Sisters:WikiWikiオンラインノベル/スノータイムリミット

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 序 はじまりの過ち

 
 私は中庭を歩いていた。冷たい風がビューっと吹き、髪がサラサラと風に靡いた。中庭には、昨夜の雪がまだ残っていた。  
 もうすぐ、もうすぐ運命の時だ。  
 私は緊張を解すように胸をそらせて、少し晴れてきた空を見上げた。朝の番組ではまた雪が降ると言っていたから心配してたけど、もう晴れてしまいそうね。
 空は、まるでこれからの成功を暗示するかのように、雲の切間から太陽の光が差し込んでいる。一筋の光が冬の空から降りてくる様はとても見事で美しい。
 私はそれに見惚れながら、上を向いて歩いていた。

 
 青春と本

 
 バレンタインデーには、その日だけの特別な雰囲気がある。  
 学校は全男子の隠しきれない期待と、チャンスを待つ女子の純情かつ野生的な視線で一気に飽和状態になり、その緊張を覆い隠すかのように皆の声が大きくなる。  
 今は午後4時30分、つまり放課後である。そして放課後と言えば、バレンタインデー1番の山場なのだ。軽いリュックを背負って敗北感と共に帰宅する者もいる反面、最も自由でロマンティックな想像が膨らむ時間。まるで中治り現象のように、学校は青春に染まる。無論、このようなことを考えてる人は、きっと期待していたほどの戦利品を持ち帰ることはできないのだろう。あまりに悲しく、不都合な真理だ。  
 例に漏れずこの閉邦高校1年B組も、バレンタインデーの空気が教室を支配していた。そして、いつもより甘い香りのする教室で皆が青春ゲームに勤しんでいる中、僕、村上光太は1人、窓際の席で本を読んでいた。  
 本は好きだ。俗世間のしがらみを捨て去って、どんな世界にも行くことができる。まあ、これといって俗世間のしがらみに囚われ、苦しんでいると言うわけではないのだが、そんなことはいい。とにかく僕は本に没頭していた。ここまで空気感の違う教室で1人の世界に入り込むと言うのは至難の業であったが、僕は慣れている。  
 尤も、そのゲームに興じる級友たちが羨ましくないのかと言われるとそれは違う。むしろ僕なんかよりずっと有意義な時間を過ごしているのかもしれない、と思うこともある。だがそれは僕に縁のないものだ。そもそも僕は、興味のない物には全く動かない根っからの出不精であるため、労力を払ってまで彼等のようになろうとは思えないのであった。その点、読書というものはコスパ最強じゃないか?  
 僕はくだらない御託を胸にしまい、本から目を離して窓の外を見た。確か昼ごろから雪が降るという予報だったが、冬の中庭はこれ以上ないくらいのいい天気だ。昼まで残っていた雪も粗方溶けてしまっている。わざわざ引っ張り出して履いてきたスノーブーツはあまり意味が無かったようだ。
 「そろそろ帰るかな。」  
 今読んでいる本も段々とクライマックスに近づいてきた。家でゆっくり続きを読もう。そう思って時計に目をやる。4時44分。夢中になっているうちに15分近くも経っていたようだ。あれ…4時44分?何か忘れている気がする。僕はその時計を見つめて考えた。一体僕は何を忘れているんだ?昨日の記憶をじっくりと思い出していく。そして僕は真実に辿り着いた時、ガチッと時計が揺れて長針が45分を差した。それと同時に、ガラガラッと大きな音がして教室の前方の引き戸が開けられる。そのあまりに大きな音に、先刻まで騒がしかった教室がまるで凪のように静かになり、全員の視線が扉へ向けられる。そして、僕の顔もみるみる赤くなる。これはまずい。
 「おい。村上光太!行くぞ!」  
 静まり返った1年B組に、近くで聞いたら耳がやられそうなくらいの大声が響く。僕が数秒前に危惧したことが、想像通りに起こった。僕は顔を耳まで赤く染めて、そそくさと最速で準備をすませて教室を出る。僕が出ていくまで、教室は静かなままであった。
 「なあ、祐介。あんなうるさく言わなくたって良いじゃないか。」  
 僕は怒りながら言った。
 「分かるだろ?目立ちたくないんだよ。ずっと言ってるだろう。」
 「光太、お前が遅れたんだ。4時40分迄に部室に来い、来なかったら45分にお前のクラスに突撃するって、確かに俺は言ったはずだ」  
 彼は僕の親友、相沢祐介だ。クラスは1年D組。ご覧のおとり時間に厳しく実直で、それでいて気障な男だ。僕が知る限り1番の変人でもある。
 「お前が来ないと映研部の活動に支障が出てくるんだよ。特に俺は毎日きっかり6時半には校門を出て、7時きっかりには家に着かなきゃいけない。これはお前が怠惰な罰だ。」  
 僕は昨日のことを思い出す。突然切羽詰まった様に「ミステリ映画を作りたい」と僕に詰め寄ってきた祐介の顔。僕がミステリ好きだから、という短絡的な理由でプロジェクトに参加させられることになったのだ。しかも強制的に。「脚本についてのアドバイス等が欲しい」などと言っているが、経験上、彼が欲しいのは少し専門知識のあるお手伝いに過ぎない…!
 「忘れてたんだ。映画になんて興味がないからな!そもそも“部”室とか映研“部”とか言ったって、祐介のそれは映画研究“同好会”じゃないか。」  
 もう薄々お分かりだろうが祐介は大の映画好きで、将来の夢は小さな頃から映画監督であった。そして今彼は、たった1人しか在籍していない“映画研究同好会”で、せっせと映画作りに励んでいるのである。
 「それは違う。俺が部を作るときに登録した名前は、“映画研究部同好会”だ。つまり、映研部と呼んでも何の差し支えもない。」  
 もとい、“映画研究部同好会”らしい。めんどくさい奴め。 「そんなことは関係ない!そもそも僕は帰宅部だし、祐介の依頼を受けるなんて一言も……」
 「ああ、うるさい。お前が遅れたんだから早くしろよ。」  
 清々しい程の理不尽さに半ば呆れつつも、僕はしょうがなく映画研究部同好会の部室へと向かった。

