Sisters:WikiWikiオンラインノベル/養育⑴


 1


 行ってみると、薫は物憂げな表情で本を読んでいた。白くて細い指。すらりとした薄い身体。長い睫毛。切子細工を思わせるようなその造形は、小難しい哲学書を捲るのにぴったりだと私は思った。

 淡い――というのは間違いだ。夏の陽射しに似たこの鮮烈な期待に、無視を決め込むことは私にはどうしてもできなかった。

 旧い校舎には二人きりのようで、私は踊り場に置かれた時計のように彼を見つめた。彼が動き出す。首に手を遣り、文字から顔を上げるその中途で、入り口で立ち竦んだ私を発見する。彼は私に微笑む。私の名を呼ぶ。私はその、期待を握り潰す作業すら放棄して、浮き輪に身を任せたまま流されるように彼に近づく。彼は栞を挟んで本を閉じ、私の目を真っ直ぐに見つめる。ちらちらと午後の陽を反射するその虹彩は、まるで新月の川のようで、私は刺すように冷たいが何処か心地よいその川底まで、一気に引き込まれてしまう。息が詰まり、私は目を瞬く。

 期待は殺さなければならない。さもなくば私は、期待に殺されてしまう。

 彼を見つめ返していると乾燥した地面に現れた罅に沿って液体が浸透して行くのを何時間も見ているような気持ちになる。町の模型を俯瞰して水が供給されて行く様子を観察しているような気持ちになる。彼の声は丁度今窓から入って来た小春の風のように澄んでいる。彼の声は耕した花壇にじょうろで水をやるような声だ。

 彼が本を横に置いて、私に正対する。動くと彼の香りがする。清い汗の香り。学ランの香り。干したままの布団の香り。衝立の向こうの希望の香り。

 私は彼の前で完全に無力であって、その快感に似たような事実は、私に全てを諦めさせた。けれど私の脳はその快感と、幸福との区別が出来ないらしい。ああ私は、これから期待に殺されるのだ。

 チャイムがなり、彼が窓を見る。私はチャイムから教会を連想し、自分がウェディングドレスを着ているような気がした。白い重いドレス。春の川のように重い。薫はタキシードを着ている。涙が流れそうなほどの感動を覚える。制御が効かない。

「なんのチャイムだろう」と私は呟いた。さあ、と彼が言う。

 私は彼をじっと見つめた。薫は創作物の中から出てきたかのようだ。そういった、彼のために整えられた場所でしか生きられない人なのだ。私が彼のための物語を描いてあげなければいけない。さもなければ彼は、現実に毒され柵に絡め取られ、きっと耐えられなかったフィラメントのように焼き切れ、暖炉の燃え滓のような遺灰に変わってしまう。助けなければ。守らなければ。私が彼を生かすのだ。

 薫は私の手を取った。大きい手。私は微動だにせず、私の網膜はその景色を映すだけで、私の手の触覚は一方通行の電気信号を脳に伝えるだけで、私の脳はそれらの情報を処理するためにかつて無い速度で動いてるつもりで、何もしないで浮かんでいるだけ。彼は手を握る力を強め、カーテンは小春の風に舞い、それに乗ったサッカー部の基礎練のかけ声が微かに聞こえ、青空が青を手放して私にその大きな手で手渡した。

「高校を出たら、俺を養って欲しい」

 私は脳ではなくその青から受けた信号の命令を忠実に実行し、

「わかった」と小声で答えた。


   2


 それからの事はあまり覚えていない。薫はあの後少しだけ何か言っていたようだったが何を言っていたかわからず、私は薫を見ながら遠くを見ていた。二度、相槌を打った気がする。彼はすぐに教室を出ていき、私は最果てに一人、取り残された気持ちになった。

 私は夢を見ているのかと思って、いっそその窓から飛び降りてしまおうかと思ったが、三階から下を見ると思ったよりずっと高かったし、覚めてしまうのがどうしようもなく勿体なく感じてしまったからやめた。

 外は果てしなく麗らかで、空がどこまでも続いてるような感覚を覚えた。私と同じ人間がこの空の下に何人も居るような気がした。

 私はいつの間にか教室へ戻り、鞄を纏めて通学路を辿った。薫は教室には居なかった。

 通学路はいつも通りだった。あの角には、季節外れのつつじがちらほら咲いている。商店街には程よく人がいる。ブランコとトイレとベンチと砂場だけの小さな公園には大きな楠が生えていて、私はそのベンチに腰を下ろす。あたりをほんのりと染め始めたオレンジが黒に塗りつぶされて行くまで、私はそのまま腰掛けていた。小春日和とはいえ、日が暮れるときつい寒さ。マフラーを取り出して、私は黒タイツ越しの太ももをごしごしと撫でた。少し暖かくなって、そのぶん風の寒さに改めて気づいて、そこで初めて、私はこれが夢じゃないことを理解した。

