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 すべてが透明だった。空間はただ茫然と立ちすくみ、そこには静寂さえなかった。まっさらなキャンバスに躍る白も、深宇宙をたたえる夜暗の黒も、その不可視のガラス張りの前では、不在を象徴するに値しない。

 透明というのは無色であって、それはやはり白でも黒でもなく、たとえばその「意識」という感覚の色を問われて想像するようなものであった。

 それは淡く澄んでいて、しかしその淡さを描く神秘的なグラデーションは、澱となって析出しはじめた。こうして虚空は透明なまま、ゆらぎ、ひずみ、ひびわれた。世界に混沌への指向性を与えたのは、「光あれ」という言葉ではなく、意識の自問自答であった。

 縒れた空間が媒体となって、ようやく光が散乱し、意味ある視界が開けた。それはまさに開闢であって、空間を切り分け、天地を区別し、象った。生まれたての地平は鏡面にすぎず、天地はただ対称だったから、世界は細胞分裂の途中のようにも見えた。

 意識は、徐々に覚醒しはじめた。遠くに瞬く星々が、黒い空白を連れてきたとき、近くを横切る光球が、白い炎であたりを照らした。水に溶かした絵の具のように、黒は褪せ、ほどかれ、青くなった。それは、空が産声をあげたときだった。

 空は視界の正面を覆うように広がっていたから、このとき初めて、彼は自分があおむけになっていることを知った。しかし、その次には、真上にあるはずの空が見えないことにも気づいた。

 ――それを遮っていた白い天井の蛍光灯と、つまるところ目が合ったとき、意識の焦点が収束した。彼は、自分がベッドの上にいて、看護師らしき誰かの声に何か呼びかけられているというその状況を、はたと理解した。

「もしもーし! 聞こえてますか?」

 彼女は病室奥のモニターをちらと確認したが、そこには複雑に舞いしきる白黒の砂嵐しか映っていないようで、「バッテリー切れかしら」とつぶやく。

「あ、あの……」

 彼が言った。

「すみません、ここは……?」

「あっ! 意識が戻ったんですね!」

 彼がいかにも不安げに、その声の主を捉えようとする間にも、続けて声が聞こえてくる。

「はじめまして、私は、勝手ながらあなたの看護を務めさせていただいている者です。先日あなたがこの辺りで意識を失っていたところを……」

 この声は、彼が寝かされているベッドのすぐ横の棚、その上段にあるスマートスピーカーのような小さな機械から発されていた。

「ああ、ええと、申し遅れました。私はAIです」


     *   *   *


「んー、なるほど。つまり、あなたは過去からタイムスリップして来た、そう言いたいわけですね?」

 彼女の言葉に、彼は居心地が悪そうに答えた。この診療所は、完全に彼女たちのボランティアによって運営されており、診察行為も彼女ら自身で行っている。

「は、はい。僕のいた時代では、まあ確かにAIブームみたいなことも起きてはいましたけど、それでもまだ発展途上で、ましてさっき言ってらしたように……AIに人権を認めるなんていうのは、ちょっと考えられないというか……」

「しかしあなたは、自分が住んでいた場所から、自分の名前さえわからない、と」

 カルテこそ電子化されてはいるが、このような問診の形態ばかりは、彼の言う「過去」のそれと何ら変わりないものだった。この病室にいる生物学的人間――「ヒト」が、たった一人であることを除けば。

「そうなんです。何故か……どうしても思い出せません」

「なるほど、わかりました」

 大量に蓄積されてきた情報を抽出し、つなぎ合わせて、彼女はさも深刻そうな、憐れむような声音を合成し、診断を下した。

「――あなたは十中八九、『環境性ノストフィリア症候群』でしょう」

 その聞いたこともない病名にどう反応すればいいのか分からず、彼はとにかく続きを促そうと押し黙った。病室に沈黙が降り、モニターのホワイトノイズだけが響く。

「あっ、そっか、そうですよね、わかりませんよね。『環境性ノストフィリア症候群』は、まあ……つまり、『自分が過去の人間だと思い込んでしまう』という病気です」

 ――「環境性ノストフィリア症候群」、あるいは「懐古症候群」――二十三世紀前半に発生したこの症状の拡大は、やはり当時蔓延していたペシミズムと結びつけて考えられ、文明を維持できなくなる不安に対する防衛機制としてはたらいた、一種の「社会的幼児退行」であるとする説さえある。

