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58話の物語をあなたと

傑作小説

非自己叙述的

「非自己叙述的」という言葉から生まれる概念を、満遍なく説明した作。二部構成!

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第一節 「物語(一人の老人による語り)」

君「非自己叙述的(heterological)」という言葉を知っているか? 知らないとな? 仕方のないやつめ、教えてやろう。
非自己叙述的とは、「ある言葉の意味がその言葉自体と矛盾していること」だ。たとえば"long"という言葉は「長い」を意味するが、この言葉の綴りはわずか4文字と、長くない
したがって"long"という言葉は非自己叙述的だといえる。また"misspelled(綴りの誤った)"という言葉は正しく綴られている。つまりこの言葉も非自己叙述的だ。
君この話は飽きたか。面白くないか。けどもしばし待て。ここからだ、面白くなるのは。さあ君、この問題について考えようじゃないか。

   ・「非自己叙述的」という言葉は非自己叙述的であるか?

これを解くにあたって、重要なことがある。「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」ということだ。
おっと、当たり前だといって笑っちゃいけないぞ君。これはほんとうに大切なことだ。何せ……粛清されました
本題に戻ろう。ではまず、「『非自己叙述的』は非自己叙述的である」と仮定して話を進めようか。「非自己叙述的」は非自己叙述的である。
すなわち「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っている。よって「非自己叙述的」は非自己叙述的でない
むむ? いま、「非自己叙述的」は非自己叙述的だ、として話を進めたはずだ。しかしそこから、それを否定する結論が得られた。なぜだろうか? うーん。
あるいは、最初の仮定が間違っていた、と考える方が自然であろう。
今度は他の可能性にかけるのだ――ところで先ほど、「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」と述べた。
となると他の可能性とは、「『非自己叙述的』は非自己叙述的でない」ということじゃあないか!
では、そう仮定するとどうなるのだろうか? 「非自己叙述的」は非自己叙述的でない。つまり「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っていない。
ゆえに、「非自己叙述的」は非自己叙述的である
またもや仮定と矛盾する結論を導いてしまった。やあ君、どうしてこうなったのだ? 僕たちはすべての可能性を検討しきったのに、そのどれにおいても矛盾が生まれるだなんて……。
はっ! 君君、これ、パラドックスじゃないか!



第二節 「物語(二人の若者の会話)」
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12
相田為之助という詩人

詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。……

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 詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。その広さに由来して、自ら相田三百帖邸とよんだ。ウォールナット張りの床が気品を感じさせるいかにもモダンな家宅であるが、平屋特有の、どこか日本的な情緒をも備えていた。

 ふとインターフォンが鳴った。書斎の机に情けなく突っ伏していた相田は、気だるそうに立ち上がって、玄関をめざした。その重厚さをたしかめるように部屋の扉を開け、その長大さを味わうように廊下を歩いていった。廊下の右手がわには、開け放たれたガラス戸から相田の設計したたいそうな庭園がみえている。そこに植わる、ちょうど満開である梅の、その芳香をかみしめながら相田はさらに歩いていった。

 相田は玄関に着いた。書斎からの長い道のりのなかで、自分の家に訪ねてきた人物が誰であるかについて、相田はおおよその見当をつけていた。それゆえにこそ相田は、いかにも鬱屈した態度でドアノブへ手を伸ばしたのだった。

 相田がノブを回して扉を開けはじめると、扉は言った。

「開けるな」

 相田は言われたとおりそれを閉めた。


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 編集者川北さくらは世田谷の出版社に勤めていた。もと事務局経理部で会計作業に当たっていたが、会社主催の飲み会でいまの上長に気に入られたのをきっかけとして編集室に異動し、晴れて編集者となったのであった。

 配属からもう六年めになる川北は多くの人気作家の担当を継続して任されるようになっていた。責任の重さに由来するプレッシャーに悩まされることも多いが、友人などに彼らのことを話すと羨ましがってサインなんかをせびってくるのが川北には誇らしかった。

 相田為之助も川北の担当する人気作家のひとりであった。その相田についてこのごろ川北は絶えず悩まされていた。相田はどうもスランプらしかった。最近まで相田は一年おきに詩集を出していた。毎年詩集を出すということは一年のはじめから終わりまでそれなりに試作にはげむことを要求するものであって、そのためにはむろん常人にははかり知れぬ労力が要るにちがいないが、とにもかくにも、かつての相田にはそれができていた。しかしながら、現在の相田が詩作らしいことをしているようすはない。事実、『死せるドリス・デイ』という題で最後に詩集を出して以来――それはもう一年と九か月前のことであるが――、こちらには新しい草稿の一枚も送られてこないのである。そのような事情から、ついに川北は相田為之助がスランプであることを悟らねばならなかったのだった。

 多くの場合、詩人の仕事というのは気ままに詩作をして発表するにとどまるものではない。彼らはしばしば、顧客から依頼を受注して、頼まれたとおりの作品を提供することによって対価を得ている。相田為之助もよくそのような仕事を受けていた。

 いま相田は作詞の案件を抱えている。地元徳島に新しい高校ができるというので、校歌の作詞を出版社経由で頼まれたのだった。たいへん金払いのよい私立高校で、曲のほうも質がよくてモダンなものをそれなりの作曲家に作らせたようだ。その曲に詞を当てるのが相田の仕事である。先方と合意した納品期限が過ぎてからそろそろ一か月が経つ。ところが相田は、いまだ何をもなしえていないらしかった。川北はやきもきしていた。


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 ある朝、相田邸の固定電話が鳴った。書斎の机で突っ伏して寝ていた相田はその音を聞いて飛び起きた。なんだ電話か、ああ、どうせあいつだろうなどと億劫そうにつぶやきながら、寝違えた首まわりをていねいにほぐし、ゆっくりと<傍点>のび</傍点>をしたあとで、壁かけ式のスタンドから子機を取った。

「もしもし相田……」

 そう言いかけたところで、かぶせるように子機が言った。

「取るな」

 相田は話すのをやめて、言われたとおりそれを戻した。


    4


 締め切りはとっくに過ぎているから、進捗をうかがう電話が当然のように川北のところへかかってくる。作品を仕上げないのは相田が悪いのに、当然のように川北が謝罪する。「こうして何度も申しあげておりますがね、私どもは相田先生の歌詞を楽しみにしているんですよ」という先方の悲哀に満ちた声を聞いて胸が痛くなった川北が、耐えかねた面持ちで受話器を置いて、それから相田に連絡をやったとしても、返事が来ることはなかった。締め切り日の前後から相田とは連絡がつかなくなっていたのである。やがて川北のなかにふつふつと怒りが湧いてきた。自分の詩が書けないのは知ったことではないけれども、よそに仕事をもらっておきながらなんの音沙汰もないというのは、どうかしているのではないかしら。川北は不満だった。連絡をつけるために、川北は翌日相田の家を訪ねることにした。


 明くる朝、川北は慌ただしいようすで出社してきた。出勤時刻の記録と室員への挨拶を済ませ、連絡板に「相田先生宅訪問/帰社予定」と走り書きを残すとすぐにオフィスを飛び出し、玄関口の目と鼻の先にある路側帯でタクシーを拾った。一秒も無駄にすまいと言わんばかりの俊敏さでもって車内に飛び入りながら、運転手に相田の家の住所を告げた。

 無事に着座してタクシーが走りだすと、ようやく川北は呼吸を落ち着かせることを考えはじめた。背もたれに身を預けながら、はやる気持ちを落ち着かせることを考えはじめた。まもなくすると川北は静かに相田のことを考えていた。相田はなぜスランプにはまったのかと考えた。それにしても、スランプならスランプなりに報告をよこしてくれればよいのに、なぜ一切の音沙汰がないのかと考えた。そして相田がスランプに甘えて仕事を放棄しているかもしれないことを考えた。それどころか案件の存在を忘れて、自らの詩集のための詩を書きはじめているかもしれないことを考えた。それどころか詩人としての自らの使命をも失念して、懈怠を働いているかもしれないことを考えた。それどころか懈怠に懈怠を重ねたために、生の動機を失って自殺を企図しているかもしれないことを考えた。いいや、相田はじつはもっぱら外部との関係を絶つことでいままでのどの瞬間よりも真剣に詩作に向きあいつづけているのかもしれない、それでもスランプから抜け出せないので絶望しかけているかもしれない、とも考えた。それから、絶望のあまりやはり相田が自殺を図るかもしれないことを考えた。川北は身ぶるいした。


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 詩人相田為之助は自らの頭の疲れていることを知っていた。相田にとって、「頭の疲れている」というのは、「心の疲れている」とか、「魂の疲れている」とかいうのとは本質的に区別されるような状態を指していた。相田の心はいまなお素朴で実直であって、しかし何をも考えられなかった。

 相田の行く先ざきで物がしゃべっていた。それらは相田が自らにとって理想的な行動をとるのをやめさせるようなことをしゃべった。これがために相田は自らの理想に接近することをつねに妨げられていた。この事態がいっそう相田の頭を疲れさせた。

 扉も子機も、ベッドもワイナリーも何かをしゃべった。けれども書斎の机といすだけは何もしゃべらなかった。ゆえに相田は、ほとんど、そこでいすに座って机に向かうしかなかった。それは常にそうであった。それは相田の都合を無視して四六時中成立する事実であった。


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 郊外の並木道を抜けて、編集者の乗るタクシーはやがて詩人の邸宅に至った。編集者川北さくらはその邸宅をひと目見て、めまいを起こしかけた。それはただただ広大だった。広大な平屋を囲う塀はどこまでも長く続いて終わりが見えなかった。これがかの「三百帖邸」か、と川北は妙に納得した。

 邸宅の正門と思しきところでは、毛筆で堂々「相田」と打ち出した表札が門扉の脇に掲げてあった。その下には「メディア取材お断り」と張り紙がしてあった。しかしインターフォンがなかった。そのことは相田が訪問者をまるで歓迎していないことを暗示しているようにも感じられた。川北はいっそ帰ろうかとも思ったが、しばし思慮をしたのち、積もりに積もった自らの憤りを思い出して、意を決して門扉に手を当てた。門扉は施錠されていなかったので、押して開けることができた。

 門扉を開けると案外目の前に玄関扉があった。玄関扉にはインターフォンが備えつけてあった。川北はためらいなくそれを押した。インターフォンの鳴る音はわからなかった。

 扉の前で川北は相田にぶつける文句をこさえていた。「作詞の進捗はいまどうなっているのですか」とか、「ご連絡を頂けないので先方は泣いておられますよ」とか、「仲介をさせられる私の身にもなっていただけませんか」とかいった、相田のじつにいちじるしい不手際と、それによってほうぼうに生じている大迷惑とをしかと認知させる必要に堪えうる言葉をいちいち選んでいった。

 文句のレパートリーも尽きてきたころ、がちゃりという音がした。扉がゆっくり開きはじめて相田の顔が川北の視界に映った。相田と目が合って、川北は用意しておいたせりふを慌てて放とうとした。しかしながら、扉は開きかけのままそれ以上開くこともなくやがて閉じてしまった。

 川北には何が何だかまったくわからなかった。フラストレーションのさなか、川北は本来相田邸に滞在するはずだった時間を埋めようと、歩いてオフィスをめざした。


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 あるとき、相田は書斎の棚に麻縄を見つけた。机に突っ伏していた姿勢から起き上がって首を回したときの、その視線の先にあったので、それを発見したのはまったくの偶然であった。しかしある種の約束されたできごとであるようにも思われた。ゆえに相田は観念した。相田はそれを取り上げて自らの首に巻き付け、思いっきり引っ張った。


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 会社に戻った川北は、編集作業がひと段落するたびに相田のことを気に病んだ。あのとき扉のすきまからちらと見えた相田の顔は異常に老けているようだった。相田はきちがいと化したにちがいない。川北にとってそれはもはや疑いようのない事実であった。

 川北は居ても立ってもいられず、相田邸へ電話をかけた。いまの相田が取るとは思わなかったが、とにかくかけた。何度めかの発信音のあと、驚くべきことに、応答が返ってきた。

「もしもし相田……」

 挨拶の途中のような発話が聞こえて、しかしながら、すぐに電話は切れてしまった。川北は落涙をこらえながら、わけがわからないわ、とつぶやいた。

 手紙でも出そうかしら。手紙なら読んでくれるんじゃないかしら。川北は熱心な編集者だった。


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 詩人特有の精神力から、首を絞めつけられているにもかかわらず手の力をゆるめないということが相田にはできた。相田は死ぬまで自らの首を絞めて、それから死んだ。麻縄は言った。

「戻せ」

 麻縄を棚に戻す者はいなかった。

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しわくちゃ
キュアラプラプ

6.真ん中の折りすじに合わせるように点線のところで折りすじをつけて元にもどします。
(折り紙・鶴 - Kids Web Japan より引用)

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 前の人の焼香が終わり、一歩進み出た。目線の先には、ずらりと一列に並ぶ何十枚もの遺影がある。俺が弔いにきた友人の遺影は、右から五番目にあったから、そこを向いて一礼して、香を炉の中に落とした。こういう「集団葬」は、ほんの数年前から普及しはじめた。高齢化に伴って葬儀件数が増加する一方で、社会関係の希薄化というやつなのか、参列者は年々減少し、葬儀の規模は以前と比べてずいぶん縮小していたらしい。葬儀社は、儲からない割には時間と場所を食う大量の仕事によって、パンク寸前の状況に陥っていた。これを解決するために始めたのが、この格安プランの「集団葬」というわけだ。これなら施設を改修する必要もなく、効率的に死者を弔える。これからは社会全体がこういう風になっていくのか、と俺は思った。

 特に遺族ともつき合いはないし、俺はそのまま帰ることにした。葬儀場を出て、蒸し暑い車のエンジンをかける。今時珍しい車載のテレビを点けると、認知症予防効果があるらしいサプリメントの通販番組が流れていた。最近の番組は、どれもこんな風でつまらない。腕時計を見ると、祥子の診察の時間が迫っていた。病院はそこまで遠くないが、祥子を連れ出すのは一苦労だ。俺は車を走らせて、駐車場を後にした。

 俺は死んだ友人のことを思い出していた。彼は新卒で入社した職場での同期だった。大親友というわけではなかったが、そこから転職した後も長い間つき合いがあった。俺とは違ってしっかり者で、要領のいい男だった。しかし、いつからか、俺の方から連絡しても返事が返ってこなくなった。還暦を迎えて数年ほど経った頃だったと思う。そこで関係はあっけなく途切れた。数年経って、ようやく彼の電話番号から着信があったのは、つい先日のことだ。彼は老衰で死んだ、と聞かされた。どうやら、彼のスマートフォンに残されていた友人の連絡先の中から、遺族が俺を見つけてくれたらしい。

 彼は認知症だったそうだ。最期は家族のことも分からなかったというから、俺のことなんて当然忘れていたのだろう。遺影に写っていた、俺の知る彼は、もうとっくに居なくなっていたのだろうか。俺は恐ろしくなった。最近は、祥子も俺のことが分からなくなりつつあるのだ。

 車をアパートの脇に停めた。この頃は祥子だけでなく俺も足腰を悪くしはじめているから、部屋を一階に借りたのは幸運だった。鍵を開けて家に入ると、祥子はリビングで折り紙をしているようだった。

「ただいま、祥子。じゃあ、さっき言った通り、病院に行こうか」

「あなたねえ、この前、病院は行ったばかりでしょ! 今日はもう疲れたから嫌よ!」

 祥子は俺を睨んでそれだけ言うと、再び折り鶴を作りはじめた。

 妻の祥子は、中度の認知症だ。この折り紙も、二年前に認知症と診断された時に、指先を動かすことで認知症の進行を抑えられるというかかりつけ医のアドバイスで始めたもので、彼女はすっかりこれを気に入ったらしく、今では家中に折り鶴が飾られている。しかし、認知症の進行は着実に進んでいて、最近は一人でトイレに行くことも難しくなってきた。

「すまんすまん。でも、お医者さんが今回はすぐ終わるって言ってたから、さっと行って済ませてこよう。今日行かないと、きっと心配されてしまうぞ」

 買い物や何か他の用事で俺が外出しないといけない時、今までは近くに住む娘夫婦に様子を見てもらっていたが、この前ついに祥子は自分の娘のことが分からなくなってしまった。俺以外の人が家に入ってくるとひどく取り乱してしまうのが大変で、ひどい時には物を投げつけたり、爪で引っかいたりもするから、最近は娘夫婦も介護に消極的になっている。本人も含めて家族で相談して、半年前には介護施設へ入居申請を出したが、どこも定員がいっぱいで、祥子はいわゆる「待機高齢者」の列に並んでいる状態だ。このまま祥子が俺のことさえ忘れてしまったら、俺はどうしたらいいのだろう。

「はいはい、分かりましたよ。そこまで言うなら」

 数十分の説得の末、祥子は不貞腐れたように、ゆっくりと立ち上がった。テーブルに置かれている制作途中の折り鶴は、二年前と比べて形が歪んでいるのが嫌でも意識される出来栄えだった。


*        *        *


「治験薬?」

「ええ、そうです。治験といっても、安全性や効果はほぼ完全に認められていて、半年後には新薬として正式に承認されることになっていますから、そこはご心配なく」

 かかりつけの病院で、普段通りに問診や検査をした後、担当の先生は俺だけを部屋に呼んで、治験薬の提案をしてきた。

「認知症の患者さんが混乱してしまうのを避けるために、祥子さんにはちょっと退席してもらいましたが、気を悪くしないでください。後で旦那さんからこの提案のことを話してもらって、それで祥子さんが嫌と言うならもちろんそれで結構ですが、一旦はこちらで詳しい説明をしないといけませんから」

「はあ……。それで、一体どんな薬なんですか?」

「簡単に言うと、ある種の精神安定剤のようなものです。認知症の患者さんが全国で増えていく中で、認知症を原因とする患者さんの妄想や暴言、暴力などによる介護にかかる負担が問題になっています。これらの症状をこのお薬で和らげることで、介護をする人はもちろん、介護を受ける人も負担を減らすことができます」

 手渡された資料には、さまざまな介護現場からの好評の声が書かれていた。「利用者様が進んで介助を受け入れてくださるようになりました」「父が昔のようにすっかり温厚になりました」「これからの家族生活に希望が持てるようになりました」……。

「祥子さんは、娘さんなどに攻撃的になってしまうことがあると仰っていましたが、この薬を服用すれば、そういったことも収まる可能性が高いです。そうしたら家族での介護も上手くいくようになるでしょうし、ぜひ検討してみてください」

 普段処方されている薬に加えて、この治験薬の錠剤を一か月分貰って、俺と祥子は家に帰った。本当にこの薬で言われた通りのことが起こるのだろうか。浮足立つ気持ちを抑えて、俺は祥子にこのことを話した。貰ったパンフレットを見て、祥子は泣いていた。

「ごめんなさいねえ、いつも、迷惑だよねえ」

 しまった、と思った。確かに、祥子にしてみれば、この提案はまるで彼女を責めるもののように感じられるだろう。介護のために来た娘夫婦のことが分からなくとも、自分の感情や行動が制御できていないという自覚はあるのかもしれない。しかし、それは決して彼女のせいではない。これはあくまで、認知症患者の症状の一つなのだ。

 祥子は優しい人だった。遅くに産まれた一人娘を溺愛し、ただの一度も手を上げたことはなかった。娘夫婦が結婚を報告しに来た時、彼女は本当にうれしそうに娘の手を取った。時の流れはあまりにも残酷だ。俺は祥子のしわくちゃの手を固く握りしめて、祥子が悪いわけじゃない、と繰り返しなだめた。気づけば俺も涙声になっていた。

 二人で話し合って、薬はやはり飲むことにした。俺や娘夫婦が悲しむことで最も悲しむのは、祥子自身なのだ。俺は最初、少しだけ、祥子をあたかも押さえつけるようなつもりでいた部分があったかもしれない。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、それと同じくらい、これからも皆で頑張ろう、と思った。どんなに辛いことがあっても、家族で乗り越えていこう。そう思った。


*        *        *


 それから徐々に、祥子は大人しくなっていった。暴力行為がなくなったことに娘は安心したようで、再び介護のために家を訪れてくれるようになったし、去年産まれたばかりの孫も連れて家族で来てくれることも増えた。「あの薬があって本当に良かった」と、娘は言った。

 ただ、俺には一つ気になることがあった。祥子がほとんど言葉を喋らなくなったのだ。実際、認知症の末期には、会話がほとんどできなくなるというのは知っていたが、それにしては祥子はあまりにも急だった。薬を服用しはじめてからたった数日で、ほとんど幼児のような言葉しか喋れないようになったのだ。それに、本当に認知症の末期ならあるはずの、無気力や無表情といった症状は見られない。祥子は今まで通りに折り紙を楽しみ、笑顔で孫と遊んでさえいる。

 リビングのテーブルに座っている俺の視線の先には、今日も来てくれた娘夫婦と孫が、祥子と遊んでいるのが見えた。祥子は目を細め、孫の頭を撫でている。症状の出方には個人差もあるそうだし、治験薬の副作用を疑うのは、やはり考えすぎだろうか。孫は立ち上がって、祥子の周りを歩きはじめたが、少しバランスを崩してよろけ、壁にもたれかかった。その時、壁にセロテープで留められた、祥子の作った黄色い折り鶴が、ぐしゃぐしゃに潰れてしまったのが見えた。すると祥子は、目を丸くして悲鳴をあげ、激しく泣き叫びはじめてしまった。

 おかしい、と思った。あの治験薬を服用しはじめてから、今まではなかった症状が、明らかに、急激に増えている。本当に認知症の進行時期が偶然重なっただけなのか? 固まっている俺をよそに、娘夫婦は慌てて祥子をなだめようとしたが、今度は孫の方まで泣きはじめてしまった。「仲直り」という言葉が聞こえた。さながら二人の幼児の喧嘩を収めるように、娘夫婦は孫と祥子をあやしはじめた。祥子の背中を撫でているのが見えた。

「やめろ!」

 なぜだろう、頭が真っ白になって、気づくと口から言葉が出ていた。

「祥子は子供じゃないんだぞ! 謝れ!」

 娘夫婦は呆然として俺を見ていた。その表情の奥には、ある種の納得と、覚悟を感じさせるようなものがあった。心臓の音が一つ、大きく跳ねた。呼吸が荒くなる。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて……」

「もういい。帰ってくれ」

 そう言うと、すごすごとリビングを出ていく娘夫婦を尻目に、俺は震える手であの治験薬について調べはじめた。辿り着いたのは、この治験薬の承認に反対する団体のホームページだった。俺は夢中でサイトを読み漁る。どうやら、あの治験薬が作用する仕組みは、医者が言っていた通り精神安定剤と同様のもので、脳の感情に関する部位の働きを抑制するところにあるらしい。ただ、その抑制の程度は、ほとんど破壊とさえいえる代物であるという。

 そのサイトは、この治験薬の残忍さを、「ロボトミー」という手術になぞらえて批判していた。この手術は、精神障害への治療法として二十世紀に確立され、世界各地で急速に広まったものらしい。ただし、その手術の内容は、脳のうち感情や人格を司る部分の神経を切除してしまうというものだった。これを受けた患者の人格は変化し、感覚は薄らいだという。「どうしてこんな手術が生まれたのか?」このサイトは読者に投げかける。いわくロボトミーは、考案者がその功績でノーベル賞を受賞し、最も盛んに手術が行われていた時期でさえ、人道的観点からの批判が多くあったという。しかし、この手術が表舞台を去ったのは、これに代わる副作用の少ない薬品が発展してからのことだった。

 「看護が楽になること」――このサイトは、こう結論づけた。ロボトミーが生まれた時代、精神病院は患者で溢れかえっていた。中には暴力的で手に負えない患者も多くいただろう。実際、ロボトミーの先取りとなったある手術は、患者の攻撃性の緩和を目的にしていたという。ロボトミーは、患者から感情と知性を奪うことで、「楽な患者」を実現させていたのだ。俺はここでようやく、このサイトが何を言おうとしているのかを理解しはじめた。さらに読み進めると、話はやはりあの治験薬に戻る。これは新しいロボトミーに他ならない、という記述が、目に飛び込んでくる。

 単に外科手術で人格を破壊するのではない。あの治験薬が引き起こすのは、ここ数年の医学的技術の躍進によって可能になった、脳機能の狙ったところを精密に破壊することによる、人格の操作なのだという。この薬は服用するごとに認知症患者の本来の人格を消していき、介護者にとって最も理想的とされる人格に作り変えてしまうのだ。このサイトの考察によれば、それは「幼児の人格」だという。拙い言葉を喋り、いつも笑顔で、愛くるしい。そんな「楽な患者」を、精神病院の医師たちではなく、今度は日本の何千万もの介護者たちが求めているのだ。俺は絶句した。

 このサイトに書かれていることが正しいのかは分からない。しかし、俺は、一刻も早く祥子の担当医と話がしたいと思った。スマートフォンをテーブルの上に置く。いつの間にか長い時間が経っていたようだが、祥子はまだしくしく泣いていた。気づくと俺は車の運転席にいて、病院に向かっていた。


*        *        *


 病院の駐車場に車を停めた。フロントドアを開けて外に出ようとすると、ズボンの裾に足がもつれて、尻もちをついてしまった。俺は、自分が寝間着のままでアパートを出てきてしまったことに気づいた。近くに車を停めていた若い男がこっちをちらりと見たから、急いで目をそらした。あの男は俺のことを馬鹿にしているように見えた。あの男だけではない。駐車場にいる全ての人が、俺の方を迷惑そうに見ている気がした。ここにいては駄目だ。帰りたい、と思った。俺の身に、何かおかしなことが起きている。

 そうだ、祥子を家に置いてきてしまった。俺は、家を出る時のことを思い出した。祥子は潰れた折り鶴の前で、一人で泣いていた。悲しいだろう。辛いだろう。俺の目から、思わず涙がこぼれ落ちた。俺は彼女のそばにいてやらないといけない。早く帰ろう、そう思った時には、俺は自分の家を探して歩いていた。

 俺はどうして娘夫婦を追い出したのだろうか。手足はまるで金縛りにあっているように鈍い。それを必死に動かしながら、俺は考えた。そうだ、あのまま、あんな風に接していたら、祥子が祥子でなくなってしまうような気がしたのだ。俺の知っている祥子は、自分の娘を殴るような人ではなかった。しかし、なおさら、子供のような笑い声で、子供のように無邪気に遊ぶ人ではなかった。それなのに、その状態がまるで便利なものだと言わんばかりに、祥子を扱う娘夫婦が許せなかったのだ。

 帰り道はまるで迷路のようだった。何回道を曲がっても、パステルカラーと灰色の、ゆったりとした住宅街の景色は一向に変わらない。俺はただ、祥子に謝りたかった。あの治験薬は、すぐにでも全国に広がるだろう。大量の認知症患者の対応に追われて介護施設はパンクし、あぶれた患者に各家庭は不和を抱え、介護殺人は殺人事件のうち最も主要な割合を占めている、こんな現状では、あの薬を使ってしまうのが、社会にとっては遥かにましだからだ。だが、それは必ずしも、祥子自身のためにはならないのだ。涙が止まらない。肩が激しく震える。唾が喉に詰まって、息が苦しい。

 きっと、社会は老いすぎた。いつの間にか、老いを受けいれ、尊重する余裕を、社会は失ってしまったのだ。膝に手を置いて立ち止まる。深いしわの刻まれた俺の手の甲に、感情の制御を失った涙が落ちてくる。ふと、人生は折り紙のようなものだ、と思う。しわの数だけ折り目が増える。折り目の数だけ形が出来る。たとえぐちゃぐちゃに潰されてしまっても、細く張り巡らされた折り目を見たら、その形が思い出せる。しかし、今や、折り目を愛する物好きは疎まれるばかりだ。

 大きく息を吸い、天を仰ぐと、すぐ近くに真っ黒な煙が上がっているのが見えた。俺は血の気が引くのを感じた。ほとんど最後の力を振り絞り、重い体を動かして、その方向に近づくにつれて、俺はその煙が祥子のいるアパートから立ち上がっているのを確信した。周りには逃げ出してきた他の住人が集まり、慌てて騒いでいる。近づいてくる俺の姿を見つけたらしい一人が、話しかけてきた。

「ああ、旦那さん、大変、祥子さんが……ちょ、ちょっと! 危ないですよ!」

 呼び止める声を無視して部屋のドアを開けた。その瞬間、体が痛いほどの熱気に包まれ、額から汗が噴き出した。祥子はリビングの真ん中で、目を閉じて倒れていた。部屋は、灰色のかすれた煙と、オレンジ色ののぼせるような光で満たされている。声にならない叫びが、喉からしみ出してくる。俺はゾンビのように廊下を渡り、膝を曲げて、祥子の目の前に倒れ込んだ。壁の全面から火の粉が舞い落ち、ばちばちと音を立てる。

 彼女の右手には、コードの抜けたアイロンが握られていた。そして、すぐ近くには、黒焦げになったぼろぼろの物体があった。それは、間違いなく、あの潰れた折り鶴だった。

「あ、ああ、あ」

 俺は祥子のひんやりとした左手を両手で握りしめて、祈るように額に当てた。肺は痙攣したように、熱い空気を受けて咳き込む。視界の端から真っ暗になっていく。

 祥子はきっと、潰れてしまった折り鶴を作り直そうとしたのだろう。そして、彼女はアイロンがけのことを思い出したのだ。ぐちゃぐちゃになった折り紙のしわを取り、元のようにまっさらにしてから、やり直そうと思ったのだ。視界が散乱し、あらゆるものがぼやけて、重なりあう。俺があの時、怒りに任せて娘夫婦を追い出していなければ。俺があの時、祥子を置いて出ていかなければ。祥子の話に耳を傾けて、二人で折り鶴を作り直していたら。再び涙が止まらなくなった。

 家に帰りたい、と思った。祥子の介護のために、認知症の症状はよく調べていたが、それを自分に結び付けるのは難しかった。しかし、今、俺にも認知症の症状が出はじめていたことを、ようやく悟った。強い「帰宅願望」がある。外出時の服装がおかしい。自宅に歩いて帰れない。怒鳴る。すぐに泣いてしまう。娘の名前も、孫の名前も、思い出せない。

 薄れゆく意識の中、サイレンの音を聞いた。玄関から入ってくる人の気配がした。「もう大丈夫ですからね」と、二人がかりで俺を担ぎ上げた。俺はこれから、どうしたらいいのだろう。娘のことも、孫のことも、祥子の名前も、祥子のことも思い出せなくなったら、俺はどうしたらいいのだろう。葬儀場で、あなたの遺影を見つけられなかったら、どうしたらいいのだろう。

 その時俺は、あの薬を飲むのだろうか。

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蝶を食べる
Notorious

僕は蝶を食べているところを彼女に見られてしまう。

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 彼女と目が合った。校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女は、微かに顔を引き攣らせ、僕の口からはみ出した翅を見ている。何か声をかけようかとも思ったけれど、いま口を開くと蝶が飛んでいってしまうから、仕方なく蝶の体を奥歯で丁寧に噛み潰す。細くて小さな命がぷちりと断たれる感触がする。次に翅を右手で口の中に押し込み、咀嚼する。まるで新聞紙を食べているようで、口の中が急速に乾いていく。何度も何度も噛んで、小さくしてから少しずつ呑み込んでいく。その間もずっと、彼女は僕の口の中の蝶をじっと見ている。展翅板にピンで留められた昆虫に似たところを僕は感じる。頬の内側に貼りついた翅の切れ端を苦労して舌でこそげ取って呑み下し、口元についた鱗粉を左手で拭い取って、ようやく話せるようになる。少し迷って、安直な問いを口にする。

「こんなところで何してるの?」

 彼女ははじめて視線を僕の口元から目へと移した。

「今の、何」

「白帯揚羽」

 黒の翅に白い帯のような模様が映える、美しい揚羽蝶だ。この校舎裏の藪で見かける蝶の中では最も大きい部類に入る。そんなことは聞いていないと言いたげな目で見られる。

「食べたの?」

 彼女は固い声を崩さない。少し上目遣いに、鋭く僕を見ている。非難するような、警戒するような、戸惑うような目。

「うん」

「冗談でしょ」 

「いや、本物の蝶。生きてる蝶」

 懐疑の視線をいっそう強め、

「なんで?」

 そう問われて僕は少し困ってしまう。理由がわからないのではない。だが言葉にするのが難しい。とりわけ、他の人が呑み込めるような言葉にするのが。結局、当たり障りのないことを言ってしまう。

「なんかいいんだよね」

 彼女は眉間に皺を寄せ、

「意味わかんない」

 と吐き捨てると身を翻してしまう。彼女が校舎の陰へと姿を消すのを見送ると、僕は虫取り網を外からは見えない藪の中へと戻し、鞄を拾い上げて校舎裏から離れる。いつも、蝶を食べた後は理科室外の水道で口をゆすいでから帰る。口内が鱗粉まみれで、このままいられたものではないのだ。


 彼女は友達とは言い切れないが、かといって全く親交がなかったわけではない。クラスで顔を合わせるし、グループ活動なんかで一緒になれば話もする。けれど、それだけだ。僕は彼女が吹奏楽部でサックスを吹いていることを知っている。二つ年上の姉と仲が良いことも、喫茶店でブラックコーヒーを頼んで友人を驚かせたことがあるのも、自分の目つきの悪さを気にしていることも知っている。つまるところ、僕は彼女のことを何も知らない。それは向こうも同じのはずだ。だが、今の彼女は、僕が他の誰にも知られていない側面の一つを知っている。

 翌日の朝には教室中の人が知っているものかと思っていたが、予想に反して、気味悪げな視線に囲まれることもなく自分の席にたどり着いた。いや、一つ。彼女は教室の反対側から横目で睨んできた。どの面下げて来たんだとでも言いたげで、彼女の目つきはきついなと僕は改めて思う。けれど彼女はすぐに目線を外し、女子たちの会話に戻っていく。僕はやや意外に思いながら鞄を下ろすと、後ろの席の友人と昨夜地上波放送された映画の話を始める。

 放課後、空を舞う蝶たちを虫取り網を片手に見ていると、藪をざわめかせる風の音に交じって、草を踏みしめる足音が聞こえた。校舎の角を見ていると、彼女の姿が現れた。出し抜けに目が合って彼女はぱっと視線を逸らしたが、やがて意を決してこちらにずかずかと歩いてくる。非難するような、必要以上に攻撃的な目でしっかと僕の目を睨んできて、その勢いに僕はいささか面食らう。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。僕の横に仁王立ちした彼女に、とりあえず昨日と同じ質問をする。

「こんなところで何してるの?」

「あんたこそ」

『あんた』と呼ばれるのは初めてだ。格下げ、いやお近づきの印かもしれない。

「僕は虫取り」

「……取って食うの?」

 ぞんざいな口調の中に、ほのかな怖れが感じられて僕は軽く驚く。怖がせるのは本意ではない。

「かもね」

 彼女は押し黙る。僕は三度目の問いを発する。

「何しに来たの?」

「誰かさんが今日もいたらどうしようかと思って、見に来たの」

 いて悪うござんしたね。

「じゃあ昨日は?」

 彼女は一瞬言葉に詰まった。

「たまたま。昨日は部活がなかったから、一人で帰ったんだけど、バスの時間までに結構あったし……。そういえばこっちの校舎の裏って見たことないなあって思って……ほんとよ?」

 歯切れの悪さに僕は不審に思う。

「怪しい。人のいないところで何かしたかったんじゃないの?」

「違うってば!」

 彼女は噛みつくと、目を逸らしてばつが悪そうに言う。

「だって、見たことないところに行ってみようだなんて、子供みたいじゃない……」

 しょげた彼女に僕は意外の念に打たれたが、それ以上にその姿が一番子供っぽくて、思わず笑ってしまう。

「何よ」

 むくれた顔で睨んでくる。それもおかしくて笑ってしまい、彼女はさらにむくれる。

「謝んなさいよ」

 なんで?

