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53話の物語をあなたと

傑作小説

非自己叙述的
「非自己叙述的」という言葉から生まれる概念を、満遍なく説明した作。二部構成!
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第一節 「物語(一人の老人による語り)」

君「非自己叙述的(heterological)」という言葉を知っているか? 知らないとな? 仕方のないやつめ、教えてやろう。
非自己叙述的とは、「ある言葉の意味がその言葉自体と矛盾していること」だ。たとえば"long"という言葉は「長い」を意味するが、この言葉の綴りはわずか4文字と、長くない
したがって"long"という言葉は非自己叙述的だといえる。また"misspelled(綴りの誤った)"という言葉は正しく綴られている。つまりこの言葉も非自己叙述的だ。
君この話は飽きたか。面白くないか。けどもしばし待て。ここからだ、面白くなるのは。さあ君、この問題について考えようじゃないか。

   ・「非自己叙述的」という言葉は非自己叙述的であるか?

これを解くにあたって、重要なことがある。「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」ということだ。
おっと、当たり前だといって笑っちゃいけないぞ君。これはほんとうに大切なことだ。何せ……粛清されました
本題に戻ろう。ではまず、「『非自己叙述的』は非自己叙述的である」と仮定して話を進めようか。「非自己叙述的」は非自己叙述的である。
すなわち「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っている。よって「非自己叙述的」は非自己叙述的でない
むむ? いま、「非自己叙述的」は非自己叙述的だ、として話を進めたはずだ。しかしそこから、それを否定する結論が得られた。なぜだろうか? うーん。
あるいは、最初の仮定が間違っていた、と考える方が自然であろう。
今度は他の可能性にかけるのだ――ところで先ほど、「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」と述べた。
となると他の可能性とは、「『非自己叙述的』は非自己叙述的でない」ということじゃあないか!
では、そう仮定するとどうなるのだろうか? 「非自己叙述的」は非自己叙述的でない。つまり「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っていない。
ゆえに、「非自己叙述的」は非自己叙述的である
またもや仮定と矛盾する結論を導いてしまった。やあ君、どうしてこうなったのだ? 僕たちはすべての可能性を検討しきったのに、そのどれにおいても矛盾が生まれるだなんて……。
はっ! 君君、これ、パラドックスじゃないか!



第二節 「物語(二人の若者の会話)」
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相田為之助という詩人
詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。……
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    1


 詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。その広さに由来して、自ら相田三百帖邸とよんだ。ウォールナット張りの床が気品を感じさせるいかにもモダンな家宅であるが、平屋特有の、どこか日本的な情緒をも備えていた。

 ふとインターフォンが鳴った。書斎の机に情けなく突っ伏していた相田は、気だるそうに立ち上がって、玄関をめざした。その重厚さをたしかめるように部屋の扉を開け、その長大さを味わうように廊下を歩いていった。廊下の右手がわには、開け放たれたガラス戸から相田の設計したたいそうな庭園がみえている。そこに植わる、ちょうど満開である梅の、その芳香をかみしめながら相田はさらに歩いていった。

 相田は玄関に着いた。書斎からの長い道のりのなかで、自分の家に訪ねてきた人物が誰であるかについて、相田はおおよその見当をつけていた。それゆえにこそ相田は、いかにも鬱屈した態度でドアノブへ手を伸ばしたのだった。

 相田がノブを回して扉を開けはじめると、扉は言った。

「開けるな」

 相田は言われたとおりそれを閉めた。


    2


 編集者川北さくらは世田谷の出版社に勤めていた。もと事務局経理部で会計作業に当たっていたが、会社主催の飲み会でいまの上長に気に入られたのをきっかけとして編集室に異動し、晴れて編集者となったのであった。

 配属からもう六年めになる川北は多くの人気作家の担当を継続して任されるようになっていた。責任の重さに由来するプレッシャーに悩まされることも多いが、友人などに彼らのことを話すと羨ましがってサインなんかをせびってくるのが川北には誇らしかった。

 相田為之助も川北の担当する人気作家のひとりであった。その相田についてこのごろ川北は絶えず悩まされていた。相田はどうもスランプらしかった。最近まで相田は一年おきに詩集を出していた。毎年詩集を出すということは一年のはじめから終わりまでそれなりに試作にはげむことを要求するものであって、そのためにはむろん常人にははかり知れぬ労力が要るにちがいないが、とにもかくにも、かつての相田にはそれができていた。しかしながら、現在の相田が詩作らしいことをしているようすはない。事実、『死せるドリス・デイ』という題で最後に詩集を出して以来――それはもう一年と九か月前のことであるが――、こちらには新しい草稿の一枚も送られてこないのである。そのような事情から、ついに川北は相田為之助がスランプであることを悟らねばならなかったのだった。

 多くの場合、詩人の仕事というのは気ままに詩作をして発表するにとどまるものではない。彼らはしばしば、顧客から依頼を受注して、頼まれたとおりの作品を提供することによって対価を得ている。相田為之助もよくそのような仕事を受けていた。

 いま相田は作詞の案件を抱えている。地元徳島に新しい高校ができるというので、校歌の作詞を出版社経由で頼まれたのだった。たいへん金払いのよい私立高校で、曲のほうも質がよくてモダンなものをそれなりの作曲家に作らせたようだ。その曲に詞を当てるのが相田の仕事である。先方と合意した納品期限が過ぎてからそろそろ一か月が経つ。ところが相田は、いまだ何をもなしえていないらしかった。川北はやきもきしていた。


    3


 ある朝、相田邸の固定電話が鳴った。書斎の机で突っ伏して寝ていた相田はその音を聞いて飛び起きた。なんだ電話か、ああ、どうせあいつだろうなどと億劫そうにつぶやきながら、寝違えた首まわりをていねいにほぐし、ゆっくりと<傍点>のび</傍点>をしたあとで、壁かけ式のスタンドから子機を取った。

「もしもし相田……」

 そう言いかけたところで、かぶせるように子機が言った。

「取るな」

 相田は話すのをやめて、言われたとおりそれを戻した。


    4


 締め切りはとっくに過ぎているから、進捗をうかがう電話が当然のように川北のところへかかってくる。作品を仕上げないのは相田が悪いのに、当然のように川北が謝罪する。「こうして何度も申しあげておりますがね、私どもは相田先生の歌詞を楽しみにしているんですよ」という先方の悲哀に満ちた声を聞いて胸が痛くなった川北が、耐えかねた面持ちで受話器を置いて、それから相田に連絡をやったとしても、返事が来ることはなかった。締め切り日の前後から相田とは連絡がつかなくなっていたのである。やがて川北のなかにふつふつと怒りが湧いてきた。自分の詩が書けないのは知ったことではないけれども、よそに仕事をもらっておきながらなんの音沙汰もないというのは、どうかしているのではないかしら。川北は不満だった。連絡をつけるために、川北は翌日相田の家を訪ねることにした。


 明くる朝、川北は慌ただしいようすで出社してきた。出勤時刻の記録と室員への挨拶を済ませ、連絡板に「相田先生宅訪問/帰社予定」と走り書きを残すとすぐにオフィスを飛び出し、玄関口の目と鼻の先にある路側帯でタクシーを拾った。一秒も無駄にすまいと言わんばかりの俊敏さでもって車内に飛び入りながら、運転手に相田の家の住所を告げた。