 家に帰ると、珍しく父親が早く帰っていて、私はただいまと言って部屋に直行すると荷物を置いて風呂に入った。熱いシャワーに打たれながら、私は今日の出来事を振り返った。

 養って、とはどういう意味だろう? 流行りの専業主夫のことだろうか? ついわかったと答えたものの、私は何が何やらわからない。あんな言い方をすると言う事は、やはり普通の恋人とは違うのだろう。そもそもこれは恋人とかのベクトルでは無い事柄なのでは無いだろうか。彼の好意を聞いた訳でも無い。ただ予感だけがあって、それが私に勘違いをさせているのかもしれない。

 考えてもわからないことばかりだったから、明日薫とちゃんと話をしようと一旦結論づけて、私は湯船から立ち上がった。脱衣所で体を拭きながら、私は薫のことを想った。今彼は何をしているのだろう。早めに帰って本でも読んでるのかな。一人部屋で寛ぐ彼を想像すると、私は背筋の心地よいところがぞくりと刺激されて、初めましての感覚に風呂あがりにも関わらず鳥肌が立った。沼に吸い込まれていくような、泥が全身を侵食していくような、そんな快感だった。私はそそくさと夜着に袖を通すと部屋へ戻った。

 ベッドに寝そべりスマホを開くと薫の連絡先を持っていないことに私は気づいた。今まで私と薫を繋ぎ止めていたのは放課後の教室の、あの細やかな時間だけだったのだ。そう考えると私は、自分が細い糸に一生懸命縋っている様を連想した。これは、薫のあの言葉は、私のその努力が報われたということだろうか? 薫の真意はわからない。でも薫はテキトーなことを言ったり、嘘で騙す人じゃない。私たちが、他とは一線を画した、特別な関係だと言うのは、もう事実ではないか。

 そういった結論に至った私はじわじわと、抵抗し難い多幸感に絡め取られた。それは幼稚園の頃、まだそこのベッドの脇に置かれているくまのぬいぐるみをもらった時のような幸福であり、零時を越えてから、口一杯にスイーツを頬張った時なような幸福であり、憧れた第一志望の高校の制服に、初めて袖を通した時のような幸福だった。私は抱き枕に抱きついて身を善がった。私は見慣れた天井を見ながら、自分の頬に触れた。緩みきっている。そんな事実もどうしようもなくおかしくて、私は一人で笑い転げた。一階から、母が夕飯の完成を知らせる声が飛んできて、私ははーいと叫んで、この発作が治まるのを枕に顔を埋めて待った。

 一階に降りると父と母はもう席に着いていて、私はお待たせと言って席に座った。私は食事の間中ポーカーフェイスを貫くつもりでいたが、「何かいいことあったのか?」とすぐに父に訊かれた。それを曖昧にはぐらかす私の顔は緩みきっていたに違いない。


 玄関の扉を開けるとまず最初に、昨日の春の匂いが消えていることに気づいた。庭先の花壇には霜柱が出来ていて、空は薄い灰色で染められていた。車の排気音がやけに大きく響く、空気が薄い朝だった。

 商店街を抜けた信号待ち、向かいの歩道を歩く薫を見つけた。しんしんと積もる雪のような出立だった。いとも簡単に目を奪われたけれども、私は首を振って赤信号に目をやった。赤いドットに形作られた直立の人型を凝視する。青信号になった頃には、薫はもう見えないくらい先へ行ってしまって、私はそれまでしていたような、澄ました顔で通学路を辿った。今日は曲がり角のつつじのピンクも、どこか薄れてしまっているようだった。

 いつも通りの日常は、興味のない映画のように私の眼前を通過した。そういった映画は何の教訓も残さないし、それが良いところでもある。けれど、今日はそれ程良い気分ではいられなかった。ただ時間だけが消費されゆくのは新しい私にとって悲劇でしかない。私は頬を付きながら、いつもは真面目にノートを取る授業を、冷めた目で聞き流した。

 薫は何食わぬ顔で日常を過ごし、それが私を苛立たせた。私を手に入れたのだから、薫は浮き足だって当然なのだ。私にちらちらと目を遣り、その度に気づかれないように顔を赤めて、それを誤魔化す必要があるのだ。午前中の私は、まるで「青い麦」のフィリップのような拙い欲で、機嫌を損ねていた。

 その不機嫌は私に、無謀に似た大胆さを齎した。昼休み、私は友人とご飯を食べようとしていた薫に声を掛けた。

「薫、弁当、一緒に食べよう」

 薫は何か言いたげな様子だったが、私は手をむんずと掴むとクラスメイトの視線を一身に集めながら教室を後にした。薫との関係を仄めかす快感は私の脳を心地良く揺らした。

 階段の影に隠れたこのスペースは、少しじめっとしていた。冷たいコンクリートの段差に腰掛けた私は突っ立ったままの薫を見上げ、座らないの? と聞いた。

「どうして?」

 私は薫の言わんとすることが最初は分からず首を傾げたけれど、それがどうしてここへ連れてきたのかという意だとすぐに察すると、

「一緒に食べたかったの」と出来るだけ澄ました顔で答えた。

 逆光で顔が不明瞭だ。薫は溜息を吐いて隣に座った。

「ねえ、養うってどう言う意味?」

 と私は聞く。誰かが階段を降りる足音が聞こえて、二人はしばらく静かにしていた。足音がどこかへ行ってしまうと薫は、膝の上の巾着袋を解きながら「そのままの意味」と素っ気なく言った。

