Sisters:WikiWikiオンラインノベル/縮小現実
残り五分。マークシートは半分近くしか塗り潰されていないけど、私は頬杖をついて自分の爪を眺めているだけだ。教室のあちこちから聞こえるページをめくる音や鉛筆で何か書き殴る音が、鬱陶しい虫の鳴き声みたいにどんどん大きくなっていく。きっと今、鉛筆も持たずにただぼーっとチャイムが鳴るのを待っているのは私だけなんだろうと思うと、情けなくなる。でも、問題冊子を読み進めたところでそこにあるのは何をどう考えたら正解が出てくるのかなんて一切分からない問題ばかりで、まともに取り組んで自分が馬鹿だという事を自分の頭に直接突き付けられ続けるよりは、ただぼーっとしているだけの方が絶対にいい。早く終われ、早く終われと思いながら何度も教室の時計を見る。
正午、短針と長針と秒針が重なって数秒してから、スピーカーのノイズが少し流れて、それからようやくチャイムが鳴った。鉛筆を机に転がす音が重なって聞こえてきて、長かったこの一時間の終わりを実感する。
「はい、ストップ。じゃあ今の問題は明日解説するので忘れずに持ってくるように。ちょっと先生気になったんだけど、もう一次試験本番まであと一週間も無いので、過去問だからって手を抜かないで、時間ぎりぎりまで諦めずに緊張感をもって臨むようにしてください。いいですか? 少子化でライバルが減っているからこそ、学歴競争はかつてなく激しくなってますからねえ」
立ち上がった教壇の理科教師がこっちを向いていたような気がして、俯いて目を逸らす。
「ああ、あと、最近はこの時期になると毎年ウェアラブル端末でカンニングする生徒が出るけど、それはまず自分自身のためにならないからやめてください。着けてないと支障のある人も多いし授業でも使うから学校では一々回収とかしないけど、試験会場では空港みたいに検査されてスマートフォン……じゃない。スマートグラスだ。あれは持ち込めませんよ。スマートフォンは皆流石に知ってるよね? スマホ。聞いた事はある? ああよかった。知らなかったらどうしようかと思った」
喋るのに満足した教師が出て行くと、教室はわっと賑やかになって、生徒たちは問題が解けたとか解けなかったとかどう解いたとかの話を言い合いながら席を立ち、昼食の準備をし始める。下を向いたまま消しカスを机から払い落とし、問題用紙とマークシートを机の中にねじ込んで、机の横に掛けてあったランチバッグからカットフルーツの容器と今朝作ったおにぎり二つを取り出そうとした時、ブレザーの裾が後ろから強く引っ張られた。一瞬の浮遊感の後、斜めになった私は椅子ごと転んで体の側面を硬い床に打ちつけた。思考と呼吸が中断されて、打った部分の骨に鈍い痛みが走り、小さく呻き声が漏れる。椅子の倒れる大きな音に反応して教室中の視線が私の方に集まったけど、皆何事もなかったみたいに、すぐに友達との雑談や勉強に戻った。
「間抜けだね。邪魔なんだけど」
私に対する悪意を隠そうともしない言葉が聞こえて、半身をかばいながら横座りになって向き直ると、後ろにいたのはやっぱり同級生の白洲のあだった。取り落としたおにぎりが一つ床に転がっているのを見つけると、白洲はそれを上履きで躊躇なく、ラップが破れない程度の力で踏みつけ、まるでサッカーボールでも扱うように前後にゆっくり転がした。ラップの中でおにぎりの形が平らに歪む。
「邪魔って……あんたが引っ張って――」
「このおにぎり手作り? なんか下手じゃない? 絶対美味しくないでしょ。でも落ちちゃったからもう食べなくていいね。私が代わりに捨ててきてあげる」
白洲はそう言っておにぎりを汚いもののようにつまんで拾い上げ、教室の隅に向かった。教室の右前にある扉と黒板の間には、白洲が私から取り上げて床に「捨てた」ご飯や文房具がぐちゃぐちゃの状態でまとめて放置されている。白洲はその小さい山の少し上におにぎりを持っていき、そのまま手を放してぼとりと落とした後、教室を出ていった。皆あの生ごみの塊に眉一つ動かさないくせに、通る時はいつもそこを綺麗に避けて歩く。他クラスの生徒はもちろん、授業をしに来る先生まで。
できるだけ目立たないように椅子を元に戻して、座り直した。どうせ誰も私を気にしてはいないけど。もう一つのおにぎりを食べようとしたけど、気持ち悪くなってしまって、結局カットフルーツだけしか食べられなかった。ご飯を食べた後、机に突っ伏している時間が一番楽だった。楽なのに、四十五分間の休み時間が終わるまで、途方も無い時間が流れているように感じられた。
| * * * |
チャイムが鳴って、掃除時間が終わる。長かった学校での一日がようやく終わる。
「そういえばこの個室、掃除中最近毎日誰か使ってない?」
「ちょっと、声大きいって」
トイレ掃除の生徒たちが片付けを終えて出ていった後しばらくしてから、私は誰にも見られないよう急いで個室を出て、早足で廊下を渡った。ホームルーム教室は廊下の突き当りにあるから、白洲はよくこの廊下で私を待ち伏せする。昼休みや放課後に、私が教室から逃げられないようにするためだ。放課後は絶対に白洲と鉢合わせたくないから、白洲が掃除から戻ってくるまでにさっさとここを通って学校から出ないといけない。建て付けの悪いドアを引いて教室に入り、教室の後ろの方をそれだけで占領しているマス目みたいな横長の棚の一番左端から自分の鞄をひったくるように取って、そのまま文房具も教科書も入れずに教室を出て行こうとした時、ドアの前には白洲が立っていた。心臓が跳ねて、身動きが取れなくなる。白洲に視線を向けたまま固まる。
「何? その目つき。なんか私に文句?」
身長の高い白洲は近づいてくるだけで威圧感があって、私は鞄を取り落として教室の奥、左後ろの角に後ずさる。
「や、やめて――」
私の言葉を遮るように、白洲は突然スカートの中から足を伸ばし、私の右の脛をまるでハンマーで釘を打つみたいに真っ直ぐ蹴った。前傾姿勢で硬直し、じわじわと痺れるような痛みでへたり込みそうになる私の襟元にすかさず白洲の長い腕が伸びてきて、制服のリボンを乱暴に掴む。白洲は向き直って、私を引っ張って壁に押し付ける。どん、という音に反応して、教室で雑談をしていた数人がびっくりしたように一瞬だけ私の方を見るけど、すぐに会話に戻る。残っている生徒のほとんどはイヤホンやヘッドホンを付けて自習をしていて、教室の後ろには見向きもしない。白洲はそのまま私を突き飛ばす。背中で何かにぶつかって、大きな音が鳴った。衝撃で肺から息が漏れる。一人の生徒がイヤホンを外してこっちに歩いてきたと思ったら、棚からテキストを取って席に戻っていった。
かちり、という音が頭の中に響いて、私の体はしりもちをついた体勢のまま、いつものように硬直して動かなくなる。白洲を前に、逃げられない私は、ただ耳を塞いで俯くしかない。
「ねえなんでお前みたいなクズが生きてんの? 生きてて楽しい?」
白洲はできる限りの悪意を込めたような話し方で、私を非難するように罵倒する。耳を塞いでも、白洲のくぐもった声を頭がちゃんと認識してしまうから、私も白洲の言葉に被せるように声を出し続ける。
「しかもお前頭悪いんでしょ。大人しく公立行けばよかったのに。なんでこの学校にいるの?」
「うるさいうるさいうるさいうるさい……」
「マジで、死んだ方がいいと思うよ。だって生きてる価値が無いじゃん。ねえ聞いてる?」
「……るさいうるさいうるさいうるさいうるさい……」
「逃げんなよ。聞けよ。現実見ろよ! なんでお前なんかがのうのうと学校来てんだよ!」
「……さいうるさいうるさいうるさいうるさい……」
「最悪。本当意味分かんない。早く死ねよ。誰も悲しまないから。早く死ねってば!」
「……いうるさいうるさいうるさいうるさい……」
| * * * |