 無事に着座してタクシーが走りだすと、ようやく川北は呼吸を落ち着かせることを考えはじめた。背もたれに身を預けながら、はやる気持ちを落ち着かせることを考えはじめた。まもなくすると川北は静かに相田のことを考えていた。相田はなぜスランプにはまったのかと考えた。それにしても、スランプならスランプなりに報告をよこしてくれればよいのに、なぜ一切の音沙汰がないのかと考えた。そして相田がスランプに甘えて仕事を放棄しているかもしれないことを考えた。それどころか案件の存在を忘れて、自らの詩集のための詩を書きはじめているかもしれないことを考えた。それどころか詩人としての自らの使命をも失念して、懈怠を働いているかもしれないことを考えた。それどころか懈怠に懈怠を重ねたために、生の動機を失って自殺を企図しているかもしれないことを考えた。いいや、相田はじつはもっぱら外部との関係を絶つことでいままでのどの瞬間よりも真剣に詩作に向きあいつづけているのかもしれない、それでもスランプから抜け出せないので絶望しかけているかもしれない、とも考えた。それから、絶望のあまりやはり相田が自殺を図るかもしれないことを考えた。川北は身ぶるいした。


    5


 詩人相田為之助は自らの頭の疲れていることを知っていた。相田にとって、「頭の疲れている」というのは、「心の疲れている」とか、「魂の疲れている」とかいうのとは本質的に区別されるような状態を指していた。相田の心はいまなお素朴で実直であって、しかし何をも考えられなかった。

 相田の行く先ざきで物がしゃべっていた。それらは相田が自らにとって理想的な行動をとるのをやめさせるようなことをしゃべった。これがために相田は自らの理想に接近することをつねに妨げられていた。この事態がいっそう相田の頭を疲れさせた。

 扉も子機も、ベッドもワイナリーも何かをしゃべった。けれども書斎の机といすだけは何もしゃべらなかった。ゆえに相田は、ほとんど、そこでいすに座って机に向かうしかなかった。それは常にそうであった。それは相田の都合を無視して四六時中成立する事実であった。


    6


 郊外の並木道を抜けて、編集者の乗るタクシーはやがて詩人の邸宅に至った。編集者川北さくらはその邸宅をひと目見て、めまいを起こしかけた。それはただただ広大だった。広大な平屋を囲う塀はどこまでも長く続いて終わりが見えなかった。これがかの「三百帖邸」か、と川北は妙に納得した。

 邸宅の正門と思しきところでは、毛筆で堂々「相田」と打ち出した表札が門扉の脇に掲げてあった。その下には「メディア取材お断り」と張り紙がしてあった。しかしインターフォンがなかった。そのことは相田が訪問者をまるで歓迎していないことを暗示しているようにも感じられた。川北はいっそ帰ろうかとも思ったが、しばし思慮をしたのち、積もりに積もった自らの憤りを思い出して、意を決して門扉に手を当てた。門扉は施錠されていなかったので、押して開けることができた。

 門扉を開けると案外目の前に玄関扉があった。玄関扉にはインターフォンが備えつけてあった。川北はためらいなくそれを押した。インターフォンの鳴る音はわからなかった。

 扉の前で川北は相田にぶつける文句をこさえていた。「作詞の進捗はいまどうなっているのですか」とか、「ご連絡を頂けないので先方は泣いておられますよ」とか、「仲介をさせられる私の身にもなっていただけませんか」とかいった、相田のじつにいちじるしい不手際と、それによってほうぼうに生じている大迷惑とをしかと認知させる必要に堪えうる言葉をいちいち選んでいった。

 文句のレパートリーも尽きてきたころ、がちゃりという音がした。扉がゆっくり開きはじめて相田の顔が川北の視界に映った。相田と目が合って、川北は用意しておいたせりふを慌てて放とうとした。しかしながら、扉は開きかけのままそれ以上開くこともなくやがて閉じてしまった。

 川北には何が何だかまったくわからなかった。フラストレーションのさなか、川北は本来相田邸に滞在するはずだった時間を埋めようと、歩いてオフィスをめざした。


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 あるとき、相田は書斎の棚に麻縄を見つけた。机に突っ伏していた姿勢から起き上がって首を回したときの、その視線の先にあったので、それを発見したのはまったくの偶然であった。しかしある種の約束されたできごとであるようにも思われた。ゆえに相田は観念した。相田はそれを取り上げて自らの首に巻き付け、思いっきり引っ張った。


    8


 会社に戻った川北は、編集作業がひと段落するたびに相田のことを気に病んだ。あのとき扉のすきまからちらと見えた相田の顔は異常に老けているようだった。相田はきちがいと化したにちがいない。川北にとってそれはもはや疑いようのない事実であった。

 川北は居ても立ってもいられず、相田邸へ電話をかけた。いまの相田が取るとは思わなかったが、とにかくかけた。何度めかの発信音のあと、驚くべきことに、応答が返ってきた。

「もしもし相田……」

 挨拶の途中のような発話が聞こえて、しかしながら、すぐに電話は切れてしまった。川北は落涙をこらえながら、わけがわからないわ、とつぶやいた。

 手紙でも出そうかしら。手紙なら読んでくれるんじゃないかしら。川北は熱心な編集者だった。


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 詩人特有の精神力から、首を絞めつけられているにもかかわらず手の力をゆるめないということが相田にはできた。相田は死ぬまで自らの首を絞めて、それから死んだ。麻縄は言った。

「戻せ」

 麻縄を棚に戻す者はいなかった。

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しわくちゃ
キュアラプラプ
6.真ん中の折りすじに合わせるように点線のところで折りすじをつけて元にもどします。
(折り紙・鶴 - Kids Web Japan より引用)
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 前の人の焼香が終わり、一歩進み出た。目線の先には、ずらりと一列に並ぶ何十枚もの遺影がある。俺が弔いにきた友人の遺影は、右から五番目にあったから、そこを向いて一礼して、香を炉の中に落とした。こういう「集団葬」は、ほんの数年前から普及しはじめた。高齢化に伴って葬儀件数が増加する一方で、社会関係の希薄化というやつなのか、参列者は年々減少し、葬儀の規模は以前と比べてずいぶん縮小していたらしい。葬儀社は、儲からない割には時間と場所を食う大量の仕事によって、パンク寸前の状況に陥っていた。これを解決するために始めたのが、この格安プランの「集団葬」というわけだ。これなら施設を改修する必要もなく、効率的に死者を弔える。これからは社会全体がこういう風になっていくのか、と俺は思った。

 特に遺族ともつき合いはないし、俺はそのまま帰ることにした。葬儀場を出て、蒸し暑い車のエンジンをかける。今時珍しい車載のテレビを点けると、認知症予防効果があるらしいサプリメントの通販番組が流れていた。最近の番組は、どれもこんな風でつまらない。腕時計を見ると、祥子の診察の時間が迫っていた。病院はそこまで遠くないが、祥子を連れ出すのは一苦労だ。俺は車を走らせて、駐車場を後にした。

 俺は死んだ友人のことを思い出していた。彼は新卒で入社した職場での同期だった。大親友というわけではなかったが、そこから転職した後も長い間つき合いがあった。俺とは違ってしっかり者で、要領のいい男だった。しかし、いつからか、俺の方から連絡しても返事が返ってこなくなった。還暦を迎えて数年ほど経った頃だったと思う。そこで関係はあっけなく途切れた。数年経って、ようやく彼の電話番号から着信があったのは、つい先日のことだ。彼は老衰で死んだ、と聞かされた。どうやら、彼のスマートフォンに残されていた友人の連絡先の中から、遺族が俺を見つけてくれたらしい。

