Sisters:WikiWikiオンラインノベル/ドア越しの夫婦

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 ガタンとドアが鳴り、続いてピンポーンとチャイムが鳴った。夫が帰ってきたのだと、勇子は直観した。鍵を持っていくのを忘れて、家に入れないのだろう。待ちきれないのか、コンコンコンとノックの音が続く。思った通り、夫の大声が玄関の外から聞こえた。
「ドアに鍵が掛かってる! 今玄関にいるよ! 虎太郎も帰ってる?」
 少し頼りないけど、芯のある声。何となく、夫が勇子の親に初めて挨拶に来たときのことを、勇子は思い出した。古風なわたしの実家で、父の面前で明らかに緊張しながらも、決して震えることのなかった、あの時の声。
「うん! 虎太郎をお風呂に入れてるから、ちょっと待って頂戴!」
 勇子は脱衣所から声を張り上げた。ドアの向こうに聞こえるには、ちょっと叫ばないといけない。ひょっとして近所迷惑だったかしら、と少し不安になったが、今は火曜日の昼下がり。大抵の人は仕事に出ているだろうと思い直した。そう、普通の社会人は働きに出ている時間帯。しかし、外資系の会社勤めの夫は、時差か何かの都合で、このくらいの時間に帰宅することもままあるのだ。
 勇子は、息子の虎太郎の体を拭く手を止め、風呂の外に出た。風呂から上がったばかりでずぶ濡れの虎太郎に、自分で体を拭くように言って腰を上げた。
 虎太郎は小学一年生。今日は学校で設備点検があり、給食を食べるとそのまま下校する日だった。しかし十分ほど前、乱暴に玄関が開いたかと思うと、ドアが閉まるより早く泥んこの虎太郎が駆け込んできたのには驚いた。「ただいま〜!」と無邪気にランドセルを放り出す虎太郎を慌てて抱き上げ、そのまま風呂に直行した。虎太郎が言うには、下校中に友達と一緒に水たまりで思いきり跳ね回ったらしい。集団下校を引率する先生の、苦笑が目に浮かぶようだ。足の爪に泥が入り込んで洗い落とすのに苦労したが、楽しそうに学校であったことを話す虎太郎は、たまらなく愛しい。
 タオルで体をこすり、始める虎太郎に背を向け、玄関に向かう。濡れた手をズボンでぬぐい、落ちてきた髪を横に払う。夫は玄関の外で、手持ち無沙汰に待っているのだろうか。その姿を想像すると、ちょっとおかしく思えて笑いがこぼれた。
 その時、先ほどの夫の言葉が脳内でリフレインした。
 ──今玄関にいるよ!
 知らず、唇が歪んだ。

*        *        *

 アパートの2階、一枚の扉の前。義文は、玄関ドアが開くのを今か今かと待っていた。勇子が「ちょっと待って頂戴」と言ってから、たっぷり3分は待たされ続けている。たかが風呂に、こんなに時間がかかるものだろうか。退屈を通り越し、義文は苛立ってすらいた。チャイムをもう一度鳴らしてやろうかと思ったが、こらえる。
 疲れた手を軽くほぐしていた時、部屋の中から大きなくしゃみが3回続けて聞こえてきた。まったく、近所迷惑な女だ。次いで、バタバタという足音が近づいてくる。ようやく来たか。義文は居住まいを正した。
 ガチャリとサムターンが捻られる音がした。ドアが開けられる心構えをしたが、案に相違して動きはない。不審に思っていると、ドアの向こうから勇子の声がした。
「ねえ、あなた。ちょっと言いたいことがあるの」
「……どうしたの? 気にせず言ってくれ」
 ドア越しの、どこか歪んだ声が聞こえてくる。
「わたしとあなたが結婚してから、もう8年が経つわね」
「……そうだね」
「わたしを古風な実家から連れ出してくれたのには、感謝してる。並大抵の覚悟じゃ、できなかったでしょ」
 脳裏に勇子の『実家』のことが浮かび、苦々しい気分になった。尋常じゃない覚悟が必要だったのは、そりゃ当たり前だろう。何せ……。
「何せ、龍田組の組長だものね」
 一条勇子、旧姓龍田勇子の実父は、日本指折りの暴力団・龍田組の現組長、龍田勇蔵である。勇子は亡き妻との間の一粒種で、勇蔵の寵愛を一身に受けて育ってきた。しかし8年前、勇子は組から離れ、堅気の男と結婚すると言い放った。当然勇蔵は猛反対したが、それを振り払って、夫妻は現在、組と離れて暮らしている。
「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを連れ出してくれたことには、本当に感謝してるわ」
「やりたいようにしただけさ。君は、実家が特殊だからって諦められるような人じゃなかった」
 義文は内心、うんざりしていた。なんだ? 惚気るためにドアを開けないのか?
「それに君は……」
「でもね」
 夫の言葉を遮って、妻は押し殺した声で言った。
「今は、後悔してるの。あなたと結婚したこと」
「なっ……どうして、そんな」
「あなたが初めてお父さんに挨拶しに来たときは、頼もしかったわ」
 無視して勇子は言葉を継いでいく。
「この人にならわたしを任せられるって、お父さんもそう思ったから、最終的には結婚を許してくれた。でも、今は全然違うじゃない!」
 義文は息を呑んだ。勇子の声にどうしようもない悲痛さが滲んでいたからだ。
「虎太郎も、わたしも、全然大事にされてる気がしないの。いっつも仕事ばっかりで」
 そんなに仕事に打ち込んでばかりだっただろうか、と思う。それに、ひょっとすると、勇子が機嫌を直さなければ、ドアを開けてくれないのではないか? 義文は心の中で舌打ちした。なんてめんどくさい女だよ。
「……ねえ。最近、お父さんの仕事関係で、不穏な動きがあるんだって」  思わずどきりとした。急に話題が変わったな。
「龍田組に敵対してる組織が、お父さんの弱みとして、わたしと虎太郎を狙ってるかもしれないんだって」
「それがどうしたんだよ?」
 じれったい。さっさとドアを開けてくれ。
「もしそうなったら、虎太郎を守ってくれる?」
「当たり前だろ!」
「うん……そうね、わかりきったことよね……」
 声に涙がまじった気がして、義文は驚いた。どういう情緒だ? こうして話し始めてから、もう3分ほど経つ。
「君だって、虎太郎を守ってくれるだろう?」
 勇子はそれには応えず、短い沈黙が流れた。ドアを開けろと怒鳴りたい衝動をぐっと呑み込む。すると、打って変わって冷淡な声が耳朶を打った。
「ねえ、あなた。ちょっと言いたいことがあるの」
「何だい? どうかしたの?」
「わたしとあなたが結婚してから、もう8年が経つわね」
 急に、強烈な違和感を覚えた。何かがおかしい。いや違う。これは違和感じゃなくて──