どれくらいの時間が経ったのか分からない。ふと気付いたら、白洲は既にどこかへ行ってしまったようだった。耳を塞ぐ手を下ろし、ぶつぶつ呟くのをやめるけど、私の体は硬直したままで、立ち上がる事ができない。そのまま教室で自習を続けている生徒たちの足元をぼーっと眺めていると、私の方に近づいてくる足音がして、ゆっくり視線を上げていく。私の頭の中に、かちり、という音がまた鳴った。私を呆れたような顔で見つめていたのは、隣のクラスの木下凱也だった。
「またいじめられてる」
何故か木下が来るといつも、魔法が解けたように体が動くようになる。足を伸ばせるようになって、私はようやく立ち上がる事ができた。膝はまだ少し震えているけど。
「先生に言ったら? 白洲にいじめられてますって。証拠の映像とかも撮って」
「絶対聞いてくれない。私がこのクラスでどんな風に扱われてるか、分かるでしょ」
木下は自分の眼鏡を指差し、周りを気にするように声のトーンを落として続ける。
「ああ、スマートグラスね。『消しゴムフィルター』。でもあれ、流石に先生が生徒に対して使う事は無いんじゃない? バレたら多分、ちゃんと懲戒処分とかになるでしょ」
「私自体を消してないとしても、白洲のやってる事は黙認してる。あんな生ごみが堂々と放置されてるのに、何も言わないのはそういう事じゃないの」
教室の反対側の隅、黒板と扉の間を示す指が少し震える。木下はそれを見て困ったように眉を顰め、それから納得したように頷いた。
「あー……なるほど。そっか。ご飯とか捨てられてるのか」
木下が先生に言ってくれればいいのに、とは言えなかった。
私がクラスの皆に消されてるのは、皆で私をいじめるためじゃなくて、むしろ白洲の私へのいじめを無視するためだ。不快ないじめの現場が目の前にあったらストレスになって勉強に集中できない。けれど、人生が掛かった一次試験が直前に迫っている今、私がいじめられている事が問題になったら、生徒への聞き取りとか全体集会とかに発展して貴重な時間が奪われてしまうかもしれない。だから、皆は自分の視界からいじめを消す事にした。スマートグラスで個人設定できるフィルター機能を使えば、見て見ぬふりどころか嘘偽り無く「見ない」事ができる。「消しゴムフィルター」で視界から私を切り取って、AIがリアルタイムで合成した背景で補完してしまえば、この教室にいじめは無くなる。それでも音が気になるなら、イヤホンやヘッドホンで耳を塞げばいい。
学習環境のために、合格実績のために、暗黙の合意の下で私は消されているらしい。木下は私を気に掛けてくれているようだけど、こんな中で自分から声を上げて、白洲はもちろん受験生皆に嫌われる勇気は無いと話していた。そもそも木下自身も有名な難関大学を目指して勉強しているのだから、こんな厄介事に関わりたくないのは当然の事だ。
「スマートグラスなんて無くなればいいのに」
私は小さく呟いた。スマートグラスさえ無ければ、いじめを直視したくないという皆の思いは、いじめを止めるという方向に向かったかもしれないのに。
「……吉田の眼鏡は視力矯正専用のやつなの?」
「一応スマートグラスだしアプリは普通に使ってるけど、フィルター機能は視力以外全然いじってない」
「そっか」
木下は棚にもたれかかって、窓の外を見ながら続ける。夕焼けの光が木下の学ランにくっきりと線を描いている。
「まあ、今更皆がスマートグラスを手放す事は無いだろうね。単純に検索とかSNSとか翻訳とかその場ですぐできて便利だし、大画面で動画見たりもできて楽しいし。フィルター機能で言っても、視力の問題以外にも色の見え方とか光の感じ方の問題まで個人で調節できるし、ディスレクシアなんていうやつも大体はこれで抑えられるらしいから、社会的にも利益がある。緊急速報もすぐ見れる」
「……それはそうかもしれないけど、そういう見え方の補助以外のフィルター機能は絶対おかしいでしょ。『消しゴムフィルター』もそうだけど、そんなの現実から目を逸らして都合のいい世界を見てるだけだから」
吐き捨てるような言い方になる。私は少し怯えたような、伺うような目つきで木下の方を見て、同時に視野の端で黙々とペンを動かしているクラスメイトをちらりと確認する。木下は床を向いてちょっとの間黙ってから、また話し始めた。
「別に、現実であっても全部を受け入れる必要は無いんじゃない。何でも正しく完璧にこなしたいって言うなら、目の前にある情報をしっかり把握して判断するに越した事は無いだろうけど、それは結局人それぞれの気持ちと天秤に掛けられるものでしかないと思う。例えば人前でプレゼンをする時、究極的には聴いている人の反応を見ながらやるのが正しいとしても、どうしても緊張してしまう人は『じゃがいもフィルター』を使って聴いている人たちを動かないじゃがいもに変えてしまう。現実と向き合ってより良いプレゼンをしようと頑張るよりも、大げさな言い方をすれば自分の心の安全を守る方が大事だから。他にも、交通事故でPTSDを発症した人の多くは、『消しゴムフィルター』で自動車を消すらしい。道を歩いてて自動車が見えないなんてどう考えても危険だし、実際その結果事故に巻き込まれる人も多いけど、そのリスクを取ってでもトラウマを刺激されないようにしたいから。フィルターで視界に映る自分や友達の顔を常時加工してるその辺の女子だって、肌荒れに気付きづらいというリスクを冒してでも顔を『盛って』楽しんでいると言えるかもしれない」
「私は」
悔しくなって声が震える。私を慰めてほしいわけじゃないけど、スマートグラスを肯定されたくない。私を無視する皆を、肯定してほしくない。
「納得できない。クラスの皆が自分の気持ちを優先した結果がこれなわけで、私はそれに納得できないの」
頷いて、木下は一言ずつ確かめるように続ける。
「もちろんそれが仕方無い事だって言うつもりは無いよ。クラスメイトのいじめを無視するなんて事は、ただ『見たくない』っていう気持ちの問題だけで正当化していい事じゃない。俺が言いたいのは、吉田の件でこういう状況になったのはスマートグラスのせいじゃなくて、それを扱う人間のせいだっていう事。……俺は時々、俺たちの現実を直視する能力はもうとっくに衰えきってるんじゃないかって思う。科学技術や社会の進歩を通して、人類にとって共通して嫌なものが生活から消えていった後、インターネットの発展と一緒に、次は個人にとって嫌なものがその人の暮らしから消えていく時代が来た。目の前の画面に出てきたコンテンツに対して、それが自分にとって良いものだったかどうかを評価して、より良い環境のために能動的にフィードバックする事もあれば、閲覧履歴や年齢、性別のような個人情報を元に、ソーシャルメディアのシステムによって自分が好きなものだけが表示される環境が自動的に作られる事もあった。人類はその一世紀で、自分にとって都合の悪い何かを直視する力を擦り減らしていったんじゃないかと思う。そんな中で現れたスマートグラスは、まさに時代が求めているものだったんじゃないかな。嫌なものを見たくないとか、嫌なものは見ないで当然だという気持ちが昔の人たちよりはるかに大きく膨らんだ結果、天秤のもう一方にある現実を正しく見ようという思いが薄れてしまったからこそ、スマートグラスはこんなに広まったんだろうし、逆に言えば俺たちがこんな風である限り、スマートグラスは形を変えて存在し続けるんじゃないかと思う」
被害妄想みたいな反応をあっさりいなされて恥ずかしくなるのと同時に、急に話の規模が大きくなって私は面食らった。