 彼は認知症だったそうだ。最期は家族のことも分からなかったというから、俺のことなんて当然忘れていたのだろう。遺影に写っていた、俺の知る彼は、もうとっくに居なくなっていたのだろうか。俺は恐ろしくなった。最近は、祥子も俺のことが分からなくなりつつあるのだ。

 車をアパートの脇に停めた。この頃は祥子だけでなく俺も足腰を悪くしはじめているから、部屋を一階に借りたのは幸運だった。鍵を開けて家に入ると、祥子はリビングで折り紙をしているようだった。

「ただいま、祥子。じゃあ、さっき言った通り、病院に行こうか」

「あなたねえ、この前、病院は行ったばかりでしょ! 今日はもう疲れたから嫌よ!」

 祥子は俺を睨んでそれだけ言うと、再び折り鶴を作りはじめた。

 妻の祥子は、中度の認知症だ。この折り紙も、二年前に認知症と診断された時に、指先を動かすことで認知症の進行を抑えられるというかかりつけ医のアドバイスで始めたもので、彼女はすっかりこれを気に入ったらしく、今では家中に折り鶴が飾られている。しかし、認知症の進行は着実に進んでいて、最近は一人でトイレに行くことも難しくなってきた。

「すまんすまん。でも、お医者さんが今回はすぐ終わるって言ってたから、さっと行って済ませてこよう。今日行かないと、きっと心配されてしまうぞ」

 買い物や何か他の用事で俺が外出しないといけない時、今までは近くに住む娘夫婦に様子を見てもらっていたが、この前ついに祥子は自分の娘のことが分からなくなってしまった。俺以外の人が家に入ってくるとひどく取り乱してしまうのが大変で、ひどい時には物を投げつけたり、爪で引っかいたりもするから、最近は娘夫婦も介護に消極的になっている。本人も含めて家族で相談して、半年前には介護施設へ入居申請を出したが、どこも定員がいっぱいで、祥子はいわゆる「待機高齢者」の列に並んでいる状態だ。このまま祥子が俺のことさえ忘れてしまったら、俺はどうしたらいいのだろう。

「はいはい、分かりましたよ。そこまで言うなら」

 数十分の説得の末、祥子は不貞腐れたように、ゆっくりと立ち上がった。テーブルに置かれている制作途中の折り鶴は、二年前と比べて形が歪んでいるのが嫌でも意識される出来栄えだった。


*        *        *


「治験薬?」

「ええ、そうです。治験といっても、安全性や効果はほぼ完全に認められていて、半年後には新薬として正式に承認されることになっていますから、そこはご心配なく」

 かかりつけの病院で、普段通りに問診や検査をした後、担当の先生は俺だけを部屋に呼んで、治験薬の提案をしてきた。

「認知症の患者さんが混乱してしまうのを避けるために、祥子さんにはちょっと退席してもらいましたが、気を悪くしないでください。後で旦那さんからこの提案のことを話してもらって、それで祥子さんが嫌と言うならもちろんそれで結構ですが、一旦はこちらで詳しい説明をしないといけませんから」

「はあ……。それで、一体どんな薬なんですか?」

「簡単に言うと、ある種の精神安定剤のようなものです。認知症の患者さんが全国で増えていく中で、認知症を原因とする患者さんの妄想や暴言、暴力などによる介護にかかる負担が問題になっています。これらの症状をこのお薬で和らげることで、介護をする人はもちろん、介護を受ける人も負担を減らすことができます」

 手渡された資料には、さまざまな介護現場からの好評の声が書かれていた。「利用者様が進んで介助を受け入れてくださるようになりました」「父が昔のようにすっかり温厚になりました」「これからの家族生活に希望が持てるようになりました」……。

「祥子さんは、娘さんなどに攻撃的になってしまうことがあると仰っていましたが、この薬を服用すれば、そういったことも収まる可能性が高いです。そうしたら家族での介護も上手くいくようになるでしょうし、ぜひ検討してみてください」

 普段処方されている薬に加えて、この治験薬の錠剤を一か月分貰って、俺と祥子は家に帰った。本当にこの薬で言われた通りのことが起こるのだろうか。浮足立つ気持ちを抑えて、俺は祥子にこのことを話した。貰ったパンフレットを見て、祥子は泣いていた。

「ごめんなさいねえ、いつも、迷惑だよねえ」

 しまった、と思った。確かに、祥子にしてみれば、この提案はまるで彼女を責めるもののように感じられるだろう。介護のために来た娘夫婦のことが分からなくとも、自分の感情や行動が制御できていないという自覚はあるのかもしれない。しかし、それは決して彼女のせいではない。これはあくまで、認知症患者の症状の一つなのだ。

 祥子は優しい人だった。遅くに産まれた一人娘を溺愛し、ただの一度も手を上げたことはなかった。娘夫婦が結婚を報告しに来た時、彼女は本当にうれしそうに娘の手を取った。時の流れはあまりにも残酷だ。俺は祥子のしわくちゃの手を固く握りしめて、祥子が悪いわけじゃない、と繰り返しなだめた。気づけば俺も涙声になっていた。

 二人で話し合って、薬はやはり飲むことにした。俺や娘夫婦が悲しむことで最も悲しむのは、祥子自身なのだ。俺は最初、少しだけ、祥子をあたかも押さえつけるようなつもりでいた部分があったかもしれない。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、それと同じくらい、これからも皆で頑張ろう、と思った。どんなに辛いことがあっても、家族で乗り越えていこう。そう思った。


*        *        *


 それから徐々に、祥子は大人しくなっていった。暴力行為がなくなったことに娘は安心したようで、再び介護のために家を訪れてくれるようになったし、去年産まれたばかりの孫も連れて家族で来てくれることも増えた。「あの薬があって本当に良かった」と、娘は言った。

 ただ、俺には一つ気になることがあった。祥子がほとんど言葉を喋らなくなったのだ。実際、認知症の末期には、会話がほとんどできなくなるというのは知っていたが、それにしては祥子はあまりにも急だった。薬を服用しはじめてからたった数日で、ほとんど幼児のような言葉しか喋れないようになったのだ。それに、本当に認知症の末期ならあるはずの、無気力や無表情といった症状は見られない。祥子は今まで通りに折り紙を楽しみ、笑顔で孫と遊んでさえいる。

 リビングのテーブルに座っている俺の視線の先には、今日も来てくれた娘夫婦と孫が、祥子と遊んでいるのが見えた。祥子は目を細め、孫の頭を撫でている。症状の出方には個人差もあるそうだし、治験薬の副作用を疑うのは、やはり考えすぎだろうか。孫は立ち上がって、祥子の周りを歩きはじめたが、少しバランスを崩してよろけ、壁にもたれかかった。その時、壁にセロテープで留められた、祥子の作った黄色い折り鶴が、ぐしゃぐしゃに潰れてしまったのが見えた。すると祥子は、目を丸くして悲鳴をあげ、激しく泣き叫びはじめてしまった。

 おかしい、と思った。あの治験薬を服用しはじめてから、今まではなかった症状が、明らかに、急激に増えている。本当に認知症の進行時期が偶然重なっただけなのか? 固まっている俺をよそに、娘夫婦は慌てて祥子をなだめようとしたが、今度は孫の方まで泣きはじめてしまった。「仲直り」という言葉が聞こえた。さながら二人の幼児の喧嘩を収めるように、娘夫婦は孫と祥子をあやしはじめた。祥子の背中を撫でているのが見えた。

「やめろ!」

 なぜだろう、頭が真っ白になって、気づくと口から言葉が出ていた。

「祥子は子供じゃないんだぞ! 謝れ!」

 娘夫婦は呆然として俺を見ていた。その表情の奥には、ある種の納得と、覚悟を感じさせるようなものがあった。心臓の音が一つ、大きく跳ねた。呼吸が荒くなる。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて……」

