとな? 仕方のないやつめ、教えてやろう。
非自己叙述的とは、「ある言葉の意味がその言葉自体と矛盾していること」だ。たとえば"long"という言葉は「長い」を意味するが、この言葉の綴りはわずか4文字と、長くない
したがって"long"という言葉は非自己叙述的だといえる。また"misspelled(綴りの誤った)"という言葉は正しく綴られている。つまりこの言葉も非自己叙述的だ。
君この話は飽きたか。面白くないか。けどもしばし待て。ここからだ、面白くなるのは。さあ君、この問題について考えようじゃないか。

   ・「非自己叙述的」という言葉は非自己叙述的であるか?

これを解くにあたって、重要なことがある。「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」ということだ。
おっと、当たり前だといって笑っちゃいけないぞ君。これはほんとうに大切なことだ。何せ……粛清されました
本題に戻ろう。ではまず、「『非自己叙述的』は非自己叙述的である」と仮定して話を進めようか。「非自己叙述的」は非自己叙述的である。
すなわち「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っている。よって「非自己叙述的」は非自己叙述的でない
むむ? いま、「非自己叙述的」は非自己叙述的だ、として話を進めたはずだ。しかしそこから、それを否定する結論が得られた。なぜだろうか? うーん。
あるいは、最初の仮定が間違っていた、と考える方が自然であろう。
今度は他の可能性にかけるのだ――ところで先ほど、「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」と述べた。
となると他の可能性とは、「『非自己叙述的』は非自己叙述的でない」ということじゃあないか!
では、そう仮定するとどうなるのだろうか? 「非自己叙述的」は非自己叙述的でない。つまり「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っていない。
ゆえに、「非自己叙述的」は非自己叙述的である
またもや仮定と矛盾する結論を導いてしまった。やあ君、どうしてこうなったのだ? 僕たちはすべての可能性を検討しきったのに、そのどれにおいても矛盾が生まれるだなんて……。
はっ! 君君、これ、パラドックスじゃないか!



第二節 「物語(二人の若者の会話)」
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12
相田為之助という詩人
詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。……
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    1


 詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。その広さに由来して、自ら相田三百帖邸とよんだ。ウォールナット張りの床が気品を感じさせるいかにもモダンな家宅であるが、平屋特有の、どこか日本的な情緒をも備えていた。

 ふとインターフォンが鳴った。書斎の机に情けなく突っ伏していた相田は、気だるそうに立ち上がって、玄関をめざした。その重厚さをたしかめるように部屋の扉を開け、その長大さを味わうように廊下を歩いていった。廊下の右手がわには、開け放たれたガラス戸から相田の設計したたいそうな庭園がみえている。そこに植わる、ちょうど満開である梅の、その芳香をかみしめながら相田はさらに歩いていった。

 相田は玄関に着いた。書斎からの長い道のりのなかで、自分の家に訪ねてきた人物が誰であるかについて、相田はおおよその見当をつけていた。それゆえにこそ相田は、いかにも鬱屈した態度でドアノブへ手を伸ばしたのだった。

 相田がノブを回して扉を開けはじめると、扉は言った。

「開けるな」

 相田は言われたとおりそれを閉めた。


    2


 編集者川北さくらは世田谷の出版社に勤めていた。もと事務局経理部で会計作業に当たっていたが、会社主催の飲み会でいまの上長に気に入られたのをきっかけとして編集室に異動し、晴れて編集者となったのであった。

 配属からもう六年めになる川北は多くの人気作家の担当を継続して任されるようになっていた。責任の重さに由来するプレッシャーに悩まされることも多いが、友人などに彼らのことを話すと羨ましがってサインなんかをせびってくるのが川北には誇らしかった。