 ひとしきり笑ったら、校舎裏の様子を知りに来た彼女に教えてあげる。

「ここは雑草が生え放題で高い藪になってるよ。校舎と裏山の法面に挟まれた狭いスペースだけど、日当たりはいいみたいだね」

「見ればわかるわ」

 悪うござんした。

 今まで通りの『知り合い同士』の雰囲気が流れ始めていた。けれど、彼女はふっと真面目な顔つきになり、藪を見やる。

「ねえ、あんた、昨日……蝶を、その、食べてたじゃない」

 僕は手に持っていた虫取り網を離す。彼女は意を決したようにこっちを向く。

「なんでそんなこと――」

 僕は彼女の顔の横に素早く両手を伸ばし、思い切り手の平を打ち合わせた。風船が割れたような音が鳴る。

 手を開くと手の平には潰れた蚊がついている。

「ここ蚊が多いんだよね」

 それを払い落としてから、ようやく彼女が身を縮めていることに気づく。その表情にはっきりとした怯えを感じて、僕は慌てた。

「ごめん、驚かせるつもりはなくて、その」

 とりあえず両手を伸ばしたが置くところもなくて、彼女の肩の上の中空でおたおたと動かしてしまう。彼女は首を振って顔を上げた。

「そうだ」

 僕は逃げるように鞄の中をまさぐる。

「これ、虫除け。使って」

 差し出したスプレー缶を、彼女は少ししてから受け取って、細い腕に吹きかけ始めた。

 所在なくなった僕は、とりあえず藪の上の蝶を眺めてみたり、虫取り網を拾って玩んだりする。けれど沈黙に耐えられなくなって、彼女の質問の答えを探す。

「蝶を食べる理由だけど――」

 彼女に向き直ったら、虫除けスプレーをスカートの中の脚にかけているところだったので、慌てて姿勢を戻す。

「それで?」

「うん、えっと……蝶って暴れないんだよね」

「え」

「本当は暴れてるんだろうけど、僕の方がずっと力が強いから、実質的に抵抗しないと言えるというか。それに、鳴いたりもしない」

 そこで彼女を見ると、嫌悪感も露にこちらを見ている。そっちが聞いてきたくせに。

「まあ、そういうところが、なんというか、好きなの」

「どういうことよ」

 思い切り眉をひそめている。どう見ても納得していない。

「抵抗しないからいいだなんて、そんなわけないじゃない。そんなの、そもそも暴力を振るうことが前提になってるでしょ。その理由を聞かせなさいって言ってるの」

 目つきも言葉も苛烈だ。そしてぐうの音も出ない。

「虫を殺すのが楽しいんでしょ」

「違うよ。楽しんでるんじゃない。それに、蝶以外は食べてない」

「じゃあどうして」

 僕は考え込んでしまう。自分の中で働いているこのメカニズムは、しかし言葉にしようとすると見たこともない何かに変質してしまう。頭の中の言葉が入ったおもちゃ箱をひっくり返して、手の中にあるこれと似たものを目を凝らして探す。

「儀式というか……験担ぎ?」

「真面目に答えて」

「大真面目だよ。ほんとだって」

 ますます怪訝な顔つきの彼女を押しとどめて、言葉を探す。

「ここに入学するときの試験で、シャーペンじゃなくて鉛筆を使ったの。塾の先生から貰った、普通のHBの鉛筆。それを使って合格したから、その後の定期テストでも験を担いで鉛筆で解いてるんだ。芯が折れたら困るから、予備を何本も用意して」

 彼女の目尻がどんどん吊り上がっていくから、早口で結論を急ぐ。

「けど、普段は使わないものだから、あるテストのとき筆箱に鉛筆を入れてくるのを忘れちゃったんだよ。仕方ないしシャーペンで解けばいいんだけど、なまじ今までずっと続けてた習慣だから、今更やめたら何か悪いことがありそうな気がしてしょうがない。どうしようもないから、朝のショートホームルームが始まる前にコンビニまで走って鉛筆を買ったの。それを机に置いたときの安心感は今でも覚えてる」

 一度大きく息を継ぐ。

「蝶を食べるのはこのときに似てる。『やるべきだ』と透明な力が僕を動かしている感じがする。何かいいことがあるでもないとわかってはいるんだけど、だからといってやめる気にはならないというか」

 彼女は口元に手をやって、わずかに僕を見上げる。

「それって、絶対早く寝た方がいいのにショート動画を見る手が止まらない、みたいな?」

 僕は首を傾げる。

「あんまりピンとこない」

「なんでわかんないのよ」

「寝る前は携帯見ないようにしてるから」

 どうしてそんな目で見てくるの。

 僕は咳払いをして藪に一歩近づく。今日は大きな蝶はあまり飛んでいない。

「とにかく、そういうわけ」

 低いところを飛んでいた紋白蝶をめがけ、網を振る。蝶は不規則な動きでひらりと避けるが、二度三度と網を切り返すと、プラスチックの輪に捉えられた。くるりと網を返して逃げられないようにしたら、網を手繰り寄せ、動けなくなった蝶の羽をそっと摘まむ。翅の小さな黒の斑点が指に隠れて見えなくなる。

「ねえ」

 彼女は僕の指の間の、親指の爪ほどに小さな蝶を見ている。

「食べるの?」

「うん」

「どうして?」

「さっき言ったじゃん」

「あんなの納得できないわよ。……ねえ、もしかしたら、あんたも本当の理由に気づいてないんじゃない?」

 その言葉に僕は虚をつかれる。彼女は探るような目で僕の瞳を覗き通している。たとえそうだとしても、と僕は気を取り直す。

「そうだとしても、僕が蝶を食べることに変わりはない」

 そして僕は蝶を口に運ぶ。

「あっ」

 彼女が声を上げるのと同時に、僕は蝶の体を前歯で噛み潰す。小さな蝶だから、口の中で飛び回られても困る。そうしたら、小さな翅の全てを口に含み、奥歯で丁寧に噛み締める。昨日の揚羽蝶と違い、数回顎を動かしたら口腔内で小さな塊になる。喉仏を上下させてこれを一息に呑み下したら、唇についた白い鱗粉を親指で拭った。

 昨日と同じように、彼女は僕の口元をじっと見つめていた。けれど、その目には昨日と違うものが映っているような気がした。衝撃と厭悪の中に、ほんの少し別の何かが交じっているような……これは、感嘆?

 まじまじと見ていると、ぱっと目が合い、顔を背けられた。左手はセーラー服の裾を固く握っている。

 気にかかったけど、でも今日の用事は済ませた。

「じゃ、僕は帰るよ」

 虫取り網を片付けて鞄を持つと、僕は彼女を置いて校舎裏を離れた。彼女は何も言わなかった。

 僕はそのまま学校から出ることにした。口をゆすいでいるときに彼女に追いつかれたら、もう一回別れの挨拶をしないといけなくなる。食べたのが小さな蝶でよかった。


「半日ぶりね」

 振り返ると彼女がいた。この校舎裏で蝶を食べる習慣ができて一ヶ月ほど経つが、朝にここへ来るのは初めてだった。放課後よりも透明な光に溢れていて、彼女の姿も昨日よりずっとはっきり見えるようだった。額には汗粒が浮かんでいた。

「これ、取りに来たんでしょ」

 彼女は鞄のジッパーを開けると、虫除けスプレーを取り出した。昨日の僕の忘れ物だ。

「うん。ここに置いてあるかもと思って。でも持ち帰ってくれてたんだね。ありがとう」

 差し出した右手にいきなり冷たいスプレーを掛けられて、僕は思わず声を上げて手を引っ込めた。

「ふふっ。サプライズ」

 笑みを浮かべた彼女が自身の腕にスプレーし始めるのを見て、僕はようやく悪戯に引っかかったことに気づく。

 朝の光に元気を増した藪を見ながら、手持ち無沙汰なので彼女に話しかける。

「どうして僕がここにいるのがわかったの?」

「校門をくぐった辺りで前を歩くあんたを見つけたの。正面玄関の前でいきなり人の流れから外れてどこかに向かうんだもん。校舎裏に行くんだなってすぐわかったわよ。だからついてきたの」

「いつもは登校してくるの早いのに、今日は随分遅かったんだね」

「今朝は普段より一本遅いバスに乗ったの。そしたら道は混んでるし信号はことごとく赤になるし、挙げ句の果てにはおばさんが降りるときに長々と両替し始めるの。あんなにあった信号待ちの間にやっておきなさいよって話」

 彼女はご立腹のようだ。

「あんたはいつも通り遅刻ギリギリね」

 そうだ、そろそろ朝のショートホームルームが始まってしまう。

「もう遅いわよ」

 呆れた声とともに時鐘が鳴った。いつも聞いているより音が遠い。

「どうせ遅刻なんだから、ゆっくりしていきましょうよ。ほら、手を出して。そうじゃなくて、両腕をまっすぐ伸ばしなさい。スプレーしてあげる」

 虫除けを返してくれるのだと思ったら違った。伸ばした僕の腕に彼女はスプレーを満遍なく吹きつける。自分の腕の産毛がにわかに気になりだして、いたたまれない。

「長ズボンだし足はいいわね。じゃ、首にかけるわよ」

 つかつかと歩み寄った彼女は僕の首にスプレーを向け、否応なく僕は顎を上に向ける。単調な噴射音とともにスプレーが首にあたり、その冷たさに僕は体をこわばらせる。首元への噴霧を終えると、彼女は訝しげな顔をした。

「何よその顔」

「いや、どういう風の吹き回しかなあと思って」

 出し抜けにスプレーが顔に向けられ、

「シュッ」

 目をつぶった顔にスプレーは飛んでこなかった。

「サプライズ。あんた案外ちょろいのね」

 そう言って彼女はスプレー缶を投げてよこした。いやはや、なんとも敵わない。

「ねえ、僕が言うのもなんだけど、戻らなくていいの?」

「今更急いでもね。それに、遅刻してきたやつがまだその辺を歩いてるかもしれないでしょ。わたしとあんたが仲良く校舎裏から出てくるのを目撃されたりしたら、どんな噂が流れるかわからないわ」

「ふうん。じゃあショートホームルームが終わるまで待つの?」

「甘いわね。一時間目の前の休み時間になると、また人目が多くなるわ。みんなが確実に教室にいる隙に、ここを出るべき。狙うは一時間目の真っ只中よ」

 この人、地理の授業をサボるつもりだ。

 まあ、僕もやぶさかでないけど。校舎の壁に背を預け、地べたに座る。視点が低くなったから、藪の草丈がより高く見える。彼女もハンカチを敷いて、横に腰を下ろした。

 しばし、並んで蝶を眺める。朝の光を浴びて自在に舞い踊る蝶は、いつも以上に可憐で愛おしく思える。

「そういえば、僕が蝶を食べること、誰かに話さなかったの?」

 彼女は前を向いたまま頷いた。

「次の日にはクラスどころか、学校の全員が知っていて、『怪奇! 蝶食い男』ってネットニュースになってると思ってたのに」

「わたしを誰だと思ってんのよ」

「学校のネットワークを牛耳ってる裏番」

「面白くない冗談言わないの」

 面白くなかったですか……。

 彼女はため息をついて恨みがましく言った。

「わたしの気も知らないで……。突然友達が蝶々を食べているところを見せられてみなさいよ。この二日間、わたしが怪奇蝶男のためにどれだけ気を揉んだことか」

「その呼び名じゃあ、僕に蝶の翅が生えてるみたいだよ」

「黙ってて」

 ごめんなさい。

「先生とかに相談するべきなのか、本人と話すべきなのか。他の人に言っていいのか、わたしの心の内に留めておくべきなのか。そもそもやめさせるべきことなのか……」

「やめさせないっていう選択肢もあったの?」

「あんたのやってることはおかしいわ。どう考えたってそう。でも、おかしいことがやめないといけないこととは限らないじゃない。他者危害の原則なんて考えもあるけど、じゃあその他者の中に蝶は入っているのか。あんたのプライバシーもあるけど、それより社会の利益が勝るのか……。そんなことが頭の中を、ぐるぐるぐるぐる回り続けて、苦しかった、まったく」

「ごめんなさい……」

 彼女の真面目さが垣間見え、僕はひたすら申し訳なく思う。

「じゃあ、どうして黙っててくれたの?」

「それは……」

 彼女は一瞬口ごもって、それから吐き捨てる。

「わたしが優しいからよ」

 僕は口を開きかけて、やっぱり閉じる。藪を渡る透き通った風を見る。遠くでチャイムが鳴る。僕らは並んで座っている。


 しばらくの沈黙のあと、僕は腰を上げて、藪の中の虫取り網を取りに行く。せっかくだし、今日の分は朝に済ませてしまおう。

「蝶を食べる理由、聞かせなさいよ。わたしは全然納得してないわ」

 網の柄についた草を払い落とし、蝶にあたりをつける。一月前に比べてずいぶん蝶の姿も減った。もう蝶がいなくなる季節が近いのかもしれない。そのときになったら、僕はどうするのだろうか。

「やめられないの?」

「うーん、一度やめようとした。けど、そしたら蝶を食べてない自分がどうにも気になって、ざわざわするんだ」

 低いところを紋黄蝶が飛んでいる。僕はそいつに狙いを絞る。

「それって、絶対ほっといたほうがいいのに、指のささくれが気になって引っこ抜いちゃうみたいな?」

「そうそう! 布団に入ってから一旦トイレに行きたいような気がしたら、気になって結局トイレに行くまで寝られないみたいな」

「ああ……」

 あれ、あんまり喩えが上手くなかったかな。

 手首のスナップを利かせて網を振るうと、蝶はあっさりと囚われた。虫取りの腕も上がったようだ。

「蝶を食べるのは楽しいの?」

 網に手を入れながら、僕は首を傾げる。楽しいのとは違う気がする。逃げようと羽ばたく翅を、親指と人差し指でそっと閉じる。

「じゃあ、嬉しいの?」

 それも違う。なんかいいとしか僕には言いようがない。右手を網から引き出し、蝶を口元に持っていく。

「それとも……」

 一時間目の始まりの鐘が鳴る。開けた口を閉じようとしたそのとき、彼女が言った。

「おいしいの?」

 僕はその声音に驚き、彼女の顔を見てさらに驚いた。

 その目は、それは……。

 本来は授業中の時間に、ここで二人話している。この状況がもたらすどこか背徳的な高揚感が、僕にこんなことを言わせたのかもしれない。

「食べてみる?」

 彼女は硬直した。その視線は吸い寄せられたように、僕の手の中の蝶に釘づけになっていて、僕が歩み寄っても彼女は首を振らず、ただ蝶に見入るだけだった。

 僕は彼女の正面に膝をついた。そこで初めて彼女は僕の方を向いた。その揺れる瞳を覗き込んで、僕は「冗談だよ」と言う機を逸して、代わりに「口開けて」と言って、そうしたら彼女が控えめに唇を開いたから、僕は今更ながらに後戻りのできないことを悟った。

 僕は左手を彼女の頭の後ろに添えて、右手の蝶を彼女の口に挿し込んだ。彼女の頭が微かに震えた。

「噛んで」

 目を細めて曲線的な顎を上向かせ、その顎がゆっくりと閉じ、蝶が彼女の生贄となる音が聞こえた。彼女の肩がぴくりと跳ねた。

「もう一度噛んで。そう。翅全部を口に入れて。そうしたら、奥歯でよく噛んで。翅の形がなくなるまで」

 彼女は僕の言葉に従順で、そのさまに、危うく声が震えそうだった。僕は自分の不見識を、蝶を食べる本当の理由を、そして彼女の言葉の意味を、まざまざと感じ取ってしまった。

 よくよく蝶を噛む小さな顎の動きは愛しくて、黄色の鱗粉がついたつややかな唇は蠱惑的で、虚ろに細めた焦点の合っていない目は煽情的で、彼女が蝶を食べる姿は可憐で、艶めかしくて、どこまでも美しかった。

 知らなかった。僕はきっとこの姿を見たかったのだ。そして彼女の目にはこれに類するものがきっと映っていて、だから彼女は首を振らなかったのだ。

 彼女は白く滑らかな喉をそっと上下させて、蝶を嚥下し、小さく震えた息をついた。唇には蝶の鱗粉がついていた。その姿は、まさに蝶のようで。

 僕は彼女の唇に自分の唇を押しつけた。彼女は小さく声を洩らした。僕の柔らかいところに、さらに柔らかい彼女の唇があたっていて、ついていた鱗粉を舌で舐め取る。彼女の肩が跳ねる。口が開く。彼女の首は仰け反り、上を向く。左手で彼女の頭を押さえる。舌は彼女の口内に入り、前歯についた触角を、奥歯に詰まった翅の欠片を、頬と舌についた鱗粉を、拭い取る。唇を離すと、唾液の糸が引いて、やがて切れて、彼女の唇の端から垂れた。僕は彼女の口の中にあった蝶の痕跡を飲み下した。彼女の髪は乱れて、肩は細かく震えて、体からは力が抜けていて、目はぼうっと僕を見ていて、僕はどきりとした。

 彼女は我に返ったように口元を拭いて、僕は慌てて左手を離した。目の前で向かい合って地べたにへたり込んで、僕らは互いに顔を赤くしあって、目を逸らしあっていた。どこかで鳥が鳴くのが聞こえた。

「あっ、あの……ごめん……」

 彼女は例の上目遣いで射るように僕を見た。

「謝んないでよ……」

 そう言って彼女はまた俯き、その掠れた声に僕はまた耳まで赤くなってしまう。

 どうしてこんなことになってしまったのか、今からどうしたらいいのか、僕は何もわからなくて途方に暮れるけれど、一つだけ確かなことは、彼女のそのきつい目つきは、それはそれでいいなと、僕はそう思う。

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屠殺場の羊

屠殺場の羊は、暖かかった。

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 晴天うるわしかったかの日、私は眠っていたところを起こされた。私の眠りを羊にたとえるならば、それが屠殺されたといったぐあいだった。

「起きなさい」

 さていま鉤括弧で括ったこのせりふを放って私を起こした男は、学校という被差別部落に身を置く、教師という穢多者だった。この、しきりに数学を教えたがる穢多者が卑しくも私の羊を屠殺したものと事態は解された。

 いったいこれは屠殺場の稼働時間、つまりは、授業中だった。はたして授業というのは被差別部落でも行われているのだろうかと私は疑問に思ったが、きっと、たんに、学校が存在する被差別部落では行われているが、学校が存在しない被差別部落では行われず、そこに暮らす子どもたちが隣接諸地域に出向いて授業を受けているのみなのだろうという結論に至ったところで、

「まったく」

と穢多者は吐き捨てて、クリイン・ゾオンよろしく教壇へと戻っていったのだった。このとき彼は、ダアテイ・ゾオン戻りの身ながら、その全身どころか、その手を清めることさえしなかった。それが彼をいっそう穢れさせた。

 まもなく、屠殺場の稼働の終了を告げる時鐘が鳴った。穢多者はもはや屠殺者ではなくなり、私は安心して新たな羊の飼育をはじめた。

 やがて、私のいっときの安心とは裏腹に、羊はわなわなと震えだした。その震えは、自身の生命に危険のせまっているのを彼の動物的本能が捉えたことを示していた。このような本能は、どこまでも本来的であるがゆえに、自然界のオペレイシヨンに狂わぬ予定を与える。ほどなくして、いったい、屠殺場の朝が告げられた。屠殺者がふたたび現れたのである。それは昨日と別の、つまり一限めとは違って、禿げていて米英のことばを教えるのが得意な屠殺者だった。

 羊は――道にあらざるこの屠殺者を前に、羊は、死への恐怖におののいた。羊もまた死へ向かう存在なのだった。私はこのうるわしき死への存在を無碍にしたくはなかった。彼をひとつの重んぜらるべき格を備えた存在とみなして、彼の母親となって擁護してあげたかった。このために私は、この髪のない穢多者が、私と私の羊に向かって、悪魔も震えるような声で

「おい」

と言い放ったときも、その羊を必死に抱きかかえていたのである。

 彼は――羊は、貪欲な人間が食べるために生まれたのでなかった、内なる道理に従って、ただ生をまっとうするはずであった。この無垢な羊は、やんごとなき種族の捕食には向いていない。誰も彼を真の意味でおいしく食することなどできないのである。いつだって、そのことを悟りきれぬ盲目な鈍感者が、羊を食べようとするのだった。

 また時鐘が鳴って、この私に安心が訪れた。それはなお見かけの安心にすぎなかった。そして羊の本能はその欺瞞を捉えていて、それを態度で訴えた。ああ、そのとおりだ、この被差別部落にキンコンと響いたことが、どうして羊の生命のゆくえを左右しようか。

 それから何度も何度も、くりかえし時鐘が鳴った。その偶数回めが来るたび私は心の底から安心した。その安心があくまでも見かけの安心にすぎないことはしかし、もはや私の悟るところとなっていた。私は苦しかった。いかに私が安心すとも、羊の震えは収まらなかったから。

 あるとき羊が私に幻を見せた。それは羊が幼いときのようすを映した。幼い羊は牧童をちらと見て、阿呆な彼が物欲しそうにただ空を見上げてぽかあんとしているのを認めるや否や、まきばの柵を飛びこえて、山を降りていった。

 幼い羊は里に着いた。そこでは人々がつまらなそうに歌を歌っていた――歌を歌いながら、鍬を土に叩きつけていたのだった。恐怖したそれは帰ろうとした。それの帰るところとは、あの阿呆な牧童のいるあのまきばにほかならなかった。

 しかし、幼い羊は気づいた。自分は、まきばへ帰る道を知らない、と。それは意を失った。それは、ひょっとすると、ひもじさを感ずるよりも前に頓死してしまうかもしれなかった。

 幻はそこまでで、そこからはまことであった。震える羊を私はいっそう強く胸に抱えて、耐えていた。

 彼はしかし、何度めとも知れぬ時鐘のあと、天命を悟ったように震えるのをやめ、ふっと力を抜いた。私は拍子抜けしたが、彼はそのまま、私の胸のなかで息を引きとった。

 息を引きとった羊の、その皮はなぜか暖かそうに見え、その肉はおいしそうに見えた。かつて厳かさの種を固持してその芽を発せさせつつあった彼が、それを種ごと失って、にもかかわらず、果実をなしたのだった。

 羊の果実はじつにうまそうだった。私はこれにかぶりついた。私の鍬は肥大してやまなかった。羊のそのかさばった毛は私の肥大した鍬を受け入れた。私の昂揚は鍬を伝って羊の毛の各々を湿らせた。

 窓越しの星明かりに反射して煌々たる、この湿った羊の毛は、私の鍬をさらに増大させ、この鍬をもってするならば、いかなる荒廃田畑をも蘇らせることができるのではないかと疑わせた。この鍬をもってするならば、あらゆる種類の外敵を返り討ちにすることができるのではないか。この鍬をひとたび溶かせば、それだけで巨大な仏像が作れるのではないか。もっとも、そのようなことはすまいが。

 もう、二度と時鐘は鳴らなかった。

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わたしの水面みなも
Notorious

作中の引用は「モーパッサン短篇選」(高山鉄男編訳・岩波文庫)によりました。

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拝啓

 春もたけなわ、先生はいかがお過ごしでしょうか。お変わりなくお元気であることを願っております。わたしはといいますと、大学の前の道に並んで植わっている花水木の花が散りはじめて、地に落ちた濃いピンクの花びらをできるだけ踏まないように自転車を走らせています。

 いえ、あれは花びらではありませんでした。花水木の花びらに見えるものは特殊な葉で、花は真ん中の緑の部分だけなんだと教えてくれたのは、先生でしたね。あれは学校の外でしたから、いつかの金曜日の放課後、吟行の途中だったんでしょう。大学の俳句サークルで、高校の詩歌部では顧問の先生に連れられて毎週吟行と称して学校の周りを散歩していたと言うと、いつも驚かれます。運動部ならともかく、文芸系の部活を力を入れて指導してくれる先生はあまりいないんですって。いい先生だねと言われて、わたしは誇らしくて天狗のように鼻を上向けたりするんですよ? さて、花水木が咲いていたんですから、二年前か三年前か、とにかく今くらいの季節の吟行の途中、先生が頭上で咲いている花水木の花に指先で触れて、中央の小さな緑こそ本物の花なんだよと仰いました。それは白の花水木でした。そのあと真紀ちゃんがわたしの耳に口を寄せて、さも大切な秘密を共有するかのように、グリーンピースが乗ったシュウマイみたいだねってこそっと囁いたんです。わたしは笑ってしまいました。それ以来、わたしは白の花水木を見るたびにシュウマイと真紀ちゃんの声を思い出すんです。わたしの住む街はそちらより南ですから、ちょうど今頃、あの木には白い花が満開になっているんでしょうか。見かけたら教えてください。

 もう一つ思い出話を書かせてください。詩歌部員でない高校の友達との話で先生のことが話題にのぼると、友達は先生を「国語の先生」と語ります。わたしは先生のことをまず「詩歌部顧問」と認識しているので、わたしはちょっと意外に感じるんです。わたしだって二年生のときは先生に国語を教わっていたんですから、先生が国語教師という感じがしないのは、単にわたしが不真面目な生徒だったということでしょう。近くの席の梢ちゃんや広香ちゃんと喋ってばかりでしたもんね。先生、その節はごめんなさい。さて、そんな問題児のわたしですが、先生の授業で強く印象に残っているものがあります。それはモーパッサンの短編小説が取り上げられた授業でした。セーヌ川の漁師が川の恐ろしさを語る話です(題名を忘れちゃったので、今ちょっと調べたら「水の上」でした。仏文学科の学生にあるまじき姿ですね)。護岸されて街中をゆるゆると流れるものくらいしか見たことがなかったからでしょう。わたしはその頃、川は清浄で美しくて涼やかなものだというイメージしかなかったものですから、川が陰険で無気味で恐ろしいものだと語るその話は、ちょっと大袈裟ですが、ショッキングでした。そうして、最後になって川は「金糸銀糸に織りなされて火のように燃えつつ流れる」んです。その凄絶で恐怖さえ覚えるほどに美しい、モーパッサンの書く夜のセーヌ川の姿が頭に焼きついて、わたしは一時期川を見るたびに夜になるとそれが見せるかもしれない恐ろしい風景を想像したものです。この授業を受けた頃は作者なんて特に意識していませんでしたが、今わたしがこうしてフランス文学を専攻しているのは、何かの縁なんでしょうね。

 前置きばかり長くなってしまいました。突然こうして先生に手紙を書いたのは、今年の夏にフランスへ留学することになったからです。といっても短期のものですから、研修期間も含めて一か月ちょっとの気軽なものです。それでも先生にご報告したくて、こうして筆を執った次第です。わたしが参加するのはパリの大学との交換留学プログラムで、同じ大学の五名と一緒に参加します。短い簡単なフランス語研修のあと、現地の大学で交流したり講義を受けたりします。わたしは生きたフランス語に触れるとともに、国文学としての仏文学や自国の歴史としてのフランス史を学びたいと思っています。

 この大学に入学したときは、自分が二年と少ししたら海外留学するだなんて、欠片ほども思っていませんでした。それどころか、三か月前の自分もそうです。四月の初めにゼミの教授からこのプログラムを薦められ、しかも単位が出ると聞いて、昨年度に古フランス語の単位を取り損ねたばかりのわたしは、ほいほいと飛びついたんです。我ながら向こう見ずですが、今までもこんな風にその場任せでやることを決めてきた気がします。仏文学ゼミに入ったのはその頃たまたまダフト・パンクに入れ込んでいたからだし、文学部を選んだのは文系で法律や経済よりは文学の方が親しみがあるかなあなんて軽い気持ちからだし、文学に多少親しんだ文系になったのは高一で入部した詩歌部で楽しく俳句を作ったり遊んだりできたからです。つまり、わたしがこの度フランスに留学する(しかも初の海外旅行です!)ことになったのは、先生のおかげでもあるんです。先生の教え子の一人が、先生に教わったゆえに数年経ったあと海を飛び越えていく。そんなこともあるのだと知ってほしくて、この手紙をしたためています。ダフト・パンクには手紙を書きませんよ。もう解散してしまいましたから。

 プログラムにはフランスの学生との交流会もあって、そこでわたしたちは日本の文化を現地の学生たちに紹介します。わたしは俳句を教えるつもりです。ひょっとしたら、フランス生まれの大俳人が生まれるかもしれません。中国の蝶の羽ばたきがアメリカで嵐を起こすと言いますが、日本で先生が教えた一人の生徒がフランスに渡るわけです。嵐はさすがに荷が重いですが、そよ風くらいは起こせるんじゃないでしょうか。

 なんだか威勢のいいことを書いてしまいました。文章を書いているとどうも調子づいてしまっていけません。わたしは異国の地でムーブメントを巻き起こすぞと奮い立つほど野心的ではありません。でも、やりたいことがないわけではありません。ずっと素朴なことなんですが、わたしにとっては大切なことです。自分の感性を大事にしなさいと仰ってくれたのも先生でした。

 先日、美術館に行ってモネの絵を見てきました。モネのファンというわけではなく、わたしでも聞いたことのある有名な画家だからという浅薄な理由からです。不勉強がばれてしまいますが、そんなわけでモネの素性も画風も知らないまま展示を見ました。知っている作品は「睡蓮」くらいですから、てっきり睡蓮を好んで描いたのかな(わたしでも「睡蓮」が連作であることは知っていました)と思っていましたが、美術館に行って知ったのは、モネが描きたかったのは睡蓮というよりむしろそれが浮いている水面だということでした。展示された数々の絵の多くでモネは、浮かぶ睡蓮の花や畔の草木を映して波立つ水面の、光を複雑に屈折させ反射している姿を、さまざまな色の絵の具を使って表現しようとしていました。その色使いは一見雑然としているようにも思え、到底水面を描いているようには見えないのですが、一歩引いてキャンバス全体を視野に収めると、鬱蒼とした森の中で花に彩られ静かに息づく池が眼前に現れるのです。正直、わたしは圧倒されてしまいました。

 ですが、わたしの心に最も色鮮やかに焼きついているのは、睡蓮の絵ではなく、セーヌ川の絵です。「ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出」というほとんど正方形の大きな絵なのですが、広くゆったりと流れるセーヌ川の畔に視点があって、朝の輝くような予感を感じさせる薄明るい空と、両岸で葉を茂らせて濃い影を落とす木々、そしてそれらを映す水面の鏡像が描かれています。モネのタッチの特徴なのでしょう、全体的に淡い筆使いで点描画に似た雰囲気を感じます。それがまるで川にかかる朝靄のようで、色合いも相まって幻想的な風景画になっています。そして、わたしが一番驚いたのがその色使いです。もしわたしが水面の色は何色かと問われたら、わたしは水色と答えるでしょうし、その絵を描けと言われたら水色の絵の具をべたべたと塗りつけるでしょう。でもモネのこの絵の水面は、水色がほとんどなく、あるのは緑と深緑、赤紫と青紫、そして橙と少しの白です。川面には似つかわしくないような無秩序な色彩が、離れてキャンバスの全てを目に入れた途端、朝の清らかな光を奥から浴びた、森の間を流れる大河に変貌するのです。わたしに絵心がないだけかもしれませんが、川面がこんなに色とりどりだなんて、思ってもみませんでした。

 画家なんですから当たり前なのでしょうが、モネにはわたしの気づかない幾多の色が見えていたのでしょう。その目で川面が散らす光をありのままに捉えて、それをキャンバスの上で忠実に再現したのでしょう。それはモーパッサンも同じです。わたしには見えない夜のセーヌ川の恐ろしさを彼は感じ取り、わたしには及びもつかぬ川の様子を物語を通して描き出したわけです。

 わたしはセーヌ川の水面を見てみたいです。モーパッサンには「水の上」のように、モネには「ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出」のように見えた水面が、わたしの目にはどう映るのでしょうか。モーパッサンにもモネにも見えない、わたしにだけ見える景色があるはずです。パリに行ったら、セーヌ川をこの目で見て、それを確かめたいとわたしは思っています。それができたら、何がどんな風に見えたかを書いて、また手紙を送りますね。できれば、川辺の郵便局から、セーヌ川が描かれた絵葉書を。

 書きはじめる前に思っていたよりも長くなってしまいました。わたしは元気にしています。先生もお体に気をつけてお過ごしください。お返事待っています。

敬具 

ⒸWikiWiki文庫

雨に濡れる
Notorious

僕は彼女が雨に濡れているところを見てしまう。

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 春は過ぎた。生活の新鮮味が薄れ、汗ばむような日も増え、そして蝶は校舎裏の藪から姿を消した。それでも僕と彼女は校舎裏で会っていた。

 放課後のくすんだ光が藪を照らしている。春にはいくつかの白く小さな花があったけど、今はもう見えなくて、代わりに細長い葉が元気を得て真っ直ぐ上に背を伸ばしている。僕らはコンクリートの校舎に背を預け、僕が家から持ってきた薄黄色のレジャーシートを地面に敷いて座っている。シートは小さいから、靴を履いたままの足はシートの外の地面にはみ出させていた。右後ろの彼方で陽が沈みかけていて、校舎の影が僕らの足先を掠めて斜めに駆けている。

 僕はおもむろに立ち上がって、彼女と向かい合うように膝をつく。体育座りをした彼女は、立ち向かうように僕の目を見据えるけれど、やがて観念したように一度まばたきをすると、そっと顎を上向けて、唇を薄く開いた。

 その従順さに、僕の心はきまって波立つ。彼女という人間のすべてを掌中に収めたかのような全能感と、彼女をそっと抱き締めて、そのほっそりと伸びた首を手折ってしまいたいような歪んだ愛しさが、抑え難く僕の奥底から湧き上がってきて、僕はそれを怖れて右手に持ったビスケットを彼女の口に挿し込む。

 彼女のつややかな唇が閉じて、控えめな前歯がさくりとビスケットを齧り取る。もう少しビスケットを押し込むと、もう一口齧り取られる。僕は彼女が咀嚼するより少しだけ速くビスケットを彼女の口内に送る。それに押されて、彼女の首はだんだん上を向く。そしてほとんど真上を向いた頃、僕の右手の親指が彼女の唇に触れて、ビスケットがすべて口の中に収まる。僕の右手は彼女の頬に添えられたままだから、彼女は上を向いたまま、少し苦しそうに小さな顎を動かす。そして、ビスケットが唾液と混ざったペーストになった頃、彼女はその瑞々しい茎のような首を波打たせて、それを嚥下した。そうして、彼女はわずかに潤んだ目で僕を見上げ、二分の抵抗と八分の受容を感じさせる仕草で、そっと目を閉じる。

 僕は彼女の頭の後ろに左手を当てる。不用意な身じろぎをすればこの世界が脆くも壊れてしまいそうで、僕は慎重に顔を近づけ、蝶が花にとまるように唇を合わせた。彼女の唇の柔さが、自分の唇に感じられ、思わず体が震える。目を閉じると、彼女の唇のあまりに密な感触と、左手に触れる彼女の髪のなめらかさと、右手から伝わる彼女の肩の持つ熱しか、この世界に存在しなくなる。彼女の唇をそっと舌で撫でると、小さな反発の感触とともにビスケットの粉が口に入り、それを僕は呑み込む。今度はもう少し強く、彼女の唇の間に舌を押し当てる。彼女の口の番人は、最後に一度おののくと、その内側に広がる空間を僕に明け渡した。僕はさらに深く彼女の中に押し入る。彼女の頭が仰け反り、彼女が震える息を吸うのを感じる。その堂々と屹立する白い歯を、侵入者に怯えて逃げ回る熱い舌を、弾力ある頬の内の粘膜を、残らず絡め取って蹂躙し、彼女の口の中にあるビスケットの残骸を奪い取る。彼女の不安定な吐息が聞こえる。彼女の肩の震えが一層激しくなったとき、僕は唇を離して、彼女の口にあったビスケットの残り屑を吞み下した。二人の唇の間に架かっていた唾液の細い糸が切れ、片方の端が彼女の下唇から垂れると、彼女はぼんやりと目を開け、顔を上向けたまま、中空に向けてか細い声を「はあぁ」と洩らした。全てを奪われ、そしてそれを受け入れたような表情で、頭を僕の左手に凭せかけている彼女の姿に、心臓が膨れ上がるような感覚を覚える。左手に乗った丸っこい頭の重量を感じながら、無性に何か、抱き竦めたいような、砕いてしまいたいような、そんな衝動が僕の心の裏から現れて、僕はその考えの怖ろしさにそっと手を離す。

