Sisters:WikiWikiオンラインノベル/安らかに眠れ

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 失ったものは返らない。今からどんなに嘆いても喚いても、もう手に入れることはできない。物も、事も、そして人も。いつだって、それが永遠に手の届かないところへ行ってしまってから、私は悔やむのだ。だがもうどうしようもない。父は目を閉じて横たわっている。昨日までは矍鑠としていたのが噓みたいだ。父の穏やかな顔に違和感がある。いつもは寄りっぱなしの眉間の皺がなくなっているからだ。胸の前で組まれた両手にも、私は強烈な作為を感じた。綺麗に梳かれた白髪にも、随分小さくなったように見える体にも。目の前に横たわっているのは全くの別人なのではないかという気分がしてくる。だが、それはまぎれもなく父なのだ。目の奥から熱いものがこみあげてくる。私は目尻を拭いもせず、そっと父の額に触れる。失ったものは返らない。できるのは祈ることだけ。だから私は心の中で強く祈る。安らかに眠れ、父さん。今はただ、安らかに──。

*        *        *

 思えば私は親不孝な息子だった。父はいわゆる土方で、毎日汗みずくになりながら母と私を養っていた。しかし、幼い私には、朝は眉をしかめて新聞を読み、遅くに帰ってきては酒を飲み野球中継に怒鳴る姿しか見えていなかった。私が何か粗相をすれば拳が飛んでくることも珍しくなかった。対して母は温厚な人で、私は母にばかり構うようになり、甘えた男だとまた父にぶたれた。

 こんなこともあった。小学校の何かの授業で、親の職業について発表しろというのだ。周りの友達は銀行や魚屋や動物園といった、親の仕事場に連れていってもらうという。それで私も、父の仕事場に行かせてくれと、いたって気安く頼んだ。しかし父から返ってきたのは、強い言葉だった。

「馬鹿野郎! 子供が入っていい場所じゃねえ。遊び場じゃねえんだぞ!」

 その剣幕があまりに激しかったから、学校の宿題なのだとついぞ私は言い出せなかった。結局、発表は誰でも知っているようなことを並べただけで、随分とみじめな心地がしたのを覚えている。

 やがて私は中学校に入学した。反抗期に入るまでもなく、父と交わす言葉は少なくなった。ときどき喧嘩もしたが、その度に母が心底困ったような悲しんでいるような顔をするから、高校に入る頃にはしなくなった。だが、東京の大学を目指すことに反対されて、私と父は激しく対立するようになった。私の進路の話になると、必ず大喧嘩になった。私は東京に出て法律を勉強するんだと言ってはばからず、父はせめてここから通えるところに行け、さもなくば学費は出さんと怒る。互いに歩み寄らない平行線の怒鳴り合いは、最後には父が手をあげるか私が席を立つかで終わるのだった。結局こうなるのだからと、次第に進路の話などしなくなり、やがて喧嘩することもなくなった。私は学費を稼ぐために新聞配達のアルバイトを始めた。私は黙って勉強とアルバイトを続け、父は何も言わず目も合わせない。そんな日々が一年ほど続いた。いざ受験が近づいてくると、金がやはり足りなかった。新聞配達で高校生が稼げる額など高が知れている。学費を賄うどころか入学金に充てるのがやっとというほどしか貯められなかった。仕方なく、本当に仕方なく、私は父に頭を下げた。学費を払ってくれ、いつか必ず返すから、と。すると父はぶっきらぼうに「わかった」と言った。にべもない返事をされると決め込んでいた私は、肩透かしを食った。顔を上げると、父は顔の前で新聞を広げていた。その奥から「返せよ」と固い声で言われた。私がどう答えたかはよく覚えていない。ただ、その会見で二人が目を合わせることは終始なかったのは確かだったと思う。

 結局、私は第一志望には受からず、滑り止めの大学に進んだ。華の東京とは思えないような、東京の端の辺境だった。下宿探しや各種手続きは母が手伝ってくれた。父がそこに来ることはなかった。私は大学生になり、一人暮らしが始まった。苦労も相当にあったが、そこには確かな解放感があった。同じ高校から来た数人を中心に、交友関係も広がっていった。私は随分と楽しんだ。一年目の盆と正月には帰らなかったくらいだ。父を嫌っていたわけではない。そのような能動的な感情ではなかった。疎ましかった、といえばいいだろうか。父と離れて暮らしているのに、また近づくことに意義を見出せなかった。だが、母から寂しそうな年賀状が届いたから、来年からは実家に帰るようにした。久しぶりに会う父だったが、特に変わったような気はしなかった。見慣れた頑固な渋面で、新聞を広げるか野球中継に野次を飛ばすかしている。母は口うるさく生活のことを聞いてくるが、父は仕事から帰ってきても黙っていた。かつてのように喧嘩することはなかった。そもそも会話が少なかったのが大きな理由なのだが、父と離れたことで、何か自分が寛容になれた気がしていた。二十歳になった年の盆、一度酒に誘われたことがあった。父が風呂から出て母が入れ替わりに入った時だった。父は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、そこで私に「飲むか?」とだけ聞いた。食卓で漫然とテレビを眺めていた私は、咄嗟に「あまり好きじゃない」と断った。父は「そうか」とだけ言い、ちっぽけな縁側に向かった。少し心が痛んだ。酒は嫌いではなかった。いつの間にか私の方が背が高くなっていた。