 相田為之助も川北の担当する人気作家のひとりであった。その相田についてこのごろ川北は絶えず悩まされていた。相田はどうもスランプらしかった。最近まで相田は一年おきに詩集を出していた。毎年詩集を出すということは一年のはじめから終わりまでそれなりに試作にはげむことを要求するものであって、そのためにはむろん常人にははかり知れぬ労力が要るにちがいないが、とにもかくにも、かつての相田にはそれができていた。しかしながら、現在の相田が詩作らしいことをしているようすはない。事実、『死せるドリス・デイ』という題で最後に詩集を出して以来――それはもう一年と九か月前のことであるが――、こちらには新しい草稿の一枚も送られてこないのである。そのような事情から、ついに川北は相田為之助がスランプであることを悟らねばならなかったのだった。

 多くの場合、詩人の仕事というのは気ままに詩作をして発表するにとどまるものではない。彼らはしばしば、顧客から依頼を受注して、頼まれたとおりの作品を提供することによって対価を得ている。相田為之助もよくそのような仕事を受けていた。

 いま相田は作詞の案件を抱えている。地元徳島に新しい高校ができるというので、校歌の作詞を出版社経由で頼まれたのだった。たいへん金払いのよい私立高校で、曲のほうも質がよくてモダンなものをそれなりの作曲家に作らせたようだ。その曲に詞を当てるのが相田の仕事である。先方と合意した納品期限が過ぎてからそろそろ一か月が経つ。ところが相田は、いまだ何をもなしえていないらしかった。川北はやきもきしていた。


    3


 ある朝、相田邸の固定電話が鳴った。書斎の机で突っ伏して寝ていた相田はその音を聞いて飛び起きた。なんだ電話か、ああ、どうせあいつだろうなどと億劫そうにつぶやきながら、寝違えた首まわりをていねいにほぐし、ゆっくりと<傍点>のび</傍点>をしたあとで、壁かけ式のスタンドから子機を取った。

「もしもし相田……」

 そう言いかけたところで、かぶせるように子機が言った。

「取るな」

 相田は話すのをやめて、言われたとおりそれを戻した。


    4


 締め切りはとっくに過ぎているから、進捗をうかがう電話が当然のように川北のところへかかってくる。作品を仕上げないのは相田が悪いのに、当然のように川北が謝罪する。「こうして何度も申しあげておりますがね、私どもは相田先生の歌詞を楽しみにしているんですよ」という先方の悲哀に満ちた声を聞いて胸が痛くなった川北が、耐えかねた面持ちで受話器を置いて、それから相田に連絡をやったとしても、返事が来ることはなかった。締め切り日の前後から相田とは連絡がつかなくなっていたのである。やがて川北のなかにふつふつと怒りが湧いてきた。自分の詩が書けないのは知ったことではないけれども、よそに仕事をもらっておきながらなんの音沙汰もないというのは、どうかしているのではないかしら。川北は不満だった。連絡をつけるために、川北は翌日相田の家を訪ねることにした。


 明くる朝、川北は慌ただしいようすで出社してきた。出勤時刻の記録と室員への挨拶を済ませ、連絡板に「相田先生宅訪問/帰社予定」と走り書きを残すとすぐにオフィスを飛び出し、玄関口の目と鼻の先にある路側帯でタクシーを拾った。一秒も無駄にすまいと言わんばかりの俊敏さでもって車内に飛び入りながら、運転手に相田の家の住所を告げた。

 無事に着座してタクシーが走りだすと、ようやく川北は呼吸を落ち着かせることを考えはじめた。背もたれに身を預けながら、はやる気持ちを落ち着かせることを考えはじめた。まもなくすると川北は静かに相田のことを考えていた。相田はなぜスランプにはまったのかと考えた。それにしても、スランプならスランプなりに報告をよこしてくれればよいのに、なぜ一切の音沙汰がないのかと考えた。そして相田がスランプに甘えて仕事を放棄しているかもしれないことを考えた。それどころか案件の存在を忘れて、自らの詩集のための詩を書きはじめているかもしれないことを考えた。それどころか詩人としての自らの使命をも失念して、懈怠を働いているかもしれないことを考えた。それどころか懈怠に懈怠を重ねたために、生の動機を失って自殺を企図しているかもしれないことを考えた。いいや、相田はじつはもっぱら外部との関係を絶つことでいままでのどの瞬間よりも真剣に詩作に向きあいつづけているのかもしれない、それでもスランプから抜け出せないので絶望しかけているかもしれない、とも考えた。それから、絶望のあまりやはり相田が自殺を図るかもしれないことを考えた。川北は身ぶるいした。