「でも、今でも誰だって日常の中で嫌な思いをする事は全然あるし、嫌なものから目を背けてたら自分のためにならない事なんて当たり前に皆分かってるでしょ。風邪を引いたり、模試で悪い判定を取ったりみたいな悪い事が起こっても、それを全部見ない事にしてやり過ごそうだなんて思う人は……本当にごく、一部の人だけだと思う。確かに昔の人に比べたら私たちはいい思いばっかりする事に慣れているのかもしれないけど、皆が皆そこまで極端な、まるで現実逃避みたいな考え方をしているとは私は思えないけど……」
木下は淡々と話を続ける。
「自分が何を直視していないのか、なんて決して分からないんだよ。確かに、無視したら自分に悪い結果が帰って来るような重大な事には、流石にちゃんと皆向き合う。スマートグラスで見えないようにしただけでは逃げ切れないからね。その代わり俺たちは、取るに足らないような不快なものを軽率に視界からつまみ出してしまう。日常生活で目に入ってくる嫌なものを消したり、別の何かに変えるフィルターをオンにした時、当然視界にはその嫌なものが映らなくなるけど、そうなるとその嫌なものを意識する機会はめっきり無くなってしまって、数日も経つ頃にはその嫌なものの存在も、それを自分が嫌いだった事すら忘れてしまう。気持ち悪い広告も、好きになれない有名人も、非常識な集団客も映らない快適な視界は、模様替えした部屋とか口内炎の無くなった口と同じくらいすぐに自分に馴染んで、ずっと前からそうだったように、自然に感じられるようになる。『じゃがいもフィルター』みたいに使う場面が限定されているものもあるけど、大体のフィルターは常時オンにしておくものだから、個人設定フィルターは重ね掛けされ続けて、自分にとって理想的な世界がどんどん作られていく。だけどそこには達成感も充実感も無くて、いつも通りの嫌な事も沢山ある現実という認識が変わる事は無い。嫌なものなんて世界には無限にあるからね。そのせいで俺たちは、嫌なものから目を背ける生活にもう既に取り返しがつかないくらい慣れてしまっている事にも、安易にスマートグラスを使う事で現在進行形で更にそういう生活に慣れ続けている事にも気付かない」
三階の教室の窓際に、沈む夕日が斜め下から突きあがってくる。木下は息を吸って、続ける。
「そういう意味では、スマートグラスの恐ろしさは視界を変えるところよりも、人の考え方を自分でも気付かない内に変えてしまうところにあるのかもしれない。自分の気持ちに配慮すればするほど、客観的な正しさは頭の中からどんどん失われていって、仮にスマートグラスを無理やり外すことができたとしても、それは元には戻らなくなる。でも、それでも俺は、スマートグラスは諸悪の根源なんかじゃなくて、便利な道具に過ぎないと思う。スマートグラスが悪い使われ方をするのは、結局人間の考え方の問題のせいであって、スマートグラス自体が悪いわけじゃない。嫌なものを直視する能力を気付かない内にさらに奪ってしまうのも、その人にとって理想的な現実を作る上で避けられない副作用のようなものでしかない。そもそも人に迷惑を掛けない限り、自分の気持ちを優先した方がいい状況だって当然あるし、そんな時にスマートグラスを使う事は誰にも否定できない。だから、吉田はこんな目に遭ってる分スマートグラスが嫌いなんだろうけど、俺は逆に吉田こそスマートグラスを使った方がいいと思うよ。クラスの人たちに無視されるのが辛いなら、逆にクラスの人たちをこっちが消しちゃえばいい。吉田を無視してるクラスの人たちは、どうせ自分が今吉田を無視してる事なんて覚えてないよ。物音がしたら反射的に一瞬吉田の方を向くかもしれないけど、学校なんてがちゃがちゃうるさいところなんだからほとんどの人は気にも留めずに流して、自分が吉田を消している事を思い出しもしないだろうね。皆はそのくらい軽薄なやり方で吉田を無視してるのに、吉田がその事に真っ向から向き合ってわざわざ悲しむ理由なんて、俺は無いと思う」
木下が何故スマートグラスの肩を持っているのか最初よく分からなかったけど、どうやら木下は私にスマートグラスを受け入れて貰おうとしていたらしい。ちょっと間を置いて、私は言葉を返した。
「ありがとう、で、いいのかな。でも、木下の言いたい事も分かるけど、私は別に無視されるくらいどうって事無い。それに、私は現実と向き合えないような人間には絶対になりたくない。だからやっぱり、スマートグラスは使いたくない。ごめん」
木下は何か言う代わりに口元だけはにかんで私の方を向き、頷いた。廊下の向こうの窓から見える空はもう暗くなり始めていた。
「受験生にしては長話しすぎたね。じゃあ、バイバイ」
そう言って、木下は教室の出口に向かった。その途中、ふと足を止めて私の方を振り返って尋ねる。
「そういえば、吉田って掃除の時とかどうしてるの?」
「……なんで? まあ、サボってトイレに籠ってる。班の人にも無視されてて気まずいから」
木下は納得したように頷いて教室を後にした。私は床に落としていた鞄を取って自分の机に戻ると、下校時間の鐘が鳴るのを突っ伏して待つ事にした。
| * * * |
かちゃん、という小気味良い音がするまで鍵を回したら、鍵を取ってドアを押さえながらゆっくりとこっち側に開けていく。ぎい、い、という金属が互いを引っ掻き合う嫌な音がする。自分が通れるくらいの幅ができたら、そこに体を潜り込ませるようにして家の中に入って、ドアを勢いよく引っ張って閉じる。玄関にはサンタクロースのプレゼント袋くらい大きくてずっしりと詰まったごみ袋が、何個もぐちゃぐちゃに積み重なっているから、ドアを開ける時はごみ袋がアパートの廊下になだれ落ちないように気を付けないといけない。靴を乱暴に脱ぎ捨てて、家の廊下を直進する。横目に入った洗面台の鏡を見ると、顔の右側に青いあざができていた。多分、昼に白洲に椅子ごと転ばされて地面に打った怪我だ。
「夢ちゃあん? おかえりい」
廊下の奥から乳児でも相手にするような猫なで声が聞こえる。母だ。廊下の両脇にあるごみ袋の山の間を、がさがさと音を立てながら近づいてくる。私は目を合わせないようにすれ違おうとする。
「おかえりい、今日も夢ちゃんは可愛いねえ」
母が私の頬に手を伸ばしてくるのを、咄嗟に手の甲で叩いて跳ねのけた。母の細い腕は首の据わっていない子供みたいにぐらついて手ごたえが無い。嫌悪感で私の呼吸は荒くなる。
「触らないで!」
母を突き飛ばすようにしてどかした後、私は早足で自分の部屋に向かっていって、わざと大きな音でドアを閉めて鍵を掛けた。ようやく一人になれたと思うと力が抜けて、そのままドアを背に座り込む。自分の右の頬を触ると、少し腫れていて痛かった。
母は、私の顔をフィルターで加工している。それに気付いたのは、小学生の時だったと思う。母はいつも事あるごとに私の見た目の事を褒めてきたから、物心がつく頃には私は本当に自分が美人なんだと思っていた。でも、学校で「可愛い子」として扱われる生徒を見ていたら、その内嫌でも察しが付く。客観的に見て、私はまあまあ不細工だ。しかも、母に似て。多分母は、自分の顔にコンプレックスがあったんだと思う。産まれた時からずっと、私の顔は母にとっては可愛く加工して自尊心を満たすための道具でしかなかったのかもしれない、とさえ思う事もある。ただ単に子煩悩なだけだと思おうとした時もあったけど、母は決まって私が顔に怪我をした時だけ、あざがあっても切り傷があっても全く気付かない。母がうっとりと見ているのは私の顔じゃなくて、私の顔を原形を留めないくらいぐちゃぐちゃに歪めて合成した小さい顔の中にバランスよく配置された大きい目とすらりとした鼻だから。
