利用者:Notorious/サンドボックス/その他
よお、暫くぶりじゃのう。儂は消滅の悪魔、悪魔があやつに喰われ、その根源となるもの諸共消滅してしまうことへの恐れから生まれた悪魔じゃ。判り切ったことじゃが、一応もう一度説明しておこう。
悪魔は、恐怖心から生まれる。そして、それぞれの悪魔には対応するものがある。ゾンビ、永遠、銃…。対応するものがより強い恐怖を集めるほど、その悪魔は強力になる。
さて、儂に対応するものは消滅じゃ。但し、先に言った狭義の消滅。儂は悪魔の消滅に対する恐怖を糧として生きておる。人間は抑も消滅という現象に気付いておるかも判らん。それはさておき、儂には消滅への恐怖と共に、消滅していく悪魔の記憶までも流れてくるんじゃ。消滅の瞬間が最も、それへの恐怖が強くなるから当然のことかもしれんのお。
ならばその記憶とは何か。種々雑多なものだが、それにはその悪魔に対応するものが集めた恐怖も含まれておる。例えば、比尾山大噴火の悪魔が消滅したときには、人々の比尾山大噴火への恐怖が儂の中に流れ込んできた。
しかし、略全ての生物は消滅したものを覚えておらん。抑、それが「消滅」という現象じゃからの。つまり、儂は消滅した物事を憶えておる唯一の存在という訳じゃ。断片でなく全容すらも記憶しておるのは、儂しか居らんのではないかの。まあ世界中探し回った訳じゃあないから判らんがの。
さて、すっかり前置きが長くなってしまったのう。儂の悪い癖じゃ。ほいじゃあ今日は、嘗て日本を揺るがした大病、租唖について話していくぞ。
黎明
時は恰も20世紀初頭、岡山県加茂町の山、角ヶ仙の中腹に、ダイク・ニコルセンという男が住んでおった。彼はいわゆるお雇い外国人として1890年に来日した米国人じゃった。
官立岡山医科大学の英語教師として日本に渡り、26年勤め上げた。その時にはニコルセンは齢56。じゃが彼は故国には帰らず、日本に残る決断をした。彼は岡山の自然を愛しておった。立ち並ぶ山々、季節によって色が移ろう木々、夕日に輝く瀬戸内の海……。そういったものをニコルセンはこよなく愛したのじゃ。幸い彼は所帯を持っておらんかったし、体力には自信があった。大学の教職を降りると、ニコルセンは角ヶ仙を終の栖とし、隠棲を始めたのじゃ。
周囲の者は止めたが、彼の決意は固かった。山間に茅葺きの小屋を建て、狩猟と採集の腕を磨いた。初めの頃こそ木樵や狩人に助けてもらうことがほとんどじゃったが、3年が経つ頃にはもう彼は単独で生活を送れるまでになっていた。古い銃で鹿を狩り、森の中で山菜を摘み、家の脇を流れる川の水を汲んで生活しておった。じゃが勿論、完全に独りで生きていた訳じゃあない。定期的に薬売りが、薬だけでなく米や塩、本なんかを、肉や山菜と交換しに来ておった。さて、そんなニコルセンの隠遁生活も19年目となった1934年の夏、その日が訪れる。
ダイク・ニコルセンの小屋に度々出入りしていた薬売り、名を茂助という。この頃ニコルセンに関わりがあったのは茂助の他におらんかった。茂助は最後にこの小屋に来た十日前のことを思い出しておった。その時ニコルセンは、どうも痩せ衰え、苦しそうじゃった。立つのも一苦労といった様子であり、今迄老いを全く見せなかった異人の老爺の弱々しい姿に、かなり驚いたのじゃった。尤もニコルセンは流暢な日本語で心配ないとしきりに言っとったが。じゃから、普段は一月に一度訪れる程度じゃが、茂助は居ても立っても居られず又この小屋を訪ねたのじゃった。
茂助が戸を開けると、直ぐにニコルセンは見つかった。囲炉裏の横の煎餅布団にくるまっていたんじゃ。しかし息が荒く、いつもなら陽気に出迎えてくれるがそれもない。茂助が慌てて近づくと、窶れたニコルセンは苦しげに眠っていた。布団を捲って見ると、寝巻きから覗く腕や足には、赤黒く腫れている箇所が多かった。額に触れてみると、とんでもなく熱い。茂助は声をかけたが、ニコルセンが起きる気配はない。布団の周りには食べ物が乾いてこびり付いた膳や、空になった湯呑み、前に茂助が置いていった征露丸などが散乱しておった。
