Sisters:WikiWikiオンラインノベル/疑心暗鬼
は〜あ、定期的にガス抜きしなきゃ、クレーム対応なんてやってらんないわ。
支倉麗は、アパート2階の自室に入るなり、バタリと倒れ込んだ。ヒールのない靴を乱暴脱ぎ、雑多に物が詰まった鞄を放る。日もとうに沈んだ金曜日の夜8時半、勤めているコールセンターからようやく帰宅した。5日間に亘って知らん中年どもの文句を聞かされて、心身共に疲弊し切っている。
冷蔵庫に缶ビールがあったはずだ。何か適当につまんで、さっさと寝てしまおう。麗は重い足を引きずって奥へと向かった。
ヘアゴムをぐいと取り、座布団にどっかと腰を下ろす。うら若き乙女にあるまじき所作だが、独り暮らしの社畜なんて皆こんなものだろう。いや、そうでなきゃ困る。
麗は、何の気無しにテレビをつけた。別段見たい番組がある訳ではないが、食事の時くらいこの空虚な部屋を音で埋めたかったのだ。
ところが、テレビはつくなり、緊迫した声を響かせた。
『……り返します。K県S市で、連続通り魔事件が発生しました』
ぎょっとした。自然とテロップに目が吸い寄せられる。
《S市で連続通り魔 2名死亡、1名重体》
「えっ⁈」
2名死亡、1名重体? K県S市、ここだ。え?
麗の動転をよそに、アナウンサーは淡々と原稿を読み上げる。
『午後8時頃、S市のN駅通りで「人が刺された」と通報がありました。警察によると、犯人は歩行者を次々と刺し、2人が死亡、1人が意識不明の重体となっています。また、犯人は逃走中とのことで、付近の住民に注意を呼びかけています』
N駅通りとは、麗の帰宅ルートであり、ついさっきも歩いてきた。時間は確か、8時頃。そう言えば、歩いているとき後ろの駅側がやけに騒がしかったっけ。
ようやく麗は事態を理解した。私のすぐ近くで、通り魔が人を刺したのだ。
反射的に玄関を振り返る。扉の鍵は、掛かっていた。ホッとすると体の力が抜けた。後ろにパタリと倒れ込む。何だか笑いが込み上げてきた。アハハハという乾いた笑いが部屋に響く。
こんなことが、起こるなんて。
……疲れてるみたいだ。こりゃさっさと寝ないと。
その時、テレビの中のスタジオがざわめき出した。アナウンサーの動揺が声に乗って伝わってくる。
『新しい情報が入ってきました。犯人が写った写真があるそうです』
慌てて身を起こし、画面を見つめる。そこに写っていたのは、なかなかにショッキングな画像だった。
中央に、モザイクがかけられた人影。体は右側に向いており、右半身しか見えない。そして、彼もしくは彼女は、ガクリと膝を折って今にも崩れ落ちようとしていた。胸の辺りから、鮮血が迸っている。
刺された直後なのか。麗は戦慄した。呼吸が浅くなる。
そして、写真の左端。被害者とは反対方向に進んでいる人の左半身。見切れてしまい後頭部と背中くらいしか写っていないが、ニット帽とマスク、黒いジャンパーを着けていることは確認できる。こいつが、通り魔。
アナウンサーは何か説明を加えているが、その声がどんどん遠ざかっていく。反比例して、麗の心の中に一つの思いが膨れ上がっていった。
写真に写っていた通り魔。あれは、燿じゃないか?
頭や耳の形、歩く姿勢、短めの髪。それらはなんだか、弟の燿に似ている。燿は麗の2つ下の弟で、就活中の大学4年生。住まいも、N駅の反対側で現場から遠くはない。それに、燿はサイコサスペンス映画を偏愛している。何回かDVDを借りたこともあるが、通り魔を題材にしたものもあったような……。
いや、馬鹿馬鹿しい。そんな妄想で実の弟を犯罪者扱いしてしまうなんて。あの賢い子が通り魔なんてする訳ない。それに、写真の特徴に合致する人なんて、この町には掃いて捨てるほどいるだろう。
やっぱり、疲れてるんだ。さっさと寝ないと。
冷蔵庫から缶ビールを出そうと立ち上がりかけた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「姉貴、いる?」
紛れもない、支倉燿その人の声だった。
「よ、燿? どうしたのよ?」
声が裏返りそうだった。なぜ、燿がここに?