かちゃん。ぎい、ばたん。父が帰って来た。父は何も言わずに、ただごみ袋だらけの廊下をがさがさとかき分ける音だけを立てて自分の部屋に入っていった。高校に入ってからほとんど、両親が会話しているところを見ていない。「家庭内別居」みたいなものだと思う。父は夕食もどこかで食べてくるか、自分の分だけ買ってきて自室で食べるかのどちらかになったから、家族三人でリビングで夕食をとる事も気付いたら無くなって、私も母が持ってくる食べ物を自分の部屋で食べるようになった。最後に両親がちゃんと口を利いたのは、私の高校受験の時だったと思う。父は私を良い大学に入れるために地域では進学校として有名な私立高校に行かせると言って、それに対して母はのびのびと勉強できる普通の公立高校でいいと反論して喧嘩になっていた。私は公立が良かったし、正直学力も足りなかったから私立の方はそもそも無理だと思っていたけど、結局は父に根負けして私立の方に願書を出した。その年に偶然定員割れだったおかげで、私はその私立高校に入学する事になったけど、周りとのレベルにはやっぱり差があって、私はすぐに落ちこぼれた。
ドアがノックされる音と感触が背中に響いて、顔を上げる。立ち上がらないまま膝を立ててドアを開けると、すぐ前の床には母が置いていった一皿のスパゲッティとフォークがあった。巨大なごみ袋の山の間にあると、なんだか美味しそうには見えないといつも思う。小学校に入りたての時から使っている木製の学習机の上にスパゲッティとフォークを置き直して、私は夕食をとった。この家に引っ越してきたのも、確か小学校に入ったばかりの時期だったと思う。その時はまだ家族で一緒に夕食をとっていたし、家はごみ屋敷じゃなかった。でも、二人の仲が悪くなっていく中で、家の掃除を担当していた父はその役目を勝手に辞めてしまった。父はまるで勝ち誇るみたいにして、ごみはスマートグラスで消す事にしたと言い、母と私にもそうするように言った。母は最初「ついにおかしくなった」とか言って父を非難したけど、父は「散らかってるのが気になるならその人が自分で掃除すればいい」「俺は見えないから気にならない」と言い張って取り合わなかった。呆れた母と私は、最初の内は代わりに掃除をするようになった。でも、その内母も、父がまるで気にしていない家のごみや汚れを一生懸命綺麗にするのが馬鹿馬鹿しくなったのか、それとも単に面倒になったのか、父と同じようにごみを見ない事にしてしまった。父も母も、最初は喧嘩中のやせ我慢みたいなものだったのかもしれないけど、今では家がごみの山になっている事を本当に気にも留めていない。そうと分からないんだから、当然の事だけど。
スマートグラスで再生した適当な動画を見ながらスパゲッティを食べ終わった。耳を澄ませると、シャワーの水が流れる音がする。この時間にお風呂に入るのは母だから、丁度いいと思って食器をキッチンに置くために部屋を出たら、リビングで父と鉢合わせてしまった。父は冷蔵庫から何かを出し入れしているようだった。
「あ、……夢。勉強はいい感じ?」
父は私に気が付くと、ちょっと気まずそうに間を置いてから私に話しかけた。顔は冷蔵庫の中を向いたままだ。高校受験以来、母は父に「私の能力を信じていなかった」というレッテルを貼られ、その負い目で進路にも口を出せない雰囲気になったから、父は以前にもまして私を良い大学に入れようと躍起になった。入学してすぐに地域で一番の大学を私の志望校に決め、いろいろな通信教育を契約した。だけど、学校ではすぐ勉強について行けなくなったし、通信教育も結局一つも続かなかった。模試の判定もずっと悪い。何より、私は別に父の言う「良い」大学に行きたいだなんて思えない。早くこの家から出て行けるなら、どこの大学でも専門学校でもいい。私は何度も父にこの事を伝えたけど、まともに話を聞いて貰えた事は一度もない。何を言っても「夢ならできる」「自信を持て」と言い続けるばかりで、うんざりだ。
「……普通」
父が私の返答に向き合う事は無く、いつも通りの自意識まみれの激励が飛んでくる。
「覚えてるよね? 高校受験の時。お母さんでさえ夢が受かるって信じてなかったけど、お父さんは信じてた。それで夢は本当に合格しただろ。実は、夢は潜在能力が高いんだよ。だから今回も必ず――」
私は続く言葉を無視して、ごみ袋を押しのけながら自分の部屋に帰った。私が落ちた時の父の反応を想像したら笑えるな、と思った。ベッドに寝転がって、スマートグラスで動画を見る。さっき何の動画を見ていたのかすらもう思い出せないけど、それでもとにかく何か動画を見る。動画は一分以内の尺で終わって、次から次へと雑学とか衝撃映像とかが私の頭の中に流れていく。決められた時間を破ってゲームに熱中してしまった白人の子供が、父親にハンマーで粉砕されたスマートグラスを前にして狂ったように泣き叫んでいる。大量の振り子がばらばらに動き始めたと思ったら、その振り子の先が様々な動物に滑らかに変化して画面の外に走り去っていく。数学の図形問題の解説。「視線スワイプ」で飛ばす。激辛ピザを一口食べた女性配信者が奇声を上げてのたうち回り動かなくなった後、視聴者が呼んだ救急隊員たちが到着して女性を担ぎ出す時に、隊員のついた悪態が映像に残っている。「じゃがいもフィルター」のプロトタイプ。元々は戦場で兵士の精神的な負担を和らげるために開発されていたらしく、銃弾を何発か浴びせたじゃがいもは見た目が変化してベイクドポテトになる。「バッテリーが切れそうです。充電してください」。
スマートグラスの固定グリップを解除してから顔から外して、充電器に置いた。視界が二重になったように少しぼやけて、部屋の壁や床のしみが見えなくなる。一次試験の時のために視力矯正用の眼鏡を用意しろと言われた事を思い出したけど、どっちみちテストが解けない事には変わりないから、別にいいか、と思った。母がお風呂から出る音と、リビングから父が慌てて自室に帰る音がした。もしかしたら、二人は普段お互いの事も消しているのかも、とふと思った。クラスの人たちがあんな簡単に私を消しているんだから、そうであってもおかしくない。私はああはなりたくない。自分のパートナーにすら、自分の子供にすらちゃんと向き合えないような人にはなりたくない。両親に対してそれ以外の思いは無かった。
| * * * |
日直が帰りの挨拶をして、数人の真面目な生徒が機械的にそれを復唱した後、掃除時間が始まった。教室班が机を後ろの方へ乱暴に引っ張り、机や椅子の足が床に擦れたりぶつかったりする音で教室はたちまち賑やかになる。皆が散り散りになって各々の担当場所に向かう中、私がいつものようにトイレに行こうとして立ち上がると、教壇から降りてきた担任教師に呼び止められた。
「吉田さん、ちょっとだけ話したい事があるんだけど、今大丈夫?」
担任は人目を憚るように教室左前の隅に移動して、顔だけ私に向けて手招きの身振りをしている。授業態度の話だろうか。成績の話だろうか。私はどうせ腫れ物なんだから、放っておいてくれればいいのに。そう思いながら、俯いたまま担任の近くに行った。
「さっき気付いたけど、顔のあざ、どうしたの?」
思いがけない質問で、私は一瞬動揺してしまった。
「……え、いや、転んだだけです」
咄嗟に私はあざのある右の頬を隠すように手で覆った。怪訝そうに私を覗き込む担任から目を逸らす。そいつを信用するな、と私の頭が叫んでいる。
「……そう。実は、三年生の担当の先生たちの間で、吉田さんがちゃんと集中して勉強できてるか、というか、安心して勉強できる環境にちゃんといるのか心配だっていう声が上がっていて、先生もちょっと気になってたんです。……先日の、前沢さんのお家の件もあって、結構そういうところに先生たちも敏感になっていて。吉田さんも、もし何か困っている事とか、相談したい事とかあれば、遠慮なく先生に相談してくださいね。もう一次試験まで残り少ない中で余計なお世話かもしれないけど、勉強よりも自分の心身の健康が重要だし、逆に言えばそれが安定していなかったら勉強も身につかないからね」
