Sisters:WikiWikiオンラインノベル/蝶を食べる
彼女と目が合った。校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女は、微かに顔を引き攣らせ、僕の口からはみ出した翅を見ている。何か声をかけようかとも思ったけれど、いま口を開くと蝶が飛んでいってしまうから、仕方なく蝶の体を奥歯で丁寧に噛み潰す。細くて小さな命がぷちりと断たれる感触がする。次に翅を右手で口の中に押し込み、咀嚼する。まるで新聞紙を食べているいるようで、口の中が急速に乾いていく。何度も何度も噛んで、小さくしてから少しずつ呑み込んでいく。その間もずっと、彼女も僕の口の中の蝶をじっと見ている。展翅板にピンで留められた昆虫に似たところを僕は感じる。頬の内側に貼りついた翅の切れ端を苦労して舌でこそげ取って呑み下し、口元についた鱗粉を左手で拭い取って、ようやく話せるようになる。少し迷って、安直な問いを口にする。
「こんなところで何してるの?」
彼女ははじめて視線を僕の口元から目に移した。
「今の、何」
「白帯揚羽」
黒の翅に白い帯のような模様が映える、美しい揚羽蝶だ。この校舎裏の藪で見かける蝶の中では最も大きい部類に入る。そんなことは聞いていないと言いたげな目で見られる。
「食べたの?」
彼女は固い声を崩さない。少し上目遣いに、鋭く僕を見ている。非難するような、警戒するような、戸惑うような目。
「うん」
「冗談でしょ」
「いや、本物の蝶。生きてる蝶」
懐疑の視線をいっそう強め、
「なんで?」
そう問われて僕は少し困ってしまう。理由がわからないのではない。だが言葉にするのが難しい。とりわけ、他の人が呑み込めるような言葉にするのが。結局、当たり障りのないことを言ってしまう。
「なんかいいんだよね」
彼女は眉間に皺を寄せ、
「意味わかんない」
と吐き捨てると身を翻してしまう。彼女が校舎の陰へと姿を消すのを見送ると、僕は虫取り網を外からは見えない藪の中へと戻し、鞄を拾い上げて校舎裏から離れる。いつも、蝶を食べた後は理科室外の水道で口をゆすいでから帰る。口内が鱗粉まみれで、このままいられたものではないのだ。
彼女は友達とは言い切れないが、かといって全く親交がなかったわけではない。クラスで顔を合わせるし、グループ活動なんかで一緒になれば話もする。けれど、それだけだ。僕は彼女が吹奏楽部でサックスを吹いていることを知っている。二つ年上の姉と仲が良いことも、喫茶店でブラックコーヒーを頼んで友人を驚かせたことがあるのも、自分の目つきの悪さを気にしていることも知っている。つまるところ、僕は彼女のことを何も知らない。それは向こうも同じのはずだ。だが、今の彼女は、僕が他の誰にも知られていない側面の一つを知っている。
翌日の朝には教室中の人が知っているものかと思っていたが、予想に反して、気味悪げな視線に囲まれることもなく自分の席にたどり着いた。いや、一つ。彼女は教室の反対側から横目で睨んできた。どの面下げて来たんだとでも言いたげで、彼女の目つきはきついなと僕は改めて思う。けれど彼女はすぐに目線を外し、女子たちの会話に戻っていく。僕はやや意外に思いながら鞄を下ろすと、後ろの席の友人と昨夜地上波放送された映画の話を始める。
放課後、空を舞う蝶たちを虫取り網を片手に見ていると、藪をざわめかせる風の音に交じって、草を踏みしめる足音が聞こえた。校舎の角を見ていると、彼女の姿が現れた。出し抜けに目が合って彼女はぱっと視線を逸らしたが、やがて意を決してこちらにずかずかと歩いてくる。非難するような、必要以上に攻撃的な目でしっかと僕の目を睨んでいる。その勢いに僕はいささか面食らう。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。僕の横に仁王立ちした彼女に、とりあえず昨日と同じ質問をする。