 
 映画研究部同好会

 
 映画研究部同好会の部室は、校舎東棟3階の理科室の奥にある、こじんまりとした部屋だった。そこには4人くらいが使えそうな机と3つのパイプ椅子、なぜか新しめのホワイトボード、そして雑多に機材が入った学校らしい棚があるだけだった。なかなか良い雰囲気だ。その狭さはまるで秘密基地のようで、僕の男の子の心が嫌でもくすぐられる。窓は北側にひとつ。そこからは先ほど一階から見ていたより高い位置から校庭が見下ろせる。
 「へえ、同好会でも部室ってもらえるんだね。」  
 僕はニヤリと笑って言う、
 「ああ。少し、頑張ったんだよ。」  
 祐介はニコリともせず言った。大方、先生に何度も頼み込んだ、というところだろう。自分の好きな事には全力を出せる、しかし興味ない事には全く動かない。祐介は僕と同じ人種なのだ。
 「昨日も言ったが、俺たちはこれからミステリ映画を作る。そういうことで光太。お前を呼んだんだが、まずお前に聞きたいことがある。」  
 棚の奥から電子ポッドと茶葉、そしてティーポットを取り出した祐介は、優雅な手つきで紅茶を淹れはじめた。どこに隠してんだよ。  
 僕はパイプ椅子に腰掛けて答える。
 「聞きたいことって、何だい?」
 「聞きたいこと、それは……」  
 祐介はいやに勿体ぶって言葉を溜めた。そして何処からか出してきたティーカップ2つに紅茶を注ぎ、僕の前に置いた。いちいた気障な奴だ。
 「…なぁ、ミステリって、何だ?」  
 祐介の凄まじいワイルドピッチに、僕は紅茶のひと口目を噴き出しそうになる。  
 何も知らねぇのかよ!そう叫びたくなるのをグッと堪える。
 「何も知らねぇのかよ!」  
 おっと堪えきれなかった。僕は叫ぶと気管に水が入ってしまい、一気に咳き込んでしまう。僕は涙目で馬鹿を見上げた。祐介はこういう所がある。頭は良いらしいが、時々驚異的なくらい間抜けだ。
 「全く知らない訳じゃないけど、光太の話を聞いてみたいんだよ。」  
 僕がどれだけ祐介と過ごしてきたことか。長年の勘で分かる。こいつは本当に知らないな。何故知らないものをやろうと思ったのか。そこらの密室なんかより100倍謎だ。  
 一瞬荷物を背負ってそのまま帰りたいという欲求に駆られたが、そんな事をしては今後何が起きるかわからない。僕は溜息を吐いて、覚悟を決める。ここは一肌脱いで、講釈してやろうじゃないか。  
 僕は席を立ってホワイトボードの前に立った。祐介は向かい側の椅子に座った。
 「まず、「ミステリ」の意味は知ってるかい?」
 「知ってる。mystery。不思議とか怪奇とかいう意味だ。」
 「そう、その通りだ。そして、その言葉通り、不思議、神秘、怪奇等のフィクション作品を総じてミステリと呼ぶ。僕はその中のミステリ小説しか知らないから、それについて少し話そう。」  
 祐介は棚からバームクーヘンを取り出して、切り分けはじめている。本当に聞いてるのか?僕は無視して続ける。
 「ミステリ小説には大きく分けて5つくらいの種類がある。それは……」  
 僕はホワイトボードの上部に“ミステリ小説”と書き、その下に5つの点を並べた。そして喋りながらペンを走らせていく。 「
 主にサスペンス小説、警察小説、スパイ小説、ハードボイルド。そして最後に……本格ミステリ。」  
 僕は最後に挙げた本格ミステリの点に大きく丸をつけた。
 「祐介がやりたいのは映画だろう?なら、この本格ミステリが良いよ。何故かと言うと、他のミステリは比較的映像化の敷居が高いから。サスペンス小説やスパイ小説ならギリギリ行けるかもしれないけど、警察小説なんかはまず無理だとと思うな。」
 「本格ミステリは映像にしやすいのか。」
 「まあ、僕が言ったことをまとめるとそうだけど、厳密には結構違う。本格ミステリって言う言葉はあまりに広義的で曖昧な物なんだ。その中に沢山の種類があるから、一概には言えない。しかし、そのぶんやり易そうなものも多いってことさ。僕が映像化しやすいジャンルとして真っ先に思い付くのは“暗号解読”とか“日常の謎”とかかな。どちらも、製作の上でどうしてもネックとなる演出―例えばリアリティが必要な人の死体とか、より専門的で高度な知識が必要な場面とか―を回避しやすいと思う。」
 「それは良いな。ところで、“日常の謎”ってなんだ?」
 「“日常の謎”って言うものは、文字通り日常に潜む謎に迫ったミステリー作品の事なんだ。現実に起こり得るかもしれない身近な謎が多いから、物語に入り込みやすいことも特徴だよ。これは僕たち学生でも作りやすい。ひとつ例を挙げるとするならこんなのはどうだろう。“喫茶店で、三人の女子高生がサービスで置いてある砂糖を大量に競い合うように入れる不可解な行動をしている”」  
 祐介は目を閉じ、時間をかけて考えた後、優雅に降参のポーズを取って
 「それだけじゃ情報が少な過ぎる。もっと詳しく教えてくれないか。」
 などと曰う。
 「これは北村薫作『空飛ぶ馬』の中の『砂糖合戦』と言う話だよ。名著だよ。是非読んでみて欲しい。きっと参考になるはずさ。でも、僕の口からは語れない。小説ってものは自分で読むからこそ感じられるものがあるからね。その機会を奪うつもりはないさ。」  
 祐介の顔が少し歪む。これから僕が言う事がなんとなくわかってきたのだろう。僕は迷わず続けた。
 「総括しよう。僕が映画化するとして1番推すのは“日常の謎”だ。でも祐介なら、もしかしたら“暗号解読”でも面白い物が作れそうだ。工夫したら他のものも作れると思うから、まず僕がおすすめするのは自分でミステリに触れることだ。」
 僕は最後にホワイトボードに大きく“ミステリに触れること”と書いた。  
 祐介は親友だが、こんな茶番に付き合っている暇はない。さっきの仕打ちも許してはいない。そして今は、本の続きも気になる。
 「これで僕が知っていることから考えた祐介へのアドバイスは以上だ。それではお暇させて頂くよ。紅茶、ありがとう。実に美味しかった。」  
 僕は先刻教室を後にしたくらいのスピードで部屋を出て行こうとする。しかし、僕の腕を祐介が掴んだ。
 「なあ、時間があまり無いんだ。ミステリ映画を作れって兄貴が言うんだよ。」  
 祐介が背後で泣きつく様に言う。  
 そういえば、祐介の兄貴は4月から演劇を学びにヨーロッパに行くんだったな。祐介の兄貴、有吾さんは僕が手放しに尊敬できると思う、数少ない大人の1人だ。
 彼は、とにかく全てがカッコいいのだ。ルックスもさながら、立ち居振る舞い、趣味、性格まで。祐介とは大違いだ(ルックス以外)。しかも大のミステリ愛好家で僕が敬愛する理由はそこにもある。有吾さんはここ半年くらい忙しいらしく、僕は彼に会えていないが、会いたい気持ちは変わらない。手をつけてなかった有吾さんおすすめの江戸川乱歩の全集をちょうどこの前読み終えたところなのだだ。早く有吾さんと話したいな。
 「兄貴は4月に出発するから、その2週間前くらいには完成させたいんだ。」  
 そうすると、締め切りは3月半ば。つまりあと1ヶ月程しかない。  
 僕は立ち止まって暫し一考した。  
 僕がここで祐介の手伝いをすると、真っ正直な祐介のことだから必ず僕のことを話してくれるだろう。そうすれば彼からの評価も上がる。勿論その場合出来が悪いのを作るわけにはいかない。うんといいものを作らなければ。僕はメリットデメリットを考え、憧れの有吾さんに良いところを見せたいと思った。
 「分かったよ。しょうがないな…」  
 そう言って振り向くとそこには鼻に掛かる笑みを湛えた祐介が立っていた。
 「はい、お願いさん。」  
 祐介は真っ新な絵コンテ用紙と作文用紙を僕の両手に渡して、余裕綽綽の様子で席へと戻りティータイムの続きをはじめた。そして
 「やってくれると思ってたぜ。」  
 などと言う。
 「なあ、祐介。手伝ってやるよ…手伝ってやるけどよ…」  
 僕は手に持っていた紙をテーブルに置いた。
 「いっぺん殴らせろ!」  
 そして、まさに祐介の後頭部を|叩《はた》いてやろうと手を上げたその時、こんこんとドアをノックする音と共に、
 「ねえ、コータ居る?」
と聞き慣れた声が聞こえた。聞き慣れてはいるがいつも学校では殆ど聞かない声だ。それが今聞こえたと言うことは…まずい。ガラッと扉が開いた。
 「あー、えっと、喧嘩中だった?」  
 これは…まためんどくさい事になりそうだ。  

