Sisters:WikiWikiオンラインノベル/曖昧

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2年10月21日 (ゐ) 14:27時点におけるキュアラプラプ (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「 キーボードを小気味良く叩く音は、静寂な空気に飲み込まれ、たちまち部屋の隅へと消えていく。  人間の適応能力とは恐ろしいものだ。狩猟を効率化するために石器を作り、交易を効率化するために貨幣を作り、戦争を効率化するために化学兵器を作る。  気づけば私も、タイピングを効率化していくうえで、無意識のうちにブラインドタッ…」)
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 キーボードを小気味良く叩く音は、静寂な空気に飲み込まれ、たちまち部屋の隅へと消えていく。

 人間の適応能力とは恐ろしいものだ。狩猟を効率化するために石器を作り、交易を効率化するために貨幣を作り、戦争を効率化するために化学兵器を作る。

 気づけば私も、タイピングを効率化していくうえで、無意識のうちにブラインドタッチを身につけていた。

 小ぶりなパネルに指を押し当て、文字列を形作っていく。文法に多少の違和感はあるが、気にする人なんていないだろう。

 ──ふと、集中が途切れた。

 窓の外から、子供の喚き声がする。

 最初は泣き叫んでいるものかと思ったのだが、よく聞いてみれば、ただの笑い声のようにも感じられる。

 子供は苦手だ。うるさいのもそうだが、何を考えているのかまるで分からない。

 あれは大学生の頃だっただろうか、コンビニでレジ打ちのバイトをしていたときのことだ。小学生低学年と思しき子供が、流行りのアニメキャラか何かが印刷された駄菓子を持って、私の受け持つレジに現れた。

 その商品の値段は、確か三百といくらかくらいだったと思う。しかしその子供は、百円玉たった一枚しか持っていなかった。

 だから私は、可能な限り物腰柔らかに、その子供を責める意図は全くないということを明示したうえで、金額が足りなくて買えないこと、そしてその商品を棚に戻してきてほしいということを伝えた。

 ──その子供は、私を完全に無視した。

 どれだけ分かりやすく噛み砕いても、何度同じことを説明しても、その子供は、あるいは病的なまでに、「これをください」としか言わなかったのだ。

 その後どうやってあの子供を引き下がらせたのかは、あまり覚えていない。

 ──確かに、相手はまだ小さな子供で、意志の疎通がままならないというのも仕方のないことだった。常識的に言えば、そんなことをいちいちしつこく回顧する私の方が病的なのかもしれない。

 けれども、あの全く成立しなかった会話は、私自身にも何故だか分からないほど強烈に、記憶に刻み込まれている。

 しかしまあ、皮肉なものだ。今の私が生活できているのは、子供でもないのに会話が成立しないような人たちのおかげなのだから。

 ──とりとめのない思考を打ち切り、私は再びパソコンに向かった。しかし、間欠的に耳をつんざく子供の喚き声に妨害され、やはり集中できない。

 泣き声だと思えば泣き声に聞こえるし、笑い声だと思えば笑い声に聞こえる。つくづく奇妙で曖昧な喚き声だ。

 声から注意を逸らすためか、なんとなく耳を澄ましてみると、静かに感じていたこの安アパートの一室にもさまざまな雑音が飛び交っていることに気づいた。

 洗濯機はがたがたと揺れている。室外機のファンは擦れて回っている。近くを走り去ったらしいゴミ収集車は、軽妙なメロディを奏でている。

 こうして真っ昼間からぼうっとしていると、いつか風邪で学校を休み、遠くに聞こえる情報番組に聞き耳を立てながらただ布団の端を玩んだ退屈な日を思い出す。

 ──集中できない。

 元はと言えば外から聞こえるこの喚き声のせいなのだが、結局のところ今日はどうにも集中できない日なのだと、自分に折り合いをつけることにした。

 今しがた書いた分を文書ファイルに上書き保存し、成果を確認するために一応の通し読みをしてみる。

 ──まあ、なかなかの出来だ。刺激的な見出しに、適当に拾ってきた顕微鏡越しの微生物の画像、でっち上げた「関係者」の証言。

 さて、タイトルはどうしようか。「ワクチンから寄生虫が検出」? 「殺人ワクチンの動かぬ証拠」? キャッチーで扇情的なものを作るのは案外大変だ。

 最近はこの仕事も軌道に乗り、一か月におおよそ七~八万ほどの収益を稼げるようになってきた。適当なデマを寄せ集めたつぎはぎの記事を量産し、広告付きのブログに掲載する、ただそれだけの仕事でだ。

 無論、何も考えずにやっているわけではなく、一応のリスクヘッジは行っている。例えば、日本には「デマ自体を裁く法律」こそないが、「名誉毀損行為を裁く法律」はしっかりと機能している。だから、個人や企業それ自体を槍玉に挙げることはしない。

