チェーンソー和歌
チェーンソー和歌とは、和歌の憎たらしさを競う歌会のことである。
概要[編集 | ソースを編集]
参加者が和歌を持ち寄り、その憎たらしさを競うことを目的とする歌会・スポーツである。参加者は、他の参加者の和歌の憎たらしさを怒りに変えることが認められている。また、そのような怒り狂う参加者によって、審査員がチェーンソーで殺害されることは慣習となっている。
1905年9月17日(奇しくも日露戦争終結の直後である)に、当時シズーカ州全土で名を馳せていた日本人歌手のミナト・ハヤカワによって公表された[1]。当初の目的は専ら「和歌のイメージを覆す」ことであったが、次第に通常の和歌や歌会とは大きく異なった姿を見せるようになった。特に、近年ではそれの意味する範囲が広がっていて、「巧みな憎たらしさ」「人間的な怒り[2]の呼び起こし」「ケンゼイングの芸術性」などがしばしば、主に哲学研究の対象となる。
提出される和歌を「エルガー (Ärger) 」、その和歌を作る人を「アインツェルゲンガー (Einzelgänger) 」、審査員を「シックザール (Schicksal) 」と呼ぶ場合もある。
「チェーンソー和歌」との名前がついているのにもかかわらず、和歌そのものではなく「歌会」を指す理由については、いまだに説が定まっていない。
流れ[編集 | ソースを編集]
チェーンソー和歌は、概ね以下のような流れで行われる。
- 歌会の2週間前までに、「他人の顰蹙[3]を買うことを狙った和歌」を自作し、茶封筒に入れて審査員に提出する。
- 歌会当日、専用の歌会室に集まる。
まずはじめに、審査員が最も憎たらしい和歌の作者を優勝者として発表し、参加者全員で息を揃えて34回拍手をする。ただし数え間違い等で32回やら35回やらになっても黙認される。 - その後参加者は、和室に座布団を引いて円形になって座り、各々の和歌を回し読みする。この時、たとえいかに激しい怒りを覚えようと、それを爆発させることは決して許されない。
- 自分の和歌が手元に返ってきて回し読みが終わる。そのきっかり0.47[4]秒後、参加者は手元の自作和歌を横に破き[5]、これまで抑えていた怒りを露わにする。
- 参加者一同の怒りが露わになったら、後は「時の移ろいに己が身を任せ[6]」、滅茶苦茶に振る舞う。それが滅茶苦茶であるほど良いとされる。別に何をしてもよいのだが、具体的な行為としては、慣習的に参加者同士で争いをすることが多い。ただし、どのような場合においても、審査員の殺害というゴールを見失う行為は望ましくない。
- 「ケンゼイング」を行う。
- たまに、終了直後「2次チェーンソー和歌」として2次会のようなものが開かれることもある。そのようなとき、審査員が殺害されている場合は新しい審査員を迎えて、1から6の手順を繰り返す。
- 3次会は決して開催されない。常識的に考えて、3次会はパワハラである。
ふさわしい和歌[編集 | ソースを編集]
チェーンソー和歌において提出される和歌には、以下のように、形式についての慣習的なルールが存在する。
- 5音―7音―5音―7音―7音の31音で詠むこと。
- 分かち書きはしてもしなくてもよい。ただしする場合は、意味の切れ目ではなく音の切れ目で行うこと。
- 下劣な言葉は使わないこと。
- 審査員を侮辱する内容でないこと。
- 漢字の数、仮名の数ともに3の倍数であること。
チェーンソー和歌において、技法的に詠み込む、いわば「普通の」和歌を提出する行為は恥ずべきこととされている。例えば以下のような歌である。
隠るとも思ほえなくに所置く時しなければ薬あたふる
歌意は「まさか死ぬとも思わなかったので、ためらうことなく薬を飲ませました」といったところであろう。この歌は1981年の冬、何者かによって提出された和歌で、何者かは「気取っている」と評した。気取っているかどうかは別として、これは明らかにチェーンソー和歌にはふさわしくない。古語表現を巧みに使っている点や、さして怒りが湧かない点などがその理由である。最近では何者かが「そうした和歌を否定する行為は、表現の自由の侵害だ」などと言い始めているが、それは「よその歌会でやってくれ」という話である。