「通り魔が出たって外は騒ぎになってるんだ。姉貴、知ってる?」
「え、ええ」
「恥ずかしながら、怖くなっちゃってさ。犯人は捕まってないっていうし。家に帰るには現場の近くを通らないといけないからさ。悪いけど、今夜だけ泊まらせてくれない?」
ドアの向こうで頭を掻く燿が目に浮かぶ。
「でも、事前に連絡くらいくれたっていいじゃない」
「したさ。でも姉貴は全然LINE見ないじゃん。なら直接行った方が早いかなーって」
「そうなの。まあ仕方ないわね。今開けるわ」
「ありがとう、姉貴」
麗は玄関へと歩いていき、サムターンに手をかけた。
その時、一つの疑念が首をもたげた。馬鹿馬鹿しいはずなのに、どうしても捨てきれない疑念。
燿が、通り魔なんじゃないか? 家に上げていいのか? 女の麗が、力で燿に敵う訳がない。部屋に入ったら、いやドアを開けた瞬間、刺されてもおかしくないのではないか?
体が固まった。嫌な汗が滲み出てくる。
「……姉貴?」
燿が不審そうに声をかけてきて、麗は我に返った。選択しなければ。
「……やっぱり部屋を片付けさせて。しばらく待ってなさい」
「え〜っ、別に気にしないよ」
「私が気にするの」
「思春期かよお」
「文句言うなら入れないわよ」
「はいはい」
取り敢えず、考える時間を稼ぐ。
麗は一旦玄関から離れ、鞄やらを片付け始めた。ああ言った以上、片付けをする音を立てておかないと、怪しまれかねない。このアパートは全く防音できないんだから。
麗の部屋の間取りは、風呂・トイレ付きの1DK。燿が通り魔なら、家に入れた時点で逃げ場はない。
いや、周りに助けを求めれば……。そこまで考えて麗は頭を抱えた。2階の住人は麗を除いて1人だが、その1人は長期旅行中。更に、下の階の管理人老夫婦は耳が遠い。いくら泣き叫んでも助けは来ないだろう。
燿を部屋に入れないのが一番安全だが、潔白だったら入れない訳にはいかない。追い返されて家に帰っている間に刺されました、なんてことになるかもしれないのだ。やはり、燿が通り魔か否か、慎重に見極めねばならない。
でも、どうやって? 途方に暮れていると、麗はテレビをつけっ放しにしていたことに気づいた。スタジオでは、現場周辺の略図を描いて事件のあらましを解説している。発生からあまり時間が経っていないのに、大したものだ。
事件が起こったN駅通りは、N駅から南に真っ直ぐ延びている。夜8時頃、そのN駅から100mほど進んだところで、第一の被害者が出た。夜勤に出ようとしていた女性が胸を刺され、重体となっている。先程の写真も、この時を写したものだ。その数分後、更に500mほど南下したところで、第二、第三の凶行が相次いで為された。会社員の男性と女子大生が今度は右腹を刺され、肝門脈損傷により失血死した。いずれの事件も、犯人は被害者をすれ違いざまにナイフで刺し、周囲が異変に気づいた頃には既に歩き去っていたという。
そうアナウンサーは早口で解説した。第二・第三の事件現場は、ここから300mほどしか離れていない。もし燿が通り魔でも、ここに到着した時間は矛盾しない。
待ちかねたのか、燿が不満を訴えた。
「まだあ? こう見えても俺、結構怯えてるんだけど」
聞き慣れているはずの燿の声が、なぜか気味悪く感じる。怯えているのは、こっちの方だ。
「……燿。あんた、何で外にいたの?」
「バイト帰りだよ。N駅通りの居酒屋で働いてるって、前に言わなかったっけ?」
随分前に言われた気がする。
「酒に弱いあんたが、よく面接通ったわね」
「店員は酒飲まねえからいいんだよ」
燿は、生粋の下戸だ。少し杯を舐めただけで、ベロベロに酔ってしまう。燿が二十歳になった日、あっという間に酔い潰れた燿を担いで店を出たのはいい思い出だ。
そんな弟が通り魔じゃないかと疑っている、私の頭のネジが数本飛んでいることは間違いない。
「とにかく、もうしばらく待ってなさい」
「判ったよ」
さて、落ち着いて見定めるのだ。選択を誤れば、最悪死ぬ。
麗は足音を殺して、玄関に向かった。息を止めて、そっとドアスコープを覗いた。