 幼馴染み


 「あー、えっと、喧嘩中だった?」  
 うるうるとした目で首を傾げる彼女の名前は辻村瞳。僕の…幼馴染みと言うのだろう。クラスは祐介と同じ1年C組。バレー部期待の新人で、1年生ながらレギュラー入りしているスポーツマン、いや、スポーツウーマンか。
 「大丈夫だよ。そんなんじゃないさ。」  
 僕はグッと気持ちを押し込めて答える。すると、
 「そうだそうだ。」
 と祐介も横から言ってくる。うるさい。
 「ああ、それなら良かった。」  
 瞳はまるでアニメの登場人物のようなリアクションで安心した後、スッとシリアスな表情になり、どうやってここ来たかを尋ねる間もなく本題に入った。多分、さっきの出来事をB組の生徒の誰かにでも聞いて、僕らが映研の部室にいると思ったのだろう。
 「ところでコータ。私ちょっと今日気になることがあって…」  
 またこれだ。実は瞳と僕は家が隣同士で、何か話したいことがあればいつでも帰れば話せるはずなのだ。しかし、それでも学校にいる間に瞳が僕を訪ねてくると言うことは、何か気になる“謎”を見つけてしまったからに違いない。  
 小学生の頃、瞳のふとした疑問を解いてあげてから、謎を発見すると僕に聞きに来るというルーティンがすっかり出来上がってしまっていたのだ。困るんだよ、下手に期待されると。今までは何とか運で解決できてはいたものの、今回もそうできるとは限らない。
 「ところで、部活はどうしたんだよ」  
 僕は話の腰を折って、どうにか有耶無耶にできないか、苦し紛れに質問をしてみる。
 「そう、そうなの。部活のことなんだけど…」  
 …おっと、やってしまったようだ。祐介が隣で紅茶を少し吹き出した。笑ってるんじゃねぇぞ。
 「いつもは部活に来る由紀がね、今日はなんか態度がおかしくて、ちょっと体調悪いのかわからないけど、もう帰っちゃんたんだ。」  
 ふむ。瞳はいつも通りよくわからない。
 「そんな事、由紀さんの友達に聞いてみればいいんじゃないかい?」
 「由紀はそんなに友達作るタイプじゃなくて、1番の親友は私なのよ。」  
 胸を逸せて誇らしげにそう言う彼女を、僕はとりあえずパイプ椅子に座らせた。  
 しょうがない…逃げられないなら、じっくり聴いてやろうじゃないか。