 風のない校舎裏の藪は、僕らに無関心なまま突っ立っている。日の当たらない校舎の壁が、火照った腕に快い。まもなく彼女は口をぐいと拭って、赤くなった耳たぶを隠すように僕に背を向け、自分の鞄を探る。僕はテストを返却される小学生のように、不安と期待が入り混じった昂揚を感じる。鞄から出てきた彼女の手には個包装のチョコレートが握られていた。先週まではクッキーだったから、新たな挑戦だ。彼女の色白な指がぱちりと袋を破り、中からドミノくらいの大きさのチョコレートを恭しく取り出す。それを上下から摘まんでいる人差し指と親指の氷細工のようなすらりとした居住まいに、僕の目は奪われる。そして彼女はチョコを持った右手を僕に向けて突き出す。僕はいつも躊躇しておそるおそる彼女を窺う。彼女の方もわかってるでしょと言いたげに僕を睨んで言う。

「口、開けなさい」

 そうして僕は観念して唇を開き、すぐにチョコレートが突っ込まれ、慌ててそれを齧り取る。ぱきりと小気味いい音がして、カカオのどろりとした苦みが舌に乗る。僕はチョコを咀嚼し、呑み込む。間髪を入れずチョコがもう一歩挿し込まれ、僕はまた前歯でそれを齧り取る。それを何度か繰り返して、ついにチョコは小さな一欠片となった。彼女は人差し指でそれをひょいと僕の口に放り込む。彼女の指先が僕の唇に軽く触れて、もう慣れた苦味が口の中に広がる。僕が最後のチョコレートを噛み砕いて呑み込むと、膝を立てた彼女は僕を見下ろすようにして、両手で僕の顔をがしりと挟んだ。僕は怯えにも似た衝動に従って、反射的に目をつむる。

 僕の唇に彼女の唇が押し当てられる。その柔らかさと熱をこれ以上なく直に感じる。彼女の唇は巧みに動いて僕の唇を開かせて、すぐさまその隙間に彼女の舌が入ってくる。彼女のあたたかな舌は僕の唇を舐め取ると、僕の防御をあっさりと突破して口内に入った。彼女の舌が僕の舌に触れた瞬間、僕は強烈な甘さを感じる。チョコレートの苦みに満ちた僕の口に比べて、彼女は甘くて、あたたくて、そうして僕の中のチョコレートの残滓を探すのだけれど。

 押しつけられた彼女の唇の柔さに、呼吸をすることも忘れながら、これは大変だと僕は思う。チョコレートは僕の口の中で融けているから、唾液と一体となって口内に広がっていて、その全てを彼女は獰猛に奪いに来る。彼女のあたたかな両手に挟まれて顔を動かせないから、されるがままになるしかない。彼女の甘く柔く熱っぽい唇と舌が蠢いて、僕の唇を貪り、歯をなぞって、舌を絡め取り、頬を舐め回し、唾液を吸い取って、僕の口の中のチョコレートを残らず奪ってゆく。気の遠くなるほど長く感じた時間のあと、二つの濡れた唇が離れる煽情的な音がして、彼女の顔が離れる気配がした。顔に添えられていた彼女の手が離されると、力の抜けていた僕の上半身はへたりと崩れ落ちそうになって、慌てて地面に手をつく。荒い息を隠せないままやっとのことで目を開けると、彼女は形のよい顎をわずかに上向かせて僕を見下ろしていて、この上なく旨い料理を前にしたときのようなぞくぞくするような感嘆と衝動をその眼に宿らせながら、彼女はちろりと唇を舐めて、僕は顔が上気していくのを感じながら、急いで口を拭った。


 そのあと、僕らはいつも我に返ったように姿勢を正して、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと後悔に似た気まずさを感じながら、小さなレジャーシートの上で隙間を空けて肩を並べる。身を縮こまらせて膝を抱え、沈黙を埋め合わせるように藪を眺める。

 少し前までは、この校舎裏の藪の上では色とりどりの蝶が競い合うように舞い踊っていた。でも、彼女は蝶を食べることを、結局一度しか承諾しなかった。やはり命を奪うことには抵抗があったらしい。代わりに彼女が始めたのが、蝶の代用品としてお菓子を使うことだった。僕らは示し合わせたように、蝶のように小ぶりで薄いお菓子を相手に食べさせてその姿を見つめ、お菓子にはない蝶の鮮やかさや華麗さ、命を噛み締める背徳感などを埋め合わせるために口づけをした。最初は蝶の代用品なんてすぐ飽きてしまうのではないかと生意気な危惧を抱いていたけど、今なら愚かな杞憂だったとわかる。彼女に慣れるには、僕はうぶすぎる。

 藪を照らす光がわずかに金色を帯びてくると、僕らはいつもぽつりぽつりと話をした。時には学校行事のことを、時には休日の過ごし方を。僕の方から尋ねることも、彼女の方から質問してくることもあった。他愛のない話ばかりだけど、それらを通じて彼女のことを少しずつ知っていけることが嬉しくて、僕はこの時間も好きだった。

 僕は隣の彼女に聞いてみる。

「吹奏楽部は週末も練習があるの?」

 火曜日を除いた平日は、吹奏楽部の活動があることは知っていた。だから彼女が校舎裏に来るのは火曜日だけで、週に一度ここで会ってはこんなことをしている。

 彼女はスカートごと自分の太腿を抱えながら、ぶっきらぼうに言った。

「日曜は休みよ」

 吹部は意外とハードな部活だというのも、彼女と話すようになって知ったことだ。彼女はぽつりと付け加える。

「大会も近いのにね」

 そして彼女はそれ以上にストイックだ。

「熱心だね」

 怠け者の僕は恐れ入るしかない。軽い気持ちで尋ねてみる。

「どうしてそんなに打ち込めるの?」

 そして左の彼女に視線を向けて、僕はどきりとした。彼女は自分の履いているローファーに視線を落として、諦めたような優しい口調で呟いた。

「そうよね」

 その目に僕は動転する。僕は単に理由を聞きたかっただけだけれど、彼女の耳には責めているように聞こえたのかもしれない。

 けれど、僕が弁解する前に、彼女は僕に顔を向け、打って変わって明るい声で僕に言う。

「ねえ、映画の話をしてよ。先週もテレビで何かやったんでしょ?」

 僕は心残りを感じながらも、前の土曜に放送された古い西部劇の話を始める。ストーリーと俳優、バックで流れる音楽、印象に残った白黒の画。彼女はしばしば相槌を打って、愉快そうに聞いていた。けれども僕は彼女の振る舞いに、どこか達観したような、無関係な他人の幸福を羨むような姿勢を感じ取る。

「どうして映画が好きなの?」

 彼女が何気なく尋ねた。僕は少し考え込んで、散らかった引き出しを整理するように言葉をまとめる。

「普段、何かの拍子に、前に観た映画のワンシーンを思い出すことがあるんだよね。祭りの夜に赤い提灯が軒先で揺れているのを見たとき、川の向かいで青空をバックに人が飼い犬に引っ張られて走っていたとき、夏に体育の授業が終わって運動場の蛇口で水道水を頭からかぶったとき……。その光景と似たシーンだったり、あるいは全然違う場面だったりもするんだけど、脳内のプロジェクターでぱっと投影されたみたいに、映画の一場面を思い出すの」

 そのときの感覚を思い起こしながら言葉を探す。

「そうするとさ、僕らの現実も映画と同じように、劇的というか、輝いているというか……とにかくこう、世界が特別なものに感じるんだよ。それが好きなんだよね」

 長く喋りすぎたなと思いながら横を見ると、彼女はぽかんと僕の顔を見ていた。

「どうしたの?」

「あんたがそんなにいきいきとした顔してるとこ、初めて見た」

 どんな表情をしていたんだろうか。自分の頬をぺたぺたと触ってみる。何だか気恥ずかしい。

 校舎の影は僕らの足のずっと先まで降りていた。肌寒い気がして、ぎゅっと膝を抱える。日が当たらなくなると、まだまだ夏は遠いなと感じる。

 僕らはまたぽつりぽつりと言葉を交わしはじめる。テレビドラマじゃ駄目なの? 駄目とは言わないけど、画像のこだわりは映画が勝ると思うんだ。ふうん、どんな映画を観ることが多い? うーん、本当にばらばらだね、いろんな場面を観たいから。じゃあ好きなジャンルとかはないんだ。うん、でもハッピーエンドが好きだな、気分がよくなるから。

「わたしと逆ね」

 彼女が呟いて、僕は思わず横を見る。彼女はまっすぐ前を向いていて、白のラインが入った濃紺のセーラーカラーに長い髪がふんわりと乗っている。

「バッドエンドが好きなの?」

 彼女は曖昧な返事をして、金色の光を投げかけられた藪にぼんやりと視線を向けながら言った。

「エンドロールが終わったとき、ああ、わたしはこんな世界に生きてなくてよかったって思えるから」

 そうして彼女は手をついて立ち上がり、鞄を取った。授業が終わってしばらく経ち、でも部活が終わるには早く、ちょうどエアポケットになっている時間だから、校舎の外に人通りはほとんどない。だけど、半ば慣習的に彼女が帰ってしばらくしてから僕がここを離れるようにしている。

 じゃあね、と声をかけると、彼女はこくりと頷いて、校舎の向こうへと姿を消した。

 残された僕はぼんやりと藪を眺める。日に日に勢いを増す緑が無秩序に葉を青空に向けて突き上げていて、その上では虫が何匹か翅をきらめかせている。蝶のような美しさや優雅さはないけれど、無骨な生命力には溢れている。

 僕は彼女が去ったあと、いつもしばらく藪を前にぼんやり考え事をして、太陽が山の稜線に接した頃、埃を払ったレジャーシートを畳んでビニール袋の中にしまい、帰途に就く。

 いつもは膝を伸ばしながら、彼女のそのきつい目で見下ろされるのも悪くないな、なんて考えるのだけれど、今日はバッドエンドが好きと語った彼女の顔がどうも気になる。知らなかった彼女の一面を垣間見ることができて、普段なら喜ぶところだけれど、彼女の諦めたような目が心をざわつかせた。

 考えても事態が好転することはないような気がして、僕は立ち上がる。レジャーシートを畳んでビニール袋に入れて、校舎に立てかけておく。いちいち持参するのも面倒なので、ここに置きっぱなしだ。この校舎の外壁には、各階の天井に相当する高さにコンクリートの庇が張り出していて、それはこの校舎裏も例外ではない。これが雨よけになるから、濡れる心配もないのだ。ここしばらくは降っていないけど、もう梅雨が近いと天気予報も言っている。僕は鞄を拾い上げると校舎裏から立ち去った。校舎の角を回る直前、一度振り返ってみると、レジャーシートを入れた袋は校舎の落とす黒々とした影に包まれて、見えなくなっていた。


 校舎裏はしんしんと降る雨に包まれていて、灰色の雨音が静寂よりもなお静かに藪を覆い隠す中、校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女と目が合った。僕は座ったままぽかんと口を開けていることしかできない。意表を突かれたのは、一つには降り続く雨で足音が聞こえなかったからだけど、何よりも大きいのは、彼女がびっしょりと雨に濡れていたからだ。

「なんでいるのよ」

 目元に張りついた前髪をよけもせず、絞り出すように彼女が言って、僕はようやくただならぬ事態であることに気がついた。

 僕は弾かれたように立ち上がって、いたずらにおたおたと腕を動かしてしまう。

「ほら、屋根の下に入って。うん、とりあえず拭きなよ。これ、まだ使ってないから。鞄はそこに置いて。風邪ひいちゃうよ」

 肩を引き寄せて庇の下に導き、ハンカチを差し出すと、彼女は幼い子供のような素直さでそれを受け取り、目の辺りから顔を拭いはじめた。続いて彼女は水を吸って一層暗い紺になったセーラー服の肩にハンカチを当てたが、一枚ではたかが知れている。タオルを持っていれば、と僕は後悔した。彼女の濡れた髪は何本か頬に張りつき、背中では伸ばした髪の先がセーラー服の襟に力なくほつれて横たわり、胸の赤いリボンはいかにも重そうに垂れ下がって、セーラー服と同じく紺を濃くしたスカートは彼女の色白な脚に纏わりついて、庇の下の乾いた地面には彼女のローファーの形に水の足跡ができていた。

 昨日の夜から薄曇りが続いていたけれど、昼からついに雨が降りはじめた。まだ梅雨入りは報じられていないけれど、徐々に濃い茶色へと変わっていく運動場を教室の窓から見下ろしながら、きっとこの雨はしばらく続くだろうなと何となく思った。本格的な梅雨にはまだ早いのか、今日の雨はあまり激しくなく、小さな雨粒たちがしずしずと地上へ降り立っていたけど、それでも傘も差さずに一分も外にいれば、服はぐっしょりと水を吸ってしまうだろう。

「どうしたの、部活は?」

「なくなったの」

「傘は? 持ってないの?」

「忘れちゃった」

「だからって……」

 彼女は雨が絶え間なく降ってくる空を見上げながら、無表情に言った。

「雨に濡れたい気分だったの」

 そうして僕に視線を向けると、微笑を浮かべた。

「ほら、わたしって気まぐれじゃない。あんたとここで最初に会ったときも、思えばきっかけは思いつきだった……」

 僕は言葉が出なかった。彼女のぐしゃぐしゃに濡れた髪と微笑みを見て、ようやく彼女が初めに言ったことを思い出す。

「邪魔だったかな。僕は帰った方がいいね」

 彼女は校舎裏に誰もいないと思っていた。あれこれと世話を焼くより先に、こうするべきだった。

 でも、案に相違して彼女は首を振った。

「ううん、邪魔って言いたかったわけじゃないの。驚いただけ。変な言い方しちゃってごめんなさい」

 今度は僕が首を振る番だ。

「でも、本当にどうしてここに? 今日は水曜日よね、昨日会ったんだし……」

 彼女はそこで言葉を切って、怯えの混じった上目遣いを僕に向ける。

「まさか、毎日いるの?」

「毎日じゃないよ」

 彼女の目つきに目を奪われながら、僕は答える。

「学校がある日だけ」

 彼女は呆れたように溜め息をついた。まだもの問いたげだったけど、僕が先手をとってレジャーシートに腰を下ろした。

「まあ座ろうよ。立ちっぱなしもなんだし」

 レジャーシートを見下ろして、彼女は渋った。

「でも、わたしの服、濡れてるから」

「大丈夫だよ。ビニールだし。ほっとけば乾くでしょ」

 彼女は眉をひそめた。

「あんた、雨が降っても洗濯物を取り込まないタイプ?」

 洗濯は母に任せきりのタイプです、とは言えないから、僕は白を切る。

「これは僕のレジャーシートで、そして僕は濡れたって気にしない」

「わたしが気にするのよ」

「僕は気にしない」

「それは聞いたわ」

「僕は気にしないよ」

 彼女は何か言おうと口を開いて、でも何も出てこなくて、諦めたように唇を結ぶ。そうしてシートに置いてあった僕の鞄と彼女の鞄を僕の方にぐいと押しやって、反対側の端にぽすりと腰を下ろした。拗ねた子供のように、ぎゅっと足を抱えてできるだけ小さな面積に収まろうとしている。

「あんた、いつもここに来てるの?」

「放課後、暇だったらね」

 部活も習い事もしていないから、ほとんど毎日というわけだ。

「何をするの? 蝶を探すの?」

 雨に打たれている藪を見る彼女の表情は、陰になっていてよく見えない。

「ううん。ただ藪を眺めるだけ。ぼうっと考え事なんかしたりして、夕方になったら帰るの」

 君がいないのに、蝶を捕まえたって何にもならないよ。そう言う勇気は僕にはなかった。さらさらと雨音が響いている。

「じゃあ、さっきはどんなことを考えてたの」

 彼女がぽつりと言った。

 僕は悩んでしまう。彼女は問うたことすら忘れたかのように、前を向いたまま黙っている。しばしの沈黙の後、僕は迷った末に口を開いた。

「早く火曜日にならないかなって、考えてた」

 同じくらいの沈黙の後、彼女は頬を自分の膝にそっと預けて言った。

「馬鹿ね」

 その声は雨音に溶けてすぐに消えていったけど、不思議とこの小さな校舎裏の軒先にずっと残っているように感じられた。僕も小さく「そうだね」と返して、その言葉もコーヒーに入れた砂糖のように溶けて見えなくなる。残った沈黙を、降りしきる雨が柔らかく埋めている。

 僕は彼女に気づかれないように、僕の鞄の横に無造作に寄せられた彼女の鞄にそっと手を伸ばす。乾いた合成繊維の、冷淡だけど優しい感触が指先に伝わってくる。

 漠然と、このままじゃいけないと思う。僕は躊躇するけれど、でもこのままじゃいけない。たとえ蛮勇であろうと、いい結果を生むこともあると、僕は自分に言い聞かせる。それは、いま僕と彼女が並んでこの校舎裏にいる、まさにその理由じゃないかと僕は思う。


 僕はあえて勢いよく立ち上がった。彼女がびくりとこちらを見るけれど、構わずに前へ手を伸ばす。

 庇の上に落ちた雨水が大きな滴となって軒からリズミカルに垂れている。手の平でそれを受けてみると、冷たい雫はぱちりと弾けて、無数の小さな粒となって僕の手に広がった。ぱちり、ぱちり。耳を澄ますと、軒の各所から落ちる水滴たちがそれぞれのリズムを刻んでいるのが聞こえる。横に並んだ数多の雨垂れが形づくる、軒から下りた水滴のカーテンの、その奥へと手を伸ばす。肘の辺りに軒から垂れる大きな雫が当たり、そこより先はさらさらとした雨に包まれた。外の世界に降りしきる雨は、想像よりもあたたくて柔らかかった。

 そして僕は意を決し、右足を水のカーテンの外へ出す。スニーカーがみるみるうちに雨粒を吸い込んでいく。そのまま僕はカーテンをくぐった。途端、頭に、肩に、全身に雨が優しく降り注ぐ。

「何してるの」

 呆然としている彼女が言った。僕は上を向く。薄い灰色の空から、白糸のような滴が次々と落ちてきて、一つが僕の鼻に当たった。僕は思わず両腕を広げた。髪がどんどん濡れて押し下げられていき、シャツに一つずつ小さな雨の染みができていくのがわかる。僕の広げた腕ごと、雨は世界を包んでいる。いい気分だ。心からそう思った。

 僕は驚いた顔をしている彼女に笑いかけて、雨音に負けないように言う。

「雨に濡れたい気分になったんだ!」

 彼女は目を大きく開いて、次いで笑うように、あるいは泣き出すように、表情をくしゃりと歪めた。

「ほんと馬鹿」

 そう言う間に僕の全身は雨で濡れきっていた。睫毛に水が溜まるのは少し鬱陶しいけれど、服が重くなって肌に張りつくのは冷たくて心地よかった。僕の足の下で、雨露に潤った丈の低い草がぎゅっぎゅっと音を立てる。

 雨に濡れるだなんて、いつぶりだろう。小学校の高学年だったとき、強いにわか雨の中を走って下校したことを思い出した。ランドセルを頭の上に持って、はしゃいだ声を上げながら何人かの友達と競い合うように通学路を走った。水溜まりに足を突っ込んで上がった飛沫と、みんなと僕の笑い声が目を閉じれば蘇ってきそうだ。空から落ちてくる雨を自分の体で受け止める。簡単なことなのに、長いことやり方を忘れていたみたいだ。

 僕は声に出して笑った。天を仰いでくるくると回ってみる。天然のシャワーは僕をひんやりと覆って、世界の他のすべてから隠した。僕は回るのをやめると、彼女の方を向いた。体育座りで呆れたように僕を見ている彼女に、僕は精一杯笑いかけた。

「雨に濡れるのも、たまにはいいね。僕、今とっても楽しいよ」

 彼女は乾きはじめた前髪をよけて、曖昧に微笑んだ。

「それはよかった。でも、風邪ひかないでよ?」

「うん。ねえ、ありがとう。君がいなきゃ……今日ここに来てくれなきゃ、こんなに楽しい気分にはならなかった」

 彼女の表情に戸惑いの色がわずかに浮かんだ。僕は続ける。

「でも、僕は君にも楽しんでほしい。だからさ」

 僕は膝を曲げて前屈みになり、手の平を雨垂れのカーテンの向こうに差し出した。

「一緒に雨に濡れようよ」

 彼女は差し向けられた手を呆気にとられて見つめていたが、信じられないという顔で僕を見た。

「あんた、本気で言ってるの?」

「もちろん」

「あのね……そもそもわたしを屋根の下に引っ張り込んだのは誰よ」

「そのときとは気が変わったんだ」

「だからって……」

 僕は差し出した右手を引っ込めない。彼女は言葉を探していたけれど、僕はかぶせるように言った。

「お願い。少しだけでいいから」

 彼女は微笑む僕を見て、言葉を呑み込み、視線を彷徨わせた。ここ最近、彼女と会う内に、彼女のことを少しは知った。その中の一つ、彼女は意外と押しに弱い。

 僕は彼女の左腕をとった。彼女が「ちょっと」と声を上げるけど、僕は左手で彼女の左手を握る。彼女の強張った手は、僕の濡れた手よりも冷たくて、小さかった。

「さあ」

 声をかけると、彼女は唇を結んで、迷うように目を閉じ、やがてそっと僕の手を握り返した。

 左腕をぐっと引き寄せて、彼女を立ち上がらせる。雨に打たれながら後ろへ一歩ずつ下がると、彼女は一歩ずつ前に出る。彼女の左手が水の柔らかいカーテンをくぐり、続いて腕が、肩がこちら側にくる。彼女は意を決したように目をつむって、ぴょんと一歩を踏み出し、全身が雨の境界を越えて、僕らは雨に包まれた。

 静かに落ちてくる小さな雨粒たちが、一度は乾きはじめた彼女の体に再び滲み込んでいく。彼女は目に水が入らないようにちょっと俯いて、上目遣いで僕を睨んだ。

「冷たい」

「そうだね。でも」

 僕は天を仰いで雨を顔に受けた。

「いい冷たさだ」

 彼女は肩を竦めて、左手で僕の左手を掴んだまま、右手を上に向けた。その手の平に小さな雫が一つまた一つと散っていく。彼女のセーラー服は肩口から水を吸っていき、いかにも重そうに彼女の華奢な体躯に凭れかかっていた。紺のスカートは明度を落としてほとんど黒のように見え、ローファーだけは滑らかな表面で水滴を弾いている。

 僕のシャツとズボンも濡れて肌にくっつき、スニーカーの中の靴下は取り返しのつかないくらいびしょ濡れだ。雑草が這っている地面にできた小さな水溜まりに、僕は片足を踏み入れ、ぱしゃりと水が跳ねた。雨音に負けないよう、いつもより少しだけ大きな声を出す。

「雨の日に靴がぐしょぐしょになるのは嫌だけど、完全に濡れちゃうと逆にもっと濡れたくなるかも。吹っ切れちゃって」

 頬に張りついた髪を右手でよけながら彼女は言う。

「ローファーじゃそうはいかないわよ。人工とはいえ革を濡らすのは抵抗があるわ」

「でも、もう手遅れだね」

 彼女はむっと頬を膨らませ、左足で僕の足元の水溜まりを踏んづけた。跳ねた水が僕の右足にかかって、思わず声を上げて後退りしてしまう。彼女と繋いだままの左手がぴんと伸びた。

 驚いて彼女を見ると、彼女は雨に打たれながらふふんと笑って首をわずかに傾けてみせた。僕も知らずに笑みがこぼれる。

「やってくれたね」

 お返しだ。今度は僕が彼女の足に近い水溜まりを踏んで、彼女がきゃっと飛び退く。僕らは互いに水を跳ね上げ合って、声を上げては逃げ回った。左手を握り合っているから、二人の腕の長さ分しか離れられなくて、水をよけるためには横方向の移動が多くなる。僕らは互いの中間地点を中心に、時計と反対向きにくるくると回って、止まない雨に濡れながら水をかけ合った。

 やがて、僕らは同時に同じ水溜まりに足を突っ込んで、一際大きな水飛沫が上がり、二人の靴が同じ水をかぶった。僕らはあっと言って顔を見合わせた。僕と目が合うと、彼女はふっと表情を綻ばせて、笑い声を上げた。僕もつられて笑い出す。雨が絶えず体を濡らす中、僕らは笑っていて、繋いだ左手から彼女の動きが伝わってきていた。

 もう雨の冷たさは気にならなくなっていた。一しきり笑うと、僕は彼女の手を握ったまま、さっきよりゆっくりと回りはじめた。彼女も反対側へと動いて、僕らは握った左手を中心に円を描く。一歩を踏み出すたびに足元で水音が立つ。

 左手を引き寄せると、彼女との距離が縮まって、回るスピードも上がる。彼女の首筋を流れる水滴を見分けられるようになったとき、左手を彼女の頭の上に持ち上げると、彼女は左足を軸にして雨の中くるりと一回転してみせた。右足の爪先を地面にとんと当てて彼女は止まり、長い髪が半拍遅れて回り終え、先から水滴が一つ飛んだ。優雅に左手を下ろした彼女は、ベテランの踊り子のようににこりと微笑んだ。

「まるでフィギュアスケートね」

「氷じゃなくて水ばかりだけど」

「きっとこっちの方が暖かいわ。ほら、あんたも回りなさい」

 そう言うと彼女は左手を伸ばして僕の頭上で回すけど、僕の方が少しだけ背が高いから、左手が伸びきらないまま僕は不格好に一回転した。

「もう、全然優雅じゃないわ。もうちょっと背を低くしなさい」

 そんな無茶な。

「ほら、もう一回」

 彼女は背伸びをして僕の左手を持ち上げて、僕は精一杯滑らかにその場でターンした。けれどそのとき、左手をまっすぐ空に伸ばしたものだから、彼女は腕を引かれてバランスを崩し、一歩前によろめいて、僕が回り終えたとき、彼女の顔が鼻と鼻がぶつかりそうなほど近くにあった。

 僕らはぴたりと黙って互いの目を見つめ合った。彼女の切れ長な目は僕の目を見上げていて、僕の目線はそれに吸い込まれて逸らすことができない。彼女の目が持つ強い引力を感じながら、僕はいつか観た映画の一場面を思い出す。ドレスと燕尾服で着飾った男女が、シャンデリアの黄金色の光に満ちたフロアで、手を握り合って顔を突き合わせているのだ。何時間にも思えるほどの長い時間、僕らは見つめ合っていて、やがて一滴の雫が僕の頬を伝って顎から落ちると、僕は彼女の手を握ったまま左手をゆっくりと下ろした。顔の横まで下ろしたら、右手で彼女の左手に触れ、彼女の白い指の間に自分の指を滑り込ませた。彼女の息がわずかに揺れる。そのまま指を絡ませ、彼女の左手をしっかりと握った。そうして僕は肘が肩と同じ高さになるくらいまで、彼女の左手ごと右手を再び上げると、左手を彼女の背に回し、そっと彼女に触れた。彼女の体が小さく震える。雨に濡れたセーラー服は彼女の背中の凹凸を僕の指先にそのまま伝えてくる。彼女は握られて掲げられた自分の左手と、背に添えられた僕の左手を見て、最後に僕の顔を見た。水と戸惑いを纏った彼女の顔に、僕は悟られないように息を呑む。

「これって……」

 僕は軽く頷いて、照れくささを覆い隠そうと明るく笑ってみせた。

「踊りませんか、お嬢さん?」

 彼女はわずかに目を瞠って、やがてふっと視線を落とした。

「手を握ってから言うことじゃないでしょ」

 そして、僕は彼女の手が背中に触れるのを感じた。張りついたシャツは、彼女の指の繊細さを透かして伝えてくる。あたたかい雨が世界を包んでいる。

「社交ダンスなんてわかんないわよ」

「大丈夫、僕もだから」

 この姿勢だってうろ覚えだ。もう、と彼女が僕を睨む。僕は映画の舞踏会のシーンを思い出す。正装の紳士と淑女がゆっくりと体を揺らしていたっけ。僕らは学校の制服の、それもずぶ濡れのやつで、髪型も崩れきって、雑草が生えた雨中のダンスフロアに立っているけれど、こっちの方が僕らには似合っている気がする。

「きっと、二人の向かい合った足を同時に動かすんだ」

「スロー・スロー・クイック・クイックだっけ?」

「何がスローで何がクイックなんだろう」

「さあ?」

 僕らは顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。そうして、僕は右足を前に出し、同時に彼女が左足を後ろに下げた。水の跳ねる小さな音は、校舎裏の雨音に埋もれて消える。今度は彼女の右足が下がり、僕の左足がそれを追う。右、左、右、左。互いの足を踏まないよう慎重に歩を運ぶと、二歩大きく踏み出してくるりと位置を入れ替えた。今度は彼女が前に出て、僕が後ろに下がる。そうしてまた一歩二歩。片手は柔らかく密に握り合って、もう片方の手は背中に回し合って、彼女の体は身じろぎすれば触れてしまいそうなくらい近くにあるけれど、決して触れない。雨粒は絶えず体に降りかかって、洗われているようだった。二人の間のわずかな隙間が壊れてしまわないに、僕らは踊った。

 濡れた前髪が目元にかかって、首を振ってそれを払う。ふと気づくと、彼女は真剣な目を地面に注いで足を運んでいた。その顔つきに、目に宿る光に僕は引き寄せられて、下を見るのを忘れていたから、僕はうっかり彼女の靴を踏んでしまった。

「あっ、ごめん」

「もう」

 慌てて足をどけたけど、彼女は怒った顔をして、水溜まりをぱしゃんと踏んづけた。靴と靴下はこれ以上濡れることはできないくらいびしょ濡れで、ぐしょぐしょの靴の中で足が浮いているような感じがするけど、反射的に足を引いて水飛沫をよけようとしてしまう。

 すると彼女の足がついてきて、今度は反対の足がこっちに迫るから、僕は急いで足を下げて身を引く。さっきよりずっと速く、右、左、右、左。彼女に追われるようにしてステップを踏むと、そう広くない校舎裏の端まで来てしまった。

 そうしたら、今度は逆向きに進みはじめる。僕の足が彼女の足を追いかけて、早歩きくらいのペースで進む。反対側の端に近づいた頃、後ろに下がっていた彼女の踵が草に引っかかって、わっという声と共に彼女の体のバランスが後ろに傾いた。

 考えるより早く、僕は左手で彼女の背中を支えて、握った彼女の左手を右手で引っ張った。僕らの握り合った手が高々と掲げられ、彼女は背中を弓なりに反らせ、大きく一歩踏み出した僕は彼女の体に沿わせるように上体を前に傾けた姿勢で、僕らは静止した。

 仰け反った彼女の顔はほとんど真上を向いて、それに覆いかぶさるようにして僕の顔があって、握りこぶしくらいの間を空けて僕らは目を合わせていた。彼女の黒い瞳には軽い驚きが浮かんでいて、僕の頭が上にあるから彼女の顔には雨が当たらず、濡れた頬がつややかに光っていた。

 僕と彼女は向かい合ったままゆっくりと体勢を戻し、雨が再び二人の間に降りはじめた。僕らは少し呼吸を速くしてただ雨に打たれていたけれど、やがて彼女が笑みを浮かべて言った。

「今の、ダンスっぽかったわね」

 彼女と同じ表情になれることを嬉しく思いながら、僕も微笑む。

「うん。とっても」

 僕ら、いいペアになれるかもね。そう心の中で付け足す。雨が肌を心地よくくすぐっている。

 僕らはまたゆっくりと踊りはじめた。柔らかく足を交互に踏み出して、四歩行くとまた四歩かけてターンした。反対向きになってまた足を運ぶ。僕らは雨の中、しずしずとステップを踏んだ。片手を頭の横で握り合って、もう一方の手は互いの濡れた背にそっと当てがって、体は透明な板を挟んだように近づけるけど触れ合わず、二人だけの校舎裏で揺れ、回り、舞った。

 彼女の髪は雨に潰れてほつれ、何房かが額や頬に張りついていて、服は洗濯機から出したばかりかのように水を吸ってずしりと重く、目に水が入らないように頻繁にまばたきをしないといけなかったけど、彼女は楽しげな笑みを穏やかに浮かべていて、僕も似たようなものだった。細かい雨が僕と世界を打ち続け、繋いだ右手と背中に添えた左手から彼女の身体の動きが伝わってきて、それに同調して足を動かすことが、僕をとても落ち着かせた。

 雨は僕らを囲う優しい檻だった。他の世界と隔絶されて、世界は僕と彼女と雨しかなかった。雨は楽団でもあり、一緒に踊る仲間でもあった。雨が藪の草に当たって奏でる、きめ細かい白砂糖の袋を傾けるような音や、地面の水溜まりに無数の雨粒が飛び込んで遠近さまざまな箇所で鳴る鈴のような音色、それらに合わせて僕らは踊った。そして、雨もまた踊っていた。藪の高く伸ばした葉の上で、地面を覆った短い草の上で、彼女の指に挟まれた僕の右手の指の上で、彼女のすっと滑らかに伸びた鼻梁の上で、ぽつりと落ちては弾けて舞った。雨雲が空に広がって、それが散らした弱くも柔らかい光に校舎裏は満ちていて、止まない雨がもたらす微かな息苦しさすら快かった。

 ステップに慣れて、足元だけでなく互いの顔を見やる余裕もできてきた。時計回りにゆっくりとターンしながら、彼女は僕の顔を見て言った。

「ねえ」

 僕は睫毛に溜まった水をまばたきして払い、彼女と目を合わせた。すると彼女は視線を下げ、僕の肩越しに向こうを見るような目つきをした。僕は黙って彼女の言葉を待つ。右、左、右、左。なおもステップを踏んで体を運びながら、彼女は口を開いた。

「今、わたし、いい気分だわ。どうしてかわからないけど、こうしているのが楽しいの」

 彼女は僕をそっと見上げて尋ねた。

「楽しい?」

 僕はゆっくりと、でも大きく頷いた。

「ずっとこうしていたいくらい」

 彼女はふふっと笑って、その瞬間、僕の世界から雨が去って、彼女一人が残った。片手を合わせて、背に腕を回し合って、自然に足を動かして時々くるりと回る。彼女は悪戯っぽい上目遣いで言った。

「わたしたち、きっと趣味が似てるのね。いい友達になれそう」

 友達か、と僕は薄く笑って目をつぶる。でも、十分だ。雨のほのかな温もりを感じながら、湖を揺蕩う小舟のように、僕は彼女と踊った。

 そのとき、僕の左足がむぎゅっと踏まれて、僕と彼女は同時に声を上げた。慣れが仇となって二人とも足元を見ていなかったから、彼女が僕の足を踏んづけて、濡れた地面も手伝って、僕は見事にバランスを崩して後ろに倒れてしまい、繋いだ手にぐんと引っ張られて彼女もバランスを崩した。僕は背中から地面に倒れて水を跳ね上げて、続いて前のめりになった彼女がきゃっと叫んで僕の上に倒れ込んできた。

 僕は水溜まりだらけの地面に横たわり、体の後ろ半分で冷たい水に浸かる感覚を感じながら、右手を顔の横に投げ出していて、その右手には彼女の左手が重ねられて地面に押さえつけられていて、彼女は右手を僕の顔の左について、両膝を地面につき、踊っているときよりなお小さな隙間を挟んで彼女は僕に覆いかぶさっていた。僕の体に彼女のセーラー服がほとんど接しそうになり、僕の文字通り目と鼻の先に彼女の顔があって、彼女が一身に雨を引き受けているから僕は一瞬雨が止んだのかと錯覚した。でも、耳が地面に近づいたからか世界に響く雨音はよりくっきりと聞こえるようになり、彼女の耳元から頬を伝って鼻先へと水滴が伝うのが見えた。