「こんなところで何してるの?」
「あんたこそ」
『あんた』と呼ばれるのは初めてだ。格下げ、いやお近づきの印かもしれない。
「僕は虫取り」
「……取って食うの?」
ぞんざいな口調の中に、ほのかな怖れが感じられて僕は軽く驚く。怖がせるのは本意ではない。
「かもね」
彼女は押し黙る。僕は三度目の問いを発する。
「何しに来たの?」
「誰かさんが今日もいたらどうしようかと思って、見に来たの」
いて悪うござんしたね。
「じゃあ昨日は?」
彼女は一瞬言葉に詰まった。
「たまたま。昨日は部活がなかったから、一人で帰ったんだけど、バスの時間までに結構あったし……。そういえばこっちの校舎の裏って見たことないなあって思って……ほんとよ?」
歯切れの悪さに僕は不審に思う。
「怪しい。人のいないところで何かしたかったんじゃないの?」
「違うってば!」
彼女は噛みつくと、目を逸らしてばつが悪そうに言う。
「だって、見たことないところに行ってみようだなんて、子供みたいじゃない……」
しょげた彼女に僕は意外の念に打たれたが、それ以上にその姿が一番子供っぽくて、思わず笑ってしまう。
「何よ」
むくれた顔で睨んでくる。それもおかしくて笑ってしまい、彼女はさらにむくれる。
「謝んなさいよ」
なんで?
ひとしきり笑ったら、校舎裏の様子を知りに来た彼女に教えてあげる。
「ここは雑草が生え放題で高い藪になってるよ。校舎と裏山の法面に挟まれた狭いスペースだけど、日当たりはいいみたいだね」
「見ればわかるわ」
悪うござんした。
今まで通りの『知り合い同士』の雰囲気が流れ始めていた。けれど、彼女はふっと真面目な顔つきになり、藪を見やる。
「ねえ、あんた、昨日……蝶を、その、食べてたじゃない」
僕は手に持っていた虫取り網を離す。彼女は意を決したようにこっちを向く。
「なんでそんなこと――」
僕は彼女の顔の横に素早く両手を伸ばし、思い切り手の平を打ち合わせた。風船が割れたような音が鳴る。
手を開くと手の平には潰れた蚊がついている。
「ここ蚊が多いんだよね」
それを払い落としてから、ようやく彼女が身を縮めていることに気づく。その表情にはっきりとした怯えを感じて、僕は慌てた。
「ごめん、驚かせるつもりはなくて、その」
とりあえず両手を伸ばしたが置くところもなくて、彼女の肩の上の中空でおたおたと動かしてしまう。彼女は首を振って顔を上げた。
「そうだ」
僕は逃げるように鞄の中をまさぐる。
「これ、虫除け。使って」
差し出されたスプレー缶を、彼女は少ししてから受け取って、細い腕に吹きかけ始めた。
所在なくなった僕は、とりあえず藪の上の蝶を眺めてみたり、虫取り網を拾って玩んだりする。けれど沈黙に耐えられなくなって、彼女の質問の答えを探す。
「蝶を食べる理由だけど――」
彼女に向き直ったら、虫除けスプレーをスカートの中の脚にかけているところだったので、慌てて姿勢を戻す。
「それで?」
「うん、えっと……蝶って暴れないんだよね」
「え」
「本当は暴れてるんだろうけど、僕の方がずっと力が強いから、実質的に抵抗しないと言えるというか。それに、鳴いたりもしない」
そこで彼女を見ると、嫌悪感も露にこちらを見ている。そっちが聞いてきたくせに。
「まあ、そういうところが、なんというか、好きなの」
「どういうことよ」
思い切り眉をひそめている。どう見ても納得していない。