 やがて私は下宿先からほど近い電化製品メーカーに就職を決めた。決して大きな会社ではなかった。その頃はいわゆる就職氷河期で、小さな企業でも就職が決まって本当にホッとしたものだ。中途半端に辺鄙な立地が幸いしたのかもしれない。働き口が決まった報告も、最初は父にはしなかった。私が意図的に平日の昼間に電話をかけたのだ。狙い通り一人在宅していた母に話し、母は素直に祝福してくれたが、父が帰宅したら電話をかけさせると言った。できれば話したくなかったが、事前に言われていれば電話を取らないわけにもいかない。何を言われるかわからないとひるみながら、夜、覚悟を決めて鳴った電話を取った。固く強張った父の声が電話越しに流れてきた。電話線を通る中で声が変成しているのと、二人差し向かいで逃げ場のない状況であるのが相まって、父の声はいつもに増して無愛想だった。もっとも、それは私も同じだったかもしれない。挨拶も抜きに、父は言った。

「就職、決まったそうだな」

「うん」

「電灯を作っとるんだったか」

「うん。それだけじゃないけど」

「そうか。……お前も、電灯なんかを作るんか」

「いや。俺は営業」

「そうか」

「うん」

「……まあ頑張れや」

 それだけだった。大方、母にせっつかれて渋々電話をかけたのだろう。声音には不機嫌そうな色が交じっていたが、それはどこか作ったような色だった。話はものの一分くらいで終わった。思えば、父との電話はそれが初めてのことだったかもしれない。

 働き始めるのに合わせて私は今までの下宿を引き払い、新たにアパートを借りた。仕事はそれなりに楽で、それなりに厳しかった。その年の盆休みには、自分の金で母の好きなケーキを買った。母はいたく喜んでくれ、「おいしいでしょ、お父さん?」と笑いかけ、父は少しだけ首を動かした。随分と白髪が目立つようになっていた。同じ頃、払ってもらった学費のことを父に切り出すと、母が耳ざとく聞きつけて、「いいのよ返すなんてしなくって。ねえお父さん?」と割り込んだ。父は曖昧に何か呟くと、私を見て「もらっとけ」と言い、新聞を閉じた。私が感謝の言葉を口にすると、手を大儀そうに振って仕事へ向かった。いつもより少し早い出立だった。

 三年目にもなると、社会人としての生活もだいぶ馴染んだ。妻と会ったのはその年だった。彼女は新入社員だった。翌年に私は転属され、その課に彼女はいた。交際し始めたのはその二年後、プロポーズしたのはそのまた二年後だった。二人で私の実家に挨拶しに行くとなった時、私はやはり不安だった。最近は衝突していないとはいえ、進学をめぐって大喧嘩した父の姿がまだ印象深かったのだ。何を言われるかわからないと私は内心怯えていた。私たちと両親の会見は、表向きは和やかに進んだ。母は朗らかに接し、妻もリラックスした様子だった。ただ、父は口をあまり開かず、母に水を向けられた時だけ短い相槌を打つ程度だった。私は明るく振る舞いながら、内心は父が何と言うかと緊張していた。あるいは何も言わないつもりだろうか。だがそれも印象を悪くする。口を開いてほしいような閉じていてほしいような、私は膝を固く握るほかなかった。買ってきた菓子もなくなり、会見もそろそろ終わりかという雰囲気が漂った時、唐突に父が妻に話しかけた。居住まいを正す妻をまっすぐに見つめ、父は頭を下げた。

「なんか悪いところがあったら取り替えてもいいですから、息子をよろしくお願いします」

 そんな取り替えるだなんて、と慌てる妻を横に、私はただただ衝撃を受けた。あの無愛想な父が、芯の通った声がそんなことを言い、頭を下げている。ああ、この人は私の父親なのだ、と馬鹿みたいな感慨を覚えた。だがそうとしか言えない。父も父なりに私を想ってくれていたのだと、私は今更ながらに気がついた。それはあまりに今更のことだった。私はこれから自分の家庭を持とうとしている。つまり、息子という立場を卒業しようとしているのだ。その想いをなぜもっと早く見せてくれなかったんだ。私があなたの息子であるうちに。拳に強く握られたズボンが、くしゃりと音を立てた。