「もういい。帰ってくれ」

 そう言うと、すごすごとリビングを出ていく娘夫婦を尻目に、俺は震える手であの治験薬について調べはじめた。辿り着いたのは、この治験薬の承認に反対する団体のホームページだった。俺は夢中でサイトを読み漁る。どうやら、あの治験薬が作用する仕組みは、医者が言っていた通り精神安定剤と同様のもので、脳の感情に関する部位の働きを抑制するところにあるらしい。ただ、その抑制の程度は、ほとんど破壊とさえいえる代物であるという。

 そのサイトは、この治験薬の残忍さを、「ロボトミー」という手術になぞらえて批判していた。この手術は、精神障害への治療法として二十世紀に確立され、世界各地で急速に広まったものらしい。ただし、その手術の内容は、脳のうち感情や人格を司る部分の神経を切除してしまうというものだった。これを受けた患者の人格は変化し、感覚は薄らいだという。「どうしてこんな手術が生まれたのか?」このサイトは読者に投げかける。いわくロボトミーは、考案者がその功績で二つのノーベル賞を受賞し、最も盛んに手術が行われていた時期でさえ、人道的観点からの批判が多くあったという。しかし、この手術が表舞台を去ったのは、これに代わる副作用の少ない薬品が発展してからのことだった。

 「看護が楽になること」――このサイトは、こう結論づけた。ロボトミーが生まれた時代、精神病院は患者で溢れかえっていた。中には暴力的で手に負えない患者も多くいただろう。実際、ロボトミーの先取りとなったある手術は、患者の攻撃性の緩和を目的にしていたという。ロボトミーは、患者から感情と知性を奪うことで、「楽な患者」を実現させていたのだ。俺はここでようやく、このサイトが何を言おうとしているのかを理解しはじめた。さらに読み進めると、話はやはりあの治験薬に戻る。これは新しいロボトミーに他ならない、という記述が、目に飛び込んでくる。

 単に外科手術で人格を破壊するのではない。あの治験薬が引き起こすのは、ここ数年の医学的技術の躍進によって可能になった、脳機能の狙ったところを精密に破壊することによる、人格の操作なのだという。この薬は服用するごとに認知症患者の本来の人格を消していき、介護者にとって最も理想的とされる人格に作り変えてしまうのだ。このサイトの考察によれば、それは「幼児の人格」だという。拙い言葉を喋り、いつも笑顔で、愛くるしい。そんな「楽な患者」を、精神病院の医師たちではなく、今度は日本の何千万もの介護者たちが求めているのだ。俺は絶句した。

 このサイトに書かれていることが正しいのかは分からない。しかし、俺は、一刻も早く祥子の担当医と話がしたいと思った。スマートフォンをテーブルの上に置く。いつの間にか長い時間が経っていたようだが、祥子はまだしくしく泣いていた。気づくと俺は車の運転席にいて、病院に向かっていた。


*        *        *


 病院の駐車場に車を停めた。フロントドアを開けて外に出ようとすると、ズボンの裾に足がもつれて、尻もちをついてしまった。俺は、自分が寝間着のままでアパートを出てきてしまったことに気づいた。近くに車を停めていた若い男がこっちをちらりと見たから、急いで目をそらした。あの男は俺のことを馬鹿にしているように見えた。あの男だけではない。駐車場にいる全ての人が、俺の方を迷惑そうに見ている気がした。ここにいては駄目だ。帰りたい、と思った。俺の身に、何かおかしなことが起きている。

 そうだ、祥子を家に置いてきてしまった。俺は、家を出る時のことを思い出した。祥子は潰れた折り鶴の前で、一人で泣いていた。悲しいだろう。辛いだろう。俺の目から、思わず涙がこぼれ落ちた。俺は彼女のそばにいてやらないといけない。早く帰ろう、そう思った時には、俺は自分の家を探して歩いていた。

 俺はどうして娘夫婦を追い出したのだろうか。手足はまるで金縛りにあっているように鈍い。それを必死に動かしながら、俺は考えた。そうだ、あのまま、あんな風に接していたら、祥子が祥子でなくなってしまうような気がしたのだ。俺の知っている祥子は、自分の娘を殴るような人ではなかった。しかし、なおさら、子供のような笑い声で、子供のように無邪気に遊ぶ人ではなかった。それなのに、その状態がまるで便利なものだと言わんばかりに、祥子を扱う娘夫婦が許せなかったのだ。

 帰り道はまるで迷路のようだった。何回道を曲がっても、パステルカラーと灰色の、ゆったりとした住宅街の景色は一向に変わらない。俺はただ、祥子に謝りたかった。あの治験薬は、すぐにでも全国に広がるだろう。大量の認知症患者の対応に追われて介護施設はパンクし、あぶれた患者に各家庭は不和を抱え、介護殺人は殺人事件のうち最も主要な割合を占めている、こんな現状では、あの薬を使ってしまうのが、社会にとっては遥かにましだからだ。だが、それは必ずしも、祥子自身のためにはならないのだ。涙が止まらない。肩が激しく震える。唾が喉に詰まって、息が苦しい。

 きっと、社会は老いすぎた。いつの間にか、老いを受けいれ、尊重する余裕を、社会は失ってしまったのだ。膝に手を置いて立ち止まる。深いしわの刻まれた俺の手の甲に、感情の制御を失った涙が落ちてくる。ふと、人生は折り紙のようなものだ、と思う。しわの数だけ折り目が増える。折り目の数だけ形が出来る。たとえぐちゃぐちゃに潰されてしまっても、細く張り巡らされた折り目を見たら、その形が思い出せる。しかし、今や、折り目を愛する物好きは疎まれるばかりだ。

 大きく息を吸い、天を仰ぐと、すぐ近くに真っ黒な煙が上がっているのが見えた。俺は血の気が引くのを感じた。ほとんど最後の力を振り絞り、重い体を動かして、その方向に近づくにつれて、俺はその煙が祥子のいるアパートから立ち上がっているのを確信した。周りには逃げ出してきた他の住人が集まり、慌てて騒いでいる。近づいてくる俺の姿を見つけたらしい一人が、話しかけてきた。

「ああ、旦那さん、大変、祥子さんが……ちょ、ちょっと! 危ないですよ!」

 呼び止める声を無視して部屋のドアを開けた。その瞬間、体が痛いほどの熱気に包まれ、額から汗が噴き出した。祥子はリビングの真ん中で、目を閉じて倒れていた。部屋は、灰色のかすれた煙と、オレンジ色ののぼせるような光で満たされている。声にならない叫びが、喉からしみ出してくる。俺はゾンビのように廊下を渡り、膝を曲げて、祥子の目の前に倒れ込んだ。壁の全面から火の粉が舞い落ち、ばちばちと音を立てる。

 彼女の右手には、コードの抜けたアイロンが握られていた。そして、すぐ近くには、黒焦げになったぼろぼろの物体があった。それは、間違いなく、あの潰れた折り鶴だった。

「あ、ああ、あ」

 俺は祥子のひんやりとした左手を両手で握りしめて、祈るように額に当てた。肺は痙攣したように、熱い空気を受けて咳き込む。視界の端から真っ暗になっていく。

 祥子はきっと、潰れてしまった折り鶴を作り直そうとしたのだろう。そして、彼女はアイロンがけのことを思い出したのだ。ぐちゃぐちゃになった折り紙のしわを取り、元のようにまっさらにしてから、やり直そうと思ったのだ。視界が散乱し、あらゆるものがぼやけて、重なりあう。俺があの時、怒りに任せて娘夫婦を追い出していなければ。俺があの時、祥子を置いて出ていかなければ。祥子の話に耳を傾けて、二人で折り鶴を作り直していたら。再び涙が止まらなくなった。