    5


 詩人相田為之助は自らの頭の疲れていることを知っていた。相田にとって、「頭の疲れている」というのは、「心の疲れている」とか、「魂の疲れている」とかいうのとは本質的に区別されるような状態を指していた。相田の心はいまなお素朴で実直であって、しかし何をも考えられなかった。

 相田の行く先ざきで物がしゃべっていた。それらは相田が自らにとって理想的な行動をとるのをやめさせるようなことをしゃべった。これがために相田は自らの理想に接近することをつねに妨げられていた。この事態がいっそう相田の頭を疲れさせた。

 扉も子機も、ベッドもワイナリーも何かをしゃべった。けれども書斎の机といすだけは何もしゃべらなかった。ゆえに相田は、ほとんど、そこでいすに座って机に向かうしかなかった。それは常にそうであった。それは相田の都合を無視して四六時中成立する事実であった。


    6


 郊外の並木道を抜けて、編集者の乗るタクシーはやがて詩人の邸宅に至った。編集者川北さくらはその邸宅をひと目見て、めまいを起こしかけた。それはただただ広大だった。広大な平屋を囲う塀はどこまでも長く続いて終わりが見えなかった。これがかの「三百帖邸」か、と川北は妙に納得した。

 邸宅の正門と思しきところでは、毛筆で堂々「相田」と打ち出した表札が門扉の脇に掲げてあった。その下には「メディア取材お断り」と張り紙がしてあった。しかしインターフォンがなかった。そのことは相田が訪問者をまるで歓迎していないことを暗示しているようにも感じられた。川北はいっそ帰ろうかとも思ったが、しばし思慮をしたのち、積もりに積もった自らの憤りを思い出して、意を決して門扉に手を当てた。門扉は施錠されていなかったので、押して開けることができた。

 門扉を開けると案外目の前に玄関扉があった。玄関扉にはインターフォンが備えつけてあった。川北はためらいなくそれを押した。インターフォンの鳴る音はわからなかった。

 扉の前で川北は相田にぶつける文句をこさえていた。「作詞の進捗はいまどうなっているのですか」とか、「ご連絡を頂けないので先方は泣いておられますよ」とか、「仲介をさせられる私の身にもなっていただけませんか」とかいった、相田のじつにいちじるしい不手際と、それによってほうぼうに生じている大迷惑とをしかと認知させる必要に堪えうる言葉をいちいち選んでいった。

 文句のレパートリーも尽きてきたころ、がちゃりという音がした。扉がゆっくり開きはじめて相田の顔が川北の視界に映った。相田と目が合って、川北は用意しておいたせりふを慌てて放とうとした。しかしながら、扉は開きかけのままそれ以上開くこともなくやがて閉じてしまった。

 川北には何が何だかまったくわからなかった。フラストレーションのさなか、川北は本来相田邸に滞在するはずだった時間を埋めようと、歩いてオフィスをめざした。


    7


 あるとき、相田は書斎の棚に麻縄を見つけた。机に突っ伏していた姿勢から起き上がって首を回したときの、その視線の先にあったので、それを発見したのはまったくの偶然であった。しかしある種の約束されたできごとであるようにも思われた。ゆえに相田は観念した。相田はそれを取り上げて自らの首に巻き付け、思いっきり引っ張った。


    8


 会社に戻った川北は、編集作業がひと段落するたびに相田のことを気に病んだ。あのとき扉のすきまからちらと見えた相田の顔は異常に老けているようだった。相田はきちがいと化したにちがいない。川北にとってそれはもはや疑いようのない事実であった。