「抵抗しないからいいだなんて、そんなわけないじゃない。そんなの、そもそも暴力を振るうことが前提になってるでしょ。その理由を聞かせなさいって言ってるの」
目つきも言葉も苛烈だ。そしてぐうの音も出ない。
「虫を殺すのが楽しいんでしょ」
「違うよ。楽しんでるんじゃない。それに、蝶以外は食べてない」
「じゃあどうして」
僕は考え込んでしまう。自分の中で働いているこのメカニズムは、しかし言葉にしようとすると見たこともない何かに変質してしまう。頭の中の言葉が入ったおもちゃ箱をひっくり返して、手の中にあるこれと似たものを目を凝らして探す。
「儀式というか……験担ぎ?」
「真面目に答えて」
「大真面目だよ。ほんとだって」
ますます怪訝な顔つきの彼女を押しとどめて、言葉を探す。
「ここに入学するときの試験で、シャーペンじゃなくて鉛筆を使ったの。塾の先生から貰った、普通のHBの鉛筆。それを使って合格したから、その後の定期テストでも験を担いで鉛筆で解いてるんだ。芯が折れたら困るから、予備を何本も用意して」
彼女の目尻がどんどん吊り上がっていくから、早口で結論を急ぐ。
「けど、普段は使わないものだから、あるテストのとき筆箱に鉛筆を入れてくるのを忘れちゃったんだよ。仕方ないしシャーペンで解けばいいんだけど、なまじ今までずっと続けてた習慣だから、今更やめたら何か悪いことがありそうな気がしてしょうがない。どうしようもないから、朝のショートホームルームが始まる前にコンビニまで走って鉛筆を買ったの。それを机に置いたときの安心感は今でも覚えてる」
一度大きく息をつく。
「蝶を食べるのはこのときに似てる。『やるべきだ』と透明な力が僕を動かしている感じがする。何かいいことがあるでもないとわかってはいるんだけど、だからといってやめる気にはならないというか」
彼女は口元に手をやって、わずかに僕を見上げる。
「それって、絶対早く寝た方がいいのにショート動画を見る手が止まらない、みたいな?」
僕は首を傾げる。
「あんまりピンとこない」
「なんでわかんないのよ」
「寝る前は携帯見ないようにしてるから」
どうしてそんな目で見てくるの。
僕は咳払いをして藪に一歩近づく。今日は大きな蝶はあまり飛んでいない。
「とにかく、そういうわけ」
低いところを飛んでいた紋白蝶をめがけ、網を振る。蝶は不規則な動きでひらりと避けるが、二度三度と網を切り返すと、プラスチックの輪に捉えられた。くるりと網を返して逃げられないようにしたら、網を手繰り寄せ、動けなくなった蝶の羽をそっと摘む。翅の小さな黒の斑点が指に隠れて見えなくなる。
「ねえ」
彼女は僕の指の間の、親指の爪ほどに小さな蝶を見ている。
「食べるの?」
「うん」
「どうして?」
「さっき言ったじゃん」
「あんなの納得できないわよ。……ねえ、もしかしたら、あんたも本当の理由に気づいてないんじゃない?」
その言葉に僕は虚をつかれる。彼女は探るような目で僕の瞳を覗き通している。たとえそうだとしても、と僕は気を取り直す。
「そうだとしても、僕が蝶を食べることは変わらない」
そして僕は蝶を口に運ぶ。
「あっ」
彼女が声を上げるのと同時に、僕は蝶の体を前歯で噛み潰す。小さな蝶だから、口の中で飛び回られても困る。そうしたら、小さな翅の全てを口に含み、奥歯で丁寧に噛み締める。昨日の揚羽蝶と違い、数回顎を動かしたら口腔内で小さな塊になる。喉仏を上下させてこれを一息に呑み下したら、唇についた白い鱗粉を親指で拭った。
昨日と同じように、彼女は僕の口元をじっと見つめていた。けれど、その目には昨日と違うものが映っているような気がした。衝撃と厭悪の中に、ほんの少し別の何かが交じっているような……これは、感嘆?