私が曖昧な返事をして、それっきり下を向いて黙ると、担任は挨拶をして右前の扉から教室を出て行った。白洲が作った生ごみの塊は、いつも通り気にしないで避けていた。
理解できなかった。先生たちが私を心配なんてするはずがない。だって、現にあの教室の右前のぐちゃぐちゃのごみの塊の事を誰も気にしていないじゃないか。生徒たちと一緒に、私へのいじめを関わるだけ損なものとして無視しているとしか考えられない。担任は、私をからかおうとしただけだ。出し抜けに優しい言葉を掛けて、私を馬鹿にしようとしたんだ。考えてみても、そうとしか思えない。
だけど、担任は私の頬のあざを気にしてくれたみたいだった。母も父も、誰も何も言わなかった私の怪我の事を、聞いてくれた。たったそれだけの事で、私の心は強く揺さぶられる。先生たちは、本当に私を心配してくれているのかもしれない。先生たちは何らかの事情があって、皆スマートグラスで生ごみみたいなものを消さないといけないことになっているとかで、あの塊に気付いていないのかもしれない。いや、でも、避けて歩いてる。消しているなら、少しも目にも留めないのは同じでも、日に日に広がっていく生ごみの範囲に気付かないでそのまま踏んでしまわないとおかしい。じゃあ、「消しゴムフィルター」ではない別のフィルターを使って、生ごみの見た目を変えているせいで気付いていない? もっと有り得ない。「生ごみを教室にあってもおかしくない何らかの自然な障害物に見せる」なんていう用途のフィルターが、都合よくあるはずが無い。じゃあ、やっぱり。
チャイムが突然鳴って、思考が中断される。気付けば机は元通りの位置に戻されていて、教室の後ろでは生徒が二人がかりでちり取りにごみを掃き入れていた。私が教室の隅で立ち尽くしている間に、どうやら掃除時間は終わったらしい。トイレの個室でじっとチャイムが鳴るのを待っている時と比べたら、意外なくらい早いように感じる。教室外の掃除をしてきた生徒たちが二、三人ずつまとまりになって戻ってきて、荷物をまとめ始めると、教室は一気に騒がしくなってきた。そうだ、帰らないと。白洲が来る前に。私は我に返って、弾き出されたように教室の後ろにある棚に向かう。机三列分くらいの間を空けてちり取りを持った生徒とすれ違ったのが横目に見える。ちり取りは口を閉じられて、コンパクトな薄い直方体みたいになっていた。手を伸ばして自分の鞄を掴んだところで、ふと視線が吸い寄せられるようにして、私はそのちり取りを持った生徒の方を振り返る。あの生徒が真っ直ぐ向かう先は、教室の右前の隅、あの生ごみのある場所だ。私が棚の前で固まっていると、その生徒は何でもないようにちり取りを開いて、ごみをその山にぶちまけた。
遅れて状況を理解した瞬間、鞄に掛けていた右手を強い力で上の方に引っ張られて、肩で自分の鼻を打ってしまった。顔の内側に痛みが染みる。
「何ぼーっとしてんの。人の邪魔になるって考えた事ある? ほんと自己中だよね」
白洲の声だ。でも、私はそれに反応しないで、頭を下げたまま横を向いてちり取りを持った生徒の方を目で追う。その生徒は今度は教室の左後ろに向かって歩いていく。鋭い舌打ちの音がした後、今度は髪の毛の束が、本当に千切れて抜けてしまいそうなほどの力で引っ張られて、強引に頭の向きを変えられる。白洲は不快そうな顔でこっちを見ている。今にも頭皮からぶちぶちと言いそうな痛みで顔が引きつる。頭が固定されて動かない。最後まで見ないといけないのに。
「ねえ聞いてる? 謝って。謝れって言ってんの。ほら早く」
「……放して」
嘲笑うようなため息をついて、白洲は私の髪から手を放す代わりに、中腰になっている私のお腹を膝で突き上げるように勢いよく蹴った。ひやりとした感覚が体中に広がる。胃が飛び上がったような気がして、吐きそうになる。私の呼吸は細く、浅くなって、お腹を押さえながら棚に寄りかかるけど、それでも後ろに振り返って、見開いた目でちり取りを持った生徒を見る。その生徒はちょうど教室の左後ろの角に、畳まれたちり取りを置いていた。私は肩を突き飛ばされて、バランスを崩して床に左の膝を打ちつける。息をする間もなく、白洲は私のブレザーの襟を引っ張り上げて、私を半分引きずるようにしながらいつものように教室の左後ろに追い詰める。白洲は急に歩みを止めると、私を躊躇なく角の方に突き飛ばした。背中からちり取りにぶつかって、がしゃん、という大きな音が鳴る。直後、かちり、と鳴って私の体は動かなくなる。反射的に俯いて耳を塞いだ。
「いい加減にして。何なんだよ、その態度!」
白洲はいつにもまして私に対する怒りを露わにしている。でも、今の私はそれどころじゃなかった。体が動かないといっても、体の向きを変えたり立ち上がったりできないようになるだけで、頭や腕はある程度動く。私は耳を塞ぐ手を離して、背中で触れているちり取りをそっと触った。ちり取りは確かにここにある。いつもは見えなかったものが、私には今見えている。心臓の鼓動が激しくなる。俯くのをやめて、私は窺うように、ゆっくりと顔を上げていく。白洲の足元が見えて、白洲のスカートが見えて、そして、白洲の全身が見える。私はぞっとして目を見張る。全体的な光や色合いの加減は自然で、俯きながらぼんやり視界の端で見たくらいでは気付かなかったけど、白洲の見た目がすぐさっきと比べても明らかにおかしくなっている。黒のロングヘアーは不自然な方向に液体のようにうねっていて、全体に同化して一本一本の質感が無い。制服のリボンがブレザーから直接生えてきていて、シャツの襟を通っていない。ボタンには校章がデザインされているはずなのに、太さも何もかもぐちゃぐちゃの線が描き込まれているだけ。何より、手の指が奇形の野菜みたいに歪に捻じれて変な場所からぶら下がっている。白洲の私を罵る声は普段通りなのに、体の動きは風に揺れているみたいに不安定で、癖や意図みたいなものが一つも感じられない。背景はもっと歪だった。生徒は奥に行けば行くほど、人間の形を成していない制服と頭の色合いだけの布切れみたいになっている。壁一面が黒板になっていて、チョークや黒板消しを置く部分と教卓の前後関係がずれている。見えるもの全てが、破綻している。鳥肌が立って、私はどうなっているのかという考えが頭をよぎる。意を決して自分の手を見てみると、それはいつも通りの私の手だった。手を開いたり閉じたりしても変わらないままで、少しだけ安心する。
「頭おかしいんじゃないの。なんでそうやって平気でいられるの。気持ち悪い。吐き気がする」
私の現実が、私の頭の中で、どんどん違和感だらけのものになっていく。さっきまで普通だったのに、なんで急に世界がAI生成の画像みたいになっているのか。放課後、この左後ろの隅に来るといつも動けなくなるのはどうしてなのか。それでも頭や腕は動かせるのはどういう事なのか。あの、かちり、という音は何なのか。ごみを教室に放置なんてしたら、腐敗した臭いとか虫とかで大変な事になるはずなのに、どうして誰も気にしないのか。何故私はこれを今まで疑問に思わなかったのか。その一つ一つの答えは私には考えても分かりそうにないけど、こんな訳の分からない事を現実に見てしまうような心当たりと言ったら、一つしか無い。
スマートグラスの先端のボタンを親指で押し込んで、固定グリップを解除した。白洲にどれだけ暴力を受けても少しもずれる事さえ無かった私のスマートグラスは、簡単に指で押しあがるようになる。息をついて、液晶レンズを目の前から外した時、私は掃除用具を入れるロッカーの中にいた。