 ふっと彼女が破顔して、あははと笑い出した。何が可笑しいのかわからないけれど、あんまり楽しそうに笑うものだから、僕の頬もつられて緩んでしまう。

 笑いの発作の間を縫って、彼女は切れ切れに言った。

「わたしより濡れてるじゃない」

 本当にそうだ。僕も耐え切れずに笑い出す。これじゃどっちが先に濡れはじめたんだかわからない。

 一しきり笑うと、彼女はゆっくりと頭を下ろしていった。彼女の頭が僕の頭の横まで来ると、僕の顔に再び雨が降り出した。僕の耳元で彼女がそっと囁く。

「わたし、今、とってもいい気分。……ありがと」

 お安い御用だよ。

 雨が目に入ってしまうから、僕は目を閉じる。あのとき水のカーテンをくぐってよかったと、僕は心の底から思う。

 校舎裏に降る雨が、柔らかく、あたたかく、僕らを包んで降っている。


 彼女は僕の折り畳み傘を天に向かって開いた。それを左手に、鞄を右手に持って、そして僕は彼女の左について、僕らは雨の中へと踏み出す。

 彼女が傘を忘れたと言うから、僕の小さな折り畳み傘に二人が入って、ひとまず彼女がバスに乗るまで一緒に行くことになった。最近は晴れ続きだったからこの傘を使うのは久しぶりで、心なしか傘も雨に打たれて嬉しがっているように見える。放課後になってしばらく経つけど、部活が終わるにはまだ早いようで、校舎裏から出ても人影はなかった。雨が降っているからかもしれない。

 傘を差すのも馬鹿らしく思えるくらい僕らは既にずぶ濡れだったけど、鞄の中の教科書なんかが濡れると困るし、校舎裏ならともかく人目がありそうな場所で雨ざらしになるのはさすがに気がひける。

 服に当たって濡れてしまわないように、鞄を体の前で窮屈そうに持って右隣を歩いている彼女に、僕は歩調を合わせながら声をかける。

「ねえ、やっぱり傘は僕が持つよ」

 悪いから自分で持つと頑強に主張した彼女に押し切られ、傘は彼女が差していた。歩きながら彼女は首を振る。

「入れてもらってるんだもの。持つくらいさせて。それとも何か理由があるの?」

「僕の方が背が高いよ」

「そんなに変わらないでしょ」

 彼女は背伸びして僕と目線を並べてみせる。そんな彼女の子供っぽさに僕は思わず笑ってしまう。

 彼女は不満げな顔をしてみせるけど、ふと真面目な表情に戻った。

「わたしの気がおさまらないから、せめてお礼をさせてちょうだい」

 いいのに、と言ったきり、僕は言うべきことを見つけられない。押しに弱いのは僕もなのかもしれない。

 二人で入るには小さい傘だから、左肩や足には雨粒が当たってしまう。でももう十分すぎるほど濡れているから、特に気にならない。むしろ雨の当たらないところの方が、服の冷たさが際立って気になるくらいだった。ズボンに雨が当たる感触を感じながら、水溜まりを踏んで歩いていく。右を歩む彼女の顔をそっと窺う。初めて握る傘をぎこちなく頭上に掲げている彼女は、真剣な目つきで歩を進めていて、その涼しげな睫毛に水滴が一つ乗っているのが見えた。雨が折り畳み傘に打ちつけて、軽やかなリズムを奏でている。僕の視線に気づいて、彼女がこっちを見た。僕はなんでもないよと笑いかけて、彼女は不思議そうに微笑を返した。僕らは右に曲がって校門へと歩いていく。

 校門へと向かう途中、校舎の西棟へ差しかかったとき、雨音に紛れて上の方から楽器の音色が聞こえてきた。彼女の持つ傘が震えて、雫がいくつか飛び散った。この学校にはマーチングバンド部もオーケストラ部もなくて、軽音楽部は管楽器を使わないだろうから、これを奏でているのは吹奏楽部だ。通しで練習しているのか、僕の知らない曲が窓の内側から洩れ聞こえてくる。いろんな楽器の音色を聞き分けることなんて僕にはできないけれど、アルトサックスの音がいつもより一つ少ないことは確かだろう。

 僕は素知らぬ顔で歩き続けるけれど、彼女は顔を俯けて、まるで糾弾の声を聞くように演奏の音色を浴びている。その姿があまりに痛々しかったから、僕はたまらずに声をかける。

「僕は部活に入ったことないからさ、わからないけど……たまには休んだっていいんじゃない?」

 できるだけいつも通りの、なんにも気にしてないよって声を出そうとしたけど、逆に作為的に響いてしまった気がする。彼女は俯いたまま、鞄を持つ手に力を込めて、傘に跳ねる雨音にかき消されそうな細い声で言った。

「ごめん」

 僕は首を振る。

「謝ることないよ。それに……本音を言うとさ、君が部活を休んでくれて、嬉しいんだよね」

 顔を上げて彼女が僕を見る。睫毛に乗っていた雫が一つ、ぽたりと落ちて頬を流れていくのが見えた。

「勝手だけどさ、今日、楽しかったから。君が校舎裏に来てくれて。だから、ありがとう」

 彼女はまた下を向いて、黙って首を振った。

 折り畳み傘が、雨の降る世界と僕らを区切っている。

 僕らは肩を並べて、雨によって金属の冷ややかさを増した門を通って学校の外に出た。雨が濃い黒のアスファルトに跳ねている。歩道は二人が横に並ぶと幅を埋めてしまうけれど、幸い進行方向に歩行者の姿は見えなかった。折り畳み傘の薄い生地が雨粒にノックされる感触が絶えず彼女の左手に伝わってきていることだろう。道路側を歩く彼女は黙って足元に目を落としている。

 そのとき、ざあっという音が後ろから聞こえ、一台の車が僕らの脇を追い越していった。彼女はびくりと顔を上げる。タイヤが路面の水を踏む音がみるみるうちに遠ざかっていく。車道を挟んで反対側の歩道を水色の傘を差した小学生が歩いていることに、不意に気づいた。ここは校舎裏と違って人がいるのだと今更実感して、女子と相合傘している僕は急に人目が気になりはじめて、彼女も同じだったのだろう、視線から隠れるように折り畳み傘をちょっと下げた。

 ほどなく彼女がバスに乗る停留所が見えてきた。幸いバスを待つ他の人はいないようだった。屋根もベンチもない簡素なバス停だから、時刻表が貼りつけられた標識の前で、僕は車道の方を、彼女は足元をぼんやりと見ながら、一つ傘の下で並んで立つ。静まり返った住宅街を雨がゆったりと覆っている。

 彼女が何番のバスに乗るかは知らないけれど、家のある大まかな地域は聞いたことがあったから、路線図を見れば見当がつく。この番号のバスに乗るのと聞くと、彼女は曖昧に頷いた。時刻表によると、三十分おきに来るらしい。濡れた服の重みを感じながら、僕は小さな声で彼女に尋ねる。

「雨に濡れててもバスに乗っていいのかな?」

「座らなければいいんじゃないかしら。あんまり混んでないだろうし、後ろの方で立っていればバレないわよ」

 彼女も低めた声で答えた。そう、と僕は頷いて視線を戻す。肌に張りつく服の冷たさが身に沁みてきた。

 何台かの乗用車が目の前を通り過ぎていく。傘の下、僕のすぐ右に彼女の存在を強く感じる。

 あのね、と彼女が言って、その沈黙の破り方があまりにも自然だったから、僕はうんと相槌を打ってからようやく彼女が話し出したことに気づいた。

「ショートホームルームが終わった後、授業でわからなかったところを聞きに職員室に行ったから、吹部に行くのがちょっと遅れたの。だから、音楽室に着いたときには中に人が集まってて、もちろん楽器を鳴らすときには閉めるんだけど、湿気は特に木管楽器には大敵だから、ドアが半分開けられてたの。それで、中にいる人たちの話が、外まで聞こえてきた」

 淡々と話す彼女に、僕は何も言えなかった。

「わたし、熱心すぎたのね。わたし、吹奏楽が好き。みんなで演奏するのが好き。中学校で一回、地区大会で金賞をとったことがあるの。金賞のくせに五校も受賞するんだけどね。それでも、みんなで一生懸命練習して、本番に今までで一番いい演奏ができて、五校の枠に入ることができて、やったねってみんなで笑い合うのが、とても楽しかった。それをこの高校でもやりたかったの。この学校のみんなで頑張って、大会で外部の人に認められるくらい頑張って、そうしてみんなとやったねって言い合いたかったの。でも、そうじゃない人もいるわよね」

 足元を見つめる彼女の顔はあまり見えないけれど、それでも彼女が力なく笑ったことはわかった。

「なんか熱心すぎるよねって、言ってたの。ついていけないって、一人で夢見てるって、偉くもないのに張り切ってるって。先生に気に入られたいんじゃないのとか、夏の大会の後に決まる新部長のポストを狙ってるんじゃないのとか。同級生はともかく、後輩にもそう言われたのは、ちょっと傷ついちゃったな」

 彼女は疲れた苦笑いのような表情を浮かべた。僕は鞄をきつく握り締めた。

「わたしが悪いのよ。周りを見ずに、勝手に理想を他人に押しつけてた。わたしの自業自得なんだけど、ちょっと、音楽室に入っていくのが嫌になっちゃって、飛び出してきちゃったの。でも行くところもなくて、ふらふら校舎裏に来たら、あんたがいたってわけ」

 そう言うと彼女は顔を上げて、僕の目を見た。僕は心がぎゅっと縮んで痙攣するような痛みを感じて、息を吞む。

「噓ついてごめん」

 冷たい雨が彼女の持つ傘を叩いていた。静かに目を伏せた彼女に、僕の息は震えた。

 彼女が傘を忘れたというのは、噓だと思う。雨に濡れたい気分だったから濡れただなんて、もっと怪しい。僕は彼女のことを最近週に一度校舎裏で会うようになってようやく少しずつ知るようになった。その程度の仲だけれど、それでも、今日校舎裏に来たときの彼女の言葉は隠したいものがあるように聞こえた。

 もし気まぐれで雨に濡れたというのが噓ならば、彼女は雨に濡れる必要があったということになる。きっと彼女は雨に濡れなくちゃいけなかった。その理由は、傘を忘れたからなどではない。校舎には建物をぐるりと囲う庇があるのだから、正面玄関を出てその下を歩いていけば、濡れずに校舎裏に着ける。実際、僕もそうして傘を差さずにそこまで来たのだ。それに、彼女の鞄は濡れていなかった。鞄には教科書やノート、ひょっとしたら楽譜なんかも入っているかもしれない。濡れてはいけないものは鞄に入れて、庇の下で濡れないように持っていたのだろう。ということは、彼女は故意に自分の体だけを庇の下から出して雨に打たれたことになる。そして何より、校舎裏に来たときの彼女は、表情や声色が堪えるようで、あるいは押し隠すようで、どうにも辛そうだったのだ。

 その原因は彼女の告白で明らかになった。彼女が話さないということは、彼女が話したくないということだ。だからこれまで僕は事情を尋ねることは控えてきた。でも、今ばかりは彼女に問い質したかった。両肩を掴んで、目線の高さを合わせて、瞳を正面から覗き込んで、言いたかった。嫌になったんだと君は言ったね。それは噓じゃないと思う。でも、それだけなの? 部員の口さがない言葉を聞いて、君が受けたショックは本当にそれだけだったの?

 校舎を飛び出した後わざと雨に濡れた君は、泣いていたんじゃないの? 流した涙を人に見られたくなくて、また目元を拭くだけでは足りない事情が――例えば化粧品の類いが流れてしまったとか、あるいは単に目の赤さが隠せなかったとかいう理由が――あって、君はそれを上書きして覆い隠してしまうために、雨に濡れないといけなかったんじゃないの?

 でも今、彼女は雨に濡れた以外は何もなかったかのように振る舞っていて、だからこそ僕の中には言いたいことが苦しいほどに膨れ上がって、僕はようやく言葉を絞り出す。

「噓ついたっていいよ」

 ゆるりと首を上げて、彼女は不思議そうに僕を見た。

「言いたくないことは言わなくたっていいよ。それに、僕だって噓ついたよ。君が校舎裏に来て、それまで何を考えてたのって聞いたね」

 そのときは早く火曜日が来ないかなって考えると答えたけど。

「あのとき本当は、来週チョコレートを持ってこようか、どうしようかって、考えてた」

 彼女はぽかんとした後、臆病な男が魔が差して万引きするところを目撃した恐喝屋のような、意地悪な笑みをゆっくりと浮かべた。

「それで、持ってくるの?」

 僕は耳の先が赤くなるのを感じながら顔を背けた。

「考え中」

 傘からはみ出た左肩に当たる雨がやけに冷たい。彼女は堪えかねたように短く笑い声を上げた。僕は下を向くしかない。

「馬鹿ね」

 彼女は心底可笑しそうに言った。彼女が笑うのと一緒に傘が細かく揺れて、金属の骨の先からまるで真珠をばらまくみたいに水滴が散った。それがだんだんと収まり、傘がまた従容と雨を受け止めるようになった頃、彼女が静かに「あのね」と口を開いた。

「そういうことがあったから、わたし、そんなにいい気分じゃなかったの。でも校舎裏に来て、雨に濡れたら、なんだか楽しくって。わたし、いま結構いい気分」

 彼女は横目で僕をちらりと見上げて、小さな蠟燭の灯りのように、ほのかであたたかい笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 その声は僕の胸の辺りにあった蟠りを柔らかく融かして、僕は小さく頷き返すとそっと目を閉じて、鞄を少しだけ強く抱えた。雨音が僕らを包んでいて、やっぱりその音は優しいなと僕は思う。

 遠くの方から、一際大きなエンジンの唸りが聞こえてきた。ちょっと身を屈めると、大きなタイヤで水を跳ね上げながらこちらへと走ってくるバスが見えた。車体の前面に掲げられた番号を確かめる。彼女の乗るバスだ。

「来たみたいだね」

 僕が言う。彼女は速度を緩めていくバスをゆるりと見やる。バスは僕らの前に無造作に止まると、ブザーを鳴らして機械式の扉をぷしゅうと開けた。降りてくる人はいない。車内にほとんど人影はない。

 彼女から傘を受け取ろうと手を伸ばして、僕は言葉を呑み込んだ。彼女は目の前のバスを黙殺するように歩道の縁石をじっと見つめていて、僕に傘を返す素振りはない。

 呆気にとられている僕をよそに、バスはさっきと同じ音を立てて扉を閉じると、エンジン音をぞんざいに響かせて無関心に去っていった。

「違うバスだった?」

 彼女は小さく頷いた。ほつれた髪がうなじに張りついているのが見えた。

「だから……」

 彼女は下を向いたまま、雨音にかき消されてしまいそうなか細い声で言った。

「もうしばらく、ここで待たないと」

 どきりとした。何も言えずに固まっていると、彼女が顔を上げて、僕を申し訳なさそうに見上げた。

「駄目?」

 僕はその上目遣いに心臓を直接打たれたような気分を覚えながら、本心であると伝わるように精一杯微笑んで首を振る。そうして右手を持ち上げる。

「ただし、傘を僕に持たせてくれたらね」

 折り畳み傘の細い柄をそっと握る。そのとき、指が彼女の左手に触れた。あたたかかった。

「冷たい」

 一方の彼女は驚いたようにそう言う。彼女は左手を傘から離し、少しの間空中に浮かせていたけど、やがて傘を差している僕の右手にそっと触れた。体温を確かめるように指先でなぞって、優しく包み込むように僕の右手を握った。彼女の指はあたたかくて、手の平や指は僕のより小さいけれど、楽器を持つからかしっかりしていて安心感があった。

「冷たいわ」

 彼女はもう一度言って、また前を向いた。

「あったかいよ」

 そう答えて僕も前を向く。バス停の前の道路と、家々の屋根と、僕らの入る傘に雨が降って、そのさらさらとした感触が僕の右手に伝わり、きっと彼女の左手にも伝わっている。優しい雨音が僕らを中心とした世界を包み込んでいて、それはきっと彼女の耳にも届いている。

 雨に濡れた僕らは、それでも二人きりで傘を差して、手を触れ合わせながら立っている。

「あったかい」

 僕は繰り返す。

「よかった」

 冷たい路面に踊る雨粒を見ながら彼女がそう囁いて、左手の指で僕の右手を撫でた。

 そのあたたかみを感じながら、これがずっとあってほしいと僕は願って、それは難しいかもしれないけれど、せめて彼女がバスに乗っている間くらいは彼女の指があたたかくあってほしいと、僕はそう思う。

ⒸWikiWiki文庫

跡奉
個野この作品さくひん第一回ん代五種弐詞世宇利史田にしょうりした作品さくひん
キュアラプラプ

浜名宗吉君を捜しています。

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青梅市カルト児童集団監禁事件捜査資料:被害児童のものと思われる手記(4)

 お母さんごめんなさい。本当にごめんなさい。ここから出してください。ここはせまくて暗いです。カッターで切られたあとが痛くて涙が出てきます。もう生ごみを食べるのはいやです。トイレも無いので臭くて気持ち悪いです。ここから出してください。僕は偽者ではありません。お母さんごめんなさい。暗くて人が少ないから行くなっていつも言われていたのに、あの時近道から帰ろうとしてごめんなさい。許してください。


月刊テンポ・ルバート2014年5月号掲載「奇妙な儀式と未解決事件……9年前に消えた謎のカルトを追え!」

 先日の「瀬戸内海の人魚伝説」の調査も終わり、一息ついた「となりのオカルト調査隊」。そんな我々の元に、新しい調査依頼が舞い込んだ。依頼人は、神奈川県某所在住の白坂憲二氏(74歳男性・仮名)である。

「私は、息子夫婦が入会していたある『団体』のことを調べてもらいたいんです」

 白坂氏は、調査隊を自宅に招き、こう語った。彼の深い皺には、往年の苦労が刻まれているようだ。

「私たちは、それは仲のいい家族でしたよ。私と女房、それに一人息子の三人で、笑顔の絶えない家庭だった。やがて息子が結婚し、実家を出ていくと、少し寂しくなりましたけどね、時々孫の綾香(編集部注:仮名)を連れて遊びに来るんです。それがもう、お爺ちゃんとお婆ちゃんには嬉しくてたまらないんですよ。綾香はよく懐いてくれました。おもちゃも沢山買ってあげましたよ。お嫁さんもいい人でねえ、うちの女房と会ったその日から友達みたいに仲良くなって。こんな幸せがずっと続くと思っていた。……しかし、そうはならなかったんです」

 調査隊も、重い空気を感じ取った。白坂氏は、固く拳を握りしめて続ける。

「忘れもしない、11年前のことです。一家で夏祭りに行った日だった。綾香はもう9歳になっていました。花火を見たり、出店で遊んだりして、夜も遅いしそろそろ帰ろうか、となった時、綾香がトイレに行きたいと言い出したんです。ちょうど私の女房もトイレがしたかったから、息子夫婦が車を取りに駐車場に行く間に、私と女房で綾香をトイレに連れて行くことになりました。私は女子トイレの前のベンチで待っていましたよ。するとね、しばらくして、女房が真っ青な顔で出てきて、『綾香がいない!』と言うんです。

 どうやらトイレは相当混雑していたみたいで、女房が用を済ませて出てくると、もう綾香の姿は見えなかったらしい。……それから私たちは必死で綾香を捜しました。もちろん、警察も必死で捜してくれました。それなのに、一日経っても、二日経っても、綾香は見つかりませんでした。誘拐されたんです。女房は、自分のせいだと言って、息子夫婦に泣いて謝りました。しかし、トイレの外にいた私が注意していたら、こんなことにはならなかったかもしれない。息子夫婦は私たちを責めるようなことはしませんでしたが、とにかく、あの日を境に、家族はバラバラになってしまったんです」

 日本では、毎年千人を超える児童が行方不明になっている。その多くはわずか数日で発見されるが、中には何十年経っても消息がつかめない例もあるのだ。綾香ちゃんも、失踪から11年が経った今なお、その行方はおろか生死すら分かっていない。

「それからは、捜査の進展も全くなく、息子夫婦とはどんどん疎遠になっていきました。……本題はここからです」

 我々は、いっそう身を引き締めて話に聞き入った。

「あれから一年ほど経った後、息子夫婦から手紙が届いたんです。まだメッセージのアプリなんかもありませんでしたからね。手紙の内容は、息子夫婦が『関東地方誘拐被害児童の家族の会』という団体に入会したという話でした。それで、彼らの会には被害児童の持ち物や服などを会に納めて無事に帰ってくることをお祈りする取り組みがあるんだそうで、それが『セキホウ』……と読むのかは知りませんが、『痕跡』の『跡』に『奉納』の『奉』で、『跡奉』。そういう名前だったんでしょう。私らに、『跡奉のために、綾香に関係する物がもし残っていたら渡してほしい』と言うんです。正直、少し……強引さというか。そういうものを感じなかったわけではありませんが、負い目もあったし、特に拒む理由もないと思って、綾香のために置いてあったおもちゃや服を指定された宛先に送りました。『家族の会』の施設の住所だということでした。

 それからまた一年くらいした後、警察から電話が来ました。綾香の件で何か進展があったのかと思いましたが、そうではありませんでした。……息子夫婦の死体が、発見されたんです。それも、遠く離れた栃木県のとある山に埋められて窒息死した、明らかな他殺体だったそうです。私も女房も、愕然となりました」

 白坂氏は大きな呼吸を置いて、再び話し始めた。

「事件の取り調べの中で、息子夫婦の交友関係について尋ねられた時、私はその『家族の会』のことを話したんです。すると、警察の方は驚いた様子で、慌ただしくどこかに連絡し始めました。なんでも、ちょうどその当時、この会に関わる捜査が別件でなされていたんだそうです。詳しいことまでは、教えてもらえませんでしたけどね。……しかし、結局、息子夫婦の事件も迷宮入りになってしまいました。不思議なことに、息子夫婦には抵抗した痕跡が見つからず、犯人の痕跡も一切残されていなかったそうです。

 それからは、心の傷も癒えぬまま、二人でひっそりと暮らしてきました。あの団体のことなんて忘れていましたよ。ただ女房は、年のせいもあってか、次第に病気がちになってしまってね、半年前にぽっくりと逝ってしまいました。……しかし、ほんの数日前のことです。女房の部屋で、遺品を整理しているとき、思いがけないものが出てきました」

 そう言うと、白坂氏は机の上に一枚の封筒を置き、中身を出した。差出人は、白坂氏の息子になっている。そして消印は平成17年――息子夫婦の遺体が発見された年だった。

「息子は、殺される直前に、この手紙を家によこしていたんです。一体なぜ、女房はこれを隠していたのか……その理由は、すぐに分かりました。どうぞ、手紙の文面を読んでみてください」

 荒い字でそこに書かれていた内容は、にわかには信じがたいものだった。

 文章は、例の「家族の会」への称賛から始まる。「誘拐児たちを取り戻したいという切実な願いを持った親たちの強い結束」……さぞや立派な団体なのだろう。しかし、問題の記述によると、「家族の会」に属する親たちは、会が所有する施設内にいるという「ストーカー」と呼ばれているらしい人物に対し、殴る、蹴る、あるいは熱湯を浴びせる等の暴行を、日常的に行っていたというのだ。白坂氏の息子はこの「ストーカー」のことを異様なほど憎んでいるようで、「生きている価値のない人間の屑」などと貶め、この行為のことを誇らしげに書いている。また、詳細は書かれていないものの、そのような「誇らしい」行為のひとつとして挙げられている「きょうだいのお納め」も不気味だ。白坂氏の言うように「跡奉」が誘拐児童の痕跡を会に納めるものだとすると、この「きょうだいのお納め」は誘拐児童のきょうだいの身柄を会に納める行為であるとでも言うのだろうか? 手紙の最後には、「家族の会」の施設に五回目の強制捜査が入りいよいよ「危うくなってきた」こと、そして警察の手を逃れるために、近いうちに会が一旦「解散」するということが書かれていた。

「息子は責任感があって、真面目な子でした。……こんな異常なこと、見過ごすはずがありませんよ。きっとこの『家族の会』に変えられて、頭がおかしくなってしまったんです。あの団体は、危険なカルトだったんですよ!」

 白坂氏の語気が荒くなる。

「すみません、少し取り乱してしまいました。とにかく私は、あの『家族の会』がどんなものだったのか、そして息子夫婦の身に何があったのかを、ただ知りたいんです。警察にはこの手紙のことを伝え、新しい有益な情報だったと感謝されましたが、捜査はやはり進展しないようだし、『家族の会』のことを聞いても当然詳しいことは教えてくれません。……しかし、下手に堂々と情報を募ることはできない。こんな田舎ですからね、『あの息子夫婦はキチガイのカルト信者だった』だとか、まず間違いなく近所で噂が立ってしまうでしょう。女房がこの手紙を隠していたのも、きっとそのためだったんです。これ以上、不幸な、かわいそうな息子夫婦の顔に、泥を塗りたくなかったんです。

 本当にわがままで、愚かなお願いだということは百も承知です。聞けば、あなた方の雑誌では、実際に未解決事件を扱い、行き詰っていた捜査を一段進展させたこともあるらしい。……あれから九年経って、ようやく尻尾を掴めたんだ。しかし、こんな老いぼれ一人には何もできやしません。……どうか、お力を貸していただけないでしょうか」

 そう言って、白坂氏は頭を下げた。「となりのオカルト調査隊」はもとより、神隠しや祟りのような超常怪奇現象から街角に巣食う怪しい宗教の都市伝説まで、社会の裏をくまなく扱うエキスパート集団である。この案件を断る理由がどこにあろうか? かくして我々は、白坂氏の素性を全面的に隠匿しながらも、この謎多きカルトの正体に迫るべく調査を開始することにしたのだ!

 実は、我々は既に当時「家族の会」に関わりがあったという人物を見つけ出し、取材のアポを取ることに成功している。この情報は、次号に掲載することになる。この団体や事件について何か知っていることがあるという者は、すぐさま月刊テンポ・ルバート編集部オカルト係に問い合わせてほしい。それでは読者諸君、次号の「となりのオカルト調査隊」でまた会おう。


月刊テンポ・ルバート2014年6月号掲載「カルトに洗脳された妻……夫が覗いた怪しい施設の闇とは」

 先月号の調査依頼を受け、我々は「関東地方誘拐被害児童の家族の会」の調査を開始した。その過程で連絡を取ることができたのが、茨城県在住の北口和也氏(41歳男性・仮名)である。

「こんな狭いアパートで、すいませんね」

 我々調査隊が北口氏に連絡をとったきっかけは、インターネット上に公開されていた彼のブログである。そのブログは、いたって普通の家庭の生活を記録したものであったが、愛娘の失踪、そして「関東地方誘拐被害児童の家族の会」への妻の入会を書いた13年前の記事を最後に、更新が止まっていた。しかし、調査隊がブログのプロフィールに記載されていたメールアドレスにだめ元で取材依頼を送ってみたところ、なんと連絡を取り合うことに成功。こうして取材を取り付けるに至ったわけだ。

「私が22歳のころだから、19年前ですか。妻とは、当時勤めていた会社で出会いました。職場結婚ってやつです。大事な商談をダメにしちゃった時にも、励ましてくれたりして、気づいたら好きになっていたんです。その勢いのまま、プロポーズでしたよ(笑)。でも、後から聞いた話なんですが、そのとき既に妻は私のことを狙っていたらしいんですね。まんまと策に乗せられてしまったというわけです(笑)」

 北口氏は楽しそうに過去を振り返る。部屋の奥にある棚の上には、家族三人の笑顔の写真が飾られているが、そこに写る北口氏はずいぶんと若々しいままだ。

「結婚してからすぐ、娘もできましてね。私ももう父親かと、なんだか感慨深くなったのを覚えています。娘は元気な子でね、休日にはいつもどこかに遊びに行きたいと駄々をこねて、私たちを困らせましたよ(笑)。あの時は、本当に楽しかったなあ。今でもたまにブログは見ています。娘の笑顔が、よく映っているんです。……そろそろ話を進めましょうか。小学校に入学して、もうすぐ二年生というとき、娘は誘拐されてしまったんです」

 どこか遠くを見つめるように、北口氏は語る。

「きっかけになったのは、入学して半年ほど経って、学校にも慣れてきた頃でした。それまでは私たちが娘の送り迎えをしていたんですが、娘がある日『友達と一緒に登下校したい』と言い出したんです。家も近かったし、通学路も人通りが多かったので、私たちはそれを認めてあげることにしました。それから毎日娘は楽しそうに、友達と一緒に登下校をしていたのですが……あの時の自分の判断を、13年経った今でも強く悔やんでいます。そのせいで、娘はあの日、誘拐されてしまったんです。

 そう、あの日……私たちは知らなかったんですが、いつも一緒に登校する約束をしていた友達が風邪で休んでいたみたいで、娘は一人で学校へ向かっていたらしいんです。そしてその途中で、誘拐されてしまった。娘が来ていないという連絡を学校から受けて、血の気が引きましたよ。警察にも連絡して、大規模な捜査が始まりましたが、一向に娘は見つかりませんでした。私も妻も、焦りと後悔で、パニックに陥りました。……そんなとき、妻が知ったのが、あの『家族の会』だったんです」

 専業主婦だった北口氏の妻は、当時一般的になって間もなかったネット掲示板の書き込みから「家族の会」の存在を知ったのだという。そこから彼女は、日に日にその団体にのめり込んでいくようになったのだ。

「妻は、東京郊外にあるらしい『家族の会』の建物にたびたび行って、会員の方と交流するようになりました。彼女によれば、『家族の会』は不安や苦悩を親身になって聞いてくれて、いろいろな相談にも乗ってくれたそうです。私も当初、妻の話を聞く限りでは、何の変哲もない、それどころか素晴らしい団体だと思っていました。だから、妻が正式に『家族の会』に入会することになったときももちろん反対しませんでした。……後になってみれば、私はこのとき、またも選択を間違えたんです。

 おかしなことが起こり始めたのは、それからすぐでした。妻が、娘の部屋にあった物をどこかに持って行ってしまうんです。最初に服やおもちゃを持って行ったときは、少し怪しいとは思いましたが、娘の好きなものを『家族の会』で共有しているのかと思って、自分を納得させていました。しかし、妻は一向にそれらを家に持って帰ってこないばかりか、しまいには娘の使っていた靴やランドセルまで持って行ったんですよ。流石におかしい。そう思って直接妻に聞いてみると、彼女は娘の物を勝手に持ち出して、『家族の会』で誘拐児童が帰ってくることを祈る取り組みに使っていたということが分かりました。先月号の記事も読ませていただきましたが、やはりこの儀式が『跡奉』というやつなんでしょう。……後で話しますが、私は施設の『跡奉』のために作られたという部屋にまで行ったんです」

 「跡奉」――前回の依頼人も話していた、「家族の会」での儀式だ。誘拐の被害にあった児童の残した物を納め、無事に帰ってくることを祈るものだという。北口氏が覗いたその内実は、いかなるものだったのだろうか。

「妻は続けて、娘の物はただ施設に置いているだけであって、お焚き上げのようなことをするわけでもなく、きちんと管理していると言ってきました。しかし、それでも私の不安は拭えませんでした。妻はあの時、本当に娘の持ち物をすべて家から消し去ろうとしているくらいの気持ちに見えました。何というか、とにかく、異様だったんです。……でも、妻の話を聞く限りでは、『家族の会』は何の裏もない良い団体のように思えます。だから、ある日曜日、不安な気持ちを払拭するために、私も妻と一緒に『家族の会』の施設に行ってみることにしたんです。

 カーナビに従い、数時間ほど車を運転して着いたのが、彼らが『本館』と呼んでいる建物でした。東京と言っても、かなり田舎の方で、近くの道路も往来はまばらでしたね。木々に囲まれた『本館』は、地域の小さい公民館くらいのサイズの、シンプルな青い三角屋根の一階建てで、壁は綺麗な白色をしていました。中に入ってみると、かなり重厚感のある内装で驚いたのを覚えています。壁は落ち着きのあるクリーム色で塗られていて、小さいシャンデリアのようなものが天井に吊り下げられていました。そこで妻に紹介してもらったのが、『家族の会』の代表という立場にあるらしい、アミさんという同年代くらいの女性でした。彼女は生まれつき聴覚に障害を持っているようで、私とは筆談でコミュニケーションをとりました。アミさんによれば、この建物は『家族の会』の先々代、すなわち四代目の代表が、被害者家族たちの憩いの場となるようにと造り上げたものだそうです。

 そこから案内されたのは、奥の扉の先にあった少し大きめの部屋でした。そこでアミさんが、持ち運んでいたホワイトボードに『これは跡奉のための部屋です』と書いて私に教えてくれたんです。聞いたことのない言葉で戸惑いましたが、字面からうっすらと、妻が話していたあの儀式のことなのだろうと察しがつきました。鍵を開けてもらって部屋に入ると、その中にはたくさんの小さな仮設トイレのような個室が並べられており、私は妻に連れられて、その中の娘に割り当てられているという個室のところへ行きました。渡された鍵でロッカーのように扉を開けると、その中には妻が持ち出した娘の物が全てぎゅうぎゅうに収まっていて、妻は、これで納得しただろう、というふうにこちらを見てきました。……しかし私は、ますますこの団体のことを疑わしく思うようになりました。『跡奉』のやり方は、その目的とは対照的に、うまく言えないんですが……二重に鍵を掛けているところとか、無機質で、奇妙なように思えるし、それ以上に、私がいた間中ずっと、その部屋でかすかに子供の泣き声が聞こえてきたからです。妻によれば、親たちはみんな誘拐被害児童のきょうだいも連れてきていて、その子供がぐずっているだけだというのですが、聞こえてくる泣き声は明らかに赤ん坊のものだけではありませんでした。姿は見えず、どこにいるのかは分かりませんでしたが、物心ももうついているくらいの子供の声で泣いているのが、あちこちで聞こえてきたんです」

 「跡奉」のための部屋に、その被害児童の「きょうだい」……この状況は、前回出てきた「きょうだいのお納め」という儀式に何か関係しているのだろうか?