 一方、同業者の中には、刺激的なコンテンツを作ろうとするあまりこのような行為に手を出してしまう者もざらにいる。

 私にしてみればただただ滑稽だ。何しろ我々の顧客は、危険を冒してまで自発的にそんなことをしなくとも、勝手に増え続けてくれるのだから。

 こんな仕事を始めたのは、ほんの数年前、新型コロナウイルスが世界中で流行し始めた頃だった。

 その当時、私は俗に言うフリーターだった。複数の飲食系アルバイトを掛け持ちしながら、決して豊かではないながらも人並みに充実した暮らしを営んでいた。妻との出会いも、その勤務先の一つでのことだった。

 しかしあの時──新型コロナがパンデミックを引き起こした時、さらなる感染拡大の防止のために、多くの店舗は営業の自粛や雇用の縮小を行った。これによって、私は収入源のほとんどを失ってしまったのだ。

 ──だが、やはり人間の適応能力とは恐ろしいものだ。

 対象になっていた補助金や支援金からサーバーやドメインのレンタル代を支出し、ブログを開設。アフィリエイトに登録した後は、SNSを利用した積極的な集客で着実にアクセス数を増加させていき、遂にはたった数か月で、安定的に万単位の利益を得られるようになった。

 ──ファイルを閉じるのとともに回想に耽るのを終え、大きくのびをする。

 あの喚き声は未だに聞こえてくるが、心なしかボリュームが下がっているようだ。泣き疲れたのだろうか。いや、笑い疲れているのかもしれないのだが。

 そういえば、起きてからまだ何も食べていない。大して腹を空かしているわけでもないのだが、この時間になると惰性で何かを口にしたくなってきてしまう。

 立ち上がって台所の棚を見渡すと、菓子パンが一つだけあった。プラスチックの包装を破き、シンクの前に棒立ちしたままそれを胃の中に放り込む。

 消費期限を四日は過ぎていたためか、お世辞にも良い味と言えるものではなかった。玄関前に放置している溢れかけのビニール袋にゴミを押し込み、ぱさぱさした油に汚れた指先を水道で洗う。

 脈絡なく、頭の中に一つの疑問が浮かび上がってきた──なぜこうも容易く、人は騙されてしまうのだろうか。

 仕事上、私は出処不明のデマに乗せられている人をごまんと見てきた。しかしその多くは、よく考えれば「少なくとも信頼に足る情報ではない」と結論づけられるようなものだ。

 ──それが事実であろうとなかろうと、ただ単純明快である情報の方が好まれて信じられるから?

 より人を魅了するのは、責任を持った専門家が慎重な物言いで発する予防線の張られた見解ではなく、無責任な一般人が浅はかに吹聴するシンプルで刺激的な意見の方だ。

 自然科学の分野においてこれは顕著だろう。「mRNAは短期間で分解されますし、そもそもRNAはDNAに変換されないので、ワクチンを打っても個々人の遺伝情報は変化しないと考えられています。」という複雑な説明よりも、「それは嘘だ!騙されるな!ワクチンで遺伝子が組み替えられる!」という単純な説明の方が、明白にセンセーショナルだ。

 もしかするとこれには、強い発言力、そして権威を持った「お偉いさん」に対する、ルサンチマン的な悪感情からくる不信感の影響もあるのかもしれない。

 しかし、いくら単純だからといって、例えば「ワクチンを接種するとゾンビになってしまう」とのような、あまりに荒唐無稽な情報さえをも盲信してしまうというのは、あまり腑に落ちたものではない。

 ──そもそも「疑うこと」自体のハードルが高いから?

 世の中の大多数の人は、「この化学物質がどうのこうの」だの、「外国のこの学者の論文がどうのこうの」だの、とにかくカタカナ言葉をまくしたてられるだけで、それをそのまま信じてしまうものだ。

 一昔前、家電製品等の広告で「マイナスイオン」という言葉を見ない日はなかった。これによる健康的な付加価値を、多くの人は信じて疑わなかっただろう。

 しかし実際のところ、マイナスイオンが人体に与える好影響は、科学的には今なお証明されていないのである。

 とはいえ、かくいう私もその「多くの人」の一人だった。テレビのショッピング番組で連日宣伝されるマイナスイオン、その有効性を疑うという発想など、全くもって私には無かったからだ。

 疑り深くあることはそうそう美徳とはされない。やはり人には、誰かに対して疑いの目を向けることを無意識のうちに避ける傾向があるのかもしれない。

 いやしかし、企業によって全国的に盛んに喧伝されていたという点で、そもそもこの例は特別にハードルが高かっただけかもしれない。もし単にインターネットに転がっていた出処不明の一情報としてこれを知ったのだったら、大抵の人はまず疑ってかかっただろう。

 対して私が見てきた「容易く騙されてしまう人たち」は、そのような「疑うこと」のハードルが低い状況においても疑うことをしなかった。これも腑に落ちない。

 とすると、こんなのはどうだろう──「元より彼らは、自身にとって信じるべきものを信じているから。」

 人は普通、信じるに足る理由があるとき、それを信じる。しかし彼らは、そのデマを信じる気持ちの方が先行しているのだ。こう考えてやっと腑に落ちた。

 どれだけその情報が荒唐無稽で疑わしく、信頼に足る根拠もなく、いくらでも客観的かつ精緻な論理で反駁できるようなものであっても、それが真実なのだから仕方ない。真実には何の瑕疵もなく、一切の疑う余地もないのだから、彼らにとって間違えているのはいつもこちら側になるのだ。