余談だが、これを詠んだ何者かは、何らかの理由で何者かに暗殺された。
上の例とは反対に、以下のようなものは、チェーンソー和歌にふさわしい和歌の典型例として広く知られる。
確かめよ なんじの座る 座布団の 縫い目をよく見よ 何もないけど
四句目までを読んだ時、受け手は間違いなく「何だ?」と思い、自分の座っている座布団の縫い目を確認する。特に異変は見つからないので、「はて」と和歌の続きに戻る。ここで初めて自分が踊らされていたことに気付き、またあまりのしょうもなさに呆れ、結果強い怒りを覚えるのである。これが和歌であるかどうかは議論の内にない。「けど」の粗雑さが目に付いて鬱陶しいがそんなことは関係ない。むしろ、これくらいの馬鹿らしさ、芸術レベルの低さを持ったものほど、チェーンソー和歌では高く評価される傾向にある。
余談だが、才能ある参加者によって詠まれたこの和歌は、当時の歌会では4位タイの成績に終わった。悲しい話である。ちなみに一位から三位までの和歌は、憎たらしさがあまりにも強く、「公開され得ない和歌リスト」に登録されている。素晴らしい話である。
また、以下のように、「高次的な憎たらしさ」を持ったものも少なくない。
ああ君も すぐ怒るとは 馬鹿馬鹿し 思うに今も 怒っていよう
この和歌は「2次チェーンソー和歌」用として提出されたもので、つまり1次の際に怒りを露わにした受け手に対して「愚かだ」と言っているのである。この和歌は、「怒っていることを指摘することによって怒りを誘起している」と解釈され、したがって高次的な和歌だといえる。
余談だが、作者はこの歌会の64日後にヘロイン所持の疑いで逮捕・起訴・実刑判決を受け、さらに2日後に脱獄し、そしてその日の歌会の審査員を務めて殺害された。
さらに特殊な例として、
あははははっ、あははっ……あははは あははははっ あはははははは あははは、はは!
があげられる。この和歌においては、どのようなチェーンソー和歌理論も意味をなさない。すなわち、原因や現象についての説明はなにもできないが、この和歌を読むと「無性に腹が立つ」、ということである。
余談だが、数学に明るくない者が「3の倍数ルールどこ行った」などと苦言を呈することもあるが、漢字の数は(3x0=)0個、仮名の数は(3x10=)30個となっている。
なお、これまでの決まりや慣習を破ろうという前衛的な動きはすでに出始めていて、チェーンソー和歌の広がりが期待される。
歴代審査員[編集 | ソースを編集]
審査員は毎回殺害されるため、およそチェーンソー和歌が行われた数だけ歴代審査員がいる。
歴代審査員のほとんどは自殺志願者であった。
ケンゼイング[編集 | ソースを編集]
チェーソー和歌において、審査員をチェーンソーで殺害する行為をケンゼイングという。語源は定かでないが、ドイツ語で「チェーンソー」を意味する „Kettensäge“ から来ているのではないかとの説がある。
手順[編集 | ソースを編集]
争いが激化してくると、参加者の一人が歌会室備え付けのチェーンソーを取り外し、周りにほかの参加者がいないのを確認し[8]てからぶるんと右回りに一周振り回す。それを合図に参加者一同は騒ぎ声を強め、そして自らの思いを思い思いに叫ぶ。軽い思いでも、重い思いでもよい。11秒後にそれをピタリとやめ、室内音をチェーンソー音のみに保つ。その後一同は目をつぶり、チェーンソーを持っている人は前方にそれを投げる。
以上である。[9]
歌会によって起こった事件[編集 | ソースを編集]
チェーンソー和歌によって事件が起こったことは、現時点では一度もない。
脚注[編集 | ソースを編集]