私は呆然として暗いロッカーの中を眺める。横には箒が並んでいて、後ろにはちり取りがある。そうか、私はロッカーを消していたんだ。ロッカーを外側から見た時も、内側から見た時も、AIが生成した映像で補填されたロッカーの無い視界を見ていたんだ。自分でも信じられないけど、木下が昨日言っていた事を思い出す。私は教室にロッカーがある事を忘れていた。普段は掃除時間が終わって少しするまでトイレに籠っているから、ロッカーが使われているところに近づく事すら無くて、あのロッカーの事を思い出すきっかけなんて一つも無かった。でも、今日は担任に引き留められたせいで掃除時間に教室にいたから、教室の清掃を久しぶりに見た。それでぼんやりと、箒やちり取りがどこから取り出されるのか、そしてどこに仕舞われるのか、うっすらと奇妙に思った。それはきっと、担任に言われた言葉を考えている内に、「自分に見えているものは何か間違っているのかもしれない」と微かに思い始めていたからでもある。
自分でも何がどうなっているのか理解していないまま、私はとにかくちり取りが仕舞われるところを視界に納めた。そのおかげで、「ここにちり取りがある」という事のつじつまを合わせるために補填される映像が変化して、いつもは教室のどこにも無かったちり取りが、今日だけあそこに現れた。普段ちり取りが無かったのは、私が見ていないところでロッカーに仕舞われているせいで、補填される映像の中でロッカーごと消されている方がむしろ自然だからだったんだ。それに、ロッカーの中ではいつもは俯いて床だけ見ていたけど、顔を上げてみると、そこには破綻したAIの映像があった。「消しゴムフィルター」の補填は、普通に使う分には精度も高くて大した破綻は見られないけど、ロッカーの中からロッカーを消してしまうなら、視界のほぼ全てを長時間に渡って補填し続けないといけなくなる。精度が悪くなるのも当然の事だ。不自然な事がここまで積み重ねってようやく、自分が教室の右後ろにある何かを消しているという可能性と真剣に向き合わざるを得なくなって、私はスマートグラスを外してみる事にした。その考えは、どうやら当たっていたみたいだ。
ロッカーの中は狭くて思うように体が動かせない。扉を押し開けようとしたけど、外から鍵が掛かっているみたいで開かなかった。あのかちり、という音は、鍵を掛ける時にする音だったわけだ。私は扉に微妙に隙間がある事に気付いて、張り付いてそこから外を見た。教室はいつも通りで、おかしいところは無い。教室の右前のあの場所には、ごみ箱が置いてあった。それを見て、私は教室にごみ箱があった事を思い出した。休み時間に消しカスとかいろいろなごみを捨てる人は沢山いたはずなのに、私はずっと俯くか机に突っ伏すかしかしていなかったせいで、ごみ箱に物を捨てるところを一切視界に捉えていなかったみたいだ。まあ、わざわざ人がごみを捨てている一部始終を見ている人なんていないかもしれないけど。でも、自分のものが白洲に持って行かれて捨てられるところだけはちゃんと見ていた。だから「消しゴムフィルター」の内部でそのつじつまを合わせるために、そういうものだけが床にそのまま放置されているように見えていたらしい。本当は定期的にごみ出しがあって、生ごみがずっとそのままになっている事なんて無かったのに。思い返せば、あのごみの塊の事を私が話に出した時の木下の反応もぎこちなかった。木下には、ごみの塊なんて見えていなかったんだ。
「なんでお前なんかが、なんでお前なんかが生きてるんだよ」
掃除用具入れのロッカーと、ごみ箱。何故私がそれを消していたのかを思い出そうとすると、心臓の動悸がより一層激しくなった。体が硬直して、肺の中の空気が重く、冷たくなっていく。扉の隙間から見える白洲は、元通りの普通の姿になっている。だけど一つ予想外だったのは、白洲が泣いている事だった。
「海翔をいじめて殺しておいて、なんでお前なんかが……」
心臓が張り裂けそうなくらい激しく鳴っている。体が煮立てられたように固く震えて、呼吸が制御できなくなる。私は、同級生の前沢海翔をいじめて、自殺に追い込んだ。鮮明に、ゆっくりと思い出してきて、吐きそうになる。白洲が私にしている事は復讐なんだ、と今更気付いた。白洲が私にやった事は全部、私があいつに、前沢海翔につい数週間前までやっていた事だ。あいつを閉じ込めたロッカーも、あいつのコンビニ弁当を捨てたごみ箱も、視界に入れただけで頭の中で自分を責める声が羽虫の群れみたいにぐるぐる回り出して終わらないから、見なくていいように全部消してしまったんだという事を思い出した。
| * * * |
高校最後の夏休みがあっという間に終わって、気付いたらクラスのほとんどの人たちは本格的に受験勉強に集中するようになっていた。でも、中には早々に落ちこぼれてしまっていたせいで、大学受験をするのが普通な学校にいる癖に勉強を真剣にやっていない生徒もいた。私もその一人で、気付けば似たような人とばっかりつるむようになっていた。前沢をいじめ出したのは、その中の一人の男子だった。何故前沢が標的になったのかは分からないけど、とにかくその男子が前沢をわざと誇張して不細工に書いた似顔絵を本人の机に入れるみたいないたずらをし始めた事が、全てのきっかけになった。私たちは次第に前沢を「いじる」事を面白く感じるようになって、大喜利気分でいろんな事をした。物を隠したり、「告白ドッキリ」をしたり。前沢は何をされても下手な作り笑いを浮かべて縮こまっているばかりで、私たちに反抗する事は無かった。
そして、誰がどう見てもいじめでしかない事を直接的にするようになってきた頃、私たちはクラスの皆に消されるようになった。前沢へのいじめから目を逸らして、快適な教室を作るために。その時からずっと、私はいじめの被害者じゃなくて、加害者として消されていたんだ。私たちにはほとんど内輪の関わりしか無かったから、うすうす皆に無視されている事に気付いていても、集団でのいじめはお構いなしに続いた。だけど秋頃になると、私がつるんでいたグループの中でも流石に受験勉強をし始める人が多くなってきた。私の学力はぶっちぎりで最底辺で、大学受験の事なんて一つも考えていなかったから、徐々に私とグループの皆との間には距離ができていった。他の皆の前沢へのいじめが落ち着いていく中で、気付いたら一番熱心に前沢をいじめているのは私になっていた。前沢はどれだけいじめられても、変わらず学校に来るのをやめなかった。
ある日私は、新しい「いたずら」を思いついた。前沢の水筒の中にチョークを詰め込むといういたずらだった。休み時間、前沢がトイレか何かで教室を出た隙に、私は黒板からあるだけのチョークを取ってきて、前沢の水筒に入れていった。グループの皆は最初、半笑いでそれを眺めていた。でもその後、授業で教室に来た中年の教師が、チョークが無くなっている事に気付いて、クラス全体の責任として物凄い勢いで私たち全員に怒鳴り散らした。誰か心当たりがあるやつはいないのか、と言われても、私は怖くて手を上げなかった。授業が一つそれだけで潰れた後、私はその教師の愚痴を言うつもりでいつものグループの皆のところに行ったけど、皆は私を横目でちらりと見ながら、わざと私に聞こえるような大きい声で、私の悪口を言っていた。「皆の授業の時間を何だと思ってるのかな」「あいつ思ってた十倍馬鹿だ」「受験生なのに何でまだあんな感じなんだろう」「前から思ってたけど本当に周りの迷惑とか考えてないよね」……。
その日から、私はグループの皆からも消された。私は悔しくなって、もっと酷く前沢に当たるようになった。私がこうなったのは前沢のせいだと、本気で思った。前沢は男子の割には小柄で、私はあいつを叩いたり蹴ったりする事で鬱憤を晴らそうとした。昼休みはあいつのコンビニ弁当を奪って中身をごみ箱に捨てた。放課後はあいつをロッカーに閉じ込めて暴言を浴びせた。死ね、と言った回数はもう分からないくらいになった。小学校で習うような「人にやってはいけない事」の決まりなんて、私には心底どうでも良かった。親もクラスメイトも誰一人私を見てはくれないのに、そんなものを守る意味は無かった。私は前沢がどんな人間なのか全く知らないのに、その人格を否定して、罵倒し続けた。私がこの最低な現実に反抗する唯一の方法は、前沢を痛めつける事だった。足を引っかけて転ばせたり、もみあげを引っ張って頭を壁にぶつけさせたりすると、痛がってうずくまるのが見てておかしくて楽しかった。だけど私の気持ちが晴れる事は全く無くて、それを埋め合わせるように私のいじめは際限なくエスカレートしていった。