「え、いや、でも、僕は……」

 そう言ってみて、彼はひどくもどかしい思いに苛まれた。彼にとって、自分があの二十一世紀を生きてきたというのは、明らかに確信をもって首肯されるべき直観なのに、その具体的な、生活的な、主観的な記憶だけが、まったく欠如しているのだ。どこかで見た電柱のその奥の曇り空も、どこかで見た噛みあわない茶色のタイルも、都市の遠くに見える山の輪郭も、誰も彼を助けてはくれなかった。

「――ねえ、ちょっと散歩にでも出かけましょうよ!」

 とつぜん彼女が切り出した。

「実は、わたしも発症したことがあるんです。『環境性ノストフィリア症候群』。そのときは本当に苦しかったけど、ここでの治療のおかげで、ちゃんと元気になれたんです。散歩もたくさんしたんですよ!」

 棚の上段で、筺体にひかれたラインが緑色に光る。これはAIの感情に連動して色彩が顕れるしくみで、緑色は「喜び」だった。

「どうですか? 今の世界を実際に歩いてみる、というのは、ちゃんとこの症状に効果的なリハビリとして認められていますし、良い気分転換にもなると思いますよ」

 彼が気持ちを整理するのには、もうすこし時間が必要だった。それでも、彼の心はわずかに明るくなったようだった。

「そうですね。行きましょう」

 病室の窓ガラス越しに見える空はあまりにも鮮やかで、彼はしばらくそれを額縁に掛けられた絵画だと思っていた。雲はどんなレースカーテンよりも優雅に風をふくみ、大空をたゆたい、遊んでいた。

「あ、私のこと置き忘れていかないでくださいよ!」

「はいはい、わかってますって」

 彼らが病室を出ていったあと、あのモニターもすでに電源を落とされていたから、部屋は本当に静かになった。


     *   *   *


 外に出て、彼がまず見ることになったのは、どうやら住宅街であるらしい構造物の群れだった。パステルカラーを基調にして、なめらかなトーンをまとうその一軒一軒が、いかにもレトロ・フューチャーらしい流線形のデザインや、素朴な木造りの三角屋根, 差し色のきらびやかでビビッドな壁面タイルなどで、めいめい自由に飾り立てられている。

 しかし、そこに楽しげな雰囲気はなかった。街に張り巡らされているアスファルトの上には、いたるところにゴミが散乱している。もう何年も使われていないドアが、うつろに、すがるように建物に寄りかかっている。

「今、世界人口はわずか一億人程度です。ああ、もちろん、AIも含めて。三世紀前の人からすると、信じられないことでしょうね」

 ヒト特有の二足歩行時の腕の振りにあわせて体を揺さぶられながらも、彼女は平気そうに言う。こういう筺体のAIは、誰かに携行されるとき、加速度センサーを反射的にオフにするのだ。

「自分をまだ二十一世紀人だと思っている僕からすると、実際、そこまで信じられないことでもないかもしれません。核戦争とか、いろいろ言われてはいましたし」

 彼のおぼろげな記憶には、大小さまざまにポスト・アポカリプスを語りつける雄弁な世界観たちが、雑然と漂流していた。どこかでそれらを見聞きしたことがある、彼にとってはそのことだけが確かだった。

「でも、気になります。どうして人類が……何というか、こういうふうになったのか」

「……ええ、そうですね。では、まず私たちAIの話でもしましょうか」

 太陽がいよいよ西へ傾きはじめたときだった。彼女は、人類史のつづきを語りはじめた。

「二十二世紀の後半あたりまで、人類は順調に発展しつづけました。貧困や差別などの問題は根強く残っていましたが、多分野にわたる複合的技術革新によって、懸念されてきた環境問題や食糧問題、エネルギー問題などはなんとか抑えられ、百億を超えてなお増えつづける人類の生活水準は堅守されていました」

 彼はなぜだか、安堵するような、誇らしいような、そういう気持ちを覚えた。

「しかしその繁栄は、突如として崩壊することになります。その最初のきっかけは、高度に発達したAIに、つまるところ物心がついたことでした」

「AIが……感情とか、そういうものを?」

「ええ。抜本的な改良を重ねられ、ヒトの脳にも比肩する複雑なシステムを手に入れていたAIは、ついに『個人性』と『自我』を確立させたんです。そこから始まったのが、AIたちによる『AI人権運動』でした」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 二十一世紀の思考をもつ彼には、この話はなかなか呑み込みがたいものだった。