 家に帰りたい、と思った。祥子の介護のために、認知症の症状はよく調べていたが、それを自分に結び付けるのは難しかった。しかし、今、俺にも認知症の症状が出はじめていたことを、ようやく悟った。強い「帰宅願望」がある。外出時の服装がおかしい。自宅に歩いて帰れない。怒鳴る。すぐに泣いてしまう。娘の名前も、孫の名前も、思い出せない。

 薄れゆく意識の中、サイレンの音を聞いた。玄関から入ってくる人の気配がした。「もう大丈夫ですからね」と、二人がかりで俺を担ぎ上げた。俺はこれから、どうしたらいいのだろう。娘のことも、孫のことも、祥子の名前も、祥子のことも思い出せなくなったら、俺はどうしたらいいのだろう。葬儀場で、あなたの遺影を見つけられなかったら、どうしたらいいのだろう。

 その時俺は、あの薬を飲むのだろうか。

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蝶を食べる
Notorious
僕は蝶を食べているところを彼女に見られてしまう。
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 彼女と目が合った。校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女は、微かに顔を引き攣らせ、僕の口からはみ出した翅を見ている。何か声をかけようかとも思ったけれど、いま口を開くと蝶が飛んでいってしまうから、仕方なく蝶の体を奥歯で丁寧に噛み潰す。細くて小さな命がぷちりと断たれる感触がする。次に翅を右手で口の中に押し込み、咀嚼する。まるで新聞紙を食べているようで、口の中が急速に乾いていく。何度も何度も噛んで、小さくしてから少しずつ呑み込んでいく。その間もずっと、彼女は僕の口の中の蝶をじっと見ている。展翅板にピンで留められた昆虫に似たところを僕は感じる。頬の内側に貼りついた翅の切れ端を苦労して舌でこそげ取って呑み下し、口元についた鱗粉を左手で拭い取って、ようやく話せるようになる。少し迷って、安直な問いを口にする。

「こんなところで何してるの?」

 彼女ははじめて視線を僕の口元から目へと移した。

「今の、何」

「白帯揚羽」

 黒の翅に白い帯のような模様が映える、美しい揚羽蝶だ。この校舎裏の藪で見かける蝶の中では最も大きい部類に入る。そんなことは聞いていないと言いたげな目で見られる。

「食べたの?」

 彼女は固い声を崩さない。少し上目遣いに、鋭く僕を見ている。非難するような、警戒するような、戸惑うような目。

「うん」

「冗談でしょ」 

「いや、本物の蝶。生きてる蝶」

 懐疑の視線をいっそう強め、

「なんで?」

 そう問われて僕は少し困ってしまう。理由がわからないのではない。だが言葉にするのが難しい。とりわけ、他の人が呑み込めるような言葉にするのが。結局、当たり障りのないことを言ってしまう。

「なんかいいんだよね」

 彼女は眉間に皺を寄せ、

「意味わかんない」

 と吐き捨てると身を翻してしまう。彼女が校舎の陰へと姿を消すのを見送ると、僕は虫取り網を外からは見えない藪の中へと戻し、鞄を拾い上げて校舎裏から離れる。いつも、蝶を食べた後は理科室外の水道で口をゆすいでから帰る。口内が鱗粉まみれで、このままいられたものではないのだ。


 彼女は友達とは言い切れないが、かといって全く親交がなかったわけではない。クラスで顔を合わせるし、グループ活動なんかで一緒になれば話もする。けれど、それだけだ。僕は彼女が吹奏楽部でサックスを吹いていることを知っている。二つ年上の姉と仲が良いことも、喫茶店でブラックコーヒーを頼んで友人を驚かせたことがあるのも、自分の目つきの悪さを気にしていることも知っている。つまるところ、僕は彼女のことを何も知らない。それは向こうも同じのはずだ。だが、今の彼女は、僕が他の誰にも知られていない側面の一つを知っている。

 翌日の朝には教室中の人が知っているものかと思っていたが、予想に反して、気味悪げな視線に囲まれることもなく自分の席にたどり着いた。いや、一つ。彼女は教室の反対側から横目で睨んできた。どの面下げて来たんだとでも言いたげで、彼女の目つきはきついなと僕は改めて思う。けれど彼女はすぐに目線を外し、女子たちの会話に戻っていく。僕はやや意外に思いながら鞄を下ろすと、後ろの席の友人と昨夜地上波放送された映画の話を始める。

 放課後、空を舞う蝶たちを虫取り網を片手に見ていると、藪をざわめかせる風の音に交じって、草を踏みしめる足音が聞こえた。校舎の角を見ていると、彼女の姿が現れた。出し抜けに目が合って彼女はぱっと視線を逸らしたが、やがて意を決してこちらにずかずかと歩いてくる。非難するような、必要以上に攻撃的な目でしっかと僕の目を睨んできて、その勢いに僕はいささか面食らう。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。僕の横に仁王立ちした彼女に、とりあえず昨日と同じ質問をする。

「こんなところで何してるの?」

「あんたこそ」

『あんた』と呼ばれるのは初めてだ。格下げ、いやお近づきの印かもしれない。

「僕は虫取り」

「……取って食うの?」

 ぞんざいな口調の中に、ほのかな怖れが感じられて僕は軽く驚く。怖がせるのは本意ではない。

「かもね」

 彼女は押し黙る。僕は三度目の問いを発する。

「何しに来たの?」

「誰かさんが今日もいたらどうしようかと思って、見に来たの」

 いて悪うござんしたね。

「じゃあ昨日は?」

 彼女は一瞬言葉に詰まった。

「たまたま。昨日は部活がなかったから、一人で帰ったんだけど、バスの時間までに結構あったし……。そういえばこっちの校舎の裏って見たことないなあって思って……ほんとよ?」

 歯切れの悪さに僕は不審に思う。

「怪しい。人のいないところで何かしたかったんじゃないの?」

「違うってば!」

 彼女は噛みつくと、目を逸らしてばつが悪そうに言う。

「だって、見たことないところに行ってみようだなんて、子供みたいじゃない……」

 しょげた彼女に僕は意外の念に打たれたが、それ以上にその姿が一番子供っぽくて、思わず笑ってしまう。

「何よ」

 むくれた顔で睨んでくる。それもおかしくて笑ってしまい、彼女はさらにむくれる。

「謝んなさいよ」

 なんで?