正月の休みが明けて学校に行くと、前沢はいなかった。朝のホームルームで、担任は回りくどい言い方で、前沢が自殺したという事を伝えた。前沢は「家庭でのトラブル」を苦にして自殺した、という事になっていた。私の体は急に重くなって、机に倒れ込みそうになった。あまりにも幼稚だけど、私は前沢が自殺して初めて、自分がやってきた事の重大さを直視した。人を殺した。取り返しがつかない。そんなつもりじゃなかった。こうなるとは思わなかった。薄っぺらい言い訳が何万回も頭の中でループするけど、内臓の奥をゆっくりかき回しながら溢れてくる自己嫌悪で気が狂いそうだった。呼吸が詰まった砂時計みたいに苦しくなる。嫌だ。違う。「何が違うの? お前がやったんだろ」「殺しておいて被害者面?」「死んだ方が良かったのはお前だよ」。体中に冷たい水みたいなものが溜まって、肺が、心臓が、痙攣しながら縮こまっていく。体がジェンガみたいに崩れ落ちそうな気がして、無意識に、意味も無く体をよじる。視界にごみ箱が入る。視界にロッカーが入る。見たくないのに、見えてしまう。私は震える足でトイレに逃げ込んで吐いた。便器のふちのほとんど水みたいな吐瀉物をトイレットペーパーで拭きながら、私は焦点の合わない目で「消しゴムフィルター」の事を思い出していた。
| * * * |
かちり。ロッカーの鍵が外側から開けられる音で、私は現実に引き戻される。ロッカーの扉が開いて、中に教室の蛍光灯の光が差し込んでくる。木下は眼鏡を外した私を見て少し驚いてから、ちょっと考えて言った。いつもより冷たいように聞こえた。
「これで白洲の気持ちがちょっとは分かったんじゃない?」
唇が震えて、上手く喋れない。でも、言葉がすらすらと出てくるとしても、私は何も答える事ができない。
「まあお察しの通り、白洲は海翔の事が好きだったみたい。結局告白とかは最後までできなかったみたいだけどね。……白洲は、吉田たちが海翔をいじめてる事を先生に言わなかった事を凄く後悔してるんだと思う。でも、海翔はあの時何を聞いても、『俺は大丈夫だから』としか言ってくれなかった。長い付き合いの俺でさえ、まともに話しては貰えなかったからね。白洲もいろいろ悩んだんだろうけど、この事を黙殺しようとして実際に消してしまった周りの生徒たちの雰囲気とか、何より海翔自身の態度に圧されて、なかなか言い出せなかったとしても無理は無いよ。だけど今となっては、白洲はもう先生にその事を伝える気は無いだろうね。新しい加害者として皆に無視される事も覚悟の上で、白洲は自分で吉田に復讐する事を決めた。私刑ってやつかな。暴力を振るって、暴言を吐いて、吉田の心を完全に折ってしまおうとした。でも、当の吉田はとっくに現実を見てなかったから、白洲の『いじめ』は上滑りするだけ。そしてとうとう、逆に白洲の方が限界になってしまった。白洲はさっきまで、ずっと一人で泣いてたよ。もちろん消されてる上に、教室に残ってる生徒は全員イヤホンとか着けてたから、誰にも気付かれてなかっただろうけど」
昨日の木下との会話を思い出してみると、「被害者」としての自分の態度の全てが堪らなく醜く思える。白洲を責める権利も、いじめを無視するクラスの皆を責める権利も、私には一つも無い。私はどれだけ馬鹿で滑稽なんだろう、と思って消えたくなる。震える声で木下に尋ねる。
「……昨日私に『消しゴムフィルター』を使うように言ってきたのは、私がロッカーとごみ箱を消している事を思い出させるためだったの?」
木下は意外そうに私を見て、そして笑って答えた。
「いやいや、そんな事ないよ。本当に。正直言うと白洲の気持ちを否定する事はできないけど、それでも俺はずっと、本気で吉田の事を助けているつもりだよ。吉田のトラウマを色々思い出させてぎゃふんと言わせてやろう、みたいな魂胆はこれっぽっちも無い。自分の心を守るためにスマートグラスを使うのは悪い事じゃないからね」
「でも木下は、……前沢の、友達だったんでしょ?」
少しだけ木下の表情が強張って、目線が平行にずれる。それでも木下のはきはきとした口調は変わらない。
「……高三に上がる前のふとした時に、海翔が自分の家族の事を話してくれた事があって。海翔の両親は二人とも教育熱心で、絶対に海翔をトップクラスの大学の医学部に入れようとしてるんだって話を聞いた。それで、模試とかの成績が良くないと、両親は罰としてしばらく海翔を消しちゃうんだって言ってた。あり得ないよね。……海翔が自殺したのは、まあ客観的に見たら吉田のせいとも思えるけどさ、本人にとっては、実際先生たちの言ってた通り、あの家にいるのが嫌だったからなんだよ。海翔は普段、ほとんどの時間を家の外で過ごしていたらしい。平日の学校が終わった後はもちろん、休日にも予備校に通い詰めてたんだって。だけど正月休みは予備校も閉まってるから、ずっと家で過ごす事になる。それがいけなかったんだろうね。高三になってあいつの判定はどんどん落ちていっちゃってたから、家族からの扱いは碌なもんじゃなかった。多分海翔の家族は、海翔を長い間消している内に、本当に海翔の事を忘れてしまってたんじゃないかな。実際、海翔の家族が警察に通報したのは、海翔が死んでから四日後。年が明けて、家の中に腐敗臭がしてきてからだったらしい。俺がどっかに、遊びにでも連れ出してればよかったのかな。とにかく、海翔にとって吉田にいじめられる事は、ある意味救いだったんだよ」
救い? 私は木下が言っている事の意味が分からなくて、最初聞き間違いなんじゃないかと思った。でも木下は、私の目を見て、話し続ける。ちょっとした馬鹿話みたいに、出し抜けに明るく。
「俺はあの時期も今と同じで放課後毎日この教室に来て、海翔のためにロッカーの鍵を開けてやってた。吉田がいつも鍵を閉めっぱなしにして帰ってたからね。ロッカーから出てくる海翔は日に日にやつれていって、見てられなかったよ。だけど、どれだけ俺が心配しても、あいつは『大丈夫だから』としか言わなかった。なんなら、先生にこの事を言いつけないでほしいとまで言ってきた。俺は意味が分からなかった。それである日、海翔に面と向かってはっきり言ったんだよ。客観的に、お前は酷いいじめを受けていて、どんどん衰弱してる。それを認めないのはただの現実逃避で、一つもお前のためにならない事だ、って。そしたら海翔はその時一度だけ、観念したみたいに打ち明けてくれた。びっくりしたよ。海翔は、『顔交換フィルター』で、自分の母親と吉田の顔を交換してたんだってさ。『これでお母さんが俺の事を見てくれる』って。この際暴言も暴力も、海翔にとっては気にならなかったんだろうね。白洲が知ったら凄いショックだろうけど、吉田は海翔が生きる命綱みたいになってたんだよ。少なくとも、海翔にとってはね。だから海翔は冬休みに死んだ。行くところも無く、自分が消されている家にずっと一人でいて、学校でだけ会える自分を見てくれる母親とも長い間会えなかったから。そんな訳だから、俺は白洲みたいに吉田を恨んではないんだよ。むしろ、海翔の友達として、感謝してると言ってもいい――」
「ふざけないで!」
気付いたら叫んでいた。ロッカーの中で、爪が手に刺さるくらいの力で拳を握りしめて震える。夕焼けの逆光の中で、木下の顔から笑みが完全に消えて、ぞっとするような目つきで私を睨む。心臓が破れそうなほど速く収縮しているのが分かる。