 
 エルサの真実


 「わかったよ。瞳。順を追って話してくれ。」  
 僕は彼女の目を見て言う。
 「まず、由紀さんって誰だい?」  
 すると祐介が口を開いた。
 「1―Cの青崎由紀だよ。ほら、エルサって呼ばれてる子だ。光太も知ってるだろ?」  
 ああ、瞳に聞くより何倍もわかりやすい。青崎由紀、叉の名を1のCのエルサ。この学校ではちょっとした有名人だ。整った容姿に良い成績。運動神経も抜群で、今目の前にいる瞳と同じように、一年生ながらも不動のレギュラーの座に着いている。そのうえ品行方正で、自分にも他人にも厳格なその姿は不思議と見る人に自然と“お嬢様”を思わせるのだ。そして、何より目立つのはその白みがかったグレイの髪だろう。人より色彩が薄く目立つその髪は、その容姿と相まって素晴らしい造形を作り出しているのだ…ということらしい。僕の知っていることはどれも噂の域を出ないものだ。正直なところ何回か見かけた覚えがあるくらいで、殆ど知らないのだ。まあ、噂と明らかに違うようなところは無かったと思う。  
 彼女はそのハイスペックさと厳格な性格、そして何よりその髪色からだろうか、数年前に流行った児童向け映画に出てくる氷の女王の名前が冠され、嫉妬と尊敬の入り混じった視線を向けられている。
 「それで、由紀さんがどうかしたの?」  
 僕はひとまず瞳に聞いてみる事にした。どうやら瞳はよっぽど興味津々なようで、一気に話し始める。
 「由紀はね、とっても真面目で努力家なの。だからいつもは部活に誰よりも早く来て練習をしてるんだ。でも今日はなんだか朝から様子がおかしかったの。」  
 祐介が何処からかティーカップを取り出し、紅茶を淹れ、瞳の前に置いた。
 「あ、祐介くんありがとう。」  
 瞳はひと口でその紅茶を飲み切ると、また話始めた。忙しない女だ。
 「それで、由紀はずっとそんな感じで、結局帰りの会が終わったと同時に鞄持って帰っちゃったんだ。ねえ、祐介くん、おかわりある?」  
 彼女は空のティーカップを祐介に差し出す。祐介は軽やかな手つきでそれを受け取り、ポッドからもう一杯淹れ始めた。
 「どうぞどうぞ。茶葉は余ってるんだ。幾らでも飲んでくれよ。」  
 その間僕は思案していた。瞳は、気になり出すと解決するまで止まらない猪突猛進なタイプだ。僕が納得のいく回答をしない限り離してくれないだろう。これがまた面倒臭いのだ。もし万が一そうなれば、今日の読書は諦めるより他はない。だからどうにか納得してくれるような仮説を考え出すしかない。だが、この情報の量ではどうしても足りないな。
 「なあ、瞳。他に何か気になることはなかったかい?」  
 彼女はいつのまにか、祐介が出したバームクーヘンを口いっぱいに頬張っていた。何とか飲み込んで答えた。
 「いや、気になることはなかったよ。」  
 これは伝わってないな。言い方を変えてみよう。
 「じゃあ、今日起きた事をはじめから全部説明してくれないかい?」
 「わかった…」  
 瞳と話す時には、工夫が大事だ。
 「今日はいつも通り朝練のために登校したよ。その時にはもう由紀はいたかな。」
 「ああ、由紀さんは朝練の時は部活をしていたんだね。それは何時頃?」
 「確か…7時ちょうどくらいだよ。由紀はもう来てて、ひとりで壁打ちしてた。偉いよね。家も部内で1番遠いはずなのにいつも1番乗りなの。…それから5分くらいしたら先輩も全員集まったらから、いつも通り練習を始めたの。そして朝練を終えて8時に教室に行ったわ。おかしな事は何も無かった。ちょっと由紀はソワソワしてたけど、大会前だし緊張してたからみんなそんな感じだったよ。そっから普通に授業を受けた。あ、そういえば…」  
 彼女は何か思い出したようだ。
 「…そういえば、由紀、昼休みに西棟の副生徒会に生徒会活動をしに行ったよ。確か…」  
 彼女はこめかみに指先を当てて思い出そうとしている。少し時間がかかりそうだ。僕は紅茶をひと口飲んだ。窓の外では数名の陸上部がトラックを走っている。先程教室にいた時から少しだけ空が曇ってしまって、どんよりとした雰囲気が漂っている。
 「あっ、そうそう。由紀ね。部活用の鞄を持って、制服で向かったのに、なぜかジャージに着替えて帰ってきたんだ。どうしてかな〜とは思ったけど、理由は聞かなかったなぁ。」  
 ほうほう。なかなか難解になって来たぞ。関係があるかどうかはわからないけど、続きを聞くか。
 「それからはまた、普通に午後の授業を受けて、帰りの会が終わったんだ。そしたらね、その瞬間に私の前に来て、“ごめん。今日は部活行けない”って言って走って教室を出ていっちゃったの。」
 「出ていったと言ったけど、由紀さんが帰った事はしっかり確認したのかい?」
 「うん。窓から、校門から走って帰ってく由紀を見たんだ。」  
 そうか…。僕は思案した。これだけじゃ何もわからないな。僕はそう思いながらホワイトボードに向かった。ホワイトボードを裏返し、新しい真っ新なところにこう書く。
 『由紀さん部活サボり事件』