「明らかに異常だとか、そういったことは断言できません。自分のきょうだいが誘拐された子供が、精神的に不安定になって泣いているだけなのかもしれないし、同じくストレスを感じている親にも、泣いている子供の世話をするだけの余裕が無かったのかもしれない。だから私は、口を出せませんでした。でも、子供の泣き声をずっと聞いていると、言いようのない不安でくらくらしてきて、ここにはいられないと思いました。妻に『もう帰ろう』と言うと、妻は大人しく、『分かった』とだけ答えました。……それから、アミさんにあいさつをして、二人で車に乗り込んだときでした。妻がいきなり、思い出したように『ちょっと別館の方を見てくる』と言ったんです。『すぐ戻ってくるから車で待っていてもいい』と言われた私は、もうこの施設に近づきたくなかったので、言われた通りに車で待っていました。

 しかし、一つだけ気になることがありました。『別館』の場所です。入って来た時、正面から見たこの施設には、『本館』しか建物がありませんでしたし、『本館』の裏手にある駐車場からも、『別館』と呼ぶべき建物は見当たりませんでした。不思議に思って、妻が歩いて行った方向をリアガラス越しに見た瞬間、ぞっとしましたよ。妻は『本館』のすぐ裏で、地面の方を向いて、険しい顔で何かを叫んでいたんです。目が合いそうになったので、慌てて前を向きなおしました。……その後、何事も無かったかのように助手席に乗ってきた妻は、本当に私の知る妻なのかと、ひどく恐ろしくなりました」

 北口氏が感じただろう、愛する妻への恐怖は、相当なものだったらしい。北口氏の表情は、過去を回想している中であってさえ、恐ろしげに歪んでいた。

「そして……娘の死体が発見されたのは、その日の夜でした」

 目線を落として、北口氏は続ける。

「消息を絶ってから二週間後のことでした。娘は、他殺体で発見されました。首を絞められて……川に沈められていたそうです。その後すぐ、犯人も逮捕されました。娘は通学路で、車に乗せられて連れ去られ、その後すぐ……。すいません。まだ、このときの話は、うまくできません。とにかく、娘はもういない。もういないということが、分かったんです。分かってしまったんです。それなのに、それなのに妻は……まだ、あの団体で、『娘は戻ってくる』と、言い続けたんです! 必死に説得しました。私もつらかった。妻もつらかったんでしょう。そのせいで、あんなことになってしまったのかもしれない。でも、妻は、妻は……娘の遺体を見ても、『これは偽者だ』と言って聞かなかった……」

 調査隊は、北口氏の目に涙が浮かんでいることに気づいた。

「すいません、取り乱してしまって。……私には、もう分からないんですよ。私はどうにか、妻がおかしくなった原因を、あの『家族の会』に押し付けようとしているのかもしれない。本当は、あの団体は何も悪くなくて、ただ妻は、妻の心は娘の死に耐えられなかっただけなのかもしれない。……その後、妻は失踪しました。今に至るまで、妻の姿は見ていません。一応、警察に捜索願は出しましたが、事件性のないただの痴話げんかによる家出として扱われ、捜索は行われませんでした。あの時の家からは、それから三年ほどした後、引っ越しました。こうして、今に至ります。……これが、私の話せる限りの、全てです」

 北口氏の妻は、なぜ狂ってしまったのか、その答えを知る者はいない。しかし、先月号でお伝えした白坂氏の悲劇、そしてこの北口氏の悲劇の両方に深く結びつく奇妙な団体が、何かしらの形で一枚噛んでいるのはまず間違いないだろう。我々はこの団体の調査を続ける。この団体や事件について何か知っていることがあるという者は、すぐさま月刊テンポ・ルバート編集部オカルト係に問い合わせてほしい。それでは読者諸君、次号の「となりのオカルト調査隊」でまた会おう。

 付記

 北口氏への取材が終わった後、彼の携帯電話に非通知の電話がかかってきた。それ自体は何の特筆性もないことだが、電話を切った北口氏は奇妙そうに取材班にこう話した――非通知設定の、聞き覚えのないしわがれた高齢男性の声で、「ハマナソウキチくんをご存じですか」と尋ねてくる電話がかかってきた、と。

 北口氏が戸惑って黙っている間に、電話は切れてしまったという。普通に考えればただの間違い電話だが、我々がこの出来事をわざわざ記録したのには理由がある。前回の取材時、我々が白坂氏の自宅を後にした直後、白坂氏から「見知らぬ長身の老人の男が山の方からこちらを覗いてきた」という連絡があったのだ。白坂氏は近隣住民に息子夫婦の件が嗅ぎまわられることを危惧しているようだったが、この奇妙な出来事は、我々の取材を追跡する何者かの存在を示しているのだろうか? オカルト記者としては、つい勘ぐってしまうところだ。


月刊テンポ・ルバート2014年7月号掲載「陥れられた夫婦は決定的瞬間を捉えた! 終わらないカルトの恐怖」

 先月号の発売後すぐ、我々のもとに一件のメールが届いた。送り主は群馬県在住の谷美咲氏(37歳女性・仮名)であり、彼女はあの「関東地方誘拐被害児童の家族の会」の施設に夫婦で足を踏み入れたことがあるという。谷氏は取材に快く協力してくれた。

「あれは、加奈(編集部注:仮名)がまだ7歳の時でした。加奈は大人しい子で、休日はいつも家で本を読んで過ごしていました。でも、私たち夫婦はアウトドアが好きで、出会ったのも富士山の山頂なんですよ(笑)。だからあの日は、確か三連休だったから、家族でキャンプに行こうって決めたんです。今思えば、そのせいで……。ううん、そんなこと今になって言ったって、しょうがない話ですよね」

 これまで取材した二名と違って、谷氏の表情には悲しさの中にもどこか余裕があるように見える。谷一家は娘を失う悲劇を経験したが、夫婦の絆が引き裂かれることはなく、今は後に産まれた加奈ちゃんの弟・理央くん(編集部注:仮名)と共に、家族三人で満ち足りた暮らしを送っているそうだ。理央くんは我々調査隊に興味津々で、本棚にあったUMAの図鑑を見せてくれた。オカルトライターとしては、彼の将来は有望だと言わざるを得ない。

「私も夫も、加奈との思い出を、悲しいものにしたくないんです。加奈はおっとりしていたけど、時々思いがけないようなことをする子で、いつも家では笑いが絶えませんでした。だから理央にも、あんまり暗い話はしていません。むしろ面白いお姉ちゃんがいたことを覚えていてほしいな、って思うんです。それが、あの子の生きた証になるのかな、って」

 谷氏は顔を上げて続ける。

「すみません、前置きが長くなりましたね。とにかく……10年前のあの日、加奈はキャンプ場でいなくなってしまったんです。今でこそ私たちも落ち着いていますが、当時はもちろんパニックになって、警察の捜査を何もしないで待っていることに耐えられませんでした。そんな時、夫がどこかの雑誌から、あの『家族の会』の存在を知ったんです。私たちは、とにかく悩みや不安を誰かに打ち明けたくて、『家族の会』に連絡しました。その後すぐ、近所のカフェで会ってくれた会員の人は、同じ立場で、本当に親身になって私たちの話を聞いてくれました。私たちの味方はこの人たちしかいない、とまで思った記憶があります。……だけどそれは、人の弱みに付け込んだ、悪質なカルトへの入り口だったんです。

 その会員は、『お祈り』だとか『おまじない』だとかいう言葉を使って、加奈が無事に帰ってくるために私たちにできることを紹介してきました。今思えばとんだ眉唾ものではありますけど、傷ついた私たちにとっては何よりありがたいものでした。そして、そのようなことをするための場所として、郊外にある施設のことを教えてもらったんです。スピリチュアルな話は置いておくにしても、同じ悩みを抱えた『家族の会』のメンバーが集まって交流する場所は、私たちの唯一の居場所のように思えました。だからその次の週末、私たちは早速その施設に行ってみることにしたんです」

 谷氏の表情はだんだんと険しくなっていく。彼女もまた、前回取材した北口氏のように、奇異な施設の内部の姿を語り始めた。

「エントランスを抜けて通されたのは、やはりあの子供の物を納める部屋でした。『跡奉』って言うんでしたよね? 名前はそちらの記事を見て初めて知りましたけど。その中で、会員の人たちは、例の仮設トイレくらいの大きさの個室のいくつかを開けて中を見せてきました。カフェで事前に聞いた限りでは、私たちは『跡奉』のおまじないを少しスピリチュアルではあっても特におかしなものとまでは思っていなかったんですが、そのロッカー大の大きさの個室に子供のおもちゃや服とか、とにかく子供の物全部なんじゃないかっていうくらい沢山の物が敷き詰められているのを見ると、違和感を覚えました。子供のために祈るというなら、何もそんな小さなスペースに分けて施錠までしなくたって、広い場所を使ってみんなで一緒にやればいいじゃないですか。それに、持ってくる量も異常です。でも、ある個室の一つが開いた瞬間、その違和感は吹き飛びました。この施設はおかしい、という確信に、完全に変わったんです。個室の中に、猿轡を噛まされて座っている子供がいたんです!

 夫が会員の人に問いただすと、あの人たちは悪びれる様子もなく、これは『きょうだいのお納め』といって、誘拐児童のきょうだいを誘拐された子供のものと一緒に納めているのだと言いました。……先月号に掲載されていた北口さんの話では子供の泣き声が聞こえたとありましたが、私たちが行ったのはおそらくその後で、泣き声が猿轡で対策されていたんだと思います。『跡奉』の部屋がああいう風になっている理由は、子供を閉じ込めるのに都合がよかったからなのかもしれません。その子供は無気力な表情でこっちを見ていて、そして……あの個室の床には、おもちゃや服の上で、排泄物が……そのまま、垂れ流しになっていたんです。とにかく、血の気の引いた私たちは、すぐにそこから離れることにしました。

 すると、『家族の会』の人たちはそれを察知したようで、部屋の出口を塞ぐように立ちふさがって、私の腕をつかんだんです。あの人たちは私に何かを言おうとしていたみたいだったのですが……あの時感じた恐怖は、今でもありありと覚えています。私は悲鳴も出せず、足が震えて立ちすくんでしまいました。力の強かった夫は、大声を上げながら必死であの人たちを振り払い、私を担いで『本館』から逃げ出しました。後ろからは、私たちに何かを訴えかけるような感じの言葉が聞こえてきて……。気が動転していたからよく覚えていませんが、確か、『あのストーカーを見れば納得するはずです』『こうでもしないと本物が帰ってこないんだ』というような内容だったと思います。私たちはすぐに車に乗って、全速力であの施設を後にしました。震えながらバックミラーを覗くと、『本館』のすぐ裏……北口さんの奥さんが『別館』と呼んでいた場所で、あの人たちがこっちを見ながら、縄のようなものを使って誰かを引きずり出していました。遠かったし、こちらに背を向けていたのでよく見えなかったのですが、その人は坊主頭で全裸の、痣と皺だらけで腰が曲がった老人のような見た目でした。扱われ方からして、多分あの人が『ストーカー』と呼ばれていた人なんだと思います」

 ついに我々調査隊の中で、今まで疑惑に過ぎなかったものが確信に変わった。「家族の会」は、人々を洗脳し、老人虐待や実子の監禁という異常な行為を強いる、明白な反社会的カルト集団だったのだ!

「その後私たちはすぐ、このことを警察に通報しました。警察は、実は『家族の会』に関する同様の通報を同時期に何度か受け取っていたようで、後日対面で詳しく事情を話すことになりました。その時、担当の刑事さんは、加奈のことで私たちを不安にさせて申し訳なかったと言って、何度も何度も頭を下げてきました。でも、私たちの方も申し訳ない思いでいっぱいでした。『家族の会』のことでこんなことになったのは、私たちが警察を信じられなかったせいなのに。とにかく、警察の準備が整い次第あの施設に強制捜査を行うことを明かしてくれて、ようやく安心したのを覚えています。……しかし、後から聞いた話では、『家族の会』は事前にこれを察知して『きょうだいのお納め』を中断し、その痕跡を完全に隠していたようで、警察の強制捜査もむなしくこの事件は立件できなかったそうです。あのお爺さんも、どこか別の場所に移していたんでしょうかね。

 私たちはその後すぐに家を引っ越しました。もしかしたら、この家でずっと待っていれば、加奈はいつか何事もなかったようにひょっこり帰って来るんじゃないか、なんて思うこともありました。でも、最初に近所のカフェで『家族の会』の人と接触した時点で、私たちはみすみす家の場所まで教えてしまっていたんです。あの人たちが今にも家に押しかけてくるんじゃないかと思うと、怖くて仕方がありませんでした。だから、加奈のことを思うと辛かったけど、こうして今いる場所に引っ越してきたんです。加奈だって、帰って来るなら、安心できる場所がいいだろうから。それからは何事もなく……加奈は、まだ帰ってきていないけど。それでも、ここで理央が生まれて、元気に育ってくれました。私も夫も、今の暮らしがあるのは理央のおかげだと思っています」

 谷氏のあたたかい目線が、隣の部屋で遊んでいる理央くんに向かった。

「理央が産まれることになったとき、実は、少し怖かったんです。もちろんとっても嬉しかったし、幸せでしたよ。だけど、また同じことが……加奈と同じことが起こってしまったらどうしよう、っていう考えが、頭から離れないんです。お医者さんの話を聞いている時も、お腹に加奈がいた時のことがフラッシュバックして、その時の私は、もちろん不安もあったけど、本当に幸せで……。そう考えた時、もうすぐ理央のお母さんになるのに、こんな暗い気持ちになっているなんて、母親失格なんじゃないか、とさえ思えてしまって。だけど……夫がしっかり私の手を握ってくれて、ようやく産まれた小さな理央が、がんばって、がんばって、初めて泣き声を上げたあの瞬間、そんなうじうじした気持ちは吹き飛びました。私が、私たち二人が、絶対に理央を守るんだ、そう心に誓ったんです。

 それから理央は何事もなくすくすくと育っていきました。本を読むのが好きなところは、きっと加奈に似たんでしょうね。……理央が笑ってくれるおかげで、私と夫にもようやく本当の笑顔が戻ってきたんだと思います。最初は、加奈が見つからないまま、私たちだけが幸せになるなんてできない、許せないと思っていたけど、理央の前ではそんなこと言ってられませんよね。理央を不幸にさせてしまったら、お姉ちゃんの加奈にも顔向けできないですよ。だけど、理央が元気で、本当によく笑う明るい子だから、私たちが理央を幸せにするっていうより、むしろ理央のおかげで私たちが幸せになっているっていう方が正しいかな(笑)。今年の春からは小学校に入って、ちょっと反抗期になってますけど(笑)」

 谷一家は、息子のおかげで悲劇に負けなかったのだ――調査隊は今月のページをそう締めくくるはずだった。取材の終わり際、突如としてインターホンの音が響くまでは。

「ハマナソウキチくんをご存じですか」

 インターホンの後にかすかに玄関外から聞こえてきたのは、しわがれた老人の声だった。取材班と谷氏は息を呑み、無言で目を見合わせた。前回の北口氏への取材時にかかってきた電話と、あまりにも特徴が一致している。数秒の沈黙の後、気の抜けたインターホンの音が連続で何回も、暴力的に鳴らされ始めた。隣の部屋にいた理央くんは泣き出し、谷氏のもとへ駆け寄ってきた。谷氏は理央くんを固く抱き締めながら、目を見開いて震える。しばらくして、インターホンの音が止んだ後、我々がドアスコープを確認した時には既に訪問者の姿は無かった。我々調査隊の背筋に寒いものが走った。この悲劇は、まだ終わっていないかもしれない。

 我々はすぐさまこの件を警察に通報したが、実害が発生していないためか、電話口での対応で済まされてしまった。理央くんが泣き疲れてリビングで眠ってしまった後、谷氏は我々にこう語った。

「……今思い出したんですが、あの『ハマナ』という名字……。施設に行った時聞かされたんですが、確か、『家族の会』の代表の名前は、『浜名亜実』でした。だから、『ハマナソウキチ』はもしかしたら……あの人の誘拐された子供だったかもしれません」

 凶悪なカルト団体「家族の会」の脅威は今なお続いているのか? 施設で虐待を受けていた「ストーカー」と呼ばれる老人と、我々の行く先に度々現れる「ハマナソウキチ」を捜す老人……彼らは何者なのか? 我々は危険を顧みず調査を続行する。有力な情報を持ち、我々と共に真相を探りたいと思う者は、すぐさま月刊テンポ・ルバート編集部オカルト係に問い合わせてほしい。それでは読者諸君、次号の「となりのオカルト調査隊」でまた会おう。


青梅市カルト児童集団監禁事件捜査資料:施設居住空間から発見された日記(1999年分から抜粋)

あのストーカーは私たち誘拐被害児童の家族の気持ちを踏みにじる最低の存在だ。あいつは宗吉くんの無事を祈って日々神経をすり減らしている浜名さんをターゲットにしてつきまとい、おちょくって楽しんでいる。しかもあいつはつい先日から、施設の周辺までうろつき始めるようになった。どうやら私たちが出した生ごみを漁ったりもしているらしい。本当に神経を疑うし、気が違っているんだろう。警察に相談しても全く役に立たない。アメリカやヨーロッパではストーカーを裁けるようになったのに、日本はいつも遅れている。浜名さんはいよいよ我慢の限界に達したようで、あいつを監禁して痛い目を見せてやろうと言っている。正直、施設の建物の中にあいつが入ってくることになると考えると吐き気がするほど嫌悪感があるが、浜名さんはそれが気にならないくらいあいつに激怒しているようだ。でも確かに、何度言ってもつきまとうのを止めないのだから、いっそのこといたぶって分からせるしか無いのかもしれない。自業自得だ。二度とここに近づこうだなんて思えないようにしてやる。


月刊テンポ・ルバート2014年8月号掲載「『教祖』は口のきけない女? 善良な団体を乗っ取った洗脳術」

 我々は今、9年前に解散した危険なカルト団体「関東地方誘拐被害児童の家族の会」を追っている。その中でコンタクトをとることに成功したのが、この「家族の会」がカルトに変貌していった過程を知るという人物、埼玉県在住の酒井正氏(55歳男性・仮名)である。彼は幼い時に兄を誘拐された過去を持ち、さらに彼の父親は以前「家族の会」の代表を務めていたというのだ。酒井氏は我々の取材に快く応じてくれた。

「……もともと『家族の会』は、子供を誘拐された家族が協力して支え合う、心の拠り所となる場所でした。人を傷つけ、洗脳するようなカルト集団では、断じてありませんでした」

 埼玉県のあるカフェで、酒井氏はこう切り出した。彼は独り身で、肉親はいない。彼の人生は、兄の誘拐事件によって、決定的に変えられてしまったのだという。

「正直、あの時俺は物心がついて間もないころだったから、兄貴の顔もぼんやりとしか覚えていないんです。だけど、兄貴が帰ってこなかった夜のことは鮮明に覚えています。夜七時、晩御飯の時間には、父は兄貴が帰ってきたらうんと叱ってやるんだと言っていました。俺も兄貴も小学生だったけど、兄貴はよくその辺を悪い友達とほっつき歩いていたんです。だけど、それが八時、九時となるにつれ、父も母も落ち着かない様子になってきて、警察に電話する、しないの口論を始めました。俺は何が何だか分からなかったけど、兄貴がいないという異常事態の中で、父と母の明らかに普段と違う、切羽詰まった雰囲気が恐ろしくて、不安になったのを覚えています。子供の目には、大好きな家族が突然別物になってしまったように感じられて、そして……。その日を境に、俺の家族が元に戻ることはありませんでした。

 一週間経っても、兄貴は見つかりませんでした。あのとき兄貴が自力で移動できた範囲は徹底的に捜索されましたが、何の成果もなく、警察はこの失踪を誘拐事件として結論づけました。学校に行くと、最初の内はみんな兄貴の噂話に夢中でしたが、一か月が経つ頃には普段の調子に戻ってマンガやゲームの会話をしていました。だけど、俺の家族が普段通りに戻ることはありません。兄貴は一年経っても見つからず、父と母は毎晩のように喧嘩していました。なのに、二人とも俺の前では無理して明るく振る舞っていて……ひどい話かもしれませんが、幼い俺には、すごく不気味に思えました。……それからさらに半年ほど経った後、母は、家で首を吊って、自殺しました。通夜の時、父は俺を抱き締めて泣きました。父は無骨な感じの人で、こんなに感情をあらわにするところは見たことが無かったから、驚きましたよ。でもあの時、俺はやけに冷静に母の死を受け止めていて、泣いたりもしませんでした。日ごろのストレスで少しおかしくなっていたんだと思います。

 ともかく、父がその後入会したのが、あの『家族の会』だったんです。父はよく俺を連れて、『家族の会』の施設に行きました。そこには俺たちと同じような境遇の人がいて、俺と同じようにきょうだいを誘拐された子供もいました。あの人たちは、俺たちの話を聞いて、真心を込めて励ましてくれました。生活のための援助を貰うこともしばしばありました。俺は、『家族の会』の人に、手を強く、温かく握ってもらったとき、兄貴が誘拐されてから初めて、ようやく涙を流しました。……父と俺は、『家族の会』のおかげで再び前を向けるようになったと思います。母と一緒にここに来ていれば、俺たちの未来はまた違っていたかもしれません。とにかく、あの時点の『家族の会』は、健全で素晴らしい団体でした。虐待まがいの異常な行為なんて、どこにもなかったんです」

 酒井氏が語る「家族の会」の姿は、我々が今まで調査してきたものと全く異なるものだった。

「兄貴が見つからないまま、あっという間に十年が経ち、俺は上京して就職しました。たまに帰省しても、父と兄貴の話をすることはほとんど無くなりました。ただ、父はその後も『家族の会』で熱心に活動し続けたようで、俺が三十になるころには、五代目として『家族の会』代表の座をその先代が建てた施設ごと継ぎました。そうだ、あなた方の記事の中で『別館』というものが出てきていましたが、当時はそんなものはなかったはずです。とまあ、それで、その数年後久しぶりに施設に行ってみると、父は気づけば多くの人に慕われるようになっていました。『自分の家族に起こった悲劇を繰り返してほしくない』と、口癖のように言っていましたよ。……しかし、あの時既に、あの女は……浜名亜実は、『家族の会』に潜んでいたんです」

 「浜名亜実」……北口氏と谷氏がともに言及した、後に「家族の会」の代表になる女だ。「家族の会」の変貌には、この女が関わっているのだろうか?

「全てのきっかけは、あの日、父にかかってきた一本の電話でした。……警察が、兄貴の遺体を発見したんです。どうやら、兄貴を誘拐して殺した男が、寿命で死ぬ間際になって犯行を自白したらしく、その男の証言の通りにある山のふもとを掘り返してみると、骨になった兄貴が見つかったということでした。兄貴がいなくなってから、三十数年が経っていました。……父は、絶望的だと分かっていてもなお、兄貴が生きていると信じたかったんでしょう。だから、その望みが打ち砕かれて、茫然としているように見えました。そんな自分を負い目に感じてしまったのか、父は次第に『家族の会』とは距離をとって、一人で家にいることが増えるようになりました。そしてついに、15年前、父は代表を降りて、浜名亜実を正式な六代目代表に任命したんです。

 浜名亜実は、生まれつき耳が聞こえず、言葉を話すこともできなかったそうです。結婚して、長男を産むも、その後すぐに夫の不倫が原因で離婚し、そのうえ13歳の誕生日の直前で一人息子の宗吉くんを誘拐されて……彼女の人生は辛いものだったでしょう。人と比べるようなものではないでしょうが、彼女の息子を思う気持ちは、尋常なものではなかったようです。一種の依存だったんでしょう、あの人は、自分の全てを捧げてでも、息子を取り戻したいと願っていたんです。それでも、彼女にはどこか理知的な魅力があって、他の被害者家族たちと毎日のように文通を交わし、根気強く励ます優しい人だったそうです。代表になる前から、子供の好きだったものを持ってきて共有する取り組み……後の、取材を受けたみなさんがおっしゃっていた儀式……『跡奉』の原型でしょう。そういうことを始めたりと、積極的に『家族の会』で親睦を深めていました。俺が最初に見たときには、まだ『跡奉』の個室が置かれていないあの部屋で、親たちは輪になっておもちゃやサッカーボールを持ってきて、自分の子供の話に花を咲かせていました。被害児童のきょうだいもちらほら見ましたが、あの時には泣いている子供なんて一人もいませんでした。

 一方父は、代表を降りてからみるみるうちに衰弱し、ついに肺癌が見つかって入院していました。面会に行くと、父はやはり『家族の会』のことを気にしているようで、『浜名さんがいるから心配ないと思うが、家族の会の人たちを気にかけていてくれないか』としつこく言ってきました。だから、父を安心させるために、俺はあの施設に行ったんです。浜名亜実が代表になって、半年ほど経った頃でした……。その時にはすでに、『家族の会』はおかしくなっていたんです」

 谷氏の考えの通り、「ハマナソウキチ」は「家族の会」の代表・浜名亜実の誘拐された息子で間違いないようだ。浜名亜実は、いかにしてカルト団体を作り上げたのだろうか?

「最初に奇妙に思ったのは、施設を訪れてすぐ、見知った会員の人たちと挨拶をしている時でした。普段は応接室として使われていた大きなテーブルが置かれている部屋に、布団がたくさん敷かれていたんです。聞いてみると、最近は皆毎日この施設で寝泊まりするようになったのだと言われました。父が施設を管理しているときはいつも夜には施錠していて、宿泊するなんていう話は聞いたことはなかったし、わざわざ家ではなくこの施設で生活する意味は一体何なのかと、不審に思いました。とはいえ、会員が施設に宿泊しているくらいのことで『家族の会』がおかしくなってしまったとまでは思いませんでした。それを確信したのは、あの『跡奉』の部屋に行こうとした時です。……部屋の内側から、子供が『出して』と言って泣く声と、ドアを叩く音がするんです。ドアはこちら側から鍵がかかっていました。俺は何事かと思ってすぐにドアを開けようとしたんですが、その瞬間、腕をつかまれて制止されました。振り向くと、そこにいたのは浜名亜実でした。あいつは携帯していたホワイトボードに訳の分からないことを書きなぐってきました。確か……『ごめんなさい、跡奉のために部屋には鍵をかけています。気にしないで』と。あの『跡奉』という意味の分からない言葉は、ずっと記憶にこびりついていたんですが……。まさかここからさらに恐ろしい儀式が発展していたとは、あなた方の雑誌記事を読んで初めて知りました。

 あのドアには蔦のような装飾が付いた磨りガラスがはめ込まれていて、装飾部分は普通のガラスになっていたから、俺はそれ越しに中の様子を伺おうとしました。あまりよく見えませんでしたが、中には子供が十何人かいるらしく、見覚えがあるような子供もちらほらいました……被害児童のきょうだいです。床には、親たちが持ってきた被害児童のおもちゃ等が散乱していました。ガラスに張り付いて目を凝らしていると、突然、ドアの向こうから手のひらが叩きつけられてきました。しゃがんでドアに近づいていたので、その人の顔や背格好は見えなかったのですが、磨りガラス越しにも、その人が裸で、腕には深い皺が刻み込まれていることが分かりました。間違いなく、記事にあったあの『ストーカー』です。俺は悲鳴をあげて振り向き、会員の人たちの方を見ましたが、誰もこの異常な事態を疑問にも思っていないようでした。……子供の泣き声が響く中、俺はめまいがして、動悸が止まりませんでした。あの時と同じでした。俺の家族と同じように、俺の知る『家族の会』は、別物になってしまったんです」

 あの恐ろしい「跡奉」の儀式は、ここから始まったのだ。我々はこれまでに様々なカルト組織への潜入取材企画を行ってきたが、「修行」などと称して閉鎖空間の中で共に寝泊まりし、メンバーの生活や意思をコントロールすることは、洗脳の第一歩であり常套手段である。浜名亜実の狙いはそこにあったのではないだろうか。

「施設から逃げ出した俺は、このことを父に伝えられませんでした。……父にとって『家族の会』は、新しい家族のようなものだったんだと思います。老いて弱った父には、せめて幸福な家庭の中で余生を過ごさせてやりたかったんです……たとえその幸福な家庭が、最早父の頭の中にしか無かったとしても。結局、数年後に父は癌が全身に転移してあっさり死にました。それ以来俺は、『家族の会』に関わっていません。変わってしまった、変えられてしまった『家族の会』を詮索しても、俺には辛いだけでしたから。……俺は、あの会にもう関わりたくないという一心で、全てを見なかったことにしたんです。でも、今では、そうやって逃げたせいであのカルトがさらに多くの悲劇を生むのを許してしまったのかもしれないという後悔でいっぱいです。今更どうしようもないかもしれませんが、せめて俺の言葉が何かを究明する助けになってほしいと願います」

 取材を終え、酒井氏と別れた調査隊はカフェを出た。このとき、調査隊の編集者の一人は、交差点の人ごみの奥に佇み、こちらを凝視している背高の異様な老人男性を目撃したという。この老人はただの通行人だったのだろうか? 「家族の会」の謎が紐解かれるにつれ、我々につきまとい浜名宗吉くんを捜す老人の謎は深まる一方だ。彼は施設に監禁されていた「ストーカー」であり、宗吉くんを使って浜名亜実への復讐をしようとしているのだろうか? 些細な事でも、何か情報を持っているという者は、月刊テンポ・ルバート編集部オカルト係に問い合わせてほしい。それでは読者諸君、次号の「となりのオカルト調査隊」でまた会おう。


月刊テンポ・ルバート2014年9月号掲載「洗脳された両親に監禁された少女……彼女を助けた老人の衝撃的な正体!」

 あらゆるコネクションを通じて「関東地方誘拐被害児童の家族の会」の調査を進めている中、調査隊は一通のメールを受け取った。送り主は栃木県在住の稲田瞳氏(21歳女性・仮名)であり、彼女はなんと幼少期にあの「きょうだいのお納め」と呼ばれていた行為の被害者となって「家族の会」の施設に監禁されていたことがあるというのだ。我々はすぐさま取材を取り付け、彼女の自宅へ向かった。

「15年も前のことで、しかも私は当時6歳くらいだったから、記憶があやふやだったり、そもそも勘違いだったりすることがあるかもしれないんですけど。まあ、とにかく、あの『家族の会』について覚えている限りの全てを話そうと思います」

先月号で話を伺った酒井氏が最後に「家族の会」の施設を訪問したのは14年半前のことだった。つまり、稲田氏はその半年前、浜名亜実が「家族の会」の代表になったのとちょうど同時期にあの施設にいたという事になる。稲田氏は、ただおもちゃが持ち寄られていただけの部屋が、子供たちを閉じ込める「跡奉」の部屋になった経緯を知っているのだろうか? あるいは、その中にいた「ストーカー」と呼ばれる謎の老人を見たのだろうか? 我々は居住まいを正して取材を始めた。

「私には二つ上の姉がいました。姉は、私に物心がついてすぐくらいのときに誘拐されました。だから、私は姉のことをあまり覚えていません。私の中の記憶がはっきりとしてくるのは、姉がいなくなった後、両親が私を連れて車で遠くまで行くことが増えた頃です。目的地は、昔はもちろん知らなかったんですけど、『家族の会』の施設です。車を降りると青い三角屋根の綺麗なお家があって、その中で同年代くらいの子供とたくさん遊んでいた覚えがあります。両親が入会した当初は、まだ『家族の会』はカルトになっていなかったんだと思います。むしろ、遊ぶ友達もいるし、おもちゃもたくさんあるしで、私は当時、あの施設に行くのを楽しみにしていました。

 『家族の会』がおかしくなっていった経緯は、ぼんやりと覚えています。まずは、あのおもちゃの部屋……皆さんが記事で言っていた、『跡奉』の部屋だと思います。もともと私たち子供はあの部屋でよく遊んでいたんですが、ある時中の物が全部他の場所に移されて、私たちは入るのが禁止になりました。代わりに、あの部屋には外側から鍵がかかって、『ストーカー』と呼ばれていた人を閉じ込めるのに使われ始めたんです。大人たちは毎日あの部屋に入っては大声を上げて、多分暴力を振るっていました。両親に聞いてみると、『あの人はとても悪い人だから、みんなで懲らしめている』んだと言っていました。最初は怖かったけど、そのうちそれが自然になっていって、次第に子供たちもみんな気にしなくなりました。

 それから少し経った頃、いつも通り施設で他の子たちと遊んでいると、気づいたら大人たちが玄関に集まっていて、何か嬉しそうに興奮していたことがありました。聞いてみると、さっき誰かが施設に来て、誘拐された子供の取り戻し方を教えてくれたというんです。私はなんだか不思議に思いながらも、姉が帰って来るのが楽しみになった覚えがあります。その夜、普段だったらもうとっくに帰る時間になっても、大人たちはなぜかそれに気づいていないようにおしゃべりを続けていました。私は正直ラッキーと思ってその後も一時間くらい遊んでいたんですけど、さすがに疲れてしまったし、どんどん不安になってきて、両親に『帰らないの?』と尋ねたんです。……すると両親は笑って、『これからは皆でここに住む』と言ってきたんです。私はよく分からないまま、その日はそのまま施設で寝てしまいました。そして、その次の朝、目が覚めると私たち子供は皆、あの『ストーカー』と同じ部屋の中で閉じ込められていたんです」

 やはり「家族の会」がカルト集団に変化していった背景には、あの「ストーカー」の存在が大きく関わっているようだ。さらに、施設に来て「子供の取り戻し方」を教えたという謎の人物も重要な鍵を握っているに違いない。あの訪問の直後に子供たちを監禁する「きょうだいのお納め」が始まったということは、誘拐された子供のためだとして「家族の会」で行われていたあの恐ろしい儀式や行為の大本は、全てここで教わった「子供の取り戻し方」だったのではないだろうか?

「私も他の子供たちも、皆パニックになって泣いてしまいました。『ここから出して』と叫んでも、鍵を開けてくれる気配は全くありません。それに、あの『ストーカー』と呼ばれていた人が、ドアの目の前で縄で縛られて固定されたままこっちを見ていたんです。髪は無く、体は全裸で皺と痣だらけで、子供たちは皆初めて直に見るあの人に怯えてドアに近づけませんでした。泣き疲れてふと気づくと、部屋には他の場所に持って行かれたはずの、おもちゃや服などの誘拐された子供の物が戻されていました。しかも、何だかそういう子供の物は倍増しているようで、子供用の箸や食器までその辺の床に置かれていました。……しばらくすると大人が一人部屋に入ってきて、私たちに朝ごはんをくれました。『そんなのいいからここから出して』と言うと、その大人は優しげな口調で、『皆は誘拐されたきょうだいを助けるためにお納めされている』『置いてある物や皆が奪われたりしないように鍵をかけないといけない』『あのストーカーは別館が完成し次第そこに移すから、少しの間辛抱してほしい』みたいなことを言ってきました。

 私たちが何も言えずにいると、その大人は今度はあの『ストーカー』のところに行って、ものすごい剣幕であの人のことを罵り始めました。あの人に生ごみの袋を投げつけて、『二度とここに近づかないと誓うまで拷問し続ける』とか『そんなに生ごみが食べたいなら一生食べていろ』とかいうようなことを言っていました。その人が部屋を出ていった後、私たちは泣きながら、無言で朝ご飯を食べました。……それから一年ほど、私はあの部屋の中で生活しました。先月号で取材を受けていた人が施設に来たのが、この頃のはずです。ご飯は大人たちが毎食持ってきてくれて、トイレ用のバケツも毎日交換してくれました。お風呂の代わりに濡れタオルで体を拭きました。大人たちはたまに大勢で詰めかけて、『ストーカー』に暴力を振るっていました。その中には時々私の両親もいました。血が飛び散るほどの暴力で、私たちはその度に息を殺してそれが終わるのを待っていました。『ストーカー』は叫んだり呻いたりはしていたけど、大人たちに何か言われても一言も喋りませんでした。耐えられなくなった子供が、大人が部屋に入って来るタイミングで脱走することもしばしばあったけど、みんな結局は部屋に連れ戻されてしまいました。

 当時は時間の感覚も無くなっていたんですけど、多分閉じ込められて半年後くらいから、私は『ストーカー』がかわいそうになってご飯を少し分けてあげるようになったんです。最初はもちろん怖かったけど、どれだけ近づいても危害を加えてくるような素振りは全然なかったから、途中からは何か親近感のようなものも湧いてきていました。ただ、勇気を出して話しかけても、あの人が何か喋ることはありませんでした。……近くでよく見ると、『ストーカー』の体は本当に痛々しく傷ついていました。でもそれ以上に、何と言うか、不思議な点が多かったんです。私は最初、あの人をお爺さんだと思っていました。『オカルト調査隊』さんの取材の中でも、あの『ストーカー』を遠くからだったり磨りガラス越しに見ていた人は、あの人を老人だと思っていたはずです。でも、あの人はいつも髪を無理やり抜かれたり切られたりしていたせいで禿げ上がって見えていただけで、実際は黒い髪がちゃんと生えてきていました。痛めつけられた時の叫び声も、顔の形も、今思えばむしろ幼いような感じだったし、それに体中にある皺も向きが不自然で……まあ、これに関しては、後で話します。とにかく、私はある時思い付いて、部屋で見つけた柄付きの女の子用のメモ帳とかわいいペンを使って、あの人と筆談をしてみようとしたんです。そして、あの人はそれに応えてくれました」

 「ストーカー」の謎は深まるばかりだ。稲田氏と「ストーカー」の接触はどのようなものだったのだろうか? 稲田氏はどこか懐かしむような語り口で続ける。

「確か、拙い字で、『わたしはいなだひとみです。あなたはだれですか?』みたいなことを書いて渡したと思います。するとあの人は、『ぼくは はまなそうきち です』と書いて、返してきました。平仮名だったのは多分、私に配慮してくれたんだと思います。当時は知らなかったんですが、あれは間違いなく、記事の中で言及されていた浜名亜実の息子の名前でした。宗吉さんは母からの遺伝で生まれつき耳が聞こえず、手話か筆談でしか喋れないんだそうで、それから私たちは筆談でいろいろなことを話すようになりました。その中で、私は宗吉さんになぜ『ストーカー』と呼ばれ、こんなひどいいじめを受けているのか聞いたことがあります。帰ってきた答えは、当時の私には……今の私にとっても、信じられないようなものでした。まず、宗吉さんは学校からの帰り道で何者かに誘拐されて、気づいたら知らない家にいたそうです。けど、どうにかそこから逃げ出すことに成功して、自力で自分の家に帰ってきたというんです。でもそこで待っていた母親は、帰ってきた宗吉さんを偽者だと思った。激高して、宗吉さんを手話で罵って、追い返したんです。宗吉さんはこの文章を書きながら泣いていました。宗吉さんは、まるで訳が分からなかったそうです。何度自分は偽者ではないと訴えても、母親はますます怒って『二度と来るな』と言うばかりでした。その後数日間は行く当てもないから家の敷地の隅に座りこんで、お腹がすいたら家の前に捨てられていたごみを漁ったそうです。転機になったのは、ある日この施設を見つけたことでした。家が施設の近所で、母親の車を追ってたどり着いたらしいです。最初はここに居る別の大人なら助けてくれるかもしれないと思ったらしいんですが……。結局あの人たちも同じように、宗吉さんを睨んで、宗吉さんには聞こえない暴言を吐いて、門前払いにしてしまったそうです。それでも行く当てがないから、うつろに駐車場に座って過ごしていたら、ついにある時、この部屋に監禁されて、激しい暴行を受けるようになったんだといいます。

 筆談するようになってから数か月後、宗吉さんは私を施設から脱出させる計画を立ててくれました。最初に来た大人が言っていた『別館』が完成したみたいで、宗吉さんが近いうちにそこに移されることになっていたんです。私たち子供の世話をする大人たちは、『あのストーカーは一生暗くて狭いところに閉じ込めておくから安心して』みたいなことを言っていました。計画といってもシンプルで、部屋から出されるタイミングで宗吉さんが暴れて、囮になるというだけのものでした。一緒に逃げたいと言ったけど、断られました。最後に宗吉さんは、誘拐されてから優しくしてくれたのは私だけだったと言ってくれたような気がします。それからあのメモ帳とペンは、宗吉さんが持っていくことになりました。……脱出した日のことは、正直、何も覚えていません。まるで悪夢から覚めたように、私は気づいたら伯母さんの家で暮らすことになっていました。あの後『家族の会』は強制捜査を受けたらしいんですが、児童虐待の十分な証拠は見つからず、結局何も事件にはならなかったそうです。私の証言も多分、ほとんどは子供なりの勘違いや妄想だと思われたみたいでした。正直、自分が体験したのが本当のことなのか、もう私にも確信はできません。両親に私をきちんと育てる意思がなかったことだけは事実のようで、それから私は子供のいなかった伯母さんの家で可愛がられて育ちました」

 稲田氏の話は、あまりにも衝撃的だった。「ストーカー」は浜名宗吉くんその人で、幼い稲田氏を「家族の会」から救い出したというのだ!