「私があいつにどんな事したか分からないんでしょ!? 抵抗しないあいつの顔を何回も殴って弁当も教科書も目の前でぐちゃぐちゃに――」
木下が勢いよく私の襟元を掴んで顎まで持ち上げる。頭の後ろが箒にぶつかって、反動で少し押し戻される。鎖骨の間に指の骨が当たった衝撃が肺に響いて喉が鳴り、一瞬息がせき止められる。木下は目を見開いて、震える顎から溢れる言葉を私に浴びせる。
「じゃあ海翔は現実逃避で死んだ馬鹿だって言うんだな!? 現実から逃げて、お前なんかで救われようとして、何とか助けてやろうとした奴の言葉も無視して、結局自分を誤魔化しきれなくなって死んだ、あいつは救いようの無い馬鹿だって言いたいんだろ!? じゃあお前は結局何も反省してないよ。罪の意識を感じる自分に気持ち良くなってるだけだ。あれは海翔が自分で選んだ、唯一の自分を救う方法だった。それを否定して何になる? 俺たちに海翔の何が分かる? 海翔がどんな思いで朝起きて、家族が朝食をとっているリビングを通り抜けて家を出て自分の食事をコンビニで買って、家族に認めてもらうために必死で勉強しても上がらないどころか下がっていく成績を見て、夜中まで自習室で机にしがみついて問題を解いていたか分かるの? 家から逃げた先の学校で糞みたいな奴らにいじめられるようになって、周りの生徒は皆自分を消すようになって、そんな中で吉田に『顔交換フィルター』を使う事を思いついた時、あいつはどんな気持ちだったと思う? 自分の現実を守るために、それはいじめだ、とか先生に相談しよう、とか言ってくる奴を心底面倒くさそうにいなして、俺がどれだけ『正しい事』を言っても相手にしないで、頭の中で自分は自分の母親に向き合って貰っているんだと思い込もうとしたあいつを、助け出すには、どうしたら良かったんだよ。俺が、俺があの時、『お前に何が分かる』って言われた時、俺はどう答えたら良かったんだよ!」
どんどん小さくなっていく声で、絞り出すように私にそう言い放った。項垂れた木下の目からは、涙が零れ落ちていた。私の襟を掴む木下の指の力は突然緩んで、私から離れた腕は乗り捨てられたブランコみたいに力無く揺れる。教室に残っている生徒は、誰も私たちの事を気にしないで、いつも通り黙々と机に向かっていた。
「ごめん。吉田に言っても意味無いよね。こんな事」
木下は俯いたまま左手で両目を覆って、か細く震える声で続けた。
「でも俺はやっぱり、吉田がそうは思わなくても、吉田は海翔にとって良い事をしたんだと信じてる。そうじゃないと、海翔があまりにも報われない。……だから俺はもう、スマートグラスを肯定するしかないんだよ。海翔の親とかクラスの皆みたいに、それで人を傷つけたり目の前の困っている人を放置したりしているのでもない限り、現実から目を背けるな、なんて俺の口からはとても言えない。いや、どうかな。そんな善悪の基準も、人それぞれのものでしかないよね。その人にとって素晴らしい現実が傍から見てどれだけ惨めで滑稽だったとしても、人を傷つける有害なものだったとしても、ただでさえ現実を直視する力が無い俺たちの生きる時代には、そんな客観的な正しさにこだわる事にはもう何の意味も無い。そう思わないと、俺はもう、やっていけないよ」
私は何も言葉を返せない。ただ固まって、浅い呼吸を繰り返す。会話が止まって、自習している生徒たちの机から聞こえてくる鉛筆で線を引く音や紙の擦れる音だけになる。長い沈黙の後、木下は一言「じゃあ」と言って教室を出て行った。私はその後もロッカーの中に座って、ただぼーっとして教室を眺めていたけど、しばらくして思い出したみたいにスマートグラスを掛け直した。すると私は教室の隅で、床にそのまま座っていた。
| * * * |
慣れきった動きで家のドアを慎重に開けて中に入る。父も母も、ごみ袋が見えなくたって、この動きは体に染み付いているものらしい。廊下やリビングのあちこちに積み重なるごみは、まるで腫瘍みたいに数を増やしながら大きくなって、私たちの暮らす場所を圧迫し続けている。本当は教室のごみ箱に入れられてそのままどこかに捨てられていたのに、「消しゴムフィルター」の補填でずっと放置されてるように見えていただけのごみの塊とは違って、私の家のごみの山はちゃんと触れられるし、眼鏡を外しても見える。現実に、確実に存在している。私は気付くと、自然に「消しゴムフィルター」を開いていた。視線を合わせて選択すると、目の前にある物が緑色の輪郭でハイライトされて、まるで世界から浮かび上がっているように見える。私は家中に積もるごみ袋を見て、それから長めのまばたきで「クリック」した。その瞬間、まるで今までが見間違いだったみたいに、家中のごみはきれいさっぱり消えた。この家ってこんなに広かったんだ、とか思ったりして、清々しい気持ちになった。世界がちょっと明るくなった気がした。
私はすっかり調子が良くなって、次は廊下の先にいた母を消した。声は聞こえるから適当に返事をするんだけど、目では見えない分相手の反応があまり気にならなくて楽だ。見えていた頃の調子で無意識に避けてしまえるごみ袋みたいな動かない物はまだしも、人を消して見えなくしたら出会い頭に毎回ぶつかったりしてしまうんじゃないかと思っていたけど、いざ自分でやってみると人の動きは意外と音だけで分かるもので、慣れたら本当に意識しないでも避けられるようになるんだろうな、と思った。自分の部屋に入って、身体を投げ出すようにしてベッドに横になる。気付いたら私はそのままの姿勢で動画を再生していた。まな板の上に乗せられたスライムが包丁で切られた後、またこねられて一つになる。コンパスみたいな道具で一定の動きを繰り返すと、幾何学的で綺麗な模様ができあがっていく。こんこん、というノックの音が聞こえて、バーチャル画面の透過率を上げてから部屋のドアを開けに行く。晩ごはんが置かれていたからそれを持って部屋に戻るけど、その途中でも視線はずっとスマートグラスの中の動画を見ている。机に座って、有名なインフルエンサーの面白エピソードを見ながら、流れ作業みたいに、無意識に、箸をプラスチックの容器と口元の間で動かしている。
眠くなって、瞼が開かなくなってきた。時計を見ると、いつの間にか午前一時を過ぎている。私はスマートグラスを外して充電器にセットした後、部屋の電気を消してそのまま布団に入った。布団の中は暗くて、自分が目を開けているのか閉じているのかも分からない。私たちが何の画面も見ていない時間は、今はもうほとんどこの寝る前の一瞬しか無いんだろうな、と思う。眠かったはずなのにやけに目が冴えてしまって、今日学校であった事が順番も何もかもばらばらの状態で頭の中で繰り返される。そして、前沢の事を思い出す。私にはもう、どうやって現実に向き合えばいいのか分からない。現実は私には大きすぎた。直視すればするほど、現実は難しくて、恐ろしくて、耐えられないものになる。きっと誰にとってもそうだ。現実はもう、誰も立ち向かう事ができないくらい大きなものになってしまった。私たちが、画面の中だけにある快適で小さな現実に慣れ過ぎてしまったから。指の先から順に、腕、肩、首と力が抜けていって、体がマットレスに深く沈んでいく。家のごみにしても何にしても、意地にならないでもっと早くから消しておくんだった、と思う。一度消してしまえば、もう見なくていい。楽になれる。誰でもやっている事だ。そもそも既に私は、自分のやった事から目を背けて、罪の意識も苦しさも何もかも消していた。テストの事だって、自分の将来の事だって、家族の事だって、何もまともに考えようとはしていなかったじゃないか。ぼんやりと頭の遠くの方でそう思っている。意識が流れて溶けていく。