 「ねえ、由紀はサボってるわけじゃないよ。きっと理由があるから、それを考えようって…。」  
 瞳が不服そうに言う。
 「そういえば今女バレは部活中だと思うけど、大会前なんだろ、瞳は行かないの?」 「
 わ、私はいいのよ。よくサボるし。今は由紀が来ないのが心配なの。」  
 そう言って瞳は顔を赤くした。何故赤くなるのかわからなかったが、僕はそのまま作業を続ける。
 「今回の謎は『いつもなら人一倍努力するはずの由紀さんが部活をサボって帰ってしまった。それは何故か?』だな。そして今まで確認できたおかしな事は昼休みに生徒会活動へ行き、帰ってきた時にジャージに着替えていた事、これだけだ。」  
 閉邦高校では朝練は許可されているが、昼練は許可されていない。生徒会活動でまさか運動するとは考えられないが、どんな作業をしたのだろう。制服をジャージに着替える理由として考えられるのはどんなものがあるだろう。  
 あ、そういえば。
 「なあ、祐介もC組だろう?由紀さんについて何か知っているかい?」  
 悠長に窓の外を眺めてティーブレイク中の祐介に尋ねる。こいつは話を聞いているかも怪しいが…もしかしたら望みがあるかもしれない。
 「ああ、青崎の話か。実は今日、俺は青崎とする生徒会活動が昼休みにあったんだが…」  
 僕は全く予期していなかった答えに驚愕した。そういやこいつも生徒会だったっけか。
 「おい、何でそんな事を黙っていたんだよ。すっごく大事な事じゃないか。」
 「聞かれなかったから。」
 「ああ、そうかよ。」  
 そうだった。こいつはこういう奴だ。
 「それで、どうだったんだ?その時の由紀さんの様子は。」
 「青崎は俺とクラスが一緒だからな、普通なら2人で西棟に行けば良かったんだが。俺は職員棟に用があったからそこに寄ってから西棟の副生徒会室へ向かったんだ。そこで昼休みに会計の仕事をするはずだった。」
 「はず?やらなかったのか?」
 「ああ、そうだ。実はこの作業、会計係の俺と青崎、2人でやる仕事だったんだ。しかし、青崎が来なくてね。結局1人でやる事になったから、終わらせる事ができなかったんだ。」
 「そうか。そのあと教室に戻ったあと、由紀さんは様子はどうだった?」
 「ああ、“昼休み行けなくてごめん。”とは言われたな。その時はすごく焦ってる様子だったよ。」
 「ありがとう。」  
 祐介の話をホワイトボードに書き加える。  
 僕は数分ほどそれに向かい合って考えていたが、その後落胆した。衝撃の新事実に少し興奮したが、状況はあまり好転していないないことに気づいたのだ。これでは納得のいく仮説は立てられない。会計など、ジャージに着替えるまでも無いような作業だし、そのうえ副生徒会室に居るはずだった由紀が居なかった、という新しい謎まで作り出してしまった。  
 僕は思いつくままに話した。
 「由紀さんは体調が悪かったのかもしれない。でもこれは違うかな。体調が悪い時により防寒性の低いジャージに着替えることは考えにくい…。または、何か家の用事があって早めに帰ったのかもしれない。昼休みに生徒会活動をサボってまでジャージに着替えないといけないような用事が…。」
 僕は苦しい仮説に沈黙した。ダメだ。これでは完全に行き詰まってしまっている。この情報量では、僕に結論を出すことはできない…。
 「僕が考え得る学校で起きた事象によって由紀さんが部活に行くのを止め、家に帰ってしまう可能性はとても低い。だから何か別の、外部の理由があったんじゃないか…?なんにせよ瞳の話だけで推理できる物じゃない気がするんだ。彼女は学校でも有名な完璧人間だし…」
 「え?由紀が完璧人間?」  
 瞳が僕の言葉に目を見開いて驚いた。
 「あれ、何か間違えてる?」
 「それは違うよ!確かに勉強も運動もすごく出来るけど…。まあ、コータは由紀のことあんまり知らないものね。由紀も人とはあんまり関わらないタイプだし、誤解されてるのかなぁ…。」  
 どうやら重大な僕は勘違いをしていたらしい。青崎由紀の人柄を、噂ばかりのバイアスのみで考えていた。これは僕の完全な失態だ。初歩的な過ちを恥じる心と、これで解決に近づくかもしれないと期待する心、それぞれ半々の状態で瞳に聞く。
 「じゃあ…その、由紀さんはどんな人なんだい?」
 「由紀はね。簡単に言うと真面目でかわいいドジっ子だよ。」  
 瞳は破顔した。
 「この間だってね、料理が苦手だから練習したいって由紀の家で2人でお菓子を作ったんだけど、その時由紀、砂糖と塩を間違えて入れちゃって、本当に塩辛いマフィンが出来たんだもの。あの時は笑ったなぁ…」  
 瞳の話を聞いて、僕は頭のなかで再び事実を確認しはじめた。可能性が限りなく広がっていく感覚がする。  そ
 して、僕はすぐに一つの仮説に辿り着いた。初めの方に捨ててしまっていた仮説だ。確認は必要だけど、きっと間違いは無いだろう。しかし、これは…この状況はまずい。  
 僕は少し考え、瞳にお願いをすることにした。
 「ねえ、瞳。ちょっとお遣いを頼まれてくれない?」

