Sisters:WikiWikiオンラインノベル/地図クライシス

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 クーラーの壊れた図書室は、窓を開けていても暑かった。まだ昼前だというのに、汗で制服のシャツが張り付いて気持ち悪い。夏休みにもかかわらず学校に来たのは冷房目当てだったのに、これでは宿題も捗らない。僕は頬の汗を袖で拭うと、ノートから目を離して窓の外を見やった。

 青々と葉を茂らせた桜の枝がすぐそこでわずかに揺れている。校舎の二階にある図書室からは、広い運動場の奥の街並みもよく臨めた。青空には立派な入道雲と容赦なく照る太陽があって、家々の黒い屋根が眩しく光を反射している。眼下の運動場では、同じクラスの甲野が一人きりで練習に励んでいた。陸上部の紅一点である甲野はトラックを黙々と走り続け、聞こえるのはその足音とセミの鳴き声だけだった。

 夏休みの図書室に、他の利用者はいなかった。司書の先生もいつの間にかいなくなっている。多分、冷房の利いている職員室に行ったのだろう。僕はシャープペンシルを置いてぐるりと首を回した。

 ふと、部屋の隅に目が留まった。そこは郷土資料の棚で、一度も近づいたことはない。学校の創立以来、誰もそこの本を借りたことはないのではないかとすら思う古臭さだ。そんな棚に並ぶ本と天板との隙間に差し込むようにして、一枚の紙が置いてある。僕は立ち上がって棚に向かった。その紙は太い本の上にひっそりと横たわっており、たまたま目に留まらなければ決して気づかなかっただろう。それはどこか不思議な風格を備えていた。そっと紙を引き出し、埃を軽く払ってみる。A4くらいの白紙に、ペンで四角や文字がたくさん書き込まれている。

 読んでみてすぐにわかった。この紙は、この学校の地図だった。敷地の左半分は運動場で、右半分には校舎が横に二棟並んでいる。どちらも三階建てで、この図書室は左の棟の二階だ。地図には、それぞれの棟の各階の平面図も描かれており、教室の名前も丁寧な筆跡で書き込まれている。地図の左上には方角を示す記号が、右下には一つの目盛りの脇に「50m」という縮尺が書かれている。

 席に戻った僕は、暑さも忘れて地図をまじまじと眺めた。これは誰が描いたのだろう。白紙にペンと物差しで描かれているようで、かなりの手間がかかっていそうだ。顔も知らない誰かの筆跡に、僕は身を乗り出して見入っていた。そのとき、頬を伝った汗が水滴となり、あっと思う暇もなくぽたりと落ちた。雫は、机上の地図の図書室のすぐ横に黒いしみを作った。

「やべっ」

 そう呟いたとき、外から轟音がして僕は椅子から飛び上がった。大雨が降っていた。窓の外は明るいのにどうどうと雨が降り、驚いたセミが調子外れの声で鳴きながら飛んでいった。

「あ、雨?」

 運動場から戸惑う甲野の声が聞こえてきた。これも地球温暖化の影響なのだろうか。僕は驚いたが、地図に垂れた汗を早く拭かねばと、急いでシャツの裾で地図を押さえた。

 すると、ぱたりと雨音が止んだ。外を見ると、何もなかったかのように青空が広がっている。今のゲリラ豪雨は幻だったのかとすら疑ったが、つややかに濡れた桜の枝だけは雨の気配を残していた。窓から外を見下ろして、驚いた。校舎のすぐ隣に巡らされた花壇の土や、運動場との間にある道は黒々と濡れて水たまりができている。しかし、そこだけなのだ。道が濡れているのは正面だけだし、運動場では乾いた土の上で甲野が呆然と空を仰いでいる。雨は図書室正面の道を中心に、直径十メートルほどの範囲だけに降ったようだった。

 いくら異常気象が頻発しているとはいえ、こんなに局所的な豪雨が起こるだろうか。首をひねりながら席に戻ると、地図が目に入った。僕の頭の中で、地図に薄く残った汗のしみが、窓から見た雨の跡と重なった。