 私たちは籍を入れ、三年後には娘が生まれた。妻は結婚を機に退職していて、私は課長に昇進していた。少しばかり責任の重い仕事もするようになり、家では娘の世話もした。おっかなびっくり手を出しては、妻には怒られて手を引くというのが常だったが。夫婦喧嘩がなかったとは言わないが、妻との仲も良好だった。娘はあっという間に大きくなっていった。幼稚園生になってからは、夏休みに実家に帰るようになった。初孫に母は目に入れても痛くないような溺愛ぶりだったし、父も愛想は悪いながらも可愛がっているようだった。子供の成長は速いものだった。いつの間にか小学校で勉強するようになり、一人で風呂に入るようになり、自分の財布で買い物するようになっている。親の自分を追い越すんじゃないかと思ってしまうほど、みるみるうちに娘は成長していった。

 一方、父は定年退職を迎えていた。四十年近く働いた現場を引退し、夫婦で年金生活を送っていた。しかし、ある時母が怪我をした。足を踏み外して縁側から落ち、足首を痛めたのだ。幸い軽い捻挫で済んだが、それを契機に、新しい家に移り住まないかという話が持ち上がった。両親の住む家はもう古く、バリアフリーも何もない。一方私たちはまだアパート暮らしを続けていたが、娘も大きくなって自分の部屋を欲しがるようになった。そこでこの際、二世帯で一つの一軒家に移るのはどうか、ということである。この案には妻も快く賛成してくれた。父は私たちへの遠慮と長く住んだ土地を離れることへの抵抗があるようだったが、母が怪我をした直後とあっては断るのも難しく、最終的には受け入れた。こうして私たちは、借家だが一軒家に住むようになった。この時娘は中学生になったばかりだった。

 突然の引っ越しと新しい家族に、真っ先に適応したのは娘だった。自分の部屋を手にしただけでなく、祖父母と共に住めるということで、随分とはしゃぎ回っていたものだ。私が一番心配していたのは父だった。何十年と続いた生活ががらりと変わって、あの頑固者はストレスを抱えたりしないだろうか。しかし、だいぶ広くなった食卓で相変わらず新聞を広げる姿を見て、私は安堵した。父と同居するのは大体二十五年ぶりのことで、懐かしいようなこそばゆいような心地がしたものだ。

 しかし、長年住み慣れた土地を離れるというのはやはり大きいことである。近所付き合いがリセットされ、特に父は活動がめっきり減った。仕事を辞めてから、野球観戦の他に趣味のない父はただでさえすることが少なくなっていた。それに追い討ちがかけられ、老眼鏡をかけて朝刊を一日中眺めているような日も増えた。まだまだ矍鑠としているとはいえ、お年寄りの活動の減少は、呆けの進行にもつながる。なんとか外出させたいと思い、ゲートボールやら卓球やらプールやらを勧めてみたが、根が頑固なものでなかなか定着しない。外に出るとはいかないまでも、何か刺激を受けられるような趣味を見つけてやれないだろうか。私や妻が気を揉む中、突破口を開いたのは娘だった。

 娘はそのロックバンドをネットで知ったらしい。外国のスリーピースバンドで、世界的に人気らしい。すぐに娘はそのバンドのファンになり、CDやポスターを買い集めだした。妻もわりあい好いているらしい。娘は私にも曲を聞かせてきたりしたが、あまり色よい反応をしなかったら、今度は父に聞かせ始めた。今まで演歌と球団応援歌くらいしか聞いたことがないだろう父に聞かせても無駄だと思っていたが、意外や意外、どうもお気に召したらしい。よく娘と一緒に曲を聞いたりライブ映像を見たりするようになった。どこを気に入ったのか一度聞いてみると、「声が大きくて耳が遠くても聞こえるんだ」と照れたように笑っていた。父が最近の音楽を好きになるとは、正直言って驚いた。

 だがライブに行くことになるとは思いもしなかった。夏休みの頃、そのバンドがワールドツアーを敢行し、来日もするのだという。娘は抜け目なくチケットに応募し、見事に券二枚をゲットした。倍率からすれば快挙といえる。娘はもちろん行くとして、あと一人は誰が行くのか。そこで娘が選んだのが、父だったのである。当初、父はやはり固辞した。母親と行けばいいとか、同年代の友達を誘ったらどうかとか。しかし、父を外出させたい私や妻が協力を頼んだ結果、娘はおだてと懇願を繰り返して外堀を着実に埋め、最終的には拝むようにして父の同行を取り付けたのだった。いくら孫とはいえあの頑固親父を懐柔してしまうとは、私は娘の交渉の才を確信したのだが、これは親馬鹿というものだろうか。