*        *        *

 ──今玄関にいるよ!
 玄関に向かっていた勇子は、思わず足を止めた。玄関にいるのは当たり前のことではないか。声を聞けばわかる。なのに、なぜわざわざそんなことを夫は言ったのだ?
 一度そう思うと、いろんな違和感が駆け巡る。そして、勇子はあることに気づいた。
 虎太郎が帰ってきたとき。ドアが閉まるよりも早く泥んこの虎太郎が駆け込んできて、勇子は慌てて虎太郎を抱き上げて、そのまま風呂に……。
 勇子も虎太郎も玄関の鍵を掛けていない。でも、夫は「ドアに鍵が掛かってる」と言う。なら誰が鍵を掛けたのだ……?
 単純な矛盾が、勇子を混乱させる。一体何が起きているの?
 そのとき、もう一つのことに気づいた。コンコンコンという、ノックの音。まさか……。
 勇子は机に置かれていたそれに手を伸ばす。

*        *        *

「わたしとあなたが結婚してから、もう8年が経つわね」
「もう8年か……」
「わたしを古風な実家から連れ出してくれたのには、感謝してる」
 間違いない。義文は確信した。単なるデジャヴではない。
 勇子はまったく同じ内容を繰り返している。内容だけではない。声色、速さ、抑揚、何もかもまったく一緒だ。これは……?
 何かはわからないが、確実に何かが起こっている。何か、まずいことが。こうなったら、搦め手はやめだ。
 義文は叫んだ。
「おい、今すぐドアを開けろ! さもなきゃ……」
 銃を構え直し前に立つ男の後頭部に突きつけた
てめえの旦那のドタマをぶち抜くぞ!」
 銃を突きつけられた男──勇子の夫・一条は、びくっと体を震わせた。
 しかし、ドア越しの声は微塵も揺らぐことなく続いている。
「極道の娘だもの。危険は承知でわたしを──」
 義文は動揺していた。何が起こっている? 夫の呼びかけにも俺の恫喝にも反応せず、頑なにドアを開けようとしていない。いや、そんな次元ではなく……。
 猪狩義文は、銀獅子会の下っ端だった。勇子の話に出てきた、龍田組に敵対している組織の、いわゆる鉄砲玉である。銀獅子会は地方の弱小組織で、業界大手の龍田組に対抗できるわけもなく、潰されかけていた。しかし、組長の娘と孫を人質にすれば、話は変わってくる。とはいえ、表立って誘拐などすれば、組織の立場が危ない。あくまで個人の暴走として、2人を奪取する。それが義文に課せられたミッションだった。
 しかし、無理やり家に侵入しても、警戒されて通報されたり逃げられたりするのがオチだろう。ガキを人質に女をおびき出すのも、集団下校のせいで難しい。そこで考えたのが、帰宅途中の夫・稔を銃で脅し、家に押し入って油断している二人を攫うという方法だった。
 だが状況が変わった。今までは無駄に騒がれたくなかったから、勇子が自ら扉を開けるのを待っていたが、もうやめだ。最初に鍵は開いた。開けてもらわなくとも、自分で開ければいい。
「どけ!」
 稔を横に突き飛ばし、ドアの前に立つ。左手でドアノブを捻り、一気に引く。ところが、ガタンと音を立てて扉は開かなかった。
 鍵が掛かっているのか? なぜだ。確かに鍵の開く音を聞いたはず……。
 考えるのは後だ。サプレッサーが付いた銃をデッドロック付近に向け、引き金を引いた。パン、パンと軽い銃声がアパートに響く。ドアに無残な穴が開き、鍵の部分が吹っ飛んだ。
 ドアノブを引くと、今度こそ扉は開いた。室内に向けて素早く銃を構える。しかし、人影はない。なのに、勇子の声は続いている。声の方向に目をやると、それが目に入った。
 靴箱の上に置かれたスマートフォン。それが、無機質に勇子の声を流し続けている。義文はようやく気づいた。録音した声をループ再生しているのか!
 義文は部屋の中に向き直った。電気がついたままの部屋の奥で、カーテンが揺れている。つまり、ベランダに続く掃き出し窓が開いているということだ。室内に人の気配はない。
 ──逃げられた。