 地図も現実も濡れた場所が同じだ。僕は首筋を人差し指でなぞった。馬鹿らしいと思いつつも、手は止まらない。夏の猛暑で僕はべっとり汗をかいている。すぐに指先は十分に濡れた。周りに誰もいないことを確認すると、僕は地図上の運動場の真ん中にそっと指先を押しつけた。

 ざあああああ。反射的に外を見ると、運動場の中心で雨が降りしきっていた。甲野が頭を抱えて逃げている。雨は運動場のわずかな範囲にしか降っていない。空も明るいままだ。指を離してシャツの裾で拭くと、ふっと雨は止んだ。雨の降っていたところの土だけが黒っぽくなり、トランポリンくらいの小さな円を作っていた。ちょうど地図にできた汗のしみと同じ場所に。

 自然と鼓動が高鳴った。もはや偶然では済まされない。この地図は雨を降らせることができるのだ。僕は居住まいを正して謎の地図をもう一度見つめた。どういう原理かは全くわからないが、とにかくこの地図が濡れると対応する現実の場所で雨が降る。しかし、それだけだろうか。

 ふと思い立って、僕はシャーペンを取った。注意深く芯の先を地図上の図書室に当てる。室内を見渡してみるが、特に異常はない。僕は一つ深呼吸をすると、思い切ってシャーペンを滑らせた。シャッという音とともに図書室を二つに等分する線が引かれる。後ろを振り返ると明らかな異常があり、思わず「うわ」と声が出た。数秒前まで確かに何もなかった空間に、真っ白な壁が築かれていた。立ち上がって壁に歩み寄る。ペタペタと触り、コツコツと叩き、ちょっと強く蹴ってもみたが、ビクともしない。正真正銘の壁だった。

 空想が確信に変わった。この地図は現実と連動している。そんなことありえないと叫ぶ理性を、目前に立ち塞がる壁の質感がねじ伏せていた。確かに、この地図は現実を動かすことができる。

 そのとき気づいた。この壁は図書室を入り口側と奥側の二つに分断している。僕がいるのは奥側の半分だ。つまり、図書室唯一の入り口は壁の向こう側にある。すなわち、閉じ込められてしまった。

 地図の降らせた雨のおかげで気温は下がっていたのに、嫌な汗が吹き出した。壁は叩いても蹴っても微動だにしない。二階だし、窓から飛び降りるのも危ない。司書の先生もいないし、叫んでも誰も来ないかもしれない。焦って呼吸が速くなったが、はっと思いついた。席に戻って消しゴムを取り、そっと紙に押し当ててこすり始める。僕は今しがた描き加えた線を慎重に消していった。線が綺麗に消え、振り向くと壁は影も形もなくなっていた。いつもの図書室に戻っている。

 僕はほっとすると同時に、胸が高鳴るのを感じた。クリスマスプレゼントを開けた幼い子供のようだった。この地図は書かれたことをそのまま現実に反映するのだ。これがあればなんでもできる。この学校を自由自在に操れるし、何か問題があれば消せばいい。超自然の能力を独り占めしているという事実に、心が飛んでいくような気分がした。

「さて、まずは……」

 僕は地図にシャーペンを走らせた。運動場の真ん中に大きめの四角を描き、少し悩んでからその中に「時計塔」と書き込む。その途端、外から小さな悲鳴が聞こえてきた。外を向くと、運動場には立派な煉瓦づくりの時計塔がそびえていた。その横で、甲野が呆然と塔を見上げている。校舎と同じくらい高い時計塔のてっぺんには古めかしい時計がついていて、意匠の凝らされた針がガチャリと時を刻んだ。

 甲野はおそるおそる塔に近づいていく。僕は悪戯心を起こして、再びシャーペンを走らせた。時計塔の横にもう一つ四角を描き、中に書いたのは「プール」の文字。書き終えると同時に、ドボンと水音がした。

「プハッ、な、何?」

 運動場を見下ろすと、甲野がプールサイドに泳ぎ着いたところだった。運動場のど真ん中に、時計塔とプール。見たこともない光景に笑いが込み上げてきた。しかし、ずぶ濡れになった甲野が体を震わせたのを見て、ばつが悪くなった。さすがに悪戯の度が過ぎていたか。僕は消しゴムでプールを消した。一応窓から確認しておいたが、ちゃんとプールはなくなっている。それに気づいた甲野が「さっきからなんなのよ!」と叫び、プールのあったところの土を踏みつけている。