 川北は居ても立ってもいられず、相田邸へ電話をかけた。いまの相田が取るとは思わなかったが、とにかくかけた。何度めかの発信音のあと、驚くべきことに、応答が返ってきた。

「もしもし相田……」

 挨拶の途中のような発話が聞こえて、しかしながら、すぐに電話は切れてしまった。川北は落涙をこらえながら、わけがわからないわ、とつぶやいた。

 手紙でも出そうかしら。手紙なら読んでくれるんじゃないかしら。川北は熱心な編集者だった。


    9


 詩人特有の精神力から、首を絞めつけられているにもかかわらず手の力をゆるめないということが相田にはできた。相田は死ぬまで自らの首を絞めて、それから死んだ。麻縄は言った。

「戻せ」

 麻縄を棚に戻す者はいなかった。

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しわくちゃ
キュアラプラプ
6.真ん中の折りすじに合わせるように点線のところで折りすじをつけて元にもどします。
(折り紙・鶴 - Kids Web Japan より引用)
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 前の人の焼香が終わり、一歩進み出た。目線の先には、ずらりと一列に並ぶ何十枚もの遺影がある。俺が弔いにきた友人の遺影は、右から五番目にあったから、そこを向いて一礼して、香を炉の中に落とした。こういう「集団葬」は、ほんの数年前から普及しはじめた。高齢化に伴って葬儀件数が増加する一方で、社会関係の希薄化というやつなのか、参列者は年々減少し、葬儀の規模は以前と比べてずいぶん縮小していたらしい。葬儀社は、儲からない割には時間と場所を食う大量の仕事によって、パンク寸前の状況に陥っていた。これを解決するために始めたのが、この格安プランの「集団葬」というわけだ。これなら施設を改修する必要もなく、効率的に死者を弔える。これからは社会全体がこういう風になっていくのか、と俺は思った。

 特に遺族ともつき合いはないし、俺はそのまま帰ることにした。葬儀場を出て、蒸し暑い車のエンジンをかける。今時珍しい車載のテレビを点けると、認知症予防効果があるらしいサプリメントの通販番組が流れていた。最近の番組は、どれもこんな風でつまらない。腕時計を見ると、祥子の診察の時間が迫っていた。病院はそこまで遠くないが、祥子を連れ出すのは一苦労だ。俺は車を走らせて、駐車場を後にした。

 俺は死んだ友人のことを思い出していた。彼は新卒で入社した職場での同期だった。大親友というわけではなかったが、そこから転職した後も長い間つき合いがあった。俺とは違ってしっかり者で、要領のいい男だった。しかし、いつからか、俺の方から連絡しても返事が返ってこなくなった。還暦を迎えて数年ほど経った頃だったと思う。そこで関係はあっけなく途切れた。数年経って、ようやく彼の電話番号から着信があったのは、つい先日のことだ。彼は老衰で死んだ、と聞かされた。どうやら、彼のスマートフォンに残されていた友人の連絡先の中から、遺族が俺を見つけてくれたらしい。

 彼は認知症だったそうだ。最期は家族のことも分からなかったというから、俺のことなんて当然忘れていたのだろう。遺影に写っていた、俺の知る彼は、もうとっくに居なくなっていたのだろうか。俺は恐ろしくなった。最近は、祥子も俺のことが分からなくなりつつあるのだ。

 車をアパートの脇に停めた。この頃は祥子だけでなく俺も足腰を悪くしはじめているから、部屋を一階に借りたのは幸運だった。鍵を開けて家に入ると、祥子はリビングで折り紙をしているようだった。

「ただいま、祥子。じゃあ、さっき言った通り、病院に行こうか」

「あなたねえ、この前、病院は行ったばかりでしょ! 今日はもう疲れたから嫌よ!」

 祥子は俺を睨んでそれだけ言うと、再び折り鶴を作りはじめた。

 妻の祥子は、中度の認知症だ。この折り紙も、二年前に認知症と診断された時に、指先を動かすことで認知症の進行を抑えられるというかかりつけ医のアドバイスで始めたもので、彼女はすっかりこれを気に入ったらしく、今では家中に折り鶴が飾られている。しかし、認知症の進行は着実に進んでいて、最近は一人でトイレに行くことも難しくなってきた。