 これで父は新しい刺激を得られる。趣味が与える人生の彩りというのは、馬鹿にならないものだ。父は充実した生活を送れるだろう。そう私は浮かれていたのだ。それが悪かった。

 ライブの前日、私は父を散歩に誘った。母は近くのスーパーに、妻は明日の同窓会の支度に余念がない。娘は友達らしき相手と長電話していた。周りが忙しそうだと己の手持ち無沙汰が解消しなければならないものに思えるものだ。そこで私は近くの川辺でも歩こうかと思い立ち、ついでと父にも声をかけてみたのだ。父は新聞越しに聞いていたが、徐に新聞を閉じて立ち上がった。私と父は並んで道を歩いた。不思議な気分だった。ほんの小さな子供に戻った気がした。背丈もとっくに越したというのに、父の背中はずっと広いようだった。夏の日差しは薄くなってきた頭を刺し、川の水は力なく流れていた。ただ草が青々と茂っていた。川辺を折り返した頃に、明日の予定を少し話した。

「わしみたいなジジイが行くと迷惑じゃないか」

「そんなこと気にせず楽しめばいいのさ。好きなんだろう? あのバンド」

「声がでかいから耳が遠くてもよく聞こえるんだ」

「前も聞いたよ」

 帰り道、家に着こうかという時だった。どさりという音が唐突に後ろから聞こえた。振り返ると父が路面に倒れていた。油断していたのだ。精悍な体をしていて年老いても矍鑠としているから、気づかなかった。父が病気をするなど、想像もしなかった。そこにいたのは、ただの老人だったというのに。気がつくことができなかった。急いで抱え起こしても、幾度も名前を大声で呼んでも、父は目を開けなかった。

*        *        *

 失ったものは返らない。それを想うことは、しかし止められない。動かない父の前で、私はまた目頭に手をやった。もっとよく様子を見ていれば。外に連れ出さなければ。いや、そもそも新たな趣味なんかにこだわらなければ……。しかしどんなたらればも意味をなさず、ただ祈ることしか私にはできない。私は祈り続ける。安らかに眠れ、今はただ安らかに──。

 がらがらとドアの開く派手な音がして、私の涙は引っ込んだ。振り返ると、娘と母が病室に入ってくるところだった。

「おじいちゃん元気?」

「帰りましたよおじいさん」

「しいっ、声が大きい」

「あっ寝てるのね」

「馬鹿、もう起きちまったわい」

 そう言ってベッドから身を起こそうとする父を、私は慌てて押しとどめた。

「だめだよ寝てないと」

「もう平気だわい」

 熱中症だった。幸い軽く済んだが、念のため今日まで入院することになっている。体を休めるためにもゆっくり寝ていてほしかったが、本人にその気はないようだ。

「そんで、ライブはどうだったんだ」

「とってもすごかったよ! あのね、まず音がすごく大きいの」

 身を乗り出して口早に語り出した娘を、母はニコニコと見守っている。父が行けなくなったぶんは、母が代わりに出かけていた。妻は同窓会に出かけている。随分と父のことを気にかけてくれていたが、医者がちゃんといるし私も残ると言って聞かせ、送り出した。

 しかし、大事に至らなかったとはいえ、父の昏倒は悔やまれた。海外バンドの日本ツアーなど、滅多にないはずだ。それに父は行けなかった。この機会はもう訪れないかもしれない。失ったものは返らない。父の不遇を思うと、悔しくて悲しくてたまらなくなるのだ。

 そんなことを考えていると、娘が朗らかに言った。

「ライブの最後に、来年また日本に来るぜって言ってたの! だから、来年はおじいちゃんも一緒に行こうね! おばあちゃんも行くでしょ?」

「もちろんよ。お母さんも誘いましょうね。同窓会と日程が被っていて、とっても残念そうにしてたから」

 二人に笑顔を向けられた父は、ついと目を逸らし、ぼそりと呟いた。

「じゃあ家族五人で行くか。どうだ?」

 父は誰も見てはいなかったが、誰に向けられた言葉か、私にはよくわかっていた。

 だから私は父の顔を覗き込んで言ってやった。

「そうしよう。いろいろ教えてね、父さん」

 父はきょろきょろとベッドの周りを見渡したが、新聞はこの病室のどこにも置いていないようだった。