 
 ベタな置き場所こそ最初に確認すべし

 
 私は、幼馴染のコータのお遣いで、今生徒用玄関に向かっている。  
 コータのお遣いの内容はこうだ。
 『靴箱に行ってくれ。そして着いたらメールしてくれ。それから指示を出すよ。』  
 最後の階段を駆け降り、玄関に着いた私は、早速スマホを取り出し、コータとのチャット欄に文字を打ち込んで送信した。
 “靴箱着いたよ!私は何をしたらいいのかな???”  
 すると殆ど時間を空けずにコータから返信が来た。  
 “まずは由紀さんの靴箱を確認してくれよ。”
 “おっけ!”  
 由紀はとっくに帰ってしまったはずだ。その靴箱に何があると言うのだろう。そんなことを思いながら私は由紀の靴箱を開けてみる。すると、そこにはなんと由紀のローファーが置かれているではないか。てっきり帰ったものだとばかり思ってた私は、心底びっくりした。校門から走って行く姿は見たけど、まさか戻ってきていたなんて。
 “由紀の靴がある!まだ帰って無かったんだ!”  
 送信っと。またすぐに返事が届く。
 “その靴の種類は何だい?”  
 私もすぐさま返信した。
 “ローファー!!!”
 “やっぱりそうか。良かったよ。じゃあ、家庭科室に向かってくれ。きっと由紀さんはそこにいる。そして、多分、これは多分だけど、彼女は瞳の助けを必要としている。”  
 私にも少しずつ事の全貌が掴めてきた。私はコータの賢さに笑い、そして由紀の可愛さにも笑った。
 “コータありがとう!由紀を助けてくるね!”  
 コータはいつも頼りになる。私より先を見て、私を助けてくれるんだ。私は頬が紅潮するのを感じた。待って、今は由紀の一大事なのよ!時計を見ると、5時20分を過ぎたところだった。それと同時にスマホの通知音が鳴る。画面を見ると、コータから新しいメッセージが来ている。
 “P.S.そういえばだけど、祐介は6時30分きっかりに校門を出て、帰ってしまうよ。”  
 私はそのメッセージを見ると急いで家庭科室へ駆け出した。  
 そう、早く乾かすには、テンパリングが大事なのだ。  
 全速力で家庭科室に着き、扉を開けるとジャージにエプロン姿の髪色の薄い少女が、所々にチョコレートを浴びながら、涙目でボウルに向き合っていた。彼女は扉が突然開いたことに驚き、ビクッとしてこちらを見た。  
 可愛いな。私はふふっと笑った。
 「由紀。その混ぜ方だと過結晶になっちゃうよ。乾くのに時間がかかって間に合わない。」  
 私は教卓に置かれていたエプロンを素早く着て、由紀に近づいていく。
 「瞳ちゃん、助けて。」  
 由紀が涙目で私に助けを求めてくる。彼女が混ぜるボウルの横には近くのスーパーの袋に入った複数枚の板チョコと、昼休みに壊してしまったであろう手作りのチョコレートが置いてある。手作りチョコの方は割れてしまうまでは綺麗なハート型だったのだろうが、今は無惨な形になってしまっている。でも…これなら。
 「由紀、大丈夫だよ。これなら間に合う。とびきり美味しいの作ろ!」  
 私はエプロンの紐をキュッと締めなおした。