「すまんすまん。でも、お医者さんが今回はすぐ終わるって言ってたから、さっと行って済ませてこよう。今日行かないと、きっと心配されてしまうぞ」

 買い物や何か他の用事で俺が外出しないといけない時、今までは近くに住む娘夫婦に様子を見てもらっていたが、この前ついに祥子は自分の娘のことが分からなくなってしまった。俺以外の人が家に入ってくるとひどく取り乱してしまうのが大変で、ひどい時には物を投げつけたり、爪で引っかいたりもするから、最近は娘夫婦も介護に消極的になっている。本人も含めて家族で相談して、半年前には介護施設へ入居申請を出したが、どこも定員がいっぱいで、祥子はいわゆる「待機高齢者」の列に並んでいる状態だ。このまま祥子が俺のことさえ忘れてしまったら、俺はどうしたらいいのだろう。

「はいはい、分かりましたよ。そこまで言うなら」

 数十分の説得の末、祥子は不貞腐れたように、ゆっくりと立ち上がった。テーブルに置かれている制作途中の折り鶴は、二年前と比べて形が歪んでいるのが嫌でも意識される出来栄えだった。


*        *        *


「治験薬?」

「ええ、そうです。治験といっても、安全性や効果はほぼ完全に認められていて、半年後には新薬として正式に承認されることになっていますから、そこはご心配なく」

 かかりつけの病院で、普段通りに問診や検査をした後、担当の先生は俺だけを部屋に呼んで、治験薬の提案をしてきた。

「認知症の患者さんが混乱してしまうのを避けるために、祥子さんにはちょっと退席してもらいましたが、気を悪くしないでください。後で旦那さんからこの提案のことを話してもらって、それで祥子さんが嫌と言うならもちろんそれで結構ですが、一旦はこちらで詳しい説明をしないといけませんから」

「はあ……。それで、一体どんな薬なんですか?」

「簡単に言うと、ある種の精神安定剤のようなものです。認知症の患者さんが全国で増えていく中で、認知症を原因とする患者さんの妄想や暴言、暴力などによる介護にかかる負担が問題になっています。これらの症状をこのお薬で和らげることで、介護をする人はもちろん、介護を受ける人も負担を減らすことができます」

 手渡された資料には、さまざまな介護現場からの好評の声が書かれていた。「利用者様が進んで介助を受け入れてくださるようになりました」「父が昔のようにすっかり温厚になりました」「これからの家族生活に希望が持てるようになりました」……。

「祥子さんは、娘さんなどに攻撃的になってしまうことがあると仰っていましたが、この薬を服用すれば、そういったことも収まる可能性が高いです。そうしたら家族での介護も上手くいくようになるでしょうし、ぜひ検討してみてください」

 普段処方されている薬に加えて、この治験薬の錠剤を一か月分貰って、俺と祥子は家に帰った。本当にこの薬で言われた通りのことが起こるのだろうか。浮足立つ気持ちを抑えて、俺は祥子にこのことを話した。貰ったパンフレットを見て、祥子は泣いていた。

「ごめんなさいねえ、いつも、迷惑だよねえ」

 しまった、と思った。確かに、祥子にしてみれば、この提案はまるで彼女を責めるもののように感じられるだろう。介護のために来た娘夫婦のことが分からなくとも、自分の感情や行動が制御できていないという自覚はあるのかもしれない。しかし、それは決して彼女のせいではない。これはあくまで、認知症患者の症状の一つなのだ。