 私たちは彼らを「会話が成立しない人たち」と見なすが、きっと彼らにとっても、私たちは「会話が成立しない人たち」なのだろう。

 ──思えば、あのレジの子供もそうだったのかもしれない。

 「これこそが真実だ」という先入観のあまり「疑う」という選択肢を忘れている彼らのように、あの子供もまた、「この駄菓子を買う」という気持ちが先行するあまり「買わない」という選択肢を持っていなかったのだろう。

 あのときレジの向こう側の人間を無視していたのは、あの子供だけではなかったのだ。

 ──思案が途切れた。雨の音だ。

 みるみるうちに雨音は大きくなっていき、やがて轟音となった。気づけばあの喚き声は、もう聞こえなくなっていた。

 カーテンの隙間から外に目をやると、草木が大きくはためいていた。どうやら強風も吹いているらしい。窓ガラスが、暗い水滴で塗りつぶされる。

 つい数日前、妻に逃げられた日と同じ。土砂降りの大雨だ。

 今度は窓がガタガタと揺れ始めた。ふと我に返ると、自分が数十分もの間流し台の前で直立していたことに気づき、少し可笑しくなった。

 リビングに散らばった座布団に腰を下ろす。頭の中にたゆたう数分前の思惟の残滓が寄り集まり、新たな疑問を形成していく──果たして私たちと彼らの間に、本質的な違いは存在しているのか?

 一つのその候補は、科学的な正しさだ。特に医療や食品などの生活に根付いている分野において、彼らは連綿と積み重なってきた人類の学問の成果を無碍にする。

 しかし私たちは、そのようなデマを敵視する傍ら、宗教に対しては寛容だ。「ある男が水をブドウ酒に変えた」とする言説を批判する人は、「ワクチンが人間をゾンビに変えた」とする言説を批判する人より明らかに少ない。

 とすると、それに加えて社会への害意の有無というのも挙げられるかもしれない。そもそも「デマ」の語義自体、「意図的」「扇情的」というようなニュアンスを孕んだものだ。宗教家が「神が世界を創造した」と言うのと、愉快犯が「ワクチンは人口削減のためのものだ」と言うのでは、明らかに後者の方が悪辣だろう。

 もし、害意に満ちた非科学的な言説が宗教の名のもとにかざされたとしても、それは最早宗教というよりカルトによるデマだ。宗教とそれらとの扱いに違いがあることは矛盾ではない。

 ──しかし、そもそも科学とは信じられるものなのか?

 私たちが当然のものだと見なしている科学の正しさも、実際には彼らと同じく盲信によるものなのではないか?

 思えば、私はDNAが遺伝情報を持っていることを知っているが、それを自分で確かめたことなどない。私は空の上に宇宙があることを知っているが、それを自分で確かめたことなどない。私は地球が球体であることを知っているが、それを自分で確かめたことなどない。

 私はフラットアース説を全く信じていない。しかしそれは、科学へのほとんど盲目的かもしれない信頼があってのことなのだ。

 マスコミの報道やインターネット上のコメントから、教科書の内容、家族や友人の他愛無い発言まで、今まで私が受け取ってきた情報の全てが、もしも何らかの組織によって管理・統制されたものだったのなら? 稚拙な陰謀論さえもが、それに対する冷笑的 な雰囲気をもたらすための罠だったのだとしたら?

 ──馬鹿馬鹿しい。こんなことを考えたところで、時間を無駄にするだけだ。答えが出るわけでもない。

 ともかく、ただ一つ言えるのは、人間の先入観は恐ろしい、ということだ。

 気づけば存在していたそれは、あらゆる情報の解釈に影響を与え、自身の中に真偽を設定する。デマの色眼鏡は科学を唾棄し、科学という偏見はデマを唾棄する。

 もしかするとこれは、人間が周りの共同体や社会にうまく馴染んでいくための、ある種の適応能力なのかもしれない。

 歴史上、考え方の違いというものは、肌の色の違いと同じように、いやそれ以上に、争いの火種となってきているのだ。

 元が曖昧な情報であろうと、自身の先入観からくるその解釈は強固だ。大抵の場合、私たちはほとんど何も考えずにそれを盲信する。そもそも疑うことに意味が無い時も多い。

 だから人は、こうも容易く騙されてしまうのだろう。

 ──雨脚は更に強くなってきた。風が大きく唸る音がする。あの喚き声はもう聞こえないし、窓を叩く音もなくなっていた。

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 ……次のニュースです。沖縄県警はけさ未明、那覇市の自宅アパートで2歳の長女・井上紬ちゃんを3日間放置して衰弱死させたとして、保護責任者遺棄致死の疑いで父親の井上浩司容疑者(25)を逮捕しました。

 井上容疑者は、「妻が出ていったので子供をあやす人がおらず、うるさくて仕事に集中できなかったのでベランダに放置していた」などと供述しており……