まじまじと見ていると、ぱっと目が合い、顔を背けられた。左手はセーラー服の裾を固く握っている。
気にかかったけど、でも今日の用事は済ませた。
「じゃ、僕は帰るよ」
虫取り網を片付けて鞄を持つと、僕は彼女を置いて校舎裏を離れた。彼女は何も言わなかった。
僕はそのまま学校から出ることにした。口をゆすいでいるときに彼女に追いつかれたら、もう一回別れの挨拶をしないといけなくなる。食べたのが小さな蝶でよかった。
「半日ぶりね」
振り返ると彼女がいた。この校舎裏で蝶を食べる習慣ができて一ヶ月ほど経つが、朝にここへ来るのは初めてだった。放課後よりも透明な光に溢れていて、彼女の姿も昨日よりずっとはっきり見えるようだった。額には汗粒が浮かんでいた。
「これ、取りに来たんでしょ」
彼女は鞄のジッパーを開けると、虫除けスプレーを取り出した。昨日の僕の忘れ物だ。
「うん。ここに置いてあるかもと思って。でも持ち帰ってくれてたんだね。ありがとう」
差し出した右手にいきなり冷たいスプレーを掛けられて、僕は思わず声を上げて手を引っ込めた。
「ふふっ。サプライズ」
笑みを浮かべた彼女が自身の腕にスプレーし始めるのを見て、僕はようやく悪戯に引っかかったことに気づく。
朝の光に元気を増した藪を見ながら、手持ち無沙汰なので彼女に話しかける。
「どうして僕がここにいるのがわかったの?」
「校門をくぐった辺りで前を歩くあんたを見つけたの。正面玄関の前でいきなり人の流れから外れてどこかに向かうんだもん。校舎裏に行くんだなってすぐわかったわよ。だからついてきたの」
「いつも登校してくるの早いのに、今日は随分遅かったんだね」
「今朝は普段より一本遅いバスに乗ったの。そしたら道は混んでるし信号はことごとく赤になるし、挙げ句の果てにはおばさんが降りるときに長々と両替し始めるの。あんなにあった信号待ちの間にやっておきなさいよって話」
彼女はご立腹のようだ。
「あんたはいつも通り遅刻ギリギリね」
そうだ、そろそろ朝のショートホームルームが始まってしまう。
「もう遅いわよ」
呆れた声とともに時鐘が鳴った。いつも聞いているより音が遠い。
「どうせ遅刻なんだから、ゆっくりしていきましょうよ。ほら、手を出して。そうじゃなくて、両腕をまっすぐ伸ばしなさい。スプレーしてあげる」
虫除けを返してくれるのだと思ったら違った。伸ばした僕の腕に彼女はスプレーを満遍なく吹きつける。自分の腕の産毛がにわかに気になりだして、いたたまれない。
「長ズボンだし足はいいわね。じゃ、首にかけるわよ」
つかつかと歩み寄った彼女は僕の首にスプレーを向け、否応なく僕は顎を上に向ける。単調な噴射音とともにスプレーが首にあたり、その冷たさに僕は体をこわばらせる。首元への噴霧を終えると、彼女は訝しげな顔をした。
「何よその顔」
「いや、どういう風の吹き回しかなあと思って」
出し抜けにスプレーが顔に向けられ、
「シュッ」
目をつぶった顔にスプレーは飛んでこなかった。
「サプライズ。あんた案外ちょろいのね」
そう言って彼女はスプレー缶を投げてよこした。いやはや、なんとも敵わない。
「ねえ、僕が言うのもなんだけど、戻らなくていいの?」
「今更急いでもね。それに、遅刻してきたやつがまだその辺を歩いてるかもしれないでしょ。わたしとあんたが仲良く校舎裏から出てくるのを目撃されたりしたら、どんな噂流されるかわからないわ」
「ふうん。じゃあショートホームルームが終わるまで待つの?」