 祥子は優しい人だった。遅くに産まれた一人娘を溺愛し、ただの一度も手を上げたことはなかった。娘夫婦が結婚を報告しに来た時、彼女は本当にうれしそうに娘の手を取った。時の流れはあまりにも残酷だ。俺は祥子のしわくちゃの手を固く握りしめて、祥子が悪いわけじゃない、と繰り返しなだめた。気づけば俺も涙声になっていた。

 二人で話し合って、薬はやはり飲むことにした。俺や娘夫婦が悲しむことで最も悲しむのは、祥子自身なのだ。俺は最初、少しだけ、祥子をあたかも押さえつけるようなつもりでいた部分があったかもしれない。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、それと同じくらい、これからも皆で頑張ろう、と思った。どんなに辛いことがあっても、家族で乗り越えていこう。そう思った。


*        *        *


 それから徐々に、祥子は大人しくなっていった。暴力行為がなくなったことに娘は安心したようで、再び介護のために家を訪れてくれるようになったし、去年産まれたばかりの孫も連れて家族で来てくれることも増えた。「あの薬があって本当に良かった」と、娘は言った。

 ただ、俺には一つ気になることがあった。祥子がほとんど言葉を喋らなくなったのだ。実際、認知症の末期には、会話がほとんどできなくなるというのは知っていたが、それにしては祥子はあまりにも急だった。薬を服用しはじめてからたった数日で、ほとんど幼児のような言葉しか喋れないようになったのだ。それに、本当に認知症の末期ならあるはずの、無気力や無表情といった症状は見られない。祥子は今まで通りに折り紙を楽しみ、笑顔で孫と遊んでさえいる。

 リビングのテーブルに座っている俺の視線の先には、今日も来てくれた娘夫婦と孫が、祥子と遊んでいるのが見えた。祥子は目を細め、孫の頭を撫でている。症状の出方には個人差もあるそうだし、治験薬の副作用を疑うのは、やはり考えすぎだろうか。孫は立ち上がって、祥子の周りを歩きはじめたが、少しバランスを崩してよろけ、壁にもたれかかった。その時、壁にセロテープで留められた、祥子の作った黄色い折り鶴が、ぐしゃぐしゃに潰れてしまったのが見えた。すると祥子は、目を丸くして悲鳴をあげ、激しく泣き叫びはじめてしまった。

 おかしい、と思った。あの治験薬を服用しはじめてから、今まではなかった症状が、明らかに、急激に増えている。本当に認知症の進行時期が偶然重なっただけなのか? 固まっている俺をよそに、娘夫婦は慌てて祥子をなだめようとしたが、今度は孫の方まで泣きはじめてしまった。「仲直り」という言葉が聞こえた。さながら二人の幼児の喧嘩を収めるように、娘夫婦は孫と祥子をあやしはじめた。祥子の背中を撫でているのが見えた。

「やめろ!」

 なぜだろう、頭が真っ白になって、気づくと口から言葉が出ていた。

「祥子は子供じゃないんだぞ! 謝れ!」

 娘夫婦は呆然として俺を見ていた。その表情の奥には、ある種の納得と、覚悟を感じさせるようなものがあった。心臓の音が一つ、大きく跳ねた。呼吸が荒くなる。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて……」

「もういい。帰ってくれ」

 そう言うと、すごすごとリビングを出ていく娘夫婦を尻目に、俺は震える手であの治験薬について調べはじめた。辿り着いたのは、この治験薬の承認に反対する団体のホームページだった。俺は夢中でサイトを読み漁る。どうやら、あの治験薬が作用する仕組みは、医者が言っていた通り精神安定剤と同様のもので、脳の感情に関する部位の働きを抑制するところにあるらしい。ただ、その抑制の程度は、ほとんど破壊とさえいえる代物であるという。