「私はそれからずっと、精神的に不安定な状態が続いていました。あの『ストーカー』……宗吉さんは、極限状態だった私が生み出した妄想なんじゃないか。あの施設に閉じ込められていた間の記憶も、子供らしい何かの勘違いだったんじゃないか。って、私の人生のいったいどこからどこまでが本物なのか、分からなくなってしまったんです。両親や姉とどんな暮らしをしていたのかも、何もかも。そうして頭の中がごちゃごちゃして、泣きたくなった時、私はいつもカッターで手首を切りました。中高生くらいの時です。伯母さんは泣きながら、『そんなことはやめて』って言ってきました。だけど私はそれを繰り返して、手首には何重にもリストカットの傷跡がつきました。今では手術を受けて、見えづらいようにしているんですが……。あれを見た時、私はふと、宗吉さんを思い出したんです。指の節から目尻まで、あの人の体全身に刻まれていた、近くで見るとどこか不自然な皺が、なぜだかありありと記憶の中で蘇ってきたんです。

 私の記憶が夢か幻じゃないのなら、あの皺に見えていたものは多分、全身をくまなくカッターで切られてできた傷跡だったんだと思います」

 稲田氏がそう言い終わらないうちに、激しいノックの音とインターホンのチャイムが部屋に響き渡った。あの、しわがれた老人の声がした。

「ハマナソウキチくんをご存じなのですか。話を聞かせてください。ハマナソウキチくんはどこですか。家から出てきてください」

 稲田氏と我々調査隊は戦慄した。ノックは数分間続いたが、物音がはたと止み、我々がドアスコープを覗いた時には、玄関の前にはもう誰もいなくなっていた。警察には再びすぐにこの老人の件を通報したが、やはりこれだけで警察が動くのは難しいという。「ストーカー」が稲田氏の言う通りの人物なのだとすれば、この老人が「ストーカー」と同一人物であるはずがない。ならばこの老人はいったい何者なのか? どうやって我々調査隊の行く先々に現れているのか? 老人の謎、そして「家族の会」の全ての謎に迫るべく、我々は引き続き調査に努める。来月号は、驚くべき人物へのインタビューが紙幅を増量して掲載される予定だ。その人物とは、何を隠そう、浜名亜実その人である。さて、毎度のことだが、「家族の会」に関して何か情報を持っている者がいればぜひとも月刊テンポ・ルバート編集部オカルト係に問い合わせてほしい。それでは読者諸君、次号の「となりのオカルト調査隊」でまた会おう。


月刊テンポ・ルバート2014年10月号掲載「紙面増量! カルトの代表が自供した真実! 像を結ぶ悲劇の黒幕」

 誘拐児童を取り戻すための儀式と謳って数年にわたり児童を監禁・虐待し続けた後、9年前に忽然と姿を消した狂気のカルト団体「関東地方誘拐被害児童の家族の会」。我々調査隊はここまで約半年間にわたってこの団体を調査し、闇に葬られようとしていたその姿を浮き彫りにしてきた。今回我々が紙面を増量して取材を行うのは、元々善良な組織だった「家族の会」を恐ろしいカルト団体に作り変えた張本人、浜名亜実氏(42歳女性)である。彼女はなんと、自ら我々に取材を受けることを申し入れてきたのだ。

「私はこの9年間、自分が『家族の会』で行ったことから目を背け続けてきました。しかし先日、私らしき人物が言及されていると知人に教えてもらい、そちらの記事を読ませていただいてから、あれは本当に私がやった、現実で起こった出来事なんだということを再確認して、恐ろしくなりました。こんなことをしておいて、全てを忘れてのうのうと暮らすことなんてできません。私は罪を償わなければなりません。そうでないと、宗吉に会わせる顔が無いんです。だから私は、ここで私の知る限りの全てのことを話してから、警察に出頭しようと思います」

 我々は彼女が現在一人で暮らしているという静岡県の住居に招かれた。調査で得た情報の通り、浜名氏は生まれつき聴覚に障害を持っており喋って会話することができない。そのため、取材はモニター上にキーボードで交互に文章を打ち込んで行った。身構える我々を前に、浜名氏はそっとキーボードを叩き、『家族の会』との出会いを語り始めた。

「宗吉は、私が生きる理由でした。夫とは離婚し、両親とは既に死別していたから、私は誰にも頼れないまま一人で宗吉を育てました。日常生活はいろいろ大変で、つらいことも多かったです。しかし、宗吉はろう学校で友達をいっぱい作って、家に帰ってきたらいつもその日あったことを手話でたくさん教えてくれました。そうやって楽しそうに生きている宗吉を見るだけで、私は本当に救われたような気持ちになりました。親としては間違っていると思うけど、私は宗吉に依存していたんだと思います。でも、そうなってしまうくらい、私には支えになる人がいなかったんです。世界の中で、宗吉だけが私の味方だったんです。だから、宗吉が誘拐されて、いなくなってしまった時、」

 浜名氏の手が一瞬止まった。続く言葉を言い淀んだ、と言うべきだろうか。

「自殺しようと思ったんです。職場にも行けなくなって、家であの子の帰りを待ちながらずっと、このまま宗吉と会えないのなら死んだ方が良いと考えていました。一か月経っても宗吉が帰ってこなかったら、首を吊ろうと決めました。食事もしないで玄関でぼんやり座ったまま、気づいたら朝になっていることもよくありました。宗吉が帰って来るのを待っているのか、一か月経って楽になれるのを待っているのか、私にはもう分かりませんでした。そんなある日、宗吉の担任の先生が家に来たことがありました。先生は私のことを心配してくれていたようで、私には何か居場所が必要だと繰り返し言いました。当事者として、耳の聞こえない私たちが社会的に孤立しがちなことには敏感だったんでしょう。それで先生が見つけてくれたのが、あの『家族の会』だったんです。私は流されるまま『家族の会』の施設に連れて行ってもらいました。

 『家族の会』の人たちは、喋れない私に最初は不慣れな様子であたふたしていましたが、それでも私と真摯に向き合ってくれました。特に当時代表をされていた方は、何度も根気強く私に話しかけ、子供が帰ってくるという希望を捨てずに待ち続けることが大事だと励ましてくれました。奥さんを自殺で亡くしていたあの人は、多分私にその時と同じような危うさを感じ取っていたんでしょう。施設は近所にあったから、それから私は何度も『家族の会』に通うようになりました。『家族の会』の人たちと交流する中で私の孤独感は次第に薄れていき、自殺を考えることもなくなりました。仕事にも復帰して、きちんと生活を送れるくらいに回復したんです。そして、正式に入会してからは、宗吉の帰りを待ちながらも、助けられるばかりではなく自分から周りの被害者家族を助けていきたいと思うようになりました。私がやってもらったことを、他の人にもしてあげたかったんです。おもちゃを持ってきて、自分の子供との思い出を語るというイベントをやるようになったのも、その頃です。そして、入会してから数年後、そちらで取材されていた記事にあった通りの経緯で、私は『家族の会』の新しい代表を務めることになりました」

 浜名氏は、素晴らしい団体だった頃の「家族の会」に救われた一人だったのだ。そんな彼女が、一体なぜ「家族の会」をカルトに変えてしまったのだろうか?

「代表になってすぐのことでした。家に知らない人が来たんです。最初に来た時は、チャイムが、と言ってもフラッシュチャイムですが、それが光ったからドアを開けに行ったら、その知らない人は泣きながらいきなり私に抱き着こうとしてきました。びっくりして振り払うと、その人は驚いたようにして、手話で『お母さん、どうしたの』と言ってきました。私が立ち尽くしていると、あの人は続けて、『宗吉だよ。帰ってきたよ』と言ってきたんです。一応言っておきますが、あの人はどう見ても、明らかに宗吉ではありませんでした。今でも確信を持って言えます。何故だか知りませんが、あの人は宗吉を自称して、私に嫌がらせをしてきたんです。私は頭に血が上って、すぐにあの人を追い返しました。しかし、あの人はそれから数日間、昼夜を問わず何度も同じように家に押しかけてくるようになりました。『言いつけを破って暗い道から帰ってごめんなさい』とか、『許してください。家に入れてください』とかいう風に、あの人は本当に自分が宗吉であるかのように振る舞い続けました。あまりにも神経を逆なでするものだから、私は堪えられなくなって。施設で『家族の会』の人たちにこのことを相談しました。その結果、警察に通報することになり、電話であのストーカーのことを伝えてもらったのですが、警察は実害がないなら対処できないとの一点張りだったみたいです。

 その後、あの人は『家族の会』の施設にまで後をつけてきました。何度『出ていけ』と伝えても、あの人は駐車場のあたりをうろついて、他の被害者家族にも迷惑をかけるようになったんです。私は最初、あの人をただ追い払いたいと思っていましたが、こうして怒りが膨らんでいくにつれて、それだけでは足りないと思うようになりました。宗吉という私の一番の宝物を、私の全てを侮辱したあの人には、永遠に責め苦を与え続けなければいけないと思ったんです。そしてある時、ついに『家族の会』で、あの人を閉じ込めて拷問することを提案したんです」

 浜名氏の表情がこわばる。

「あの人のストーキング行為は非常に悪質で、今でも許せないと思っています。しかし、それでも、監禁して拷問するなんていうのは、常軌を逸したありえないことのはずです。今でも自分がこんなことを提案して、そして実際にやってのけたというのは、あまり信じられません。怒りのあまり理性が無くなっていたとしても、普通に生きてきた一般人がこんなことをしようと思うものでしょうか? しかし、それでも、私は、間違いなくそれをやったんです。『家族の会』でもあの提案に反対した人はいませんでした。あの人を永遠に監禁し苦しめたかった私とは違って、他の人達はあの人を痛めつけて二度とこの施設に近寄らせないようにすることを目的にしていたようですが、それでも『家族の会』の誰もがあの人を犯罪行為をすることにさえ全く躊躇が無くなる程に憎悪していたことは間違いありませんでした。こんなことをして警察に捕まったらどうするのかなんてことは考えもしませんでした。私たちは多分、集団ヒステリーのような状況に陥っていたんだと思います。私たちはそれからすぐにあの人を縄で縛って、施設の中に閉じ込めました。子供の好きだったものを共有するために使っていた部屋に、施設の中で唯一外からのみ施錠できる鍵が付いていたので、おもちゃや服などは別の場所に移してその部屋をあの人を監禁するための部屋にしました。私たちはあの人を、思いつく限りの全ての方法で虐待しました。熱湯を顔に掛けたり、針を鼻や耳の穴に入れたり、カッターで全身を切ったりして、生かして苦しめ続けました。

 それから数週間後、施設にまた別の知らない人が来ました。玄関のドアをノックして、『浜名宗吉くんを名乗る不審な人物を見かけませんでしたか』と呼び掛けていたようで、私は手話が分かる人と一緒に玄関先に応対しに行きました。その人は背の高いお爺さんでした。私はここで初めてあのストーカーを監禁していることが誰かに知られたらまずいと思って、とっさに『あの人は追い払った』と嘘をつきました。するとお爺さんは、『でしたら本物の子供を取り返すために親御さんにできることをお教えします』というようなことを言ってきたんです。その内容は、『自宅にある誘拐された子供の痕跡となるものを全てどこかに奉納して鍵を掛けておきなさい』というものでした。今冷静に考えてみれば全く理解できませんが、当時の私はまるで催眠でもされたように、これをすれば宗吉を取り戻せるんだと心から納得し、喜びました。他の『家族の会』の人たちもいつの間にか集まってきていて、同じように涙を流して喜んでいました。お爺さんは私たちに、『今日からは自宅以外の場所で寝泊まりしなさい』とも言ってきました。あのお爺さんは、おかしくなってしまった私たちが一斉に見た幻覚だったのでしょうか? あの時の記憶は夢の中のようにぼんやりしています。とにかく確かなことは、『家族の会』はその日から全く様変わりしたということです。

 私たちはその後すぐ、別館の建設について議論を始めました。これからずっと寝泊まりしていくなら、ちゃんとした寝室や台所、洗濯場など生活に必要な設備を整える必要があったからです。当初は本館の横にもう一軒建てるつもりで別館と呼んでいたのですが、敷地の広さの問題があり、かつあのストーカーを隠しておくには地下が最適なのではないかという提案もあったので、話し合いの末に別館は本館の地下に建設することになりました。『家族の会』には家族経営の建築会社を取りまとめている高齢の夫婦がいらっしゃったので、その方々のご厚意のもとで、別館の建設は急ピッチで秘密裏に進みました。地下への階段は絶対に見つからないような隠し階段にしてもらい、施工に関わる全ての記録は後に抹消しました。別館ができるまでの間は、応接室に布団を敷いて雑魚寝しました。また、『お納め』は、ストーカーを監禁している部屋で同時に行いました。『子供の痕跡となるもの』は納めた後施錠して管理しなければならず、鍵が付いている部屋はやはりそこだけだったからです。『子供の痕跡となるもの』と言われただけなのに、私たちには何故か『その中には被害児童のきょうだいも含まれる』という共通認識があったから、『きょうだいのお納め』もその日からすぐに始まりました」

 浜名氏の話を全面的に信頼するにはまだ早いだろうが、彼女の話は驚くべきものだった。我々は外部から見た状況証拠から浜名氏こそ人々を洗脳しおかしくした黒幕だと考えていたが、彼女もまた得体の知れない狂気に呑まれた一人に過ぎなかったのか?

「別館が完成して、ストーカーを元の部屋からそこに移動させようとした時の話は、先月号の記事にあった通りです。ストーカーはあの部屋から連れ出されるとき、そこに置かれていたトイレ用のバケツを振り回し、中身をぶちまけて抵抗してきたんです。ストーカーは自分が何をされても私たちに危害を加えるようなことはほとんどしてこなかったから、あの時は驚きました。『お納め』されていた被害児童のきょうだいの一人だった、先月号で取材を受けていた彼女は、その隙に施設を飛び出して行ってしまったんです。その後彼女の通報によって警察の強制捜査が施設に入った時は、ストーカーは別館で隠し通し、『きょうだいのお納め』も間一髪のところで誤魔化すことができたのですが、その反省からあの部屋はより厳重に管理されるようになりました。一人の誘拐児童に対して一つの個室を用意し、さらにそこにも鍵を掛けておくことにしたんです。そして、確かこの頃から、あの部屋は『跡奉』のための部屋と呼ばれるようになりました。『跡奉』については、そちらの記事では儀式の名前として扱われているようでしたが、あの儀式自体は『家族の会』では単に『お納め』としか呼ばれていませんでした。しかし、あの部屋が『跡奉』のためのものであるということは、一体誰が言い出したのかも分かりませんが、皆それを自然に受け入れていました。上手く説明できないのですが、『跡奉』という文字を見た時、私が意識するのは『お納め』それ自体ではなく、それよりもむしろ、何か『お納め』の目的のような、相手のような感じがあるんです。こんな感覚の話をしてもしょうがないでしょうか。

 あのストーカーは、別館の端にある部屋に閉じ込めました。部屋といってもほとんどただの真っ暗な縦穴で、本館の裏手にあるハッチを開けると地上から直接ストーカーを覗けるような構造になっていました。この地上のハッチから食事の度に出る生ごみや残飯を混ぜたものを落として、ストーカーが飢え死にしないようにしていました。元々『家族の会』の他の人達がストーカーを痛めつけるのは二度とこの施設に近寄らせないようにするためでしたから、最初は様々な責め苦を与えながら『二度とここに近づかないと誓うまで拷問する』などと言っていました。しかしストーカーは一向にそれに同意しようとしなかったので、この頃になると皆も私と同じようにストーカーを拷問し苦しめ続けることそれ自体が目的になっていたと思います。『家族の会』のことを知って施設を訪問しに来た方は、『お納め』を見学して怒ったり怯えたりしていてもなお、ハッチからストーカーを一目見せて、『こうでもしないとこのような偽者が来てしまう』と伝えると、必ずあの儀式を受け入れてくれました。特に誘拐児童の母親は、ストーカーを見るなり私たちに非常によく賛同してくれました。私たちは増えていく会員と共に、別館を拠点にして共同生活を送りました。別館で起きて、朝の支度をして、職場に行き、そして別館に帰ってくる日々の中で、私たちは元々住んでいた家を忘れ、あの施設を新しい家だと思うようになりました。ストーカーへの拷問はずっと続き、この頃にはあの人はほとんど泣きも叫びもしない無気力な状態になっていました。

 こうして『家族の会』の規模はどんどん大きくなっていきましたが、そうなるとその分、近隣住民や『お納め』された被害児童のきょうだいの通っていた学校、それにストーカーを見ないで帰ってしまった人たちから児童虐待の疑いがあるとして通報されることが増え、警察も本格的に『家族の会』を取り調べてくるようになりました。当時の私たちは、このようなことは『お納め』を中断させ私たちの子供を取り返したいという願いを踏みにじる外道じみた所業であると本気で信じていました。今となっては考えられないことです。子供たちを狭い部屋に閉じ込めて猿轡を噛ませることが、誘拐された子供を取り戻すことにつながるわけがありません。しかし私たちは皆、一切の疑問を抱かずこの儀式を受け入れていたんです。代表という立場にありながら、私は『家族の会』が壊れてしまったのが何故なのかという問いにはっきり答えることができません。あのストーカーは何だったのか、何故私たちはあのストーカーがあれほどまでに憎かったのか。あのお爺さんは何だったのか、何故私たちはあのお爺さんの言葉をそのまま受け入れ従ったのか。『跡奉』とは何だったのか、何故私たちはあの6年間、一度も正気に戻らなかったのか。ただ感情に身を任せて『家族の会』にいたあの時を振り返ると、何もかもがぼんやりしていて、本当は全て悪い夢だったんじゃないかとさえ思えてしまいます。しかし、それでも、あれは現実なんです。私は『家族の会』の代表として、何年間も大勢の子供を閉じ込め虐待したこと、ストーキング行為をしてきたあの人を拷問し、最後には地下に置き去りにしてきたことに、責任があります」

 浜名氏の文章は、まるで自分で自分に言い聞かせるようなものになっていた。小さく息をつくと、彼女は9年前、『家族の会』が解散するに至った経緯を語り出した。

「解散の一年前くらいから、私たちも流石にぼろが出始めて、警察の強制捜査は次第に激しくなっていきました。拷問器具や未処理の排泄物が見つかったことで、警察は私たちが通報通りのことをしているという確信を強めていったんです。しかし、特別な操作が無いと現れない別館への隠し階段や、非常時は土で覆って隠すようにしていた本館裏のハッチは、入念な警察の捜査でも暴くことができませんでした。捜査が入る度に『お納め』していた被害児童のきょうだいは別館に移動させていて、ストーカーはもちろんその最奥に監禁していましたから、私たちの犯罪行為の決定的な証拠が掴まれることは無かったんです。別館は、ついに警察に見つかりませんでした。『家族の会』が解散することになったきっかけは、それからしばらくして、私が捜査に来た刑事を暴行して逮捕されたことなんです。あの事件の日、業を煮やした警察は私たちの情に訴えかけるような方法に打って出ていました。『家族の会』の会員を調べて、それぞれその人の子供の誘拐事件を担当していた顔見知りの刑事を集めて派遣し、私たちを説得しようとしてきたんです。宗吉の事件で最初お世話になっていた刑事の方も、もちろん来ていました。その頃にはあの人とはもう何年も会っていませんでしたが、あの人はいつの間にか習得してくれていた手話で、『我々は誘拐児童の捜索に全力を尽くし続けています』『我々が必ず宗吉くんを浜名さんの元に帰します』と、真剣に伝えてきました。そして、『だからこんなことは止めてください』『こんなことをしても宗吉くんは帰ってこないどころか、悲しむだけですよ』と、言ってきたんです。

 私はその瞬間激昂して、持っていたカッターナイフであの人に襲い掛かりました。ストーカーに対する拷問の時と同じように、馬乗りになって何度も切りつけました。異変を察知した他の刑事たちは、すぐさま駆け寄ってきて私を取り押さえました。私はあの時、『お前に宗吉の何が分かるんだ』と、はらわたが煮えくり返るようでした。あのストーカーと同じように、この刑事は宗吉になりきって私を馬鹿にしているんだとしか思えませんでした。留置所に入れられた私はストーカーのことが露見するのを恐れて黙秘を貫き、そのまま傷害罪で懲役5年の判決を言い渡されました。そして、刑務所に入れられてすぐあった『家族の会』の人との面会で、私は『家族の会』が解散することになったと知らされたんです。面会にはもちろん手話を理解できる職員が同席していましたから、その具体的な理由をはっきり聞き出すことはできませんでしたが、私の事件をきっかけに施設への捜査がさらに進んで別館に気づかれる危険性が高まったからでしょう。元々ガスや水道の検針で地下に生活空間があることを推測されることは懸念していたのですが、それが現実のものになろうとしていたんだと思います。『家族の会』の会員は皆被害児童のきょうだいも連れて一旦自宅に帰ることにしたようで、儀式を再開する方法はそれから考えるのだと言いました。それから、『お納め』していた子供の物はまとめて別館に移しておいたということでした。不在の内に子供の物を警察に『空き巣』されたくなかったのでしょう。ストーカーはもちろん、『そのままにした』と仄めかされました。こうして、この面会を最後に、私と『家族の会』との関わりは途絶えました。

 その後すぐに、私は再び捜査官に呼ばれ聴取を受けました。児童虐待やストーカーの拷問の証拠がついに見つかったのかと思いましたが、伝えられた話は到底信じられないものでした。『家族の会』の会員が皆行方不明になっており、さらに次々に殺された状態で発見されているというんです。被害者家族たちは、抵抗の形跡も犯人の痕跡もない中、ばらばらに北関東のいくつかの山に散らばって埋められ窒息死していたそうです。ストーカーの復讐という可能性も考えましたが、万が一別館を脱出していたところであんな痩せ細った体では人一人も殺害できないでしょう。ましてやこの不可解な事件を作り出せるはずがありません。警察は最初私が『家族の会』の皆を洗脳して自死を強要したという線で考えていたようでしたが、鑑識の結果明らかに人の手の加わった他殺であることが分かると、ずっと刑務所にいてアリバイのある私は犯人の候補から外されたようでした。結局この事件は完全に迷宮入りしてしまい、『家族の会』は一時解散という状態のまま完全に消滅しました」

 この事件には聞き覚えがある。我々がこの「家族の会」を追うきっかけになった最初の取材で、白坂氏が息子夫婦の身に起きたこととして語っていたことだ。それに、これは北口氏の妻が失踪してしまったこととも符合する。彼女は家を出て「家族の会」の施設で暮らすようになり、そしてそのままこの事件に巻き込まれたことで姿を消したのではないだろうか?

「刑務所で服役するうちに、私は『家族の会』にいたときの激しい感情を忘れていきました。宗吉に会いたいという思いはもちろん変わりませんが、何度も語っている通り、自分がなぜあんなことをしたのか理解できなくなりました。5年が経って釈放される頃には、全ての記憶が荒唐無稽に思えて信じられませんでした。こうして私は、あの時の裁かれなかった罪を隠したまま社会に復帰し、新しい生活を始めました。私の話せることは、これで全てです」

 我々調査隊は、この一連の悲劇は全て浜名氏が裏で糸を引いていたものとばかり考えていた。しかし、あの「家族の会」の恐ろしい行いの数々を生み出したのは、代表である浜名氏ではなく、むしろ集団的な狂気だったのか? では、その狂気を生み出したものは何だったのか? 全ての始まりとなったあの「ストーカー」に関して、我々には一つ疑念がある。彼は本当に「偽者」だったのだろうか。先月号の稲田氏の証言、そして今回の浜名氏の証言の中に現れる「ストーカー」の行動は、宗吉くんを名乗り嫌がらせを行う人物というよりもむしろ、宗吉くん本人と考えた方が明らかに筋が通ったものとなる。我々がこの考えを浜名氏にぶつけると、彼女は目を丸くして紅潮し、震える指がキーボードを引っ掻くように蠢いた。緊張をはらむ数秒の硬直の後、彼女はそれを真っ向から否定した。

「ありえません。親が帰ってきた子供を偽者と勘違いするということが、本当にあると思いますか? 私を疑っているのは分かります。確かに私の過去の行いはどれも正気のものではありません。しかし、自分の子供を偽者だと思い込むなんて馬鹿らしい話は絶対にありえません。宗吉は私の一番大事な、私の命よりも大事な息子なんです。私が、その宗吉を、間違えて偽者だと思って、追い出して、監禁して、6年間いたぶり続けたと言うんですか?」

 浜名氏は大きく息を吐いて続けた。

「すみません。感情的になってしまいました。今の私には、そう言って怒る資格もありません。私はこれから警察に出頭して、全てのことを洗いざらい自白します。『お納め』のことも、別館のことも、そこに放置したストーカーのことも、私が『家族の会』の代表として犯した全ての罪を伝えます。あなたたちには感謝しています。あなたたちの記事が無ければ、私は自分がやったこと全てを有耶無耶にしたまま生きていったでしょう。そんなことでは、宗吉の帰りを願う資格がありません。きちんと罪を償って、正しい人間になってからでないと、私には宗吉の帰りを願う資格が無いんです」

 浜名氏の証言を元に警察の捜査が再開すれば、多くのことが明らかになっていくだろう。「ストーカー」の死体がまだあの地下空間に閉じ込められているままなら、彼の正体はDNA判定で暴かれることになる。「別館」から見つかる新しい証拠が、あの迷宮入りした「家族の会」解散直後の不可解な殺人事件を解明する助けになるかもしれない。この調査は警察に一任しよう。それでは、我々が取り組むべきことは何か――あの老人の調査だ。我々調査隊の取材活動を追跡し、宗吉くんを捜しているあの背高の老人男性の正体は、未だ闇の中である。しかしその特徴は、浜名氏の記憶にある、施設を訪れ「お納め」の儀式を指示したあの「お爺さん」に通じるものが無いだろうか? 今回の取材に際してこの老人は現れなかったが、彼が我々の動きを監視していることに疑いはない。今まで我々は身の危険を感じあの老人との接触を避けてきたが、最早この調査は彼を追わずして終えることができない段階に突入している。我々はこの先、あの老人を追跡し返すことに尽力する。長くなったが、この老人に関して何か情報を持っている者はぜひとも月刊テンポ・ルバート編集部オカルト係に問い合わせてほしい。それでは読者諸君、次号の「となりのオカルト調査隊」でまた会おう。


青梅市カルト児童集団監禁事件捜査資料:北関東広域に分布する不審な捜索願

浜名宗吉君を捜しています。目を離した隙に居なくなってしまいました。何処を捜しても見つからないのできっと元の家のそれも親御さんにも見つからないような場所に黙って隠れているのだと思います。ですから親御さんに言い聞かせて宗吉君が住んでいた家は無くしました。家の中身は絶対に盗まれたり戻されたりしないよう施錠させ一部は結局自分で埋めました。これで隠れる場所は絶対に無い筈だが何故か見つかりません。涙を流し途方に暮れています。浜名宗吉君の居場所を御存じの方は御迎えに上がりますので教えてください。扉の前で呼びますから家から出てきてください。


「拷問し地下に置き去りにした」と代表の女が自首 9年前の未解決カルト事件に関連か 東京都青梅市(2014年9月16日)

 「関東地方誘拐被害児童家族の会」が所有していた東京都青梅市の施設の地下から少年のものと見られる白骨化した遺体が見つかった事件で、警視庁は16日、同会の代表を務めていた浜名亜実容疑者(42)を傷害の容疑で逮捕した。警視庁によると、浜名容疑者は14日、近所の交番に出頭して「施設の地下で男を監禁・拷問し置き去りにした」と供述し、捜査の結果白骨化した遺体が見つかった。浜名容疑者は他にも、施設で誘拐被害児童を取り戻すための儀式と称して児童を監禁したことを供述しており、警視庁は「青梅市カルト児童集団監禁事件」捜査本部を新設して詳しい状況を調べている。

 「関東地方誘拐被害児童家族の会」の施設は、1999年から2005年にかけて児童虐待の疑いで計5回に渡る強制捜査を受けていたが、いずれも証拠不十分とされ立件には至っていなかった。2005年の強制捜査の際、浜名容疑者は捜査員に刃物でけがをさせたとして傷害罪で懲役5年の判決を受けている。同会は2005年に解散したが、収監されていた浜名容疑者を除く会員とその子供全員が直後に殺害されたまたは行方不明になった事件があり、この事件は不可解な点が多く未解決のままである。

 浜名容疑者は、動機について「自分の誘拐された息子を騙ってつきまとい、嫌がらせをしてきたから」と述べている。以前の強制捜査では施設に地下空間があることは発見されていなかったが、浜名容疑者の証言に基づく捜査の結果地下への隠し階段が発見され、施設の全貌が明らかになった。警視庁は、少年とみられる白骨化した遺体の身元も含めて、未解決の元会員連続殺人事件との関連も視野に入れて、この「青梅市カルト児童集団監禁事件」に関する徹底的な捜査を行う方針だ。


関東地方民俗大辞典第三版(抜粋)

【シヤカマイヌ】

 埼玉県全域と群馬県南部にかけて使われていた食犬または食用の犬の隠語。地域の有力者の間に遊びで犬を嬲り殺して食うことが流行すると、食用の犬を育て密かに犬肉を提供する商人が現れ繁盛したことが淵源らしい。店頭に「シヤカマイヌ」と出しておくことで食犬の提供を示したと言うが、言葉の意味は判然としない。漢字では「士屋釜犬」の他に「蛇窯犬」といった表記が確認されており、「蛇窯へびがま」は朝鮮伝来のものであって朝鮮には犬食文化があることなどから、最初はその関係で隠語として朝鮮の蛇窯を取って来たが「じゃがま」と読み損なって普及したのでないかとの説がある。今日では殆ど表立っては使われていないが、悪態としてこれを髣髴する「ヤカマ乞食」という文句が同地域に流布している。

【釈迦濯ぎ】しゃか-ゆすぎ

 茨城県北部で見られる年中行事。地域により異なるが多くは二月の第一週に一日で行われ、村中の仏像を寺に持参して水でもって清める。これにより人の心が清められ悪事が減ると信じられている。この行事にまつわる逸話はいくつかの種類が流布しており、最も有名なのは綺麗好きで信心深い青年が毎日木の仏像を水で洗滌していたが、あまりにも頻繁に洗うので仏像には黴が生えて首が腐り落ちてしまい、その夜青年は仏像と同じように頭が腐って死んでしまったので、以来仏像を水で洗う日は年に一回に決めたというものである。青年が夜なべして首の無くなった仏像から小さい五体満足の仏像を彫り出したので難を逃れることができたという変種もある。言い伝えとは違いこの行事の日でなくても各家庭では定期的に仏像を洗うようだ。

【シャクブ】

 主として北関東に伝わる怪異。姿は六尺程の背の老翁とされ、家の外にいる子供の居場所を感知し一人の時に攫ってしまうという。攫われた子供はなぶりものにされ言語を絶する苦痛を与えられる。多くの脱出譚が知られているが、凡て家族の元に帰っても呪いのせいで偽者と思われて爪弾きにされ、家の中に入れず再び攫われるという結末を迎える。偽者にされた子供は、大人なら誰が見ても甚だしくこれを嫌忌拒絶し一刻も早く追い払いたくなるらしい。子供なら蛆が湧いたり骨だけになった死体であっても攫う。家の中には入れないとされるが、どうやら狙っている子供の過ごした痕跡のある場所として家を理解しているようである。漢字では「借夫」という表記の他に「迹奉」や「跡奉」といったものがあり何れも由来は分からない。


 小さい頃、母さんはいつも私に、人通りの少ない道を一人で通ってはいけないと言って聞かせた。もしそんなことをしたら、私は跡奉シャクブに攫われて、母さんも父さんも私のことが分からなくなってしまうんだよ、とおどかされた。私は怖くなって泣いてしまった。もちろんほんの数年後には、あれは子供を本当の誘拐から守るための、よくあるしつけ用の迷信だったんだと分かった。夜に爪を切ると親の死に目に会えない、とかいうのと同じように。けれど、あの話の「私のことが分からなくなってしまう」っていう部分は何だかすごく不気味で、ずっと印象に残っていた。何か得体の知れないものに攫われるっていうだけで、子供にとっては十分怖いでしょう。じゃあ、あんな設定まで付け足さなくてもいいじゃない。

 大人になってからふと思い立って調べてみると、跡奉はあまり世間で知られていない割には古い民話がそこそこ残っているみたいで、試しに読んでみたら結構怖かった覚えがある。特に、玄関で親に追い出されたけど、機転を利かせて屋根裏に隠れた子供の話。跡奉はその子供を感知することができなくなり、必然的に家の中に隠れているということに気づく。でも家の中に入ることはできないから、玄関で親を呼び出して、その親に家の中で子供を捜させる。もちろん、「偽者が家に潜んでいるから捜し出して追い払いなさい」みたいなことを言って。それでも子供は賢くて、あの手この手で親に見つからないように隠れる。すると業を煮やした跡奉は、今度は親に、「居なくなった子供の痕跡を全て家から出しなさい」と言う。親は子供のおもちゃや服はもちろん、その子供と一緒に過ごしたきょうだいも家の外に出す。その子供がいたことを覚えている、痕跡の一つだから。そして、最後に両親も家の外に出て待機する。その瞬間、跡奉は何でもないように玄関をくぐれるようになって、真っ直ぐ子供が隠れている場所に行く。あの子供の家は無くなってしまいました、と言って、話は終わる。