 ひとしきり笑ったら、校舎裏の様子を知りに来た彼女に教えてあげる。

「ここは雑草が生え放題で高い藪になってるよ。校舎と裏山の法面に挟まれた狭いスペースだけど、日当たりはいいみたいだね」

「見ればわかるわ」

 悪うござんした。

 今まで通りの『知り合い同士』の雰囲気が流れ始めていた。けれど、彼女はふっと真面目な顔つきになり、藪を見やる。

「ねえ、あんた、昨日……蝶を、その、食べてたじゃない」

 僕は手に持っていた虫取り網を離す。彼女は意を決したようにこっちを向く。

「なんでそんなこと――」

 僕は彼女の顔の横に素早く両手を伸ばし、思い切り手の平を打ち合わせた。風船が割れたような音が鳴る。

 手を開くと手の平には潰れた蚊がついている。

「ここ蚊が多いんだよね」

 それを払い落としてから、ようやく彼女が身を縮めていることに気づく。その表情にはっきりとした怯えを感じて、僕は慌てた。

「ごめん、驚かせるつもりはなくて、その」

 とりあえず両手を伸ばしたが置くところもなくて、彼女の肩の上の中空でおたおたと動かしてしまう。彼女は首を振って顔を上げた。

「そうだ」

 僕は逃げるように鞄の中をまさぐる。

「これ、虫除け。使って」

 差し出したスプレー缶を、彼女は少ししてから受け取って、細い腕に吹きかけ始めた。

 所在なくなった僕は、とりあえず藪の上の蝶を眺めてみたり、虫取り網を拾って玩んだりする。けれど沈黙に耐えられなくなって、彼女の質問の答えを探す。

「蝶を食べる理由だけど――」

 彼女に向き直ったら、虫除けスプレーをスカートの中の脚にかけているところだったので、慌てて姿勢を戻す。

「それで?」

「うん、えっと……蝶って暴れないんだよね」

「え」

「本当は暴れてるんだろうけど、僕の方がずっと力が強いから、実質的に抵抗しないと言えるというか。それに、鳴いたりもしない」

 そこで彼女を見ると、嫌悪感も露にこちらを見ている。そっちが聞いてきたくせに。

「まあ、そういうところが、なんというか、好きなの」

「どういうことよ」

 思い切り眉をひそめている。どう見ても納得していない。

「抵抗しないからいいだなんて、そんなわけないじゃない。そんなの、そもそも暴力を振るうことが前提になってるでしょ。その理由を聞かせなさいって言ってるの」

 目つきも言葉も苛烈だ。そしてぐうの音も出ない。

「虫を殺すのが楽しいんでしょ」

「違うよ。楽しんでるんじゃない。それに、蝶以外は食べてない」

「じゃあどうして」

 僕は考え込んでしまう。自分の中で働いているこのメカニズムは、しかし言葉にしようとすると見たこともない何かに変質してしまう。頭の中の言葉が入ったおもちゃ箱をひっくり返して、手の中にあるこれと似たものを目を凝らして探す。

「儀式というか……験担ぎ?」

「真面目に答えて」

「大真面目だよ。ほんとだって」

 ますます怪訝な顔つきの彼女を押しとどめて、言葉を探す。

「ここに入学するときの試験で、シャーペンじゃなくて鉛筆を使ったの。塾の先生から貰った、普通のHBの鉛筆。それを使って合格したから、その後の定期テストでも験を担いで鉛筆で解いてるんだ。芯が折れたら困るから、予備を何本も用意して」

 彼女の目尻がどんどん吊り上がっていくから、早口で結論を急ぐ。

「けど、普段は使わないものだから、あるテストのとき筆箱に鉛筆を入れてくるのを忘れちゃったんだよ。仕方ないしシャーペンで解けばいいんだけど、なまじ今までずっと続けてた習慣だから、今更やめたら何か悪いことがありそうな気がしてしょうがない。どうしようもないから、朝のショートホームルームが始まる前にコンビニまで走って鉛筆を買ったの。それを机に置いたときの安心感は今でも覚えてる」

 一度大きく息を継ぐ。

「蝶を食べるのはこのときに似てる。『やるべきだ』と透明な力が僕を動かしている感じがする。何かいいことがあるでもないとわかってはいるんだけど、だからといってやめる気にはならないというか」

 彼女は口元に手をやって、わずかに僕を見上げる。

「それって、絶対早く寝た方がいいのにショート動画を見る手が止まらない、みたいな?」

 僕は首を傾げる。

「あんまりピンとこない」

「なんでわかんないのよ」

「寝る前は携帯見ないようにしてるから」

 どうしてそんな目で見てくるの。

 僕は咳払いをして藪に一歩近づく。今日は大きな蝶はあまり飛んでいない。

「とにかく、そういうわけ」

 低いところを飛んでいた紋白蝶をめがけ、網を振る。蝶は不規則な動きでひらりと避けるが、二度三度と網を切り返すと、プラスチックの輪に捉えられた。くるりと網を返して逃げられないようにしたら、網を手繰り寄せ、動けなくなった蝶の羽をそっと摘まむ。翅の小さな黒の斑点が指に隠れて見えなくなる。

「ねえ」

 彼女は僕の指の間の、親指の爪ほどに小さな蝶を見ている。

「食べるの?」

「うん」

「どうして?」

「さっき言ったじゃん」

「あんなの納得できないわよ。……ねえ、もしかしたら、あんたも本当の理由に気づいてないんじゃない?」

 その言葉に僕は虚をつかれる。彼女は探るような目で僕の瞳を覗き通している。たとえそうだとしても、と僕は気を取り直す。

「そうだとしても、僕が蝶を食べることに変わりはない」

 そして僕は蝶を口に運ぶ。

「あっ」

 彼女が声を上げるのと同時に、僕は蝶の体を前歯で噛み潰す。小さな蝶だから、口の中で飛び回られても困る。そうしたら、小さな翅の全てを口に含み、奥歯で丁寧に噛み締める。昨日の揚羽蝶と違い、数回顎を動かしたら口腔内で小さな塊になる。喉仏を上下させてこれを一息に呑み下したら、唇についた白い鱗粉を親指で拭った。

 昨日と同じように、彼女は僕の口元をじっと見つめていた。けれど、その目には昨日と違うものが映っているような気がした。衝撃と厭悪の中に、ほんの少し別の何かが交じっているような……これは、感嘆?

 まじまじと見ていると、ぱっと目が合い、顔を背けられた。左手はセーラー服の裾を固く握っている。

 気にかかったけど、でも今日の用事は済ませた。

「じゃ、僕は帰るよ」

 虫取り網を片付けて鞄を持つと、僕は彼女を置いて校舎裏を離れた。彼女は何も言わなかった。

 僕はそのまま学校から出ることにした。口をゆすいでいるときに彼女に追いつかれたら、もう一回別れの挨拶をしないといけなくなる。食べたのが小さな蝶でよかった。


「半日ぶりね」

 振り返ると彼女がいた。この校舎裏で蝶を食べる習慣ができて一ヶ月ほど経つが、朝にここへ来るのは初めてだった。放課後よりも透明な光に溢れていて、彼女の姿も昨日よりずっとはっきり見えるようだった。額には汗粒が浮かんでいた。

「これ、取りに来たんでしょ」

 彼女は鞄のジッパーを開けると、虫除けスプレーを取り出した。昨日の僕の忘れ物だ。

「うん。ここに置いてあるかもと思って。でも持ち帰ってくれてたんだね。ありがとう」

 差し出した右手にいきなり冷たいスプレーを掛けられて、僕は思わず声を上げて手を引っ込めた。

「ふふっ。サプライズ」

 笑みを浮かべた彼女が自身の腕にスプレーし始めるのを見て、僕はようやく悪戯に引っかかったことに気づく。

 朝の光に元気を増した藪を見ながら、手持ち無沙汰なので彼女に話しかける。

「どうして僕がここにいるのがわかったの?」

「校門をくぐった辺りで前を歩くあんたを見つけたの。正面玄関の前でいきなり人の流れから外れてどこかに向かうんだもん。校舎裏に行くんだなってすぐわかったわよ。だからついてきたの」

「いつもは登校してくるの早いのに、今日は随分遅かったんだね」

「今朝は普段より一本遅いバスに乗ったの。そしたら道は混んでるし信号はことごとく赤になるし、挙げ句の果てにはおばさんが降りるときに長々と両替し始めるの。あんなにあった信号待ちの間にやっておきなさいよって話」