 そのサイトは、この治験薬の残忍さを、「ロボトミー」という手術になぞらえて批判していた。この手術は、精神障害への治療法として二十世紀に確立され、世界各地で急速に広まったものらしい。ただし、その手術の内容は、脳のうち感情や人格を司る部分の神経を切除してしまうというものだった。これを受けた患者の人格は変化し、感覚は薄らいだという。「どうしてこんな手術が生まれたのか?」このサイトは読者に投げかける。いわくロボトミーは、考案者がその功績で二つのノーベル賞を受賞し、最も盛んに手術が行われていた時期でさえ、人道的観点からの批判が多くあったという。しかし、この手術が表舞台を去ったのは、これに代わる副作用の少ない薬品が発展してからのことだった。

 「看護が楽になること」――このサイトは、こう結論づけた。ロボトミーが生まれた時代、精神病院は患者で溢れかえっていた。中には暴力的で手に負えない患者も多くいただろう。実際、ロボトミーの先取りとなったある手術は、患者の攻撃性の緩和を目的にしていたという。ロボトミーは、患者から感情と知性を奪うことで、「楽な患者」を実現させていたのだ。俺はここでようやく、このサイトが何を言おうとしているのかを理解しはじめた。さらに読み進めると、話はやはりあの治験薬に戻る。これは新しいロボトミーに他ならない、という記述が、目に飛び込んでくる。

 単に外科手術で人格を破壊するのではない。あの治験薬が引き起こすのは、ここ数年の医学的技術の躍進によって可能になった、脳機能の狙ったところを精密に破壊することによる、人格の操作なのだという。この薬は服用するごとに認知症患者の本来の人格を消していき、介護者にとって最も理想的とされる人格に作り変えてしまうのだ。このサイトの考察によれば、それは「幼児の人格」だという。拙い言葉を喋り、いつも笑顔で、愛くるしい。そんな「楽な患者」を、精神病院の医師たちではなく、今度は日本の何千万もの介護者たちが求めているのだ。俺は絶句した。

 このサイトに書かれていることが正しいのかは分からない。しかし、俺は、一刻も早く祥子の担当医と話がしたいと思った。スマートフォンをテーブルの上に置く。いつの間にか長い時間が経っていたようだが、祥子はまだしくしく泣いていた。気づくと俺は車の運転席にいて、病院に向かっていた。


*        *        *


 病院の駐車場に車を停めた。フロントドアを開けて外に出ようとすると、ズボンの裾に足がもつれて、尻もちをついてしまった。俺は、自分が寝間着のままでアパートを出てきてしまったことに気づいた。近くに車を停めていた若い男がこっちをちらりと見たから、急いで目をそらした。あの男は俺のことを馬鹿にしているように見えた。あの男だけではない。駐車場にいる全ての人が、俺の方を迷惑そうに見ている気がした。ここにいては駄目だ。帰りたい、と思った。俺の身に、何かおかしなことが起きている。

 そうだ、祥子を家に置いてきてしまった。俺は、家を出る時のことを思い出した。祥子は潰れた折り鶴の前で、一人で泣いていた。悲しいだろう。辛いだろう。俺の目から、思わず涙がこぼれ落ちた。俺は彼女のそばにいてやらないといけない。早く帰ろう、そう思った時には、俺は自分の家を探して歩いていた。

 俺はどうして娘夫婦を追い出したのだろうか。手足はまるで金縛りにあっているように鈍い。それを必死に動かしながら、俺は考えた。そうだ、あのまま、あんな風に接していたら、祥子が祥子でなくなってしまうような気がしたのだ。俺の知っている祥子は、自分の娘を殴るような人ではなかった。しかし、なおさら、子供のような笑い声で、子供のように無邪気に遊ぶ人ではなかった。それなのに、その状態がまるで便利なものだと言わんばかりに、祥子を扱う娘夫婦が許せなかったのだ。

 帰り道はまるで迷路のようだった。何回道を曲がっても、パステルカラーと灰色の、ゆったりとした住宅街の景色は一向に変わらない。俺はただ、祥子に謝りたかった。あの治験薬は、すぐにでも全国に広がるだろう。大量の認知症患者の対応に追われて介護施設はパンクし、あぶれた患者に各家庭は不和を抱え、介護殺人は殺人事件のうち最も主要な割合を占めている、こんな現状では、あの薬を使ってしまうのが、社会にとっては遥かにましだからだ。だが、それは必ずしも、祥子自身のためにはならないのだ。涙が止まらない。肩が激しく震える。唾が喉に詰まって、息が苦しい。