その時、ニコルセンが寝返りを打とうとした。しかし半身を起こしたところで、彼は苦しそうに叫んだ。痛みに上げる叫びじゃった。ニコルセンは目を開けたがそれは濁っており、意識は朦朧としておった。布団の上で体を硬直させたまま、痛みに呻き続けておった。すると、茂助はニコルセンが何か言葉を発していることに気づいた。目は焦点が合っておらず、茂助がいることに気づいているかも定かでなかった。茂助はニコルセンの声に必死に耳を傾けた。何か声にならぬ音、そして恐らくは彼の母語である英語であろう音に。茂助が聞き取れたのはたった一語、「そあ」じゃった。それを最後に、ダイク・ニコルセンは息を引き取った。決して穏やかとは言えぬ最期じゃった。
川下の村、行重の医師がニコルセンの死亡を確認し、彼の遺体は倉見川を舟で運ばれ、寺で無縁仏として土葬された。ニコルセンは自然死として、簡単に処理された。死亡診断書の死因としては、「肺病」と書かれた。管理体制が杜撰じゃった当時、碌に調べずに処理してしまうことはよくあることじゃった。
しかし、茂助の見たニコルセンの死に様は、村の一部に、決してセンセーショナルじゃあないが、確実に広まった。ニコルセンは奇病で死んだんじゃあないか、と。茂助は、ニコルセンが今際の際に発した言葉、「そあ」が病名じゃろう、と言った。亜米利加人だけが罹る病なんじゃろう、と。茂助を初めとする村人達には、英語には"sore"という言葉があるという知識は無かったんじゃ。更にこの病名には、恐ろしげな漢字がつけられ村人を怖がらせたが、噂の定め、七十五日も持たず、変人外国人の死は村人の話題から消えていった。
この奇病、租唖が再び行重の村人達の前に姿を現すのは、それから4年後のことじゃ。
隆盛
1938年の正月、初めに異変に気づいたのは、多山清二という男じゃった。彼は加茂町行重の貝尾集落に住む米農家で、老母と妻、息子二人を養っていた。体の丈夫さには自信があり、三十路を過ぎても病気知らずじゃった。その時までは。
その日、清二は田の様子を見ようと、薄く雪の積もった道を歩いておった。しかし家を出て少しした所で、慣れない雪に重心を崩して左肩から転けてしもうた。その瞬間、激しい痛みが走り、思わず清二は悲鳴を上げた。肩の骨が、折れたのである。慌てて清二は肩を庇いながら家へと取って返し、応急処置を受けた。
清二は腑に落ちなかった。いくらなんでも骨がこんなに容易く折れるだろうか。体調の異変は少し前から感じていた。手足が痺れるのだ。今日転んだのはその所為でもある。何かおかしい。何かが俺の体を蝕んでいる気がする。そんな怯えが渦巻いておった。
その後、清二の体調は悪化の一途を辿った。手足の痺れはますますひどくなり、体を動かすと痛むから寝床に臥しがちになっていった。清二の異変はすぐに村中に広まった。そんな中、2人目の患者が現れる。これも貝尾集落に住む老婆で、手足の痺れから始まり、囲炉裏に躓いて足を折ったという。同居する孫が懸命に面倒を見たが、病状は悪化するばかりじゃった。
3人目からは勢いがぐんと増した。あれよあれよという間に、同じような症状が出て寝込む者が相次いだ。皆、末端の痺れから始まり、骨が有り得ぬほど脆くなってゆく。2月に入る頃には、病人は10名ほどになっておった。
麓の町から医者が呼ばれたが、どうにも処置のしようが無い。見たことのない奇病に、できることは痛み止めを処方するくらいじゃった。そうしているうちに患者は少しずつ、じゃが確実に増えてゆく。そして3月下旬には、貝尾の隣の集落にも初の罹患者が出た。この病は、加茂町行重全体に勢力を広げ出したのじゃ。
医師は天手古舞じゃが、如何せん田舎の診療所、できることは少ない。そんな中、遂に清二が死んだ。小さい息子が巫山戯て蒲団の上から清二に飛び乗り、胸郭が潰れたのじゃ。恐怖は貝尾集落だけでなく、行重全体に充満した。様々な噂が飛び交った。曰く、流行り病。曰く、火の神の祟り。曰く、支那国の兵器。曰く、…。親戚の伝手を辿って行重を離れる者すら出て来た。しかし、ほとんどの者は家族に病人がいるなどして、脱出は叶わなかった。
5月には、患者は30人を超え、既に3人が命を落とした。行重を襲っている病の噂は徐々に広まり、新聞の記者さえ度々訪れるほどにまでなった。そして、記者はこの災禍を、貝尾の人が使った呼称を全国に広めた。曰く、租唖。