 彼女はご立腹のようだ。

「あんたはいつも通り遅刻ギリギリね」

 そうだ、そろそろ朝のショートホームルームが始まってしまう。

「もう遅いわよ」

 呆れた声とともに時鐘が鳴った。いつも聞いているより音が遠い。

「どうせ遅刻なんだから、ゆっくりしていきましょうよ。ほら、手を出して。そうじゃなくて、両腕をまっすぐ伸ばしなさい。スプレーしてあげる」

 虫除けを返してくれるのだと思ったら違った。伸ばした僕の腕に彼女はスプレーを満遍なく吹きつける。自分の腕の産毛がにわかに気になりだして、いたたまれない。

「長ズボンだし足はいいわね。じゃ、首にかけるわよ」

 つかつかと歩み寄った彼女は僕の首にスプレーを向け、否応なく僕は顎を上に向ける。単調な噴射音とともにスプレーが首にあたり、その冷たさに僕は体をこわばらせる。首元への噴霧を終えると、彼女は訝しげな顔をした。

「何よその顔」

「いや、どういう風の吹き回しかなあと思って」

 出し抜けにスプレーが顔に向けられ、

「シュッ」

 目をつぶった顔にスプレーは飛んでこなかった。

「サプライズ。あんた案外ちょろいのね」

 そう言って彼女はスプレー缶を投げてよこした。いやはや、なんとも敵わない。

「ねえ、僕が言うのもなんだけど、戻らなくていいの?」

「今更急いでもね。それに、遅刻してきたやつがまだその辺を歩いてるかもしれないでしょ。わたしとあんたが仲良く校舎裏から出てくるのを目撃されたりしたら、どんな噂が流れるかわからないわ」

「ふうん。じゃあショートホームルームが終わるまで待つの?」

「甘いわね。一時間目の前の休み時間になると、また人目が多くなるわ。みんなが確実に教室にいる隙に、ここを出るべき。狙うは一時間目の真っ只中よ」

 この人、地理の授業をサボるつもりだ。

 まあ、僕もやぶさかでないけど。校舎の壁に背を預け、地べたに座る。視点が低くなったから、藪の草丈がより高く見える。彼女もハンカチを敷いて、横に腰を下ろした。

 しばし、並んで蝶を眺める。朝の光を浴びて自在に舞い踊る蝶は、いつも以上に可憐で愛おしく思える。

「そういえば、僕が蝶を食べること、誰かに話さなかったの?」

 彼女は前を向いたまま頷いた。

「次の日にはクラスどころか、学校の全員が知っていて、『怪奇! 蝶食い男』ってネットニュースになってると思ってたのに」

「わたしを誰だと思ってんのよ」

「学校のネットワークを牛耳ってる裏番」

「面白くない冗談言わないの」

 面白くなかったですか……。

 彼女はため息をついて恨みがましく言った。

「わたしの気も知らないで……。突然友達が蝶々を食べているところを見せられてみなさいよ。この二日間、わたしが怪奇蝶男のためにどれだけ気を揉んだことか」

「その呼び名じゃあ、僕に蝶の翅が生えてるみたいだよ」

「黙ってて」

 ごめんなさい。

「先生とかに相談するべきなのか、本人と話すべきなのか。他の人に言っていいのか、わたしの心の内に留めておくべきなのか。そもそもやめさせるべきことなのか……」

「やめさせないっていう選択肢もあったの?」

「あんたのやってることはおかしいわ。どう考えたってそう。でも、おかしいことがやめないといけないこととは限らないじゃない。他者危害の原則なんて考えもあるけど、じゃあその他者の中に蝶は入っているのか。あんたのプライバシーもあるけど、それより社会の利益が勝るのか……。そんなことが頭の中を、ぐるぐるぐるぐる回り続けて、苦しかった、まったく」

「ごめんなさい……」

 彼女の真面目さが垣間見え、僕はひたすら申し訳なく思う。

「じゃあ、どうして黙っててくれたの?」

「それは……」

 彼女は一瞬口ごもって、それから吐き捨てる。

「わたしが優しいからよ」

 僕は口を開きかけて、やっぱり閉じる。藪を渡る透き通った風を見る。遠くでチャイムが鳴る。僕らは並んで座っている。


 しばらくの沈黙のあと、僕は腰を上げて、藪の中の虫取り網を取りに行く。せっかくだし、今日の分は朝に済ませてしまおう。

「蝶を食べる理由、聞かせなさいよ。わたしは全然納得してないわ」

 網の柄についた草を払い落とし、蝶にあたりをつける。一月前に比べてずいぶん蝶の姿も減った。もう蝶がいなくなる季節が近いのかもしれない。そのときになったら、僕はどうするのだろうか。

「やめられないの?」

「うーん、一度やめようとした。けど、そしたら蝶を食べてない自分がどうにも気になって、ざわざわするんだ」

 低いところを紋黄蝶が飛んでいる。僕はそいつに狙いを絞る。

「それって、絶対ほっといたほうがいいのに、指のささくれが気になって引っこ抜いちゃうみたいな?」

「そうそう! 布団に入ってから一旦トイレに行きたいような気がしたら、気になって結局トイレに行くまで寝られないみたいな」

「ああ……」

 あれ、あんまり喩えが上手くなかったかな。

 手首のスナップを利かせて網を振るうと、蝶はあっさりと囚われた。虫取りの腕も上がったようだ。

「蝶を食べるのは楽しいの?」

 網に手を入れながら、僕は首を傾げる。楽しいのとは違う気がする。逃げようと羽ばたく翅を、親指と人差し指でそっと閉じる。

「じゃあ、嬉しいの?」

 それも違う。なんかいいとしか僕には言いようがない。右手を網から引き出し、蝶を口元に持っていく。

「それとも……」

 一時間目の始まりの鐘が鳴る。開けた口を閉じようとしたそのとき、彼女が言った。

「おいしいの?」

 僕はその声音に驚き、彼女の顔を見てさらに驚いた。

 その目は、それは……。

 本来は授業中の時間に、ここで二人話している。この状況がもたらすどこか背徳的な高揚感が、僕にこんなことを言わせたのかもしれない。

「食べてみる?」

 彼女は硬直した。その視線は吸い寄せられたように、僕の手の中の蝶に釘づけになっていて、僕が歩み寄っても彼女は首を振らず、ただ蝶に見入るだけだった。

 僕は彼女の正面に膝をついた。そこで初めて彼女は僕の方を向いた。その揺れる瞳を覗き込んで、僕は「冗談だよ」と言う機を逸して、代わりに「口開けて」と言って、そうしたら彼女が控えめに唇を開いたから、僕は今更ながらに後戻りのできないことを悟った。

 僕は左手を彼女の頭の後ろに添えて、右手の蝶を彼女の口に挿し込んだ。彼女の頭が微かに震えた。

「噛んで」

 目を細めて曲線的な顎を上向かせ、その顎がゆっくりと閉じ、蝶が彼女の生贄となる音が聞こえた。彼女の肩がぴくりと跳ねた。

「もう一度噛んで。そう。翅全部を口に入れて。そうしたら、奥歯でよく噛んで。翅の形がなくなるまで」

 彼女は僕の言葉に従順で、そのさまに、危うく声が震えそうだった。僕は自分の不見識を、蝶を食べる本当の理由を、そして彼女の言葉の意味を、まざまざと感じ取ってしまった。

