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===元首制の確立===
===インドの古代文明===
プトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、地中海に覇を唱えたオクタウィアヌスは、遂に元老院から'''アウグストゥス(尊厳者)'''の称号を得るまでになった。共和政の理念を損なうことを嫌ったオクタウィアヌスは、'''プリンケプス(第一人者)'''を自称し、'''元首制(プリンキパトゥス)'''を開始したが、実際のところこれは帝政と変わりないものであった。これより約200年間続くローマ帝国の最盛期を、'''「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)'''と呼ぶ。
南アジアにおける最初の文明は、'''インダス川'''流域に分布した'''ドラヴィダ系'''民族の青銅器文明・'''インダス文明'''であり、中流域パンジャーブ地方の'''ハラッパー'''や、下流域シンド地方の'''モエンジョ=ダーロ'''など、計画的に建設された都市の遺跡が残されている。インダス文明の衰退後は、カイバル峠を通って'''アーリヤ人'''がパンジャーブ地方に進入・定住した。ここから始まるのが、'''ヴェーダ時代'''である。アーリヤ人は自然崇拝を行い、その知識をヴェーダに記した。特に最古のヴェーダを'''リグ=ヴェーダ'''と呼ぶ。また、ガンジス川上流域への移動以降は、肥沃な土地で農耕を行うようになったことで、階級の体系的分化が起こった。'''ヴァルナ制'''である。これによって'''バラモン(司祭)''''''クシャトリヤ(武人)''''''ヴァイシャ(庶民)''''''シュードラ(隷属民)'''という四つの身分と枠外の不可触民が定められ、中でもバラモンは高い権威を纏って'''バラモン教'''を成立させた。また、ここに血統集団である'''ジャーティ'''の考えが結びつくことで、'''カースト制度'''が形成されていくこととなる。
 
===五賢帝時代===
'''五賢帝'''と呼ばれる五人の皇帝が統治したおよそ100年の間、ローマの繁栄は凄まじいもので、対外貿易では「ヒッパロスの風」を利用したインド洋との'''季節風貿易'''によって絹や香辛料を多く手に入れた。五賢帝には、元老院との調和を重んじ、実際の血縁でなく養子関係を通じて帝位を移したという特徴がある(これは実際には形骸的なものであったともされる)。五賢帝最初の'''ネルウァ帝'''は前帝の強硬的なやり方から翻って元老院との協力体制をとった。高齢で即位したため、帝位はわずか二年と短い。ニ番目の'''トラヤヌス帝'''は初の属州出身の帝で、ダキアを属州化しローマ帝国の最大版図をつくった他、ロンドン・パリ・ウィーン等を建設した。三番目の'''ハドリアヌス帝'''は、ブリタニアにハドリアヌスの長城を築いた。四番目の'''アントニウス=ピウス帝'''は、大してなんもしてない。そして最後の'''マルクス=アウレリウス=アントニウス帝'''は、「哲人皇帝」とも呼ばれるストア派の哲学者で、自著『自省録』を持つ。また、「大秦(ローマ)王安敦」として後漢に使者を送ったとする記述が『後漢書』にみられる。
 
===3世紀の危機===
五賢帝体制以降、各地方で独自に皇帝を擁立して争う'''軍人皇帝'''の時代が始まった。この時期には混乱が続き、ササン朝のシャープール王に軍人皇帝ウァレリアヌス帝が捕虜とされてしまうという事件さえあった。また、属州を作って領土を拡大することにも限界が訪れ、これによる戦争捕虜の不在は奴隷不足を誘った。奴隷を主な労働力としていた農場・ラティフンディアに代わって、'''コロヌス(小作人)'''を用いた'''コロナトゥス'''という新しい形の農場経営形態が拡大した。また、軍の兵力や税収の維持のため、属州にローマ市民権を拡大する動きが高まった。'''カラカラ帝'''は、'''アントニヌス勅令'''によって帝国のすべての自由民にローマ市民権を与えた。これに伴い、ローマ法は市民法から万民法へと変化した。
 