 
 スノータイムリミット

 
 僕は瞳を送り出した後、ミステリ映画の大まかな方向性について祐介と議論した。祐介はまるで瞳がここを訪れたことは忘れてしまったかのように、熱心に映画について話している。スマホを確認すると、瞳に最後に送ったメッセージには返信こそないが、しっかりと既読が付いている。これならもう心配することはないだろう。あとは瞳が上手くやってくれているはずだ。  
 その議論によって、最終的に今回の映画では“暗号解読”をメインテーマとして扱う事になった。僕は議論の流れから、『頭を使うのが好きな祐介のことだ、面白いものを作ってくるだろう』などと安易に考えていたが、どうやら祐介は脚本は書き、その根幹となる謎の作成は僕の担当らしい。やれやれ、また一つ仕事が増えてしまった。しかし、有吾さんの為だ。頑張ろう…。  
 6時20分を回った頃に、僕らは部室を後にした。職員棟に鍵を返却し、校門へ向かう。  
 上手くいっていたのなら、きっと校門に2人が居るはずだ。しかし、校庭には彼女たちの姿は見当たらなかった。  
 間に合わなかったのかな…。そう思いながら僕と祐介がちょうど校門を潜り、外へ出ようとしたら時だった。  
 校舎の方から祐介を呼ぶ声が聞こえた。そう思うのと同時に髪色の薄い可憐な美少女がこちらは走ってくれではないか。  
 僕は途端にホッとした。良かった。間に合ったんだ。
 「祐介くんっ!」  
 全速力で駆けてきた由紀さんは姿勢を正すと、聡明そうな瞳で祐介を見つめた。
 「ねえ、時間あるかしら?話があるの。」  
 祐介は事態が飲み込めない様子で、唖然としていたが、ちょっと遅れて。
 「わ、わかった。青崎。どうしたんだ?」
 「えっと、私…」  
 そう言って由紀さんは俯いてしまう。ここに来て、勇気が出ないのだろうか。僕は心の中で応援した。頑張れ!  
 その時だった。  
 何かが空から降ってきて、僕の頬を濡らした。
 「雪だ…。」  
 僕が言うと、由紀さんと祐介も空を見上げた。粉のような雪がふわりふわりと、無数に空から舞い降りてくる。  
 僕らはその光景にしばし目を奪われていた。それはとても美しい景色であった。そして、空を見上げたままの由紀がポツリと言った。
 「私、祐介くんのことが好き。」  
 僕は横目で祐介を見ると、彼は今まで見たことないような顔をしていた。これは良いものを見せてもらったな。  
 僕はその場からゆっくりと離れ、その雪の中、校舎の方に居る瞳の許へ向かった。もうあの2人は、大丈夫だろう。  
 タイムリミットに間に合ったのだ。  
 僕が近くへ行くと、瞳は誇らしげな表情で言った。
 「間に合ったね。本当に良かった。ほら見てよ、あの2人。」  
 そう言って校門の方を指差す。そしてうっとりとした表情で言った
 「ホワイトバレンタイン。あの2人に、すっごくお似合いね。ねえ、そうは思わない?」
 「うん。その通りだと思うよ。」  
 僕は同意した。
 「ねえ、今日、一緒に帰らない?聞きたいことがあるの。」
 「いいよ。」  
 僕は答える。雪も降ってきたし、もうこんな時間だ。
 「早めに行こう。」  
 瞳は黙って頷いた。