「そのままの意味って、どう言うこと?」

「お金を稼いで、生活できるようにして欲しい」

 いただきます、と言って薫が箸を取る。私はまだ置いてけぼりで薫のお弁当が減っていくのを見ていた。辺りは土の匂いがして、吐く息は白くて、薫は私に食べないの? と聞く。ううん食べるよと言って弁当箱を取り出したけれど、全然わからない私は少し止まってしまって、薫は怪訝な顔。私はぽつりと言った。

「つまり、一緒に生活しようってこと?」

 薫は少し箸を止めて、うん。私は何だかよくわからないけど笑えてしまってまたまた薫は怪訝な顔。プロポーズみたいだねと口をついて出た言葉は二人の周りこの階段の影小さな聖域に暖かな陽射しを当てて昨日の小春が戻って来たみたい。その熱のせいか薫は顔を少し赤くしながら外方を向く。私は喜んで、と言い弁当を食べ始めた。それはもう聞いたよ、と薫が言った。黙々もぐもぐ。

「恋人らしいことがしたい」

 私がもう直ぐ食べ終わるかと言うところで言うと、先に食べ終わっていた薫はすくと立ち上がり、学校ではやめようと言った。そしてすたすたと去っていくその後ろ姿を見て私は残念に思いつつも今日のことを反省しながら、輪郭の掴めない幸せの中で悶えていた。

 最後まで残していたお弁当仕様の小さなハンバーグを口に放り込んで、私は教室に戻った。

 席に着くと友人たちが近づいて来て私のテーブルを囲い、興奮気味に、薫くんと何かあったの? と聞いてきた。いくつか他のグループも遠巻きに私を見つめているようで、私は人々の関心を集める快感に暫し身を浸した。ちらりと薫を盗み見る。彼は窓際で静かに本を捲っている。私は先刻手渡された覚悟を以て、いや、何も無いよと笑顔で答えようとしたものの、やはり隠すことは叶わず、込み上げて来た赤に顔を染めて俯くばかり。周囲のテンションが上がって行くのが俄かにわかり、私は居た堪れない気持ちになった。

 その放課後、学校近くの喫茶店、仲の良い四人に半ば強制的に連れられ、薫について根掘り葉掘り聞かれた。元々乗り気で無かった私は上手に喋ることができなかったように思うけれど、そういうことに無限に飢えた少女達には、私の話し手としての技量など些細な問題だったらしい。大変盛り上がった挙句、漸く解放された時には外は薄ら暗くなる時間帯だった。帰り道が同じ方向だった友人は他の理由で早めに帰ってしまっていたから、私は一人家路を急いだ。


 3


 次の日、春の匂いはいくらか戻っていて、それは人々に、その一日の退屈を予感させるような暖かさを伴っていた。道行く人も歩みは遅く、空に浮かんだ雲もどことなく緩慢に流れているようだった。しかし私はそれを横目で見ながらも、いつもより大分早い時間に家を出て、早足に学校へと向かった。特に急ぐ理由も無いのに、微妙なタイミングで突っ込んで来る車だったり、目の前で下りてゆく踏切だったりに苛立ちが積み重なっていくようで、赤く点滅した遮断機を前にして、私は両手で優しく自分の頬を打った。

 どうしてこんなに、緊張してるんだろう? 家を早く出たのは思いつきだった。いつもより少し早く目が覚めたから、自然とそんな気になっただけだ。歩みが早くなるのも、最初は時間帯が早く人が少ない通学路が開放的だったからだろうと考えていた。でもそうではない。私はたった今、自分が不自然に緊張していることに気が付いたのだった。カンカンカンカン、という耳障りな音とともに、眼前を電車が通過する。轟音の中で、薫からの告白の直後に感じた孤独を、私は俄かに思い出していた。そうしてぼんやりとその電車を見ていると、乗っている乗客の中に、窓に凭れ掛かる私が居たような気がして、きっと、その窓を追って右を見た。遮断機が上がってもしばらく、私はその場に立ち尽くしてた。


 自分の席に座り、私はふうと息を吐いた。私はもともと登校するのは遅い方ではなかったから、いつもより少し早いだけだと思っていた今日の登校だったけれど、教室には一番乗りであった。私にとっては初めての出来事だったので、誰もいない教室は最初は落ち着かなかったけれど、昨日の空気をいくらか残した、まだ日差しや生徒たちの体温に暖められる前のひんやりとしたそれは、上気した頬を冷ますのには丁度いいのかも知れない、と私は思った。

 私は冷たい机に顔を伏せ、固い冷たいメラミンに額を二、三打ち付ける。ぐったりと力を抜いて、私は窓の外を見た。外はもう十分明るい。誰かやって来るのが見えるかも知れない。

 席を立ち、窓を開け放つ。桃色の風が吹いて、私の緊張は絆されていく。校門の方に薫の姿が見えた。暖かいからだろうか、今日の彼は雪というより、日差しのように見える、雪に照り返した光のように見える。

 薫がこちらを見上げて、私は笑顔で手を振った。またあのしつこい暑さがぶり返す。