充血した目がこちらを覗き返している……なんていうホラー展開はなく、燿が壁に凭れているだけだった。ちらちらと階段の方を気にしている辺り、本当に誰か来ないか怖がっているらしい。尤も、それが通り魔か警察官かは判らないが。
目を凝らしてよく観察してみた。燿は黒っぽい英字Tシャツとジーパンを着て、大きめのリュックサックを背負っている。
暗くてよく見えないが、少なくとも返り血がべったり付いているということはない。だが、写真では血が噴き出る前に犯人は被害者とすれ違っていた。それに、そもそも着替えを用意していれば何の問題も無い。
燿は、手にスマホだけ持っている。通り魔なら持っていたはずの物がある。例えば、ナイフや黒いジャンパー。しかし、リュックサックに入れてあるのかもしれないし、途中で捨ててきた可能性もある。
結局、何一つ確言できないままだ。
唐突に、燿がこちらを向いて話しかけてきた。
「それにしても、連続通り魔なんて物騒だよな」
忍び足のまま距離を取り、
「本当にね」
と返す。動悸がうるさい。
「被害者も、意識不明だってね。なんとか助かればいいんだけど」
喋りながら、麗はテレビに目を向けた。画面には一つのフリップがアップで映されている。
『こちらが、独自インタビューから見えてきた犯人像です。犯人は身長160cm程度の男性。灰色のニット帽と黒のジャンパー、青いジーンズを着けています。また、右利きと見られます。では、詳しいインタビューのVTRをどうぞ!』
燿は、短髪で身長165cmほどの右利きの男だ。服装は着替えがあれば何の手掛かりにもならない。
つまり、プロフィールは全て合致している。しかし、このプロフィールに合致する人間はごまんといるだろう。事態は全く変わっていない。
テレビには、1人の男がマイクを向けられ、興奮気味に話していた。
『すれ違ったと思ったらおっさんが腹を押さえて倒れてよお。通り魔はそのまま俺の横をスタスタ歩いていったよ。顔は帽子の鍔でよく見えなかったが、身長は160くらいだったぜ』
その次は、犯人が写ったあの写真の撮影者の証言らしかった。色黒のギャルが、大仰な身振りを交えて喋っている。
『そこのテラス席で、パフェと自撮りしようとしてたわけ。こう……スマホを構えて撮ろうとしてたんだけど、後ろの歩道に人が通りかかったから、画面見ながら待ってたんよ。そしたら、いきなりブスッと、男が右手で女の人を刺したのがパフェの横に見えたの。もう私びっくりしちゃってえ、思わずシャッター押しちゃったのが、この写真ってわけ』
パフェを持ったギャルの自撮りだが、視線が微妙にずれてしまっている。その左奥には、血を噴き出す被害者と見切れた犯人が。あの写真は、これを拡大したものだったようだ。
その時、外からヘリコプターの飛行音が聞こえてきた。
「テレビの中継でもやってるのかな」
燿が扉の外から問いかけてきた。
ふと、閃いた。燿はずっと外にいたから、テレビを見る機会などない。鎌をかけてやろう。意を決し、麗は外に向かって話しかけた。
「通り魔なんて怖いわね。刺された女の人は、首をかかれていたってよ」
「え? 胸を刺されたんじゃなかったっけ?」
掛かった。
「燿。あんた、それどこで知ったのよ? テレビを見る機会なんて無かったはずよ」
つまり、燿は現場を見たことのある、通り魔に他ならないのだ。
ところが、あっけらかんとした答えが返ってきた。
「テレビ? 普通にTwitterで見たよ。てか、まだ片付け終わらないの? もう真っ暗だよ」
そうか、情報を得る手段はテレビだけではない。自分がネットを滅多に使わないから、忘れていた。現代っ子め。また振り出しだ。
「姉貴、情報が錯綜してるから、気をつけなよ。ネットは勿論、テレビですら十分な取材ができてないかもしれない。フェイクニュースに騙されないようにね」
「判ってるわよ」
心配されてしまった。全く、人の気も知らないで。
テレビはネタが尽きたのか、先程と同じ内容を繰り返し始めた。独自インタビューから見えてきた犯人像──。
……ん?