===帝国の東西分割===
ローマ帝国の混乱を収束に導いたのは、'''ディオクレティアヌス帝'''だった。彼は帝国の東西にそれぞれ正副二名の皇帝を配置する'''四帝分治制(テトラルキア)'''によって政治的秩序を復活させ、政治体制を元首政から強力な軍隊と官僚のもとで皇帝を神として礼拝させる'''専制君主政(ドミナトゥス)'''に切り替えた。また、キリスト教徒への大迫害も行った。死後には四帝分治制が崩壊し内戦状態に陥るが、次の'''コンスタンティヌス帝'''が帝国を再統一した。コンスタンティヌス帝は、コロヌスの土地緊縛令をはじめとした身分・職業の固定化や、'''ソリドゥス金貨(ノミスマ)'''の発行によって経済の回復を促した。コンスタンティノープルへの遷都も行った。また、'''ミラノ勅令'''によってキリスト教徒を公認し、'''ニケーア公会議'''を開いて正統教義を定めた。しかし小康状態も長くは続かず、属州の相次ぐ反乱や'''ゲルマン人の大移動'''によって帝国は混乱に陥る。キリスト教の国教化などを行った'''テオドシウス帝'''は、395年、ここでローマ帝国を東西に分割。西ローマ帝国はその後、ゲルマン人傭兵隊長の'''オドアケル'''によって476年に滅亡した。
 
===キリスト教の発展===
ユダヤ教パリサイ派の形式主義への批判や、神の絶対愛・隣人愛の啓蒙を行った'''イエス'''が処刑された後、彼が復活したという信仰から、キリスト教が成立した。ペテロやパウロら使徒による伝道活動によってキリスト教は徐々にローマ全土に広がったが、皇帝礼拝を主張する皇帝側と衝突し、'''ネロ帝'''や'''ディオクレティアヌス帝'''による迫害を受け、教徒たちは地下墓所・'''カタコンベ'''での礼拝を余儀なくされた。なお、この頃成立し、コイネーで書かれた'''『新約聖書』'''が彼らの経典であった。313年のミラノ勅令による公認の後開催されたニケーア公会議では、キリストの神性を主張した'''アタナシウス派'''が正統教義とされ、キリストは人間であるとした'''アリウス派'''は異端とされた。こののちアタナシウス派は三位一体説に発展し、アリウス派はゲルマン人に伝導された。『告白編』『神の国』を著した'''アウグスティヌ'''スをはじめとする教父らの活躍は、後の進学の発展に寄与した。その後、「背教者」と呼ばれる'''ユリアヌス帝'''による多神教復活の企みが潰えたのを経て、ついに392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教とした。'''エフェソス公会議'''では、キリストの人性を強調した'''ネストリウス派'''が異端となり、これは西アジアに渡って唐では景教として広まった。続く'''カルケドン公会議'''では、キリストが神性と人性の二つを併せ持つことを否定する単性論は異端であると決定づけられた。
 
===ローマの文化===
ローマ帝国は、地中海世界全体にギリシアから連なるローマの文化を広めた。ローマの実用的文化は、土木建築技術に著しく現れている。カラカラ帝の浴場やコンスタンティヌス帝の凱旋門、コロッセウム(円形闘技場)、パンテオン(万神殿)、アッピア街道、ガール水道橋などである。その他文化の第一人者たちは、以下のようになっている。
{|class="wikitable"
!文化!!人物!!主著
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|rowspan="3"|文学||'''ウェルギリウス'''||'''『アエネイス』'''(ローマ建国叙事詩)
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|'''ホラティウス'''||『叙情詩集
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|'''オウィディウス'''||『転身譜』『恋の技法』
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|rowspan="6"|歴史・地理||'''ポリビオス'''||『歴史』
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|'''リウィウス'''||'''『ローマ建国史』'''
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|'''カエサル'''||'''『ガリア戦記』'''(ラテン散文)
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|'''タキトゥス'''||『年代記』'''『ゲルマニア』'''
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|'''プルタルコス'''||'''『対比列伝』『英雄伝』'''
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|'''ストラボン'''||'''『地理誌』'''
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|rowspan="3"|哲学・思想||'''キケロ'''||『国家論』
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|'''セネカ'''||『幸福論』
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|'''マルクス=アウレリウス=アントニヌス'''||'''『自省録』'''
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|rowspan="2"|自然科学||'''プリニウス'''||'''『博物誌』'''
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|'''プトレマイオス'''||『天文学大全』('''天動説''')
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|法学||トリボニアヌス||『ローマ法大全』
|}
{{こひあ}}
{{foot|ds=ろおまていこくのこうほう}}
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