 
 家に着くまで


 「ねえ、どうしてあの時に、由紀のこと全部わかったの?」  
 通学路。粉雪が降りしきる中、真っ白な息を吐きながら瞳が聞いてくる。僕は少し考えてから答えた。
 「瞳の話と祐介の話、それぞれを聞いてそれらを整理すると、まず最初に、由紀さんと祐介と2人きりの状況が生まれるはずだったことが分かる。それでまずは“バレンタインチョコをあげる”という可能性を考えたんだ。そして、西棟へ行くまでのに何らかの事件があって、生徒会活動ができなくなったんだ、ってね。他にもたくさん考えつく事はあるけど、情報がなかったから検証のしようがなかった。それにバレンタインデーに特別2人きりという状況において、そう考えるのが妥当だと思ったからね。でも、その時は上手に仮説を立てることができなかった。由紀さんが副生徒会室に行かなかったという事実と、ジャージ着替えていたという事実、それぞれにしっかりとした整合性を持った仮説が考えつかなかったんだ。でもそれは、僕が由紀さんの人柄について誤解していたからだったんだよ。瞳が由紀さんの人物像を教えて、僕の視野が狭窄してしまっていたのを気づかせてくれたおかげでこの謎は解決したんだ。由紀さんを瞳から聞いたような人であると考えることで、中庭を通って西棟に行くまでの間に転倒し、そのうえチョコを壊して制服を汚してしまった、という仮説を思いつくことができたんだ。それによって昼休みにジャージに着替えて生徒会活動を休み、そして放課後部活を休んで学校を出て行ってしまったことにそれぞれ納得のいく説明ができる。」
 「でも、なぜ転んじゃった事がわかったの?そんなのわからないんじゃない?」
 「まあ、確かにそう言いきることはできないかもね。でも制服を全身ジャージに着替えるなんて全身が濡れてしまう事くらいしか考えつかないし、それに昼頃まで…」  
 あっと瞳が声を上げる。
 「…確かに昼頃まで中庭には雪が残ってたわ。」
 「そうなんだ。でも、これでも正しいと言いきる根拠には足り得ない。そこで靴箱を確認してもらったんだ。由紀さんが本当に学校へ戻ってきているかどうかと、その靴がこの僕が今履いてるスノーブーツとかじゃなく、滑り易い靴かどうかを、…例えばローファーの様な、ね。」
 「そうなのね…。じゃあなぜ由紀が学校に戻ってきていることがわかったの?そう推測した理由、教えてよ。」  
 なんだ、そんなことは簡単だ。僕は横にいる瞳を見て言った。
 「瞳が由紀さんの家は学校から遠いって言ったんだ。チョコレートは今日のうちに渡したいだろう?だからさ。」
 「…そうなんだ。コータ、凄いね。」  
 数秒の間をあけて瞳が感心したようにポツリと言った。そして、気づくと僕らは見慣れた場所にいた。夢中になって話しているうちに、家に着いたのだ。  
 瞳の家の方が学校に近いから、時々一緒に帰る時には、瞳が家に入るのを見届けてから家に帰る。
 「じゃあね瞳。良いものも見れたし、今日は結構楽しかったよ。」  
 そう言って僕は行こうとした。その時、瞳が僕の手を握った。瞳は手袋をしていて僕は素手。彼女の手の温かさが布越しに伝わってくる。
 「ねえ、話。もうひとつあるの。」
 「何?」  
 僕が振り向くと、瞳はハイっと言ってチョコレートを手渡してきた。
 「これ、あげる。」
 「え?あ、ありがとう。」  
 僕は驚いた。瞳と知り合って12年余りになるが、こんなことははじめてだったからだ。僕は心が温かいもので満たされていくような感覚がした。
 「勘違いしないでよ。さっき作ったのじゃなくて、朝作って家から持ってきたやつだからね!」  
 彼女は笑って言う。勘違いしないでって、そっちかよ。僕も笑った。真っ白な雪の中、今目の前にいる少女が、僕には本当に綺麗なものに見えた。
 「今日はありがとう。じゃあね。1ヶ月後、素敵なお返しを楽しみにしてるから。」  
 そう言って瞳は顔を赤くして、足早に家に入っていってしまった。ガチャリとドアが閉まり彼女が視界から消えた後、僕はそこで呆然と立ち尽くして、少しの間、ひたすらに降り続ける雪を見ていた。  
 そうしているうちに僕は、瞳が部活をサボって僕のところに来ていた理由が、なんとなくわかった気がした。そしてまた、笑った。  
 その日は、家に帰っても、ページを捲る手は全く進まなかった。  


  終 僕のリミット

 
 あの日、バレンタインデーから3日が経った土曜日。  
 瞳と由紀さんはバレーの大会で市民体育館へ行っており、祐介も由紀さんの応援の為に同行しているそうだ。祐介はあの日から目に見えてデレデレしている。あれから毎日、映研に付き合わされているので、正直言って非常に不愉快である。   
 映画制作の方は、今僕が有吾さんのためにせっせと映画の“謎”を考えている最中だ。これがなかなか楽しい作業でこれからは読書くらいはまってしまいそうだ。まだ脚本の状態で、一ヶ月後の締め切りに間に合うかどうかはわからないが、ベストを尽くそうと思う。久々に夢中になれることを見つけられた気がする。  
 一方瞳と僕はというもの、あれから何もない。正直どう接すればいいのか分からないのだ。自分には全く縁のない物だと思っていた世界に、たった一つのチョコで放り出されてしまったのだ。僕はまだ、自分の気持ちさえ掴めていない。まあ、これにも一ヶ月あまりのの余裕がある。  
 そう、僕のタイムリミットは約1ヶ月後、ホワイトデーのその日なのだ。  
 だからそれまで、気長に考えようと思う。