 次は何を作ろうか。僕は考え始めた。もう少し運動場に何か建てよう。馬小屋とかどうだろうか。僕はすっかり夢中になっていた。僕はほとんど意識せずに、地図の上の消しカスを思い切りふーっと吹き飛ばした。

 次の瞬間、猛烈な風が吹いた。紙がはためき窓ガラスはがたつき運動場から甲野の悲鳴が聞こえる中、地図はあっという間に窓の外へと吹き飛ばされていく。僕は慌てて手を伸ばしたが、吹きつける突風に思わず目を閉じ、再び開いたときには地図はどこかに消えていた。風はまもなく止んだ。僕は自分の理解が間違っていたことを悟っていた。

 地図は書き込まれた情報を現実に反映するのだと思っていたが、それだけではない。きっと、地図は表面に加えられた一定以上の動きも反映するのだ。今の突風は、僕が地図に思い切り息を吹きかけたから起こったものだ。あの地図は軽々しく扱ってはならないものだった……。

 窓に駆け寄りながら、脳裏には最悪のシナリオが駆け巡っていた。最初に降らせた雨で、窓の外には水たまりができている。風に飛ばされた地図がそこに落ちて水びたしになれば、学校中に豪雨が降りしきるだろう。そうなったら大洪水が起こってしまう。いや、それならまだいい。紙が溶けたりしたら、この学校自体がなくなってしまうかもしれない。

 今のところ洪水は起きていない。つまり、まだ間に合う可能性があるということだ。僕は祈りながら外に身を乗り出した。眼下の水たまりに白い紙は……見当たらない。僕は大きく息をついた。

 だが安心するにはまだ早い。どこかの地面に落ちていたら、誰かが気づかず踏んでしまうかもしれない。そうなったら大地震が起きてしまう。僕は地面にいっそう目を凝らした。急いであの地図を回収しなくてはならない。しかし、地面を隅から隅まで眺めても、地図らしきものは見つからない。どこか遠くに飛んでいってしまったのだろうか。そのとき、何か水音が聞こえるのに気がついた。雨ではない。もっと下の方でくぐもって聞こえる。まるで浴槽にお湯を溜めているときのような……。

 突然、バリンと派手な音がした。首を曲げて左の方を見下ろすと、一階の部屋のガラスが割れ、室内から大量の水が流れ出していた。窓から水とともに司書の先生が悲鳴をあげて流されていく。そこは職員室だった。なぜかはわからないが、職員室から大量の水が溢れ出している。いや、なぜかは知っている。間違いなく地図のせいだ。

 一刻も早く地図を見つけなければならない。僕は必死で辺りを見回したが、どこにも地図は落ちていない。その間にも水の奔流は勢いを増していく。面白半分でこんな悪戯をしてしまったから、ばちが当たったのだ。絶望して空を仰ぐと、地図があった。

 外に植わっている桜の木。その一本の枝の先に、地図は引っかかっていた。風に舞い上がった地図は、コックがピザ生地を指一本で回すみたいに、枝先の一点で支えられている。地図上のその一点は、職員室。先刻の雨で濡れた枝が地図中の職員室を濡らして、その結果、実際の職員室の中だけで雨が降り続いているのだ。

 僕はサッシに足をかけて半身を外に出した。左手で窓枠を掴んで右手を必死に伸ばす。だが、地図にはわずかに届かない。そうしているうちにも水は流出し続ける。濡れ鼠になった先生たちが続々と校舎から逃げ出してくる。早く地図を取らないといけないのに、ほんの数センチのところで指が空を切る。あと少し、もう少し……。

「何をしてるの? 危ないわよ」

 驚いてそのまま落っこちるところだった。桜の木の根元で、甲野がタオルで髪を拭きながらこちらを見上げていた。水の噴き出す職員室を見て不思議そうな顔をした甲野は、僕にもう一度声をかけてきた。

「何か取ろうとしてるの? あ、その木に引っかかってる紙?」

 僕が運動場で遊んだせいで感覚が麻痺しているようだ。同級生の奇行や噴水の出現くらいでは驚かないらしい。申し訳なく思った刹那、閃いた。僕は室内に取って返し、シャーペンを拾い上げると下に叫んだ。