燿の台詞が脳内でリフレインされる。テレビですら十分な取材ができていない──。
ゆっくりと、考えが組み上がっていく。
「……き、姉貴! おーい!」
気づくと、燿が麗を呼んでいた。生返事をすると、
「どうしたんだよ。片付け終えたんなら、入れてくれないか?」
と心配げに言われた。
麗はゆっくりと立ち上がると、玄関に行き、扉の前に立った。
「ごめん、燿」
それから、右手を伸ばし、サムターンを捻った。扉を押し開け、笑いかける。
「待たせたわね」
「怖くて死ぬかと思ったぜ」
言葉の割には平気そうな顔で、燿が笑った。
「実は私ね、燿が通り魔なんじゃないかと疑ってたの」
燿を部屋に上げ、冷蔵庫から缶ビールを2つ取り出しながら、麗は言った。燿は枝豆を口に運びかけた姿勢のまま、固まった。同じ内容を繰り返すテレビ番組が、タイミングよく通り魔の写真を映した。
「ほら、燿に似てない?」
「ん〜、俺に見えなくもないけど……こんな男なら大量にいるだろ」
それから、麗は燿を通り魔か否か見極めようとしたことを話した。燿は笑ったり感心したりしながら話を一通り聞くと、麗にこう尋ねた。
「だから入れるのを渋ってたのか……でも、どうやって俺が連続通り魔じゃないと判断したんだ?」
「ギャルの証言よ」
麗をテレビを指した。丁度写真を撮ったギャルのインタビューシーンが流れている。
「彼女は、自撮り中に画面の中で通り魔が右手で女性を刺したのを見た、と証言しているわ。最初はスルーしてたけど、よく考えたら解釈を間違えているのに気づいたわ。スマホの内カメの画面だと、左右は反転する」
麗はプルタブを引き起こし、ビールを呷った。
「テレビで『犯人は右利き』なんて吹聴されていたから、テレビクルーと同じ勘違いをしてしまったわ。本当は、通り魔は左利きなのよ」
燿もビールに口をつけた。
「だから、右利きの俺は連続通り魔じゃないって訳か」
「そういうこと」
しかし、意地悪な笑みを浮かべて、燿は問うてきた。
「でも、ギャルの覚え違いだったり、捜査を攪乱するために通り魔がわざと利き手じゃない手を使ったりしていたかもよ?」
「それらの可能性は薄いと判断したわ。それに……」
「それに?」
麗は頬杖をつき、弟に笑いかけた。
「私の可愛い弟が、通り魔なんてする訳ないじゃない」
燿は驚いたような顔をしたが、すぐにニヤリと笑うと、ビールの缶を持ち上げた。
「姉弟の絆に」
麗も缶を持ち上げる。
「乾杯」
澄んだ音が部屋に響いた。
麗はシンクで皿を洗っていた。酒に弱い燿は案の定、卓に突っ伏して寝息を立てている。
この1時間ほど、色々あった。頭の中で振り返ってみる。
……ふと、怖くなった。燿は、私の考えなんて全てお見通しなのではないか? 私はまんまと騙されたのではないか? あの子は賢い。もしかしたら……。
いや、そんなわけがない。麗が疑念を払うために振り向くと、こちらを虚ろに見つめる燿と目が合った。
「きゃっ」
皿が手から滑り落ち、バリンと割れた。心臓が早鐘を打っている。
「な、なんだ、起きてたのね。びっくりし」
「テレビ番組で通り魔が右利きだと言っていたのは」
突然、燿が言葉を遮って口を開いた。皿の破片を拾うのも忘れて、麗は固まっていた。テレビを消したこの部屋では、燿の声しか聞こえない。
「ギャルの証言の他にも根拠があったと思うんだ」
まるで私などいないかのように、虚ろな声で燿は話し続ける。
「それは、第二・第三の被害者の傷の位置だ。彼らはすれ違いざまに右腹を刺された。すれ違いざまに右腹を刺すには、どうしても右手でナイフを刺さなければならない。つまり、通り魔は右利きである蓋然性が高いと判断できる。姉貴、気づかなかったのか?」
頭の中でシミュレートするまでもなく、麗にはその事実が安々と呑み込めた。
「もう一つ、興味深い事実がある。男の証言だ。彼が目撃したのは、被害者を『おっさん』と呼んでいることからも明らかな通り、第二の事件だ。そして、彼は『顔は帽子の鍔でよく見えなかった』と語っている。言うまでもなく、ニット帽に鍔は無い」
燿は無感情な声で宣言した。
「これらの事実から導かれる推論はこうだ。第一の事件を起こした通り魔と、第二・第三の事件を起こした通り魔は、別人なのではないか」
麗はほうっと嘆息した。やっぱり、この子は賢い。
「ところで、姉貴は今まで一度も『連続通り魔』という言葉を使っていないね。俺やテレビはあんなに連呼していたというのに。それに、姉貴が話題に挙げたものも第一の事件ばかりだった。俺が通り魔じゃないかと怯えていた割には、第二・第三の事件を起こした通り魔のことは怖くなかったみたいだ」
私の考えなんて、お見通しみたいね。
「姉貴、それは……」
突如、燿は言葉を切り、机の上に崩れ落ちた。今まで喋っていたのが嘘みたいに、グーグーと寝こけている。
変な酔い方をするのね。麗は呆然としていたが、ゆっくりと歩き出す。
二人目の通り魔が怖くなかったのも、こんなことが起こるなんてと驚いたのも、「それらの可能性は低い」と判断できたのも、家族が通り魔じゃないかなんて発想ができたのも。
雑多にものが詰まった鞄から、新聞紙で包まれたものを取り出す。中から出てくるのは、赤と銀のきらめき。
全て、私が2人目の通り魔だから。
アルコールには、幾つもの作用がある。判断力の低下、入眠作用、そして何より運動機能の低下。酒に弱い人ほど、効果は大きい。
ああ、本当に可愛い私の弟。でも、ちょっと賢すぎたわね。
血に塗られたナイフを振り下ろす。