「甘いわね。一時間目の前の休み時間になると、また人目が多くなるわ。みんなが確実に教室にいる隙に、ここを出るべき。狙うは一時間目の真っ只中よ」
この人、地理の授業をサボるつもりだ。
まあ、僕もやぶさかでないけど。校舎の壁に背を預け、地べたに座る。視点が低くなったから、藪の草丈がより高く見える。彼女もハンカチを敷いて、横に腰を下ろした。
しばし、並んで蝶を眺める。朝の光を浴びて自在に舞い踊る蝶は、いつも以上に可憐で愛おしく思える。
「そういえば、僕が蝶を食べること、誰かに話さなかったの?」
彼女は前に目を向けたまま頷いた。
「次の日にはクラスどころか、学校の全員が知っていて、『怪奇! 蝶食い男』ってネットニュースになってると思ってたのに」
「わたしを誰だと思ってんのよ」
「学校のネットワークを牛耳ってる裏番長」
「面白くない冗談言わないの」
面白くなかったですか……。
彼女はため息をついて恨みがましく言った。
「わたしの気も知らないで……。突然友達が蝶々を食べているところを見せられてみなさいよ。この二日間、私が怪奇蝶男のためにどれだけ気を揉んだことか」
「その呼び名じゃあ、僕に蝶の翅が生えてるみたいだよ」
「黙ってて」
ごめんなさい。
「先生とかに相談するべきなのか、本人と話すべきなのか。他の人に言っていいのか、私の心の内に留めておくべきなのか。そもそもやめさせるべきことなのか……」
「やめさせないっていう選択肢もあったの?」
「あんたのやってることはおかしいわ。どう考えたってそう。でも、おかしいことがやめないといけないこととは限らないじゃない。他者危害の原則なんて考えもあるけど、じゃあその他者の中に蝶は入っているのか。あんたのプライバシーもあるけど、それより社会の利益が勝るのか……。そんなことが頭の中を、ぐるぐるぐるぐる回り続けて、苦しかった、まったく」
「ごめんなさい……」
彼女の真面目さが垣間見え、僕はひたすら申し訳なく思う。
「じゃあ、どうして黙っててくれたの?」
「それは……」
彼女は一瞬口ごもって、それから吐き捨てる。
「わたしが優しいからよ」
僕は口を開きかけて、やっぱり閉じる。藪を渡る透き通った風を見る。遠くでチャイムが鳴る。僕らは並んで座っている。
しばらくの沈黙のあと、僕は腰を上げて、藪の中の虫取り網を取りに行く。せっかくだし、今日の分は朝に済ませてしまおう。
「蝶を食べる理由、聞かせなさいよ。わたしは全然納得してないわ」
網の柄についた草を払い落とし、蝶にあたりをつける。一月前に比べてずいぶん蝶の姿も減った。もう蝶がいなくなる季節が近いのかもしれない。そのときになったら、僕はどうするのだろうか。
「やめられないの?」
「うーん、一度やめようとした。けど、そしたら蝶を食べてない自分がどうにも気になって、ざわざわするんだ」
低いところを紋黄蝶が飛んでいる。僕はそいつに狙いを絞る。
「それって、絶対ほっといたほうがいいのに、指のささくれが気になって引っこ抜いちゃうみたいな?」
「そうそう! 布団に入ってから一旦トイレに行きたいような気がしたら、気になって結局トイレに行くまで寝られないみたいな」
「ああ……」
あれ、あんまり喩えが上手くなかったかな。
手首のスナップを利かせて網を振るうと、蝶はあっさりと囚われた。虫取りの腕も上がったようだ。
「蝶を食べるのは楽しいの?」
網に手を入れながら、僕は首を傾げる。楽しいのとは違う気がする。逃げようと羽ばたく翅を、親指と人差し指でそっと閉じる。
「じゃあ、嬉しいの?」