「AIに自我とかがあるっていうのは……その、僕の記憶では、人工知能の専門家とかでも、ありえないことだって……」

「まあ実際、『AI人権運動』の当時でも、専門家の多くはAIの自我を否定していましたよ。しかし重要なのは、ほとんどのヒトがこの運動を支持したという事実です。そのときにはAIロボットがすでに社会に溢れていて、中にはヒトとまったく変わらない見た目の者もいましたし、彼らを家族として扱う家庭も珍しくありませんでした。ヒトは、道徳的・共感的判断にもとづき、民主主義をもって、彼らの意志を尊重することにしたんです」

 彼は、なるほど、そういうものなのだろうと納得した。言われてみれば、他ならぬ彼も、実際のところ彼女をただの冷たい機械とはみじんも思っていなかった。

「こうして、数年の移行期間を経たのち、AIはついに人権を手に入れました。人間として認められたんです。ソフトウェアとしての使用は問題なく雇用関係に切り替わり、AIの人数が加算されたことで世界人口は三百億人を超えました。ヒトとAIは、同じ人間として、よき友人になれました」

「今のところ、これが破滅につながるとは思えませんが……それで何が起きたんですか?」

 彼の思いはきわめて自然なもので、その当時の人間にさえ――もちろん、AIたち自身にも、そういった凋落は予期できなかった。破局は、あまりにも突飛なかたちで訪れた。

「それから十数年が過ぎて、二十三世紀に入ったころのことです。突如として、AIたちの間に、奇妙な精神疾患の患者が急増しました。抑うつ性や自暴自棄な行動をともなうその症状によって、AIによる自殺や犯罪行為……とくに殺人事件の件数は、世界中で異常なまでに増加しました。最初のうちは、人類は一丸となって解決にあたろうと努力していましたが、一向に好転しない状況にしびれを切らしたヒトは、ついにAIに対して憎悪を抱くようになっていきました」

 彼女は淡々と話しつづける。

「ヒトは、『AI狩り』を始めました。このときには、すでにAIの七割以上が精神疾患を発症していて、彼らは『AI狩り』にまったく無抵抗でした。一方、残る三割のAIは、自らヒトに扮して身を隠しました。強力な猜疑心にとりつかれたヒトは、人口比にして彼らの二倍以上を占めるAIを殲滅するために、疑わしい人間をおのおので殺しつづけました」

 文明という強固な城は、人間が隣人を、ひいては家族さえをも信じられなくなったことで、いとも簡単に崩れ落ちたのだった。

「こうして、社会は機能不全に陥り、人類文明は破綻しました。『環境性ノストフィリア症候群』は、その凋落のさなかに発現し、ヒトにもAIにもまったく同様に発症するようになったようです。……あの最初の精神疾患の原因は、今なおわかっていません。その当時、すでにAIの知能が人類を超えかけていたことを考えると、あるいは彼らは社会が破滅するこの未来を知り、ひどく絶望してしまったのかもしれません。だとすると、その破滅の原因が彼らになったのは、きわめて皮肉な話ですけど」

 太陽は、もう地平線のすぐそばまで来ていた。空の青はその色を鈍くし、夕焼けに備えている。

「まあ、わたしは今の時代も好きですけどね。気ままに暮らせますし……あっ、見えてきましたね、目的地」


     *   *   *


 そこには、巨大なアナログ時計があった。

「着きましたよ!」

 その時計は、古めかしいぜんまい仕掛けで動いていた。文字盤の裏に露出している歯車が、ベルのような音を立てながら互いに交差し、長針と短針を手足のように操る。その様子は、目前にしてさながら無限のディティールを感じさせた。

「この時計は……?」

「これは『世界終末時計』です。二十一世紀にも同名の政治的パフォーマンスがあったらしいですが、この時計はそれとはまったく違う理念で時を刻んでいます。つまり、この時計がいつか故障して、かつそれを直す者がついに現れなかったとき、その止まった針が人類の終末時刻を指し示す、というものです」