 愕然とし、遅れて疑問が訪れる。なぜ、気づかれた? そもそも鍵が閉まっていたのはなぜだ? 確かにサムターンは回されたはず……。
 最初鍵は開いていたのか?
 怒りと悔しさが込み上げ、義文は机を蹴飛ばした。初めに稔がドアを開けようとしたとき、鍵は掛かっておらず、稔はただドアを揺らしただけだったのか! あいつ、怯えたような顔して、そんなことしてやがったのかよ!
 勇子は勇子で、義文たちを待たせている間にスマホで声を録音しておき玄関で鍵を閉めるとそれを再生したのか。そして足音を忍ばせ、息子と共にベランダから逃げる。すべては、自分たちが逃げる十分な時間を稼ぐために。あの話の内容も、全て咄嗟のでっちあげ……!
「くそっ!」
 まんまと逃げられた。一瞬でここまでの細工を考え実行した妻も、その意図を汲み取り録音だとバレないように話を合わせた夫も……。なんて夫婦だよ、くそっ。
 玄関の外を振り返ると、稔の姿が無い。こっちにも逃げられた。今からでも女と子供を追うべきか。まだ3分くらいしか経っていない。ひょっとしたら、追いつけるかも……。
 そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。逃げた妻が通報したのだろうか。こうなっては、逃げるしかない。義文は銃をしまうと、玄関から走り出た。階段を駆け下り、徐々に近づいてくるサイレンと反対方向に走る。奥まった路地を駆けながら、義文の頭では一つの疑問が渦巻いていた。
 録音された音声は3分ほどだったが、3分の音声を録音するには当然3分かかる。一方、義文が玄関の外で待たされていたのも3分くらい。だから、勇子はその3分をまるまる録音に使ったことになる。しかし、ドアの奥に刺客がいると知っていないと、そもそも録音した声を使って騙そうなんて発想は浮かばない。つまり、ドアの後ろに義文がいるという状況に勇子はかなり早くから気づいていたことになる。
 なぜそれに気づけたんだ? 夫が鍵の掛かっているふりをしたからか? いや、それなら夫が変な勘違いをしていると思い「鍵は開いてるわよ」などと言うのが普通だろう。
 どうして気づけたんだ?
 薄暗い道を疾駆しながら、義文はいつまでもそんなことを考えていた。

*        *        *

 当たり障りのないことを、勇子は奥に引っ込んで録音した。ドアを開けないことが自然に思えるように喧嘩っぽいことを喋ろうとしたが、うまく話せたかどうかはよく覚えていない。さっきから心臓が早鐘を打っている。勇子の想像が正しければ、ドアの向こうには凶悪な誰かがいる。鍵は掛かっていない。夫の演技が奏功しているみたいだけど、いつ気づかれてドアが開くかわからない。今にも部屋に押し入ろうとしているかもしれないと思うと、どうしても恐怖で体が震える。
 でも、わたしは虎太郎を守らなきゃいけない。服を着た虎太郎は、言いつけ通りに静かにしている。
 勇子はわざと大きな足音を立てて玄関に向かった。少し前の夫の言動を振り返る。
 『ドアに鍵が掛かってる! 今玄関にいるよ! 虎太郎も帰ってる?』
 その前に、3度のノック。これを『3文字目に注目しろ』という意味に捉えれば。
 どあにかぎがかかってる
 いまげんかんにいるよ
 こたろうもかえってる
 に・げ・ろ
 夫も相当の覚悟をもってこのメッセージを送ったのだろう。伝わったから、虎太郎はわたしが守るから、安心して。
 そんな思いを込めて、わざとらしく3度くしゃみをした。そして、夫婦を隔てる扉の鍵を掛ける。スマホをそっと靴箱の上に置き、ループ再生ボタンをタップする。
 どうか無事でいて、稔さん。
 心の中で言いながら、勇子は玄関に背を向けた。夫を危地において逃げることに、心が咎める。しかしそのとき、後ろから夫の言葉が聞こえてきた。それに背中を押され、勇子は虎太郎のもとへと向かう。
 夫はこう言ったのだ。
「気にせず行ってくれ」