「甲野!」

「何よ」

「今からこの紙を落とすから、キャッチしてくれ!」

「え? まあ、いいわよ」

「絶対落とすなよ!」

「わかったわ」

 僕はもう一度身を乗り出すと、持ったシャーペンを突き出した。思い切り腕を伸ばすと、ペン先がわずかに紙に触れた。そのまま手首を振る。ペシリと紙が弾かれ、地図が枝から離れた。そのまま地図はひらひらと舞い降りていく。僕は固唾を呑んで不規則に落ちていく地図を目で追った。紙は右に左にひらひらと軌道を変え、それに合わせて両手を広げた甲野も左右に蟹歩きする。職員室の水音が止んだ。静かになった世界で、地図と甲野の動きだけが見えた。遂に地図が甲野の目の前まで落ちてきたそのとき、地図は空中でくるりと翻って一瞬だけ静止した。その瞬間を逃さず、甲野は勢いよく両手で地図を挟み込んだ。

「えい!」

 バチン。

 すぐさま強烈な縦揺れが襲い、僕は空中に投げ出された。落ちると思う間もなく背中に衝撃が走る。甲野が悲鳴をあげてその場に座り込んだ。

「地震⁉︎」

 数秒グラグラと揺れ続けたあと、地震はおさまった。その両手で地図を叩いたからこの地震が起こったとは、甲野は夢にも思うまい。

「大丈夫⁉︎ 怪我はない?」

 甲野が地図を持ったまま僕の顔を覗き込んできた。僕は真下の花壇に落下していた。柔らかい土のおかげで、背中は泥まみれだが怪我はないようだ。地図は甲野が無事にキャッチした。どうにか助かったと身を起こした途端、不穏な音が響き渡った。

 運動場の真ん中にそびえ立つ立派な時計塔。僕が建てたその塔が、ギギギと軋んだ。そして根元の一角の煉瓦ががらりと崩れると、塔はゆっくりと傾き始めた。ちょうど僕たちの方へ。僕も甲野も動けなかった。轟音とともにみるみる大きくなる塔の影は、僕らに覆い被さってくる。

 そのとき、僕は自分がシャーペンを握っているのに気づいた。地図を落としたまま持ち続けていたのだ。塔が倒れる。その直前、僕は両手で甲野の手を取った。固く目をつぶった僕らを衝撃が襲った。

「……あれ?」

 おそるおそる目を開けた僕らは、両手を握り合ったまま周囲を見回した。巨大な塔が僕らを押し潰す代わりに、巻いた絨毯ほどの小さい塔が僕らの膝の上に倒れて砕けていた。手の平サイズの時計と極小の煉瓦が足元に散乱している。それだけではない。背中に何か当たっていると思ったら、校舎だった。甲野の半身は運動場にはみ出している。

「……何が起こったの?」

 僕は崩れた塔をそっとどかした。甲野の膝に乗った塔の破片も払う。甲野は呆然と校舎を見ていた。三階建ての校舎の屋上は、座った甲野の頭くらいの高さしかない。運動場は教室ほどの大きさに縮まり、僕らは校舎と運動場の狭い隙間に身を詰め込んでいた。

「わたしたち、巨人になったの?」

「ううん、逆だよ」

 僕は甲野の手を引いて立ち上がった。甲野はぽかんと辺りを見渡した。僕らの足元にはミニチュアとなった学校。その周りには更地が広がり、先生たちが唖然としてこっちを見ていた。ずぶ濡れの司書の先生もいる。そして、それらの向こうにはいつも通りの大きさの街並みがあった。

「……つまり、学校が縮んだってこと?」

「そういうこと」

 甲野は困ったような目で僕を見た。僕は校舎と運動場の隙間に体を押し込み、深々と土下座した。

「この度はご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした!」

 ますます困惑の色を強くした甲野は、

「よくわかんないけど、とりあえず反省してよね」

と言い渡すと、どうすんのよこれ、と呟いた。

 甲野が持ったままの地図には、縮尺に小数点が加えられて、「5.0m」と書かれていた。

 僕はもう変な地図で遊ばないことを固く誓うと、学校を元に戻すために消しゴムを探し始めた。