 きっと、社会は老いすぎた。いつの間にか、老いを受けいれ、尊重する余裕を、社会は失ってしまったのだ。膝に手を置いて立ち止まる。深いしわの刻まれた俺の手の甲に、感情の制御を失った涙が落ちてくる。ふと、人生は折り紙のようなものだ、と思う。しわの数だけ折り目が増える。折り目の数だけ形が出来る。たとえぐちゃぐちゃに潰されてしまっても、細く張り巡らされた折り目を見たら、その形が思い出せる。しかし、今や、折り目を愛する物好きは疎まれるばかりだ。

 大きく息を吸い、天を仰ぐと、すぐ近くに真っ黒な煙が上がっているのが見えた。俺は血の気が引くのを感じた。ほとんど最後の力を振り絞り、重い体を動かして、その方向に近づくにつれて、俺はその煙が祥子のいるアパートから立ち上がっているのを確信した。周りには逃げ出してきた他の住人が集まり、慌てて騒いでいる。近づいてくる俺の姿を見つけたらしい一人が、話しかけてきた。

「ああ、旦那さん、大変、祥子さんが……ちょ、ちょっと! 危ないですよ!」

 呼び止める声を無視して部屋のドアを開けた。その瞬間、体が痛いほどの熱気に包まれ、額から汗が噴き出した。祥子はリビングの真ん中で、目を閉じて倒れていた。部屋は、灰色のかすれた煙と、オレンジ色ののぼせるような光で満たされている。声にならない叫びが、喉からしみ出してくる。俺はゾンビのように廊下を渡り、膝を曲げて、祥子の目の前に倒れ込んだ。壁の全面から火の粉が舞い落ち、ばちばちと音を立てる。

 彼女の右手には、コードの抜けたアイロンが握られていた。そして、すぐ近くには、黒焦げになったぼろぼろの物体があった。それは、間違いなく、あの潰れた折り鶴だった。

「あ、ああ、あ」

 俺は祥子のひんやりとした左手を両手で握りしめて、祈るように額に当てた。肺は痙攣したように、熱い空気を受けて咳き込む。視界の端から真っ暗になっていく。

 祥子はきっと、潰れてしまった折り鶴を作り直そうとしたのだろう。そして、彼女はアイロンがけのことを思い出したのだ。ぐちゃぐちゃになった折り紙のしわを取り、元のようにまっさらにしてから、やり直そうと思ったのだ。視界が散乱し、あらゆるものがぼやけて、重なりあう。俺があの時、怒りに任せて娘夫婦を追い出していなければ。俺があの時、祥子を置いて出ていかなければ。祥子の話に耳を傾けて、二人で折り鶴を作り直していたら。再び涙が止まらなくなった。

 家に帰りたい、と思った。祥子の介護のために、認知症の症状はよく調べていたが、それを自分に結び付けるのは難しかった。しかし、今、俺にも認知症の症状が出はじめていたことを、ようやく悟った。強い「帰宅願望」がある。外出時の服装がおかしい。自宅に歩いて帰れない。怒鳴る。すぐに泣いてしまう。娘の名前も、孫の名前も、思い出せない。

 薄れゆく意識の中、サイレンの音を聞いた。玄関から入ってくる人の気配がした。「もう大丈夫ですからね」と、二人がかりで俺を担ぎ上げた。俺はこれから、どうしたらいいのだろう。娘のことも、孫のことも、祥子の名前も、祥子のことも思い出せなくなったら、俺はどうしたらいいのだろう。葬儀場で、あなたの遺影を見つけられなかったら、どうしたらいいのだろう。

 その時俺は、あの薬を飲むのだろうか。

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