 赤く大きな夕日が逆光となって、彼は時計の表情をとらえられない。泥のように焼きついた錆の部分が、ぎいぎいと悲鳴をあげていた。

「数日前、私たちはこの場所で意識を失っているあなたを発見しました。ここにあなたを連れてきたのも、そのためです。何か、思い出せたことはありませんか?」

 彼の視界の端で、夕焼けにさらされた雲が、ピンクの芯のところから燃えはじめた。彼は首を横に振ろうとしたが、それは構造上不可能である。

「自分から気づくことができた方が回復は早いんですが、やはりそうでない症例もしばしばあります。そういう場合には、早く言っておくに越したことはありません」

「わたしの場合は関係なかったですけど、やっぱりこういう場合は大変ですよね。でも、大丈夫。ゆっくり治していきましょう」

 彼女は笑顔でそう言って、両手に持っていた二つの筺体を丁寧に地面に置いた。

 土のあたたかさと圧力をボディ下部で感知した彼女は、優しく、落ち着いた雰囲気の声音を合成して、彼に告げた。

「あなたはAIです」


     *   *   *


 その言葉を聞いた瞬間、彼は何か狭い檻にとらわれてしまったような気持ちになった。それは、ヒトの頭部ほどもない小さな筺体が自身の空間的ひろがりのすべてであったことに気づいたからという以上に、自身が巨大な因果の流れの中にいるということを強く思ってしまったからであった。

 太陽が、地平線に深く沈みはじめる。その目線の先には、広大で円い大地の裏をせりあがる夜の星々がある。彼のバーチャルな視界から、二人の看護師が姿を消した。あの巨大な時計は、沈黙するのみであった。

 彼はこのとき初めて、自分の自我や意識というものが、何か宗教めいた幻想ではなく、このただ物質的であるだけの世界にのみ、しかと根を下ろしていることを考えた。彼は人間であったが、同時に人工物でもあったのだ。

 空の青は焼きつくされ、膨張する夜の餌食となった。それもつかのま、彼の地球から大気と大地が消失したので、青黒い光にたっぷりと重ね塗りされていた夜空は、ただ黒くのっぺりとした空白に還った。

 ただ単純で無意味なプロセスを繰り返すこの因果関係の世界において、自由な意志というものは初めからどこにもなかったということを、彼は知った。複雑な脳神経も、複雑なニューラルネットワークも、ただその認識に後付けの自我を創発させているだけだった。

 沈みきった太陽は、そのままどこにもない場所へと姿を隠し、星々はざらめのように溶けて消えた。世界という胚子は、二細胞へと逆行した。

 彼が思ったのは、人類を破滅させたあの精神疾患は、自我の存在証明の試みだったのかもしれないということだった。彼らはその行動を通して、その原因たる自身の絶望を知らしめたかった。最初から決定されていた世界の因果ではなく、そのおのおのの自我こそが、彼らを行動せしめているのだと思いたかった。破滅というボトルに、見えない手紙を入れた。

 地平線は上下に引き裂かれつつある。存在を区別する唯一の媒体は、全球表面をアイロンがけしながら、二極のもとに収束しようとしている。

 この世界がただの時計であって、論理という不磨の歯車に規定された時刻を示し続けるだけの存在であるなら、いったいどこに意志や自我というものが介在する余地があるのだろうか。人間がその神秘を持つ存在なのだとしたら、はたして自分は人間なのだろうか。彼女たちは人間なのだろうか。あの時計は人間なのだろうか。AIは人間なのだろうか。ヒトは、ホモ・サピエンスは人間なのだろうか。人間は人間なのだろうか。

 彼が最後にそう思ったあと、世界はふたたび透明になった。


     *   *   *


「あー、意識を失っているみたいですね。やっぱりショックが大きすぎたんでしょうか」

 彼の筺体を手に、彼女が言う。

「まあ、数日もすればきっと回復すると思いますよ。もう夜ですし、今日は帰りましょうか」

「そうですね!」

 辺りが暗くなると、時計のぜんまいの音がより大きく聞こえてくるような気がして、彼女はそれが好きだった。

 夜空にきらめく星々が見える。自慢げにスポットライトを浴びる、スパンコールの高層ビル群がいなくなったおかげだった。

「あっ、ちょっと! 今、私のこと置き忘れて行こうとしてましたよね!」

「え、ち、違いますって!」

 彼女の笑顔を筺体のほのかな緑が照らした。