 最初の手紙が来た時はただの偶然だと思った。旦那の言う通りあれは儀式の名前であって、母さんが教えてくれた「跡奉」とは関係ない話だろうと思った。だけど、香織が使っていたものを、息子夫婦が指定した宛先の通りあの会の施設に送った時、頭の片隅にあの話があった。私は自分に呆れかえった。香織が攫われてしまったのは私のせいなのに、どうしてこんな意味の分からないことを考えていられるんだろう、と思って泣きたくなった。あの手紙に、私がこっそり何枚も息子夫婦宛てに書いて送っていた謝罪の手紙に対する反応が一言もなかったのが、一番つらかった。いいえ、愛娘が攫われてしまった息子夫婦の方がよっぽど辛いに決まっているのに。

 二枚目の手紙が届いたとき、私は胸が張り裂けそうだった。あの会はカルト団体だった。息子夫婦は、きっと同じような境遇で苦しんでいる仲間と話がしたかっただけだったのに、洗脳されおかしくなってしまっていた。全て私のせいで。私があのとき、ちゃんと香織を見ていれば、こんなことにはならなかった。私たちはずっと幸せに暮らしていけた。私は声を上げて、震えて泣いた。だけど、少し落ち着いて、あの手紙をもう一度頭から熟読していると、私はまた跡奉の話を思い出してしまっていた。おもちゃに、服に、きょうだい。考え始めると止まらなくなった。どうにかして無意識に気を紛らわせようとしていたのかもしれない。最初に思ったのは、あの異常に憎まれている「ストーカー」は、跡奉に誘拐されて逃げてきた子供なんじゃないかということだった。それは、もしかしたら、香織かもしれないということでもある。そんなこと考えたくもないけれど。

 跡奉の呪いで、攫われた子供は全ての大人から偽者と思われるようになる。大人はみんなその偽者にひどい嫌悪感を抱き、追い出そうとする。そういう話を聞いた時、私は少し疑問に思った。ひどい疑問でしょうけど。皆が皆、ただ追い出すだけで満足するのかしら、って思った。大人の中には偽者を殺そうと思う人もいるんじゃないか。あるいはもっとひどいこと、例えばずっとどこかに閉じ込めて、生かして痛めつけ続けるとか、そういうこともありえるんじゃないかって思った。世の中には子離れできない親みたいな人もいるけれど、そういう子供に格別の執着を抱いているような人が、子供を誘拐されておかしくなりそうになっている時、その子供の偽者に出くわしてしまったら。呪いによる異常な嫌悪感も相まって、ただ追い払うだけでは済まないような気がする。全く知らない人が、自分の最愛の子供の名前を名乗って、自分にずっとつきまとってくるんですもの。陸も陽菜さんも香織に対してそんな風ではなかったと思うけど、どうだろう。とにかく、呪いのせいで気持ちの悪い偽者としか思えない自分の子供を、「ストーカー」と呼んで監禁し、虐待するのは、いかにもありそうな話だと思った。いかにもありそうで、なんて気分の悪い話。

 ここからは完全に妄想の域だけど、あの会は元々、跡奉とは一切関係なしに、誘拐された子供のおもちゃなんかを持ち寄って共有していたのかもしれない。その中に、あの「ストーカー」と呼ばれていた子供のものもあったのかもしれない。だとすると全ての話の筋が通る。子供の痕跡が置かれている施設に、偶然にもその子供を閉じ込めてしまったら、跡奉はその子供を感知することができなくなる。跡奉が従うルールでは、その建物が子供の「家」になってしまうから。そうなると、跡奉はあの話と同じように子供が家の中に居るということには気づくけど、会の施設が新しく「家」になっているとは思わず、元々住んでいた家に隠れていると勘違いする。そして、親に言ってその家にある子供の痕跡を全て外に出させようとする。おもちゃも、服も、きょうだいも、何もかも。跡奉の指示が狙いの「ストーカー」の親だけではなくあの会にいる全ての親を従わせることになる確証はないけれど、少なくとも言えるのは、跡奉にとって子供が家を失うことはいつでもプラスになるということ。あるいはもしかしたら、この「儀式」は途中から跡奉の意図すら離れて、単にあの会の中で自己目的化して拡大していたのかもしれない。子供を取り返したいと必死で願う精神的に不安定な親たちに、「ストーカー」という共通の敵に対する異常な憎悪が結びついたことで、あの会は「儀式」と拷問を行うカルトに変貌して、信者を増やし団結し続けたのかもしれない。

 馬鹿らしい願望かもしれないけれど、そうすると、息子夫婦はこの頃あの施設で生活していたのかもしれないと思った。きょうだいと同じ理由で親も家から出ないといけないのだから、当然あの会の親たちはおあつらえ向けの会の施設で寝泊まりするはずだ。それだから、二人は私の出した手紙に反応しなかったのかもしれない。私の謝罪を無視しているのではなくて、単に息子夫婦は長い間家のポストを見ていなかっただけなのかもしれない。そう思うと少し楽になって、でも次の瞬間には自分が嫌になった。手紙には、あの会が一旦解散すると書いてあった。そうしたら、親たちはどこに行くことになるのだろう。自分の家に帰るのかしら。でもそうなると。

 とりとめなく想像を続けていた時、旦那が帰ってきて、私は思わずとっさにあの手紙を隠してしまった。息子夫婦がこんな風になってしまったことを知られたくなかった。「お前が香織をちゃんと見ていなかったせいでこんなことになってしまった」と言われるのが怖かった。旦那は間違ってもそんなことを言う人じゃないって分かっているのに。我に返って、もうあんな変なことを考えるのは止めようと思った。私は現実と空想の区別がつかなくなっているのかもしれないと思った。子供のしつけのための幽霊話にすがって、現実から目を背けていた。香織が居なくなってしまった現実から。二人がカルトに狂わされてしまった現実から。だけどあの電話で、息子夫婦が不可解に殺されたと聞いた時、私は結局、ああ、跡奉が殺したんだ、と思った。跡奉は、皆の家が無くなったままの方が良かっただろうから。子供の痕跡の一つである親もきょうだいも、家に戻したくなかっただろうから。

 全部書いてすっきりした。私は香織が居なくなってから、罪悪感に押しつぶされて、頭がおかしくなったんだと思う。最近はこんな妄想を一日中している。年のせいもあるのかしら。このノートと息子夫婦からの二枚目の手紙は、一緒に庭で焼いてしまおう。ノートは誰に見せるようなものでもないし、こんな内容が誰かに見られたら困ってしまう。あの手紙は、旦那が見たら悲しむだろうし、何よりあの人のことだから、あの会で一体何が起こったのかを詮索し始めるでしょう。あの人は不器用だから、愚直にご近所さんに聞いて回って、「あの家の息子夫婦はカルト信者になって死んだ」みたいな噂を立てられてしまうかもしれない。それはちょっと、あなどりすぎかしら。そうでなくても、あんなものを残しておいたら一体いつひょんなことから息子夫婦の悪い噂が広まるかも分からない。そんなことになったら私は、本当に私を許すことができない。今でもだいぶ、そうなんだけれど。

 それに、まだ跡奉は「ストーカー」を攫いなおせていないかもしれない。あの会が解散し、息子夫婦が殺されてからもう五年が経つけど、あの会のニュースはまだ流れてこない。「ストーカー」は、警察の何回もの強制捜査でも見つからなかった施設の秘密の場所に閉じ込められたまま、今も見つかっていないんだと思う。実はとっくに跡奉に持って行かれていて、そもそも見つかる遺体が無いのかもしれないけれど。でも、「ストーカー」にされてしまったあのかわいそうな子の物があの施設に残されている限り、跡奉はあの子を攫えない。もし今でも、あの施設があの子の「家」であり続けているなら、あの会のことを詮索するのはもうやめたほうがいいんじゃないかと思う。

 止まっていた時間が動き、新しい手掛かりが見つかって、施設が再び根こそぎ捜査されたら、ついにあの子の遺体が施設の外に出されるかもしれない。あるいはその子のおもちゃや服が証拠品として押収されて、とにかくあの子と「痕跡」、そして施設は離れ離れにされてしまう。そうしたら、あの子は最後に残った「家」を失ってしまう。跡奉は喜んで、ついにその子を攫うでしょう。真実を知るのも大切かもしれないけれど、誘拐され、必死の思いで帰ってきたのに、親に偽者と呼ばれ、監禁され、拷問され、放置され、最後は飢えて死んだあの不幸な子のことを、もうそっとしておいてあげた方が良いと思う。あの子の正体が香織であるにしても、別の知らない子供であるにしても。跡奉の手元に戻って再びひどい拷問を永遠に受けることになるよりは、暗く狭い、苦痛と絶望の記憶に満ちたあの「家」の冷たい床の上であれ、朽ちて静かに眠る方が遥かにましでしょう。だから、私は誰にもあの会のことを詮索してほしくない。あの会の狂気を紐解くヒントを、誰にも見せたくない。そのきっかけを、万が一にも、誰にも与えたくない。そのために私は、あの会の悪事の証言を握り潰す。あの二枚目の手紙は、絶対に読まれないよう、確実に焼き捨てる。このノートと一緒に。

 まったく、私は何を言っているのかしら。そんな可哀想な子は、きっと私の妄想の中にしかいないのに。さようなら、ノートさん。びっしり書かれた中身は全部、狂った老人の世迷言。あなたには手紙と一緒に灰になってもらいます。誰にも私の狂気が気づかれないように。誰にも二人の噂話ができないように。誰にもあの子が、これ以上辱められないように。


月刊テンポ・ルバート2014年11月号掲載「休載のお知らせ」

浜名宗吉君をようやく見つけることが出来ました。嬉しいです。皆様一丸となって詮索して頂き助かりました。御協力大変有難うございました。

ⒸWikiWiki文庫

縮小現実
個野この作品さくひん第一回あまコン作文部門創作文の部最優秀優秀賞作品さくひん
キュアラプラプ

どんどん小さくなっていく。

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 残り五分。マークシートは半分近くしか塗り潰されていないけど、私は頬杖をついて自分の爪を眺めているだけだ。教室のあちこちから聞こえるページをめくる音や鉛筆で何か書き殴る音が、鬱陶しい虫の鳴き声みたいにどんどん大きくなっていく。きっと今、鉛筆も持たずにただぼーっとチャイムが鳴るのを待っているのは私だけなんだろうと思うと、情けなくなる。でも、問題冊子を読み進めたところでそこにあるのは何をどう考えたら正解が出てくるのかなんて一切分からない問題ばかりで、まともに取り組んで自分が馬鹿だという事を自分の頭に直接突き付けられ続けるよりは、ただぼーっとしているだけの方が絶対にいい。早く終われ、早く終われと思いながら何度も教室の時計を見る。

 正午、短針と長針と秒針が重なって数秒してから、スピーカーのノイズが少し流れて、それからようやくチャイムが鳴った。鉛筆を机に転がす音が重なって聞こえてきて、長かったこの一時間の終わりを実感する。

「はい、ストップ。じゃあ今の問題は明日解説するので忘れずに持ってくるように。ちょっと先生気になったんだけど、もう一次試験本番まであと一週間も無いので、過去問だからって手を抜かないで、時間ぎりぎりまで諦めずに緊張感をもって臨むようにしてください。いいですか? 少子化でライバルが減っているからこそ、学歴競争はかつてなく激しくなってますからねえ」

 立ち上がった教壇の理科教師がこっちを向いていたような気がして、俯いて目を逸らす。

「ああ、あと、最近はこの時期になると毎年ウェアラブル端末でカンニングする生徒が出るけど、それはまず自分自身のためにならないからやめてください。着けてないと支障のある人も多いし授業でも使うから学校では一々回収とかしないけど、試験会場では空港みたいに検査されてスマートフォン……じゃない。スマートグラスだ。あれは持ち込めませんよ。スマートフォンは皆流石に知ってるよね? スマホ。聞いた事はある? ああよかった。知らなかったらどうしようかと思った」

 喋るのに満足した教師が出て行くと、教室はわっと賑やかになって、生徒たちは問題が解けたとか解けなかったとかどう解いたとかの話を言い合いながら席を立ち、昼食の準備をし始める。下を向いたまま消しカスを机から払い落とし、問題用紙とマークシートを机の中にねじ込んで、机の横に掛けてあったランチバッグからカットフルーツの容器と今朝作ったおにぎり二つを取り出そうとした時、ブレザーの裾が後ろから強く引っ張られた。一瞬の浮遊感の後、斜めになった私は椅子ごと転んで体の側面を硬い床に打ちつけた。思考と呼吸が中断されて、打った部分の骨に鈍い痛みが走り、小さく呻き声が漏れる。椅子の倒れる大きな音に反応して教室中の視線が私の方に集まったけど、皆何事もなかったみたいに、すぐに友達との雑談や勉強に戻った。

「間抜けだね。邪魔なんだけど」

 私に対する悪意を隠そうともしない言葉が聞こえて、半身をかばいながら横座りになって向き直ると、後ろにいたのはやっぱり同級生の白洲しらすのあだった。取り落としたおにぎりが一つ床に転がっているのを見つけると、白洲はそれを上履きで躊躇なく、ラップが破れない程度の力で踏みつけ、まるでサッカーボールでも扱うように前後にゆっくり転がした。ラップの中でおにぎりの形が平らに歪む。

「邪魔って……あんたが引っ張って――」

「このおにぎり手作り? なんか下手じゃない? 絶対美味しくないでしょ。でも落ちちゃったからもう食べなくていいね。私が代わりに捨ててきてあげる」

 白洲はそう言っておにぎりを汚いもののようにつまんで拾い上げ、教室の隅に向かった。教室の右前にある扉と黒板の間には、白洲が私から取り上げて床に「捨てた」ご飯や文房具がぐちゃぐちゃの状態でまとめて放置されている。白洲はその小さい山の少し上におにぎりを持っていき、そのまま手を放してぼとりと落とした後、教室を出ていった。皆あの生ごみの塊に眉一つ動かさないくせに、通る時はいつもそこを綺麗に避けて歩く。他クラスの生徒はもちろん、授業をしに来る先生まで。

 できるだけ目立たないように椅子を元に戻して、座り直した。どうせ誰も私を気にしてはいないけど。もう一つのおにぎりを食べようとしたけど、気持ち悪くなってしまって、結局カットフルーツだけしか食べられなかった。ご飯を食べた後、机に突っ伏している時間が一番楽だった。楽なのに、四十五分間の休み時間が終わるまで、途方も無い時間が流れているように感じられた。


*        *        *


 チャイムが鳴って、掃除時間が終わる。長かった学校での一日がようやく終わる。

「そういえばこの個室、掃除中最近毎日誰か使ってない?」

「ちょっと、声大きいって」

 トイレ掃除の生徒たちが片付けを終えて出ていった後しばらくしてから、私は誰にも見られないよう急いで個室を出て、早足で廊下を渡った。ホームルーム教室は廊下の突き当りにあるから、白洲はよくこの廊下で私を待ち伏せする。昼休みや放課後に、私が教室から逃げられないようにするためだ。放課後は絶対に白洲と鉢合わせたくないから、白洲が掃除から戻ってくるまでにさっさとここを通って学校から出ないといけない。建て付けの悪いドアを引いて教室に入り、教室の後ろの方をそれだけで占領しているマス目みたいな横長の棚の一番左端から自分の鞄をひったくるように取って、そのまま文房具も教科書も入れずに教室を出て行こうとした時、ドアの前には白洲が立っていた。心臓が跳ねて、身動きが取れなくなる。白洲に視線を向けたまま固まる。

「何? その目つき。なんか私に文句?」

 身長の高い白洲は近づいてくるだけで威圧感があって、私は鞄を取り落として教室の奥、左後ろの角に後ずさる。

「や、やめて――」

 私の言葉を遮るように、白洲は突然スカートの中から足を伸ばし、私の右の脛をまるでハンマーで釘を打つみたいに真っ直ぐ蹴った。前傾姿勢で硬直し、じわじわと痺れるような痛みでへたり込みそうになる私の襟元にすかさず白洲の長い腕が伸びてきて、制服のリボンを乱暴に掴む。白洲は向き直って、私を引っ張って壁に押し付ける。どん、という音に反応して、教室で雑談をしていた数人がびっくりしたように一瞬だけ私の方を見るけど、すぐに会話に戻る。残っている生徒のほとんどはイヤホンやヘッドホンを付けて自習をしていて、教室の後ろには見向きもしない。白洲はそのまま私を突き飛ばす。背中で何かにぶつかって、大きな音が鳴った。衝撃で肺から息が漏れる。一人の生徒がイヤホンを外してこっちに歩いてきたと思ったら、棚からテキストを取って席に戻っていった。

 かちり、という音が頭の中に響いて、私の体はしりもちをついた体勢のまま、いつものように硬直して動かなくなる。白洲を前に、逃げられない私は、ただ耳を塞いで俯くしかない。

「ねえなんでお前みたいなクズが生きてんの? 生きてて楽しい?」

 白洲はできる限りの悪意を込めたような話し方で、私を非難するように罵倒する。耳を塞いでも、白洲のくぐもった声を頭がちゃんと認識してしまうから、私も白洲の言葉に被せるように声を出し続ける。

「しかもお前頭悪いんでしょ。大人しく公立行けばよかったのに。なんでこの学校にいるの?」

「うるさいうるさいうるさいうるさい……」

「マジで、死んだ方がいいと思うよ。だって生きてる価値が無いじゃん。ねえ聞いてる?」

「……るさいうるさいうるさいうるさいうるさい……」

「逃げんなよ。聞けよ。現実見ろよ! なんでお前なんかがのうのうと学校来てんだよ!」

「……さいうるさいうるさいうるさいうるさい……」

「最悪。本当意味分かんない。早く死ねよ。誰も悲しまないから。早く死ねってば!」

「……いうるさいうるさいうるさいうるさい……」


*        *        *


 どれくらいの時間が経ったのか分からない。ふと気付いたら、白洲は既にどこかへ行ってしまったようだった。耳を塞ぐ手を下ろし、ぶつぶつ呟くのをやめるけど、私の体は硬直したままで、立ち上がる事ができない。そのまま教室で自習を続けている生徒たちの足元をぼーっと眺めていると、私の方に近づいてくる足音がして、ゆっくり視線を上げていく。私の頭の中に、かちり、という音がまた鳴った。私を呆れたような顔で見つめていたのは、隣のクラスの木下きのした凱也がいやだった。

「またいじめられてる」

 何故か木下が来るといつも、魔法が解けたように体が動くようになる。足を伸ばせるようになって、私はようやく立ち上がる事ができた。膝はまだ少し震えているけど。

「先生に言ったら? 白洲にいじめられてますって。証拠の映像とかも撮って」

「絶対聞いてくれない。私がこのクラスでどんな風に扱われてるか、分かるでしょ」

 木下は自分の眼鏡を指差し、周りを気にするように声のトーンを落として続ける。

「ああ、スマートグラスね。『消しゴムフィルター』。でもあれ、流石に先生が生徒に対して使う事は無いんじゃない? バレたら多分、ちゃんと懲戒処分とかになるでしょ」

「私自体を消してないとしても、白洲のやってる事は黙認してる。あんな生ごみが堂々と放置されてるのに、何も言わないのはそういう事じゃないの」

 教室の反対側の隅、黒板と扉の間を示す指が少し震える。木下はそれを見て困ったように眉を顰め、それから納得したように頷いた。

「あー……なるほど。そっか。ご飯とか捨てられてるのか」

 木下が先生に言ってくれればいいのに、とは言えなかった。

 私がクラスの皆に消されてるのは、皆で私をいじめるためじゃなくて、むしろ白洲の私へのいじめを無視するためだ。不快ないじめの現場が目の前にあったらストレスになって勉強に集中できない。けれど、人生が掛かった一次試験が直前に迫っている今、私がいじめられている事が問題になったら、生徒への聞き取りとか全体集会とかに発展して貴重な時間が奪われてしまうかもしれない。だから、皆は自分の視界からいじめを消す事にした。スマートグラスで個人設定できるフィルター機能を使えば、見て見ぬふりどころか嘘偽り無く「見ない」事ができる。「消しゴムフィルター」で視界から私を切り取って、AIがリアルタイムで合成した背景で補完してしまえば、この教室にいじめは無くなる。それでも音が気になるなら、イヤホンやヘッドホンで耳を塞げばいい。

 学習環境のために、合格実績のために、暗黙の合意の下で私は消されているらしい。木下は私を気に掛けてくれているようだけど、こんな中で自分から声を上げて、白洲はもちろん受験生皆に嫌われる勇気は無いと話していた。そもそも木下自身も有名な難関大学を目指して勉強しているのだから、こんな厄介事に関わりたくないのは当然の事だ。

「スマートグラスなんて無くなればいいのに」

 私は小さく呟いた。スマートグラスさえ無ければ、いじめを直視したくないという皆の思いは、いじめを止めるという方向に向かったかもしれないのに。

「……吉田の眼鏡は視力矯正専用のやつなの?」

「一応スマートグラスだしアプリは普通に使ってるけど、フィルター機能は視力以外全然いじってない」

「そっか」

 木下は棚にもたれかかって、窓の外を見ながら続ける。夕焼けの光が木下の学ランにくっきりと線を描いている。

「まあ、今更皆がスマートグラスを手放す事は無いだろうね。単純に検索とかSNSとか翻訳とかその場ですぐできて便利だし、大画面で動画見たりもできて楽しいし。フィルター機能で言っても、視力の問題以外にも色の見え方とか光の感じ方の問題まで個人で調節できるし、ディスレクシアなんていうやつも大体はこれで抑えられるらしいから、社会的にも利益がある。緊急速報もすぐ見れる」

「……それはそうかもしれないけど、そういう見え方の補助以外のフィルター機能は絶対おかしいでしょ。『消しゴムフィルター』もそうだけど、そんなの現実から目を逸らして都合のいい世界を見てるだけだから」

 吐き捨てるような言い方になる。私は少し怯えたような、伺うような目つきで木下の方を見て、同時に視野の端で黙々とペンを動かしているクラスメイトをちらりと確認する。木下は床を向いてちょっとの間黙ってから、また話し始めた。

「別に、現実であっても全部を受け入れる必要は無いんじゃない。何でも正しく完璧にこなしたいって言うなら、目の前にある情報をしっかり把握して判断するに越した事は無いだろうけど、それは結局人それぞれの気持ちと天秤に掛けられるものでしかないと思う。例えば人前でプレゼンをする時、究極的には聴いている人の反応を見ながらやるのが正しいとしても、どうしても緊張してしまう人は『じゃがいもフィルター』を使って聴いている人たちを動かないじゃがいもに変えてしまう。現実と向き合ってより良いプレゼンをしようと頑張るよりも、大げさな言い方をすれば自分の心の安全を守る方が大事だから。他にも、交通事故でPTSDを発症した人の多くは、『消しゴムフィルター』で自動車を消すらしい。道を歩いてて自動車が見えないなんてどう考えても危険だし、実際その結果事故に巻き込まれる人も多いけど、そのリスクを取ってでもトラウマを刺激されないようにしたいから。フィルターで視界に映る自分や友達の顔を常時加工してるその辺の女子だって、肌荒れに気付きづらいというリスクを冒してでも顔を『盛って』楽しんでいると言えるかもしれない」

「私は」

 悔しくなって声が震える。私を慰めてほしいわけじゃないけど、スマートグラスを肯定されたくない。私を無視する皆を、肯定してほしくない。

「納得できない。クラスの皆が自分の気持ちを優先した結果がこれなわけで、私はそれに納得できないの」

 頷いて、木下は一言ずつ確かめるように続ける。

「もちろんそれが仕方無い事だって言うつもりは無いよ。クラスメイトのいじめを無視するなんて事は、ただ『見たくない』っていう気持ちの問題だけで正当化していい事じゃない。俺が言いたいのは、吉田の件でこういう状況になったのはスマートグラスのせいじゃなくて、それを扱う人間のせいだっていう事。……俺は時々、俺たちの現実を直視する能力はもうとっくに衰えきってるんじゃないかって思う。科学技術や社会の進歩を通して、人類にとって共通して嫌なものが生活から消えていった後、インターネットの発展と一緒に、次は個人にとって嫌なものがその人の暮らしから消えていく時代が来た。目の前の画面に出てきたコンテンツに対して、それが自分にとって良いものだったかどうかを評価して、より良い環境のために能動的にフィードバックする事もあれば、閲覧履歴や年齢、性別のような個人情報を元に、ソーシャルメディアのシステムによって自分が好きなものだけが表示される環境が自動的に作られる事もあった。人類はその一世紀で、自分にとって都合の悪い何かを直視する力を擦り減らしていったんじゃないかと思う。そんな中で現れたスマートグラスは、まさに時代が求めているものだったんじゃないかな。嫌なものを見たくないとか、嫌なものは見ないで当然だという気持ちが昔の人たちよりはるかに大きく膨らんだ結果、天秤のもう一方にある現実を正しく見ようという思いが薄れてしまったからこそ、スマートグラスはこんなに広まったんだろうし、逆に言えば俺たちがこんな風である限り、スマートグラスは形を変えて存在し続けるんじゃないかと思う」

 被害妄想みたいな反応をあっさりいなされて恥ずかしくなるのと同時に、急に話の規模が大きくなって私は面食らった。

「でも、今でも誰だって日常の中で嫌な思いをする事は全然あるし、嫌なものから目を背けてたら自分のためにならない事なんて当たり前に皆分かってるでしょ。風邪を引いたり、模試で悪い判定を取ったりみたいな悪い事が起こっても、それを全部見ない事にしてやり過ごそうだなんて思う人は……本当にごく、一部の人だけだと思う。確かに昔の人に比べたら私たちはいい思いばっかりする事に慣れているのかもしれないけど、皆が皆そこまで極端な、まるで現実逃避みたいな考え方をしているとは私は思えないけど……」

 木下は淡々と話を続ける。

「自分が何を直視していないのか、なんて決して分からないんだよ。確かに、無視したら自分に悪い結果が帰って来るような重大な事には、流石にちゃんと皆向き合う。スマートグラスで見えないようにしただけでは逃げ切れないからね。その代わり俺たちは、取るに足らないような不快なものを軽率に視界からつまみ出してしまう。日常生活で目に入ってくる嫌なものを消したり、別の何かに変えるフィルターをオンにした時、当然視界にはその嫌なものが映らなくなるけど、そうなるとその嫌なものを意識する機会はめっきり無くなってしまって、数日も経つ頃にはその嫌なものの存在も、それを自分が嫌いだった事すら忘れてしまう。気持ち悪い広告も、好きになれない有名人も、非常識な集団客も映らない快適な視界は、模様替えした部屋とか口内炎の無くなった口と同じくらいすぐに自分に馴染んで、ずっと前からそうだったように、自然に感じられるようになる。『じゃがいもフィルター』みたいに使う場面が限定されているものもあるけど、大体のフィルターは常時オンにしておくものだから、個人設定フィルターは重ね掛けされ続けて、自分にとって理想的な世界がどんどん作られていく。だけどそこには達成感も充実感も無くて、いつも通りの嫌な事も沢山ある現実という認識が変わる事は無い。嫌なものなんて世界には無限にあるからね。そのせいで俺たちは、嫌なものから目を背ける生活にもう既に取り返しがつかないくらい慣れてしまっている事にも、安易にスマートグラスを使う事で現在進行形で更にそういう生活に慣れ続けている事にも気付かない」

 三階の教室の窓際に、沈む夕日が斜め下から突きあがってくる。木下は息を吸って、続ける。

「そういう意味では、スマートグラスの恐ろしさは視界を変えるところよりも、人の考え方を自分でも気付かない内に変えてしまうところにあるのかもしれない。自分の気持ちに配慮すればするほど、客観的な正しさは頭の中からどんどん失われていって、仮にスマートグラスを無理やり外すことができたとしても、それは元には戻らなくなる。でも、それでも俺は、スマートグラスは諸悪の根源なんかじゃなくて、便利な道具に過ぎないと思う。スマートグラスが悪い使われ方をするのは、結局人間の考え方の問題のせいであって、スマートグラス自体が悪いわけじゃない。嫌なものを直視する能力を気付かない内にさらに奪ってしまうのも、その人にとって理想的な現実を作る上で避けられない副作用のようなものでしかない。そもそも人に迷惑を掛けない限り、自分の気持ちを優先した方がいい状況だって当然あるし、そんな時にスマートグラスを使う事は誰にも否定できない。だから、吉田はこんな目に遭ってる分スマートグラスが嫌いなんだろうけど、俺は逆に吉田こそスマートグラスを使った方がいいと思うよ。クラスの人たちに無視されるのが辛いなら、逆にクラスの人たちをこっちが消しちゃえばいい。吉田を無視してるクラスの人たちは、どうせ自分が今吉田を無視してる事なんて覚えてないよ。物音がしたら反射的に一瞬吉田の方を向くかもしれないけど、学校なんてがちゃがちゃうるさいところなんだからほとんどの人は気にも留めずに流して、自分が吉田を消している事を思い出しもしないだろうね。皆はそのくらい軽薄なやり方で吉田を無視してるのに、吉田がその事に真っ向から向き合ってわざわざ悲しむ理由なんて、俺は無いと思う」

 木下が何故スマートグラスの肩を持っているのか最初よく分からなかったけど、どうやら木下は私にスマートグラスを受け入れて貰おうとしていたらしい。ちょっと間を置いて、私は言葉を返した。

「ありがとう、で、いいのかな。でも、木下の言いたい事も分かるけど、私は別に無視されるくらいどうって事無い。それに、私は現実と向き合えないような人間には絶対になりたくない。だからやっぱり、スマートグラスは使いたくない。ごめん」

 木下は何か言う代わりに口元だけはにかんで私の方を向き、頷いた。廊下の向こうの窓から見える空はもう暗くなり始めていた。

「受験生にしては長話しすぎたね。じゃあ、バイバイ」

 そう言って、木下は教室の出口に向かった。その途中、ふと足を止めて私の方を振り返って尋ねる。

「そういえば、吉田って掃除の時とかどうしてるの?」

「……なんで? まあ、サボってトイレに籠ってる。班の人にも無視されてて気まずいから」

 木下は納得したように頷いて教室を後にした。私は床に落としていた鞄を取って自分の机に戻ると、下校時間の鐘が鳴るのを突っ伏して待つ事にした。


*        *        *


 かちゃん、という小気味良い音がするまで鍵を回したら、鍵を取ってドアを押さえながらゆっくりとこっち側に開けていく。ぎい、い、という金属が互いを引っ掻き合う嫌な音がする。自分が通れるくらいの幅ができたら、そこに体を潜り込ませるようにして家の中に入って、ドアを勢いよく引っ張って閉じる。玄関にはサンタクロースのプレゼント袋くらい大きくてずっしりと詰まったごみ袋が、何個もぐちゃぐちゃに積み重なっているから、ドアを開ける時はごみ袋がアパートの廊下になだれ落ちないように気を付けないといけない。靴を乱暴に脱ぎ捨てて、家の廊下を直進する。横目に入った洗面台の鏡を見ると、顔の右側に青いあざができていた。多分、昼に白洲に椅子ごと転ばされて地面に打った怪我だ。

「夢ちゃあん? おかえりい」

 廊下の奥から乳児でも相手にするような猫なで声が聞こえる。母だ。廊下の両脇にあるごみ袋の山の間を、がさがさと音を立てながら近づいてくる。私は目を合わせないようにすれ違おうとする。

「おかえりい、今日も夢ちゃんは可愛いねえ」

 母が私の頬に手を伸ばしてくるのを、咄嗟に手の甲で叩いて跳ねのけた。母の細い腕は首の据わっていない子供みたいにぐらついて手ごたえが無い。嫌悪感で私の呼吸は荒くなる。

「触らないで!」

 母を突き飛ばすようにしてどかした後、私は早足で自分の部屋に向かっていって、わざと大きな音でドアを閉めて鍵を掛けた。ようやく一人になれたと思うと力が抜けて、そのままドアを背に座り込む。自分の右の頬を触ると、少し腫れていて痛かった。

 母は、私の顔をフィルターで加工している。それに気付いたのは、小学生の時だったと思う。母はいつも事あるごとに私の見た目の事を褒めてきたから、物心がつく頃には私は本当に自分が美人なんだと思っていた。でも、学校で「可愛い子」として扱われる生徒を見ていたら、その内嫌でも察しが付く。客観的に見て、私はまあまあ不細工だ。しかも、母に似て。多分母は、自分の顔にコンプレックスがあったんだと思う。産まれた時からずっと、私の顔は母にとっては可愛く加工して自尊心を満たすための道具でしかなかったのかもしれない、とさえ思う事もある。ただ単に子煩悩なだけだと思おうとした時もあったけど、母は決まって私が顔に怪我をした時だけ、あざがあっても切り傷があっても全く気付かない。母がうっとりと見ているのは私の顔じゃなくて、私の顔を原形を留めないくらいぐちゃぐちゃに歪めて合成した小さい顔の中にバランスよく配置された大きい目とすらりとした鼻だから。

 かちゃん。ぎい、ばたん。父が帰って来た。父は何も言わずに、ただごみ袋だらけの廊下をがさがさとかき分ける音だけを立てて自分の部屋に入っていった。高校に入ってからほとんど、両親が会話しているところを見ていない。「家庭内別居」みたいなものだと思う。父は夕食もどこかで食べてくるか、自分の分だけ買ってきて自室で食べるかのどちらかになったから、家族三人でリビングで夕食をとる事も気付いたら無くなって、私も母が持ってくる食べ物を自分の部屋で食べるようになった。最後に両親がちゃんと口を利いたのは、私の高校受験の時だったと思う。父は私を良い大学に入れるために地域では進学校として有名な私立高校に行かせると言って、それに対して母はのびのびと勉強できる普通の公立高校でいいと反論して喧嘩になっていた。私は公立が良かったし、正直学力も足りなかったから私立の方はそもそも無理だと思っていたけど、結局は父に根負けして私立の方に願書を出した。その年に偶然定員割れだったおかげで、私はその私立高校に入学する事になったけど、周りとのレベルにはやっぱり差があって、私はすぐに落ちこぼれた。

 ドアがノックされる音と感触が背中に響いて、顔を上げる。立ち上がらないまま膝を立ててドアを開けると、すぐ前の床には母が置いていった一皿のスパゲッティとフォークがあった。巨大なごみ袋の山の間にあると、なんだか美味しそうには見えないといつも思う。小学校に入りたての時から使っている木製の学習机の上にスパゲッティとフォークを置き直して、私は夕食をとった。この家に引っ越してきたのも、確か小学校に入ったばかりの時期だったと思う。その時はまだ家族で一緒に夕食をとっていたし、家はごみ屋敷じゃなかった。でも、二人の仲が悪くなっていく中で、家の掃除を担当していた父はその役目を勝手に辞めてしまった。父はまるで勝ち誇るみたいにして、ごみはスマートグラスで消す事にしたと言い、母と私にもそうするように言った。母は最初「ついにおかしくなった」とか言って父を非難したけど、父は「散らかってるのが気になるならその人が自分で掃除すればいい」「俺は見えないから気にならない」と言い張って取り合わなかった。呆れた母と私は、最初の内は代わりに掃除をするようになった。でも、その内母も、父がまるで気にしていない家のごみや汚れを一生懸命綺麗にするのが馬鹿馬鹿しくなったのか、それとも単に面倒になったのか、父と同じようにごみを見ない事にしてしまった。父も母も、最初は喧嘩中のやせ我慢みたいなものだったのかもしれないけど、今では家がごみの山になっている事を本当に気にも留めていない。そうと分からないんだから、当然の事だけど。

 スマートグラスで再生した適当な動画を見ながらスパゲッティを食べ終わった。耳を澄ませると、シャワーの水が流れる音がする。この時間にお風呂に入るのは母だから、丁度いいと思って食器をキッチンに置くために部屋を出たら、リビングで父と鉢合わせてしまった。父は冷蔵庫から何かを出し入れしているようだった。

