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慧仁親王暗殺事件
場所 栂山高校
日付 2048年9月12日
概要 生徒が弓矢で慧仁親王を射殺した。
凶器 和弓
対処 懲役30年

慧仁親王暗殺事件とは、2048年9月12日、栂山町立栂山高等学校にて、当時10歳だった慧仁親王が射殺された事件。

概要[編集 | ソースを編集]

訪問の経緯[編集 | ソースを編集]

2048年8月30日、山梨県栂山町は台風22号の直撃を受けた。町内各所で土砂崩れや浸水の被害が発生し、2名の死者も出た。(「令和30年台風22号」も参照)

被災地の慰問として、9月12日、悠仁親王・幸子ご夫妻とその御子息である慧仁親王は栂山町に向かわれた。栂山町は復興が進み、床上浸水の被害を受けた町立栂山高校も、校舎の清掃・修復が完了し、生徒の学業や部活動も再開した。栂山高校弓道部は強豪として知られ、悠仁親王御一行はその慰問と激励に赴く予定であった。

事件発生[編集 | ソースを編集]

同日午後2時01分ごろ、御一行は栂山高校に到着した。校長との会談を経て、午後2時50分ごろに御一行は校長に伴われて弓道場へと向かった。

御一行は渡り廊下を通り、弓道場に入った。慧仁親王は、悠仁親王に手を引かれていた。弓道場ではすでに弓道部が練習を始めていた。当時、練習していた部員は13名いた。悠仁親王らはお出ましになり、しばらくは指導教員や数人の生徒を労われた。その後、殿下の要望により、練習の様子を見学することになった。

指導教諭の指示により、弓道部の部員たちは的前練習を開始した。弓道場に三つある、28メートル先の的を狙う実践的な練習で、部員たちは代わる代わる的を射る練習を開始した。親王御一行は、部員の技量に感心しておられるご様子だった。

ある女子生徒(本記事ではこれ以降、Aと呼称する)も他の部員同様に練習に当たった。弓道場の最も右側の的の列、その3人目の位置にAはいた。このときの様子を、Aの後ろにいた生徒がのちにこう証言している。

Aの様子はちょっとおかしかったです。会もほとんど取らなかったし、放った矢は随分低くて的の手前の地面に刺さりました。やっぱり緊張してるんだろうな、とそのときは思いました。皇族の前で射るなんて一生に一度のことでしょうし、わたしもめっちゃ緊張してましたから。でも、今思えば、全然違う。Aは冷静そのものだった。あれは、予行演習だったんですね。

矢を射ったAは列の最後尾へと戻った。Aは移動の流れのまま、左後ろの親王御一行のいる方を向いていた。そして、弓を気にかける素振りをしながら、背負った矢筒から矢を一本取り出し、番えた。この動作は誰にも気づかれることはなかった。

上向けた弓を絞りながら下ろす段になって、初めて一人のSPが異変に気づいた。SPはすぐに走り出したが、ほとんど間を空けずに射られた矢が慧仁親王の胸を貫いた。午後3時14分のことである。

SPたちは親王御一行に覆い被さると同時に、Aから武器を取り上げ拘束し、私人逮捕した。このとき、Aはほとんど抵抗しなかったという。SP隊は速やかに避難と通報、救命活動をおこなった。何人かの生徒たちはパニックに陥り、失神したり嘔吐したりする者もいた。

事件直後[編集 | ソースを編集]

午後3時19分、救急車が栂山高校に到着し、慧仁親王は流門大学病院に搬送された。

悠仁親王ご夫妻は駆けつけた警察に保護され、流門大学病院へと護送された。同時に、Aの身柄は警察に引き渡された。現場に居合わせた栂山高校の人々は、近くの教室に留め置かれ、事情聴取を受けた。

午後3時58分、悠仁親王ご夫妻は流門大学病院に到着した。慧仁親王は心臓を貫かれて、心肺停止の状態にあった。出血は非常に多量で、すでに10単位以上の輸血がなされていた。悠仁親王は蘇生法の終了を判断し、午後4時11分、慧仁親王の死亡が確認された。

事件後[編集 | ソースを編集]

慧仁親王襲撃の報は、午後3時半ごろにSNSなどで伝えられた。確度の低い情報ながら、それらは大きな反響を呼び、拡散されていった。ただし、「悠仁親王が襲われた」「皇族3人が搬送された」「子供が刺された」など、誤った情報が大半を占めていた。午後4時、宮内庁が緊急記者会見を開き、慧仁親王が襲撃されて重傷を負ったことが発表された。そして午後4時23分、慧仁親王の薨去が正式に発表された。