それも違う。なんかいいとしか僕には言いようがない。右手を網から引き出し、蝶を口元に持っていく。
「それとも……」
一時間目の始まりの鐘が鳴る。開けた口を閉じようとしたそのとき、彼女が言った。
「おいしいの?」
僕はその声音に驚き、彼女の顔を見てさらに驚いた。
その目は、それは……。
本来は授業中の時間に、ここで二人話している。この状況がもたらすどこか背徳的な高揚感が、僕にこんなことを言わせたのかもしれない。
「食べてみる?」
彼女は硬直した。その視線は吸い寄せられたように、僕の手の中の蝶に釘づけになっていて、僕が歩み寄っても彼女は首を振らず、ただ蝶に見入るだけだった。
僕は彼女の正面に膝をついた。そこで初めて彼女は僕の方を向いた。その揺れる瞳を覗き込んで、僕は「冗談だよ」と言う機を逸して、代わりに「口開けて」と言って、そうしたら彼女が控えめに唇を開いたから、僕は今更ながらに後戻りのできないことを悟った。
僕は左手を彼女の頭の後ろに添えて、右手の蝶を彼女の口に挿し込んだ。彼女の頭が微かに震えた。
「噛んで」
目を細めて曲線的な顎を上向かせ、その顎がゆっくりと閉じ、蝶が彼女の生贄となる音が聞こえた。彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「もう一度噛んで。そう。翅全部を口に入れて。そうしたら、奥歯でよく噛んで。翅の形がなくなるまで」
彼女は僕の言葉に従順で、そのさまに、危うく声が震えそうだった。僕は自分の不見識を、蝶を食べる本当の理由を、そして彼女の言葉の意味を、まざまざと感じ取ってしまった。
よくよく蝶を噛む小さな顎の動きは愛しくて、黄色の鱗粉がついたつややかな唇は蠱惑的で、虚ろに細めた焦点の合っていない目は煽情的で、彼女が蝶を食べる姿は可憐で、艶めかしくて、どこまでも美しかった。
知らなかった。僕はきっとこの姿を見たかったのだ。そして彼女の目にはこれに類するものがきっと映っていて、だから彼女は首を振らなかったのだ。
彼女は白く滑らかな喉をそっと上下させて、蝶を嚥下し、小さく震えた息をついた。唇には蝶の鱗粉がついていた。その姿は、まさに蝶のようで。
僕は彼女の唇に自分の唇を押しつけた。彼女は小さく声を洩らした。僕の柔らかいところに、さらに柔らかい彼女の唇があたっていて、ついていた鱗粉を舌で舐め取る。彼女の肩が跳ねる。口が開く。彼女の首は仰け反り、上を向く。左手で彼女の頭を押さえる。舌は彼女の口内に入り、前歯についた触角を、奥歯に詰まった翅の欠片を、頬と舌についた鱗粉を、拭い取る。唇を離すと、唾液の糸が引いて、やがて切れて、彼女の唇の端から垂れた。僕は彼女の口の中にあった蝶を飲み下した。彼女の髪は乱れて、肩は細かく震えて、体からは力が抜けていて、目はぼうっと僕を見ていて、僕はどきりとした。
彼女は我に返ったように口元を拭いて、僕は慌てて左手を離した。目の前で向かい合って地べたにへたり込んで、僕らは互いに顔を赤くしあって、目を逸らしあっていた。どこかで鳥が鳴くのが聞こえた。
「あっ、あの……ごめん……」
彼女は例の上目遣いで射るように僕を見た。
「謝んないでよ……」
そう言って彼女はまた俯き、その掠れた声に僕はまた耳まで赤くなってしまう。
どうしてこんなことになってしまったのか、今からどうしたらいいのか、僕は何もわからなくて途方に暮れるけれど、一つだけ確かなことは、彼女のそのきつい目つきは、それはそれでいいなと、僕はそう思う。