 よくよく蝶を噛む小さな顎の動きは愛しくて、黄色の鱗粉がついたつややかな唇は蠱惑的で、虚ろに細めた焦点の合っていない目は煽情的で、彼女が蝶を食べる姿は可憐で、艶めかしくて、どこまでも美しかった。

 知らなかった。僕はきっとこの姿を見たかったのだ。そして彼女の目にはこれに類するものがきっと映っていて、だから彼女は首を振らなかったのだ。

 彼女は白く滑らかな喉をそっと上下させて、蝶を嚥下し、小さく震えた息をついた。唇には蝶の鱗粉がついていた。その姿は、まさに蝶のようで。

 僕は彼女の唇に自分の唇を押しつけた。彼女は小さく声を洩らした。僕の柔らかいところに、さらに柔らかい彼女の唇があたっていて、ついていた鱗粉を舌で舐め取る。彼女の肩が跳ねる。口が開く。彼女の首は仰け反り、上を向く。左手で彼女の頭を押さえる。舌は彼女の口内に入り、前歯についた触角を、奥歯に詰まった翅の欠片を、頬と舌についた鱗粉を、拭い取る。唇を離すと、唾液の糸が引いて、やがて切れて、彼女の唇の端から垂れた。僕は彼女の口の中にあった蝶の痕跡を飲み下した。彼女の髪は乱れて、肩は細かく震えて、体からは力が抜けていて、目はぼうっと僕を見ていて、僕はどきりとした。

 彼女は我に返ったように口元を拭いて、僕は慌てて左手を離した。目の前で向かい合って地べたにへたり込んで、僕らは互いに顔を赤くしあって、目を逸らしあっていた。どこかで鳥が鳴くのが聞こえた。

「あっ、あの……ごめん……」

 彼女は例の上目遣いで射るように僕を見た。

「謝んないでよ……」

 そう言って彼女はまた俯き、その掠れた声に僕はまた耳まで赤くなってしまう。

 どうしてこんなことになってしまったのか、今からどうしたらいいのか、僕は何もわからなくて途方に暮れるけれど、一つだけ確かなことは、彼女のそのきつい目つきは、それはそれでいいなと、僕はそう思う。

ⒸWikiWiki文庫

屠殺場の羊
屠殺場の羊は、暖かかった。
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 晴天うるわしかったかの日、私は眠っていたところを起こされた。私の眠りを羊にたとえるならば、それが屠殺されたといったぐあいだった。

「起きなさい」

 さていま鉤括弧で括ったこのせりふを放って私を起こした男は、学校という被差別部落に身を置く、教師という穢多者だった。この、しきりに数学を教えたがる穢多者が卑しくも私の羊を屠殺したものと事態は解された。

 いったいこれは屠殺場の稼働時間、つまりは、授業中だった。はたして授業というのは被差別部落でも行われているのだろうかと私は疑問に思ったが、きっと、たんに、学校が存在する被差別部落では行われているが、学校が存在しない被差別部落では行われず、そこに暮らす子どもたちが隣接諸地域に出向いて授業を受けているのみなのだろうという結論に至ったところで、

「まったく」

と穢多者は吐き捨てて、クリイン・ゾオンよろしく教壇へと戻っていったのだった。このとき彼は、ダアテイ・ゾオン戻りの身ながら、その全身どころか、その手を清めることさえしなかった。それが彼をいっそう穢れさせた。

 まもなく、屠殺場の稼働の終了を告げる時鐘が鳴った。穢多者はもはや屠殺者ではなくなり、私は安心して新たな羊の飼育をはじめた。

 やがて、私のいっときの安心とは裏腹に、羊はわなわなと震えだした。その震えは、自身の生命に危険のせまっているのを彼の動物的本能が捉えたことを示していた。このような本能は、どこまでも本来的であるがゆえに、自然界のオペレイシヨンに狂わぬ予定を与える。ほどなくして、いったい、屠殺場の朝が告げられた。屠殺者がふたたび現れたのである。それは昨日と別の、つまり一限めとは違って、禿げていて米英のことばを教えるのが得意な屠殺者だった。

 羊は――道にあらざるこの屠殺者を前に、羊は、死への恐怖におののいた。羊もまた死へ向かう存在なのだった。私はこのうるわしき死への存在を無碍にしたくはなかった。彼をひとつの重んぜらるべき格を備えた存在とみなして、彼の母親となって擁護してあげたかった。このために私は、この髪のない穢多者が、私と私の羊に向かって、悪魔も震えるような声で

「おい」

と言い放ったときも、その羊を必死に抱きかかえていたのである。

 彼は――羊は、貪欲な人間が食べるために生まれたのでなかった、内なる道理に従って、ただ生をまっとうするはずであった。この無垢な羊は、やんごとなき種族の捕食には向いていない。誰も彼を真の意味でおいしく食することなどできないのである。いつだって、そのことを悟りきれぬ盲目な鈍感者が、羊を食べようとするのだった。

 また時鐘が鳴って、この私に安心が訪れた。それはなお見かけの安心にすぎなかった。そして羊の本能はその欺瞞を捉えていて、それを態度で訴えた。ああ、そのとおりだ、この被差別部落にキンコンと響いたことが、どうして羊の生命のゆくえを左右しようか。

 それから何度も何度も、くりかえし時鐘が鳴った。その偶数回めが来るたび私は心の底から安心した。その安心があくまでも見かけの安心にすぎないことはしかし、もはや私の悟るところとなっていた。私は苦しかった。いかに私が安心すとも、羊の震えは収まらなかったから。

 あるとき羊が私に幻を見せた。それは羊が幼いときのようすを映した。幼い羊は牧童をちらと見て、阿呆な彼が物欲しそうにただ空を見上げてぽかあんとしているのを認めるや否や、まきばの柵を飛びこえて、山を降りていった。

 幼い羊は里に着いた。そこでは人々がつまらなそうに歌を歌っていた――歌を歌いながら、鍬を土に叩きつけていたのだった。恐怖したそれは帰ろうとした。それの帰るところとは、あの阿呆な牧童のいるあのまきばにほかならなかった。

 しかし、幼い羊は気づいた。自分は、まきばへ帰る道を知らない、と。それは意を失った。それは、ひょっとすると、ひもじさを感ずるよりも前に頓死してしまうかもしれなかった。

 幻はそこまでで、そこからはまことであった。震える羊を私はいっそう強く胸に抱えて、耐えていた。

 彼はしかし、何度めとも知れぬ時鐘のあと、天命を悟ったように震えるのをやめ、ふっと力を抜いた。私は拍子抜けしたが、彼はそのまま、私の胸のなかで息を引きとった。

 息を引きとった羊の、その皮はなぜか暖かそうに見え、その肉はおいしそうに見えた。かつて厳かさの種を固持してその芽を発せさせつつあった彼が、それを種ごと失って、にもかかわらず、果実をなしたのだった。

 羊の果実はじつにうまそうだった。私はこれにかぶりついた。私の鍬は肥大してやまなかった。羊のそのかさばった毛は私の肥大した鍬を受け入れた。私の昂揚は鍬を伝って羊の毛の各々を湿らせた。

 窓越しの星明かりに反射して煌々たる、この湿った羊の毛は、私の鍬をさらに増大させ、この鍬をもってするならば、いかなる荒廃田畑をも蘇らせることができるのではないかと疑わせた。この鍬をもってするならば、あらゆる種類の外敵を返り討ちにすることができるのではないか。この鍬をひとたび溶かせば、それだけで巨大な仏像が作れるのではないか。もっとも、そのようなことはすまいが。

 もう、二度と時鐘は鳴らなかった。

ⒸWikiWiki文庫





 

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