「あ、……夢。勉強はいい感じ?」

 父は私に気が付くと、ちょっと気まずそうに間を置いてから私に話しかけた。顔は冷蔵庫の中を向いたままだ。高校受験以来、母は父に「私の能力を信じていなかった」というレッテルを貼られ、その負い目で進路にも口を出せない雰囲気になったから、父は以前にもまして私を良い大学に入れようと躍起になった。入学してすぐに地域で一番の大学を私の志望校に決め、いろいろな通信教育を契約した。だけど、学校ではすぐ勉強について行けなくなったし、通信教育も結局一つも続かなかった。模試の判定もずっと悪い。何より、私は別に父の言う「良い」大学に行きたいだなんて思えない。早くこの家から出て行けるなら、どこの大学でも専門学校でもいい。私は何度も父にこの事を伝えたけど、まともに話を聞いて貰えた事は一度もない。何を言っても「夢ならできる」「自信を持て」と言い続けるばかりで、うんざりだ。

「……普通」

 父が私の返答に向き合う事は無く、いつも通りの自意識まみれの激励が飛んでくる。

「覚えてるよね? 高校受験の時。お母さんでさえ夢が受かるって信じてなかったけど、お父さんは信じてた。それで夢は本当に合格しただろ。実は、夢は潜在能力が高いんだよ。だから今回も必ず――」

 私は続く言葉を無視して、ごみ袋を押しのけながら自分の部屋に帰った。私が落ちた時の父の反応を想像したら笑えるな、と思った。ベッドに寝転がって、スマートグラスで動画を見る。さっき何の動画を見ていたのかすらもう思い出せないけど、それでもとにかく何か動画を見る。動画は一分以内の尺で終わって、次から次へと雑学とか衝撃映像とかが私の頭の中に流れていく。決められた時間を破ってゲームに熱中してしまった白人の子供が、父親にハンマーで粉砕されたスマートグラスを前にして狂ったように泣き叫んでいる。大量の振り子がばらばらに動き始めたと思ったら、その振り子の先が様々な動物に滑らかに変化して画面の外に走り去っていく。数学の図形問題の解説。「視線スワイプ」で飛ばす。激辛ピザを一口食べた女性配信者が奇声を上げてのたうち回り動かなくなった後、視聴者が呼んだ救急隊員たちが到着して女性を担ぎ出す時に、隊員のついた悪態が映像に残っている。「じゃがいもフィルター」のプロトタイプ。元々は戦場で兵士の精神的な負担を和らげるために開発されていたらしく、銃弾を何発か浴びせたじゃがいもは見た目が変化してベイクドポテトになる。「バッテリーが切れそうです。充電してください」。

 スマートグラスの固定グリップを解除してから顔から外して、充電器に置いた。視界が二重になったように少しぼやけて、部屋の壁や床のしみが見えなくなる。一次試験の時のために視力矯正用の眼鏡を用意しろと言われた事を思い出したけど、どっちみちテストが解けない事には変わりないから、別にいいか、と思った。母がお風呂から出る音と、リビングから父が慌てて自室に帰る音がした。もしかしたら、二人は普段お互いの事も消しているのかも、とふと思った。クラスの人たちがあんな簡単に私を消しているんだから、そうであってもおかしくない。私はああはなりたくない。自分のパートナーにすら、自分の子供にすらちゃんと向き合えないような人にはなりたくない。両親に対してそれ以外の思いは無かった。


*        *        *


 日直が帰りの挨拶をして、数人の真面目な生徒が機械的にそれを復唱した後、掃除時間が始まった。教室班が机を後ろの方へ乱暴に引っ張り、机や椅子の足が床に擦れたりぶつかったりする音で教室はたちまち賑やかになる。皆が散り散りになって各々の担当場所に向かう中、私がいつものようにトイレに行こうとして立ち上がると、教壇から降りてきた担任教師に呼び止められた。

「吉田さん、ちょっとだけ話したい事があるんだけど、今大丈夫?」

 担任は人目を憚るように教室左前の隅に移動して、顔だけ私に向けて手招きの身振りをしている。授業態度の話だろうか。成績の話だろうか。私はどうせ腫れ物なんだから、放っておいてくれればいいのに。そう思いながら、俯いたまま担任の近くに行った。

「さっき気付いたけど、顔のあざ、どうしたの?」

 思いがけない質問で、私は一瞬動揺してしまった。

「……え、いや、転んだだけです」

 咄嗟に私はあざのある右の頬を隠すように手で覆った。怪訝そうに私を覗き込む担任から目を逸らす。そいつを信用するな、と私の頭が叫んでいる。

「……そう。実は、三年生の担当の先生たちの間で、吉田さんがちゃんと集中して勉強できてるか、というか、安心して勉強できる環境にちゃんといるのか心配だっていう声が上がっていて、先生もちょっと気になってたんです。……先日の、前沢さんのお家の件もあって、結構そういうところに先生たちも敏感になっていて。吉田さんも、もし何か困っている事とか、相談したい事とかあれば、遠慮なく先生に相談してくださいね。もう一次試験まで残り少ない中で余計なお世話かもしれないけど、勉強よりも自分の心身の健康が重要だし、逆に言えばそれが安定していなかったら勉強も身につかないからね」

 私が曖昧な返事をして、それっきり下を向いて黙ると、担任は挨拶をして右前の扉から教室を出て行った。白洲が作った生ごみの塊は、いつも通り気にしないで避けていた。

 理解できなかった。先生たちが私を心配なんてするはずがない。だって、現にあの教室の右前のぐちゃぐちゃのごみの塊の事を誰も気にしていないじゃないか。生徒たちと一緒に、私へのいじめを関わるだけ損なものとして無視しているとしか考えられない。担任は、私をからかおうとしただけだ。出し抜けに優しい言葉を掛けて、私を馬鹿にしようとしたんだ。考えてみても、そうとしか思えない。

 だけど、担任は私の頬のあざを気にしてくれたみたいだった。母も父も、誰も何も言わなかった私の怪我の事を、聞いてくれた。たったそれだけの事で、私の心は強く揺さぶられる。先生たちは、本当に私を心配してくれているのかもしれない。先生たちは何らかの事情があって、皆スマートグラスで生ごみみたいなものを消さないといけないことになっているとかで、あの塊に気付いていないのかもしれない。いや、でも、避けて歩いてる。消しているなら、少しも目にも留めないのは同じでも、日に日に広がっていく生ごみの範囲に気付かないでそのまま踏んでしまわないとおかしい。じゃあ、「消しゴムフィルター」ではない別のフィルターを使って、生ごみの見た目を変えているせいで気付いていない? もっと有り得ない。「生ごみを教室にあってもおかしくない何らかの自然な障害物に見せる」なんていう用途のフィルターが、都合よくあるはずが無い。じゃあ、やっぱり。

 チャイムが突然鳴って、思考が中断される。気付けば机は元通りの位置に戻されていて、教室の後ろでは生徒が二人がかりでちり取りにごみを掃き入れていた。私が教室の隅で立ち尽くしている間に、どうやら掃除時間は終わったらしい。トイレの個室でじっとチャイムが鳴るのを待っている時と比べたら、意外なくらい早いように感じる。教室外の掃除をしてきた生徒たちが二、三人ずつまとまりになって戻ってきて、荷物をまとめ始めると、教室は一気に騒がしくなってきた。そうだ、帰らないと。白洲が来る前に。私は我に返って、弾き出されたように教室の後ろにある棚に向かう。机三列分くらいの間を空けてちり取りを持った生徒とすれ違ったのが横目に見える。ちり取りは口を閉じられて、コンパクトな薄い直方体みたいになっていた。手を伸ばして自分の鞄を掴んだところで、ふと視線が吸い寄せられるようにして、私はそのちり取りを持った生徒の方を振り返る。あの生徒が真っ直ぐ向かう先は、教室の右前の隅、あの生ごみのある場所だ。私が棚の前で固まっていると、その生徒は何でもないようにちり取りを開いて、ごみをその山にぶちまけた。

 遅れて状況を理解した瞬間、鞄に掛けていた右手を強い力で上の方に引っ張られて、肩で自分の鼻を打ってしまった。顔の内側に痛みが染みる。

「何ぼーっとしてんの。人の邪魔になるって考えた事ある? ほんと自己中だよね」

 白洲の声だ。でも、私はそれに反応しないで、頭を下げたまま横を向いてちり取りを持った生徒の方を目で追う。その生徒は今度は教室の左後ろに向かって歩いていく。鋭い舌打ちの音がした後、今度は髪の毛の束が、本当に千切れて抜けてしまいそうなほどの力で引っ張られて、強引に頭の向きを変えられる。白洲は不快そうな顔でこっちを見ている。今にも頭皮からぶちぶちと言いそうな痛みで顔が引きつる。頭が固定されて動かない。最後まで見ないといけないのに

「ねえ聞いてる? 謝って。謝れって言ってんの。ほら早く」

「……放して」

 嘲笑うようなため息をついて、白洲は私の髪から手を放す代わりに、中腰になっている私のお腹を膝で突き上げるように勢いよく蹴った。ひやりとした感覚が体中に広がる。胃が飛び上がったような気がして、吐きそうになる。私の呼吸は細く、浅くなって、お腹を押さえながら棚に寄りかかるけど、それでも後ろに振り返って、見開いた目でちり取りを持った生徒を見る。その生徒はちょうど教室の左後ろの角に、畳まれたちり取りを置いていた。私は肩を突き飛ばされて、バランスを崩して床に左の膝を打ちつける。息をする間もなく、白洲は私のブレザーの襟を引っ張り上げて、私を半分引きずるようにしながらいつものように教室の左後ろに追い詰める。白洲は急に歩みを止めると、私を躊躇なく角の方に突き飛ばした。背中からちり取りにぶつかって、がしゃん、という大きな音が鳴る。直後、かちり、と鳴って私の体は動かなくなる。反射的に俯いて耳を塞いだ。

「いい加減にして。何なんだよ、その態度!」

 白洲はいつにもまして私に対する怒りを露わにしている。でも、今の私はそれどころじゃなかった。体が動かないといっても、体の向きを変えたり立ち上がったりできないようになるだけで、頭や腕はある程度動く。私は耳を塞ぐ手を離して、背中で触れているちり取りをそっと触った。ちり取りは確かにここにある。いつもは見えなかったものが、私には今見えている。心臓の鼓動が激しくなる。俯くのをやめて、私は窺うように、ゆっくりと顔を上げていく。白洲の足元が見えて、白洲のスカートが見えて、そして、白洲の全身が見える。私はぞっとして目を見張る。全体的な光や色合いの加減は自然で、俯きながらぼんやり視界の端で見たくらいでは気付かなかったけど、白洲の見た目がすぐさっきと比べても明らかにおかしくなっている。黒のロングヘアーは不自然な方向に液体のようにうねっていて、全体に同化して一本一本の質感が無い。制服のリボンがブレザーから直接生えてきていて、シャツの襟を通っていない。ボタンには校章がデザインされているはずなのに、太さも何もかもぐちゃぐちゃの線が描き込まれているだけ。何より、手の指が奇形の野菜みたいに歪に捻じれて変な場所からぶら下がっている。白洲の私を罵る声は普段通りなのに、体の動きは風に揺れているみたいに不安定で、癖や意図みたいなものが一つも感じられない。背景はもっと歪だった。生徒は奥に行けば行くほど、人間の形を成していない制服と頭の色合いだけの布切れみたいになっている。壁一面が黒板になっていて、チョークや黒板消しを置く部分と教卓の前後関係がずれている。見えるもの全てが、破綻している。鳥肌が立って、私はどうなっているのかという考えが頭をよぎる。意を決して自分の手を見てみると、それはいつも通りの私の手だった。手を開いたり閉じたりしても変わらないままで、少しだけ安心する。

「頭おかしいんじゃないの。なんでそうやって平気でいられるの。気持ち悪い。吐き気がする」

 私の現実が、私の頭の中で、どんどん違和感だらけのものになっていく。さっきまで普通だったのに、なんで急に世界がAI生成の画像みたいになっているのか。放課後、この左後ろの隅に来るといつも動けなくなるのはどうしてなのか。それでも頭や腕は動かせるのはどういう事なのか。あの、かちり、という音は何なのか。ごみを教室に放置なんてしたら、腐敗した臭いとか虫とかで大変な事になるはずなのに、どうして誰も気にしないのか。何故私はこれを今まで疑問に思わなかったのか。その一つ一つの答えは私には考えても分かりそうにないけど、こんな訳の分からない事を現実に見てしまうような心当たりと言ったら、一つしか無い。

 スマートグラスの先端のボタンを親指で押し込んで、固定グリップを解除した。白洲にどれだけ暴力を受けても少しもずれる事さえ無かった私のスマートグラスは、簡単に指で押しあがるようになる。息をついて、液晶レンズを目の前から外した時、私は掃除用具を入れるロッカーの中にいた。

 私は呆然として暗いロッカーの中を眺める。横には箒が並んでいて、後ろにはちり取りがある。そうか、私はロッカーを消していたんだ。ロッカーを外側から見た時も、内側から見た時も、AIが生成した映像で補填されたロッカーの無い視界を見ていたんだ。自分でも信じられないけど、木下が昨日言っていた事を思い出す。私は教室にロッカーがある事を忘れていた。普段は掃除時間が終わって少しするまでトイレに籠っているから、ロッカーが使われているところに近づく事すら無くて、あのロッカーの事を思い出すきっかけなんて一つも無かった。でも、今日は担任に引き留められたせいで掃除時間に教室にいたから、教室の清掃を久しぶりに見た。それでぼんやりと、箒やちり取りがどこから取り出されるのか、そしてどこに仕舞われるのか、うっすらと奇妙に思った。それはきっと、担任に言われた言葉を考えている内に、「自分に見えているものは何か間違っているのかもしれない」と微かに思い始めていたからでもある。

 自分でも何がどうなっているのか理解していないまま、私はとにかくちり取りが仕舞われるところを視界に納めた。そのおかげで、「ここにちり取りがある」という事のつじつまを合わせるために補填される映像が変化して、いつもは教室のどこにも無かったちり取りが、今日だけあそこに現れた。普段ちり取りが無かったのは、私が見ていないところでロッカーに仕舞われているせいで、補填される映像の中でロッカーごと消されている方がむしろ自然だからだったんだ。それに、ロッカーの中ではいつもは俯いて床だけ見ていたけど、顔を上げてみると、そこには破綻したAIの映像があった。「消しゴムフィルター」の補填は、普通に使う分には精度も高くて大した破綻は見られないけど、ロッカーの中からロッカーを消してしまうなら、視界のほぼ全てを長時間に渡って補填し続けないといけなくなる。精度が悪くなるのも当然の事だ。不自然な事がここまで積み重ねってようやく、自分が教室の右後ろにある何かを消しているという可能性と真剣に向き合わざるを得なくなって、私はスマートグラスを外してみる事にした。その考えは、どうやら当たっていたみたいだ。

 ロッカーの中は狭くて思うように体が動かせない。扉を押し開けようとしたけど、外から鍵が掛かっているみたいで開かなかった。あのかちり、という音は、鍵を掛ける時にする音だったわけだ。私は扉に微妙に隙間がある事に気付いて、張り付いてそこから外を見た。教室はいつも通りで、おかしいところは無い。教室の右前のあの場所には、ごみ箱が置いてあった。それを見て、私は教室にごみ箱があった事を思い出した。休み時間に消しカスとかいろいろなごみを捨てる人は沢山いたはずなのに、私はずっと俯くか机に突っ伏すかしかしていなかったせいで、ごみ箱に物を捨てるところを一切視界に捉えていなかったみたいだ。まあ、わざわざ人がごみを捨てている一部始終を見ている人なんていないかもしれないけど。でも、自分のものが白洲に持って行かれて捨てられるところだけはちゃんと見ていた。だから「消しゴムフィルター」の内部でそのつじつまを合わせるために、そういうものだけが床にそのまま放置されているように見えていたらしい。本当は定期的にごみ出しがあって、生ごみがずっとそのままになっている事なんて無かったのに。思い返せば、あのごみの塊の事を私が話に出した時の木下の反応もぎこちなかった。木下には、ごみの塊なんて見えていなかったんだ。

「なんでお前なんかが、なんでお前なんかが生きてるんだよ」

 掃除用具入れのロッカーと、ごみ箱。何故私がそれを消していたのかを思い出そうとすると、心臓の動悸がより一層激しくなった。体が硬直して、肺の中の空気が重く、冷たくなっていく。扉の隙間から見える白洲は、元通りの普通の姿になっている。だけど一つ予想外だったのは、白洲が泣いている事だった。

「海翔をいじめて殺しておいて、なんでお前なんかが……」

 心臓が張り裂けそうなくらい激しく鳴っている。体が煮立てられたように固く震えて、呼吸が制御できなくなる。私は、同級生の前沢まえざわ海翔かいとをいじめて、自殺に追い込んだ。鮮明に、ゆっくりと思い出してきて、吐きそうになる。白洲が私にしている事は復讐なんだ、と今更気付いた。白洲が私にやった事は全部、私があいつに、前沢海翔につい数週間前までやっていた事だ。あいつを閉じ込めたロッカーも、あいつのコンビニ弁当を捨てたごみ箱も、視界に入れただけで頭の中で自分を責める声が羽虫の群れみたいにぐるぐる回り出して終わらないから、見なくていいように全部消してしまったんだという事を思い出した。


*        *        *


 高校最後の夏休みがあっという間に終わって、気付いたらクラスのほとんどの人たちは本格的に受験勉強に集中するようになっていた。でも、中には早々に落ちこぼれてしまっていたせいで、大学受験をするのが普通な学校にいる癖に勉強を真剣にやっていない生徒もいた。私もその一人で、気付けば似たような人とばっかりつるむようになっていた。前沢をいじめ出したのは、その中の一人の男子だった。何故前沢が標的になったのかは分からないけど、とにかくその男子が前沢をわざと誇張して不細工に書いた似顔絵を本人の机に入れるみたいないたずらをし始めた事が、全てのきっかけになった。私たちは次第に前沢を「いじる」事を面白く感じるようになって、大喜利気分でいろんな事をした。物を隠したり、「告白ドッキリ」をしたり。前沢は何をされても下手な作り笑いを浮かべて縮こまっているばかりで、私たちに反抗する事は無かった。

 そして、誰がどう見てもいじめでしかない事を直接的にするようになってきた頃、私たちはクラスの皆に消されるようになった。前沢へのいじめから目を逸らして、快適な教室を作るために。その時からずっと、私はいじめの被害者じゃなくて、加害者として消されていたんだ。私たちにはほとんど内輪の関わりしか無かったから、うすうす皆に無視されている事に気付いていても、集団でのいじめはお構いなしに続いた。だけど秋頃になると、私がつるんでいたグループの中でも流石に受験勉強をし始める人が多くなってきた。私の学力はぶっちぎりで最底辺で、大学受験の事なんて一つも考えていなかったから、徐々に私とグループの皆との間には距離ができていった。他の皆の前沢へのいじめが落ち着いていく中で、気付いたら一番熱心に前沢をいじめているのは私になっていた。前沢はどれだけいじめられても、変わらず学校に来るのをやめなかった。

 ある日私は、新しい「いたずら」を思いついた。前沢の水筒の中にチョークを詰め込むといういたずらだった。休み時間、前沢がトイレか何かで教室を出た隙に、私は黒板からあるだけのチョークを取ってきて、前沢の水筒に入れていった。グループの皆は最初、半笑いでそれを眺めていた。でもその後、授業で教室に来た中年の教師が、チョークが無くなっている事に気付いて、クラス全体の責任として物凄い勢いで私たち全員に怒鳴り散らした。誰か心当たりがあるやつはいないのか、と言われても、私は怖くて手を上げなかった。授業が一つそれだけで潰れた後、私はその教師の愚痴を言うつもりでいつものグループの皆のところに行ったけど、皆は私を横目でちらりと見ながら、わざと私に聞こえるような大きい声で、私の悪口を言っていた。「皆の授業の時間を何だと思ってるのかな」「あいつ思ってた十倍馬鹿だ」「受験生なのに何でまだあんな感じなんだろう」「前から思ってたけど本当に周りの迷惑とか考えてないよね」……。

 その日から、私はグループの皆からも消された。私は悔しくなって、もっと酷く前沢に当たるようになった。私がこうなったのは前沢のせいだと、本気で思った。前沢は男子の割には小柄で、私はあいつを叩いたり蹴ったりする事で鬱憤を晴らそうとした。昼休みはあいつのコンビニ弁当を奪って中身をごみ箱に捨てた。放課後はあいつをロッカーに閉じ込めて暴言を浴びせた。死ね、と言った回数はもう分からないくらいになった。小学校で習うような「人にやってはいけない事」の決まりなんて、私には心底どうでも良かった。親もクラスメイトも誰一人私を見てはくれないのに、そんなものを守る意味は無かった。私は前沢がどんな人間なのか全く知らないのに、その人格を否定して、罵倒し続けた。私がこの最低な現実に反抗する唯一の方法は、前沢を痛めつける事だった。足を引っかけて転ばせたり、もみあげを引っ張って頭を壁にぶつけさせたりすると、痛がってうずくまるのが見てておかしくて楽しかった。だけど私の気持ちが晴れる事は全く無くて、それを埋め合わせるように私のいじめは際限なくエスカレートしていった。

 正月の休みが明けて学校に行くと、前沢はいなかった。朝のホームルームで、担任は回りくどい言い方で、前沢が自殺したという事を伝えた。前沢は「家庭でのトラブル」を苦にして自殺した、という事になっていた。私の体は急に重くなって、机に倒れ込みそうになった。あまりにも幼稚だけど、私は前沢が自殺して初めて、自分がやってきた事の重大さを直視した。人を殺した。取り返しがつかない。そんなつもりじゃなかった。こうなるとは思わなかった。薄っぺらい言い訳が何万回も頭の中でループするけど、内臓の奥をゆっくりかき回しながら溢れてくる自己嫌悪で気が狂いそうだった。呼吸が詰まった砂時計みたいに苦しくなる。嫌だ。違う。「何が違うの? お前がやったんだろ」「殺しておいて被害者面?」「死んだ方が良かったのはお前だよ」。体中に冷たい水みたいなものが溜まって、肺が、心臓が、痙攣しながら縮こまっていく。体がジェンガみたいに崩れ落ちそうな気がして、無意識に、意味も無く体をよじる。視界にごみ箱が入る。視界にロッカーが入る。見たくないのに、見えてしまう。私は震える足でトイレに逃げ込んで吐いた。便器のふちのほとんど水みたいな吐瀉物をトイレットペーパーで拭きながら、私は焦点の合わない目で「消しゴムフィルター」の事を思い出していた。


*        *        *


 かちり。ロッカーの鍵が外側から開けられる音で、私は現実に引き戻される。ロッカーの扉が開いて、中に教室の蛍光灯の光が差し込んでくる。木下は眼鏡を外した私を見て少し驚いてから、ちょっと考えて言った。いつもより冷たいように聞こえた。

「これで白洲の気持ちがちょっとは分かったんじゃない?」

 唇が震えて、上手く喋れない。でも、言葉がすらすらと出てくるとしても、私は何も答える事ができない。

「まあお察しの通り、白洲は海翔の事が好きだったみたい。結局告白とかは最後までできなかったみたいだけどね。……白洲は、吉田たちが海翔をいじめてる事を先生に言わなかった事を凄く後悔してるんだと思う。でも、海翔はあの時何を聞いても、『俺は大丈夫だから』としか言ってくれなかった。長い付き合いの俺でさえ、まともに話しては貰えなかったからね。白洲もいろいろ悩んだんだろうけど、この事を黙殺しようとして実際に消してしまった周りの生徒たちの雰囲気とか、何より海翔自身の態度に圧されて、なかなか言い出せなかったとしても無理は無いよ。だけど今となっては、白洲はもう先生にその事を伝える気は無いだろうね。新しい加害者として皆に無視される事も覚悟の上で、白洲は自分で吉田に復讐する事を決めた。私刑ってやつかな。暴力を振るって、暴言を吐いて、吉田の心を完全に折ってしまおうとした。でも、当の吉田はとっくに現実を見てなかったから、白洲の『いじめ』は上滑りするだけ。そしてとうとう、逆に白洲の方が限界になってしまった。白洲はさっきまで、ずっと一人で泣いてたよ。もちろん消されてる上に、教室に残ってる生徒は全員イヤホンとか着けてたから、誰にも気付かれてなかっただろうけど」

 昨日の木下との会話を思い出してみると、「被害者」としての自分の態度の全てが堪らなく醜く思える。白洲を責める権利も、いじめを無視するクラスの皆を責める権利も、私には一つも無い。私はどれだけ馬鹿で滑稽なんだろう、と思って消えたくなる。震える声で木下に尋ねる。

「……昨日私に『消しゴムフィルター』を使うように言ってきたのは、私がロッカーとごみ箱を消している事を思い出させるためだったの?」

 木下は意外そうに私を見て、そして笑って答えた。

「いやいや、そんな事ないよ。本当に。正直言うと白洲の気持ちを否定する事はできないけど、それでも俺はずっと、本気で吉田の事を助けているつもりだよ。吉田のトラウマを色々思い出させてぎゃふんと言わせてやろう、みたいな魂胆はこれっぽっちも無い。自分の心を守るためにスマートグラスを使うのは悪い事じゃないからね」

「でも木下は、……前沢の、友達だったんでしょ?」

 少しだけ木下の表情が強張って、目線が平行にずれる。それでも木下のはきはきとした口調は変わらない。

「……高三に上がる前のふとした時に、海翔が自分の家族の事を話してくれた事があって。海翔の両親は二人とも教育熱心で、絶対に海翔をトップクラスの大学の医学部に入れようとしてるんだって話を聞いた。それで、模試とかの成績が良くないと、両親は罰としてしばらく海翔を消しちゃうんだって言ってた。あり得ないよね。……海翔が自殺したのは、まあ客観的に見たら吉田のせいとも思えるけどさ、本人にとっては、実際先生たちの言ってた通り、あの家にいるのが嫌だったからなんだよ。海翔は普段、ほとんどの時間を家の外で過ごしていたらしい。平日の学校が終わった後はもちろん、休日にも予備校に通い詰めてたんだって。だけど正月休みは予備校も閉まってるから、ずっと家で過ごす事になる。それがいけなかったんだろうね。高三になってあいつの判定はどんどん落ちていっちゃってたから、家族からの扱いは碌なもんじゃなかった。多分海翔の家族は、海翔を長い間消している内に、本当に海翔の事を忘れてしまってたんじゃないかな。実際、海翔の家族が警察に通報したのは、海翔が死んでから四日後。年が明けて、家の中に腐敗臭がしてきてからだったらしい。俺がどっかに、遊びにでも連れ出してればよかったのかな。とにかく、海翔にとって吉田にいじめられる事は、ある意味救いだったんだよ」

 救い? 私は木下が言っている事の意味が分からなくて、最初聞き間違いなんじゃないかと思った。でも木下は、私の目を見て、話し続ける。ちょっとした馬鹿話みたいに、出し抜けに明るく。

「俺はあの時期も今と同じで放課後毎日この教室に来て、海翔のためにロッカーの鍵を開けてやってた。吉田がいつも鍵を閉めっぱなしにして帰ってたからね。ロッカーから出てくる海翔は日に日にやつれていって、見てられなかったよ。だけど、どれだけ俺が心配しても、あいつは『大丈夫だから』としか言わなかった。なんなら、先生にこの事を言いつけないでほしいとまで言ってきた。俺は意味が分からなかった。それである日、海翔に面と向かってはっきり言ったんだよ。客観的に、お前は酷いいじめを受けていて、どんどん衰弱してる。それを認めないのはただの現実逃避で、一つもお前のためにならない事だ、って。そしたら海翔はその時一度だけ、観念したみたいに打ち明けてくれた。びっくりしたよ。海翔は、『顔交換フィルター』で、自分の母親と吉田の顔を交換してたんだってさ。『これでお母さんが俺の事を見てくれる』って。この際暴言も暴力も、海翔にとっては気にならなかったんだろうね。白洲が知ったら凄いショックだろうけど、吉田は海翔が生きる命綱みたいになってたんだよ。少なくとも、海翔にとってはね。だから海翔は冬休みに死んだ。行くところも無く、自分が消されている家にずっと一人でいて、学校でだけ会える自分を見てくれる母親とも長い間会えなかったから。そんな訳だから、俺は白洲みたいに吉田を恨んではないんだよ。むしろ、海翔の友達として、感謝してると言ってもいい――」

「ふざけないで!」

 気付いたら叫んでいた。ロッカーの中で、爪が手に刺さるくらいの力で拳を握りしめて震える。夕焼けの逆光の中で、木下の顔から笑みが完全に消えて、ぞっとするような目つきで私を睨む。心臓が破れそうなほど速く収縮しているのが分かる。

「私があいつにどんな事したか分からないんでしょ!? 抵抗しないあいつの顔を何回も殴って弁当も教科書も目の前でぐちゃぐちゃに――」

 木下が勢いよく私の襟元を掴んで顎まで持ち上げる。頭の後ろが箒にぶつかって、反動で少し押し戻される。鎖骨の間に指の骨が当たった衝撃が肺に響いて喉が鳴り、一瞬息がせき止められる。木下は目を見開いて、震える顎から溢れる言葉を私に浴びせる。

「じゃあ海翔は現実逃避で死んだ馬鹿だって言うんだな!? 現実から逃げて、お前なんかで救われようとして、何とか助けてやろうとした奴の言葉も無視して、結局自分を誤魔化しきれなくなって死んだ、あいつは救いようの無い馬鹿だって言いたいんだろ!? じゃあお前は結局何も反省してないよ。罪の意識を感じる自分に気持ち良くなってるだけだ。あれは海翔が自分で選んだ、唯一の自分を救う方法だった。それを否定して何になる? 俺たちに海翔の何が分かる? 海翔がどんな思いで朝起きて、家族が朝食をとっているリビングを通り抜けて家を出て自分の食事をコンビニで買って、家族に認めてもらうために必死で勉強しても上がらないどころか下がっていく成績を見て、夜中まで自習室で机にしがみついて問題を解いていたか分かるの? 家から逃げた先の学校で糞みたいな奴らにいじめられるようになって、周りの生徒は皆自分を消すようになって、そんな中で吉田に『顔交換フィルター』を使う事を思いついた時、あいつはどんな気持ちだったと思う? 自分の現実を守るために、それはいじめだ、とか先生に相談しよう、とか言ってくる奴を心底面倒くさそうにいなして、俺がどれだけ『正しい事』を言っても相手にしないで、頭の中で自分は自分の母親に向き合って貰っているんだと思い込もうとしたあいつを、助け出すには、どうしたら良かったんだよ。俺が、俺があの時、『お前に何が分かる』って言われた時、俺はどう答えたら良かったんだよ!」

 どんどん小さくなっていく声で、絞り出すように私にそう言い放った。項垂れた木下の目からは、涙が零れ落ちていた。私の襟を掴む木下の指の力は突然緩んで、私から離れた腕は乗り捨てられたブランコみたいに力無く揺れる。教室に残っている生徒は、誰も私たちの事を気にしないで、いつも通り黙々と机に向かっていた。

「ごめん。吉田に言っても意味無いよね。こんな事」

 木下は俯いたまま左手で両目を覆って、か細く震える声で続けた。

「でも俺はやっぱり、吉田がそうは思わなくても、吉田は海翔にとって良い事をしたんだと信じてる。そうじゃないと、海翔があまりにも報われない。……だから俺はもう、スマートグラスを肯定するしかないんだよ。海翔の親とかクラスの皆みたいに、それで人を傷つけたり目の前の困っている人を放置したりしているのでもない限り、現実から目を背けるな、なんて俺の口からはとても言えない。いや、どうかな。そんな善悪の基準も、人それぞれのものでしかないよね。その人にとって素晴らしい現実が傍から見てどれだけ惨めで滑稽だったとしても、人を傷つける有害なものだったとしても、ただでさえ現実を直視する力が無い俺たちの生きる時代には、そんな客観的な正しさにこだわる事にはもう何の意味も無い。そう思わないと、俺はもう、やっていけないよ」

 私は何も言葉を返せない。ただ固まって、浅い呼吸を繰り返す。会話が止まって、自習している生徒たちの机から聞こえてくる鉛筆で線を引く音や紙の擦れる音だけになる。長い沈黙の後、木下は一言「じゃあ」と言って教室を出て行った。私はその後もロッカーの中に座って、ただぼーっとして教室を眺めていたけど、しばらくして思い出したみたいにスマートグラスを掛け直した。すると私は教室の隅で、床にそのまま座っていた。


*        *        *


 慣れきった動きで家のドアを慎重に開けて中に入る。父も母も、ごみ袋が見えなくたって、この動きは体に染み付いているものらしい。廊下やリビングのあちこちに積み重なるごみは、まるで腫瘍みたいに数を増やしながら大きくなって、私たちの暮らす場所を圧迫し続けている。本当は教室のごみ箱に入れられてそのままどこかに捨てられていたのに、「消しゴムフィルター」の補填でずっと放置されてるように見えていただけのごみの塊とは違って、私の家のごみの山はちゃんと触れられるし、眼鏡を外しても見える。現実に、確実に存在している。私は気付くと、自然に「消しゴムフィルター」を開いていた。視線を合わせて選択すると、目の前にある物が緑色の輪郭でハイライトされて、まるで世界から浮かび上がっているように見える。私は家中に積もるごみ袋を見て、それから長めのまばたきで「クリック」した。その瞬間、まるで今までが見間違いだったみたいに、家中のごみはきれいさっぱり消えた。この家ってこんなに広かったんだ、とか思ったりして、清々しい気持ちになった。世界がちょっと明るくなった気がした。

 私はすっかり調子が良くなって、次は廊下の先にいた母を消した。声は聞こえるから適当に返事をするんだけど、目では見えない分相手の反応があまり気にならなくて楽だ。見えていた頃の調子で無意識に避けてしまえるごみ袋みたいな動かない物はまだしも、人を消して見えなくしたら出会い頭に毎回ぶつかったりしてしまうんじゃないかと思っていたけど、いざ自分でやってみると人の動きは意外と音だけで分かるもので、慣れたら本当に意識しないでも避けられるようになるんだろうな、と思った。自分の部屋に入って、身体を投げ出すようにしてベッドに横になる。気付いたら私はそのままの姿勢で動画を再生していた。まな板の上に乗せられたスライムが包丁で切られた後、またこねられて一つになる。コンパスみたいな道具で一定の動きを繰り返すと、幾何学的で綺麗な模様ができあがっていく。こんこん、というノックの音が聞こえて、バーチャル画面の透過率を上げてから部屋のドアを開けに行く。晩ごはんが置かれていたからそれを持って部屋に戻るけど、その途中でも視線はずっとスマートグラスの中の動画を見ている。机に座って、有名なインフルエンサーの面白エピソードを見ながら、流れ作業みたいに、無意識に、箸をプラスチックの容器と口元の間で動かしている。

 眠くなって、瞼が開かなくなってきた。時計を見ると、いつの間にか午前一時を過ぎている。私はスマートグラスを外して充電器にセットした後、部屋の電気を消してそのまま布団に入った。布団の中は暗くて、自分が目を開けているのか閉じているのかも分からない。私たちが何の画面も見ていない時間は、今はもうほとんどこの寝る前の一瞬しか無いんだろうな、と思う。眠かったはずなのにやけに目が冴えてしまって、今日学校であった事が順番も何もかもばらばらの状態で頭の中で繰り返される。そして、前沢の事を思い出す。私にはもう、どうやって現実に向き合えばいいのか分からない。現実は私には大きすぎた。直視すればするほど、現実は難しくて、恐ろしくて、耐えられないものになる。きっと誰にとってもそうだ。現実はもう、誰も立ち向かう事ができないくらい大きなものになってしまった。私たちが、画面の中だけにある快適で小さな現実に慣れ過ぎてしまったから。指の先から順に、腕、肩、首と力が抜けていって、体がマットレスに深く沈んでいく。家のごみにしても何にしても、意地にならないでもっと早くから消しておくんだった、と思う。一度消してしまえば、もう見なくていい。楽になれる。誰でもやっている事だ。そもそも既に私は、自分のやった事から目を背けて、罪の意識も苦しさも何もかも消していた。テストの事だって、自分の将来の事だって、家族の事だって、何もまともに考えようとはしていなかったじゃないか。ぼんやりと頭の遠くの方でそう思っている。意識が流れて溶けていく。

ⒸWikiWiki文庫

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